終幕

輪廻

 教会を出ると、外はすっかり静まりかえっていた。銃声もなにも聞こえない。本当に死んでしまったような静けさだった。クルマ通りもなければ、通行人すらいない。はるか遠くからクラクションの音が聞こえたけれど、しかしそれは僕らになんの関係もない警告だった

 それでも僕は追っ手を恐れて、少女と二人でその場を離れた。行き先にアテはなかったけれど、でもいまは逃げるしかなかった。


 バスと電車は終電を終えていたし、かといってタクシーに乗る気もなかった。血みどろの男と、年端も行かぬ少女の二人だ。しかもその少女は、患者衣のような質素ななりと来ている。下手に人目のある場所に出ては、むしろ危険なだけだった。

 だから僕らは歩き続けた。人気のない裏通りの暗がりを、一歩一歩確かめるみたいに。

 しばらくして、雨が降り始めた。はじめは小雨だったが、そのうち激しく打ち付けるような雨に変わった。ただ、それはそれで雨音で足音が消せるし、視界は奪えるしで、逃亡者にとっては好都合だった。


 雨が強くなり始めたころ、僕らは九龍の埠頭にたどり着いた。

 港はこの夜更けでも動いていて、さらにその四方は立入禁止のフェンスで囲まれていた。人目もあれば、バリケードだってある。だが、それにも抜け穴はある。荷置き場近くの古いフェンスは、長年の経年劣化のせいか、大きく歪んで、人一人通れるぐらいに開けていたのだ。

 僕と少女はその穴を通って、港の荷置き場に逃げ込んだ。何席も船が乗り入れている、その近くだ。いざとなれば貨物船に隠れて国外逃亡もできるだろう。

 やがて僕らは、その荷置き場の一角で足を止めた。ちょうどコンテナに四方を囲まれたところで、また巨大な荷物運搬用クレーンの陰になっているおかげで、雨も入り込んでこなかった。

 雨はすべての汚れを洗い流すように降り注いだけれど。でも、僕の左手に染み着いた血の汚れを流すことは、どうにもできなかったらしい。スーツの袖口からは、ピンク色のしずくがポタポタと滴り落ちていた。血と雨水との混合物。それが絹を通して濾過されて、でも結局は無色透明にはなれない。僕と同じだ。

「……大丈夫? 寒くないかい?」

 コンテナに背を預けて、僕は少女に尋ねた。

 その少女は、カラダをもじもじとさせて、首を縦に振って返してくれた。

「そうか。じゃあ、一旦ここで休もうか」

 言って、僕は上着のポケットからタバコを取り出す。緑色のパッケージ、ハイライト・メンソール。そのパッケージもすっかり血で赤く汚れていた。

 僕はその一本を銜えると、片手でマッチを着火させ、火をつけた。そして一服すると、少女が煙たそうに僕を見た。

「タバコのにおい、嫌いかい?」

 僕の問いかけに、少女は困ったような顔をした。うなずくべきか否か、わからなかったのだろう。それが嫌いかどうかも、今の彼女にはわからなかったのだ。

 しばらくして、彼女は首の代わりに肩を震わせた。寒気を覚えたのだろう。彼女はタバコと硝煙と、そしてなにより血のにおいに警戒したようだったが、最後にはカラダをすり寄せてきた。

 僕もそれに返した。お互いに傷と寒さとの舐めあって癒やすみたいに。

「キミ、名前は?」

「……わからない」

「じゃあ、白晶菊という名前は?」

「……そう呼ぶのは、悪いひとだけ」

「悪い人って?」

「……パパ」

「そう。キミのパパはどんな人なの? 悪い人?」

 すると彼女は、少し迷ってから、首を縦に振った。

「……わたしをいじめる。実験、って言うの」

「そうか」

 実験。それがなにか、僕は深くは詮索しなかった。彼女は、僕のような肉体移植の被験体の一人だ。それがどのようなものかは、僕自身よく知っている。それがまた誰かを救うための技術ではなく、純粋に好奇心と金儲けのためのものなら、なおさらだ。

「またあそこに戻りたい?」

「……ううん」少女は必死に首を横に振る。「それなら、まだおじさんと一緒にいたい」

「おじさん、ね……。わかった。じゃあ、僕がキミのパパ代わりになろう」

「ほんと?」

「ああ、本当さ」

 タバコを吸う。

 かって彼女がそうしたように。

 かつて彼女が僕にそうしてくれたように。

 いま、僕は彼女にそうするのだ。

「でも、一つ約束だ」

 吸い終えたそれを水たまりに投げ捨て、僕は言った。

「キミは僕のことを、パパって呼んじゃいけない。僕はキミのパパ代わりだが、パパじゃないから……。わかるかい? 僕はセイギだ。守田セイギ」

「セイ、ギ……?」

「ああ、そうだ。セイギ。そして、君の名前は……」

 誰もこのさきのことなんかわからない。

 彼女の言っていたことが真実だったかなんて。

 生まれ来るものが本当に輪廻していて、過去や未来から言づてに現れるなんて。

 僕らの関係性が輪廻し、繰り返されるものだなんて、そんなこと誰にもわからないけれど……。

「リンだ」

「リ、ン……?」

「そう。いまからキミの名前は『リン』だ。キミは、やがて僕に大きな竜巻を引き起こす、ささやかな蝶の羽ばたき。その風が鳴らした、小さな鈴の音。だからキミは、リンなんだ」

 やがて彼女が僕に吹き付ける一陣の風となることを信じて。麗しき蝶と、ささやかな通告者となれることを信じて。

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リンネ 機乃遙 @jehuty1120

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