恋愛短編集

柴咲てな

東京の星






 東京では、星は見えないと思っていた。






 僕が長野の山のほうから東京に上京してきたのは、大学生になった今年の春のことだった。僕は安いアパートの一部屋を借りてひとり暮らしを始めた。東京にきてから、僕の生活は変わった。ひとり暮らしをするなら学費以外は自分でまかなえと言われていたから、毎日のようにバイトをした。なるべく深夜にシフトを入れ、アパートに帰ったら勉強をして、弁当をつくって大学に行った。そして大学から帰ってきたら、バイトの時間まで死ぬように眠った。深夜のバイトではまかないが出たので、それで食費をうかせた。それでもぎりぎりだった。そんな生活をしていたからか、何日かすると体調に異変がでてきた。始終だるい。東京の、ネオンにてらされて明るい夜では、長野にいたときのように星を見て気を紛らわすこともできない。大学を休むことが少しづつ増えていった。




 父さんはまだ、ひとり暮らしに賛成していないからな。




 ある日布団の中でぼんやりしていると、実家を出るときの父親の声がふと浮かんできた。




 「たいていな、ひとり暮らしをすると大学に行かなくなる。なぜなら、家賃や食費を稼ぐので精いっぱいで、身の回りのことができなくなるからだ。睡眠はとらない、食事はしない。結局寝ないわけだから集中力は欠けるし、勉強もおろそかになる。本末転倒だな」




 よくよく振り返ってみると、今の自分にぴったり当てはまっている。父親の言う通りになるのは癪だった。僕は布団からがばりと飛び起きて、すぐに支度をした。そして僕が玄関に向かったとき――玄関のチャイムが鳴った。




 誰だろう。




 僕がドアを開けると、そこにいたのは見覚えのある女のひとだった。






 「最近バイトを休んでいるから大丈夫かなって」




 お見舞いに来ました。




 僕は警戒するような顔をしていたのだろうか。彼女は言い訳するようにそう付け加えて、手に持ったビニール袋を僕に見せた。ひとなつっこそうな笑顔に、僕の警戒心が和らいでいく。




 「散らかっていますが」




 僕が、彼女が入りやすいようにドアを大きく開くと、ありがとう、と言って僕の顔を見た。僕よりも頭ひとつ分くらい背が小さくて、栗色の髪の毛の彼女の名前は戸田瑞菜といった。僕のバイト先の同期だ。そういえば連絡先を交換したなあと、ぼんやりする頭で考えた。玄関の、僕の黒い革靴の隣に白いサンダルが並んだ。キッチンに立つ、花柄のサマーワンピースの後ろ姿を眺める。戸田さんは冷蔵庫を覗き込んで、




 「たいしたもの、食べてないでしょ」




 冷蔵庫になにも入っていないもの。戸田さんはそう言った。それから、今から私が下手なりにつくりますから、とも言った。犬みたいだなあ。キッチンでちょこまか動き回る戸田さんを見て、僕はそう思っていた。




 三十分くらい経って、殺風景な僕の部屋の殺風景なダイニングテーブルに、温かい料理がならんだ。ひと口食べると、あたたかい味がした。自分以外のひとがつくったというだけで、こんなにもおいしいものなのかと、とても感動した。ご飯をかきこむ僕を見て、戸田さんはにこにこ笑っていた。




 「あの、」




 僕はチキンのトマト煮を飲みこみながら、戸田さんの顔を見た。彼女は笑顔のまま、少し首をかしげた。




 「戸田さんは、なぜ来てくれたんですか」


 「最初に、言ったじゃないですか」




 最近僕がバイトを休んでるから心配になったってやつかな、と聞き返すと、彼女は頷いた。




 「あと、市田さんに少し興味があって」




 死に物狂いで働いてると思ったら、ぱったりバイトに来なくなっちゃうものだから。戸田さんはおどけるように肩をすくめた。




 「結構さみしかったんですよ」




 こういうことをさらりと言われると、すこしどきりとしてしまう。




「こんなにおいしい手料理を食べられないものですから」




 僕が冗談めかして言うと、彼女は、




 「私でよければ毎日でもおつくりしますよ」




と言ってきた。




 ほんとうですか。


 ええ、私でよければね。




 戸田さんは僕の顔をみて微笑んだ。






 そんなわけで、戸田さんは毎日のように食事をつくりにきた。夜ご飯を多めに作り、次の日にお弁当として持っていけるようにしてくれた。僕は毎月、戸田さんに千円を払った。僕はもう少し払うと言ったけれど、私が好きでやっていることですから、と断られた。調理の専門学校に通っているという戸田さんの料理はとてもおいしくて、僕はだんだん体調も回復してきた。大学にもバイトにも毎日行った。食費は毎月千円、それ以外で家賃や光熱費を払った。それから、戸田さんのおかげで余裕のできてきた僕は、バイトの数を減らした。 




 ある日、戸田さんから、スーパーで食材を買っておいてくれ、という連絡がきていた。僕は大学の帰りにスーパーにより、メールに書かれていた食材を買った。僕がアパートに帰ると、部屋のドアの前に戸田さんが立っていた。

 



 「買い物を頼んでおいて、私のほうが先に着いちゃいましたね」

 



 戸田さんは、ごめんなさい、と顔の前で手を合わせた。

 



 「いいんですよ」

 



