もののはずみ 2

 飽き子というのはハンドルネームで、本名は吾喜呼という。われはよろこびをよぶ、というしっかり意味が通った名前なのだが、字面としてどうしても夜露死苦に近い感性のものに見えてしまい、あまり気に入っていない。両親としても本当を言うと失敗だったと思っているようだ。なので私としては自分は飽き子なのだと思うようにしている。大体が吾喜呼なんていう大仰な名前よりも飽き子の方が余程よろこびをよぶ者にふわさしい名の気がする。飽きることを知らないのは、怖いことだよ。

 はずみと最初に会ったのはこの街に模人が現れ始めた頃だった。四つん這いで歩く親を持たない全裸の人間のような何かの脅威を人がまだ測りかねていた頃だ。中学一年生で、はずみと同じクラスになってまだ数日後の、まだ少し冬が入り混じった春のことだった。吹奏楽部の見学を終えた帰り道、私は馬くらいの大きさがあるおばさんの模人に遭遇した。模人は私としっかり目を合わせて歓喜の表情を浮かべ、垂らした舌から太い涎の糸をぷらぷらさせて、臭かった。今でもその臭いをよく覚えている。

 模人は私に話しかけてきた。

「あなたは暗い子だあなたは生きていくには灯りを見つけなくちゃいけない強い強い灯だそうでなくてはあなたはすぐに道に迷ってしまう迷って迷って暗い方に暗い方に行ってしまう帰ってこれなくなるあなたは薄うく笑うものになる私があなたを祝福してあげるそうすればあなたは助かるわたしが光わたしが光わたしが光わたしが光」

 そのとき、背中の少し離れたところで自転車のブレーキをかける音がして、「うおあああっ! 模人いる模人いる模人いるやばいやばいやばい逃げろ逃げろ逃げろって!」と声が続いた。滑稽なくらい動顛した声だった。

「わたしはサンタクロース」模人が言った。

 私は模人から目を離すことができないまま、声も上げられず、ただへたりこんでいた。模人の無害さが知れ渡っている今では、その恐ろしさは絶対に想像できないと思う。おばさんが涎の糸を揺らしながら円を描くように頭を動かすのを見ながら、私は死ぬか気が狂うか、あの世に攫われるか、どれかの結末を辿ると確信していた。助かるために自分も全裸になって模人のふりをしようかと本気で考えたことを覚えている。

「誰かー! 誰か来てくださーい!」

 背後のかなり遠くのほうから絶叫が聞こえた。「模人! 模人います! 襲われてます!」絶叫が続く。

 模人が私から目を離し、声のする方を見た。

 それから、ぐるるるる、と唸って、私に汚い尻を見せ、歩み去っていった。

 遠ざかる尻を見つめながらしばらく呆けていると、後ろから「大丈夫? 何もされてない? 大丈夫?」と声をかけられた。それがはずみで、これをきっかけに仲良くなった。

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