丸パンと牛乳。それと猫。
国会前火炎瓶
丸パンと牛乳。それと猫。
仕事終わりに、帰り道にある少し古ぼけたパン屋に寄ることがここ一年の日課だった。そのパン屋は『ささきベーカリー』と書かれた、何とも歴史を感じさせるような看板を誇らしげに高く掲げていて、古いながらも、何故だがあまり郷愁を感じさせない振る舞いだった。
店の中も、古の空気を纏いながらも綺麗に掃除されていて、神経質な母親が文句を言いながらせかせかと働きまわっていた実家を思い出させる。狭い店内にあちらこちらとパンが整列させられている中、特に一つ、どうにも居心地が悪そうに佇むパンの群れがあった。
『丸パン』と言う極めてシンプルな名前を付けられたそいつは、名前だけではなく、見た目も実にシンプルで、丸いパン、名は体を表すと言う言葉がここまで似合うパンもそう多くは無い。更にこのパンは見た目だけではなく、味も実にシンプルでふんわり柔らかく、ほんのりバターが香る、子どもたちなぞにして見れば『味のない』パンだった。
その何者にも染められていない清廉潔白さのせいか、その丸パンはいつも売れ残っていた。人気者のメロンパンやらあんパンやらが、家族連れや学生たちに買われ、次々とその胃の中へと消えていく中、それはジッと、空を見つめている。時々、難しい顔をした中年のサラリーマンや、にこにこした老婆がそいつを手に取っていくぐらいで、いつも完売には程遠い。雪だるまのような女店主は、そいつしか買っていかないお客さんがいるから、ずっとそこに置いているんだ、と笑っていた。僕はこの丸パンにシンパシーとジェラシーを感じた。
その売れ残りの丸パンを一つ買って、更にコンビニに寄ってパックの牛乳を買う。ここのコンビニは、店員がいつも店員が眠そうで、やる気が無さそうで、どうにも気の抜ける感じがする。そしてそこが僕のお気に入りでもあった。ただ、この前にボソッと、いつもこの牛乳を買っていきますね、と話しかけられた時には、ビックリして、少し狼狽えてしまうようなこともあったが。
丸パンと牛乳をぶら下げて、僕はある神社に向かう。この神社は遊具なども近くにある半分公園のようなもので、昼間は子どもたちがキーキーと騒ぎながら、駆けずり回っているのだが、太陽がすっかりその姿を隠したこの時間では子どもどころか、大人たちの姿すら見えない。この時間になるとこの神社には、小さな黒猫が現れる。偶然、こいつと遭遇したその日から、そのまま家に帰るのではなく、ここでこいつと話すようになった。
話すと言っても勿論、この猫が僕に対して何らかの言葉を返してくれることは無い。ベンチへと腰掛けて、僕が、最近の愚痴をひたすらにその小さな黒猫に投げかけるだけの、何の生産性も無い時間である。話を一方的に聞いてもらうお礼として、丸パンを少し千切って、やつの方へ投げてやる。そうすると、やつは何の迷いもなくパンへと寄って来て、遠慮も無くさも当然かのように、むしゃむしゃとパンを頬張りだすのである。
僕はこの遠慮の無い黒猫に色んな話をした。色んな話と言っても、僕の不安に関することばかりだ。猫は何も言わずに清廉潔白なパンを食し続けるだけである。こいつは鳴きもしないので、それこそ壁に向かって話しているのと大差ない。しかし、この黒猫は変な所で義理堅いのか、パンを食べ終わった後でも、そそくさと僕から離れることも無く、僕をじっと見つめている。その目を見ると、訳も分からず僕は安らぎを覚えるのだった。
その日もいつものように、丸パンと牛乳を持って神社へと向かった。しかし、おかしなことに、遠慮の無い小さな黒猫は、いつものベンチへといつまで経っても現れなかった。いや、おかしなことでは別段無いのかもしれない。猫と言うものは勝手気まま、風の吹くままに生きるような生き物である。たまたま今まで決まった時間に出会えていたから錯覚してしまっただけで、そもそも必ず会える保証など無かったのである。