 いつもご飯をつくってくれているのだからこれくらい。僕が言うと、どうもありがとうと彼女はいつものように笑った。




 その日、僕は戸田さんに合鍵を渡した。






 僕がバイトから帰ってアパートの部屋を開けると、魚を焼くいいにおいがした。




 「北海道の実家からさんまが送られてきたので」




 戸田さんはそう言いながらグリルをあけた。こんがりと焼き色がついておいしそうだ。




 「そういえば、市田さんの実家はどこなんですか?」




 長野の山のほうです。僕はテーブルを拭き、箸を並べながら答えた。長野っていうと、おそばですかね。そう言いながら、戸田さんは白いプレートにさんまと、ほうれんそうのおひたしやトマトをのせた。白と緑と赤と、いい具合についた焼き色のコントラストが食欲をそそる。戸田さんがプレートをダイニングテーブルの上に置き、すぐに白いご飯とみそ汁も並んだ。




 「いただきます」


 「めしあがれ」




 僕と戸田さんは一緒に手を合わせた。大根おろしと大葉をトッピングして食べたさんまは絶品だった。そして、僕がお風呂に入っている間に、戸田さんは明日のお弁当用にさんまの味噌煮をつくって冷蔵庫に入れておいてくれていた。




 最近戸田さんは、僕の部屋に本やら雑誌やら自分のものを持ち込むようになっていた。文庫本がいくつかシェルフの上に並び、食器棚には赤いマグカップと、いつも戸田さんが飲んでいるという紅茶の缶が入っていた。戸田さんは紅茶をふたり分淹れて、パソコンでレポートを書く僕の隣で文庫本を読んだ。本を読むとき、戸田さんはキャンディのような赤いフレームの眼鏡をしていた。いつしか、キーを叩く手が止まると、その横顔を見るのが癖になっていた。






 そんな毎日が続いたある日、アパートに帰ると、めずらしく戸田さんがいなかった。電気をつけると、テーブルの上にメモが置いてあることに気がついた。




 『今日は市田さんが帰ってくる時間につくれないので冷蔵庫に入れておきました。ご飯とお味噌汁はインスタントのものを戸棚に入れておいたので、それを食べてくださいね』




 そんなこと、メールしてくれればいいのに。僕は少し疑問に思いながら冷蔵庫を開けた。おかずを電子レンジで温めながら、電気ポットのスイッチを押す。




 目の前に戸田さんがいない食卓はさみしかった。僕がバイトを休んでいたころの戸田さんのさみしさはこんな感じだったのかな、と僕は勝手に想像した。会話がない分、食事はすぐに終わってしまった。もちろん食事はおいしかったが、やっぱりつくりたてが一番だな、と思った。食器洗いはいつも戸田さんがやってくれるから、洗剤がどこにあるのかわからず少し困った。洗い終わっても、紅茶のいいにおいはしなかった。シャワーを浴び終わっても、冷蔵庫の中に明日のお弁当のおかずはなかった。レポートを書いていても、僕の隣に戸田さんの姿はなかった。




 いつのまにか、僕の中で、戸田さんの存在はとても大きなものになっていた。どれだけ彼女に支えられていたのかがわかった。それは、おいしい食事とか、洗剤の置き場所、香ばしい紅茶の香りといったこともそうだが、一番大きかったのは、精神的なものだった。




 僕は戸田さんが好きなんだと気づいた。




 僕は、いつも戸田さんが帰った後にするようにベランダに出て、夜空を見上げた。今日も星は見えない。




 東京の空は、星を見るには明るすぎた。






 「昨日は行けなくてごめんなさい」




 戸田さんは、とても申し訳なさそうな顔で僕に声をかけてきた。バイトのスタッフルームにいたときだった。




 「今日はきてくれますか」




 昨日はとても困りました、と言うと、もちろんです、といつもの笑顔を見せてくれた。そして、今日は同じ時間帯にシフトが入っていたので、一緒に帰ることになった。




「戸田さん、」




 少したよりない街灯がぽつぽつと夜道を照らすなか呼びかけると、僕を見上げるようにして戸田さんは振り返った。




 「戸田さんは、なぜ毎日僕に食事をつくってくれるのでしょう」




僕が真面目に聞くと、それは簡単な質問ですね、と戸田さんが笑いながら言った。




 「市田さんが、毎日こんな食事が食べたいな、と言ったからじゃないんですか」

戸田さんが僕の目をじっと見つめてくる。


 「そうじゃないんです」


 「そうじゃない、とは?」


 「なぜ、僕が毎日こんな食事が食べたいなと言ったらつくってくれる気になったんでしょうか」


 「それ、聞きます?」




 市田さんって、ほんとうに鈍感ですよね。戸田さんは困ったように笑った。そして、




 「市田さんのことが好きだからですよ」




 僕は耳を疑った。




 「え、ちょ、なんて言いました?」


 「だから、」




 市田さんのことが好きだからです。




 戸田さんはにこにこしている。




 「私の料理をおいしそうに食べてくれる市田さんを見ていたら、いいなって、好きだなって思ったんですよ」




 戸田さんの顔が、見たことがないくらい赤くなった。




 「僕もです、戸田さん」




 戸田さんは僕の顔を見上げた。




 「昨日、ひとりでご飯を食べたら、とてもさみしかったんです。目の前に戸田さんがいないだけで、戸田さんがつくった料理でもおいしく感じないんです。僕は……戸田さんがいないとだめみたいなんです……」




 そう言うと、戸田さんは嬉しそうに笑った。




 「じゃあこれから、市田さんに料理の感想は聞けませんね」




 僕は夜空を見上げた。今まで気付かなかった、小さな星が見えた。





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