サイバー・デビル
藤 達哉
第1話
サイバー・デビル 藤 達哉
白波が静かに砂浜に打ちよせ、爽やかな風が頬を撫でていた。
織部祐磨と倉橋繭子は柔らかな砂を踏みしめながら、ゆっくりとした足どりで歩いていた。
霞がかった空を、銀色に輝きながら音もなく滑って行くスカイ・コミューターを二人は見送っていた。スカイ・コミューターは垂直離着陸できる小型ジェット機で、主に都市間を移動する通勤客に利用されていた。
時間を忘れて歩き続けると、おぼろな水平線に島影が見えはじめた。暫く島影を眺めたあと、再び歩みを進めた。やがて街並に近づき、人の姿も見えはじめた。国道沿いの歩道を何組かのカップルが、一様に沈黙のうちに歩いていた。
〈ねえ、なに考えてるの〉
繭子の電子音のような声が祐磨の頭の隅に響いた。繭子の唇は動いていなかった。
〈僕たちのことさ〉
祐磨の声も繭子の脳裏に届いた。彼の口許も動いていなかった。
〈僕たちのことって〉
〈僕たちのこれからのことさ〉
〈これからって〉
〈僕たちの将来さ〉
〈あら、どういうこと〉
〈こんな関係がいつまで続くのかなあっと思って〉
〈いやだわ、続いちゃいけないの〉
〈そんなことはないけど、それから、いま見ているこの世界がどうなるのかと思って〉
祐磨が微笑み、ようやく唇が動いた。
〈そんな難しいこと言っても、分らないわ〉
繭子も微笑み、白い歯を見せた。
〈時々、奇妙に感じるんだ〉
〈えっ、なんのこと〉
〈僕たちが見ているこの世界は、本当にありのままなのか、って思うんだ〉
〈別の世界があるってこと〉
繭子は訝った。
〈うん、いま見ている世界はバーチャルで、見せられているような気もするんだ〉
二人のやりとりは声を介さず、お互いの脳から脳へと伝わっていた。会話の必要はなかった。繭子と祐磨の脳内には超小型通信機、パレントがインプラントされていた。祐磨は十三歳の時、手術によりパレントを埋込まれ、以来そのディバイスが脳内で稼働していた。繭子は一年遅れてパレントをインプラントした。パレントは人の脳波を捉え同調する他のパレントに直接意思を伝達する。これにより、人は声を介さず、心が発する思いを瞬時に意図する相手に伝えることができた。パレントを介して相手の脳波を受けると、脳内に声が響き、あたかも直接会話をしているようにコミュニケーションがとれた。
祐磨は大学でコンピュータ・サイエンスを専攻し、卒業後、警察庁のサイバー犯罪対策課に職を得た。一年後、繭子はIT系のQエントロピーという会社に就職した。
子供のころインプラントの手術を受けてから、パレントによる意志疎通は、二人にとっては所与の能力のように思われた。
十五年前、二千五十年に身体への通信機器のインプラントを認める法律が制定された。これに伴い、電気通信事業法、医療法、個人情報保護法など関連法規も整備された。以降、機器のインプラントを希望するものは誰でも、簡単な手続と手術でパレントを、あたかも感覚器官のひとつのように、体内に取り込むことができた。
この通信システムができたとき、祐磨の両親は夢のようなシステムだと思い、祐磨にパレントをインプラントした。しかし、はじめは彼の父親の久磨も母親の冴子も手術を躊躇った。声も出さずに話ができるのは、たしかに便利だが、そこになにか空恐ろしさを感じていたのだ。だが、祐磨が中学に通いはじめ、友達が家に遊びに来るようになると、冴子は奇妙なことに気づいた。
「祐磨、どうしたの、おとなしいけど大丈夫」
祐磨たちが部屋で遊びはじめて暫くたったが、声も聞こえず、心配になった冴子は部屋に顔をだした。
「大丈夫だよ、僕たちゲームしてるから」
祐磨と二人の友達は大きな画面に映る三次元映像を食入るように観ながら、ゲームに熱中していた。その姿を見て、彼らは会話をすることなく、パレントで直接コミュニケーションをとっているんだ、と冴子は気づいた。
「祐磨たちって、すごいのよ」
冴子は、昼間彼女を驚かせた祐磨たちの遊びの風景を思い出していた。
「すごいって、なにが」
仕事から帰ったばかりの久磨は要領を得なかった。
「あの子たち、口もきかずに遊んでるの、ずーっとよ」
「静かでいいじゃないか」
「そういうことじゃなくて、あの子たち頭で話してるみたいなの」
「頭で?」
「そう、声を出さなくてもパレントで意志疎通が図れるみたいなの」
「ふーん、パレントって、便利いいんだ」
「便利なんていうもんじゃないわ、頭と頭で意志が通じるなんてすごいじゃない」
「本当にそうだと、すごいな」
久磨は信じていないような表情だった。
「本当よ。ねえ、祐磨、今日どうやってお友達とお話してたの」
冴子は手招きで祐磨を呼んだ。
「うん、よくお話できたよ」
「お話するとき、声ださなかったけど、どうしてたの」
冴子は祐磨の手をとった。
「お友達の言うことが、頭のなかで聞こえたんだ」
「それで、どうしたの」
「なにか言おうとすると、もうお友達は僕の言いたいことが分ったみたい」
「ほら、あなたやっぱりそうよ、心で思ったことがそのまま通じるんだわ」
冴子の眼は輝いていた。
「本当だ、こりゃ便利だな」
久磨が相槌をうった。
「ねえ、私たちもパレント手術を受けたほうがいいんじゃない」
冴子は夫を見た。
「うーん、どうするかな、僕たちもう若くないしな」
「絶対にやるべきよ」
「どうしてだい」
「だって、そうすれば祐磨とも心と心で話ができるのよ」
「いまだって、ちゃんと話はできてるじゃないか」
「それはそうだけど」
「ねえ、あなたの周りでやってる人いないの」
「そうだな、そういう人がいるとは聞いたことがあるけど」
「やっぱり、いるのね、私たちもやりましょうよ」
「そうだな、やったほうがいいのかな」
久磨は終始優柔だった。
三十年前、パソコンが姿を消した。Pバグと呼ばれる小型化されたコンピュータはウェアラブルとなった。まるで装飾品のように身体のあちこちに取り付け可能となった。腕時計や眼鏡やブレスレットのようなもの、なかには超薄型で皮膚に直接貼るものまででてきた。だが、身体の一部というには程遠く、必ずしも使い勝手はよくなかった。暫く技術の停滞があったが、その後、超精密加工技術の開発により、通信機器を身体に埋め込むインプラント方式が完成した。その機器はパレントと名づけられ十五年前から急速に普及し、新生児のほとんどは学齢期になるとインプラント手術を受けるようになった。
しかし、中年層は手術を受けることを躊躇するケースが多かった。久磨もその一人だった。
「どうしたんだ、ひまそうだね」
同僚の大北が久磨に声をかけた。
彼らは半官半民の石油開発会社の職員だった。大北は財務部に、久磨は総務部に属していた。高層階のオフィスには午後の柔らかい陽が射していた。
風力や太陽エネルギー、地熱など代替エネルギーの開発が進み、石油の消費量はここ十年で二十分の一に激減していた。
「大北か、そういう君も忙しくはなさそうだな」
「閑古鳥が鳴いてるよ。政府の交付金もばっさり切られちゃったし」
「そうだな、これからわが社はどうなるんだろ」
ウェアラブル・コンピュータを装置した眼鏡をはずし、久磨は憂いを帯びた表情を見せた。
「このままじゃもたんだろう。早晩リストラが始まるさ。ところで、そのウェアラブルはどうだい」
「これか、まあ、便利だけどね、眼の前でウェブサイトがちらついて、鬱陶しくてしかたないね」
「だろうな、はたで見てても快適とは思えないもんな」
「これじゃ、まるでウェブサイトの奴隷だよ。もうそろそろ気が変になりそうだ」
「おいおい、気を狂わさないでくれよ」
大北は苦笑した。
「君の腕時計式はどうなんだい」
「うーん、便利は便利だけど、画面が小さいから見づらいね」
大北は腕時計のように左腕につけた通信機を一瞥した。
「そうか、いかにも小さいもんね」
「もっと使い勝手のいい通信システムはないものかな」
「パレントはどうなんだろうな」
「パレントか、あれっ、君、パレントをやってるのかい」
大北は眼を丸くした。
「まさか、やってないよ」
久磨は戸惑った。
「あれをやると、どういうことになるのかな」
「うちの息子は子供のときにインプラントしたんだけど、うまく使ってるみたいだ」
「実は、うちの娘もしてるんだ。友達どうしでは使っているようだけど、僕はインプラントしていないからね、娘とはパレントで話ができないし」
大北は寂しい表情をした。
「事情はうちも同じ。息子とはパレントで話はできないんだ。女房はパレント信奉者で、インプラントしようとしきりに言うんだけど」
久磨は真顔だった。
「うちの女房もおなじことを言ってるよ。パレントをインプラントすれば、娘とスムーズに話せる、と思ってるんだ」
大北は困惑気味だった。
「で、どうする気なんだ」
「この齢になって、いまさら手術なんて・・・」
大北は言葉を詰まらせた。
「そうだな、僕も手術は気がすすまないんだ。といって、息子と旨くコミュニケーションがとれないというのも困るしね、どうしたらいいのか」
久磨は表情を曇らせた。
彼の家では心配されたとおりのことがおこっていた。冴子は祐磨と旨くコミュニケーションがとれないことに思い悩んでいた。
祐磨は二十八歳の春を迎えていた。この四月、彼はそれまで属していた警察庁サイバー犯罪対策課からサイバーフォース・チームに転属となった。そのチームはグローバル化するサイバーテロに対処するため新設された組織だった。
彼は父親の仕事の関係で五歳から十三歳までアメリカで暮らし、バイリンガルとして育った。その能力を評価されての転属だった。
グローバル化したサイバー攻撃は近年大きな脅威となり、警察はこれまで後手にまわていた対策を一挙に嵩上げするため、強力なサイバーフーォス・チームを新たに立ち上げたのだった。チーム員は最先端のIT技術を携えた精鋭五十名が選ばれていた。
大学でコンピュータ・サイエンスを専攻した祐磨だったが、サイバーテロの最前線で役だつほどの知識と技術はなかった。彼に期待されていたのは、英語力を活かしてサイバーテロに対して連携して対処する同盟国との渉外だった。
新設チームの最初の会議が開かれた。
「諸君はグローバル化、高度化するサイバーテロに相対するため選ばれた者だ。これからサイバー攻撃はますます広域化、悪質化していくと思われる。国家のインフラと国民の財産を護るための責任はきわめて重大だ。諸君はその職責を充分に認識してこの任務を遂行してもらいたい」
課長の篠原警視正の凛とした声はチーム員がぎっしりと詰まった会議室を緊張させた。
「それでは、私からそれぞれの担当を発表する」
続いて新任のチーム長、成田警視からそれぞれの職務分担が言い渡された。
祐磨は、成田が班長を兼務する渉外班の所属になり、早速、班の会議が開かれた。
「この渉外班は海外、主に同盟国との連絡、交渉が任務だ。ここにいる五名で数十か国の同盟国とコンタクトをとることになるから相当きつい任務になるだろう。そのことを覚悟しておいてくれ」
それから、成田警視は班員をひとりづつ紹介していった。そして、祐磨は苛烈なサイバーテロの世界へ踏み込んでいった。
パレントは通信機能でインターフラッシュに接続しゼウスと呼ばれるデータベースが検索可能となっていた。インターフラッシュは従来のインターネットの百五十倍の能力を持つ新型の通信システムだ。データベースは政治、経済、物理、生命科学、医学、芸術、芸能など分野別のサーバーに存在した。それに加え、学術データベースが整備され、専門分野毎に最新の専門知識が容易に検索できるようになっていた。データベースはリバティ連盟という自由主義陣営の各地に分散して置かれた巨大サーバーに蓄積されていた。
これに対抗するシナーロと呼ばれるテロリスト陣営は史上最強のサイバーテロ部隊を編成し、日夜リバティ連盟のサーバーにサイバー攻撃を繰り返し、永年にわたって蓄積整備されたデータベースを脅かしていた。
既に過去何回かシナーロがリバティ連盟の軍事サーバーに侵入し、高度な軍事機密をハッキングしていた。ハッキングを繰り返すことで、シナーロはリバティ連盟の進んだ軍事技術を獲得しようとしていた。ハッキングの被害を被るたびに、リバティ連盟は新しいセキュリティ技術を開発しハッキングの再発を防ごうとしたが、シナーロも新手のハッキング技術を開発し対抗した。
世界はこれら二つの陣営に分れ、サイバースペースの闘いは際限なく続いていた。
ここ数年でサイバーテロ対策も様変わりしていた。国毎に対策を立てていたことは過去のものとなり、同盟を結んだ陣営全体で対抗しなければ攻撃を防ぐことは不可能な事態となっていた。日本のサイバーテロに対する対策は他国より遅れており、同盟各国を苛立たせていた。日本のテロ対策の水準を連盟の標準レベルに引きあげるため、リバティ連盟のセキュリティ担当者、セルカークが来日した。到着後すぐ、彼とサイバーフォース・チームとの会議が開かれた。
「日本のテロ対策の遅れに同盟国は大きな不安を感じています。先週も対策が弱い日本のサーバー経由でウイルスが放たれ、連盟のサーバーが脅威に晒されました。幸い連盟のウイルス監視係がいち早くウイルスに気づき、サーバーはすんでのところで難を逃れました。こんなことは二度とあってはなりません」
彼は眼光鋭く言った。
「ご指摘の点は重く受け止めております。今回の一件の後、直ちにサイバーフォースという対テロ専門のチームを組織し体制を整備しました。今後、連盟にご迷惑をおかけすることのないよう、このチームが全力で対処します」
成田の顔付は神妙だったが、彼は内心、連盟担当者のいつもながらの傲慢さには辟易していた。
「そうですか、対策は早ければ早いほどいいですからね」
セルカークは成田を一瞥した。
「今日はメンバーの祐磨を紹介します。今後そちらとの窓口を担当することになりました。彼は若いころアメリカで生活をしていましたので、英語は堪能です。きっとお役にたてるでしょう」
「そうですか、それは頼もしい」
セルカークが珍しく微笑んだ。
「よろしくお願いします」
祐磨も微笑んで応えた。
「今回はふたつのテーマがあります。第一は社会インフラに対するサイバー攻撃です。第二はパレントの普及です。
まず第一のテーマですが、連盟の一部の国では既にインフラ、即ち電気、ガス、水道さらには鉄道、航空などの管理システムが攻撃され、被害がでています。これまでのところ、被害は限定的ですが、これら基幹インフラのシステムが大規模に攻撃されると、国家は大混乱に陥ること必至です。
シナーロはサイバーテロ部隊を増強し、インフラ攻撃の体制を着着と整備しつつあります。
重要インフラを新たなる脅威からいかに護るかということが喫緊の課題です」
セルカークは堰を切ったように言葉を吐いた。
「連盟としてなにか妙案でもあるんですか」
成田が前屈みで彼を見た。
「新しいセキュリティ・ソフトはまだ開発の途上です。いまのところ、現行のソフトを強化して対処するほかありません」
会議のメンバーに溜息が漏れた。
「その開発中のセキュリティはどういった改良がなされているんですか」
祐磨がすかさず訊いた。
「それはまだ機密で言えません」
セルカークは突き放すように言った。
いつもどおり傲慢な男だ、と成田は思った。
「それでは、現行のソフトの改良について具体的にどうすればいいんでしょうか」
祐磨が言葉を継いだ。
「私と入替りにシステム・エンジニアが来ますから彼らと協力して進めてください」
「それから第二のテーマはパレントです。ご承知のとおり、パレントはシナーロへの情報漏洩を防ぐ最も有効な手段です。また、このシステムにより敵のスパイをあぶり出すことも可能になります。現下の情報漏洩は深刻です。従って、一人でも多くの連盟国の国民にパレントをインプラントし普及を拡大する必要があります。日本の普及率は他の連盟国を下回っています。早急に普及率を上げる必要があります」
「スパイを摘発できるというのは、どういうことでしょうか」
「連盟国のすべての国民がパレント・システムのネットワークに入れば情報漏れはおこらないはずです。パレント・システムでは、もし情報が漏れたら、どこから漏れたのか直ちにトレースができるようになっています」
セルカークは話す内容をプログラムされたスピーカーのように言葉を吐いた。
会議のメンバーは、彼の話を俯き加減で身じろぎもせずに聞いていた。
その後、連盟国同士の秘密保護協定などにつき議論が展開し、会議は延延と続いた。
二日後、セルカークは様ざまな要求を残して帰国した。
仕事の帰路、祐磨はパレントのインプラント後に受けたトレーニングを思い出した。インプラントを受けた者はみな、ハードウェアについての取扱説明書を読むのではなく、トレーニングを受ける必要があった。自身の意図にそった脳波を発するためには、精神を集中させる相当の訓練が不可欠で、トレーニング・プログラムが用意されていた。祐磨もインプラント後、入門編のプログラムからトレーニングを始めた。始めた当座、彼はトレーニングが苦痛で、度度トレーニングを拒否する行動に出た。
これからはパレントが社会生活に必須のシステムになる、と思った冴子は、叱ったり、なだめたり、すかしたりしながら祐磨にトレーニングを続けさせた。初めて経験する苦痛に堪えて、祐磨が脳波をコントロールし、曲がりなりにもパレントを使えるようになるのに一年ほどを要した。学齢期にインプラント受けた者はみな同じような途を辿っていた。
祐磨が乗ったリニアモーターのメトロは音もなく降りる予定のホームへ滑り込んだ。
自宅へ戻った祐磨はリビングルームのソファに坐り、疲れた表情を見せていた。
「今日の仕事はどうだったの」
冴子は心配顔だった。
「今度配属された部署の仕事はかなりハードみたいだ」
祐磨の心は意外に落着いていた。
「そうなの、それでなにをする部署なの」
「サイバーテロを未然に防ぐのが任務なんだ」
「まあ、面白そうね」
冴子は眼を輝かせた。
「そうなんだけど、チームのメンバーはみんなITの専門家で優秀なんだ、ついて行けるか心配だよ」
祐磨は初めての会議で感じた不安を口にした。
「あら、そうなの、でもあなたもそのチームに選ばれたんだから大丈夫よ」
冴子は屈託のない表情を見せた。
「そうだといいんだけど」
「ねえ、それでサイバーテロに対してどんなことをするの」
冴子は興味津津だった。
「そんなこと言えるわけないよ、守秘義務があるんだから」
「あら、そうなの、家族にも言えないの」
「もちろんさ」
祐磨は苦笑した。
冴子は祐磨のトレーニングのことを思い出した。
「さあ、心を集中するのよ」
彼女は祐磨の両肩に手をおき、彼の眼を見つめた。
祐磨は虚空を睨み、精神を集中させようとしていた。
「そうそう、そうよ、そうやって言いたいことを伝えようとしなさい」
祐磨の様子を観察しながら、冴子は彼を励まそうとしていた。
こうしたトレーニングは既に三か月にたっしていたが、祐磨に変化は起らなかった。
「お母さん、頭のなかでなにか聞こえたよ」
トレーニングが四か月目に入ったとき、祐磨が声をあげた。
「えっ、なんて、なんて聞こえたの」
冴子は焦った。
「連絡ありがとう、って聞こえたけど」
祐磨の脳波を捉えたパレントが彼の意志をコミュニケーション・サーバーへリレーし、サーバーが自動応答したものだった。
「そう、それよ、旨くいったのよ、やったわ」
冴子は興奮を抑えきれなかった。
彼女は思わず祐磨を抱きしめた。パレントを介して意志の伝達が図れることが、これからの社会生活の必須条件と思われていた。これで、祐磨も一人前の社会人になれる切符を手に入れた、と冴子の胸は高鳴り、そして安堵した。
若い祐磨の脳は敏感に反応し、よりレベルの高いトレーニング・プログラムを次つぎとこなしていった。やがて数百の脳波を使い分け、希望する相手と自在に意志の伝達を図れるようになった。高校へ入学するころにはパレントを介し、インターフラッシュ経由でゼウスにアクセスするまでになっていた。眼を見張る進歩だった。
脳波を自在に使いこなすまでの祐磨の苦難と、その後の進歩をつぶさに看てきた冴子は、大人もこの能力を獲得すべきだと思うようになった。もし、夫と自身がパレントを使えるようになれば、祐磨といつでもどこでコミュニケーションをとることができ、また、ほかの若い世代とも意志の疎通が図れるのではないか、と内心期待していた。
しかし、五十歳を超えた夫と自身のことを考えると、はたして脳波を自由に操れるものか、不安は小さくなかった。彼女の心中では、久磨にもパレントをインプラントすべきという強気と手術は控えるべき、という弱気が交錯していた。
「ねえ、今日、祐磨が面接を受けた警察庁でパレントで質問されたんですって」
冴子はリビングルームで久磨と相対していた。彼女は今日の面接の情景を夫に話さずにはいられなかった。
「そうか、そんな話初めてだな、パレントで面接するなんて」
久磨は腑に落ちない表情をした。
「それで、祐磨は旨く応えられたのよ。面接者にパレントの能力を試されて、認められたみたいなの」
冴子は表情を崩した。
「そうか、そりゃよかった。やっぱり、これからはパレントかな」
「そうよ、これからはパレントができないと就職もままならないってことだわ。だから、私たちもどうかしら」
冴子は久磨の顔色を窺った。
「また、その話か、パレントの難しさはお前が一番知ってるじゃないか。祐磨だってお前がつきっきりであんなに苦労したじゃないか」
久磨の優柔は相変わらずだった。
「でも、若い世代はパレントを使っていつでもどこでも話ができるのよ。中高年はほとんどできないでしょ、そうすると、パレントができる世代とできない世代でジェネレーション・ギャップができるんじゃないかしら」
冴子は一抹の不安を覚えていた。
「そうだな、それはそうかも知れないけど」
曖昧な言葉の陰で、久磨は冴子より深い不安を感じていた。
祐磨は繭子と出会った頃のことを思いだしていた。大学近くのコーヒーショップには大勢の学生がいた。かなり広い店内はほぼ満席だったが、飛交うはずの話し声は聞こえず、クラシックといってもいい旧いポピュラーソングが静かに流れていた。学生たちはパレントで会話していた。
〈ねえ、面接どうだったの〉
窓越しの初夏の陽射のなかで繭子のくっきりとした眸が動いた。
〈言いたいことは総て伝えたからね、あとは天命を待つのみさ〉
祐磨は眼で微笑んだ。
〈祐磨なら大丈夫よね、でも国家公務員の面接って想像できないわ〉
〈民間の面接と変わらないよ〉
〈で、どんな仕事なの、あっ、これ美味しい〉
繭子は白い華奢な手でハーブティーをひと口飲んだ。
〈コンピュータの知識を活かしたいから、サイバーテロ対策関係の部署を希望はしてるんだけど、配属先は分らないよ〉
〈サイバーテロ対策なんて面白そう〉
〈まあ、そうなればいいんだけど〉
「でも国の安全に関れるなんて素敵だわ」
繭子は眼を見開いた。
「あれっ、繭子、口で話してる」
「あら、本当、でも祐磨も口で話してるわ」
二人は一瞬見つめあい、そして微笑んだ。
「一体どうしたんだろう、繭子がすこし興奮したからかな」
「分らないわ、でも面白そうだと思って、気持ちが高ぶったのは確かよ」
「やっぱりそうだ、心の持ちようによるんだ」
「感情の動きで脳波が勝手に変ってしまったのかしら」
「でも、僕らは脳波を微妙にコントロールできるようにトレーニングされているはずなんだけど」
「今回は感情の動きがトレーニングのレベルを超えてしまったんだわ」
「それじゃ、なんのためのトレーニングだったのか分らないね」
「そうね、だけど、口で会話するのも楽しいわ。祐磨とも口で会話することはもうあまりないと思ってたのに」
繭子の形のいい口許から笑みがこぼれた。
祐磨は顔を上げ店内を見わたした。学生たちは俯いたり、相手を見たり、手振りをしたり、それぞれの時間を過ごしていた。しかし、どの学生の唇も結ばれ、動くことはなかった。彼らの沈黙の会話風景を見ていると、ひとつの機能を失った動物の群のように、祐磨の眼には映った。
「祐磨、どうしたの」
黙ってしまった彼に、繭子が訊いた。
「うん、ああ、パレントと口で会話するのとどっちがいいのかなって思ったんだ」
「たまに口で会話するのも楽しくていいわ」
繭子は無邪気な笑顔を見せた。
「繭子のお父さんやお母さんはどうなの」
祐磨はコーヒーをひと口飲んだ。
「どうって」
「パレント、やってるの」
「うちはやってないわ。父はそんなことしたら気が狂うんじゃないかって言うし、母は気持悪いって言うの」
「そうか、繭子のうちは、はっきりしてるんだ」
「なんていうか、うちはITに弱いの。というよりITを信用していないみたい」
繭子は眼をふせた。
「信用しないって言っても、この世はITだらけだからね、ITなしには生活できないしね」
「多分、バーチャルの世界が信用できないというか、怖いんだと思うの」
「そうか、バーチャルな世界は無限だからね、その感覚、解らないでもないよ」
祐磨が眼をやった窓からは、もう傾いた夕陽が射しこんでいた。
久磨はパレント・センターの門を潜った。彼はパレントのインプラントの予約をとっており、受付で予約表を出した。
「織部久磨さんですね、二階奥のインプラント・ルームへ行って、このカードを出してください」
ピンクのユニフォームの若い受付嬢がにこやかに微笑み、ほっそりとした手でカードを差し出した。
久磨はカードを受けとり、高い天井のロビーを横切って、エスカレーターで二階へ向かった。二階の受付で再びカードを出した。
「お呼びするまでお待ちください」
紺のカーディガンを羽織った受付嬢がそっけなく言った。
久磨は受付近くのソファに坐った。待ちながら、冴子との会話を反芻した。思えば、パレントについて彼女と何度話したことだろう。いま、こうしてインプラントを待っている自分が信じられなかった。冴子の言葉に押されてこのセンターに来たが、なぜここにいるのか分らなかった。そればかりか、インプラントを受ける決心すらついていなかった。不思議な風に吹かれたここ流されてきたような気がして、待ち時間に終りがないことを祈っていた。不安と後悔の念が頭から溢れそうになったとき、耳に声が響いた。
「織部さん、どうぞ手術室へ」
眼をあげると、若い女性看護師が室の入口で手招きする姿が見えた。
久磨は反射的に立ちあがり、室へ入った。
「あの、失礼ですが、あなたもパレントをしてらっしゃるんですか」
思いもかけない言葉が彼の口をついてでた。
「ええ、もちろんですわ」
看護師は口許をほころばせた。
「そ、それって・・・」
久磨は口を開いたが言葉にならなかった。
「大丈夫ですわ、インプラントは三十分ほどで済みますから。さあ、そこにお掛けください」
看護師は久磨の優柔と弱気を見透かしたように微笑んだ。久磨は彼女の言葉に従って、理髪店の椅子のようなインプラント台に坐った。台に囚われの身となった彼の眼に、白い室の壁が迫ってきた。こんなことでいいのか、手術台に寝なくていいのか、と彼は思い、またしても不安に襲われた。祐磨はこの恐怖をどうやって克服したのだろう、と思ったとき声がした。
「織部さんですね、これからインプラントを行いますが、その前に局部麻酔をします。ちっとも痛くないですからね」
医師と思われる三十歳代の男は、イヤフォンのような物を久磨の頸筋に軽く当てた。するとたちまち、久磨の意識は薄れて行った。
久磨は木洩れ日が降り注ぐ森のなかを歩いていた。どこへ向かっているのかも分らず、下草を踏みしめながら、あてどなく進んでいった。間もなく辺りに薄闇が迫り、彼は焦りを覚えた。周りを見わたしたが喬木に阻まれ、視界はきかなかった。
暫くすると辺りはすっかり闇に閉ざされ、彼は道を見失い、歩みを進めることもできず、立ちどまった。途方に暮れた瞬間、何者かが彼の頸を絞めた。
「うーっ、なんだお前は」
彼は驚いて声を絞りだした。頸を絞めている冷たいものを振りほどこうともがいたが、その力はますます強まっていった。
「どうだ、苦しいか」
闇のなかで声が響いた。
「お、お前はだれだ、なにをする気だ」
「私は闇の天魔、エビルだ。これまでのお前の生き方をいま断罪する」
暗闇の奥から響く声は恐怖に満ちていた。
「なんだって、僕がなにをしたっていうんだ」
久磨はもがきながら苦しい声をあげた。
「お前の優柔不断は許されるものではない、しかもお前はそれを後悔すらしていない。お前は生きる意味のないやつだ」
「なんだと、僕はこれでも・・・」
頸を締めあげる力は抵抗できないほど強まり、意識が遠のき彼は気を失った。
「はい、もう終わりましたよ。眼を醒ましてください」
身体を揺すられ、彼は覚醒した。
「・・・」
彼は一体なにが起こったのか、一瞬思い出せなかった。
「大丈夫ですか、インプラントは終わりましたが、今日一日は安静にする必要がありますから、休息室へお連れします。それからトレーニング・プログラムをお渡ししますからしっかりトレーニングしてくださいね」
先ほどの看護師が微笑みながら、久磨が坐った車椅子を押した。
「もう、終わったんですか、それで成功なんでしょうか」
久磨はくぐもった声を出した。
「もちろん成功ですよ」
看護師は車椅子を押し続け廊下を進んだ。
「そうですか、よかった。でも、さっき妙な夢を見たんです。僕、夢のなかで殺されかけたんです」
久磨は夢の恐怖を話さずにはいられなかった。
「あら、そうなんですか。インプラントの麻酔をすると夢を見る方多いんですよ、それも怖い夢を。さあ、ベッドに横になってください」
看護師と入替りに医師が入ってきた。
「どうですか、ご気分は」
彼はベッドに寄りそって訊いた。
「ええ、ちょっと頭が重たいですが、大丈夫のようです」
久磨は仰向けに寝ていた。
「そうですか、それは麻酔のせいですから明日になれば治りますよ。
インプラントしたディバイスとあなたの脳がこれから相互にコミュニケーションをとり始めます」
「えっ、ディバイスが勝手に話をするんですか」
久磨は腑に落ちない顔をした。
「そうじゃなくて、ディバイスとあなたの脳波がコミュニケーションするんですよ」
「僕の脳波が・・・」
彼は医師の言葉がもうひとつ理解できなかった。
「旨くコミュニケーションするにはトレーニングが欠かせません。このトレーニング・プログラムをよく読んで、精神を集中し脳波をコントロールできるようにしてください。そうすれば、脳のシナプスを通じて外部からの情報が伝わるようになるんです」
「はあ、わかりました。それで、旨くできるようになるには、どれくらいかかるんでしょうか」
「そうですね、子供なら半年から一年で旨くなるんですが、大人になると相当時間がかかりますね。年齢にもよりますし、それに個人差がありますので一概には言えませんが、二年から、人によっては五年くらいかかることもありますね」
話を聞くうちに、久磨は気が遠くなった。ほとんど眠れぬまま、翌朝、彼は霧に包まれたような頭を抱えてパレント・センターを後にした。