心淋しく感じながらも、仕方ない、そもそも野良猫なのだから、どこぞをふらふらとほっつき歩いていても不思議じゃない、と自分に言い聞かせて家へ帰ろうとした時、
「こんばんは」
悪戯っ子のような声がした。見ると、ショートカットの利発そうな少女がそこには居た。彼女の綺麗な黒髪が、何故だかあの黒猫を思い出させた。
「こ、こんばんは」
突然の声掛けに、少し狼狽えながらもそう答えた。彼女は、そうですか、と返すと、
「隣、座ってもいいですか?」
彼女はニコニコと笑っていた。特に断る理由も無かったので、どうぞ、と答えると彼女は遠慮する素振りも無く、僕の隣へと腰掛けた。
「いつもここに居ますよね」
「え?」
「この時間、いつもここで小さな黒猫さんにあげてますよね、それ」
彼女は軽く僕の持っている袋を指さした。どうやら僕がいつもあいつにパンをくれてやっている所を見られていたらしい。
「あ、ああ。そうだね」
「それで、猫さんと何かお話してますよね」
「話は、してないかな。僕が一方的に愚痴を聞かせているだけで」
会話と言うものは双方向的なものである。そうするならば、少なくとも僕とあいつがしていることは会話にはならない。僕が一方的に喋るばかりで、あいつの方は返答も何もしないのだから。
「でも、猫さんもあなたの方をじっと見てるじゃないですか。きっと、ちゃんとお話を聞いてくれてますよ」
「そう見えるだけだよ。あいつは、きっと話なんか聞いてないさ」
沈黙が流れた。しかし、何を話していいやら分からない。彼女は僕のことを見ていたらしいが、僕にとっては全くの初対面である。話題を絞り出す事も出来ず、無音に身を任せた。
「どうして、そんなに不安なんですか?」
「え?」
どうして。
「ごめんなさい。あなたが猫さんと一体何を話していたか、知ってるんです。いつも、あなたが何を不安に感じているのか、知ってるんです」
僕は何も答えることができなかった。ただジッと、彼女の次の言葉を待った。
「自分は、誰にも関心を持たれていないんじゃないか、僕が居なくなっても、困ることは何にも無くて、悲しむ人も居ないんじゃないか、そう考えてしまう。……あの猫さんにあなたはいつもそう言っていた。ここ最近は、そんなことばっかり考えてるって」
彼女は僕のことをジッと見つめていた。眼を逸らすことなく、けれど、責めるようでも無く。
「どうして、ですか」
綺麗な目だと、思った。
「……このパンさ、僕が買いに行くような少し遅い時間でも、なかなかの数が売れ残ってるんだ」
そう、たまたまあのパン屋を見つけて、立ち寄って、このパンと出会って。
「最初見た時、思ったんだ。ああ、こいつは僕と同じだなって。いや、こいつが僕と同じなんだって。そこにあるのに、まるで無いのと同じ。多くの人が無関心のまま、こいつの横を通り過ぎていく」
だから、シンパシーを感じた。だから、こいつを買うようになった。
「でも、違ったんだよね」
そう、こいつは僕と同じでは無かった。
「こいつにはさ、愛してくれる人が居るんだよ。こいつしか買わないって常連さんが居るんだ。数は少ないけれど、こいつを確かに愛してくれる人が確かに居る。だから、こいつはいつまでも、あそこに居心地悪そうに佇んで居られるんだ」
多くの人は無関心でも全員が全員そうではない。だから、こいつと僕は違う。
「それに気づいた時、本当に泣きたい気分になった。ああ、そうか、って。僕はこいつとも同じじゃないんだって。その時に、あいつに出会った」
またしても、たまたま、あの小さな黒猫を見つけて、気まぐれで、パンをくれてやった。
