むねがくるしくなるくらい
さこーい!
私は参考書から顔を上げ、窓の外の校庭を眺めた。いくつもの坊主頭の中に、ひときわ背の高いひとりを見つけた。彼はあせだくになりながら、手に握ったボールを投げた。彼のボールが、キャッチボールの相手のグローブにストレートに収まる。パシッ、という音が聞こえてくるようだ。私は教室の窓を開けた。さこーい、の声が大きくなる。少し、胸が痛んだ。
―――――香山美鈴
「大丈夫ですか」
学校の自習室で勉強をして、その帰り道、後ろからのその声に、つま先を見て歩いていた私は顔をあげた。「……優也くん」
声をかけてきたのは一年後輩の真咲優也だった。すぐに野球部だとわかる丸坊主がいさぎよい。秋とはいえ、空気はまだまだ暑かった。彼のひたいには汗が光っている。暑くて元気出ないですよね、練習のときとかまいっちゃいますよ。そう言いながら、ボールを投げるそぶりをする。優也くんが言ったことは、私が思っていたこととは全然違うことだ。横を歩く彼の姿が、炎天下のグラウンドでプレーする、あの夏の彼とかさなる。私はちいさくため息をついた。
「やっぱり、元気ないんじゃないですか」
めざとく私のため息に気づいた優也くんが、そう声をかけてくる。
「いろいろ悩んでることがあってね……。でもこれは、自分で解決しないといけないことだと思うから」
そうですか。優也くんがあからさまにしょんぼりする様子が可笑しくて、私はくすくすと笑った。
「オレ、ほんとうに心配してるんですよ」
「うん、ごめんって」
おわびにアイス、おごるよ。目の前に、さわやかな色合いのコンビニの看板が見えてきたので、財布の中身を思い出しながら言った。私のそのひとことに、優也くんの顔が明るくなる。
「いや、でも悪いっすよ」
遠慮しなくていいんだよ。コンビニに入ると、冷房の風がひんやりと頬をなぜた。みかん味のアイスバーをふたつ買って、駐輪場で並んで食べた。始終、野球部の顧問の先生が通ることを恐れている優也くんを見て、私がマネージャーとして野球部にいたころと変わらないなあと思った。彼はまじめなのだ。
アイスを食べ終わり、駅に着いた。駅のホームは浮島型で、ホームの両側を電車が走っている。私たちは別々の電車に乗る。私が乗る電車が先に来た。じゃあね。電車に乗る列が少し進んで、私は優也くんに手をふった。
電車に乗ると、私はすぐに扉にもたれかかった。胸が、苦しかった。ため息がもれる。よかった。まだ、気付かれてない。よかった――。
―――――神田颯介
「ねえ、好きなひとが遠くに行っちゃうとしたら、颯介くんどうする?」
美鈴がそんなことを聞いてきたのは、練習試合の帰り道でのことだった。隣を歩いていた後輩の優也も驚いた顔をしていた。俺はこのときから違和感を覚えていたというのに。
「どういうことだよ」
俺はすこしぶっきらぼうに返す。美鈴がそんなふうに言ってきたのは初めてだった。美鈴と俺は幼馴染で、ずっと一緒にいたけれど、恋愛の話とか、そんなのは一回もしたことがなかった。なのに、突然そんなふうに話をふってきたから、ぶっきらぼうな答えになるのもしょうがなかった。
「だからね、颯介くんの好きなひとがすごく遠く――たとえば海外とか――に行っちゃうとしたら、どうするって聞いてるの」
なるほど。いや、わかっていたけれど。美鈴は最近雰囲気が違うように思う。すくなくとも、突然こんな話をするようなことはしなかった。
「うーん、俺はなにもしないかな」
えっ! 美鈴のものではない低い声が驚きの声をあげた。優也だ。美鈴はその様子をみてけらけらと笑っている。
「なんで?」
笑顔だけはいつもどおりのまま。話を深くまでつきつめてくるところも美鈴らしくなかった。
「俺は遠距離恋愛とか多分できないから……かな」
だって、好きなひと、だろ? 離れたくないじゃん。俺は素直にそう言った。そういうもんすかねー。優也が隣で呟く。
「そうだよー。女子はロマンスを求めてるんだよ」
なに言ってんだよ。俺は美鈴の言葉を笑いとばした。
「オレも遠距離恋愛はできないすけど、きっと告白くらいはしますよ」
そんなもんかよ。告白くらい、という言葉に俺は首をかしげた。美鈴は優也の答えを待っていたようだ。にこにこしている。