久磨がインプラントを受けてから一週間が経っていた。
「あなた、調子はどうなの」
仕事から帰った久磨に冴子が訊いた。
「うん、べつに変わったことはないけど」
「そう、あなた、あんなに嫌がってたけど、インプラントしてよかったわ」
「医者の話では、トレーニングをしていくと、脳とパレントが次第に相互に反応するようになるって言ってたけど、まだなにもおこらないな」
久磨は要領を得ない表情をした。
「それはしかたないわ、だって子供だった祐磨でも旨くいくまでに一年ほどかかったんですもの」
「僕の場合はもっとかかるってことかい」
「それはそうでしょう、祐磨の脳は若くて順応性があったんですよ、あなたは、もう齢だから」
「そういうもんか、じゃあ、気長に待つことにしよう」
「ねえ、それで、わたしもインプラントをしようと思うの」
「まあ、いいんじゃないか」
一週間後、冴子はインプラントを受けることなった。
ターミナル近くの居酒屋は、まだ時間が早いせいか客はすくなかった。
「おめでとう、さすが祐磨ね」
「ありがとう」
祐磨と繭子は乾杯した。
「サイバーフォース・チームは第一志望だったんでしょう」
「まあ一応ね、転属願いは出していたんだけど、五分五分だと思っていたんだ。運がよかったのさ」
上司から得ていた確かな手応えについては、彼は言わなかった。
「でも、とっても嬉しそう、籠から飛びだした野鳥みたい」
繭子が微笑むときれいな頬の輪郭が揺れた。
「そうだね、一番興味のある分野だからちょっと期待してるかな」
祐磨も冷酒をひと口呑んだ。
「今の上司とはパレントで連絡を取りあっていたのよね」
「そうなんだ、その上司はもちろん四十は過ぎているんだけど、パレントが使えたんだ。だけど、連絡を取りあっている時に気づいたんだけど、ちょっと気にかかることがあるんだ」
「まあ、どんなこと」
「パレントする人としない人がいるわけだけど、する人としない人とは別の世界に住んでることにならないかと気づいたんだ、警察庁でもそうだと思うんだけど」
祐磨は未知の不安を感じていた。
「それはそうね、私たちの世代はみんなパレントをしてるから問題ないけど、中年以上の人はほとんどしてないものね」
「そうだろう、だから世の中、パレント派と非パレント派に別れてしまうんじゃないかと思うんだ、まあ、僕たちが心配してもしかたないかも知れないけど」
祐磨は微笑んだ。
「そうよね、これは難しい問題かもね。ねえ、このお酒美味しいわ、なんていうお酒、もっと呑みたいわ」
繭子は頬を染めて潤んだ声を出した。
「おいおい、大丈夫かい、これは遺伝子組換の新種の米から造った神秋という酒で結構強いんだよ」
今日は繭子がのってるな、と祐磨は思った。
「なんだかとっても楽しくって、お酒も美味しいの。祐磨の転属の首尾が良かったからかしら」
「そっちの会社のほうはどうなんだい」
「仕事は忙しいわ。でも社内はとっても静かよ」
繭子が勤務するQエントロピーは、パレント同盟会長の鳥羽織が率いる会社で、祐磨は繭子の入社に乗気ではなかった。しかし、パレントに興味を持っていた繭子は、強い好奇心を抱いて同社に入社した。パレント同盟はパレントの普及を支援する団体だった。
「静かって」
「みんなパレントで話してるから話し声がないの。社内だけじゃなくて社外との交渉なんかもパレントでしてるみたい」
「そうか、Qエントロピーはパレントのネットワークを管理している会社だから当然かも知れないね」
「そうなんだけど、注文が増えて超忙しいのにオフィスはしーんとしてるのよ。みんなデスクに坐って、書類を見たりしてるんだけど、なかには前をじっと見つめて固まっている人もいるの。たぶんパレントに集中して話をしているんだと思うんだけど、なんだか気味が悪いわ」
「それはそうかも知れないけど、繭子だって周りから見ればそう見えるかも知れないよ」
祐磨は笑っていた。
「あら、いやだ、そう言えばそうね」
繭子も微笑んだ。
「オフィスが静かなのはいいけど、どうなんだろうね」
「どういうこと」
「世の中、みんながパレントし始めたら普通の会話が途絶えてしまうんじゃないかと思うんだ」
「そうね、そうかも知れないわね」
「パレントだと、相手の顔も見ないことになるよね」
「そうね」
「それは相手の表情も見えないってことだろう。顔色も見ずに相手がどう感じて、何を考えているのか判るのかな、ってことさ」
「それはそうね、パレントじゃ相手の心の動きまで分らないものね」
「パレントで意志の疎通は図れるだろう、そうすると、わざわざ相手の顔色を窺うこともなくなる、そんなことが続けばどうなるんだろう」
「相手の心情を理解したり、慮ることをしなくなるかもね」
「そうだろう、そうすると、相手の心の動きや感情を捉える能力が失われていくんじゃないかな」
「心の豊かさが無くなるってことね、もしそんなことになったら大変ね」
「人の感情や心の動きまで変わってしまうかも知れない。パレントはたしかに便利だけど、人の精神のありようまで変えてしまう気がするんだ」
「心が細るのは哀しいわ、だけど代わりに心になにか別の変化が現れないかしら」
「別の変化って」
「表情を見なくてもパレントを介して、相手の感情の動きが察知できるようになればいいわね」
繭子の表情が緩んだ。
「そうか、いいことに気がついたね、そういう新しい心の動きが生れたら面白いね」
「そうでしょう、でも、そうなるためにはパレントを使いこなさなきゃいけないんじゃない」
「そうだね、せいぜいパレントを活用しよう」
「よかった、なんだか希望が見えてきたわ」
繭子は愉快に盃を重ねていった。
その夜、祐磨は酔った繭子をタクシーで彼女のマンションへ連れ帰った。甘いアロマの香りに満ちた狭い部屋で、彼女は花のように抱かれた。
〈感じるわ〉
〈痛くない〉
〈ううん、気持いい〉
〈これはどう〉
〈気持いい。とってもいいわ〉
パレントを介して会話しているせいか、祐磨は全感覚を右手の指先に集中できた。彼の微妙でちいさな動きに、繭子は驚くほど大きく反応した。パレントでの静かなやりとりのなかで、香気に満ちた風が流れた。
「あっ」
そして、彼女は華奢な全身を律動させ、短く声をあげた。
冴子が久磨と同じインプラントを受けてから一か月が経った。インプラント後、なんとなく頭を重く感じていたが、それもなくなり体調も回復していた。彼女は祐磨とパレントで会話したいという熱意で、懸命にトレーニング・プログラムを消化していた。しかし、これまでのところ、感覚に変化は現れなかった。五十を超えた齢なので夫同様、仕方ないのかも知れない、と彼女は自ら納得していた。
その日、久磨はいつもどおりメトロで帰宅の途上にあった。最寄りの駅で降り、改札を通り、地下道を出口に向かって急いだ。出口近くのエスカレーターが見えたとき、突如、灯が消え、視界が奪われた。なにが起こったのか分らず、暗闇のなかで彼は立ち往生した。
《一体、どうしたんだ、真暗だ、停電なら非常灯がつくはずなのに暗いままだ》
眼を凝らしたが闇は深く、なにも見えなかった。何かに呑込まれたように、人の気配も感じられず、声も聞こえなかった。
「インプラントしたらしいな」
途方にくれている彼の耳に、闇の向こうから低い声が響いた。
「だれだ、お前は」
彼の声は心なしか震えていた。
「私はエビルだ」
「なんだって、またお前か、どこにいるんだ、姿を見せろ」
「姿は見ない方がいい」
「どうしてだ」
「私の姿を見れば、お前は驚いて卒倒するだろう」
声は怖ろしい響きで続いた。
「僕に一体なんの用だ」
「私は警告しに来たんだ」
「警告?」
「そうだ、パレントはお前を破滅させるだけだ」
「なんだって、まさか、これまで何も起こらないぞ」
久磨はすこし冷静になり、エビルの声を聞いた。
「お前の脳は過剰な刺激に耐えられず、そのうち暴走し始め、制御できなくなる」
「そんなばかな」
笑みをつくろうとしたが、彼の表情は強ばったままだった。
「私のいうことを信じるのだ、私は総てを知っているのだ」
声は一段と強く響いた。
「それで、僕にどうしろというんだ」
「パレントを取り外すほかない」
「せっかくインプラントしたのに、取り外す気なんかないぞ」
久磨は身構えた。
「脳が暴走し始めたらどうなるのか分っているのか」
「知るもんか、どうなるっていうんだ」
「お前は自分をコントロールできなくなり、やがて精神が破壊される」
「そんな、そ、それは本当か」
久磨は焦りを覚えた。
「私のいうことを信じろと言ったはずだ。精神が錯乱し、人格も失い、そして廃人になるのだ」
「ひえー、それじゃ、どうしたらいいんだ」
彼は思わず声をだしたが、エビルは応えなかった。
「おい、どうしたんだ、どこにいるんだ」
懸命に呼びかけたが声は応えなかった。
「どうした、応えろよ、おいっ、あーっ」
闇に向かって一歩踏み出した瞬間、彼は奈落へと落ちていった。
久磨は深夜になっても帰宅しなかった。心配になった冴子は何度かスマートフォンへかけたが応答はなかった。
「あの人どうしたのかしら、こんなに遅いはずないのに」
彼女は戸惑っていた。
「そうだね、親父は意外に几帳面だから、なにかあったら連絡してくるはずだね」
祐磨も心配顔になった。
その夜、冴子は寝つかれず、空が白みはじめるとベッドから起き、玄関へ行った。ドアの鍵を開けようけようとしたとき、いきなりドアが開いた。
「きゃー」
彼女は驚いて叫び声をあげた。
「僕だ」
ドアの向こうに久磨が立っていた。
「あなた、どうなさったの」
彼のスーツの背中は汚れ、泥の色に染まっていた。
「それが、僕にもよく分らないんだ」
ソファにかけた彼は虚ろな眼で話しはじめた。
「わからないって、いままでどこにいらしたの」
「駅で降りたら停電になって、そうしたらエビルってやつが現れて・・・」
「だれ、それ、あなたの言ってること全然わかんないわ」
冴子は困惑した。
「ああ、僕にもよく分らないんだ、眼が覚めたら駅の通路で寝ていたんだ」
久磨の意識はまだ朦朧としていた。
「よほど呑んだのね、あんまり心配させないでね」
冴子には、久磨が正体を失うほど呑んだという記憶はなかった。
「いや、呑んでなんかいないんだけど・・・」
彼は自身のことに半信半疑だった。
「そんなはずないでしょ、駅で寝るくらいだから」
「でも、そんな・・・」
言いかけて、彼は口ごもった。言っても信じてもらえない、と思ったからだ。その日、彼は疲れを覚え会社を欠勤した。
冴子の身体に変化が現れた。インプラントをしてから六か月が経っていた。彼女はトレーニング・プログラムのほとんどを消化していた。ある日、祐磨の顔を頭のなかに浮かべ、精神を集中して彼のことを念じてみた。
〈どなたですか〉
脳中に小さな声が響いた。
彼女は一瞬戸惑ったが、その声に応えた。
〈あっ、私よ、祐磨〉
〈えっ、お母さん〉
祐磨も困惑気味に応えた。
〈そうよ、私よ、通じたみたい、素敵!〉
冴子は昂る気持を抑えきれなかった。
〈お母さん、もうパレントが使えるようになったの、すごいなあ〉
〈すごいでしょう、これで祐磨ともパレントでお話ができるわ〉
彼女の声は弾んでいた。お母さんは驚くほど早くパレントを習得したみたいだ、それにしてもインプラントから半年を過ぎても旨くいかない父親はどうしたんだろう、と祐磨は思った。
その後、冴子はパレントを介してデータベースにもアクセスすることを目指して、いっそう熱心にトレーニングに励むようになった。
祐磨は就職活動をしていた頃を思い出していた。大学のキャンパスは初夏を迎えていた。学舎に沿った楡の並木は黄緑の芽を吹きはじめていた。
「祐磨」
午前中の講義を終えて教室を出たところで、祐磨は呼び止められた。彼が振り返ると、クラスメートの幸郎の笑顔があった。
「お前か、久しぶりだな」
「祐磨、随分忙しそうだな」
二人はベンチにかけて話しはじめた。
「いや、そうでもないさ、そっちこそ練習で忙しいじゃないのか」
幸郎は陸上部の短距離の選手だった。陸上部では秋の全国大会に備え強化合宿にはいる季節だった。
「練習にばかりかまけていられないよ、合宿にも行けるかどうか」
「そうだな、いまや就職活動が第一だからな」
「お前は部活はどうしてるんだ」
祐磨はテニス部に所属し、全国大会に出場する腕をしていた。
「このところ、ずっとさぼってたんだ」
「ふーん、テニス・フリークにしてはめずらしいな、全国制覇を目指していたんじゃなかったのか」
「去年まではそうだった」
「どういうことだ」
「就職活動を始めたら、両立が無謀だと分かったんだ」
「そうか、秀才のお前でも難しいんだ」
「もう諦めたよ」
「そうか、やっぱり忙しいんだ」
「ああ、だけどもう忙しいのも終わりだよ。就職先、決まったんだ」
「えっ、本当か、やったな、それで、なんていう会社だ」
「会社じゃなくて警察庁だ」
「へー、お前が公務員とはな、意外だな」
幸郎は先を越されたと感じた。
「わるかったな、先に失礼しちゃって。お前の就活はどうなんだ」
「まあ、のんびりやってるけどね、もう四年生だし、一年を切っちゃたな。そろそろ本腰を入れるか」
幸郎はおおらかな笑みを見せた。二人はランチをとることにした。ちょうど昼飯時で学生食堂は混みあっていた。ディスプレイの前に並び、順番がくると好みのメニューを選び、インプットする。隣接する受取カウンターにくるとすぐにコンベヤーに載せられた料理が出てきた。料理は人の手ではなく、総てコンピューターでコントロールされた製造システムで作られていた。二人は料理を載せたトレイを持ってうろうろしたあと、やっと窓際に席を見つけて坐った。
「やれやれ、学生が増えるのも考えもんだな」
祐磨はうんざりした顔だった。
「そうだな、まったく窮屈だ。ところで、パレント同盟を知ってるか」
幸郎は打って変わって真顔になった。
「うん、聞いたことはあるけど」
祐磨はそのことについてほとんど知らなかった。
「そのP同盟は最近ますます大きくなっているようだぞ」
幸郎は声を潜めた。
「P同盟っていうのか、それってパレント使用者が勝手につながってるだけだろう」
祐磨の言葉に屈託はなかった。
「僕もそう思っていたんだけど、どうも違うようだ」
「えっ、どういうことだ」
祐磨は身を乗りだした。
「あれは、このところ政治勢力化しているらしいぞ」
「そうか、政治か、ま、ありうることだな」
彼は事もなげに言った。
「それも相当先鋭化してるみだいだ」
「どういことだい」
「パレントを強制的に推奨してるのさ。言い換えればパレントをインプラントしない人間を排斥しよう、ということらしい」
「ずいぶん過激だね、でも、そんな政党が成立つのかな」
祐磨は半信半疑だった。
「いや、彼らが考えているのは政党なんかじゃないんだ」
「じゃあ、なんなんだ」
「なんと言ったらいいのか、そうだな国民運動とでもいうのかな」
「よく分んないな、だけど、お前なんでそんなこと知ってるんだ」
彼は幸郎の言うことが腑に落ちなかった。
「実はこの間Qエントロピーの面接を受けたんだ」
幸郎は声を潜めた。
「えっ、そうだったのか」
Qエントロピーはソフト開発の最大手で業界でも大きな勢力を誇っていた。
「それがだ、面接でなんと言われたと思う」
彼はさらに声を潜めた。
「おい、もったいぶるなよ、なにを言われたんだ」
祐磨は答を早く知りたかった。
「それが、まず訊かれたのが、パレントをインプラントしているかと、いうことなんだ」
「なんだ、そんなことか。僕も訊かれたし、パレントで受け答えしたよ」
「それだけならいいんだけど、その会社の創業者の鳥羽織会長がパレント同盟の会長で、そのP同盟に入れっていうんだ」
「へー、そうだったのか」
「それで、入るのはいいけど、会の規則や会員の義務なんかを教えて欲しいと言ったら、それは入会しないと教えられない、と言うんだ」
「なんだかへんだね」
「ああ、それでも食い下がって根ほり葉ほり訊いたんだ」
「それでなにか分ったのかい」
「はっきりはしないんだけど、相手の言うことをなんとか繋げてみると、これからはパレントを使う人間と使わない人間とにわかれていく。パレントをつかう人間は豊富な情報で益益発展するが、使わない人間は社会から脱落していく、とうことらしい」
「うーん、説得力のあるお説だね」
祐磨は頷いた。
「今後もっと洗練されたパレントが登場するから、その差はどうしようもなく広がっていく、そこで、パレント人間だけの共同体創りを目指そう、ということらしいんだ」
二人は黙って顔を見あわせた。
「おっ、もう午後の講義が始まる、行かなきゃ、続きはまた今度だ」
幸郎が話を止め、立ちあがった。
「もう、そんな時間か」
祐磨も席を立った。
爽やかな風が頬を撫でていった。大学の夏休も終わりにちかづいたころ、祐磨は自転車で海岸通を疾駆していた。すこし遅れて繭子が追っていた。軽やかに走る二人を時折、車が追い越していった。
祐磨が腰をあげ思い切りペダルを踏むと、一段とスピードがあがった。風に乗った海鳥のように走り、やがて岬に着いた。道路沿いに自転車を止め、海へ眼をやると岬の突端に燈台があった。
「もう、先に行っちゃうんだから」
やっと追いついてきた繭子が自転車から下りてきた。
「このレンタ自転車、速いな。新型の超小型モーター付だって言ってたけど、すごい性能だね、ちょっと踏んだだけで一気に来ちゃった」
「綺麗な燈台ね」
燈台は午後の陽を一杯に浴びて白く輝いていた。
「あそこまで行ってみようか」
二人は再び自転車にまたがり、道路から外れ、踏み固められた小径を進んだ。間近で見ると、燈台は思ったより大きな建物で、高く聳えていた。
「なかへ入ってみようか」
「あっ、だめよ、勝手に入っちゃ」
祐磨は建物のドアを押したが開かなかった。
「だめだ、ロックされてるみたいだ」
彼は振り返って微笑んだ。
「そりゃそうだわ、これって無人燈台でしょう。祐樹みないたひとが入らないようにしてあるんだわ」
繭子も悪戯っぽく微笑んだ。
「あら、私たち口で話してるわ」
「あっ、本当だ、どうしてかな」
「わからないけど、多分、楽しいときは自然にこうなるんだわ」
「そうか、そういうことかも知れないね」
二人は海岸沿いの道路に戻り、走りはじめた。超小型モーターのおかげで自転車は素晴らしいスピートで疾走した。祐磨の耳元で風が鳴った。繭子のセミロングの黒髪と頸に巻いたグリーンのスカーフも風になびいていた。
〈ねえ、こうして話すにはパレントが便利だね。大声をださなくてもいいし〉
リズミカルにペダルを踏みながら、祐磨がパレントで話しかけた。
〈そうね、便利は便利よね〉
繭子も遅れまいとペダルを踏んでいた。
〈燈台には入れなくても、繭子の意識のなかには入っていけるんだ、やっぱり使わなきゃ〉
空腹を覚えた二人は海辺のレストランへ入り、窓際の席についた。
「まあ、綺麗だわ」
水平線にオレンジ色の夕陽が触れ、ちりばめられた宝石のようにさざ波が輝いていた。静かに白波を上げながら滑るヨットが、暮色に染まった空を白い帆で切りとるように、マリーナを目指していた。
「なににする」
「そうね、海に来たんだから、やっぱり魚料理よね、スズキのポアレがいいかな」
「じゃあ、僕はクロダイのソテーだ、飲物はどうする」
「ジンジャエール」
「僕はドライシェリーにしよう」
祐磨は手を挙げてウェイターを呼んだ。
「あら、だめよ、だってまた自転車に乗るんでしょ」
繭子は慌てて止めようとした。
「大丈夫さ、あとはレンタ屋さんに自転車を返すだけだから、すぐ近くだし」
「そうね、私も同じものにするわ」
まもなく運ばれてきた琥珀色に染まったリキュールグラスで、二人は乾杯した。
「P同盟って聞いたことある」
祐磨は料理を口に運びながら唐突に訊いた。
「知らないわ、それってなに」
「幸郎に聞いたんだけど、よく分らないんだ。PはパレントのPで、
正式名はパレント同盟って言うらしいんだ」
「まあ、それ、なにをする組織なの」
「簡単に言うと、パレントのインプラントを広めるための運動らしい」
「そうなの、なんのためにそんな事するのかしら、私たちはもう子供のときにインプラントしてるじゃない」
繭子は腑に落ちない表情をした。
「だから、つまり、インプラントしてない中高年にインプラントさせようとする運動らしいんだ」
「あら、そんな運動があるの、でもそんな事をしたら、インプラントしたくない人はどうしたらいいの」
「その運動は政治運動化するらしいんだ」
「そんなことになってるの、でも、そうするとインプラントしたくない人達の反対同盟ができるんじゃないの」
繭子の考えはもっともだった。
「そうか、そういうことになるかも知れないな、でも、そんなことになったら世の中どうなるんだろう」
繭子が言ったようなことは、祐磨の頭にはなかった。彼は背筋になにかを感じながら、深紅に暮れなずむ海に眼をやった。
久磨の頭のなかは光に満ちていた。赤、黄、緑や様ざまな色の光芒が飛交い、全身を突き抜けていった。身も心も光に翻弄され、彼は金縛り状態になった。光は帯状になり、時として拡散し、また集中し、また暗闇に包まれたかと思うと、つぎの瞬間、光が弾け、視界が虹色に塞がれた。
やがて光が忙しく動き、集まり、いくつかの映像が見えた。それはテレビで見たニュースの一場面のように思われた。そんな場面が何回か入替わり、つぎにコンサート会場のような場面が現れ、ステージで若い女性歌手が、か細い身を操り人形のようにくねらせながら歌いはじめた。歌は讃美歌のように心地よく耳に響いたが、言葉は外国語のようで意味は分からなかった。これはインターフラッシュから送られてくる映像だ、と彼は気づいた。とすれば、パレントが脳波を捉えて、動きはじめたのかも知れない、と思い興奮を覚えた。
「どうした、なにを喜んでいるんだ」
頭の芯から重い声が呼びかけた。
「あっ、エビルだな、なにしに来た」
「すこしパレントを使えるようになったのか。だが、どうかな、お前の頭脳と身体が耐えられるかな」
暗闇の向こうで不気味な声が響いた。
「なにを言ってるんだ問題ないよ。頭が反応して、いまインターフラッシュも見ることができそうなんだ。もうすこし馴れれば使いこなせるさ」
久磨は姿のない相手に言い返した。
「本当にそうならいいが、それまでもつかな・・・」
言い残して声は消えた。
パレントを介して直接話ができることを思いだして、彼は冴子に話しかけようとした。頭に彼女の顔を思い浮べ、精神を集中した。
〈冴子、冴子、聞こえるかい、聞こえたら応えてくれ〉
彼女の姿を心の中に描こうとして全神経を集中し、意志が伝わるよう念じた。しかし、現れかけた彼女の面影は形が崩れ、水中に沈むように揺ら揺らと消えていった。
〈冴子!〉
声を上げたとき、頭を貫く激痛が走った。
「あーっ」
「あなた、どうしたの」
傍らに寝ていた冴子が久磨の肩をゆすっていた。
「ここは・・・」
「いやだ、怖い夢でも観たの、随分うなされてたわよ」
「あっ、いや、パレントが使えるようになった夢を見たんだ」
久磨は汗を浮かべた顔で応えた。
「まあ、そうなの、いい兆候じゃないの」
冴子は眠い眼をこすりながら微笑んだ。
「もうすこしだったんだけど、旨くいかなくて」
話す久磨の頭をまた激痛が襲った。
「うわー」
悲鳴とともに彼はベッドに崩れ落ちた。
「あなた、大丈夫」
冴子が抱おこそうとしたが、彼は気を失っていた。まもなく到着した救急車で、彼は病院へ運ばれた。それから彼は眼を醒まさすことなく昏睡状態が続いた。
久磨の意識が戻ったと連絡があり、冴子は病院へ向かった。久磨が失神して一週間が経っていた。
冴子が長い廊下を通って病室へ入ると、久磨はベッドで上半身を起こしていた。
「あなた、大丈夫なの」
冴子はベッドサイドに立ち、彼の手を握った。
「うん、僕はどうしたんだろう」
久磨は遠い旅から還ってきたような眼をしていた。
「あなた、夜中に突然気を失ったのよ」
「・・・」
彼は虚ろな眼で冴子を見た。
「あのとき、そうそう、パレントで話が出来そうだとか言ってたわ」
「そうだ、思い出した、もうすこしでパレントでお前と話ができると思ったんだ」
彼の眼にわずかに生気が戻ったかに見えた。
「でも、急に頭が痛いとか言って気を失ったのよ」
「そうか、そういえば、まだなんだか頭が重い」
彼は両手で頭を抱えた。
「だめよ、それじゃ、ゆっくり休まないと」
やっぱりこの齢ではパレントは難しいんだわ、あまり無理はさせないほうがいいのかも知れない、と冴子は思った。
「意識が回復してよかったですね」
彼女の背後で声がした。
「あっ、先生でいらっしゃるんですか」
「ええ、担当医です」
医師はにこやかな表情を見せた。
「主人の病状はどうなんでしょうか」
「精密検査をしてみないとなんとも言えませんが、おそらく、パレントをインプラントしたせいだと思います」
「えっ、そんなことがあるんですか」
冴子は困惑した。
「ええ、よくあるんですよ、とくに中高年の人にはね」
担当医は事もなげに言った。
「えーっ、そうなんですか」
冴子は彼の言葉に動揺した。
久磨の身に起ったようなトラブルが頻繁に起こっていることを、彼女は初めて知らされた。
「これから主人はどうなるんですか」
彼女は言葉を継いだ。
「そうですね、検査が済んだら、パレント・センターで、パレントとの適合性のチェックをすることになります」
一週間後、久磨はパレント・センターでカウンセラーと相対していた。面談室には初秋の陽光が満ちていた。
「検査の結果、身体に異常はありませんでした。健康ですよ」
ライトブルーの無地のネクタイをきちっと締めた三十代のカウンセラーは、検査報告書に眼を走らせていた。
「しかし、私は一週間も眠ってしまって、ひどい目に遭いました。一体なにがおこったんでしょう」
久磨は憔悴した表情を見せた。
「考えられるのはパレント・システムとの不適合です」
「不適合?」
「ええ、生理的にも心理的にもシステムを受けいれられない方がいらっしゃるんです」
「そうなんですか、それで、私の場合はどちらなんですか、生理的なのか、心理的なのか」
「うーん、通常それは複雑に絡みあっていて、単純に結論はでないんですよ」
「どういうことでしょうか」
「つまりですね、生理的に拒否反応がでると、それに呼応して今度は心理的にも障壁が生れて、そのー、相乗的に影響が出てしまうんです」
まるで言い馴れた台詞のように、カウンセラーは言葉を並べた。
「なんだか難しい話ですね、よく理解できないんですが」
久磨はさらに腑に落ちない表情になっていた。
「ええ、みなさんそう仰います」
カウンセラーはまた同じ話か、という顔をした。
「えっ、みなさんということは、こういう事はよく起っているということですか」
久磨は訝った。
「ええ、けっして珍しいという事ではありません」
「そうなんですか、じゃあ、私はどうしたらいいんでしょう」
「あなたの場合はお齢もお齢ですから、慎重に対処されるのがいいでしょう。できればパレントを外されたほうがいいかもしれません」
「せっかくインプラントしたのに外すというんですか」
久磨は言葉を詰まらせた。
「もちろん、決断するのはあなたご自身ですが、もし同じような症状がもう一度出たら、命の危険がありますので」
「そんな」
久磨は息を呑んだ。
「今回の症状は脳が拒否反応を起こしたからなんです。もう一度この反応がでると脳のシナプスが破壊されて脳死にいたる可能性がきわめて高いのです」
「そ、そんなに危険なんですか」
「そうです」
「しかし、インプラントの時にはそんな説明は受けていませんが」
「ええ、まあ、個人差も大きいので、インプラント時にいちいち説明はしていませんが、最近とみにあなたのような症例が多発するようになりまして・・・」
歯切れのわるい説明だった。
久磨は眼の前が暗くなるのを覚えた。
《妻に促されて一大決心でインプラントしたのに、やめたほうがいいとは。パレントで冴子や祐磨と途切れがちだった会話が、また昔のように取戻せると一縷の望みを託していたのに》
彼は一気に失望の霧に包まれた。
パレント・センターを出た久磨は、大通に沿った歩道を歩いてメトロの駅へ向かった。眩いばかりの陽に照らされた街並も、彼の眼には色褪せて映った。
気がつくと彼は自宅の玄関に立っていた。どうやってメトロに乗り、どこで降りたのか、その間の記憶はなかった。
「あら、あなた遅かったわね、どこかへ寄ってらしたの」
リビングルームで冴子が迎えた。
「パレント・センターへ行ってきた」
「そうなの、で、どうでしたの」
「それが・・・」
久磨は口ごもった。
「あなた、大丈夫、顔色がわるいわ」
冴子は彼の顔を覗きこんだ。
「パレントをやめたほうがいいと言われた」
久磨の声に力はなかった。
「まあ、そうなの、やっぱり年齢的に無理なのかしら」
彼の声を聞いて、やはり彼にパレントを奨めたのはまずかったのか、と冴子は不安を感じた。
「今日は疲れた、もう休むよ」
久磨は、このままパレントを継続すると命にかかわるかも知れない、ということまでは言えなかった。
頭の芯が痺れているように感じられた。ベッドに潜りこんだが、様ざまな事が頭に浮かび、寝つかれなかった。
《僕のような症例が多くでているというのは、どういうことなのだろう、それも最近になって多発しているというのは。しかし、そういう事はマスメディアでは全く報道されていない。政府の意図で不都合な事実が隠蔽されているということなのか。もしそうなら、僕と同じような犠牲者が大勢いるということなのか》
疑問は尽きなかった。
《僕はどうすればいいんだ、命を賭してまでパレントを継続するべきなのか、それとも中止すべきなのか。しかし、中止すれば家族との会話を取りもどすという希望が失われる、どうすればいいんだ》
不安と疲労が入りまじり、やがて眠りに落ちていった。
祐磨は警察庁までメトロで四十分ほどかけて通勤していた。最近、庁内にはなにかしっくりいかない空気が流れていることに、彼は気づいていた。
久々に幸郎からパレントで連絡があり、お互いの近況につき話すことになった。金曜の夜、二人はこんじんまりとした居酒屋に席をとっていた。金曜の店は早い時間から賑わっていた。
「久しぶりだね」
祐磨がビール・グラスを上げた。
「よし、乾杯」
幸郎もグラスを上げた。
「どうだい、そっちの会社は」
幸郎はユニバーサル通信という通信社に入社していた。
「まだはっきりしないけど、問題含みのようだ」
「また問題か、どうしたんだい」
祐磨は冷酒のグラスを口に運んだ。
「そう急かすなよ、おいおい話をするから」
幸郎も冷酒をひと口呑んだ。
「もったいぶらず、早くはなせよ」
祐磨はパレントについて早く知りたいと思い、彼を急かした。
「パレントには秘密がある」
「なんだって」
祐磨は動揺した。
「パレント・システムには問題がありそうなんだ」
「そうなのか、で、どんな問題なんだ」
「システムで不適合を起こす利用者が急増してるんだ」
幸郎は眉間に皺をよせた。