「あいつはさ、ジッとこっちを見てくれるんだよ。だから、勘違いした。こいつは、僕の話を聞いてくれるんだ、って。実際はきっとそんなことは無いんだろうけど、そう言うことにしたんだ。それで」
「ずっと、あの猫さんに話しかけてたわけですね」
「話じゃないさ。さっきも言ったけど、あいつはきっと僕じゃなくて、丸パンに関心があるんだ。本当は分かってる。僕がやってることは、壁に向かって話しかけてるのと同じことだって」
本当は分かっている。こんなことを猫に話したって仕方がないって。だけど、あいつは、それでも僕を見つめてくれるから。
「違いますよ」
彼女の声は強かった。
「同じなんかじゃないです。きっとあの猫さんは、ちゃんとあなたの話をずっと聞いてましたよ」
「どうして」
「私と、同じだから」
彼女は、僕から眼を逸らそうとしなかった。
「あの猫さんは、こうやってジッとあなたを見つめてた。パンを食べて居なくたって、あなたの傍から離れないで、こうやって、私と同じように。だから、」
間違いないです、と彼女が言い切った。
「……何、それ」
僕は、つい笑ってしまった。自分と猫を重ねるなんて。自分がこうして居るのと同じように振舞っていたからそうだって。全く持っておかしな話だ。僕は笑った。そうして、
「だから、泣かないでください」
泣いても居た。笑いながらでも、こんなにも涙が流れるものだと、初めて知った。僕はだらだらと涙を流しながら笑った。何で泣いているのかは、はっきりとは分からなかった。
「その丸パンと、きっと同じですよ。あなたは誰からも無関心なんかじゃない。あの猫さんも、私も、そうだから」
優しい声が、耳に響いた。柔らかな感触が僕を包んだ。気が付けば、僕は彼女に抱きしめられていた。何故だか、ほんのりとバターの香りがした。
次の日、また同じように神社へと向かった。コンビニで牛乳を買うときに、いつもの店員に、今日は何だかスッキリした顔をしてますね、と言われた。悩みを捨てることができたので、と答えると、そうですか、とだけ返ってきた。
ベンチには、あの遠慮無い黒猫が帰って来ていた。何事も無かったように飄々とした顔つきで、ペロペロと前足の毛づくろいをしていた。
「今日は居るんだな」
そう話しかけてみても、いつもの通り鳴きもしない。ジッとこちらを見つめるばかりである。
「もしかして、さ」
ベンチに腰掛けて、パンを千切りながら尋ねる。
「昨日の女の子って、お前だったりする?」
彼女から香ったこのパンの、柔らかなバターの香りが、何故だか強く頭に残っている。あの、黒髪と、じっとこちらを見つめる姿、そして、あの香りはもしかすると。
「結構、ロマンチストなんですね」
僕の思考を遮ったのは、昨日ぶりの、あの優しい声だった。見れば、あのショートカットがそこに居た。彼女はまるで悪戯を思いついた子どもの顔だった。
「猫が女の子に変わるだなんて、ファンタジーの読み過ぎですよ」
彼女は確認を取ることも無く、僕の隣へと腰掛けた。気のせいか、昨日よりも距離が近いような気がした。彼女はしばらく、何も言わなかった。嫌な気持ちでは無かったが、何だか急かされるような、そわそわとした不思議な気持ちがした。何か話題を切り出すか、と決心した時、
「あ、そうだ」
彼女が口を開いた。
「今度はそのパンと牛乳、二つずつ買ってきてくれませんか」
「え?」
「私も、お話したいですから。この猫ちゃんと一緒に。ただ聞くだけじゃなくて、今度は、ちゃんとお話を」
悪戯っ子の瞳をした彼女を見て、やっぱり僕は、彼女は猫なんじゃないかと思った。
丸パンと牛乳。それと猫。 国会前火炎瓶 @oretoomaeto1994
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