「まあでも、俺が好きなやつはいなくなったりしないだろうから」
俺は美鈴の横顔を見ながら言った。美鈴が俺をふりむく。目が合う。俺は目をそらした。
「颯介くん……」
右側が熱い。
「好きなひと、いたんだね」
そこかよ、と俺は美鈴のカバンを軽くたたいた。水色のエナメルバッグは、たたくと、ペシ、という間抜けな音がした。
俺だって好きなやつくらいいるし。なんで気づかねーんだよ。優也は横目で美鈴のことを見ている。俺はため息をついた。気づかれないように、胸に手を当てた。
―――――真咲優也
「優也くん?」
後ろからのその声に、つま先を見て歩いていたオレは顔をあげた。「……香山先輩」
やっぱり優也くんだ、なつかしいなあ。香山先輩は無邪気に笑った。オレは言葉につまった。先輩の白いワンピース。残暑が厳しい今の季節には目に涼しい。
「え、先輩なんで……?」
暑そうだねえ。香山先輩はオレの問いかけには答えず、オレの真黒なスーツの肩に手を置いた。スーツ越しに、香山先輩の手がひんやりとしているのがわかった。ネクタイゆるめたら? 香山先輩がそう言うから、オレは黒い細身のネクタイに指をかけた。
「暑くて元気出ないよね、出かけるときとかまいっちゃうよ」
メイク落ちちゃうし。先輩は真っ白のハンカチで額をおさえながら、困った困ったと言う。全然困っているふうには見えなかった。
まるであの日みたいだ。
オレは違和感を覚えた。まるで……。あの日みたいだ……。
「大丈夫?」
香山先輩は高校生のころから変わらない。人を心配するとき、相手の顔を覗き込むくせがあるのだ。それで、相手の目をじっとみつめてくる。
「先輩こそ……」
オレが先輩の目を見つめかえすと、先輩の瞳が少しくもるのがわかった。
あのね、私、遠いところにいくの。
「でもね、私、好きなひとがいるんだ。最後にそのひとにあいたいなあって思ってて、探してるの」
でもね。
私は何も言わない。
だって、
「私の好きなひとは、遠距離恋愛ができないから」
オレは黙り込んだ。
「だから、優也くん、じゃあね」
先輩はくるりとオレに背を向けて、人ごみの中にまぎれていってしまった。
「せんぱ……っ」
オレは急いで先輩を追いかけたが、雑踏にまぎれこんだ先輩をみつけるのは困難だった。
もしかしたら、先輩は、もともといなかったのかもしれない。
先輩の好きなひとって……。
「オレだったら――」
『ねえ、好きなひとが遠くに行っちゃうとしたら、颯介くんどうする?』
自分ではないひとに無邪気に聞く先輩の姿を思い出して、胸をおさえた。くるしい。
―――――柿沼要
「あっついなあ」
まだまだ夏みたいだな。祥月命日の十月になると、胸がちりちりと痛んだ。毎月、もと野球部員のメンバーたちが集まり、来ていないのは今日集まるメンバーの中で一番年下の真咲優也だけだった。けれど、すぐに、小走りでやってくる優也の姿が視野に入った。
「遅いぞ、優也」
すいません。優也は野球部時代のまま、真面目な挨拶をした。変わらないなあと思った。
「颯介先輩、元気ですかね?」
「ああ、そうだな」
俺が答えると、少しためらうようにして優也は言った。
「さっき、香山先輩にあったんすよ」
はあ? おまえなに言ってんの。他の所から声があがった。
「美鈴に……?」
優也が真剣な顔で頷く。「まじかよ」
俺たちは歩き出した。ビルの間に緑地が見えてきた。俺たちは、丘の上の霊園をめ
ざす。今月は俺が花と線香を用意する番だった。
「颯介先輩に会いたがっていましたよ」
「そっか」
あ、と言って、優也はゆるんでいたネクタイを直した。優也はまじめだ。俺たちは、たとえ夏でも黒いスーツとネクタイをして会いに行くと決めていた。暑いから少しはゆるめろよ。俺は言った。颯介は、いまは遠いところに行っているがすぐ会えるはずなのにな。俺は胸がくるしくなって、線香をあげるふりをして地面にしゃがみこんだ。
「こんなに近くにいるのに、おまえたちはもう会えないんだな」
目の前にならぶ、ふたつの墓石を見上げた。
恋愛短編集 柴咲てな @tena_shibasaki
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