「そんなことになっているのか。しかし、ニュースでもそんなことは言ってないな」
「いいか、パレントは政府とパレント同盟の一大プロジェクトだ。いまさら問題があったとは言えないんだ」
「事実が隠蔽されているってことか」
祐磨は身を乗りだした。
「ああ、それでやっかいなのは不適合で健康被害がでるのは人によってまちまちなんだ」
「どういうことだ」
「つまり、インプラントしてすぐ症状がでる人もいれば、十年後に異常がでる人もいるんだ」
「そりゃやっかいだな」
「異常に気づいたパレント同盟が秘密裡に調査を始めたという情報があるんだ」
「そんなことになってるのか」
祐磨は父親のことを思ったが口には出さなかった。
「ほんとうに問題があるのか」
彼は言葉を継いだ。
「システム自体に問題はないらしいんだ。だけど、インプラントしたシステムが脳にどんな影響があるかについては、まだ詳しい事は解からないんだ」
「パレントが実用化されてからもう十五年以上になるな」
「ところが、最近、健康被害が急増しているんだ。つまりインプラント後、相当時間を経てから異常をきたすということになるだろう」
「そうだな、しかし、そういう情報が漏れないのはどうしてだろう」
祐磨は怪訝な表情を見せた。
「政府が厳しく箝口令をしいているからな。それに異常を感じた被害者が医師に診てもらっても、医師にも原因が判らない事が多いんだ」
「これは大変なことだな。この国の人口の半数以上がインプラントをしているはずだから大混乱になりかねないな」
「そうなんだ、僕らは時限爆弾とともに暮らしているようなものなんだ」
「そうすると、僕らにもいつか異常が発生するかも知れないということだな」
「そうだ」
祐磨は一瞬、父親の事を思い、背筋が凍る思いがした。
週明け、祐磨はサイバー犯罪対策課とサイバーフォース・チーム合同で週一回開かれる会議に出席していた。
「例の件はどうなってる」
一連の報告が終わったあと、静まりかえった部屋に篠原課長の低い声が響いた。彼は三十代で警視正になり、同期のトップを走っていた。刑事畑では珍しく理系の出身で、捜査においても合理主義を徹底させていた。仕事においても私生活においても信念を貫く人物で、部下の信頼も厚かった。
「はあ、大部分はご指示どおりインプラントを受けました」
管理官は神妙な表情だった。
「大部分とうことはまだ受けていない課員がいるということだな」
篠原は出席者の顔を見わたした。
「そのお、まだパレントを拒否している課員が何名かいまして、説得はしているんですが・・・」
管理官は口ごもった。
「パレントの推進はリバティ連盟とわが政府の方針だ。インプラントをしていない課員はすぐに受けてくれ。政府の方針に従わない者はうちの課員ではない、辞めて頂いて結構」
再び篠原の声が会議室に響いた。会議の出席者は皆、黙したまま俯き、声をあげる者はいなかった。
自身のデスクに戻った祐磨は、篠原の声の迫力を思い返していた。面接試験の結果がパレントで知らされた理由がいま分ったような気がした。
その後、P同盟会長の鳥羽織はパレントのインプラントを怒涛のごとく推し進めることになった。P同盟は政府、なかでもデジタル通信省の援助の下、マスメディアの強力な宣伝で潮が満ちるように同盟員を増やしていった。同盟誌も発行され、同盟の主義主張を浸透させていくのに一役かっていた。
一方で、P同盟が勢力を伸ばすにつれて危機感を抱いた人びとがいた。彼らは危機感をばねに集団化し、反P同盟ともいうべきナチュラル・カンバセーション同盟を結成し、それはN同盟と呼ばれるようになった。N同盟はパレントのシステムに信用がおけない人、インプラントに恐怖を覚えるひと、そしてシステムを介して会話することに嫌悪と違和感を抱く人びとを静かに吸収していった。
P同盟のメンバーの多くが若年層で経済界、メディア関係に属しているが、N同盟のメンバーは中年層で学者、教育者、官僚、医師など専門職が多く、P同盟の対抗勢力として力をつけつつあった。とりわけ、インプラントの安全性に疑問を持った医師会はインプラント反対の急先鋒となっていた。実際、インプラントの安全性についての充分な臨床試験が行われず、蓄積されたデータも不完全なものだった。あまりに拙速な計画の進行に、パレント・プロジェクトのメンバーでさえその安全性に不安を覚えていたが、デジタル通信省はパレントの実施を見切り発車させた。
この実施の背景にはリバティ連盟からの想像を絶する圧力があった。リバティ連盟はメンバー国にパレント・システムの実施を強要していた。しかし、躊躇するメンバー国が多いなか、主要メンバーの日本が実施すれば他国も追随する、というのがリバティ本部の考えだった。
リバティ本部がパレントの実施を急ぐ理由はテロリスト陣営、シナーロの動きにあった。シナーロは結成以来、リバティ連盟が開発した先進技術を次つぎと盗用してきた。リバティのメンバー国にはシナーロのスパイ網が張りめぐらされ、機密情報の管理は危機的状況に瀕していた。そこで、リバティ連盟はメンバー国の全国民にパレントをインプラントし、パレントを介して交換される総ての情報をモニターする決定を下した。入手した膨大な情報を分析し、シナーロの動きを把握して先手を打つのが、リバティの戦略だった。しかし、そのような事実はメンバー国の国民には知らされていなかった。パレントにより発生した健康被害が隠蔽され、対策がとられないのは、そのような背景があった。
久磨は半年にわたって心身の不調と闘ったが、精神の危機を感じ、パレントを外した。苦渋の決断だった。しかし、彼の健康は一向に快復しなかった。家族との新しい会話を夢見ていた彼は、その望みが絶たれ意気消沈していた。
「あなた、大丈夫、このごろ元気ないみたいだけど」
リビングルームで冴子が久磨に話しかけた。
「うーん、どうももうひとつ調子がでないんだ」
久磨の声には張りがなかった。
「パレントを止めんたんだから、体調はよくなるはずなのに、へんね」
パレントを外して一か月が経ったが、一向によくならない久磨の体調に、冴子は不安を感じていた。彼女は、久磨がパレントを家族とのコミュニケーションを深める切札と考え、パレントの中止に苦渋の決断をしたことに気づいていなかった。
「もっとすっきりすると思ってたんだけど、もうひとつだね」
久磨は表情を曇らせた。
「そうね、検査の結果では身体はわるくないってことだから、気長に待つほかないわね」
トレーニング・プログラムを順調に修了し、パレントを使いこなす冴子が、久磨の苦悩を測り知ることは容易ではなかった。
翌日、久磨は雲に包まれたような頭で会社に出勤した。デスクについたものの、仕事は手につかず、気がつくと昼休になっていた。
「久磨さんも出席してくださいよ」
久磨が振り返ると、普段組合活動をしている職場委員の舞崎の顔があった。
「えっ、なんですか」
「職場集会ですよ、もー、メール見てないんですか」
「職場集会?」
「そうですよ、今日はいつもの集会とは違って、N同盟の件だってメールしましたでしょ」
舞崎は眼をむいていた。
「あっ、そうでしたか、すいません」
すでに、オフィスの奥の会議室に十数名の職員が集まっていた。
「えー、皆さんお待たせしました、集会を始めさせて頂きます。今日の議題は先ごろ結成されたN同盟についてです」
舞崎は職員の顔をみわたした。テーブルについた職員たちは熱心に聞き入っていた。
「皆さんはもうご承知かと思いますが、最近N同盟は勢力を増し、地歩を固めつつあります。一方、当職場ではパレントの浸透に危機感を持ち、反P同盟の方が多い、そこで、当組合もN同盟に加盟してはどうか、という声が上がっています」
彼は言葉を継いだ。
「賛成、すぐに加盟しましょう」
職員の一人が待っていたように声をあげた。他に何人かの職員も頷いていた。
「まあまあ、ちょっと待ってください。この同盟の概要もぜんぜん分っていないんですから。この間、N同盟に入った知りあいと話したんですが、同盟員はものすごい勢いで増えているそうです。こんど私がN同盟の本部へ行って、同盟の内容とか、組合単位で加盟できるのかとか、いろいろ聞いてきますから」
舞崎は、ざわついてきた会議のメンバーを落ち着かせようと、立ちあがって両腕を一杯に広げた。
「そういえばそうだね、私らN同盟についてなんにも知らないしね」
「そうですね、加盟するにしてもどういう団体なのか知っておくべきでしょう」
「私もそう思います、委員さんお願いしますよ」
職員の何人かが口を開いた。
「分りました、その点については、私が責任を持って調べます。それで、N同盟に特に問題がなければ、皆さん加盟に同意ということでよろしいですね」
舞崎の言葉に全員が頷いた。
久磨は全員の話を聞いていたが、N同盟とどう向き合えばいいのか分らず、黙って俯いていた。
彼が自身の席に戻ると、大北が待っていた。
「どうだった、話は」
「君はもうあの話を聞いたのかい」
「ああ、先週の集会で聞いたよ」
「世の中大変なことになってきたな。で、どうするんだ」
「まあ、N同盟には入ってもいいかなって思ってるんだ」
大北は微笑んだ。
「そうなのか」
「君も入るんだろう、会社もほぼ全員入るようだし」
「うん、まあ、多分そうするだろうけど・・・」
久磨の頭は混乱し、言葉を詰まらせた。
一週間後、久磨は舞崎とともにN同盟の本部へ向かっていた。N同盟について詳細を知りたかった久磨が舞崎に頼んで同行したのだった。本部は市の中心から電車で三十分ほどの郊外にあった。駅から十分ほど歩くと住宅街の一画に三階建ての古びた小さなビルがあり、本部のオフィスはその二階にあった。
「ようこそ、わが本部へ、わざわざお越し頂き誠にありがとうございます」
事務局長は妙に慇懃な態度だった。彼は五十代後半で、耳が隠れるほど長めの白髪をきれいに撫でつけていた。
「実は弊社の組合員がN同盟さんに興味があり、加盟を考えておりまして、ついてはお宅様の内容をご説明頂ければと思いまして」
舞崎もつられて丁寧な言葉使いになっていた。
「そうですか、それはそれはありがとうございます。私どもについてはこのパンフレットをご覧ください」
事務局長はブラックとグレイの落着いた色調のパンフレットをテーブルに置いた。
「お蔭様でこのところ加盟が急激に増えまして、現在同盟員は一千万を超えました」
彼は柔和な笑みを浮かべて言葉を継いだ。舞崎は二つ折りのパンフレットを開いてみたが、同盟について簡単な説明があるのみで、詳しい事は記されていなかった。
「あの、もう少し詳しいことを知りたいんですが、責任者のお名前とか、どういった人がメンバーなのかとか・・・」
彼は腑に落ちない表情をした。
「申し訳ありません、お尋ねのようなことは機密事項ですのでお答えできないことになっております」
「えっ、それはどうしてでしょうか」
久磨と舞崎は怪訝な表情で顔を見あわせた。
「これはあまり大きな声で申せないのですが、わが同盟は狙われているのです」
「はあ、それはどういうことでしょう」
「これは公にはなっていないのですが、わが同盟はどうやらパレント同盟に狙われているという節があるのです」
事務局長は声を潜めた。
「えー、そうなんですか」
久磨は驚いて声をあげた。
「しかし、P同盟といえば政府肝いりの団体ですよね」
舞崎も?然とした表情をした。
「そうです、ですから質がわるいんです。わが同盟が勢力を伸ばすにつれて、幹部に対する妨害と思われることが起っているんです」
「まさか、そんなことが・・・」
久磨は言葉を呑んだ。
「本当なんです、ですからわが同盟の責任者や幹部の名前なども公表していないんです。このオフィスも事務局で、本当の本部の場所は非公開なんです。狙われて危険ですから」
局長はせつせつと訴えた。
「危険ってどういうことなんですか」
舞崎が訊いた。
「政府はわが同盟の対策チームを編制したようで、幹部を監視し、ささいなことでも逮捕しようと、手ぐすねひいて待っているんですよ」
局長は表情を曇らせた。久磨と舞崎は彼の言葉にいい知れぬ不安を抱いた。
帰路、二人の会話は弾まなかった。
その夜、ベッドに入った久磨はすぐに眠りに落ちた。
「どうだ身体の調子は、すこしは良くなったのか」
地の底から響くような声がした。
「エビル、またお前か、何しに来た。僕はもうパレントを外したから用はないはずだ」
彼は声に向かって言い返した。
「そうらしいな、しかし、それで解放されたと思ったらおお間違いだぞ」
再び姿のない声が響いた。
「なんだって、どういうことだ」
「パレントが無くなっても事は終わらないってことだ。インプラントのせいでお前の脳は損傷したんだ。それで精神も次第に冒されていくんだ」
「そんなばかな、そんなことがあるはずがない」
「お前自身、気がついてるんじゃないのか。強がりを言ってられるのも今のうちだ。お前の精神は崩壊に向かう、熟れすぎた柘榴のように崩れて、そして朽ち果てるんだ」
「ほ、本当か、僕はどうすればいいんだ」
「心配はない、そうなったらこっちの世界へくればいい」
「こっち? なんだそれは、どこのことだ」
彼が闇に手を伸ばそうとしたとき、覚醒した。いま醒めたばかりの夢を懸命に思い出そうとした。パレントを外して悪夢は消え去った、と思っていた彼は途方にくれた。ベッドのうえに佇み、仄暗い空間を茫然と見つめていると、エビルの怖ろしい声が蘇り、彼は凍るような恐怖に憑りつかれた。傍らでは冴子が静かに寝息をたてていた。
翌朝、久磨は足どりも重く会社に向かった。エスカレータを降り、通勤客で混みあったメトロのホームを歩き、いつも乗る場所へ立った。次の瞬間、眼の前が闇に包まれ、意識が遠のき、彼はホームから線路に転落した。ホームがざわつくと同時に、一人の若い男が素早くホームから飛び降り、線路の真中に俯せていた久磨を担ぎあげた。その若者がホームへ近づくとホーム上から二人の男が手を差しのべ、久磨と若者を引きあげようとしたが、うまく上がれない。すると周りにいた数人の男たちも手をかしやっと二人を引きあげた。間一髪で三分おきにくる電車がホームに滑り込んできた。
救急車で病院に運ばれた久磨は、頭部打撲と腕の擦過傷のみで、たいした怪我ではなかった。しかし、意識は回復せず眠り続けた。
毎日のように冴子は病院へ久磨を見舞ったが心は重かった。回を重ねるごとに、自身が夫にパレントを奨めなければこんなことにはならなかったのに、という悔恨の情が彼女の心中に募っていった。
職場委員の舞崎は、N同盟の事務局を訪問したことを職場集会で報告した。N同盟の不自然さに、加入について白熱の議論が続けられた。数回の集会を経たうえで最終的に決をとったところ、賛否が相半ばしたが、僅差で加入賛成派が多数となった。会社の職員組合はN同盟に団体で加入した全国で初めての組織となった。これを契機に全国の企業、自治体などが団体で加入する例が急増した。N同盟はP同盟に対抗する一大勢力になっていった。
その日、祐磨はなぜか胸騒ぎ覚えた。仕事を終えると、彼は病院へ向かった。面会時間の締切ぎりぎりに病院のゲートをくぐり、病室へ入った。久磨は彼にかしずくような医療システムに囲まれて眠り続けていた。その姿はまるで脱皮を待つ未知の生物のように思えた。なんの変化もなく静かに横たわる父親を見ていると、妙に心が落ち着いた。
「お見舞ですか」
若い看護師が定時チェックに病室へ入ってきた。
「ええ、あのー、父の容体はどうなんでしょうか」
「お変わりありませんね、このまま暫く様子をみる他ないって、先生もおっしゃってます」
「そうですか、どうぞよろしくお願いいたします」
「私どもとしましては最善をつくしますからご安心ください」
彼女は会釈して去っていった。
人工呼吸器をつけた父親の顔が祐磨の頭から消えなかった。気がつくと自宅に戻っていた。どこをどういうふうに帰って来たのか、思い出せなかった。
「あら、帰ってたの」
冴子がキッチンから出てきた。
「うん、今日、病院へ行ってきたよ」
「そうだったの、お父さんどうだった」
「変りはなかったよ。お母さん、医者から何か聞いたの」
「身体的にはどこもわるくないって、パレントの後遺症らしいけど、原因は分らないそうよ」
「そうか、待つよりほかないのかな」
「あのひとにパレントを奨めたばっかりに、こんなことになってしまって・・・」
冴子は両手の拳を膝のうえにおき、涙声になった。
「お母さんのせいじゃないよ。きっと良くなるから大丈夫さ」
「このままあのひとの眼が醒めなかったら、どうしたらいいのかしら」
冴子は涙目で祐磨を見た。
「身体はわるくないっていわれてるんだから、ちゃんと治るさ」
祐磨はそう言うのが精一杯だった。
小高い丘のカフェテラスから一望できる海は、もう秋の色をしていた。
「このところなにかへんなの」
繭子は疲れた表情をみせた。
「どうしたんだい」
「知らない人からいろんなメッセージが届くの」
「えっ、パレントでかい」
祐磨は怪訝な表情を見せた。
「ええ、全然知らない人たちなの」
「で、どんなメッセージなんだい」
「なんとかを知ってますかとか、いっしょにお茶飲みませんかとか、
食事に誘いたいんですが、とか酷いわ」
「なんだ、迷惑メールの一種だな」
祐磨は苦笑した。
「迷惑メール? なんなのそれ」
「ひと昔前はパソコンでメールのやり取りをするのが主流で、悪戯メールや、なにかを勧誘するメールが多くて、迷惑メールっていわれていたんだよ」
「まあ、そうなの。祐磨とパレントで会話にするときは祐磨のことを念じるだけで会話できるけど、私を知らない人とはそんなことできないはずでしょう。私を知らない人からどうしてメッセージが届くのかしら」
「そうか、それは恐らく繭子のパレントのアドレスが漏れてるんだよ」
「えっ、そうなの、でもどうして」
「多分ハッキングさ。メール・サーバーから繭子のアドレスがハッキングされたんだ」
「えー、そうなの、いやだわ」
繭子は驚いた様子だった。
「最近、同じようなケースが増えてるみたいだね」
「そういえば友達のひとりも同じようなメッセージに困っているのよ、全くしらない人からしょっちゅうメッセージが届いて、デートしましょうとかいろいろ誘われるんですって」
「それは困ったね」
「私のほうも、もう朝から一杯来るのよ、頭痛になりそうだわ」
繭子を悩ます状況は、祐磨が思っているより深刻だった。
「しかし、一度漏れた情報はどうしようもないからね」
「祐磨はそんなことないの」
「いまのところ問題ないけど、いつやらてもおかしくないね。だけど、こんなことがもっと広がっていたら、大変なことになるな。パレント・システム全体の問題だからね」
「ほんと、そうだわ、こんな迷惑会話がこれ以上増えたら堪えられないわ、もう」
繭子は不満を顔に表した。
吹き上げてきた海風が、繭子のセミロングの黒髪をなびかせ、白い耳が露になった。
「困ったね、それじゃ、一度サイバーフォース・チームの専門家に訊いてみるよ、なにか対策があるかも知れないから」
「そうね、そうしてみてくれる」
繭子はすこしほっとして、コーヒーをひと口飲んだ。
週明け、祐磨は警察庁へ向かっていた。メトロのエスカレーターで地上に出て歩道を歩きはじめると、辺りにスピーカーの声が響きわたっていた。
「こちらはN同盟です。私たちは自然な会話を目指しています。パレントによる通信システムには反対しています。通信には従来のスマートフォン・システムによるメールを支持しています」
声は、青天の下、Qエントロピーのあるビルの前に陣取った宣伝カーから流れていた。ミニバンのルーフに設えられた台の上で、白いジャケットの三十代の小太りの男がマイクにむかって懸命に話していた。台の周りに張られた横断幕には『P同盟を解散に追い込め』、と太字で記されていた。
「パレントは欠陥品です。脳に障害を与え、やがて精神に異常を来すのです。最後には人格を破壊する怖ろしい殺人システムなのです。
P同盟も政府もそれを知りながら、ひた隠しにして普及を図っているのです。
それだけではありません。パレントの登録情報はハッキングされ、迷惑会話が氾濫し、すでに健康被害を訴える人もでています。
政府はリバティ連盟の圧力に屈したのです。国民を裏切ったのです。もう放ってはおけません、N同盟に加盟しましょう、そしてパレントを葬り去るのです」
スピーカーを持った男はもう片方の腕を振り上げた。
祐磨はスピーカーから繰り出される内容に驚いた。自身の身近に起っていることとあまりに符号していた。宣伝カーの周りに集まっていた聴衆のなかから拍手が湧きおこった。
《そうだったのか、親父のことも繭子のことも、そういうことだったのか》
祐磨はいま周りで起こっていることが漸く理解できたような気がした。
演説の声を背にしながら、彼はオフィスに入っていった。デスクに着いた途端、会議が招集された。
「今日は重大な発表があるので、諸君に集まってもらった」
篠原が口を開いた。会議の出席者はいっせいに彼の顔を見た。
「わが対策課はP同盟に協力することになった」
出席者は篠原の言葉の意味が分らなかった。
「わが課は全員パレントをインプラントしていることが選ばれた理由のひとつだ。協力課になったからには、あらゆるチャンスを捉えてパレントの普及に尽力しなければならない。捜査活動も、つねにパレントを念頭においた活動になる」
出席者はざわめいた。
「しかし、課長、パレントに肩入れするあまり、捜査に支障がでるようでは困りますが」
管理官は困惑していた。
「そうならないように、部下を指導するのが君の仕事だろう。それに、これは警察庁長官から直々の指示だ、いい加減にはできんのだ」
管理官は納得せざるを得なかった。
「長官からの指示ということは、デジタル通信省から圧力があったということでしょうか」
班長のひとりが訊いた。
「圧力がなかったとは言わんが、とにかくP同盟はデジタル通信省肝いりで立ちあげた団体だからほおっておくわけにはいかん、なにしろその背後にはリバティ連盟が控えているんだからな」
篠原は苦りきった表情をした。出席者のあいだに溜息とも諦めともとれる声が漏れた。
「それから、N同盟対策チームを設立する。勢力を増したN同盟がサイバーテロを画策しているという情報もあるから、この新チームにはしっかり仕事をしてもらいたい」
篠原の言葉に、これは大変なことになった、と祐磨は思った。篠原の話は、今しがたオフィスの外で聞いたN同盟の演説とは相いれない内容だった。
会議が終わり、出席者は部屋を出ていった。
「なにしてるんだ、お前はN同盟対策チーム兼任だ、今度はN同盟対策会議だ」
ひとり、茫然と席に残っていた祐磨に成田が声をかけてきた。
「あっ、そうなんですか」
彼に促されて、祐磨は部屋をあとにした。
別室には既にN同盟対策チームのメンバーが集まっていた。
「このチームの目的はさっき課長が説明したとおりだ。今日は、それぞれの役割分担決めることにしよう」
成田が説明を始めた。
「チーム長、その前にN同盟のことなんですが・・・」
祐磨がすかさず訊いた。
「なんだ、祐磨」
「今朝、オフィスの前でやっていたN同盟の演説を聞かれましたか」
「ああ、私も聞いた」
「あれが本当だとすればパレントは大変な代物ということになりますが」
「そうだな、話半分としても容易ならざることだな」
成田は眉間に皺をよせた。
「それでも私たちはP同盟に協力するんですか」
「N同盟の言うことが真実かどうかも分らんし、いまの時点ではどうしようもないだろう」
成田は祐磨を見すえた。
「しかし、マスメディアも公表していないことをN同盟はどうして知っているんでしょう」
祐磨は食下がった。
「私にも分らんよ、しかしな、課長は本気なんだ、警察の将来のためにもやらないわけにはいかんのだ」
成田の語気は強く、反論するメンバーはひとりとしていなかった。それぞれの担当が決まり、祐磨はN同盟に関するリバティ連盟との交渉の窓口担当となった。
その後、N同盟の活動はますます活発化し。時には過激な行動にでることもあった。
二台のミニバンがビルの前に泊まった。ビルの入口には「Qエントロピー」という社名が掲げられていた。Qエントロピーはデジタル通信省からパレント推進会社に指定され、パレントのネットワーク・システムの管理を一手に任され、大きな利益を得ていた。
何人かの通行人が、停車したミニバンに張られたバナーのN同盟の文字に脚を止め、珍しげに見ていた。まもなくビルの玄関が騒がしくなった。数人の中年の男たちがオフィスの入口でなにやら声をあげていた。
「社長はどこだ、社長に会わせろ」
あとから受付嬢が追いかけてきた。
「あの、アポイントがなければ社長にはお会いになれませんから、お帰りください」
彼女は男たちを押しとどめようとした。
彼らはかまわずオフィスのなかへ入ろうとした。
「お待ちください、だめですったら」
男たちは彼女の制止を振りきり、さらになかに入った。すると、何人かの若手の社員が彼らの前に立ちはだかった。
「社長には会えませんよ、お帰りください」
それでもオフィスになだれ込もうとした男たちを、社員たちは両手をひろげて押しとどめた。中年の男たちより若手の社員の力が優っていた。身体を張った抵抗に、男たちは侵入を諦め、なにやらぶつぶつ言いながら廊下へ出て行った。
「どうしたんだ、騒騒しい」
業務部長が部屋から出てきた。
「あっ、部長、いまN同盟の連中が社長に会わせろと言って、押しかけてきたんです」
若い社員が息を弾ませながら言った。
「なんだって、N同盟はそんなことをし始めたのか」
業務部長は動揺した。
「ええ、ここからオフィスに入ろうとしたのを、なんとかみんなで押し返したんです」
「そうだったのか、それはいかん、社長に報告しないと」
彼は表情を曇らせ、社長室へと姿を消した。
社長室はオフィスの奥まった一画にあった。
「社長、N同盟の連中が押しかけてきましたよ」
部屋に入るなり、業務部長は社長の貴山に言った。
「なに、あいつらが来たのか」
「わが社がパレント推進会社に選ばれたからですよ。彼らはこれからますます過激になるでしょう。推進会社になることを再考してはいかがでしょうか」
「いまさらそんなことはできんよ」
「しかし、社長の身が危険になるのではないかと思いまして」
業務部長は真顔だった。
「まさか、いいかね、会議でも言ったように推進会社になるということは、わが社の命運がかかっているんだ。なにがあっても止めるわけにはいかんのだ」
貴山の語気は鋭かった。業務部長は反駁する力を失った。
その後、マスメディアでパレントの様ざまな問題が報じられるようになった。インプラントしたパレントと脳の不適合による健康被害や急増する迷惑会話、それにパレント・システム自体の不具合も多発していた。その堰を切ったような報道ぶりは、これまでパレントに対する報道規制があったことを想像させるほどだった。
『パレントによる被害続出ーインプラントして半年後、全身に痺れで歩くこともままならない』
『インプラントによる脳の機能障害かーインプラント後、一年を経て記憶障害がおこり、その後鬱状態へ』
『精神障害もーインプラントにより精神状態が不安定になり、統合失調症と診断される』
『毎日大量の迷惑会話でノイローゼ状態にー一線で活躍するファッション・モデルも被害者』
新聞、インターフラッシュ、テレビなどで様ざまな被害が報じられた。
パレントの負の情報を流しているのはN同盟なのだろうか、と祐磨は思った。パレント批判の報道が人びとの耳に届くにつれて、N同盟は勢力を伸ばしていった。
P同盟は、健康被害は実際にはおこっておらず、報道は誤解にもとづくものだ、と否定したが、パレント批判が収束する気配はなかった。マスメディアを介してN同盟は攻勢を強め、P同盟は防戦一方に追いこまれた。報道は過熱気味となり、ついにパレントは国会での論戦の洗礼を受けることになった。
デジタル通信大臣と厚労大臣が答弁に立ち、パレントの利便性、有用性について主張したが、それが無害であることの検証については語られず、説得性のある答弁にはほど遠かった。野党は攻勢を強め、パレントの健康被害とその危険性につき追及を続けた。彼らの指摘はマスメディアでも発表されていない被害者個人まで特定され、情報がN同盟から流されているとしか思えなかった。野党は次つぎと被害現象を繰りだし、政府はそれに対して有効な反証を挙げることができず、次第に追いつめられていった。
事実を認めず口を噤んでしまった政府に、野党のパレント問題検証委員会は、健康被害者全員を証人として国会に招致し、証言させると言いだし、政府は窮地に陥っていた。
そんなおり、リバティ連盟のバーウイック情報通信委員が来日した。彼は連盟の情報通信分野の最高責任者だった。彼はデジタル通信大臣、厚労大臣、防衛大臣、警察庁長官などと三日間にわたり会議を繰り返した。来日の目的は情報通信政策の打合とだけ伝えられ、詳細は機密扱いとされた。
バーウイック委員の帰国後、与党と野党のあいだで秘密裡に会議が持たれたが、その内容は一切明かされなかった。この奇妙な会議のあと、国会の様相が一変した。野党はパレント問題を忘れたかのように政府の追及を止めてしまった。人びとは野党の豹変ぶりに?然とし、マスメディアは野党に殺到し取材攻勢をかけた。しかし野党の口は堅く、豹変の理由も秘密会議の内容も漏れることはなかった。
想像できることはただひとつ、リバティ連盟がパレントについてメンバー国に対して脅迫めいた圧力をかけてきた、とうことだった。忙しい日程のなかバーウイックがわざわざ来日した背景には、遅れているパレントの普及を促進するという切迫した事情があった。パレントをくまなく普及させ、総ての情報を把握し、シナーロのスパイ網を一網打尽にすることが、リバティ連盟にとって急務だった。
訪日後、バーウイックはメンバー国を歴訪し、パレントの有用性と普及の重要性を力説してまわった。この性急な行動にリバティ連盟の焦りが見てとれた。
リバティ連盟もシナーロに対抗して手練れのエイジェントを放っていた。リバティ連盟は、エイジェントの冷酷無比な活動により野党のスキャンダルを握り、彼らの国会での追及を封じ込めようとした。不甲斐ない野党はスキャンダルの暴露に怯え、あっさりと追及を諦めた。政府はリバティ連盟のいいなりになり、前にもましてパレントの普及に邁進した。
これまでパレントのインプラントは満七歳以上と法律で定められていたが、政府は五歳以上でインプラントができるようになる法改正を国会へ提出した。これにより未成年者の健康被害がでることが懸念されたが、弱味を握られている野党は反対することはなかった。
改正法は賛成多数であっけなく成立した。
リバティ連盟の恫喝的とも思える動きに対して、シナーロが対抗措置をとってくると思われたが、彼らは沈黙しなんら目立った行動は起こさなかった。不思議なことだった。
パレントの連絡窓口に選ばれ多忙な毎日を送っていた祐磨は、やっと時間を得て繭子と会っていた。
