再開
高校時代の友人の紗矢子に呼び出され、駅ビルの七階にあるイタリアンレストランに向かっていた。平日の午後二時という中途半端な時間が原因なのか、エレベータの中には私ひとり。扉とは反対側の壁に備え付けられた大きな鏡で全身を確認する。夏らしいネイビーブルーのワンピースに、白いサンダル。いつもはあまり気にしない髪の毛も、使い慣れないコテと格闘してきっちり巻いた。化粧も濃いめ。女友達と会うからといって、気は抜けないのだ。階数表示のランプがひとつ動いて、チン、という軽い音がした。エレベーターが止まる。私はあわてて扉のほうを向き、床に置いてしまっていた鞄を肩にかけた。それと同時に扉が開いた。背の高い男の人が乗って来て、私は小さく声を漏らした。男の人は、ボタンに手を伸ばす。長く、綺麗な指だ。手を下すと、私のほうを向き、「久しぶりだね。」と、ぎこちなく笑った。
男の人――穂高くんは、私の高校時代の恋人であった。一年生のときからずっと好きで、二年生のときに私から告白した。イエス、という返事をもらえて、天にも昇る心地になったのを覚えている。あの頃私は、超が付くほど穂高くんのことが好きで、穂高くんもきっと私のことを好いていてくれたと思う。
三年間、終ぞ同じクラスになることはなかった私たちは、廊下ですれ違うだけで、遠くに聞こえる声を聞くだけで嬉しかった。ホームルームが長い穂高くんのクラスが終わるのを待っている時間さえも幸せで、帰り道に歩く穂高くんの隣が恥ずかしくなるくらいに心地よかった。
穂高くんは優しい人で、穂高くんの最寄り駅まで行く路線バスの停留所は学校の近くにもあるのに、学校から歩いて二十分ほどの駅まで私を送ってから、そこから出るバスで帰っていた。
「また明日。」
穂高くんは、改札の前で別れるときに、必ずそういってくれた。私はバイバイ、と手を振って改札を通る。でも、すぐ寂しくなって振り向くと、ちゃんと穂高くんはそこにいてくれて、小さく手を振ってくれた。それなのに、電車に乗ると、すぐ穂高くんに会いたいと思ってしまう。そんなときは、穂高くんの囁くような「また明日」を思い出す。
明日になれば。明日になれば穂高くんに会える。
気が付くと、エレーベーターの中は私と穂高くんの二人だけではなくなっていた。人と人の頭の間で、穂高くんの顔を盗み見る。高校時代と変わらない、シャープな輪郭に一重で切れ長のキリッとした目。薄い唇。柔らかそうな髪の毛。
しかし、今になって彼を会わせるなんて、神様はひどいと思った。
やっと穂高くんのことを忘れたのに…。
たしか、私と穂高くんが別れたのは大学一年生のときだったと思う。
私は東京、穂高くんは横浜の大学にそれぞれ進学したことで、毎日のようには会えなくなってしまったのだ。でも、私は、穂高くんとなかなか会えないことが苦痛なのではなかった。
「また今度。」
たとえ会えるのが一ヶ月に一回、半年に一回になったとしても、穂高くんのその言葉を思い出せば、寂しいと思うことはなかった。穂高くんの言う「また今度」になれば穂高くんに会えるのだから。
私が悲しかったのは、その「また今度」が先延ばしになることだった。あるときから、穂高くんは、度々デートの約束を先延ばしにするようになった。私は心配だった。穂高くんは、世間的にみて普通以上にかっこいいほうだったから、私よりいい女の子が近くに寄って来るのは当たり前のような気がした。
今度はいつ会える? そんなメールを送るのも躊躇われた。そんなふうにしつこくして、穂高くんに嫌われたくなかった。
でもある日、私と穂高くんが駅前のカフェで待ち合わせをしたとき、私がお店に着くと、穂高くんは女の子といたのだ。私が、誰、と少し詰問するような調子で聞くと、悪びれる様子もなく、「同じ大学の子だよ。君のことを言ったら、会いたいと言ったから連れてきたんだ。一緒にいてもいいかな。」と言ったのだった。こんにちは。穂高くんの隣で笑顔で話しかけてきた彼女は、神林理香子と名乗った。少し茶色の髪の毛を軽く巻いていて、大きな目はアイラインとマスカラで縁どられていた。神林さんが隣にいたほうが、穂高くんにはいいような気がした。私といるときより、笑顔が多いような気がしたし、普段無口な穂高くんがよく喋った。その日、私は具合が悪いと言って帰ったのだ。そのあと、彼女が仮病とはいえ具合が悪いと言って帰ったというのに、何の連絡もなかった。不思議と、神林さんが羨ましいとか、嫉妬したりとか、そういうことはなく、ふたりが楽しいならいい、なんて思った。私は一方的に、別れよう、というメールを打って、送信した。穂高くんからの返信は三日遅れてから届いた。無駄にだらだらと言い訳がならんだ文面で、簡単言えば、別れたくない、というような内容だった。そう思ってくれただけで嬉しかったが、彼女がいる、というステータスのために別れたくないのか、私を好きでいてくれているのかわからなかったから、結局、そのメールには返信しなかった。追ってメールや電話がくることもなく、私たちは俗にいう自然消滅というかたちで今までの関係に幕を下ろした。
