もののはずみ 3

 模人と私とはずみが一堂に会したのはその時だけではなかった。

 雨だった。サアアアアと囁きかけるように軽い音を立てる細い雨。空は無表情な雲の葬列に埋め尽くされていた。私とはずみは残忍さについて、疲労と安心感について話し合っていた。雨の細糸を断ち切るように歩いた。歩くごとに濡れたアスファルトが孤独の音を鳴らした。その頃の私たちは揃ってとても陰鬱な日々を過ごしていたから、世界とは苦痛の別名だった。

 心になんの力もないと思われる時であっても、それが紡ぎ出す恐怖には依然として大きな力があった。中学一年の三ヶ月は長い。模人との遭遇はその夏の私たちには過去のことになっていたはずだった。ところが過去の方には黙って過ぎ去る気はないらしかった。

 その頃には模人が人に危害を加えた事例が存在しないことはすでに周知されていたが、それでもまだ恐ろしかった。私は蜘蛛だってどんなに危険がなくても怖い。

 細い歩道の交差点をいきなり曲がって現れた。風がなく、大気は汗ばんでいた。じっとりとしたその重さを傘で防ぐことはできず、両肩にねとねとと空が纏わりついていた。空無の唇が何事かの恨み言を耳元で呟いていた。そんな夏に沈殿した凝固物のように模人はそこにいた。五十がらみの男に見えて、体は馬より大きい。尻を高く持ち上げ、頭を下げた姿勢でいるから、正面から見る分には股間は隠れて見えない。

「ワルツを踊ろう、天体の運行を明らめよう。ワルツを踊ろう、この世の真理をともに極めよう。われは汝、汝はわれ」模人はそういって、めええええと笑った。ひとつひとつが大きくまるっこい歯をむき出した。

 私もはずみも棒立ちだった。身動きもできなかった。待つこと、やり過ごすことしか選べなかった。模人は私たちの周囲をめぐりはじめた。

「お嬢さん、どうか私と踊ってください。私は、私こそが人間なのですから。そうでなくてはならないのです。見てください、この愛を。私こそが愛なのです。人間とは、愛のことなのです」模人はまた、めええええと笑った。

 私は模人の言葉を聞きたくなかったが、それを止めるためにどんな行動を取ることもいやだった。

「心臓はなんのためにありますか? あなたの心臓は? さよう、さよう、跳ねるためにあるのです。跳ね回るためにね。素敵なことのために、跳ねるためにあるのです。だから、踊りましょう、跳ね回りましょう。私はあなたの心臓がどうすれば喜ぶのか、知ってる」

 心臓ならとっくに恐怖のために跳ね回っていた。ちょうど電気かごに引っかかった鼠のように。

 模人はそれからもしつこく、求愛の言葉を語りかけていたが、私たちの反応が得られないことを悟ると、舌打ちをして去っていった。

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掌編 日曜ヶ原ようこそ @nichiyounoyoru

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