「とっても忙しそうね」
繭子は不満気だった。
「うん、そうなんだ、パレントの窓口担当になったことは話したっけ」
「えっ、なにそれ、聞いてないわ」
「うちのチームがね、政府からパレントの推進役に選ばれて、僕はその担当になったんだ」
「ふーん、そうなの」
繭子はそれがなにを意味するのか分からなかった。
祐磨は繭子の不機嫌を予想して、彼女を初めての割烹へ誘っていた。
「ここはいろんな日本酒がそろってるんだ、いろいろ試せるよ」
「まあ、そうなの、でも日本酒の名前も分らないし・・・」
「大丈夫だよ、順番に呑んでいけばいいさ」
「そうね、じゃあ、今夜はじっくり呑みましょう」
「ここの料理もいけるんだよ」
祐磨は先付の和え物を口に運んだ。
「そう、美味しそうね。ところでお父さんはどうなの」
繭子も祐磨の父親のことは聞いていた。
「変りないよ、昏睡してる」
「そう、それは心配ね」
「繭子の両親はどうなの、お元気」
祐磨は繭子の両親について訊いた。
「二人ともパレントには無縁だから大丈夫よ」
「そうか、そうだったね、うちは母親がインプラントを父親に奨めたんだ。父親は気が進まなかったんだけど」
「そうだったの、お父さんは不運だったのね」
次に運ばれてきた魚の焼き物に、繭子は箸をつけた。
「僕たちは十三歳のときにパレントをしたんだけど、これまで無事だね。繭子も身体に異常はないね」
祐磨はグラスから冷酒を呑んだ。
「ええ、ぜんぜん元気よ」
繭子は料理を頬張って微笑んだ。
「パレントをしてからもう十五年ちかく経つんだから大丈夫だとは思うんだけど、最近、インターフラッシュには十年も十五年も経ってから身体や精神に異常を感じたという書込みが載ってるようだね」
父親のこともあり、祐磨の心が曇った。
「そうね、本当にそんなことがあるんだったら怖いわ」
「うちの課長はパレントがお気に入りで、対策課はパレントにのめりこんでいるんだ。もし、これ以上パレントに問題がおこるとどうなるか心配なんだ」
「そうなの、私も会社でそのことにも注意しないといけないわね。まあ、これ美味しい」
繭子が声をあげたのは、黒味噌をつけて焼いた牡蠣だった。
祐磨は和牛の炭火焼に塩をふっていた。
「僕たちはこうやって旨くパレントしてるけど、これからこのシステムが問題なく続いていくのか、疑問を感じるんだ」
「そうなの、じゃあ、これからパレントには注意するわ」
繭子はグラスに残っていた酒を一気に呑みほした。
「大丈夫か、そんなに呑んで」
「これでお酒、三種類目かしら」
彼女は空いたグラスを置いた。
「もう四種類呑んだよ」
「あら、そんなに呑んだかしら」
彼女は無邪気に微笑んだ。
〈今日は一人になりたくないわ、ちゃんと介抱してくれるんでしょう〉
彼女はパレントで話はじめた。
〈そりゃ、いいけど、呑んでもいいって言ったのは僕だから〉
〈嬉しい、こうやって祐磨とパレントで話すのが愉しいわ、祐磨と繋がって、二人だけの世界ができるから〉
彼女は潤んだ眼で祐磨を見つめていた。
〈大丈夫かい〉
〈なんだかいい気分〉
彼女は静かに眼を閉じた。その夜、祐磨は酩酊した彼女をマンションまで送って行った。
出勤した祐磨は成田に呼ばれ、会議室に入った。五十人ほど入れる会議室で二人は向きあった。
「パレントがマスメディアに叩かれていることは君も承知してるな」
成田が低い声で言った。
「ええ、もちろんです。さんざん批判されているようですが」
「報道が真実だとすると、パレントは欠陥品と言わざるを得ない」
「はあ」
「ところがだ、厚労省もデジタル通信省もその事実を把握していない」
「そうなんですか」
「パレントの不都合なところは政府が隠蔽を図っているのかと、思っていたんだが、ども違うようだ」
「それはどういうことでしょうか」
「パレントはリバティ連盟のデジタル通信局とエクサ・ネットワークスが開発し、ソフトとハードを連盟のメンバー国に配付した、だから連盟はその欠陥も知っているはずなんだ」
「知っていて公表していない、ということですか」
「そうだ、リバティ連盟はパレントの普及を焦るがあまり、充分なテストをせずに実用化したと思われる。それで、普及するにつれて欠陥が徐徐に現れたんだな」
「これは大変なことですね」
「パレントは連盟国にかなり浸透しているから、今さら欠陥品とは言えない状況なんだろ」
「それは考えられることですね」
「そこで問題なのはシステムを開発したエクサ・ネットワークスという会社だ」
「問題というのは」
「それでだ、エクサ・ネットワークスとリバティ連盟幹部との癒着が疑われる」
「なるほど、そういうことですか」
「ワシントンへ飛んでくれ」
「えっ」
「FBIが癒着について捜査を始めている、君はその操作に協力するんだ。もっとも協力というのは表向きで、彼らの捜査の状況を把握することが目的だ」
「分りました、直ちに出張の準備をします」
祐磨は力強く応えた。
五日後、祐磨はワシントンDCに到着し、中心街に近いホテルへ投宿した。翌日の早朝、FBIのパレント捜査班のサイモン・ガーロック捜査員の運転で、彼はFBIの本部へ向かった。
本部では班長のパーマストンの出迎えをうけた。彼から二十数名のサイバータスクフォースのパレント捜査班のメンバーを紹介された後、すぐミーティングに入った。
「今日から警察庁のユウマに加わってもらう。彼は警察庁でパレントを担当している。彼の目的は、われわれの捜査状況を把握するとともにパレントの捜査に協力することだ」
四十代中頃で見事な銀髪のパーマストンはメンバーを威圧するような鋭い眼差しをしていた。
「既にご承知かと思いますが、日本ではマスメディアによってパレントの問題点が次つぎと報道されており、予断を許さない状況です。まず、パレントの真実を知る必要があります。日本におけるパレントの情報を提供しますので、パレントの実態を教えて頂きたいのですが」
ネイティブばりの英語で祐磨は発言した。
「サイモン、あとでユウマに最近の状況を教えてやってくれ」
パーマストンがサイモンに指示した。
その後、会議はパレント捜査の現状報告と今後の捜査方法について続けられた。会議のあと、祐磨は資料室にこもって過去の捜査報告を丹念に読み進んだ。報告書によれば、捜査は十五年前に始まっていた。エクサ・ネットワークスが突如パレントの開発成功を発表し、その直後に政府の承認を得たことが捜査の発端になっていた。その後、同社はリバティ連盟からも同様の承認を取得していた。
雲を突き抜けてきた鳥のように突如現れたパレントに、FBIは疑念を持った。政府の承認はあらゆる手続きを無視して行われていた。商務省のテストも受けず、保健福祉省のチェックもなく実用化が承認され、一気に普及が進んだ。エクサ・ネットワークスと政治家との癒着を疑ったFBIは秘かに捜査を始め、数名の上院議員がリストに載った。捜査員は贈収賄の可能性を追ったが、その形跡を?むことができず、半年で捜査は一旦打ち切られていた。
二年前に捜査は再開された。FBIを動かしたのはやはり健康被害だった。普及率の高いアメリカをはじめリバティ連盟のメンバー国では健康被害が拡大しつつあった。被害は身体の不調から精神障害まで多岐にわたっていた。二年間の捜査資料は膨大で、祐磨はディスプレイに釘付けとなった。
「まだやっているのか」
祐磨が振り向くと、サイモンの笑顔があった。彼とサイモンは同年齢だった。
「やあ、サイモン、捜査資料は随分大量だね、全部観るにはかなり時間がかかりそうだよ」
祐磨は疲れた眼でサイモンを見た。
「全部観ることはないさ、僕が説明してあげるから」
「そうか、そうしてもらえれば助かるよ」
「じゃあ、一杯やろうか」
サイモンは微笑んだ。
「えっ、もうそんな時間なのかい」
「もうとっくに勤務時間終わってるさ」
「そうか、あんまり資料が多いから時間を忘れてしまったよ」
二人は本部から歩いて十分ほどのパブに入った。
「ここへはよく来るのかい」
カウンターに坐り、祐磨が訊いた。
「ほとんど毎日さ、ここはビールが旨いんだ」
「へー、それはいいな、僕もビール党だから」
「店主がドイツ人だからアメリカのビールとは一味違うんだ」
「じゃあ、仕事の成功を祈って」
運ばれてきた生ビールで乾杯した。祐磨の喉一杯にビールのスモーキーな香が広がった。
「資料はだいだい眼を通したのかい」
サイモンはビールグラスを置いた。
「一応、全部読んだけど、短期間で捜査は中止になったようだけど、どうしてかな」
「もう随分前のことで僕が直接関ったわけじゃないけど、政府とエクサ・ネットワークスの契約があまりに性急に成立したから、うちのチームは怪しいと睨んで、対象人物を入念に洗ったそうだ」
「容疑者の特定はできなかったんだな」
「そのとおり、政治家の手口は巧妙だからな、一筋縄ではいかないよ」
「今回、捜査が再開されたのはどうしてなんだ」
「ここ一年で健康被害が頻繁に報告されて、政府も放っておけなくなったのさ、公衆衛生局も調査を始めたようだし」
「そういうことか、それでFBIも急遽パレント捜査班を立ち上げたってわけか」
「そういうところだ、どうだい、このソーセージ旨いだろう、これもドイツ仕込だ」
サイモンは炙ったウインナソーセージを頬張った。
「本当に旨いね、これならいくらも食べられそうだ。捜査の見通しはどうなんだい」
「それだけど、暗いね」
「なんだ、随分悲観的だな、捜査はまだ始まったばかりだろう」
「そう、だけど、犯罪行為があったとすれば十五年以上も前の事だ、
証拠や証人を捜すのも望み薄だ」
「そうだな、しかし、眼をつけた捜査対象はいるんだろう」
「ああ、いることはいる」
「それは誰なんだ」
「上院議員のマカッシーだ」
「彼はパレントに関れるポジションにいたのかい」
「当時、彼は商務長官として情報通信政策を牛耳っていて、パレント導入に最も影響力を持っていたんだ」
「充分に調べたんだろうな」
「もちろん、その当時、徹底した調査が行われたが、立件には至らなかった」
「そうか、政治家の手口は巧妙かつ狡猾だからね」
「それに、もうひとつの問題はエクサ・ネットワークス社長のイコノフだ」
「イコノフといえばエクサ・ネットワークスの創業者で辣腕経営で知られた男だな」
「そう、奴には贈賄の嫌疑がかけられたが、立件はまたしても見送りになった」
「金の流れが?めなかったのか」
「奴はタックスヘブンに多額の資金を貯えている、マネーロンダリングもお手のものだ、尻尾を?むのは至難の業だ」
「あれもこれも行き詰って、ギブアップか」
「そのようだな」
「で、今度はどんな手立てで迫ろうというんだ」
「いまイコノフはバージョンアップしたパレントの承認を得ようと、保健福祉省に手をまわしているんだ」
「そうか、そこで奴が新しい動きにでたら、そこを押えようというわけだな」
「そういうことだ。先週、バージン諸島にあるエクサ・ネットワークスの口座から二百万ドルの送金が確認された」
「賄賂用の裏金だな。それで、どこへ送金されたんだ」
「ロンドンの金融特区の口座だ」
「そうか、そうするとそこを経由してどこに送金されるのか?めるのか」
「いまエクサ・ネットワークスの財務担当者にアプローチしている」
「しかし、口を割らせるのは難しいだろう」
「既に女性のエイジェントが食い込んでる」
サイモンは声を潜め、にやりとした。
「ふーん、ハニートラップだな」
祐磨は軽く頷いた。
「ああ、その財務担当者はイコノフの信任を得て、若くして隠し金を扱う責任者になったんだ。彼は女性エイジェントに骨抜きになっている。彼から送金ルートを聞きだせれば証拠を押さえられる」
サイモンはグラスのビールを呑み干した。
ほろ酔い加減で、祐磨はホテルへ帰った。ベッドに横になったとき、パレントに反応があった。
〈ユウマ、私よ〉
明るい声が脳中に響いた。
〈やあ、ジュリアン、元気かい〉
〈とっても元気よ、ねえ、時間とれる〉
〈うん、大丈夫だ、週末に会えるかい〉
〈いいわよ。わたしも会いたいわ〉
週末、祐磨は空路ボストンへ向かった。乗機は一時間ほどでボストンのローガン空港に到着した。
「ハイ、ユウマ、ここよ」
到着ロビーを出口に向かって歩いていた祐磨に女性が声をかけた。
「やあ、ジュリアン」
祐磨もその女性を見つけ応えた。
「ユウマ、元気そうね、よかった、また会えて」
ジュリアンは真珠のような肌をライトブルーのワンピースで包み、再会の喜びを笑顔で表した。彼女はハイスクールで同窓だった。十年ぶりの再会だった。
「ジュリアンも元気そうだね」
肌はより輝きを増し、身体は成長した果物のようにすこし丸味を帯びたかに、祐磨には思えた。
「ねえ、お腹すいたわ、ランチしましょう」
「僕もだ、どこかいいとこあるかい」
ジュリアンの運転で二十分ほど走り、郊外のレストランへ入った。午後の柔らかな陽光が射しこむレストランに客はすくなく、閑散としていた。
「今日は週末だから空いてるわ、いつもは満員なの」
「そうか、ここはなにが旨いのかな」
「ここは魚料理がお得意よ」
「じゃあ、魚のソテーにしよう」
「いいチョイスね、私もそれにしよう」
「仕事のほうはどうなんだい」
ジュリアンは中堅の投資銀行に勤務していた。祐磨は彼女と時折パレントで連絡をとっていたが、サイバーフォース・チームに異動してからは仕事に追われ、彼女とは疎遠になっていた。
「景気が良くなって順調よ、ボーナスも一杯もらっちゃった」
ジュリアンの口許から白い歯がこぼれた。
「それじゃ、このランチおごってもらおうかな」
「いいわよ、でも高いディナーはユウマ持ちよ」
二人は顔を見あわせて微笑んだ。
「いいけど、僕は公務員だからボーナスはしれてるからな」
「そうだったわね、ユウマが警察官になるとは思わなかったわ。知らせを聞いたときには驚いちゃった。てっきりビジネスマンになると思ってたのに」
「うーん、そう思ってたんだけど、大学に入って、金儲けだけで一生終わっていいのかなと疑問を持ったんだ」
「それで警察官に」
「そう、なにか社会に貢献できることはないかって考えると、軍人か警官じゃないかと思ったんだ、だけど、軍人になるほどの勇気はないしね」
祐磨は眼を伏せた。
「そう、一大決心をしたわけね。こんどの出張は何かの捜査なの」
ジュリアンの眸が動いた。
「実は、いまパレントを担当してるんだ」
「まあ、そうなの、パレントはいろいろと問題が言われてるわね」
「健康被害もでているそうだね」
「ええ、システムに欠陥があるんじゃないかってもっぱらの噂よ」
「そうか、もう噂にまでなってるんだ」
祐磨はサイモンの話を思い出した。
「でも、政府はそれを認めようとしないの。調査も始めないし、奇妙な話だわ」
「それじゃ、日本と似たような状況だね」
「あら、そうなの、それなら日本とアメリカになにか共通した秘密でもあるのかしら」
「多分そういうことだね、そのへんを捜査するのが今回の目的なんだ」
「まあ、そうだったの、で、捜査はどこまで進んでるの」
「うーん、そんな捜査情報はちょっと・・・」
「あら、そうよね、警官には守秘義務があったのよね」
ジュリアンは可愛く微笑んだ。
「日本では健康被害が広がって、国会でも問題になってるんだ」
「そうなの、でもここじゃそこまで問題化してないわ、議会で議論されてもいないし」
「ジュリアンのパレントはどうなの、大丈夫なのかい」
「ええ、問題ないわ、ユウマのは」
「問題ないよ、順調さ」
「そう、よかった。でもインターフラッシュでは、精神に異常がでたっていう書込みが多いみたいよ」
「日本も同じさ、だから人によって適応できる人とそうでないひとがあるんじゃないかって思うんだ」
「そうね、私もそう思うわ、一番厄介な状況よね」
「そうだね、精神面の病理を証明するのは難しいからね、政府も効果的な手を打てないのかも知れない」
「私たちは今のところパレントを使えてるからいいけど、これからも大丈夫なのかしら」
ジュリアンは言いながら、一瞬不安を感じた。
「どうなんだろうな、インプラントしてから十五年以上経ってから身体に変調をきたした人もいるしね、考えればきりがないさ」
「そうよね、ところでここの料理はどうだった」
「いけてる、旨かったよ」
「よかったわ、気に入ってもらって」
レストランを出て、ふたたびジュリアンの運転で北へ向かった。
一時間ほど走ると、祐磨はいつか見たような景色に包まれていた。
「あれっ、ここは・・・」
祐磨は運転するジュリアンの横顔を見た。
「そうよ、私たちのハイスクールよ」
ジュリアンも祐磨を見て微笑んだ。
二人はこのハイスクールの新入生として出会った。
車を降り、二人は校庭へ脚を進めた。広大な敷地は公園のような佇まいを見せていた。校舎に沿ったマロニエの並木はかすかに山吹色に染まりはじめていた。校舎の正面玄関に向かって暫く歩いて、ベンチに腰かけた。
頭上には純白のエンゼル・トランペットの大きな花が開いていた。
その甘い芳香が祐磨を想い出へと誘った。
十月の校庭には秋の爽やかな風が渡っていた。一日の授業が終わり、新入生が流れるように校庭へ出てきた。
「やっと終わったわ」
ジュリアンが祐磨と歩きながら言った。
「授業って、退屈だな」
祐磨が不満気に応えた。
「ねえ、ピクニックしない」
「いいね、どこへ行こうか」
「マウント・アークがいいわ」
翌朝、ジュリアンが自宅の二階の窓から覗くと、新品のオートバイにまたがって待っている祐磨が見えた。
「おはよう、はやいのね」
笑みを浮かべて、ジュリアンが玄関から出てきた。
「遅い、遅い、早く乗って」
祐磨が彼女を急かした。
「免許取立てでしょう、大丈夫」
ジュリアンが後ろのシートにまたがりながら言った。
「免許は取立てでも以前から乗ってるから問題ないさ」
祐磨が頸を後ろにひねって応えた。
「まあ、ユウマったら」
オートバイは腹に響く轟音とともに走りだし、住宅街を抜け、フリーウェイを疾走した。なだらかな緑の丘陵地帯を一気に駆け抜け、やがて森林地帯へさしかった。フリーウェイをそれ、小径に入り、祐磨はオートバイを停めた。潤いのある冷気が二人を包んだ。
「静かね」
オートバイから降り立ったジュリアンが辺りを見わたした。
「本当だ、それに空気が冷たくて寒いくらいだ」
二人は下草を踏みしめながら、森のなかを歩きはじめた。夜露を含んだ草で脚が濡れた。気づくと、あたりはすっぽり霧に包まれ、視界が利かなかった。
祐磨はあたかも森に道が刻まれているように、黙って歩き続けた。ジュリアンもなにも言わずあとを追った。霧が厚さをまし、木立の幹さへ形を失い始めた。それでも祐磨はなにかに導かれるように歩みを進めた。二人が疲れを覚えたとき突如霧が晴れ、視界が戻った。開けた森の彼方に褐色の急峻な山が見えた。その独峰は微光を背景に薄雲を纏いながら天空を突いて聳え立っていた。二人は魅入られたように、その荘厳な姿を眺めていた。
「すごい山だな、神様の山かな」
祐磨がようやく呟いた。褐色に沈む無樹の岩肌を露出させて、森林から屹立する山は神秘的にさえ見えた。
「何だか怖いわ、神様じゃなくて悪魔が棲んでるみたい」
ジュリアンは祐磨に寄りそい、彼の腕を?まえた。
二人は見つめあい、祐磨はジュリアンを抱き寄せた。彼女の身体は心なしか震え、彼女の恐怖が祐磨に伝わるように感じられた。
帰路、二人は終始無言だった。山の精に追いやられるように、オートバイは疾駆した。ジュリアンの自宅に着き、祐磨は彼女を抱きかかえるようにして、玄関のドアを押した。
「あら、ジュリアン、どうしたの」
奥から出てきた母親が驚いてジュリアンの手をとった。
「ちょっと気分が悪くなったみたいです」
母親が祐磨をみたので、彼が応えた。
「大丈夫よ、お母さん、なんでもないから」
自宅に戻り、ジュリアンは緊張が解けたようだった。
「どこへ行ってたの」
「マウント・アークよ」
「まあ、そんなとこへ行ってたの、あそこへ行っちゃいけないって言ってたでしょ。ユウマ、どうしてあんなところへジュリアンを連れていったの」
母親は声をあげた。
「ちがうのお母さん、私が誘ったの」
「えっ、あなたが、どうしてまた」
ジュリアンの言葉に、母親は動揺した。
「ごめんなさい、ちょっと行ってみたかったの」
ジュリアンは困った表情を見せた。
「以前話したでしょう、あそこで人が死んでるのよ」
「ええ、それはお母さんから聞いて知ってたわ」
「あそこで人が死んだんですか」
祐磨には未知の話だった。
「まあ、立ってないでお坐りなさい」
母親の言葉で二人はダイニング・テーブルに着いた。
「はい、どうぞ」
彼女はコーヒーをカップに注いだ。
「ユウマはここに永く住んでたわけじゃないから知らないわよね、もう十年も前になるけど、あの山にハイキングに行った若い女性が行方不明になったの」
「女性が一人であんなところへ行ったんですか」
祐磨は怪訝な表情をした。
「ええ、どうして一人で行ったのか分らないんだけど、道に迷ったらしいの。それで、捜索隊が出て五日後に彼女を発見したんだけど、その時にはもう衰弱して死亡してたの」
「そんなことがあったんですか、その女性はこの町の人ですか」
「ええそうよ、それで、ご両親は悲嘆にくれて町を出て行ってしまったわ。それ以来、あの山は悪魔の山と呼ばれてるのよ」
祐磨とジュリアンは顔を見あわせた。
母親の話で、彼はジュリアンが覚えた恐怖のわけが解かったような気がした。
頭上をよぎる野鳥の羽音で、祐磨はわれに返った。
「あら、どうしたのユウマ」
ジュリアンが不思議そうに訊いた。
「えっ、あー、いま昔のことを思いだしていたんだ」
「昔って、子供の頃のこと」
「いや、そうじゃなくて、ジュリアンと出会った頃のことさ」
「そうだったの」
「それに、マウント・アークのことも」
「なんだ、それだったら昔のことじゃないじゃない」
「えっ、どういうこと」
「だって、その山に一緒に行ったのは一週間前でしょう」
ジュリアンは少女のような笑みを浮かべた。
「えっ、・・・」
祐磨はジュリアンの言うことが理解できず、彼女の顔を見つめていた。
「どうしたの、へんな顔して」
「ジュリアン、僕たちがあの山へ行ったのはもう十年以上前のことだよ、大丈夫かい」
彼はジュリアンの顔を覗きこんだ。
「いやだわ、なに言ってるの、あそこへ行ったのはつい最近よ、それで母に叱られたじゃない」
ジュリアンはふたたび微笑んだ。屈託のない彼女の笑顔を見て、一瞬、祐磨は背筋が凍りついた。そして、彼の頭に父親の姿が浮かんだ。祐磨は、時折記憶が相前後し、混乱し、苦しんでいる父親の姿を幾度となく見ていた。もし、ジュリアンがそうだとすれば、これは大変なことだ、と祐磨は思った。
「ジュリアン、気分はどうだい」
祐磨は優しく訊いた。
「全然いいわよ、山に行った時はどういうわけか、身体が自分のものじゃないみたいになっちゃったの、でももう大丈夫」
「そう、よかったね。ねえ、久しぶりにジュリアンの家に行ってみたいな、お母さんにも会いたいし」
「あら、このあいだ会ったとこなのに。いいわよ、じゃあ、これから行きましょう」
二人は車に向かった。
「僕が運転しよう」
「あら、ありがとう」
三十分ほどのドライブでジュリアンの自宅へ着いた。綺麗に手入れされた前庭ではペチュニアやビオラが色とりどりの花を咲かせていた。
「ただいま、ユウマが一緒よ」
玄関を入ってジュリアンが奥に向かって言った。
「あら、ユウマ、元気そうね、何年ぶりかしら」
母親がキッチンから出てきて、祐磨、の両手をとった。
「お母さんもお元気そうで、なによりです」
祐磨もにこやかに応えた。
母親の肌はやや赤みを帯び、皺が浮いた顔は流れた歳月を感じさせた。
「ユウマったら変なの、山に行ったことを昔のことのように言うのよ」
ジュリアンは微笑んで、母親を見た。次の瞬間、母親の顔色が変わった。
「ジュリアン、またでたのね、大丈夫」
母親はジュリアンを見つめ、彼女の両肩に手をおいて、身体を揺するようにした。
ジュリアンは母親に焦点を失った眼差しを向けていた。
「またっていう事は、前からジュリアンはおかしいんですか」
祐磨は困惑気味に訊いた。
「・・・実は、このあいだからジュリアンがおかしいの」
母親は不安の表情を浮かべた。
「一体どうしたんですか」
「彼女、時々、記憶が混乱するみたいなのよ。それで、過去と現在が入れ替わったりしてるの」
「そんなことがあるんですか」
祐磨は戸惑った。
「このまえなんか、突然、子供のようになってしまったの、そうそう、あれは、あなたと初めて出会う前のジュリアンだったわ。それでなにが起きたのか分らなくて驚いたわ」
「それでどうなったんですか」
「翌日にはもとに戻ったの、でもそのことはジュリアンは全然思い出せないって言うのよ」
「そうなんですか」
「こんどはなにが起ったの」
「ジュリアンの意識がハイスクール時代に戻ったようなんです。あのマウント・アークに行ったのは先週だった、と言いだして」
「そうなの、あの時、ジュリアンはとっても怖がっていたから、そのことが心に刻まれていたのかも知れないわ」
「なにがきっかけでこうなったんでしょう」
「それが、分らないの、ある日、突然始まったのよ」
原因も分らず、母親は不安を訴えていた。
「元に戻る時は自然に戻るんですか」
「そうよ、彼女自身知らないまに戻るみたいだわ」
ジュリアンはソファにかけ、虚空を見つめながら静かに佇んでいた。彼女を人形のように操っている物の正体は、パレント以外には考えられなかった。しかし、どう説明すればいいか分らず、祐磨はパレントのことは母親には言えなかった。
「でも、もしジュリアンの意識がずれたまま戻らなかったら、どうしようかと思うと・・・」
母親は両目に涙を一杯浮かべて、不安を訴えた。
「お母さん、心配はいりません、ジュリアンは必ず快復しますから」
思わず母親の手を握った祐磨は、そう言うほかなかった。
カリフォルニアの日没は遅く、午後九時を過ぎてようやく夜の帳が降りはじめた。
「お疲れ様、乾杯しましょう」
ライラはゴブレットを持ち上げて言った。
「うん、乾杯だ」
エクサ・ネットワークスの財務担当者、クリフはオールドファッショド・グラスを上げた。
「ひと仕事終わったんでしょう」
ライラはストローでカクテルをひと口呑んで、微笑んだ。
「そう、いま一段落したところさ」
クリフもグラスからウイスキーを口に運んだ。
「どんなお仕事だったの」
「こんどの仕事は秘密だから言えないよ」
彼は自身の仕事の重要性と危険性にについて充分理解していた。
「あら、大変なお仕事なのね」
「君を信用していないわけじゃないけど、いまわが社の将来を決める重要なプロジェクトが進んでいるんだ」
「そう、あなたはそのキーマンなのね」
「まあ、そうかな」
「旨くいったらサラリー、増えるかしら」
「君らしい質問だね、そう、多分そうなるさ」
「まあ、嬉しい。あなたの力になりたいの、私にできることがあったら言ってね」
ライラの瞳はもう潤んでいた。
「ああ、だけど、ひと区切りついたから大丈夫だ」
「そう、よかったわ、今日はおおいに呑みましょう」
ライラは空になったグラスに氷を入れウイスキーを注いだ。
「今日お昼間、通りにあるブティックを覗いたら、素敵なドレスがあったの」
彼女は甘い声をだした。
「なんだ、それが欲しいのか」
この女はいつもこうだ、とクリフは思った。
「鮮やかな色使いのデザインで、私に似合いそうなの」
速いペースで呑んだせいか、ライラの眼はもう充血しかけていた。
「君ならなんでも似合うと思うけどね」
「そんなことないわ、あのドレスがいいの」
ライラはだだをこねるふりをした。
「分ったよ、買ってやるよ」
「わー、嬉しい」
彼女は両手を広げ、大げさに喜びを表した。
「クリフ、もっと呑んで」
クリフのペースも速かった。ライラは空いたグラスにまたウイスキーを注いだ。
二人はグラスを重ねていった。
「クリフ、どうしたの、もう酔っちゃったの」
広いリビングルームで、ライラが甘い声で囁いた。部屋の中央の大きなテーブルに置かれたゴブレットが蝋燭の灯で宝石のように輝いていた。
ソファにかけたクリスの身体は力を失い、頸を背もたれのうえにぐったりと載せていた。
「ねえ、大丈夫、寝ちゃったの」
ライラはクリフの傍らにぴたりと寄りそい、耳元で声をかけた。彼女の声に応えることなく、クリスは深い寝息を立てていた。ライラがウイスキーに混ぜた睡眠薬が効いていた。
彼女はクリフが寝入っていることを確かめると、しなやかな身のこなしで階段を上り、二階の部屋へ向かった。部屋には鍵がかかっていたが、彼女がピッキング用具を使うとドアは簡単に開いた。なかに入った彼女は迷うことなく、デスクのよこに置かれた鞄を引き寄せた。それはクリフがいつも肌身離さず持ち歩いている見馴れた鞄だった。鞄に鍵はなく、彼女はなかの分厚い書類を全て取り出し、デスクに並べ、カメラで撮影し始めた。書類は相当の量で、撮影に三十分ほどを要した。
書類をもとどおり鞄に戻し、彼女はリビングルームに戻った。クリフは相変わらず深い寝息を立てていた。無邪気な表情で眠り込んでいるクリフの姿を見ていると、このまま別れてしまうのは忍びないと思った。体の芯で頭をもたげ始めた三十二歳の女の本能に危険を感じた彼女は、踵を返し玄関へ向かった。
車でクリフ邸を後にし、アクセルを踏み込むと彼女の頭にほろ苦い記憶が蘇った。
ライラは二年前クリフと出会った。偶然の出会いではなかった。サイバータスクフォースの命令を受け、彼女はクリフに近づいた。
エクサ・ネットワークスの創立二十周年記念パーティーに取引先と称して出席した。
パーティーはロサンジェルスのリッツカールトンで開かれた。
檀上でのイコノフの嫌味なほど自信に満ちた挨拶が終わると、立席パーティーが始まった。
ライラはなんの迷いもなく目標であるクリフに素早く接近し、身体を接触させた。その拍子に手に持ったグラスから飛び散ったスプリッツアーがクリフのスーツを濡らした。
「あっ、ごめんなさい」
ライラは声と同時に純白のハンカチを取りだし、彼のスーツを拭いた。
「あー、大丈夫ですよ、たいしたことありませんから」
クリフの眼前にライラの美しい顔があった。
「本当にごめんなさい、私って慌て者なんです」
一瞬にして、クリフはライラの虜になった。
パーティーのあと、彼はライラをバーに誘った。その日、ライラは誘われるままにクリフと一夜をともにした。
ライラはサマーホリデイをクリフとバハマで過ごしていた。宿泊したのは白亜の殿堂のように豪奢なリゾートホテルだった。プライベートビーチに面した五階の部屋のベランダからは南洋の陽光を一杯に浴び、紺碧に輝く海が見わたせた。
朝食のあと、二人はビーチに下りると、見わたす限りホワイトベージュの砂浜がどこまでも伸びていた。引き出した白いデッキチェアを寝かせ、二人は隣り合って寝そべっていた。
外海から打ちよせる波が、はるか彼方のアウターリーフに白いフリルのように砕けていた。
「綺麗な海、見ているとなんだか吸い込まれそう」