だから、その何日かあとに届いた同窓会のお知らせの手紙は不参加で返した。穂高くんに会いたくなかった。
チン、という音で我に返った。いつの間にか、エレベーターには私と穂高くんのふたりだけになっていた。気まずい沈黙。穂高くんが何か言いたそうに私の顔を見て、口を開きかけたとき、私たちを乗せた小さな箱は七階に着いた。穂高くんが開くボタンを押してくれて、そこに、前と変わらない優しさを感じた。そんなふうに優しいから、忘れている気になっても忘れられないでいるのだ。
私が降りると、穂高くんも後に続いて降りてきた。私はトイレのある左に、穂高くんは右に曲がった。別れ際、また、さっきと同じ顔をした穂高くんの横顔を見た。振り返って穂高くんの背中を見つめた。穂高くんにも振り返っていてほしかったような、不思議な気持ちだった。
トイレの鏡で、汗で少し落ちた化粧を直した。化粧を直したのには、もう一度穂高くんに会いたいという気持ちが表れているようだ。たとえ別れた相手でも、綺麗な顔で会いたいのだ。そんなことを思っている自分が恥ずかしいような気もするし、まだ穂高くんが好きなんだという気持ちが蘇ってくるのを静かに受け止めているような気もした。
「D組の穂高? 穂高のどこがいいの?」
紗矢子に穂高くんが好きなんだということを相談したとき、クラスで一番のイケメンと謳われていた男子と付き合っていた紗矢子はそう言った。たしかに、穂高くんはかっこいいのだけれども、もっとかっこいい人がいると言われてしまえばそれまでで、紗矢子の彼氏と比べてしまえば、穂高くんは「目立たない人」だった。それでも私は好きだった。外見もそうだけれど、彼の優しさ、笑顔、どれをとっても私の目には最上級のものに映った。
紗矢子との待ち合わせのレストランに着くと、紗矢子は入口に背を向けて座っていた。紗矢子の陰になっているが、紗矢子の向かいに誰かが座っているのが見えた。
紗矢子は昔から派手な性格をしていた。髪の毛を染めて、生徒指導の先生に怒られたり、学校に化粧をしていって顔を洗わされたり。
「また怒られたんだけどー。別にいいじゃん、化粧ぐらい。」
朝、そう言って教室に入ってくる紗矢子を何度見たことか。でも、その派手な見た目に反して、穂高くんのように優しいところがあった。だから、クラスの中心的な人物であったのにも関わらず、浮いたり、いじめられたり、いじめたりということもなく、それこそ教室の隅にいるような私と友達になってくれて、今でも交際は続いているのだ。
今日もこげ茶色の髪の毛を薄水色のシュシュでポニーテールにしている。真っ白なブラウスと、パステルブルーのフレアスカートが爽やかなコーディネートだ。相変わらずおしゃれだな、と思いながら近くまで行く。
向かいの人が見えた。
穂高くんだった。
踵を返して帰ってしまおうか、と考えた。そのとき、顔を上げた穂高くんが私に気付いた。あ、という形で止まった口。振り返った紗矢子が、大きく手を振った。ここまできたら、紗矢子の隣に座るしかなかった。
「会わせたい人がいたんだ。」
紗矢子の声が遠くに聞こえる。「穂高くんっていうの。…って知ってるよね。」と、苦笑交じりに紗矢子は言った。もちろん、私と穂高くんが付き合っていて、別れたことを知っているからだろう。私は無意識に頷いていた。
久しぶり。穂高くんが言う。
何年振り? 紗矢子が聞く。その問いに、穂高くんは、「六年ぶりかな。」と返している。心の中で、六年だよ、と私も答える。
ずっと会えなかったからね。
そのために今日来たんでしょ。
紗矢子と穂高くんの声にエコーがかかって、ぐわんぐわんと耳の奥に響く。
「なんでいるの。」
なんで、と私は繰り返した。紗矢子の彼氏になったの? だから紗矢子は私と穂高くんを会わせたかったの? もしかして結婚するの? 私は頭のなかでそんなことを考えていた。
穂高くん、連絡してなかったの?
うん、やっぱり自分では言えないよ。
しっかりしてよ。
「僕、君に会いたかったんだ。」
え、と私は穂高くんの顔を見た。
「あの日、うやむやになったまま、会えずにいただろう。そのまま、今まできた。だから、七橋さんに頼んだんだよ。ほんとうは、さっきエレベーターの中で言ってしまおうかと思ったんだけど」
勇気が出なかったんだ。穂高くんは少しはにかみながら言った。
「穂高くん、あなたに会いたかったんですって。だから、今日呼び出したの。」
紗矢子が補足する。今になって、七橋というのが紗矢子の名字だということに気付いた。
「あの日から失った、あの日で止まった時間を取り戻したいんだ。」
私は、久しぶりに笑った気がした。
穂高くんは、もっと笑っていた。
六年ぶりの再会に。そう言って紗矢子はグラスを傾けた。チン、というグラスとグラスがぶつかる音で、エレベーターの中のみたいな狭い空間から抜け出たような気持ちになった。
「また連絡する。」
穂高くんと京浜東北線の駅で別れた。これから、穂高くんの言う「またの連絡」がくることを待ちながら過ごせばいいのだ。
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