ブリック・ア・ブラック
安良巻祐介
ピペット、というのは理科だかで使う器具の名前のはずであるが、ある日そのピペットを名乗る人物が訪ねてきた。
その人は明らかに目の焦点が合っておらず、体を動かすたびにキシキシと砂を噛んだような音がするなど、尋常の者でないこと一目に明らかであったが、とりあえず話だけでも聞いてほしいと言うので黙って玄関口に立たせていると、口を半開きにしたまま、やがて笛の鳴るような音を立て始めた。
オヤオヤと思って見ている私の前で、ピペット氏は不可思議な旋律を高低の音色で鳴らし分け、その奇妙に物悲しい調子に、何となく人のいなくなった家の戸棚を見るような心持ちになりつつ、たまらなくなって泣き声をあげようとした瞬間、ガクリと首を垂れて、いきなり動かなくなった。
その途端、つい今まで感じていた悲哀や郷愁の心が、レコードを止めたみたいにピタリと収まってしまい、時間の隙間に放り出された私の前にはただ、口を開けたまま長い膝と腰を折った男、否、等身大の磁器人形が、遺失物のごとく置かれてあるばかりであった。
ブリック・ア・ブラック 安良巻祐介 @aramaki88
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