抜けるような青空の下で、彼女は総てを忘れたいと思った。
「リラックスできるだろう」
クリフはかけたサングラスをすこし持ち上げた。
「あなたと来て本当によかった」
ライラはクリフに顔を向け、微笑んだ。
「ところで、ここはどういう土地柄か知ってるかい」
「どういうって、リゾートでしょう」
「もちろんそうだけど、別の顔があるんだ」
「えっ、それってなんなの」
「タックスヘブンさ」
「あらそうなの、それって税金逃れに利用するってことよね」
「そのとおり」
「あれっ、クリフの会社も利用してるってことなの」
「時折ね」
「でも、それって法律違反じゃないの」
「難しいところだな」
クリフは、ふっと笑った。
「えっ、違反じゃないの」
「違反とも言えるし、そうでないとも言える」
「えー、さっぱり分らないわ」
「下手をして摘発されれば違反になるかもしれないし、見つからなければ違反にはならない」
「へー、そんなことでいいのかしら」
「問題ないよ。タックスヘブンといえば、すぐさま犯罪行為のように言われるけど、世界中の国や企業がやってることさ」
「まあ、そうなの」
そう言って、ライラははっとした。
「まさか、こんどここに来たのも仕事なの」
ライラはクリフに向きなおって言葉を継いだ。
「そういうこと」
クリフはにやりとした。
「まあ、私はついでだったの」
ライラは声を上げた。
「そうじゃないさ、誤解しないでくれよ、君とここに来たかったんだ、仕事が入ったのは偶然さ」
「本当にそうなの、怪しいな」
彼女は悪戯っぽく微笑んだ。
「仕事は明日、午前中にかたずくから大丈夫だ」
「そう、それなら許してあげる、ねえ、熱いわ、泳ぎましょうよ」
灼熱の太陽が二人の肌を焼いていた。
「よし、じゃあ、泳ぐか」
二人はホワイトベイジュの柔らかい砂を踏んで海に入っていった。遠浅の海を暫く泳ぎ、暖かい海水に包まれて二人は抱き合った。
逗留二日目には、二人の皮膚はすっかり赤銅色に焼けていた。指で触れても痛い肌で、五日間の逗留のあいだ、ライラとクリフは、ベッドで毎日抱き合った。
クリフは若かったが、ビジネスにおいて天賦の才を持っていた。サイバータスクフォースの命令でクリフに近づいたライラだったが、なにごとにも精力的に挑むクリフに惹かれて行った。人生の愉しみ方を知っているようなところも魅力的だった。
エクサ・ネットワークスは蓄積した巨額の利益を世界各地のタックスヘブンを利用して、税金逃れをしていた。税務当局から逃れた利益は裏金として情報通信関係の政治家へと流れていた。
バハマから帰ってからも、ライラは毎日のようにクリフに接触した。それは、情報を得るためクリフの生活パターンと習慣を把握するのが目的だった。
クリフは早朝から深夜まで働きづめで、会うことすら難しかった。そこで、ライラは深夜、彼の仕事が終わるのを見計らって、自宅を訪ねることが日常になっていた。そんな逢瀬がもう半年ちかく続いていた。彼女は時間も忘れて仕事に打込むクリフの身体を心配したが、彼はタフで止めどなく働き続けた。そんなクリフにますます惹かれていく自身を、彼女はどうすることもできなかった。
車のスピードが上がり、彼女は現実に引き戻された。次の瞬間、反対車線から一台の大型車が彼女の車めがけて突進してきた。彼女はとっさにその車を避けようとしたが、ヘッドライトが眼に入り、眼が眩んだ。闇雲にハンドルを切り、彼女の車は車線を外れ崖の下へと転落していった。
週明け、祐磨が出勤したサイバータスクフォースは騒然としていた。
「なにかあったのかい」
祐磨がサイモンに訊いた。
「ライラが死んだ」
「誰だい、それは」
祐磨は要領を得なかった。
「ライラはうちのエイジェントだ」
「この間話していた例のエイジェントか」
「そうだ、彼女はエクサ・ネットワークスに食い込んでいたんだ」
「ライラっていうのか、で、死因は」
「交通事故だ、崖から転落した」
サイモンは唇を結び、苦悶の表情を浮かべた。
「どうしてまた、そんなことに」
「事故は見せかけだ、殺されたんだ」
「なぜそう思うんだ」
「彼女は財務担当者の自宅を訪問する前に、証拠が?めそうだと言ってたんだ、証拠を?んだから殺されたんだ」
「警察はどう言ってるんだ」
「現場には彼女の車のブレーキ痕があったと言っている。それに、目撃者によれば、猛スピードでぶつかりそうになった車がいて、それは事故のあとなにもせずに逃走したらしい」
サイモンは沈痛な面持で説明した。
間もなくパレント捜査班の緊急会議が開かれた。
「ライラはどこまで接近していたんだ」
班長のパーマストンが口を開いた。
「その日、相当確実な証拠が得られる、と彼女は言っていました」
サイモンが応えた。
「そうか、どんな証拠だ」
「送金ルートを示した書類だと思われます。それに彼女のカメラが無くなっています」
「それなら、間違いなく殺されたんだろう」
「私も同意見です」
「警察の捜査では埒があかんだろう、サイモン、クリフに事情を訊きに行ってくれ」
パーマストンはサイモンに強い視線を送った。
「しかし、班長、そんなことをしたら、われわれが動いていることをイコノフに悟れてしまいますが」
サイモンは疑問を返した。
「イコノフはそんなことは百も承知だ、だからこそライラはやられたんだ。すぐにかかってくれ」
「分りました」
サイモンは納得した。
「よし、たのむぞ。ほかの者は今回の事件の容疑者リストを作成してくれ」
会議は早早に終了した。
「おい、付きあってくれ」
会議室をでたところで、サイモンが祐磨に声をかけた。
「いいのかい、僕が行っても」
「ああ、班長の許可は取った。すぐに出発しよう」
二人は夕方のフライトでサンフランシスコへ向かった。エクサ・ネットワークスの本社はシリコンバレーの中核をなすサンタクララにあった。サンフランシスコ空港から市内に続く道路は、通勤時間帯で混みあっていた。渋滞に堪え、タクシーが市内に入るころ、漸く空が暮れてきた。チェックインした二人はホテルのバーで呑むことにし、最上階のバーへ陣取った。
「ライラは気の毒なことになったね」
祐磨はオールドファッションド・グラスからウイスキーを舌のうえへ運んだ。
「ライラは・・・」
言いかけて、サイモンは言葉を詰まらせた。
「どうかしたのか」
祐磨はサイモンの異様な雰囲気を感じとった。
「じつは、ライラと付きあっていたんだ」
消入るような声だった。
「なんだって、彼女はパレント捜査班のエイジェントだったんだろう」
「ああ、そうなんだけど・・・」
「そんなこと許されないだろう、規則違反じゃないか」
祐磨は語気を強めた。
「そんなことは分ってるさ」
「一体、いつからなんだ」
「三年前」
「どうして知りあったんだ」
「彼女はニューヨーク市警にいたんだ」
「警官だったのか」
「ああ、パレント捜査で市警の協力を依頼した時に知ったんだ」
「それで交際が続いたのかい」
「彼女と仕事をするうちずばぬけて優秀なことが分って、サイバータスクフォースに引抜いたんだ」
「そうだったのか」
「そのころパレント捜査班が組織され、ライラも班に配属になったんだ。しかし、パレント捜査は尋常の手段では無理だということになり、特殊な役割を果たす人材が必要とされたんだ」
サイモンはストレートに話すことを憚った。
「つまり、法律違反もものともしないスパイが必要になったってわけだ」
「・・・そこで、彼女は一旦FBIを退職したうえで、エイジェントとして契約したんだ」
サイモンはショットグラスのウイスキーをひと呑みにして、咳きこんだ。
「こんどのことは君がやらせたのか」
「そういうことになる、もちろん班長の許可は取った」
「許可とか、そういう問題じゃないだろう、そんな過酷な任務をどうしてやらせたんだ」
「彼女が希望したんだ」
「なんだって、信じられないな」
「僕も信じられないよ、しかし思い当たる節はあるんだ」
「えっ、なんだそれは」
祐磨もグラスのウイスキーをぐいっと呑んだ。
「じつは、彼女の父親は三年前に死んでるんだ」
「それがなんの関係があるんだ」
「父親はハドソン川に身を投げて自殺したんだ」
「そうだったのか」
「そこで自殺の原因として唯一考えられるのがパレントなんだ」
「どうしてだ」
「父親は大学教授で、中年になってからパレントをインプラントしたんだ。それ以来体調を崩して、近年は精神も不安定になっていたらしい」
サイモンの話に祐磨の頭に父親のことが過った。
「そうなのか」
「だけど、パレントによる精神異常かどうかは、いまのところ証明のしようがないだろう」
「そうか、そういうことで彼女は無理な任務を引受けたのか」
「これは全くの偶然なんだ、僕は彼女の父親のことは知らなかったんだ」
「偶然っていうのは怖ろしいな」
「本当にそうだ、彼女がまさかあそこまでやるとは思ってもみなかったんだ。彼女がクリフに接近し始めると、僕との付き合いを避けるようになってしまったんだ」
サイモンは眼に涙を一杯にうかべ大声で泣き出した。
「おいおいしっかりしろよ」
静かなバーにサイモンの泣声が響き、周りの客が好奇の眼を二人に向けた。祐磨はサイモンの肩を叩いたが、彼は泣き止むどころかますます大声で泣き続けた。彼の声にははかり知れない哀しみが感じられた。
翌朝、二人はレンタカーでシリコンバレーにあるエクサ・ネットワークスの本社へ向かった。同社はサンタクララ郊外の広大な敷地のなかにあった。ゲイトで入念なチェックを受け、ガラスで覆われたビルの玄関脇に駐車し、なかへ入った。受付で身分を示し、クリフへの面会を申し出た。間もなく秘書と思われる若い女性が現れ、長い廊下を進み、応接へ案内された。
「豪華な応接だな、よほど儲けてるんだ」
二日酔いで酷く痛む頭を抱えてながら、サイモンが言った。
「徹底的に追及してやるさ」
祐磨は唇を結んだ。
二十分経ったが、クリフは姿を見せなかった。
「随分待たせるな、そんなに忙しいのかね」
サイモンは不満気だった。
「できれば会いたくない、ということじゃないのか」
その時、ドアがノックされクリフが入ってきた。
「やあ、ようこそ、クリフと申します。FBIの方がなんのご用でしょうか」
彼はにこやかに微笑み、テーブルに着いた。
「お忙しいところありがとうございます。きょうはライラさんのことでお伺いしたいことがありまして」
サイモンは待たされた苛立ちを抑えて訊いた。
「ライラ? 誰でしょう」
クリフはとぼけて応えた。
「クリフさん、知らないはずはないでしょう、彼女とは二年前からお付合いされていたでしょう」
「さあ、お話がよくわかりませんが」
彼はあくまで白を切ろうとした。
「クリフさん、とぼけても無駄ですよ、週末、ライラさんと自宅で会われていましたよね、いつものように」
サイモンは鋭い眼差しを向けた。
「・・・」
「週末、あなたの自宅を訪ねた女性を見たという証人もいるんですよ、事実を仰ってください」
「分りました、確かにライラと会いました」
クリフは観念したように溜息を吐いた。
「そうですか、お認めになるんですね」
「ええ、会いましたよ」
「その日の帰り道、彼女が交通事故に遭い死亡したのも、もちろんご存知ですね」
「ええ」
クリフは眼を伏せ、眉間に皺をよせた。
「われわれは事故の原因を調べています、なにか原因についてごぞんじですか」
「なんですって、私が知っているはずがないでしょう、あの日、彼女はかってに帰っていったんですから」
「ほう、かってにね、お二人の間になにかあったんですか」
「なにもありませんよ、まさか私を疑ってるんですか」
「いや、そういうわけではありませんが、あなたが彼女に会った最後の人物ですからね」
「いい加減にしてください、あの事故は自損事故でしょう、彼女が運転を誤って自ら転落したんじゃないんですか」
クリフは苛立ちを露にした。
「ですから、申し上げたとおり原因は調査中です。あの日、彼女の様子はどうでした、なにか変ったことはなかったですか」
サイモンはクリフの不快感を無視するように問うた。
「なにもありませんよ、いつもどおりでした」
クリフの忍耐は限界に達していた。
「そうですか、どうもお忙しいなかご協力ありがとうございました」
サイモンは彼の忍耐を見はからって聴取を終わらせた。
《あいつらはなにしに来たんだ。あのもったいぶった物言いからして、あいつらは何かを知っている。それにしても、彼女との関係を把握しているようだが、一体どうしてそんなこと知ったのか》
そこまで思い至って、クリフは背筋が凍てついた。
《あいつらと彼女に関係があったとしたら・・・、これは大変なことだ、これをイコノフが知っていたとすれば・・・。そうだとすれば、彼女の事故の原因は・・・》
翌日、クリフが不安に苛まれながらデスクに着いていると電話が鳴った。
「ちょっと来てくれ」
イコノフだった。
クリフは長い廊下を急ぎ脚で進み、エレベーターで最上階にある社長室へ向かった。ドアの脇に坐っている秘書に軽くウィンクして室に入った。
「お呼びですか」
「やあ、クリフ、仕事は順調かい」
大きなデスクの向こうで、イコノフはクリフをにこやかに迎えいれた。
「はあ、まずまずです」
クリフは身体を硬くして応えた。
二人はソファで相対した。
「昨日、FBIが来たね」
「はい、来ました」
「なにしに来たんだね」
「・・・」
「女のことだな」
「どうしてそれを」
クリフはそれだけ言うのが精一杯だった。
「こんなこともあろうかと、監視をつけていたんだ。だが、心配せんでいい、もう手は打った」
イコノフが鋭い視線を送った。
「そ、そうですか、ありがとうございます」
クリフはうなだれた。
「危うく重大な情報が漏れるところだった。今回は運良く難を逃れたが、こんなことは二度とは許されんぞ。女にはもっと注意するんだな」
イコノフの語気の強さに、クリフは言葉を失った。
「社長、お約束の方が来られました」
クリフと入替りに秘書が客を案内して入ってきた。
サイモンと祐磨だった。
「時間をとって頂きありがとうございます。お忙しいと思いますので、早速本題へ入りたいと思います」
サイモンが口火を切った。
「FBIか、十五年前にも君たちの事情聴取を受けた記憶があるんだがね、今度は一体なんのご用かな」
耳を隠すほどの長さの黒髪を綺麗に撫でつけ、イコノフは黒革のソファに深々と腰を下した。三十代でエクサ・ネットワークスを立ち上げ、十五年で巨大IT会社へ育てた彼には風格さえ感じられた。
「週末にクリフさんの知合いの女性が事故で死亡されたことはごぞんじですか」
「クリフの知合いが・・・、知りませんな」
「その女性はクリフさんの自宅からの帰り、無謀運転の車を避けようとして崖から転落したのです」
祐磨が言葉を継いだ。
「そうですか、その女性のことも一向に知らんし、答えようがありませんな」
イコノフはあくまで冷静だった。
「しかし、クリフさんは彼女との関係を認めていますよ」
「その女性は不運だが、クリフのプライベートなことまで関知していないんでね、全く分りませんな」
イコノフのガードは固かった。
「そうですか、ごぞんじありませんか」
サイモンの質問は攻め手を欠いていた。
「君たちはなにか勘違いしているようだね」
イコノフは二人を揶揄するよう笑みを浮かべた。
「どういう意味ですか」
祐磨が問い返した。
「私は政治に関心はない、政治は嫌いだ」
「それでは、何に関心をお持ちですか」
サイモンが真顔で訊いた。
「世界を変えることだよ、ネットワークが世界を変える、いや人類を変えていく。ネットワークが人類を進化させるんだ、どうだ信じられるかね」
「それはどういうことですか」
サイモンは訝った。
「パレントはその魁だ。まだ幼稚レベルだが、それでもパレントをインプラントした人間の脳のシナプスは既に変化し始めている。素晴らしいとは思わんかね」
「しかし、リバティ連盟があまりにも性急にパレントを普及させたため、最近では健康被害が報告されてますよ」
「大事の前の小事だ。世界がパレントで結ばれることを想像したまえ。わずかな犠牲など枝葉末節だよ」
「それでは、犠牲者は救われません」
祐磨は語気を強めた。
「パレントはこれから進化し続ける。進化したパレントと人間の脳は相互に刺激しあい、脳をも進化させる。ディバイスと人間がITで結ばれるんだ、あたかも身体器官のひとつのようにな。リバティもシナーロもない、パレントは人類への福音だ。人類の全ての脳と脳を結びつける。パレントは人類を救う究極のシステムだ」
口をはさむ間もなく、イコノフは長広舌をふるった。自信に満ちて語る彼の姿は宗教家を思わせた。
「そういうお考えですか」
二人はイコノフの迫力に圧倒されていた。
「パレントの真実を知りたかったらリバティ連盟にあたるべきだ」
イコノフが呟くように言った。
「リバティ連盟の誰に訊けばいいんですか」
祐磨がすかさず訊いた。
「連盟のデジタル通信のボスと言ったら分るだろう」
イコノフの言葉に、祐磨の頭にバーウイックが浮かんだ。これ以上の聞きだすことは無理だと判断し、二人はイコノフの室をあとにした。
FBI本部に帰った二人はパーマストンに調査の結果を報告した。
「クリフはライラとの関係を認めましたが、事故の真相については知らないようです」
サイモンが説明した。
「そうか、彼女の殺人計画は極秘に進められたんだろう、イコノフはどうだ」
パーマストンが訊いた。
「それが、なにを尋ねても口を割らず、取りつく島がありません」
サイモンは歯切れがわるかった。
「私も以前取調に加わったから、やつの人となりは分っているつもりだ。あいつはタフだ、一筋縄ではいかんが、ちゃんと問い詰めたんだろうな」
パーマストンの眼が光った。
「はあ、やるにはやったんですが」
サイモンは俯き加減で唇を噛んだ。
「あれ以上追及しても無駄でしょう、それに、かえって警戒されます」
祐磨が言葉を継いだ。
「うむ、まあそれもそうだ」
「それより班長、聴取の終わりに、イコノフがリバティ連盟のバーウイックのことを口にしたんです」
サイモンが思い出したように言った。
「バーウイックがどうしたと言うんだ」
「彼がパレントの真相を知っているようなことを言ったんです」
「しかし、バーウイックは行政側の人間だからな。パレント政策の決定権限もないし、収賄には縁遠い位置にいるはずだぞ」
パーマストンはサイモンの話しが腑に落ちなかった。
「そういえばそうですね、バーウイックはなにかに憑りつかれたようにパレントの普及に邁進していますが、たしかになんの権限もありませんね」
祐磨もイコノフの言葉の真意を捉えかねていた。
「しかし、イコノフの言葉を無視するわけにもいかんな。これまでバーウイックは捜査圏外だったが、彼を一度洗ってみてくれるか」
「分りました」
サイモンは即座に応え、会議は終了した。
忙しいサイモンに代わり、祐磨はバーウイックの調査にあたった。データベースで基本的な経歴をチェックしてうえで聞き込み調査に移った。彼の経歴は非の打ちどころがなく見事なものだった。大学卒業後、彼はアメリカの商務省に勤務した。その間に、在日アメリカ大使館にコマーシャル・アタッシェとして駐在し、帰国後、三十五歳の若さでデジタル通信政策の責任者になった。その後、リバティ連盟が結成されると、連盟のデジタル通信局の局長に就任し、パレント・システム普及の責任者となった。
疑問を抱かせる経歴はなかったが、彼は学生時代のいち時期、左翼運動に身を投じていた。それが唯一気になる経歴だった。
「やあ、どうだい調査のほうは」
資料室でデータベースを漁っていた祐磨にサイモンが声をかけてきた。
「うーん、色々調べたけどバーウイックに不審なところはないね。ただ、彼がなぜ気が狂ったようにパレントに普及に熱心なのか、疑問が残るね」
祐磨は諦め顔だった。
「やっぱりそうか、そうするとイコノフは謎の言葉を発したことになるね」
「そういうことだな」
二人は顔を見あわせた。
掌を返したようにパレント問題の追及を放棄した野党に、マスメデイアは懸命の取材を試みたが、野党は応じることはなかった。野党の議員は見事に箝口令の網で縛られていた。マスメディアはリバティ連盟の本部にも取材攻勢をかけたが、連盟は野党との接触を強く否定し、そこで取材は頓挫していた。
月のない漆黒の夜空の下、板塀に囲まれた料亭は静かな佇まいをみせていた。坪庭の見える奥まった一室では密やかな話が続いていた。
「バーウイックさん、あなたがおっしゃるようにリバティ連盟の情報が漏れているとすれば大変なことですね」
ユニバーサル通信の記者、村地は困惑していた。彼はパレントを十年以上にわたり取材してきたベテラン記者だ。野党の不可解な沈黙の鍵を握るのはリバティ連盟にちがいない、と確信した彼は取材のチャンスを窺っていた。メンバー国を歴訪したのち、バーウイックが隠密裡に再び来日することを知った彼は、バーウイックのホテルをつきとめ、取材を申し込んだ。意外なことに、バーウイックは村地の取材を承諾した。外信部の後輩の幸郎も取材に同席していた。
「情報漏洩は確実に起こっとるんだ。漏洩元と思われる人物を通してシナーロに偽情報を流して確認したところ、彼らはそれに反応したからね、疑う余地はない」
「その漏洩元は一体誰なんですか」
村地は声を潜めた。
「それは今の段階では言えんな。機密事項だから」
「しかし、このままではリバティ連盟の情報が漏れてまずいんじゃありませんか」
「大丈夫だ、手は既に打ってある」
「どういうことですか」
「これはここだけの話だが、日本政府に流す情報を選別することにしたんだ」
「選別する・・・、それはつまり重要な情報は知らせないということですか」
「想像にお任せする」
バーウイックは巧みな箸さばきで料理を口に運んだ。
「しかし、連盟本部はメンバー国に必要情報を知らせる義務があるんじゃないですか」
村地は食下がった。
「ケース・バイ・ケースで検討する」
「バーウイックさんは和食がお好きで日本酒もいけるようですね」
村地は話題を変えた。
「うむ、和食も日本酒もとっても旨いね、日本に来るのが愉しみなんだ」
バーウイックは微笑んだ。
「ところで、漏洩元というのは野党の国会議員ですね」
幸郎が口を開いた。
「否定はせんが、それが誰かであるかは言えんな。いまその人物を特定すると様ざまな影響が考えられるから」
バーウイックの口は堅かった。
しかし、永年パレントを取材してきた村地にとって、漏洩者を推理することは難しいことではなかった。
「分りました。名前は訊かないことにしましょう。リバティ連盟はそのスキャンダルをネタに野党を黙らせた、ということですね」
村地はバーウイックの顔色を窺った。
「野党の皆さんには事実を伝えたよ。情報管理は徹底せねばならんからな」
彼のストレートな問いにも動揺せず、バーウイックはあくまで冷静だった。
「シナーロの動きはどうですか、一杯喰わされたと知って、報復措置をとるんじゃないですか」
幸郎がさらに問うた。
「いまのところ目立った動きはないが、いまの情報源が役立たずになったのだから、早晩、代わりの協力者を仕立てることになるだろうな」
バーウイックはグラスの日本酒を旨そうに呑んだ。
「シナーロがリバティ連盟の科学技術をエイジェントを使って盗んでいるようですが、パレントの技術もかなり盗用されているんじゃないですか」
「開発初期のころは随分やられたがね、核心部分については機密は守られている、心配するレベルではないんだ」
バーウイックは自信ありげに鼻髭に触れた。
「しかし、シナーロはパレントの普及に随分神経をとがらせているようですが」
村地もグラスを口に運んだ。
「それはそうだろう。パレントの普及率が高くなり、連盟内のコミュニケーション・ネットワークが完成すれば情報漏れもなくなるだろうからな」
「しかし、ネットワークが完成してもハッキングされるんじゃないですか、現に利用者は迷惑メッセージに悩まされていますよ」
「いま起っているのは天才的な愉快犯によるハッキングで組織的なものではない。まもなくパレント向けの多層防御による新しいセキュリティ・システムが稼働する。そうなれば迷惑メッセージなどはなくなるだろう」
「そうですか、その新システムに期待したいですね。それと、もうひとつ気になるのは、N同盟のことですが、これについてはどうですか」
「うむ、そのN同盟は目下最大の気がかりだ。N同盟の背後でシナーロが動いているのは間違いないんだが、その関係については分っておらん」
「調査は進めておられるんでしょうね」
「もちろん、やってはいるんだが、N同盟というのは自然発生的に生れたようで、その起源もはっきりしないんで難航しとるんだ。あなたは記者だ、これからN同盟についての情報を流してほしいんだが」
バーウイックはよほどN同盟についての情報不足に悩まされているんだろう、と村地は思った。
「そうですね、これを機にP同盟とN同盟の情報を交換することにしましょう」
三人は互いに微笑みあった。
三か月のアメリカ出張を終えて、祐磨は帰国した。早速、サイバーフォース・チームで報告会が開かれた。
「アメリカの状況はどうだった」
成田が口を開いた。
「パレントに対する見方は日本とほぼ同じです。健康被害も最近とみに増加しマスメディアが騒ぎだし、FBIも放っておけず捜査に本腰を入れ始めました」
祐磨はアメリカで見たままを報告した。
「そうか、だいたい予想どおりだな。捜査の焦点はやっぱりイコノフだな」
成田が返した。
「それが、イコノフはやはりガードが固くてなかなか攻め込めません」
「そうだろうな、タフな男だと聞いてるよ」
「それに、私は彼がパレント問題のキーマンとは思えないんです」
「なに、それはどういうことだ」
成田は祐磨の言葉に意表をつかれた。
「聴取したときに、彼は政治には興味がないって言ったんです」
「それは単なるジェスチャーだろう」
「そうとも思えないんです。彼は自身の野望を滔滔と話したんですが、彼にとって関心があるのはITによる世界支配なんです」
祐磨の言葉は熱を帯びていた。
「一体どういうことだ」
成田には祐磨のいうことが理解できなかった。
「彼はなんというか、並外れた野望家なんです」
「うむ、それは分らんでもないが」
「彼の考えは単にパレントに止まらないんです」
「どういう意味だ」
「彼によれば、パレントはこれからますます進化し、人間の脳までも変化させていく、というんです」
「そんなばかな」
チーム員のひとりが思わず声をだした。
「いや、あながち無視もできんぞ」
成田がそのチーム員を制した。
「将来、パレントの進化型によって総ての人類の脳と脳が結ばれる、とも言いました」
「・・・」
会議は沈黙した。
「もっとも気になることは、彼が聴取の最後に言ったことです」
「なんだそれは」
成田が気をとりなおしたように口を開いた。
「パレントの真相を知りたかったらリバティ連盟のバーウイックに訊け、というんです」
「バーウイックだと、あんな官僚の権化みたいな男が真相を知っているというのか」
成田は顔を紅潮させた。
「はあ、イコノフが言ったことの真意は不明ですが、いまFBIはバーウイックの調査を続けています」
「そうなのか、あんな官僚に一体なにができるというんだ」
イコノフの言葉は成田の想像力を超えていた。
「ところで、N同盟の動きはどうなりましたか」
日本の状況を?めていない祐磨が訊いた。
「状況は悪化している。N同盟はますます増長してきた。P同盟を支持する政府としては強力な対応策とらねばならん。明日、対策会議を行うのでみんな準備をしておいてくれ」
混乱した頭で、成田は会議を終わらせた。
バーウイックはニューヨークのリバティ連盟の本部にいた。時刻は午後十時を過ぎ、灯のともった彼の部屋が暗闇のなかに浮かんでいた。彼はデスクのディスプレイでパレントの普及状況をチェックしていた。ディスプレイにはリバティ連盟のメンバー国別にパレントの普及状況が映しだされていた。数字を追うと、ヨーロッパ、北アメリカは順調に普及が進み六十パーセント以上の普及率を示していた。
普及率が一向に伸びない国がひとつあった。日本だった。日本の過去の普及率のグラフを見ると、パレントが実用化された初めの三年はかなり普及率を示したが、その後普及は低迷していた。
《まったくなんて国だ、ほかの連盟国は素直に普及率を高めてきたというのに、この国だけはなにかと難癖をつけて普及率が上がらない。飛びぬけて用心深いのか馬鹿なのかさっぱり分らん、わけの分らん国だ。上からはうるさくせっつかれるし、やってられないな》
彼は嘆息した。そのときスマートフォンが鳴った。
「あなたまだお仕事なの」
妻だった。
「ああ、君か、もうすぐすませて帰るよ。準備はできたかい」
彼は妻と旅行に行く計画をしていた。それは思いつきで計画した旅行ではなかった。数か月前から周到な準備をしてきたのだ。彼から旅行の話を聞いたとき、妻は奇異に感じた。結婚以来仕事に追われて、夫が自ら旅行の計画など立てたことはなかったからだ。齢をとって夫の考えも変わったものと思い、彼女は喜んでいた。
「ええ、もう準備はできたわ、あなたはどうなの」
彼女は声を弾ませた。
「うん、仕事のほうもなんとかなりそうだ、心配はいらん」
妻を安心させてスマートフォンをおいた。旅行をひかえたバーウイックに唯一気がかりなのが日本の普及率の低さだった。
バーウイックはパレントをインプラントしていなかった。妻にもパレントはさせていなかった。これほどパレントの推進に執着するバーウイック自身がパレントの使用者でないことは不思議なことだった。
デスクを片付けて仕事を終えようとしたとき、メールが入った。メールは旅行の日程につき詳細を問い合わしていた。出発場所、到着場所、到着時間など細かい点まで確認を求めていた。彼は厳しい表情に戻り、詳細をスマートフォンで送信した。
彼は車を三十分ほど運転して帰宅した。
「あら、お帰りなさい」
彼は、リビングルームから出てきた妻と抱擁した。
「仕事も一段落だし、旅程も決まったよ」
彼は笑みを見せた。
「よかったわ、いつも忙しいから本当に旅行に行けるのか、心配だったのよ」
妻も白い歯で微笑んだ。
「ねえ、ところでどこへ行くの」
妻は行先を知らされていなかった。
「それはあとのお楽しみ」
「あら、早く知りたいわ、ねえ、教えて」
「だめだよ、あとでびっくりさせてやるから」
バーウイックは妻を諭すように言った。
「まあ、意地悪」
妻は駄々をこねるふりをした。
「向こうに着いたら暫くはゆっくりできるだろう。君にもこれまで苦労をかけたけど、これからは愉しんでほしいだ」
バーウイックは真顔だった。
「まあ、あなたらしくもない、本当にいいのかしら」
妻はこれまでにない夫の態度に戸惑った。しかし、夫の厚意に嘘はないと思った。
『パレントを追放しましょう。パレントは悪魔のシステムです。あなたが気づかぬまにあなたの身体を侵し、そして精神をも蝕んでいくのです。これはパレントの普及を熱心に推し進めるリバティ連盟の陰謀なのです。リバティ連盟は人体に有害であることを承知で、パレント・プロジェクトを推進しているのです。このプロジェクトは、私たちの生活の利便性を高めるためではなく、すべての情報をチェックすることにより、シナーロへの情報漏洩を防ぐためなのです。
みなさんもご承知のとおり、インターフラッシュには連日パレントによる健康被害が掲載されています。被害の報告はすべて事実です。これがパレントの真実なのです。
政府はリバティ連盟と結託し、国民の健康を蔑ろにしてパレントの普及を推進しているのです。政府のこのようなやり方は許されるものではありません。あなたの周りでパレントを強く奨める人物がいたら警戒すべきです。それはリバティ連盟のエイジェントでしょうから。
私たちが国際政治の対立に巻き込まれる謂れはありません。私たちは私たち自身の命と健康を守らなければなりません。
私たちの運動の趣旨を理解したうえで力をあわせてパレントを追放しましょう。
―ナチュラル・カンバセーション同盟(N同盟)』
N同盟は全国紙とインターフラッシュに広告を掲載した。政府がひたすら隠蔽してきた事実が白日の下に晒されることになった。事実を知らされていなかった多くの人びとは、この広告に刮目した。石油開発会社の舞崎もそのひとりだった。彼は久磨と一緒にN同盟の本部を訪ねたことを思いだした。久磨がインプラントのディバイスを外した後も長期入院している理由が、舞崎はようやく分ったような気がした。
貴山は広告の内容を予想していた。政府のパレント推進本部と折衝を重ねる過程で、パレントの危険性を薄薄感じとっていたが、それがついに正義の洗礼を受けた、と彼は思った。
パレント同盟の本部で、彼は鳥羽織と相対していた。
「N同盟の広告をどうご覧になりました」
貴山が訊いた。
「ああ、あれか、あれはまずいな」
鳥羽織は苦りきった表情をした。
「しかし、N同盟はあんな高度な情報をどこから入手したんでしょうか、普通では得られないと思うんですが」
「そのとおりだ、パレントの絡繰りを知っているのは政府高官とわれわれP同盟の幹部だけのはずなんだが、一体どこから情報が漏れたんだ」
鳥羽織は苛立っていた。
「こんなことが公になった以上、このままでは済みませんね。政府はどういう手を打つつもりなんでしょうか」
これからどういう事態になるのか、貴山には想像すらできなかった。
「明日、パレント推進本部で緊急対策会議が開かれる。そこでなんらかの策がでると思うんだが、どういうことになるのか、わしにも全く分らんよ」
鳥羽織は困惑の表情を見せた。
「わが社ではパレントをすることが必須条件なんです。パレントを拒否して辞めていった社員もいます、パレントを中止するようなことになったら大変です」
パレントの将来に不安を感じた貴山は懸命に訴えた。
「もちろんそうだとも、わしだってパレントを諦める気はないぞ」
「対策会議ではパレントの推進が失速しないようお願いします」
「うむ、わしも精一杯やるつもりだ」
鳥羽織はゆっくりと頷いた。
パレント対策会議はその後数回を経たが、実のあるアイディアはみられなかった。パレント推進本部がとくに神経を尖らせている情報漏洩についても、公安部が捜査を進めているが、事実は解明されていなかった。そうしたなか、シナーロのサイバー攻撃は先鋭化していった。シナーロは最先端のIT知識を持ったサイバーテロ部隊を編制し、リバティ連盟各国を攻撃していたが、最近はその部隊を増強し、ますます攻勢を強めていた。
主だった政府機関のホームページは軒並み攻撃され、システムがダウンしたり、コンテンツが改ざんされたりしていた。なかでも深刻なのは防衛総省だった。防空司令部のネットワークが攻撃され、一時、レーダーシステムがダウンし、索敵不能となった。
民間企業も防衛産業やエレクトロニクス産業の大方は攻撃目標となり、機密情報がハッキングされる事態となった。
これに対し、リバティ連盟もシナーロ陣営にサイバー攻撃で報復した。リバティ連盟も大規模なサイバー部隊を組織していたが、驚いたことに、リバティ連盟の攻撃の三割程度はシナーロのセキュリティシステムにより防御され、攻撃は阻止されていた。
シナーロはリバティ連盟のITシステムをスパイすることにより、新しいセキュリティシステムを開発したものとみられ、リバティ連盟はそのことに大きな衝撃を受けた。ここでも情報漏洩の問題が黒い影を落していた。
リバティ連盟はスパイ問題について大がかりな捜査を始めたが、情報の漏洩ルートの特定は難航した。しかし、捜査の途上、ひとつ奇妙な事実が浮かび上がった。
政府や企業の多くのコンピュータシステムが攻撃を受けたにもかかわらず、パレント・システムだけはまったく攻撃された形跡がなかった。最も神経を尖らせているパレントを、シナーロが攻撃目標としなかったことは大きな謎として残った。
リバティ連盟の外交委員会は、シナーロのサイバー攻撃を激しく非難したが、シナーロはサイバー・テロリストによるものとして、その事実を認めず、逆にリバティ連盟のサイバー攻撃を非難した。
サイバー空間の闘いは決着がつかず、非難の応酬はエスカレートし、事態は限りなく武力衝突に近づいていった。
サイバー攻撃の問題が浮き彫りになったせいで、パレント対策会議では、後向きの意見がみられるようになった。パレント・システムが攻撃されたら、その機能を失うばかりか、人的被害が続出する。取り返しがつかないことになる前にパレントを中断すべき、というのが消極派の意見だった。
パレント・システムは現に問題なく安全に運営されている、と推進派は反論したが、今後パレントが標的にならないという保証はどこにもない、と消極派は主張した。双方の意見は歩み寄れず、対策会議は膠着状態に陥った。
リバティ連盟の警告にもかかわらず、シナーロのサイバー攻撃は止まることなく拡大していった。攻撃目標は製造業からサービス業にまで及んだ。大手銀行、スーパーやコンビニのネットワークシステムも攻撃され、システム異常を繰り返すようになり、日常生活にも支障がで始めた。システム障害で銀行間の決済が滞ったり、個人の口座から現金を引き出せなかったりすることが頻発した。また、ネットワークシステムが破壊され、在庫管理やレジでの対応ができないコンビニもあった。日常生活に欠かせないシステムの信頼性が揺らぎ、人びとの心に疑心暗鬼の輪が水紋のように広がっていった。
Qエントロピーのコンピュータシステムも攻撃を受け、パレント・システムがいつダウンしてもおかしくない状態へ陥っていた。
鳥羽織からパレント対策会議の状況を聞いた貴山は、官僚やパレント同盟の幹部たちの不甲斐なさに憤りを感じていた。現下のシステム障害の問題も、政府のサイバーセキュリティ対策の遅れが主因だった。政府は遅ればせながらサイバーセキュリティ・センターを立ち上げたが、時既に遅く、対策が後手後手に廻った結果が現状だった。優柔で不明な政府のおかげで自社の業務も中断され、彼は苛立ちを覚えざるを得なかった。
祐磨は繭子と会い、コーヒーショップに席をとっていた。
「もう大変だわ」
繭子は口を尖らせていた。
「どうしたんだい」
「このあいだ銀行のATМでお金を出そうとしたら、うまくいかないの、それで何回か画面にタッチしたらいきなりキャシュが百万円もできたの、そしたら銀行の人が飛んできて、なにをしたんですかって、もう、私なんにもしてないのに」
「そうだったのか、面白いね」
祐磨はコーヒーカップを口へ運びながら笑った。
「まあ、面白くなんかないわ、祐磨はなにかトラブルはないの」
「そういえば、このあいだメトロに乗ろうとしたらカードが改札機に拒否されて、駅員に言ったけどうまくいかなかったんだ」
「それでどうしたの」
「キャッシュを持っていなかったんで、しかたなくクレジットカードを使ってタクシーで帰宅したんだ、大損害だよ」
「そうだったの、祐磨も被害者ね」
繭子はレモンティーをひと口飲んで微笑んだ。
「それで、思ったんだけど、もし電車を管理するネットワークシステムがサイバー攻撃されたらやばいじゃないかって」
祐磨は眉をひそめた。
「それ、どういうこと」
「こんどのトラブルは単に改札を通れなかっただけだけど、もし電車を運行管理しているシステムが攻撃されたら、電車の運行状況が把握できなくなって、事故につながる可能性がでてくるんじゃないかな」
「そう言えばそうね」
繭子もやっと事の重大性に気づいた。
「電車だけじゃないよね、ほかに重要なシステムはたくさんあるだろう、それらが攻撃されたら一体どうなるんだろう」
祐磨は表情を曇らせた。
「重要なシステムって」
「いろいろあるさ、社会インフラなんかそうだろう」
「たとえばどんなもの」
「電気や水道、それにガスの供給を管理するシステムなんかさ」
祐磨は自身の言葉に緊張がみなぎっているのを感じた。
「それなら通信システムもそうよね」
「繭子の言うとおりだ、だけどインターフラッシュも使えるし、それに・・・」
〈僕たちはこうやって話せるよね〉
祐磨は会話をパレント経由に切換えた。
〈そうね、ちゃんと話せるわ〉
〈通信システムはいまのところ大丈夫のようだね、パレントも使えるし〉
〈よかった、パレントさえあれば安心、いつでも祐磨と話せるから〉
〈しかし、どうしてパレントだけ攻撃されないんだろう〉
〈パレントのセキュリティシステムが効いているんじゃないの〉
〈だけど、それは考えにくいな〉
〈あら、どうして〉
〈なぜなら、最近は最新のセキュリティに護られているサーバーも攻撃を防ぐことができないんだよ。パレントだけが安全というのは奇妙な話だな〉
祐磨は肘をついた両手を胸の前で組み、眼を閉じた。
〈いやだわ、それじゃ、そのうちパレントもやられるのかしら。パレントでいつも祐磨との繋がりを感じているのに〉
繭子の表情は、パレントが使えないことへの不安を訴えていた。
〈もしパレントがだめになったら、こうして会えばいいじゃないか〉
祐磨は軽く応えた。
〈そんなのだめ、いつもいつもそばに感じていたいの〉
窓から射し込むオレンジ色の夕陽のなかで、繭子は眸を潤ませていた。
帰宅した祐磨を待っていたのは冴子の悲鳴だった。
「もー、大変だったのよ」
「どうしたんだい」
「今日は、朝から電気が止まったり、ガスが止まったりして」
「ふーん、まだ止まってるの」
「電機とガスはさっき回復したみたい、だけど今度は水道がおかしいの」
「えー、そうなの、じゃあ、ご飯できないの」
祐磨は夕飯の心配をしていた。
「まあ、お腹空いてるの、大丈夫よ、もう仕度してあるから」
母親の笑みで、祐磨はほっとした。
次の瞬間、彼は自身の言葉を思いだし、不安に駆られた。
「ねえ、電気やガスがおかっしっていうのはこの辺りだけ」
「さあ、どうなのかしら、さっきまでテレビもインターフラッシュも見られなかったから分らないわ」
祐磨は自分の部屋へ入り精神を集中し、パレント経由でインターフラッシュのニュースをチェックした。
『今日、午後から電力会社やガス会社のネットワークシステムが断続的にサイバー攻撃を受け、電力とガスの供給に支障が出ています。デジタル通信省によれば、この支障は全国におよんでいる模様です。懸命の復旧作業が行われていますが、完全復旧の見通しはまだたっていません』
心配していたことが起った。シナーロの全面攻撃が始まったんだ、しかし、総てがシナーロの仕業とは特定できないため、リバティ連盟も政府もシナーロを名指しで批難することさえできないんだ、と祐磨は思った。
次はなんだろう、鉄道システムだろうか、まさか原発が狙われたら・・・。彼は恐怖に駆られながら想像を巡らせた。
〈祐磨、そっちはどうなの〉
繭子がパレントで訊いてきた。
〈ああ、繭子、こっちは大丈夫だ、そっちはどうだい〉
〈電気が止まってたんだけど、もう回復したみたい、でも怖いわ〉
彼女の言葉には心細さが滲み出ていた。
〈大丈夫さ、なにかあったらすぐ連絡するんだよ〉
〈でも、祐磨の言うとおりになりそうね。パレントがあるからこうしてお話できるけど、もしこれがなくなったら大変だわ〉
〈今のところパレントは支障ないようだから安心して〉
祐磨はリビングルームに戻った。
「ねえ、お父さんは大丈夫なのかな、病院からなにも連絡なかった」
彼は父親のことがにわかに心配になった。
「ええ、なにも連絡はないわ、病院は電力のバックアップ・システムを持っているし、一番安全じゃないかしら」
「そうか、そうだね、問題があれば連絡が来るはずだね」
「明日、様子見に病院へ行ってみるわ」
翌日、冴子は病院へ行くことができなかった。祐磨も出勤できなかった。メトロが止まっていたのだ。全国の幹線鉄道の多くが止まっていた。運行管理システムがサイバー攻撃を受け、安全運行ができないと判断した鉄道会社は運転を見合わせていた。
貴山はいつもどおり車で出勤した。鉄道の運行停止でほとんどの社員は出勤できず、社内は閑散としていた。静かな社長室のデスクで、四十歳になった彼は昔のことを思いだしていた。QエントロピーはITベンチャー企業としてスタートした。創業当時は小さなオフィスで、数名の若い社員たちと寝食を忘れて革新的なソフトの開発に邁進していた。
仕事に熱中するあまり、付きあっていた女性も彼のもとを去っていった。その時は、世界から放りだされるような寂しさを味わったが、それでも彼は仕事への執念を失うことはなかった。画期的なネットワーク管理ソフトを開発し、会社は順調に発展してきた。高精度のネットワーク技術が評価されてパレント関連の取引が始まり、これから一段の飛躍が期待された矢先に今回のサイバー攻撃で社内システムがダウンしてしまった。
《せっかくここまで漕ぎつけたのに、今回のトラブルでこれまでの苦労が水の泡になりそうだ。ITシステムというのは脆弱なもんだ。政府のセキュリティ対策への無関心と対策の遅れがこの惨状をもたらしたんだ。こんな状態が続けば会社の経営が危うくなる。事態はこれからどうなるんだろう。
それにしても、政府が推進するパレントは本当に大丈夫なのだろうか。パレントでコミュニケーションがスムーズになれば人びとがよりよく繋がり、相互理解が進み、社会が豊かになる、そう信じていたのに。パレント・システムが攻撃され、障害が起ったら・・・、》
ひとりで思いを巡らせていた彼の頭には暗雲が広がっていった。
《N同盟はどうしているんだろう、こんな状況にいたっては、N同盟はますます勢いを得て、攻勢を強めるんじゃないか、N同盟に対しても政府は無為無策だ、これからどうするつもりなんだ》
彼がとほうもない心配事で気が遠くなったとき、ドアをノックする音がした。
「申し訳ありません、電車が止まっていて、遅くなってしまいました」
ドアを開けて、額に汗を滲ませながら入ってきたのは業務部長だった。
「そうらしいね、どんな状況だい」
「タクシーに乗ろうとしたんですが、タクシー乗場も長蛇の列で小一時間待たされまし」
「そうか、そりゃ大変だな、社員もほとんど来ていないようだね」
「そのようですね、これじゃ仕事になりません、まったく困ったもんです」
「昨日は、電力やガスが止まっていたし、こんなことがしょっちゅう起ったら大変なことだ、社会生活が破壊されてしまう」
表情を曇らせた貴山がネットテレビのスイッチを入れると、新しい事態が映しだされた。
『空港がサイバーテロに乗っ取られました。国際空港の運行管理システムがサイバー攻撃を受け、システム障害を起こし、航空機の離着陸ができない状況です。障害を起こしている空港は全国におよんでいる模様で、詳しくは現在調査中です。障害は海外の空港にも広がっているという情報もあります。
出発便の突然のキャンセルにより、空港は立ち往生した旅客で溢れています。このままシステムが復旧しないと、今日だけで五百本以上の便がキャンセルになる見込みです』
「これは酷いことになってるな」
貴山は画面を注視していた。
「ほんとうですね、来週は海外に出張予定なのに大丈夫ですかね」
業務部長は溜息交りに言った。
「ところで、最近のN同盟の動きはどうなんだ、なにか聞いてるか」
「いえ、このところ目立った動きはないようです、なんだか不気味ですが」
「そうか、彼らの動きには充分注意しとおいてくれよ。他の役員は出社しているのか」
「いえ、メトロが止まっているので、やはり足止めをくっているようです」
「そうか、しかたないな」
祐磨は自宅で所在なく過ごしていた。そこへパレントからメッセージが入った。
〈おーい、ご無沙汰、元気してるかい〉
幸郎だった。
〈おー、久しぶりだな、どうしたんだい、今どこにいるんだ〉
〈会社さ〉
〈電車止まってるのにどうやって会社へ行ったんだ〉
〈スカイ・コミューターを使ったのさ〉
〈そうか、お前の所はコミューターのターミナルの近くだったな、しかし、高い運賃はどうなるんだ〉
〈こういう状態だから多分会社負担だろう。ところで、お前の言うとおりになったな〉
〈うん、どういう意味だい〉
〈インフラのサイバー攻撃のこと心配していたじゃないか〉
〈ああ、それはそうだけど〉
〈いま、サイバー攻撃でネットワークが、どんどんやられてるだろう、パレントも例外じゃないと思うよ〉
〈そうか、そうだな、僕もそう思うよ〉
〈これからリバティ連盟は大混乱に陥るだろう。シナーロはリバティから盗み取った技術で、予測を超えて技術レベルが上がっているようだ。シナーロはリバティの警告を無視して一歩も引かないようだから、リバティは経済制裁を強化するだろう〉
〈それでシナーロは折れてくるかな〉
〈どうかな、シナーロが軟化しなかったら、武力衝突になるかもしれないな〉
〈そこまでいくか、そうなったら今の平穏な生活も終わりだな〉
〈そう、薄い氷のような平和も吹っ飛ぶというわけだ〉
〈そいうことだ〉
〈そっちにはいろいろ情報が集まるんだろう、また、なにかあったら教えてくれよな〉
〈了解、じゃ、またな〉
話を終えて、祐磨は束の間茫然とした。幸郎とはいつもの軽い調子で話したが、その内容は、世界が暗転しかねないほど怖ろしく深刻なものだった。繭子のことが気にかかり、今度は祐磨が彼女にパレントで話しかけた。
〈繭子、どうしてるの〉
〈あっ、祐磨、いま私から連絡しようと思っていたところなの〉
〈大丈夫かい〉
〈電車が止まってるでしょう、だから会社にも行けないわ、祐磨はどうしてるの〉
〈僕も動けないからうちにいるよ〉
〈そう、仕事もできないのね、大変ね、また停電になって、スマートフォンのバッテリーもなくなったらどうしたらいいのかしら〉
〈そうだね、そんなことになったら困るね〉
〈こうしてパレントで話してるけど、全面的に停電したらパレントはどうなるのかしら〉
〈パレント・システムもダウンするかも知れないね〉
〈まあ、そんなことになったら大変だわ〉
祐磨は繭子の不安な表情が見えるように思えた。
〈それにしても、仕事ができないのは困ったもんだね〉
〈ほんと、忙しいのにどうしたらいいの〉
〈焦ることはないさ、他社も同じ条件なんだから〉
〈そういえば、そうね、もう諦めてじっくりやるわ。でも、これから世の中どうなるのかしら〉
〈どうなるのかな、なかなか予測できないね〉
〈ねえ、電車が動いたらまた会いたいわ〉
〈うん、僕も会いたいよ、なにかあったらまた連絡して〉
繭子の無事を知った祐磨が眼をやった窓の外には、春おぼろの気だるい空が広がっていた。
「ねえ、なにしてたの」
祐磨がリビングルームへ行くと、冴子がいた。
「友達といろいろ話してたんだよ、これからどうなるんだろうって」
「そうなの、これからなんだか大変なことになりそうね。とにかく一度病院へ行きたいんだけど」
「電車が動かないからね、そうだな、スカイ・コミューターを利用したらどうかな。タクシーでスカイ・コミューターのターミナルまで行って、次のターミナルからまたタクシーでいくほかないよ」
「そうね、スカイ・コミューターは料金が高いけどしかたないわね、明日そうしてみるわ」
電力、ガス、水道、鉄道、航空などあらゆるインフラがサイバー攻撃を受け、機能不全に陥っていた。静かに満ちる汐のように社会インフラを侵していくサイバー攻撃の恐怖を、人びとは深く認識していなかった。気づかぬまにインフラは静かに侵され、破壊されていった。そして、日常生活に支障をきたすようになって初めて、事の重大性に気づきはじめた。人の動きが止まり、経済にも深刻な影響がではじめていた。
リバティ連盟とシナーロは苛烈な外交交渉を繰り広げたが、妥協点を見出すにはいたらなかった。リバティ連盟もサイバー攻撃で報復し、シナーロのインフラも機能を失いつつあった。シナーロでは国民の不満が鬱積していたが、強権的な政府は力で国民を抑えこんでいた。
リバティ連盟は非人道的な政府を転覆すべく工作員をシナーロに送りこんでいたが、狡猾なシナーロ陣営の反攻に遭い、工作は奏功せず、ことごとく退けられていた。焦ったリバティ連盟は理事会を開き、メンバー国から武力行使の同意を得た。リバティ連盟とシナーロは刻刻と武力衝突の危機に近づいていた。
暗い道をもうどれくらい歩いたことだろう。久磨はいつ歩きはじめたのか思い出せなかった。随分歩いた気がするが、不思議なことに疲れは覚えなかった。身体は軽く、まだこれからいくらでも歩けるような気がした。しかし、いま、なぜ暗闇のなかを歩いているのか、どうしても思い出せなかった。なにか欲しいものがあって、どこかを訪ねたことは思い出せるが、そこがどこだったのか分らなかった。
そこで欲しいものは手に入れたはずだが、一体それが何なのかも分らなかった。その場を去ったあと、体内に何かが入りこんできたような気がしていた。それがはめ込まれた無生物なのか、棲みついた生物なのか、見当もつかなかった。その体内に宿った何かが彼の意識を包みこみ、外の世界が見えなくなっていた。気づかぬまに意識や感覚に薄膜のようなものが懸かり、外界での出来事や存在を新鮮に感じることができなかった。歩みを進めるにつれて、自身の意識が曖昧になり、外界の存在も曖昧になっていた。
このままでは自身の意識も体躯も気体のように昇華し、消えていくのではないか、という恐怖に襲われた。その恐怖を振り払うように、彼は速度をあげ、懸命に歩き続けた。歩くことで筋肉が動き、それによってのみ自身の身体を感じることができた。
突如、眼の前で光が弾け、視界が奪われた。気がつと、彼は田園にいた。田舎道に沿ったクヌギ並木の深緑が光に映えていた。抜けるような南の青空には勢いよく入道雲が湧き出ていた。並木に寄りそうように流れるせせらぎの岸には、アザミが明るい薄紫の花を咲かせていた。そこはいつか来たことのある場所だった。記憶を遡ると、たしかに子供のころ、遊び仲間と幾度となく歩いた道だった。
なにかの羽音がきこえてきた。音の主は、アザミの花を求めて飛来したクマバチだった。眼に見えぬ高速で振動する翅も光をうけて琥珀色に輝いていた。地上の全ては、天空から降り注ぐ透明な光で、輝きと蔭の見事なコントラストのなかにあった。
これが僕の知っている風景だ、と彼は感じた。これが真実の世界だ、と思った。さっきまで自身が囚われていた繭のなかのような世界は一体なんなのか、答は見えなかった。
やがて、夏の盛りを思わせる蝉の鳴声が耳に響いてきた。鳴声は並木の遥か上から聞こえてきた。樹上に眼を凝らしたが蝉の姿は見えなかった。
彼は田舎道をあてどなく歩いた。額や首筋に汗が滲んだが、歩みは軽かった。この明るさがいつまでも続いて欲しいと思ったとき、遥か前方に黒い影が現れた。奇妙に思っていると、それはみるみる大きくなり迫ってきた。驚いて逃れようとしたが、次の瞬間、彼は暗闇に呑込まれていた。
「うあー」
彼は思わず声をあげた。
「どうした、なにを驚いているんだ」
エビルの声だった。
「ま、またお前か、なにしに来た」
久磨の声は震えていた。
「ふふふ、幼いころの甘い想い出に浸っていたのか、どこまでも暢気なやつだ」
いつもどおりの不気味な声が彼の耳に響いた。
「なんの用だ、お前と話すことなんかないぞ」
「お前になくても。こっちにはあるんだ」
「なんだと」
「お前に昔の想い出をちょっとだけ見せてやったけど、あれは俺のお情けだ、もう二度とあんな世界を見ることはできんということだ」
「どういう意味だ」
お前は闇のなかをどこへ向かって歩いていたのか、分っているのか」
「そんなこと知るもんか」
「そうか、それなら教えてやろう、お前は地獄に向かって歩いているんだ」
「地獄? なんだそれは」
「もうすぐお前は発狂する、そして生ける屍となる」
「どうして僕がそんな目に遭わなきゃならないんだ」
「どうしてか分らないのか」
「分るわけないだろう」
「胸に手をあてて考えれば分るはずなんだが、お前には無理のようだな」
「だから、分らんと言ってるだろう」
久磨は苛立っていた。
「それなら教えてやろう。お前はこれまでどういう生き方をしてきたんだ」
「どういうって、真面目にやってきたさ」
「真面目? 真面目ってなんだ」
「真面目は真面目だ、社会に対しても、家族に対しても」
「ほう、それで社会になにをした」
「・・・」
「それじゃ、家族はどうだ」
「家族は・・・、ちゃんと養ってきたさ」
「ふっ、ふっ、ふっ、ちゃんとだと、それだけか」
「それだけって、家族にはなに不自由ない生活をさせてきたつもりだ」
「妻を裏切ったことはないのか」
「いや、それは・・・」
「ほらみろ、身に覚えがあるようだな」
「社会を裏切ったことはないのか。これまでいろんな誤魔化しや、ちょっとした不正もしてこなかった、と断言できるのか」
エビルの声は凄味をました。
「なにも悪いことなんかしていない」
「学校の試験でカンニングはしなかったのか、テニスの試合でわざとスコアを間違えなかったのか、電車に不正乗車はしなかったのか」
エビルの言葉に、過ぎ去った四十年にもわたる記憶が一瞬にして凝縮し、心を蔽った。過去が久磨を苛んだ。
「分ったか、そのうえお前は身勝手で欲張りだ」
「僕のどこが欲張りなんだ」
「家族との会話がなかったお前は寂しかったんだろう。システムを信用していないくせに、パレントをインプラントした、それが間違いのもとだ」
「そうじゃない、パレントを奨めたのは冴子だ、僕が言いだしたんじゃない」
「どうだか、お前もパレントの助けが欲しかったんじゃないのか。どっちにしてももう手遅れだ、さあ、歩け、地獄に向かって歩き続けるんだ」
暗闇に怖ろしい声が響きわたった。
「うわー、たすけてくれー」
いつまでこの悪夢に付きまとわれるのだろう、と彼は思いつつ再び深い眠りの淵に沈んで行った。
Qエントロピーの会議室には全社員が集まっていた。交通手段がなく出勤できない社員にはハイヤーが手配された。
「諸君も感じとっていると思うが、もはや容易ならざる事態だ。このままインフラがまともに機能しないと、経済が破壊され、われわれの生活も立ち行かないことになるだろう」
緊張した面持の貴山の言葉が会議室に静かに流れた。
「破壊されたわが社のシステムも復旧にはすくなくとも三か月はかかるだろう、それまではシステム開発もできないので、営業に注力してもらうことになる」
彼は言葉を続けた。
「社長の仰るとおりだ、みんなもこの苦境を乗り切るべく、営業に全力を挙げて欲しい」
業務部長が言葉を継いだ。
「ITとはなにか、ITがある世界とはなにか、ない世界とは、この機会にみんなも考えてみたらどうかな」
さっきまでと違って、貴山の声は落着き、奇妙な優しさを感じさせた。
会議が終わり、席に戻ってきた若い社員は、きっとこんな会議を他の会社でもやっているんだろうな、しかし、営業に行っても、相手がいないことが多いんじゃないかな、と思った。
「おい、なにぼやっとしてるんだ、営業にいくぞ」
彼が振り向くと、業務部長の顔があった。
「あっ、すいません、でも車はどうするんですか」
「社長が自分の車を使ってもいいと仰ってるんだ」
「分りました」
資料を抱えた若い社員は業務部長についてオフィスをあとにした。
一日の仕事を終えた祐磨は、繭子のことが気になった。
〈繭子、どうしてるんだい〉
彼はパレントで呼びかけた。
〈連絡待ってたのよ、会いたいわ〉
〈じゃあ、これからターミナルで会おうか、僕はそこまでタクシーで行くから、繭子もタクシーでおいで〉
〈ええ、そうするわ〉
コーヒーショップの窓からは、ネオンサインに彩られた街並と帰宅を急ぐ人の流れが見えた。
「久しぶりね、どうしてたの」
「自宅休養」
「あら、なにそれ」
「冗談、脚がないからしかたなく自宅にいたんだ、今日は警察が手配した車で出勤したのさ」
「そうだったの、で、仕事のほうはどうなの」
「チーム・メンバーが時間通り出勤してこないから、仕事が旨くできなくてさっぱりさ」
「あら、それで大丈夫なの」
「大問題さ、これから先どうなることやら」
祐磨はコーヒーカップを置いて、溜息交りに言った。
「それは大変ね」
「ま、大変なのはうちだけじゃないと思うよ、会社はどこも困っているはずだ」
「そうよね、どの会社もコンピューターに依存してるから、困らない会社なんてないわよね。これからもサイバー戦争が続いたらどうなるのかしら」
「どうなるのか想像もつかないよ。でもひとつだけ言えることがある」
「えっ、なんなのそれ」
「つまり、いまみたいな状態は長続きしないってことさ」
「どうしてなの」
「リバティ連盟とシナーロは互いにサイバー攻撃で応酬しているけど、そんなことを続けていてもなんの得にもならないだろう」
「そういえばそうね」
「攻撃されるたびにセキュリティが強化される、するとまた新手の攻撃方法が開発される、際限がないだろう。双方にメリットがないってわけだ」
「それじゃ、どうなるのかしら」
「休戦するのがひとつの方法、しかしどっちも意地があるから、そんなことしないだろうな」
「休戦しないでどうするの」
「リバティ連盟が経済制裁を強化すると思うよ」
「そう、それからどうなるの」
「もし、シナーロが制裁に屈しなかったら・・・」
「屈しなかったら?」
「その場合は、武力衝突になるかも知れないね」
祐磨は繭子の眸を見つめた。
「まあ、怖い、そうなったら私たちどうなるの」
「うーん、いまの戦争はむかしとは違うからね」
「えっ、どういうこと」
「いまの戦時国際法では、お互いの軍事施設以外は攻撃できないことになってるんだ、だから、われわれ民間人や民間の施設が攻撃されることはないんだ」
「そうよね、でも、以前は違ったの」
「最後の大規模な戦争は百三十年ほど前だけど、そのときは無差別攻撃で大勢の民間人が巻き込まれて死んだんだ」
「そうだったの、悲しいことだわ」
繭子は眉をひそめた。
「だけど、こんど武力衝突が起ってもそんなことにはならないと思うよ」
「どうしてなの」
「いま戦場で闘うのはロボット兵士だから、人間の犠牲はでないよね、それから、爆撃機も戦闘機も無人機でリモートコントロールだから人間が操縦してるわけでもないし」
「そういえば、人間同士が直接闘うわけじゃないのよね」
「そう、それに、ミサイルや爆弾もすべてカメラ付きの照準システムを持ってるからピンポイントで目標を狙える。だから間違って他の目標を攻撃してしまうということもないんだ」
「そういうことなの」
「もっとも、迎撃するほうもピンポイントで狙ってくるから勝負の行方は分らないけど」
「ロボット戦争になるのね、まるでゲームみたい」
「そういうことだね」
「でも、そんな武器はすべてコンピュータでコントロールされているわけよね」
「そのとおり」
「じゃあ、武器のコントロール・システムがサイバー攻撃をうけたらどうなるの」
「いいところに気がついたね。もしそこがサイバー攻撃でやられたら戦争自体が成り立たないことになるね」
「それなら、その武器コントロール・システムをサイバー攻撃すればいいんじゃないの」
「そのとおりだよ、しかし、そのコントロール・システムは重大機密だから最新の多層セキュリティ・システムで護られているんだ」
「そうなの、じゃあ、やっぱり、武力衝突になることもあるのね」
「可能性はあるね」
祐磨はカップを持ち上げ、コーヒーをひと口飲んだ。
「世の中なんでもITね、コンピュータがないと戦争もできないのね」
繭子は微笑んだ。
「でも、人が死んだり傷ついたりしないのはいいけど、ゲームのように戦争するのはどうなのかな」
「そうね、戦争なのに、なんだか現実味がないわね」
「戦場で闘うのはレイザー兵器を装備したロボット兵士だけど、実際それをコントロールしているのはコンピュータ・システムだからね、つまりはデジタルとデジタルの闘いということになるんだ」
「本当に戦争になったらどうなるのかしら、想像もできないわ」
「そうだな、誰もまだ経験したことのない戦争だからね、実際なにが起るかも分らないね」
祐磨が大きくとられた窓に眼をやると、暮れなずむ夕空をスカイ・コミューターが音もなく滑っていった。
Qエントロピーの業務部長が会社手配の車で出社し、デスクで仕事にかかっていると廊下で大きな声がした。見ると、男の一団がオフィスに入ろうとしていた。
「社長に面会を申し込む、社長に会わせろ」
男のひとりが大声を張りあげた。
「あなたたちは誰ですか、なんのご用ですか」
数名の社員が彼らを制止しようとした。
「われわれはN同盟のものだ、社長に会いに来たんだ」
N同盟と名のった男たちはオフィスへ雪崩込もうとした。若い社員が席を立ち、揉めている現場へ駈け寄った。
「止めてください、お帰りください」
彼は両手をひろげ男たちを押し戻そうとした。次の瞬間、鈍い音とともに、彼は眼が眩み、床に崩れ落ちた。彼は男が放った鉄拳に倒されたのだ。
「なにをするんだ」
ひとりの社員が男の胸ぐらを捕まえたが、男は社員の手を払いのけ、オフィスに入り、社長室へ向かった。他の男たちも彼に続いた。彼らは社長室のドアを勢いよく開け、なかに入った。
「なんだお前たちは」
デスクの向こうで貴山は男たちを睨みつけた。
「貴山さんですな、一緒に来てもらおう」
ひとりの男が貴山に近づいた。手にはオートマチックの拳銃が握られていた。
「お前たち、なにが目的だ」
貴山は席を立った。
「あんたは世の中のためにならんからな」
男は銃口を貴山に向けた。
「おい、撃つなよ、はやまっちゃいかん」
後にいたリーダー格の男が声をだした。
「こんなやつは殺っちまったほうがいいんだがな」
制止された男は口惜しげに拳銃を下した。
「さあ、一緒にきてもらおう」
大勢の社員が社長室へ詰めかけ社内は騒然となった。
「お前たち、なにやってるんだ、止めろ」
誰かが声をあげた。
「みんな落ち着くんだ、逆らうと危険だ、私は大丈夫だ」
貴山は冷静に社員を制した。
「社長の言うとおりだ、みなさん大人しくするんだな」
リーダー格の男は振り返って社員を見わたした。
「私をどこへ連れて行く気だ」
「いいから、黙って来ればいいんだ」
社員たちは、男たちに左右から抱きかかえらるようにして社長室を出てゆく貴山の後姿を茫然と見ていた。ビルから出た一団は貴山をミニバンに乗せ走り去った。わずかの間の出来事だった。若い社員は去りゆく車を窓下に見ていた。思いがけず鉄拳を見舞われた彼は、痛む顎を押えながら考えたが、なぜ貴山が拉致されたのか見当もつかなかった。
「貴山さんようこそN同盟へ」
N同盟会長の神丘はこやかな表情で貴山を迎えた。
貴山はN同盟の本部にいた。
「神丘さん、どうも、おたくのメンバーに少々手洗い洗礼をうけましたよ」
貴山はソファにかけながら微笑んだ。
「これが一番いい方法だったんだよ、こうしておけば誰もあんたがN同盟の幹部だとは思わんだろう。これであんたもこそこそせずにおおっぴらに活動できるさ」
神丘は、にやりとした。
「そうですね、この拉致はあなたのアイデアですか」
「若いメンバーが考えたんだ。サイバー攻撃で世界は大混乱だ、こんな状態をいつまでも続けるわけにはいかないだろうから、早晩、武力衝突になるだろう」
「そうですね、私もそう思います。先の予測はまったくできませんが」
「いずれにしてもパレントだけは無事に機能している。いま世界が停滞しているまにパレントをなんとかしないとな」
「いまがチャンスですね、しかし、これだけシステムがやられているのにどうしてパレントだけは無傷なんでしょうね」
貴山は納得のいかない表情をした。
「そうだな、もともとパレントはシナーロへの情報漏洩を防ぐために開発されたんだから、まっ先に攻撃目標になるはずなんだが、私にもなぜパレントが無事なのかさっぱり分らん」
「不思議ですね、ま、とにかくこの際にパレントが機能しないようにぶっこわしましょう」
「そうだな、それにはリバティ連盟からパレントのソフト情報を盗む必要があるんだが、なかなか旨くいかんのだ」
「どうやって情報を盗ろうとしているんですか」
「これは極秘だが、リバティ連盟にスパイを忍び込ませてある」
「そうですか、で、成果のほどは」
「それが、これまでのところ旨くいっとらん。リバティ連盟の情報管理は徹底していて、情報を盗るのは並大抵ではないようだ」
「そうですか、それは困りましたね。パレントを非難する広告宣伝や街頭演説には限界が見えていますしね。パレント信者みたいな人たちには、そんなネガティブ・キャンペーンは効目がありませんから、やはりシステム自体をなんとかしないと」
「そのとおり、いま有力国会議員を通じて情報を得るようにしているところだ」
「そうですか、それはいけそうですね」
「そこでだ、君にその議員との連絡役になってもらいたいんだ。高度な機密を扱うから、誰にでも任せられる仕事ではないからね」
「承知しました、やらせて頂きます」
貴山は大きく頷いた。
彼はパレントの信奉者だった。パレントが導入されて以来、彼はパレントを世界を変える革新的なシステムと信じ、その普及を推進してきた。しかし、時間を経るにしたがい、パレントにまつわる様ざまな問題がおこり、次第にパレントに大きな疑念を抱くようになった。
《パレントは神の賜物ではなく、悪魔の手によって身中に投げ込まれたトロイの木馬なのか》
パレント同盟に属し、多くの人にパレントを奨めていた彼は苦悩した。そうした頃、神丘が彼に接触してきた。その時のことを、彼は鮮明に記憶に刻んでいた。
「パレントをどう思っているんだ」
神丘が口を開いた。
「革新的なシステムだと思っています」
貴山は思っていることを言った。
「パレントはそう単純じゃないんだ」
「どういう意味ですか」
「現状を見たまえ、これが君が言う革新的なシステムが創りだした惨状だ。大勢の人が健康被害に苦しんでいる」
「・・・」
彼は口ごもった。
「システムだけの問題じゃない、政治の匂いがふんぷんとすると思わないか、どうしてリバティ連盟がパレントの普及に躍起なのかも謎だ」
神丘の言葉に力が入った。
「そうですね、私もその点は変だと思っていました」
「健康被害は深刻だ。最近は精神障害が続出し、廃人同様になった例すらあるんだ」
「政府はなぜ放置しているんでしょうか」
「弱腰の政府はリバティ連盟の圧力に屈したんだよ」
「酷い話ですね」
「こんなシステムを支援するなんて、とんでもないことだ、そう思わんかね」
神丘は一段と語気を強めた。
「そう言われると・・・」
「どうだ、私のN同盟に入らないかね」
神丘は貴山の眼を見つめた。貴山は意表をつかれ動揺した。
一週間悩み抜いたのち、彼はN同盟へ加入した。その後、彼はN同盟の幹部であることを隠し、隠密裡に行動していた。今回の拉致を装った一件の後は、N同盟の幹部であることを公にして活動することを心に決めた。
警察は拉致事件として貴山の行方を追ったが、なにひとつ手掛りはなかった。N同盟の画策であることは明らかだったが、同盟の本部の場所さえ不明で捜査は行き詰っていた。
デスクで仕事中にパレントから連絡が入った。
〈祐磨か〉
聴き馴れた声だった。
〈社長! いまどこにいるんですか〉
〈ちょっと話したい事があるんだ、今夜会えないか〉
〈分りました〉
Qエントロピーの貴山社長と祐磨はパレント推進会議で幾度か顔を会わせ、親しい間柄になっていた。
夜、スカイ・コミューターのターミナルで祐磨は貴山と会っていた。
「社長、どこにいらしたんですか」
カフェの席につくなり、祐磨が訊いた。
「事情はあとで話すから、まあ、落着け」
「一体、なにがあったんですか」
祐磨は気持を抑えることができなかった。
「実は、私はN同盟のメンバーなんだ」
「な、なんですって」
祐磨は一瞬、貴山が言っていることが理解できなかった。
「一年前に私はN同盟に加入したんだ」
「それはまた、どうして」
「現状をみれば君にも理解できるだろう。パレントは始めたころと違っておかしな方向へ向かっている、君のお父さんの事だってそうだろう、お父さんは今どうしておられるんだ」
貴山はグラスのビールを勢いよく呑んだ。
「それが、父親はまだ昏睡状態で・・・」
「お父さんはお気の毒だが、似たような被害者が次つぎと生れてるんだ、パレントはどうみてもおかしいだろう」
「そうですね、そう言えばなにかがおかしいですね」
貴山の言葉で、このところ心のなかにわだかまっていた塊が溶解したように、祐磨には思われた。父親が異様な状態に陥って以来、祐磨はパレントに言い知れぬ不安を感じていた。しかし、友人と簡単に連絡がとれる便利さと、繭子のいつでも祐磨と繋がっていられる、という心地よい言葉で、パレントを使い続けてきた自分が奇妙に思えた。
「どうした、考えているのか。それで、ぜひ君にもN同盟に入ってもらいたいんだ」
「えっ、僕にですか」
祐磨は戸惑った。
「そうだ、同盟に加入して私に協力してほしいんだ」
「協力って、つまりパレントを潰す側につけ、ということですね」
「そうだ、危険なパレントをこのまま普及させてはならないからね」
「・・・」
祐磨は口ごもり、天を仰いだ。
「いや、いますぐ決めなくていい、じっくり考えてからでいいんだ」
「はい、分りました」
祐磨はグラスのビールを呑干した。
自宅に帰った彼は疲れを覚え、ベッドに横たわった。うとうとしていると、パレントに連絡が入った。
〈おーい、起きてるか〉
暢気な声の主は幸郎だった。
〈おー、久しぶりだな、どうした〉
〈戦争だ、戦争だ〉
彼は叫んでいた。
〈なんだって〉
〈もうすぐ戦争が始まるぞ〉
〈本当か、どこからの情報だ〉
〈おいおい、情報源は明かせないよ、だけど間違いなくもうすぐだ〉
彼の声は自信に満ちていた。
〈そうか、いよいよ始まるのか、これからどうなるのかな〉
〈おそらく、互いの兵器の性能に探りを入れて、かなりの軍事施設が破壊されたあとで休戦ということになるだろうな〉
〈そうか、そういうことか〉
〈明日のテレビを愉しみにするんだな、それじゃまた〉
翌日の夜、シナーロとリバティ連盟は互いに戦線布告を行い、戦端を開いた。
祐磨は繭子の部屋を訪れていた。テレビのスイッチ入れると戦闘の状況がリアルタイムで映しだされた。眩い光を吐きながら、シナーロの中距離弾道弾が紫紺の空へ昇っていく。まもなく光は点となり深い夜空に消えていった。次つぎと発射される弾道弾はまるで花火のように夜空を明るく照らしだしていた。また、リバティ連盟の空軍基地からは、不死鳥のように両翼を広げた大型の無人戦略爆撃機が離陸し、シナーロ南部の軍港を目指した。
祐磨と繭子は並んで坐り、画面を食入るように観ていた。
「まあ、大変あんなにミサイルが飛んで行って、リバティ連盟は大丈夫なの」
映像を観ていた繭子が思わず声をあげた。
「リバティ連盟の迎撃システムは優秀だから、シナーロのミサイルは上空で迎撃ミサイルによってみんな破壊されると思うよ」
「そうなの、それならいいけど」
次にリバティ連盟の無人爆撃機が大量の爆弾を落すシーンが映しだされた。十数機で編隊を組んだ巨大なマンタのような爆撃機はいっせいに爆弾倉の扉を開き、その不気味な闇から投下された大量の爆弾が悪魔の使者のように暗い地上に音もなく吸い込まれていった。
「爆撃機は大丈夫のようだね、シナーロの迎撃ミサイルは、リバティ連盟の電波攪乱システムで無力化されたみたいだね」
「まあ、よかった。やっぱりシステムはリバティ連盟のほうが優勢なのかしら」
繭子はほっとしたかのように祐磨を見た。
次に驚くべき映像が展開した。国境付近と思しき戦場で、進んでいく数百人の兵士が映しだされた。そして反対側から同じように兵士の一団が現れた。兵士の身体は通常の銃弾では貫通できない強化カーボンファイバーでできていた。彼らは考えられないスピードで互いに接近したかと思うと、一斉にレイザー銃を撃ち始めた。
「あら、あれはなんなの」
繭子が興奮気味に声をあげた。
「ロボット兵士さ」
「えっ、そうなの人間じゃないのね、よかったわ」
レイザー銃の眼を射るようなグリーンの光線が、夜の空気を切裂くように交錯し、その度に何人かのロボット兵士が倒れていった。なかには光線を受け、一瞬にして炎に包まれるロボットもいた。
「ロボットといっても人間そっくりだわ、なんだか可哀そう」
炎に包まれて崩れ落ちる兵士を見て、繭子は眉をひそめた。
「本当だ、人間と区別がつかないくらいだね」
兵士たちは白兵戦を繰りひろげ、しばらくの後にはかなりの兵士が地上に倒れこんでいた。
「あっ、これは」
祐磨が声をあげた。
「どうしたの」
「生残って進んいる兵士はみんなシナーロだ」
「どうしてそんなこと分るの」
「ほら、兵士の二の腕にマークがあるだろう、あれはシナーロのマークだ」
「あら、そうなの」
眼を凝らして、繭子が言った。
「地上戦ではシナーロが優勢みたいだな」
「でも、あれが人間じゃなくてロボットだと判ると、なんだか現実味がないわ、まるでゲーム見てるみたい」
繭子の表情が緩んだ。ミサイルの発射も、爆弾が投下されるシーンも驚くほど鮮明に映し出され、それらの映像に真実味を持って迫るものはなかった。ただ、地の底から響くような爆弾の炸裂音とレイザー光線が目標に命中したときに発する焦熱音がわずかに現実を感じさせた。
これはまるでソフトのなかで起っているゲームのようだ、と祐磨も思った。しかし、現実に戦争が繰り広げられている。安全な空間で繭子の肌の温もりを感じながら、あたかも別世界の出来事のように戦闘シーンを観ている彼は、自身がこのうえなく奇妙な存在に思えた。戦闘のシーンは終わることなく続いた。やがて二人は疲れを覚え、肩を寄せ合ったまま寝入ってしまった。
翌朝、目覚めると、付けっぱなしのテレビでニュースを放映していた。気だるさのなかで、祐磨は映像を観ていた。
『昨日、シナーロとリバティ連盟は戦闘状態に入り、双方が攻撃を開始しました。シナーロのミサイルはリバティ連盟の航空機製造工場を集中的に攻撃しました。一方、リバティ連盟の無人戦略爆撃機はシナーロの軍港を爆撃し、港湾施設を破壊するとともに数隻の沿岸域戦闘艦を撃沈しました。死傷者はありません。シナーロのスポークスマンは、損害は極めて軽微で戦闘は続行すると述べました。また、リバティ連盟も戦闘を中断する理由はないと言い、戦争は当面続く見込みです』
眼を醒ました繭子は祐磨を見つめ、彼は繭子を抱きしめた。
久磨は歩き続けていた。もう何日も休まず歩いているように思えた。次の瞬間、グリーンの光線が眼前を過った。
「あっ、なんだあれは」
彼は身がまえて声をあげた。
「まさか、あれはレイザー光線か」
また、後から光線が発せられ、彼の頬をかすめた。
「なんだ、どうしたんだ、僕を狙っているのか、これはまたエビルの仕業か」
彼は危険を感じ思わず走り出した。グリーンの光線は一筋、二筋と発せられ、彼の体をかすめていった。
「うわー」
彼は声をあげ光線から逃れようと、速度を上げた。光線は不気味に輝きながら、あとからあとから彼に襲いかかってきた。光線の強烈な輝きで眼が眩んだまま、彼は懸命に走った。間もなく彼方に小さな明るさが見えた。それはトンネルの出口のように思えた。脚はもつれていたが、彼は最後の力を振り絞って、その明るさの中に飛び込んだ。
「うーん」
久磨は瞼に明るさが満ちてくるのを覚えた。
「あなた、気がついたの、私よ」
ベッドの傍で冴子が久磨の顔を覗きこんでいた。
彼女は思わず久磨の手を握った。久磨はゆっくりと眼を開けた。
「ここはどこだ」
彼はしゃがれた声で訊いた。
「ここは病院よ、もう大丈夫よ」
「病院?僕はどうしたんだ」
ゆっくりと眸を動かし、彼は冴子を見た。
「あなた出勤のときに駅のホームから線路へ落ちたの、それで近くにいた人に助けられたのよ」
「そうだったのか」
彼は冴子のいう事がよく理解できなかった。
「でも、眼が醒めてよかった、あなたは半年も眠り続けていたのよ」
冴子の眼から涙が溢れでた。
「そうだったのか、僕は全然憶えていないんだけど」
「あなたの意識が回復しそうだって、昨日、先生から連絡を頂いたのよ、記憶もすぐに戻ると思うわ」
彼女は久磨の両手を握り、忘れていた笑みを浮かべた。
久磨は既に退院していた。
「お父さん、快復してよかったですね」
祐磨は笑みを浮かべた。
「ああ、やっと帰ってきたよ、心配かけたな」
久磨の言葉はまだ少したどたどしかった。
「気分はどう」
「うーん、ちょっとまだ頭がぼーっとしてる感じだ」
「無理もないですよ、半年も昏睡していたんですから、これから暫くはゆっくりリハビリですね」
祐磨は言いながら、帰宅した父親の存在に安堵していた。
「そうだな、会社もそうそう休んではいられないんだが、身体がまだ思うように動かんからな」
「会社なんかいいから、ゆっくり休養しなきゃ」
「喉が渇いた、一杯やりたいな、祐磨、付きあえよ」
「ええ、ビールがいいですか」
彼は冷蔵庫からビールを取り出し、グラスに注いだ。
「じゃあ、乾杯しましょう、快気祝いですね」
二人はグラスをあげ、乾杯した。
「昏睡している時ってどんな感じでした」
祐磨は言葉を継いだ。
「それが、なんだか奇妙な別世界に住んでいたようなんだ」
「別世界?」
「そうなんだ、なんだか暗くて気味が悪ところに押し込められた感じだった。そこに変な閻魔大王みたいな奴が現れて、父さんの過去を暴き出して、懺悔しろ、と言うんだ」
久磨は表情を歪め、ビールを勢いよく呑んだ。
「なにか、懺悔しきゃいけない事、あるの」
「・・・い、いや、そんなものあるわけないだろう」
「なんだ、お父さんが昔悪い事でもしたのかと思った」
「なにもなくても、人間、懺悔しろ、なんて言われたら一つや二つ思い当たる事があるだろう」
「そういえばそうだね、あんなことしなきゃよかったとか、あるね」
「その閻魔大王みたいな奴が、暗闇のなかを追っかけてきて、懺悔を迫るんだ。それで必死に走って逃げたんだ」
「その閻魔大王ってなんなの」
「よく分らないだが、僕がパレントのせいでやがて発狂して、廃人になるって言うんだ」
「そりゃ大変だ」
「だけど、いま思ってみると、あの閻魔大王はもしかしたら自分自身だったような気がするんだ」
「えっ、どういうこと」
「父さんははじめからパレントは嫌だったんだ、だけど母さんも奨めるし、もっとお前たちと気軽に話ができるならその方がいいと思って、インプラントを決めたんだ」
「僕もそれでよかった、と思ってたんだけど」
「だけど父さんはそんなに若くないし、やはり無理だったんだ、欲張りすぎたんだよ」
久磨はしんみりと語り、グラスを傾けた。
「あら、もうやってるの」
冴子が外出から帰ってきた。
「いま、お父さんが見た夢の話をしてたんだ」
「あらそう、昏睡状態でも夢は見るものなの」
「ずーっと夢を見ていたようだ、それはパレントの危険性を本能的に感じて警告する夢だったようだ。あれは僕の本能の叫びだったんだ」
「まあ、そうだったの、夢の力ってすごいのね」
「それで、お前たちは大丈夫なのか」
久磨は二人の顔を見た。
「僕は問題ないけど」
「私も大丈夫よ」
冴子と祐磨は顔を見あわせた。
祐磨はN同盟の本部を訪れていた。
「どうだい、決心してくれたのかい」
貴山が笑顔で祐磨を迎えた。
「はい、N同盟に入りたいと思います」
祐磨は神妙な顔で応えた。
「そうか、よかった、それじゃ手を貸してくれるんだね」
「ええ、皆さんと協力してパレント・システムを廃止に追い込んだほうがいいと思うんです。実は、やっと父親が意識をとり戻して快復したんです」
「ほう、それはよかったね」
「それで、父親から話を聞いたんですが、昏睡してる時に、パレントはやはり危険だと感じたというんです」
「そうだったのか、お父さんが君の決心を促したということだね。しかし、君はパレントの利用者なんだろう、このシステムが無くなればパレントは使えなくなるぞ、それでいいのか」
「かまいません」
祐磨はまなじりを決して応えた。
「そうか、それなら君には当面、私のアシスタントとしてリバティ連盟に対して情報活動をしてもらおう」
「分りました、やらせて頂きます」
「協力者の議員と会うことになっているから、早速資料を準備してくれないか」
貴山の指示を聞いて、祐磨は気持がふっきれた思いがした。
翌日、貴山と祐磨はホテルの一室でデジタル通信委員の深山議員と会っていた。
「ご足労をおかけして申し訳ないな、何分内密にしなければならんのでな」
五十歳前後、小太りの深山は肉づきのいい顔をほころばせた。
「こちらこそ、お忙しいなかありがとうございます」
貴山も微笑んだ。
「早速、本題に入らせて頂きますが、リバティ連盟の動きはどうですか」
彼が言葉を継いだ。
「それが、どうも妙な感じなんだ」
深山は声を潜めた。
「と言いますと」
「これまでリバティ連盟は、毎週パレントの普及率と詳細な現状報告を求めてきたんだが、先週からそれがぱったりこなくなった」
「それはへんですね」
「ああ、それで、どうしたのかと思って問い合わせてみたんだが、返事もこない。これまでリバティ連盟のやることはいつも徹底していましたからな、全く奇妙な話だ」
「なにかあったに違いありませんね」
祐磨が口をはさんだ。
「その可能性は否定できん。実は、これは未確認だが、リバティ連盟のバーウイック委員が行方不明という噂がでとるんだ」
「彼はパレントの責任者ですね」
貴山は身を乗りだした。
「ああ、それで、彼が自ら失踪したとか、シナーロに拉致されたとか、噂が飛びかっとるようだ」
「先生はどう思われます」
祐磨も深山の顔を覗きこんだ。
「バーウイックは先週の委員会を欠席したらしい、そうすると噂もまんざらデマではないということになる。しかし、彼が失踪する理由はひとつも見当たらんしな」
「そうすると、残された可能性は拉致ということになりますね」
貴山は不安を隠さなかった。
「そういうことになるな」
「万一、パレントの技術がシナーロに盗用されたら大変なことになりますね」
祐磨は眼を丸くした。
「そのとおりだ、いくらわれわれがパレントを葬り去ろうとしても、もしシナーロに技術が流れれば元も子もない」
「どうすればいいんですか、なにかそれを阻止する方法はありませんか」
「公安関係者に訊いたんだが、既にリバティの連盟警察が捜査に乗りだしているそうだ。公安によれば、実はかなり前から連盟警察はバーウイックをマークしていたらしい」
「そうなんですか、どうしてまた」
「公安にもその理由は分らんそうだ」
「なにか重大な背景がありそうですね。先生、また新しい情報があったらよろしくお願いいたします」
礼を言って二人は部屋を後にした。
「あの議員は与党の議員なのに、どうしてパレントに反対してるんでしょう」
帰路、車のなかで祐磨は貴山に問うた。
「彼も与党の一員だからね、最初はもちろんパレント推進派だったんだ。しかし、デジタル通信委員になってから、立場上、リバティ連盟の様ざまな情報が入るから、パレントの不自然さに気づいたんじゃないのかな」
「政府はパレントの不利な情報の多くを隠蔽してるようですね、僕の父親のような健康被害者がかなりでているはずなんですが、一切報道されていませんしね」
「そのとおりだ、国民に大事なことが知らされていない、君のお父さんもその被害者なんだ。あの先生はそのことに堪えられなかったんじゃないかな。彼は豪放磊落にみえて結構繊細なところがあるんだ」
貴山と別れて帰路についたとき、繭子がパレントで連絡してきた。
〈ねえ、怖いの、今夜も来てくれる〉
彼女の声に力はなかった。
〈いいよ、じゃあ、いまから行くよ〉
間もなく祐磨は彼女の部屋に着いた。
「どうしたんだい、元気ないな」
繭子の顔色は優れず、なにかに怯えている様子だった。
「今夜も戦闘があるみたいよ、さっきニュースで言ってたわ」
「そうか、また戦闘シーンを観てみるかい」
「観たいわ、なんだか怖いけど」
すぐにテレビで戦闘のライブ放送が始まった。この間、無人爆撃機で破壊されたシナーロの軍港にリバティ連盟の強襲揚陸艦三隻が白波をけたてて殺到しているシーンが展開した。港湾を防衛する沿岸域戦闘艦が総て撃沈され、そこは無防備だった。揚陸艦は岸壁に接岸し、開けられたドックから戦闘車両が次つぎと桟橋に降立った。次に、ロボット兵士中隊が一団となって上陸した。
戦闘車両は腹に響くエンジン音を響かせながら桟橋を進んで行った。その後を追うようにロボット兵団が進み始めた。すると、反対方向からシナーロのロボット兵士が現れ、いきなりレイザー銃を撃ち始めた。不意をつかれたリバティ連盟のロボット兵団は緑のレイザー光線を受け、火を吹きながら次つぎと倒れていった。
「あー、やられちゃった」
繭子が思わず声をあげた。しかし、シナーロの攻撃に気づいたリバティ連盟の戦闘車からレイザー砲が発射されると、シナーロのロボット兵士の一団は火の玉となって燃えあがった。
「うあー、やったわー」
さっきまでとは打って変わって、繭子は生気を取り戻していた。シナーロのロボット兵士は際限なく現れてリバティ連盟のロボット兵団を攻撃してきた。
「あれじゃだめだな、シナーロのロボット兵士のほうが数が多い」
祐磨が危機を感じ表情を歪めたとき、上空に爆音が響き、次の瞬間大きな爆裂音とともに多くのシナーロのロボット兵士が焔となって吹き飛ばされた。
「あっ、リバティ連盟のヘリだ」
黒い機体の攻撃ヘリが眼にも止まらぬスピードで飛来し、三十ミリ・ガットリング機関砲でシナーロのロボット兵士をピンポイント攻撃していた。
蠍のような形をした攻撃ヘリは、機関砲のほか腹に吊り下げたミサイルポッドに対地攻撃用のミサイルも多数装備していた。機関砲の一撃を加えた後、円を描いてひと回りしてきたヘリは、次にミサイルを発射した。ミサイルは赤い焔を曳きながら飛翔し、次つぎと地上で炸裂した。一瞬にして地上は火の海となり、空を赤く染め上げた。シナーロのロボットは焔に巻かれて倒れていった。
「やったわ、これで形勢逆転ね」
繭子は眼を輝かせた。
「攻撃ヘリの威力ってすごいな」
祐磨はくいいるように画面を見つめていた。
ミサイル攻撃で、瞬く間にシナーロのロボット兵士は駆逐され、リバティ連盟の戦闘車両とロボット兵団は次の目標の軍需工場へ向かって進撃し始めた。
つぎの映像は無人爆撃機から撮ったと思われるシーンだった。無人のコックピットではリモートコントロールでシステムが静かに、そして不気味に動いていた。完璧に燈火管制された漆黒の地上へ爆撃機の腹から次々とスマート爆弾が投下されていった。
Qエントロピーが開発した精巧な地図ソフトをもとに開発されたGPSによって、機は爆弾投下位置を正確無比に把握していた。投下されたスマート爆弾も爆弾用GPSにより自ら位置を割出し、あらかじめインプットされた目標に向かって一直線に落下していった。爆弾が次つぎと目標に命中し、暗闇にまるで花火のような焔の輪が開いていった。
「まあ、綺麗」
繭子は微笑み、声をあげた。
「空軍はやっぱりリバティ連盟に分がありそうだね」
祐磨も映像に釘づけになった。
つぎは地上戦闘のシーンだった。シナーロとリバティ連盟の戦車が平原で遭遇し、戦端を開いた。双方のレイザー砲が緑の光線を放ち、夜空に明るく映えた。レイザー砲の狙いは正確で双方に命中していたが、先に火を噴いたのはリバティ連盟の戦車だった。レイザー砲が命中すると鋼鉄の車体が飴のように溶けて、赤く燃え上がった。シナーロの戦車にもレイザーが命中したが、何事もなかったかのように進撃していた。その後も、レイザーが命中したリバティ連盟の戦車は次つぎと爆発炎上していった。
「あー、やっぱり戦車はシナーロの装甲のほうが強力なんだ」
静かになった繭子の顔を見ると、打って変わって哀しい表情をしていた。
「繭子、どうしたんだい」
「だって・・・」
繭子の両眼には涙が溢れていた。
「どうしたんだい、急に」
「私へんだわ」
涙声だった。
「なにがへんなんだい」
「だって、あんなに酷い戦争をしてるのに、私って愉しんで観てるんだもの」
彼女は祐磨の胸に顔をふせて泣いた。彼女の突然の挙動に祐磨は言葉を失った。仄暗い部屋で画像が発する光と影が彼の顔に映り、俊敏な生き物のように動いていた。
早朝、バーウイックと妻はタクシーでケネディ空港へ向かった。空港に着くと、バーウイックは第七ターミナルへ脚を向けた。
「あら、あなたどこへ行くの」
「第七ターミナルさ」
妻は不審に思いながら夫に従って歩いた。
「あら、このゲートはシナーロ行よ」
「そうさ、僕たちはシナーロに行くんだ」
「えっ、なんですって」
妻は驚きの声を上げた。
「シナーロへ行って、そこで暮らすんだよ」
バーウイックは満面の笑みを浮かべた。
「あなた、なにをなさっているのか分ってるの」
妻は動揺を隠さなかった。
「もちろん分ってるさ、僕たちはシナーロへ行って幸せになるんだよ」
「でも、シナーロはシナーロ陣営の本部のある国でしょう、リバティ連盟と敵対してる国でしょ」
「うん、今はそうだけど戦いは間もなく終わる。シナーロの勝利でね」
「でも、あなたはリバティ連盟のために働いてきたんじゃないの」
妻は混乱し、バーウイックの眸を見つめた
「ああ、最初はそうだった、しかし今は違うんだ。僕はシナーロを支持してるんだ」
「まあ、どうしてそんなことをしてるの」
「世界はシナーロの支配に入る、シナーロが世界を統一することになる」
バーウイックの言葉は自信に満ちていた。
「まあ、どうしてそんなことになるの」
「パレントさ」
えっ、パレントがどうしたの」
「パレントはシナーロの世界統一の手段なのさ」
「まさか、どういうことなの」
妻はますます混乱した。
「パレントは人類への福音でもなんでもないんだ、あれは人類を支配するためにシナーロがエクサ・ネットワークスと共同で開発したんだ。もう人類の六割がパレントを使用している、だからリバティ連盟に勝目はないんだよ」
「そんなこと信じられないわ」
妻がそう言った時、シナーロ行のフライトの搭乗案内が流れた。
「さあ、行こうか」
妻は身体から力が抜けていくのを感じた。
バーウイックは妻の腕を?まえて搭乗口へ向かって歩き出した。
ちょうどその頃、ニューヨークにいたサイモンのスマートフォンにイコノフから連絡が入った。
「サイモンさん、バーウイックがシナーロへ飛ぶ、捕まえてくれ」
「なんですって」
「バーウイックは裏切者だ、早く逮捕するんだ」
「なぜ彼がシナーロへ行くんですか」
「亡命する気だ、時間がないんだ、早くしろ」
サイモンはバーウイックのスケジュールを把握していたが、シナーロ訪問の予定はもちろんなかった。彼はケネディ空港の空港警察に連絡を入れると同時に車に飛び乗り、空港へ急行した。連絡を受けた空港警察はバーウイックを追ったが、彼の乗機は既に離陸していた。
間もなく空港に到着したサイモンは空港警察に飛び込んだ。
「バーウイックはどうした」
「連絡を受けた時には、もう彼が乗った機は離陸してましたよ」
警官はやる気なく応えた。
「機を戻せないのか」
サイモンは怒鳴った。
「そんなこと無理ですよ、逮捕状もなしに」
サイモンは唇を噛み空を見あげた。
シナーロ行の機は瞬く間に高度をとり、紺碧の空に浮かんでいた。バーウイックは窓から遠ざかるニューヨークの街を見おろし、もう二度とこの地を踏むことはないだろうと思った。
隣の席の妻は夫の手をとり、横顔を見つめながら、過去の生活を瞬時振り返り、そしてこれから自分たちの身辺におこるであろうことを想像した。夫の手を強く握ったが、身体の震えは止まらなかった。
サイモンはスマートフォンでイコノフを呼びだした。
「どうした、あいつを逮捕したのか」
彼の耳にイコノフの声が響いた。
「もうすこしのところで逃しました」
「なんだと、だから急げといったのに」
「もう遅すぎたんですよ。バーウイックはなにをしたんですか」
「あいつは単なる役人だ、なにかできるわけじゃない。しかし、あいつはリバティ連盟を裏切って、シナーロのいいなりになったんだ」
「どういうことですか」
サイモンは意味が分らず訊きかえした。
「パレントはエクサ・ネットワークスとシナーロの共同開発なんだ」
「なんだって」
信じられない言葉だった。
「パレントはシナーロへの情報漏洩を防ぐため開発したんじゃないんですか」
「そうじゃない、情報漏洩の対策というのは普及させるための宣伝文句にすぎないんだ。ところが狡猾なシナーロは人体に悪影響をおよぼすように勝手に設計を変更したんだ」
「なぜそんなことを許したんですか」
「許したわけじゃない、シナーロのやり口は巧妙だ、気がついたときには手遅れだったんだ」
話を聞いたサイモンは、これから起こることを想像し、気が遠くなるのを感じた。彼は気を取り直し本部に帰り、パーマストンに事実を報告した。
「なということだ、それは本当か」
パーマストンの顔は蒼ざめ、本部は騒然とした雰囲気に包まれた。
「ええ、イコノフから直接聞きましたから間違いありません」
「しかし、相手がシナーロではバーウイックの逮捕を要請するわけにもいかんな」
彼は悔恨とも諦めともつかない表情をした。報告を済ませ、漸く落着きをとり戻したサイモンは祐磨に状況を連絡しようとした。
祐磨は深夜、サイモンから驚愕すべき事実をパレントを介して聞いた。一瞬、言葉を失ったが、冷静に考えると彼の話でこれまでの多くの疑問が氷解した。
早朝、出勤した彼は事実を成田に報告した。成田は半信半疑で慌てて祐磨の報告を篠原課長へ伝えた。
N同盟で緊急会議が招集され、幹部が本部に集合した。
「実は、祐磨から機密情報がもたらされた」
会議室で貴山が緊張した面持で口を開いた。
「一体なんですか」
幹部のひとりが訊いた。
「リバティ連盟のバーウィックがシナーロに亡命したらしい」
「なんですって」
驚きの声が会議室に響いた。
「どういうことですか」
祐磨は貴山の話を静かに聞いていた。
「彼はシナーロのスパイとのことだ」
「しかし、彼はパレントの推進に懸命に取り組んでいたじゃないですか」
ほかの幹部が口を開いた。
「だから問題なのさ。リバティの連盟警察の調べによれば、パレントというのはもともとシナーロとエクサ・ネットワークスが開発したシステムだというんだ」
「なんですって」
会議室はパニックになった。
「皆、落着いて聞いてくれ。パレントは彼らが開発し、それをくまなく普及させて、リバティ連盟の情報を盗聴するのが目的だったらしい」
「なんてことだ」
「それだけじゃないんだ、もっと酷い話があるんだ」
「えっ、まだあるんですか」
「パレントは脳に障害をおこす電磁波を出すらしい」
「なんと怖ろしい事だ」
貴山の言葉を、幹部たちはにわかに信じられなかった。しかし、現状を振り返ってみると、ありえない事ではなかった。
「シナーロはパレントを普及させて、リバティ連盟の国民の健康を徐徐に蝕んで廃人化しようとしているんだ」
あまりのことに会議の出席者は一様に?然とし、会議室に溜息が流れた。
「このなかにもパレントをしているメンバーがいると思うが、すぐに外したほうがいいだろう」
一瞬の沈黙があって、貴山が口を開いた。
「大変だ、そんなことなら早く外さないと」
パレントをしている何人かのメンバーは蒼ざめた。
「君たちはできるだけ早くパレント・センターでパレントを外す手術をしたほうがいい」
貴山は顔色を失ったメンバーを見わたした。
「今回のことで、われわれがパレントに持っていた疑念が正しいことが証明された。これは信じられないスキャンダルだ、これからパレントを推進してきた政府与党、パレント同盟の責任が追及され、おそらく政局に発展するだろう」
「これは国際的なスキャンダルだ、N同盟としてはこれからどう対処するんですか」
幹部のひとりが訊いた。
「N同盟は政治団体ではないので、政治運動をするわけではない。こうなったからには、われわれは犠牲者がこれ以上でないようにパレントの危険性を知らせるべく活動をすべきだと思うんだが」
「そのとおりだと思います、まず、政府にこの事実を認めさせ、公表しないといけませんね」
メンバーのひとりが発言した。
「そのとおりだ、マスメディアも活用して情報を発信すべきでしょう」
ほかのメンバーも言葉を継いだ。
「皆さんの言うとおりだ、その方向で進めていきましょう。こんなときになんだが、祐磨君をご紹介します、こんど同盟に入ってくれた新しい戦力です。私のアシスタントを務めてもらうので情報は彼のところへ集中してください」
翌日、N同盟は記者会見を開き、事実を公表した。N同盟の本部には大勢の記者が詰めかけていた。なかにユニバーサル通信の村地の顔も見えた。
「これが事実とすれば大変なスキャンダルですが、どこから得られた情報なんですか」
ひとりの記者が質問した。
「わが同盟のメンバーからの情報です」
貴山が応えた。
「メンバーの名前を教えてください」
「いまの時点では差し障りがあるので申し上げられません、ご理解ください」
「リバティ連盟はこの事実を認めているんですか」
「いま初めて公表するので、その点は分りません」
「この事実に対して政府はどう言っているんですか」
「現在、事実を説明して確認を求めています」
「バーウイック委員が失踪したというのは事実ですか」
「彼とは連絡がとれない状態が続いています。その所在については不明です」
「バーウイック委員はパレントの欠陥について認識していたんでしょうか」
熱のこもったやりとりが延えんと続けられた。
「記者の皆さんにもパレント愛用者がいらっしゃると思いますが、いま説明しましたようにパレントは極めて危険です。早く手術でディバイスを外すことをお奨めします」
やり取りが一段落したとき、貴山が静かに言った。記者の間からは呻き声とも溜息ともつかぬ声が漏れた。
世間は驚き、マスメディアは政府に殺到した。事態は政権を揺るがすスキャンダルへと発展していった。それでも政府は事実を認めようとせず、パレントの危険性を否定し続けた。
三日後、リバティ連盟が自らパレントについての記者発表をおこなった。その内容は衝撃的だった。パレントは当初よりシナーロがリバティ連盟の全ての情報を盗聴するために開発し、あたかもリバティ連盟の革新的システムのように装い、連盟内に導入、普及にさせてきた、というものだった。そして、そのキーマンがシナーロのスパイとしてリバティ連盟で活動してきたバーウイック委員だった。
以前からパレントの危険性に気づいていた連盟警察は、長期にわたる広範囲の内定のすえ辿りついたのがバーウイックだった。捜査の現場では、このプロジェクトを最初から企画し、指揮した彼でなければできない犯罪と推測していた。リバティ連盟はシナーロとの関係を考慮して自重していたのだが、戦端を開いたいまとなっては配慮する必要がなくなり公表に踏み切ったのだ。
この重大なスパイ行為が明るみにでれば、リバティ連盟幹部の責任も追及されることは必定で、幹部が逡巡したことも公表を遅らせた一因だった。パレントによりリバティ連盟の瓦解を図るという目的をほぼ達成したバーウイックは、間一髪、官憲の手を逃れ、シナーロに亡命したのだった。
なんの事前説明もなく、頭越しに事実を暴露された政府はやむなくリバティ連盟の説明を追認し、謝罪に追い込まれた。政権は崩壊の危機に瀕した。
想像を超えた事態に国民は驚倒した。パレント愛用者はパニックに陥り、恐怖に慄いた。
パレント愛用者は、ディバイスを外す手術のためパレント・センターに押しかけた。センターは押しよせる手術希望者に対応できず、センターの門から建物の入口にいたる中庭には長蛇の列ができた。その後も並ぶ人の数は増え、やがて列は中庭に二重三重と折れ曲がって伸びていった。
「おい、なにやってるんだ、早くしろ」
列のなかの中年の男が声をあげた。
「ぜんぜん進まないわ、どうなってるのかしら」
若い女性も甲高い声を発した。
「待ってるうちに異常が発生したらどうしてくれるんだ、お前たちのせいだぞ」
「そうよ、ひとの身体をなんだと思ってるのよ」
「もし俺の脳がやられて、廃人になったら補償してくれるんだろうな」
列のあちこちから声があがった。
「皆さま、手術には一定の時間がかかります、申し訳ありませんが、予約のない方は受付できませんので、まずは予約を入れてください」
若い女性の事務員が入口で声を張りあげた。
「なんだ、聞こえないぞ」
列の後方から声が飛んだ。
「ですから、まずは予約を・・・」
「そんな悠長なことなんかできるか、こっちは命がかかっているんだぞ」
人びとは聞く耳を持たなかった。列をなす人びとはパレントの便利さに包まれて、それぞれのコミュニケーション世界を紡いできたはずなのに、いまやそれを忌むべきものと感じていた。熱に浮された重病人が、一刻も早く根絶したい病原菌のように。
パレント・センター以外ではパレントの手術はできないことになっていたが、政府は急遽規則を変更して、対応できるなら全国のどの医療機関でもパレントのディバイスを外す手術ができるようにした。
パレント愛用者は脳外科、内科、外科を始め、整形外科にまで押しかけていった。パレント愛用者から次つぎとディバイスが外されていった。ディバイスを外し、手術室から出てきた人は、パレントの恐怖から解放され晴ればれとした表情を見せた。その時、これまでパレントから得てきたかずかずの利便性を、人びとは忘れさっていた。
「大変なことになったわね」
祐磨は繭子の部屋を訪ねていた。
「うん、やはりN同盟が正しかったんだ、政府の言うことはまったくでたらめだったんだ」
「皆パレントのディバイスを外す手術を受けてるみたいだけど、私たちはどうすればいいの」
繭子は不安な眼を祐磨に向けた。
「パレントは外したほうがいいだろうな、うちの父親の例もあるからね、いまは安全にみえても、これから問題がおこらないとも限らないだろう」
「せっかくインプラントして、トレーニングもして、ずっと使ってたのに外しちゃうの」
繭子は寂しそうな表情を見せた。
「僕も外すのは残念だけど、このままだとリスクが大き過ぎると思うんだ」
「そうね、祐磨がそういうなら、私も外すわ、でもいまはどこの病院も手術を受ける希望者で一杯なんでしょう」
「そうだね、暫く様子をみてからにしよう」
「でもパレントがなくなったら祐磨とコミュニケーションがとれなくなってしまうわ」
繭子は哀しげな表情をした。
「これからはメールにすればいいさ」
「メールね、でもメールじゃ直接話してる感じがしなわ、パレントなら祐磨といつも繋がっていられたのに」
「うん、そうかも知れないけど仕方ないさ」
「もうこのところメールなんて使ったことがないから、旨く文章ができるか心配だわ」
彼女は不安を隠さなかった。
「そういえば最近メールを書くことがなかったね、僕も不安だ」
「うーん、パレントをこのまま続けられればいいのに、だめなの」
繭子は形のいい口を尖らせ、不満を表した。
「だめだよ、リスクが大きすぎる」
三カ月後、祐磨と繭子はディバイスを外す手術のためパレント・センターを訪れていた。時間が経ち、列をなしていた手術の希望者の数もめっきり少なくなり、センターは落着きを取り戻していた。
二人は一階の大きなガラスドアから明るさに満ちたなかに入った。
「どうしたんだい」
受付の前で立ち止まってしまった繭子に祐磨が訊いた。
「なんだか気がすすまないわ」
彼女は苦悩の表情を見せた。
「なんだ、まだ迷っているのかい、外さなきゃいけないって、このまえ説明したじゃないか」
祐磨は彼女の意外な態度に戸惑った。
「それは分かっているの、そうじゃなくて手術が怖いの」
彼女は顔を強ばらせた。
「なんだ、そんなことか、手術は簡単だから大丈夫だよ」
祐磨は緊張した彼女の気持をやわらげようとした。
「祐磨から受けて、私なんだか怖い」
「それじゃ僕がさきに行くよ」
彼は予約表を持って受付に向かった。
「パレントを外す手術ですね」
カウンターの向こうで中年の女性担当者が応対した。
「ええ、お願いします」
彼は保険証を出した。
「それでは、三階の診察室へ行ってください」
エスカレーターに乗って三階に上がって行く彼を、繭子はじっと見ていた。
「祐磨さんですね、ここへおかけください」
若い男性医師が彼を迎えた。
「よろしくお願いします」
祐磨は診察椅子にかけた。
「パレントを取り外したいとのことですが、一度外すと再度インプラントはできませんが、それでもいいんですね」
「はあ、どうして再びインプラントはできないんですか」
奇妙に思い、彼は理由を訊いた。
「二度目のインプラントでは脳が大きく反応して、時には拒否反応が出て危険なんです」
「そうなんですか、もう二度とする気はありませんから大丈夫です」
そんな事があるのか、と彼は思った。
「そうですか、それでは手術室へどうぞ」
看護師に案内されて彼は手術室へ入っていった。
一週間後、祐磨と繭子は海岸通を歩いていた。晴れあがった青空には、両翼に風を一杯にうけた?が数羽浮かんでいた。
「なんだかすっきりしたわ、いい気持」
繭子は空を見上げた。
「本当だ、気のせいか身体が軽くなったようだ」
「やっぱり、パレントを外したせいかしら」
「そうだね、解放された気分だよ。パレントがあると、いつでもどこでも気に入った相手とコミュニケーションがとれるから、人はより自由になれたと思うんだけど、ほんとうは逆だったのかも知れないね」
「あら、どういう意味」
繭子は腑に落ちない表情をした。
「いつも誰かと繋がっているということは、むしろ自由を奪われているってことかも知れないと思うんだ、しかも、パレントというシステムを使っているいじょう、そのシステムに拘束されているということじゃないかな」
「・・・」
繭子は妙な顔をした。
「どうしたんだい」
「いまパレントで祐磨に話しかけようしたの」
「なに言ってるんだい、もうパレントはないんだよ」
祐磨は微笑んだ。
「そうね、もうパレントでお話できないのよね」
「話がしたくなったら、こうして会えばいいじゃないか」
「そうね、このごろは直接話すことに馴れていないから、もし私が気がつかなかったら軽く肩をタップしてくれる」
「いいとも」
祐磨は繭子との出会いに思いを巡らせていた。
そのころ、二人ともインプラントしたパレントをようやく使えるようになっていた。口では言いづらいこともパレントを通してならなんとなく言いやすかった。パレントによる濃密なコミュニケーションのお陰で二人は瞬くうちに深い仲になった。
パレントの使い方に習熟していない部分もあり、時折、うまく意思が伝わらないこともあった。そんな時でも、会って話せば誤解が解け、お互い微笑みあうことがあった。
「どうかしたの」
繭子は祐磨の眸を見つめた。
「うん、なんでもないよ」
祐磨の優しい眼差しの彼方には紺碧の海が輝いていた。
繭子は機上の人となっていた。目的地はシナーロ。窓外には成層圏のコバルトブルーに透きとおった空が広がっていた。
《もうあと三時間たらずでシナーロだなんて、なんだか信じられない気分だわ、でも、これは夢じゃないんだ、私自身で選んだ途なんだわ》
彼女の表情は硬かった。
乗機は徐徐に降下し、やがてシナーロの大都会が眼下に広がり始めた。
彼女は外交官待遇だから入国審査は簡単だ、と知らされていた。
降機し、通路を足早に歩き入国審査に入った。
聞いていたとおり入国手続と通関はごく簡単に終わった。到着ロビーは大勢の迎え客で混みあっていた。
「繭子、ようこそシナーロへ」
人混みをかき分けるようにして、一人の中年の男が笑みを浮かべて近寄ってきた。
「あら、バーウイックさん、わざわざありがとう」
繭子も笑みで応えた。
「あのー、こちらは・・・」
繭子がもう一人の男の顔を見た。
「あー、こちらはメンバーの張君だ」
「よろしくお願いします」
彼女は張に微笑を返した。
乗り込んだ車は張の運転で郊外へ向かった。疾走する車窓に眼をやると、乾燥を思わせる緑のない褐色の山並がどこまでも続いていた。
未知の風景が眼に沁み、彼女は自身が生まれかわったように感じた。
繭子がバーウイックと知りあったのは米国大使館でのパーティーだった。それは、彼がセキュリティ調査のため来日したときに催された歓迎会だった。彼は繭子の魅力に惹かれ、彼女に接近していった。
一週間後、繭子はバーウイックからメールを受け取った。一度、ディナーをともにしたい、という内容だった。彼女は躊躇なく誘いを受けた。
「繭子、あなたはコンピュータの知識はお持ちですか」
バーウイックがワイングラスを置いて訊いた。
二人は六本木のフレンチレストランに席をとっていた。
「コンピュータのことはほとんど解りません、でもとっても興味はあるんです」
「そうですか、それなら私が教えてあげましょう」
「まあ、嬉しいわ、ぜひお願いします」
彼女はワインをひと口?んで、微笑んだ。
それ以来、二人の仲は急速に深まっていった。バーウイックはこのときから、彼女を自身のアシスタントに育てることを考えていた。
翌朝、繭子はバーウイックとともにシナーロの本部に出向いた。本部は巨大な白亜の殿堂だった。会議室に脚を踏み入れると、広い室内にテーブルと椅子が円形に設えられていた。
間もなく次つぎと出席者が席についた。
「今日集って頂いたのは、ほかでもない、パレントに替わる新しいシステムの開発についてだが、まずは新しいメンバーを紹介しよう、バーウイック君とアシスタントの繭子だ」
議長と呼ばれた年配の男が口を開いた。
席に着いた十数名のメンバーは微笑み、軽く会釈した。
「彼らはわれわれの力強い戦力になるだろう。とくにバーウイック君は、これまでリバティ連盟の貴重な情報をこちらにもたらしてくれた」
議長の言葉に一瞬、会議室はざわめいた。
「いまだから言えるが、彼はわが方のスパイとして重要な役割を果たしてくれた」
「そうだったのか・・・」
どこからともなく言葉が漏れた。
「しかし、残念なことに、いまやリバティは彼の正体を知ってしまった、それで、パレントの秘密についても知られた可能性が高い」
「それは大変だ、早く対策を講じないと」
メンバーの一人が声をあげた。
「そのとおり、パレントのシステムに替わる新しいシステムを開発し、リバティ連盟を崩壊させるべく普及を急がねばならない」
議長は言葉を継いだ。
直後、会議室は拍手に包まれた。
繭子は毎日シナーロの新システム開発本部に詰め、システムエンジニアの指導の下、パレントよりはるかに進歩した革新的なシステムの開発に取り組んだ。
熱心な彼女は他のエンジニアが帰宅したあとも開発室に残り、深夜までソフトの分析に邁進した。ある夜、バーウイックが開発室を覘いた。
「まだ仕事かい」
繭子が残って仕事をしていることが、彼には意外だった。
「あら、どうしてここに」
彼女はすこし動揺した。
「いや、繭子が遅くまで仕事をしている、という話を聞いたんで心配になってね」
「そうだったんですか、でもこのお仕事とっても面白くて、一旦始めると止められないんです」
彼女は無理に笑顔を作った。
「そうかね、熱心なのはいいけど、身体を毀さないようにしないとな」
「そうですね、お気遣いありがとうございます。ひとつ質問があるんですが」
「なんだね」
「新型のシステムといえどもゼロから立ち上げるわけではありませんよね」
「勿論だよ、パレントは実によくできたシステムでな、あくまでこれをベースにして新しいシステムに発展させるんだよ」
「そうですよね、そうするには、まずパレントについてよく理解することが必要ですよね」
「そのとおりだ」
「それで、パレントを徹底して分析してみたいと思ってるんです」
彼女はバーウイックの眼を見た。
「うむ、それはいいことだ、やってみなさい」
「そう仰って頂ければ励みになります」
「なにか解らないことがあったらチームのエンジニアに訊けばいい。彼らはみな一流だからね」
「分りましら、そうさせて頂きます」
「さあ、もう今日は引きあげなさい」
彼女は本部近くの宿舎に寝泊りしていた。バーウイックの車で送ってもらい自室に入った。
《パレントは本当によくできてるわ、通信システムとしても優秀だけど、人間の脳に作用して精神に傷害を負わせるとう機能は一体どういうものなのかしら、どうしたらその核心部分に触れることができるのかしら》
深夜。ベッドに横たわって、考えを巡らせた。間もなく疲れていた彼女は眠りに落ちていった。
「繭子」
耳に声が届いた。聞き慣れた声だった。
「祐磨なの」
「僕だよ、繭子、どこにいるんだい」
「ここよ、ここ」
彼女は懸命に声をだした。
「見えないんだ、どこにいるんだい」
「ここよ」
彼女は暗闇に叫んだ。
「僕はここにいるよ」
彼女は闇に眼を凝らした。暗い空間に祐磨の顔が浮かんでいるように思えた。
「私、怖いの、リバティー連盟のために思い切ってシナーロに飛び込んだけど、これからどうしたらいいの」
「なんだって、いまシナーロにいるのかい」
「そうよ、でも祐磨のところへ帰りたいわ」
彼女が暗闇に脚を踏み出した瞬間、崖から落ちたように身体が中に浮いた。
「あれー」
彼女は覚醒した。ベッドの上だった。
「祐磨、あなたに会いたい」
煌々と照る月を、カーテンの隙間から眺めていた彼女の頬を一筋の涙が伝った。
開発室で会議が開かれていた。
「諸君の頑張りでパレントのシステムは有効に機能を果たし、リバティ連盟を崩壊の危機に陥れている。しかし、人間の精神に異常をきたす肝心なソフトウェアについては解明が進んでいない、いや、というより、そのソフトがどういう動作で脳に影響を与えるのか、そのメカニズムが不明だ。なぜなら、このシステムを開発したエクサ・ネットワークスが情報を開示しないからだ。今後はその解明で全力を挙げて欲しい」
室長の言葉にメンバー全員が静かに頷いた。
《やっぱり、精神とソフトの関係はまだ解らないんだ、このソフトはパレントに後から移植されたらしいけど、一体どんなエンジニアの手になったのかしら》
「やはり、ソフトが脳に与えるメカニズムは解らないんですね」
デスクに戻った繭子が開発チームの同僚に訊いた。
「そうだね、それを解明するには単なるソフトウェアの知識では無理なようだね」
同僚の若い男が応えた。
「それはどういうことですか」
「だから、脳科学の知識が必要ってことさ」
「でも、ここにはそんなスタッフはいませんよね」
「そうなんだな、それに精神医学の知識、経験が要るかもしれないね」
「それは大変ですね、いろんな専門家が必要ということですね」
「そのとおり、だから室長があっちこっち声をかけてるけど、レベルの高い専門家はなかなか集ってくれないようだ」
「そうなんですか」
「あのシステムを構築するには天才でないと無理だからね、解明にも天才的な才能がないとね」
彼は諦め顔で笑みを浮かべた。
《ソフトの欠陥はもうすべて解っているけど、メカニズムが解らなと意味がないわ》
深夜におよぶ連日の分析で、彼女はパレントのソフトの総体を理解し、その弱点もすべて把握していた。問題はソフトが脳に及ぼすメカニズムだけだった。
開発室でまた会議が開かれた。
「脳に影響を与えるメカニズムが解明できた」
室長の意外な言葉に開発室はざわめいた。
「脳のシナプスにソフトウェアからある信号を送ると、精神に傷害をきたすことが判明した」
室長は言葉を継いだ。
「素晴らしい、でも一体誰が解明したんですか」
メンバーの一人が訊いた。
「国立精神研究所に依頼したんだが、そこに天才的な精神科医がいて、彼が突き止めたのだ」
「やっぱり天才でないとできない仕事なんだ」
もう一人のメンバーは賞賛とも諦観ともとれる言葉を呟いた。
「ソフトの仕様はモニターに配信するから参照してくれ。これは極秘だから内容は一時間後に削除されるから注意するように」
《やったわ、これで目的が達成できる、天才精神科医に感謝だわ》
繭子は一人ほくそ笑んだ。
祐磨は繭子と知りあった頃のことに思いを巡らせた。
せまい部屋に朝陽が射し込んでいた。
「私もコンピュータ、勉強したいわ」
繭子は眠そうな眼で言った。
「本気かい」
祐磨が返した。
「だって、これからはIOTの時代でしょ、コンピュータの知識がないと生きていけないわ」
「それはそうだけど」
「祐磨はコンピュータの専門家だから教えて欲しいの」
「いいけど、僕の指導についてこれるかな」
彼は悪戯っぽい笑みをみせた。
「あら、大丈夫だわ、やる気満満よ、ちゃんと教えてね」
彼女は無邪気に微笑んで、祐磨に寄りかかった。
「本当に勉強したいなら僕の研究室へ通いなさい」
「はーい、そうさせて頂きます」
彼女はおどけてみせた。
それから、彼女は一週間に数回、彼の研究室を訪れ、コンピュータを熱心に勉強した。半年も経つとコンピュータについてのかなりの知識を獲得していた。
懸命に勉強する彼女を、祐磨は可愛く思い二人の仲は深まっていった。
「これからもっとコンピュータが進化していったらどうなるのかしら」
満天の星空を見上げながら、繭子が訊いた。
「便利になることは間違いないね、物事はどんどん情報化する、だけど情報の扱い方を誤ると大変なことになるだろう」
「どういうこと」
「全てがデジタル化すると制御ができなくなる怖れがあるということさ」
「よく解らないけど」
「つまり、デジタル化した情報がコピーされ、あらゆるところでアクセスが可能になり、独り歩きするってことさ。情報が行き渡るのは理想的だけど、そうなればプライバシーは全て失われる」
「まあ、怖い、どうすればいいの」
「防ぐ方法はないね。究極的には人間の倫理観、良心に頼るほかないだろうね」
「まあ、そんな話を聞くと、コンピュータのない世界へ行きたいわ」
そう言いながら、彼女は片手をあげ、人差指で空を指した。
「もっと自由になりたわ」
そう言った彼女の身体は天使のように紫紺の空へ舞い上がっていった。
「繭子、どこへ行くんだ」
祐磨は声をあげた。
瞼にうっすらと光が射した。目醒めた彼はゆっくりと起き上がった。窓の外には薄曇の空から優しい光が降注いでいた。
繭子とパレントで連絡がとれなくなって三か月が過ぎていた。パレントを取外して、コミュニケーションはメールと電話に頼らざるを得なかった。幾度もメールや電話をしたが、彼女が応えることはなかった。
《彼女が独りで旅にでることもないと思うし、一体どうしたんだろう》
最後に彼女に会ったとき、彼女の表情に心なしか寂しさが漂っていたのが、祐磨は気になっていた。
やがて彼の心配は頂点に達し、なんとか彼女と連絡をとる手段はないか、と懸命に考えているとき、彼女からメールが届いた。
「祐磨、お元気ですか。
私はいまシナーロにいます。そしてシナーロのために働いています。でも、それは仮の姿で、私はリバティ連盟のスパイとしてシナーロに潜入したのです。
私はあなたに謝らなければなりません。リバティ本部の命を受けてシナーロに潜入するために、彼らの信頼を得なければならず、あなたから聞いた様ざまな情報をシナーロに流していました。でも、初めからそんな目的であなたに近づいたわけではありません。リバティ連盟のために働き始めたのは二年前ですから。
私に近づき、シナーロのために働くように強く奨めてくれたひとがいたので、あなたを結果的に裏切るようなことになってしまいました。本当にごめんなさい。
そのひとはパレントの危険性を伝えて、リバティ連盟は間もなく崩壊すると言ったのです。彼の言葉が私を奮起させ、にリバティ連盟のために働く決心をさせたのです。
それで一緒にパレントを外しに行きましたけど、実は私はもうずっとまえにパレントを外していました。
それから私にパレントのことを教えてくれたのはバーウイックさんです。いま彼は私の上司です。
でも、シナーロ内部で活動したことで、パレントで精神に異常をきたすソフトウェアの秘密を握ることができました。これで今パレントの後遺症に苦しんでいる人達を救うことができるのです。
間もなく、シナーロから脱出してそちらに帰還するつもりです。
それでは、祐磨、またお会いできることを信じています。
(了)
サイバー・デビル 藤 達哉 @henryex
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます