十三 約束



 広大な屋敷の敷地はあちこちライティングされ、新緑の庭や、白い屋根や、細かな細工の美しい年代物の彫刻などが、幻想的に青い闇に浮かび上がっている。

 ハミルトン公爵主催の夜会が開催されたのは、暖かく、爽やかな初夏の夜のことだった。


 有力貴族のほとんどが招待された大規模なもので、公爵の誕生日を祝うための席である。帝室としても公式な招待を断る訳にはいかず、マーゴットも出席することになっていた。

 庭に集まった招待客達が、振る舞われた食前酒を手に談笑している。

 父にエスコートされた皇女が姿を見せると、皆サッと彼女に向き直り、深々と礼をした。軽くそれに応えながら芝生を踏んで進む少女を、両手を広げてハミルトン公爵が出迎えた。

「ようこそ姫、静養なさっているところを、引っ張り出してしまいましたか?」

「いえ、叔父様、お元気そうでなによりです」

 直接会うのはいつぶりだろう。ベネディクトは相変わらず優美で若々しい。

「誕生日を迎えられたとのこと、心よりお祝い申し上げますわ」

「アヴァロンに比べれば質素ですけれど、ゆっくり楽しんで行って下さい」

 公爵はニコリと微笑んで杯を勧める。マーゴットが一瞬躊躇すると、ベネディクトは申し訳なさそうに微笑んで、冗談めかして言った。

「大丈夫、毒など入っておりません」

 言って、勧めた杯の酒を一口飲んで見せる。

 貴族達は公爵の冗談にドッと笑った。マーゴットも困ったように笑って、それを受け取って口をつけた。

 取り巻いていた貴族達が、それを見て一斉に拍手する。

 皇女の登場によって緊張を帯びていた宴が、二人のやりとりで一気に和やかになる。涼しい庭には有名な楽団も招かれ、自慢の演奏を披露して場に花を添えていた。

 次々と運ばれてくる前菜はどれもため息が出るほどに手が込んだもので、芸術的に盛りつけられており、見ているだけでも飽きないものだ。

 招待客達は和やかにお喋りに興じ――本格的な夜会は久しぶりだったが、集まる顔ぶれも、交わされる会話も、相変わらずという感じだ。

 次々と話しかけてくる者たちと当たり障りの無い話を続けながら、少女は、ロディスの姿を探していた。

(いらっしゃらないのかしら……?)

 今はすっかりカスタニエ公爵の名代として浸透している彼が呼ばれていないわけはない。

 せっかくだから、出席しているなら、少しでも話をしたい。人混みにいても目立つ銀色の髪を探して瞳を泳がせていると、不意にマイクを通したベネディクトの声が響いた。

「皆様、今宵は集まって下さり本当にありがとう。大広間にちょっとした余興を用意しております。どうぞ、お移り下さいませ」

 公爵の言葉と共に、周囲のライトが落とされ、暗くなったと思った瞬間、パッと屋敷の玄関への道に光が灯った。

 まるで光の遊歩道だ。派手好きの彼らしい演出に、貴族達は皆手にしていたグラスを置いてぞろぞろ移動をはじめる。

 マーゴットはきょろきょろ辺りを見回すが、ロディスだけでなく、ゲオルグも見当たらない。どうしたものかなと思った時、不意に肩にポンと手を置かれた。

「さあ、姫も参りましょう。ちょっと面白いものを準備してあるのですよ」

 声をかけてきたのは父ではなく、ベネディクトだった。

 探し人が気になるマーゴットだったけれど、断れない流れに仕方なく彼の手を取って歩きはじめる。


「暗いですから、足下に気をつけて」

 道を形作る無数のライトが、夜の庭に不思議な表情を与えている。暗かったが隣の人間の顔が見えないほどではないので、ワクワクとした楽しげな雰囲気だ。

 皆、ハミルトン公爵は何を用意しているのだろうかと、口々に話し合いながら屋敷へ向かった。



 アヴァロン城に次ぐと言われる、ハミルトン公爵家の大広間の、豪奢なシャンデリアに光は無かった。中央に大人の腰ほど高さのあるステージが用意されており、沢山のライトがそのフロアを明るく照らしている。

 何が始まるのかしら、と、女達が浮かれた声で囁きあう声が聞こえた。

「………………」

 叔父と共に広間に入った少女は、まだ父の姿を探していた。

 どこかで誰かのお喋りにでも捕まっているのだろうか。おろおろした顔をするわけにはいかないけれど、内心とても焦っていた。

「姫は奥へどうぞ。じき始まりますから」

「……何が始まりますの?」

「まだ秘密です」

 少女の心など知らない風に、公爵は笑った。


 やがて、招待客が皆広間に入り終わると、おもむろに不思議なパーカッションが鳴り響く。どこかの民俗的な楽器なのか、耳慣れない響きのものだった。

 音のする方向に目をやると、壇上で準備していたらしい楽団が演奏をはじめていた。どの楽器も見たことのないものだ。

 まもなく、身体に光の装飾を身に付けた踊り子達が軽やかに登場すると、ホールは一気に華やかになった。

 褐色の肌の美しい女達が、音楽に合わせてエネルギッシュな舞を披露する。

 彼女らが身に付けた光の衣装が、力強い身体の動きと対照的に優雅な軌跡を描き、二重に観客を魅了した。

「まあ……」

 一曲が終わり踊り子達がお辞儀をすると、わっと拍手が沸き起こる。趣向を凝らした出し物に、貴族達は多いに盛り上がった。

「なかなか美しいでしょう。ベリスから呼び寄せたのですよ」

 公爵は得意げに手を叩く。物珍しさも手伝って、確かにその舞台は目を奪われるものだった。

 壇上は次の舞が始まるらしく、新たに加わった数人の男が中央に進み出て、そして、踊り子達は一斉に身に付けていた剣を抜いた。

 大胆で剣呑な演出に、広間は一瞬ざわつく。しかしすぐに音楽が始まり剣舞が始まると、踊り子達の巧みな剣さばきに再び拍手が起きる。

 三日月形の刀を器用に振るい、くるりくるりと身軽に舞う。女達がいっせいに宙返りする時などは、アッと思わず声をもらす者すらいるほどだった。

 男は皆仮面をつけていて、随分と長い刀を使っている。

 踊り子が身を翻す度に、幅広の刀身がキラリ、キラリと光を反射する。まるで本当に斬り合っているかのように、思いきり振り回して舞う様は、見ていて自然に手に汗握るものだ。ちょっとした手違いでもあれば大惨事になるのではないかと、誰もがハラハラと注目していた。

 ――と、唐突に音楽が途切れ、踊り子達は一斉に舞台に倒れ伏す。

 観客が固唾をのんで見守る中、舞台の中央には男がひとり佇んでいた。

 他の者と同じ仮面を被った、長身の踊り子である。

 彼はスタスタと台の端まで歩いていって、手にした長剣を、ゆっくりと観客の一人に付きつける。

「!!」

近くに居た年配の女性客が、悲鳴に似た声を上げて逃げる。それに倣うように、男が剣で指した周囲の者がザッとその場を離れた。

 皆、何が起きたのか、これも演出の一部なのか、分かりかねているようだった。

 指された先には、一人の男。

「あ……!」

 マーゴットは思わず声を上げる。

「大丈夫、こういう余興ですから」

 公爵が安心させるように少女の背に触れたが、彼女が驚いたのはその演出のせいではなかった。

 指されたのが、エリンだったからだ。

 皇女の守護者は、人目の多い場所では主人の側を離れて身を隠す。彼が客の中に紛れていることは当然誰にも秘密のことである。今夜もジェラルドと共に会場のどこかにはいるのだろうと思ってはいたが、エリンがどこに潜んでいるのかは、マーゴットも知らなかった。

(ど、どうしよう……)

「姫?」

「えっ……あ……いいえ……」

 突然スポットライトを当てられたエリンの表情までは少女からは見えない。

 どうすることも出来ず、ただ見守っていると、エリンは諦めたように僅かに俯いて、ひらりとステージに上った。

 間髪おかず、仮面の男が切りかかる。広間のあちこちから悲鳴が上がったが、エリンはすっと身を翻してそれをかわした。

 悲鳴がどよめきに変わる。どうやら、貴族達はエリンが客席にあらかじめ隠れていた剣舞の踊り子だと思ったようだった。

 当然それは貴族達の勘違いであるのだが、エリンは舞台に倒れたままの踊り子の手から長剣を一本拾うと、仮面の男に向かって、躊躇せずに踏み込んだ。

「!!」


 観客はみな息を呑んだ。

 硬い金属音が響く。


 喝采。

 遅れて再開される音楽。


 舞踊とはいえない緊迫したものだが、エリンと男が斬り合う姿は異様に美しく、見る間に広間の貴族達に熱気が広がっていった。

(どうしよう、本当に……)

 マーゴットには分かる。エリンは踊っているわけではない。うっかりあの踊り子を斬り殺してしまったりしないかと気が気でなかった。

(今更止めることも出来ないし……)

 きっと、余興の演出に何か手違いがあったのだろう。

(上手く相手の方に合わせてくれれば良いのだけど)

 父は見当たらないし、エリンはあんなところに引っ張り出されるしで――出し物はとても美しいのに、これでは気になって楽しむことが出来ない。

「盛り上がってきましたねぇ」

 隣のベネディクトは上機嫌だ。

「えっ……ええ、はい! ……とても、驚きました」

 慌ててうわずった声で話を合わせる皇女に、公爵は小さく笑って、そっと顔を寄せて言った。

「おおいに盛り上がってきたところですが、大公殿下から、姫はご静養の身でいらっしゃるので、宴の途中、時間を切って別室で休んで頂くようにと仰せつかっております」

「お父様が?」

 心配していた人の名が飛び出したので、少女は嬉しそうに振り返った。ゲオルグの姿はまだ見当たらないが、確かに父ならそういうことを言いそうだ。

 ベネディクトは小さく頷いて耳打ちする。

「ええ。皆の見ている中で退席されると他の者が心配しますので、盛り上がっている間が丁度いいかと。しばしの間、奥でお休み下さい」

「……お気遣いありがとう、叔父様」

 公爵の申し出に、マーゴットは多少舞台の方を気にしながらも静かに頷いて、立ち上がった。エリンのことは気になるけれど、ゲオルグもきっと今頃、自分を心配しているだろう。




 不仲で有名なベネディクトとアーシュラ姉弟であるが、その原因は、彼ら自身とは別のところにあったといわれている。

 二人を疎遠にしたのは、彼らの祖父、先々代の皇帝であるアドルフ=サリム・アヴァロンの影響による部分が大きいのだと、彼らを知るものは語る。


 皇太子エーベルハルトの二人の子であったアーシュラとベネディクトであるが、皇帝である祖父は、ただ一人紫を持つアーシュラだけを殊更大切にした。

 アドルフの、紫の目――ひいてはエウロ皇室の伝統に対するこだわりは大変強く、アーシュラが生まれてまもなく、継承権の一位を自らの息子から彼女に移譲させたくらいである。

 皇太子が、生まれたばかりの娘に継承権を譲り渡す。死亡以外の原因で第一位の帝位継承者が交代になるなど、前代未聞の事件であったが、ほぼ反対意見は上がらなかったという。

 それだけ、アドルフの力が強かったのだ。

 十代で帝位を継ぎ、齢七十が近づいてもなおその強力な支配力を維持していた彼は、初代皇帝ヴィンセント一世の再来とも讚えられた、カリスマ的な支配者であった。

 皇太孫となった孫娘アーシュラを溺愛したアドルフだったが、しかし、もう一人の孫であるベネディクトには全く興味を示さなかったといわれている。

 幼い頃から傍に置こうとせず、それどころか、ベネディクトは十六の誕生日を迎えると同時に分家を命じられ、アヴァロンの名を奪われている。

 彼がハミルトン公爵として帝室を離れなければならなかった、具体的な理由について知る者は少ない。

 アドルフの不興をかったのだというのがもっぱらの噂だが、本当のところはどうなのか、ベネディクト自身は決して語ろうとはしなかった。

 そんな、祖父からの扱いの差が、自然と姉弟の不仲を生んだのだと、皆、そう考えている。しかし――最初からそうであったわけではないのだ。


 幼い頃のベネディクトは、姉を慕っていた。そのことは、当時を伝える映像記録の多くにはっきりと残されている。

 アヴァロン城の広々とした前庭を、幼いアーシュラがよちよち歩きのベネディクトを連れて歩いている。弟が転んで泣きだすと、姉は弟をおぶってあやす。

 まもなくベネディクトが泣きやむとアーシュラは嬉しそうに笑って、弟を背負ったまま駆けていくのだ。

 カメラは幼い二人の背中を映し、壮麗なアヴァロン城の正面玄関に向かって走り去る少女がフレームアウトするところで映像が途切れる。

 その次は午餐の様子だ。

 弟の隣に陣取ったアーシュラが、使用人を追い払って弟にフルーツを食べさせている。彼女自身も幼いので、手に取ったイチゴが大き過ぎてベネディクトの口に入らない。隣で見守っている両親が可笑しそうに笑っている。

 弟が困っているのを見て、アーシュラは少し考えてから、パクリと自分が一口かじって、イチゴを小さくしてから弟に与えるのだ。

 これらは当時、仲の良い姉弟の様子を伝えるものとして、広くテレビ放映された映像である。そのほほ笑ましい様子は、次代の指導者達の行く末が安泰であると、人々を安心させるに足るものだった。

 しかし、帝室の平穏は長くは続かなかった。

 アドルフは七十の誕生日を前に急死を遂げ、帝位を継いだアーシュラは娘を残し夭折。ベネディクトは二位の継承者としてその後を歩むことになった。

 今、ハミルトン公爵としてエウロ貴族界に君臨する彼の、本当の心を知る者はほとんどいない。




 見せ物用の軽い剣の軽薄な金属音が、しかし鋭く響く。

 観客が夢中で見入る中、剣舞はいっそう、激しさを増していた。まるで本当に斬り合っているようだわ、と、観客が囁く声が聞こえる。

 人垣の奥で、ジェラルドは落ち着かない様子であたりを窺っていた。

「………………」

 まさか、こんなことになるなんて。

 なぜエリンは、あのような余興に参加させられているのだろう。師のことだから何か考えはあるのだろうと思っていたが……自分たちは下級貴族に変装して潜り込んでいるのだ。こんな目立つことをしてしまって、何かあったらどうすればいいのだろうか。

 それに……本当に分からない。

 あれは、どう見ても、エリンは本気で戦っている。

 師の動きのひとつひとつに油断も手加減も無く、相手を殺しにかかっているのが分かる。使われているのはおそらく模造刀だが、精巧に作られた鋭いもので、エリンはあくまで急所を狙って立ち合っている。一撃でもまともに入れば確実に無事ではいられないだろう。だから、人々が口にする『本当に斬り合っているようだ』という感想は、決して間違いではないのだ。

 しかし、奇妙なのはそれだけではない。相手の踊り子だ。どう見ても、ただの踊り子とは思えない。

 双方共に本気で戦っているようにしか見えないのに、どちらも紙一重で攻撃をかわし続けるので、まるで、本当に打ち合わせて舞っているように見えていた。


 この出し物がいつまで続くのかは分からないが、今、エリンに声をかけるわけにはいかない。自分で考えて姉の護衛を続けなければならない。

 貴族達の無駄に華やかな衣装が邪魔で視界が悪い。姉は確かハミルトン公爵と上座で見ていたと思うから、せめて彼女の姿を確認できるところに移動して様子を見ようと考える。

 客や料理を運ぶ使用人を縫うようにして、姉の姿を探す。部屋は暗いし、客達は皆舞台に夢中で、ちょろちょろと動き回る少年のことを気にしようとはしなかった。

「……あ」

 そこで少年が見たのは、広間の奥にスイと消えていく、ベネディクトとマーゴットの姿だった。

 部屋全体が薄暗いので分かり辛いのだが、あの後ろ姿は姉に違いない。

 ゲオルグはどこに居るだろうと探してみたが、どこかに紛れているのか、姿が見えない。

 分厚いカーテンで仕切られた部屋の奥がどうなっているのかは分からないが、彼らがこっそり二人で姿を消すなんておかしい。

 悩んだが、ジェラルドは、姉を追うことにした。




 同時刻、見知った少年が広間を出て行く後ろ姿を、目撃していた者がいた。

 ロディス・カスタニエであった。

 皇女が出席しているならばジェラルドもたぶん会場にいるのだろうと、それとなく探していたのだ。

 少年は人目を伺うように周囲を見回しながら、前方の扉からすいっと広間を出ていく。彼が姉の元を離れるのは変だと思って皇女の姿を探してみたら、上座に居たはずのマーゴットが居なくなっている。

「……?」

 皇女はこういう変わった趣向の会には慣れていないだろうし、そもそも療養中の身とされている。奥に引っ込んで休んでいることも多いにありえるのだ。

 今のように客達が出し物に夢中の時は目立たないから、休憩するにはもってこいだ。だから、彼女が会場にいないこと自体を不審に思う必要は無いはずである。

 けれど、何故か、何となく引っ掛かった。

 ジェラルドの後ろ姿に妙な焦りのようなものが見えたからかもしれない。

 ロディスは少し悩んで、やはり気になると思い直し、手に持っていた飲みかけのグラスを給仕人に渡して、ジェラルドが出ていったのと同じ扉から広間を出た。




 広間の奥は通路になっていて、延々と降りる階段が続いていた。

 なぜ降りるのだろうか、と、マーゴットは不思議に思ったが、父のはからいであると言われたことをすっかり信じていたので、大人しくベネディクトの後に続いた。

 やがて、階段を下りた所に扉がある。ベネディクトは振り返って少し子供じみた笑顔をみせた。

「いいでしょう、ここ。広間からこっそり退室して休息をとれるようになっているんですよ」

 通された部屋はあまり広くなく、控えめに照明がつけられていて、重厚なデスクと、背の高い本棚、ゆったりしたソファなどが置かれている。

 狭いけれど立派な書斎といった風情。アルコールのランプのゆらゆら揺れる光が、暗い天井をほの明るく照らし、窓のない部屋はまるで船室のようだ。

「お父様は……」

 てっきり父が居るものだと思っていたマーゴットは、少し不安げな声をあげる。

「大公殿下はいませんよ」

 背後から冷たい声。同時に、ガチャリとドアと鍵が閉まる音がした。

「え……?」

 振り向いた視線の先には、後ろ手に扉を閉め追えたベネディクトが、別人のように邪悪な薄笑いを浮かべていた。


 様子がおかしい、と、思った時には遅い。ヌッと伸びてきた手が少女の喉元を掴んだ。

「う……くっ……」

 男の両手が、彼女の細い首をしめ上げる。突然の苦痛に、目の前に火花が散るようだった。必死で抵抗を試みるが、大きな腕を引きはがすことはできない。

 しかし、ベネディクトはニヤリと笑ってすぐに力を緩めた。

「……ああ、やっぱりまだやめておこう」

 開放された喉でぜいぜい息をしながら、力の緩んだ腕を逃れ、必死で男から離れる。しかし、部屋は狭く、背はすぐに壁についてしまった。

「や……」

 恐怖が、ぞわりと音を立てて背を這い上がる。

「愚かな子供だ。こんなに簡単に罠に落ちてしまうなんて」

 彼の言うとおりだった。

 今まで、この叔父には注意をするようにと、どんなに言い含められたかわからない。それなのに無防備に彼の言葉を信じてしまった。

 何もかも、自分の落ち度だ。

 たぶん、エリンが台上に連れ出された時から、彼の計画は始まっていたのだろう。


「泣きわめいてくださいな、姫。それが見たい」

 すました顔で、ベネディクトは言った。それから、先程と同じく、暗い笑みに口元を歪める。

「その、姉上と同じ顔でね」

「……公爵、こんなことは……あなたのためになりませんわ」

 少女は泣きも喚きもしなかった。男を刺激しないように、慎重に言葉を選ぶ。

 こんなところで自分に何かあったら、父や、エリンや、ジェラルドや……城で待つ者達も、皆の努力が無駄なものになってしまう。

 泣いてはいられない。そういう立場なのだ。

(みんな……ごめんなさい……)

「……おや。冷静なんだね、マーゴット」

 優しげな顔を引きつらせて、ベネディクトは笑う。

「嫌になるな。吐き気がする」

 そして、吐き捨てるように言った。

「姉上に似てる」

 男の言葉がおかしい。

 少女に向けられている言葉のはずなのに、なんだかまるで独り言のようだ。

 冷静に考えれば、ここは彼の屋敷である。暗殺のチャンスは他にもいくらでもあるだろう。

 こんな風に自分で動かず、もっと別の方法をとった方がずっと安全だろうに。

「エリンやゲオルグは、どんな顔で君の保護者役をやってるんだろうなぁ」

 苛ついた様子で部屋を歩き回る目の前のベネディクト・ハミルトンは、社交界で見るハミルトン公爵とは別人のようだ。どことなく子供っぽくて、少女を絶体絶命に追い込んでいる割には浅慮にすら見える。

「……気持ち悪い。姉上にしか見えないのに」

(あ……)

 そこではじめて、少女は気付いた。

 政敵としてではなく……人間として、憎まれている。

 自分は、この男に。

 そしてこの憎しみは、自分ではなく、母に向けられたものだ。

「叔父様……」

 絶望で目の前が暗くなる。

 こんなところでまで、自分は母の代わりなのだ。


「……あなたは、お母様がお嫌いなのね」

 少女の声は、いやに冷静に響いた。

「……嫌い?」

 男は不満そうに目を細め、ずかずかと大股にマーゴットに詰め寄る。

 壁を背にした少女に逃げ道はない。せめて少しでも男と間を取ろうと左方に動こうとした体を、ベネディクトは容易く捕まえた。

「――ああ、大嫌いだとも」

 引き寄せた体を無造作に抱え上げ、人形遊びに飽きた子供のように、乱暴に寝台に投げ落とす。分厚いベッドマットのおかげで痛みを感じることは無かったが、のしかかってきた男にあっという間に両手を掴まれ、なすすべも無く背中側でそれを拘束される。ご丁寧に手錠まで用意してきたらしい。

「ぁ……い、嫌……っ!」

 無理に身をよじろうとすると、冷たい金属が皮膚に食い込んで痛い。横たわった体勢で両手の自由を奪われると、ドレスを着込んでいることもあって、うまく身を起こすことも出来なかった。

 足をじたばたさせたせいでめくれ上がったスカートからレースのペチコートが覗いている。けれどそれを直すことも出来ず、屈辱に涙が滲んだ。

 拘束され、醜くもがく様はまるで陸に揚げられた魚のようだ。

「ああ、良いな。無様だよ。そういう顔が見たかったんだ」

 ベネディクトはそんな皇女を可笑しそうに見下ろして、陶然と呟いた。




 広間のシャンデリアに光が灯され、高い天井が浮かび上がるように明るくなると、割れるような拍手が響き渡った。

 剣舞が終わったのだ。

 踊り子達が軽やかにお辞儀をして喝采にこたえる中、エリンは忌ま忌ましげにステージを降りた。

 余興の終わった即席の舞台は速やかに撤去され、代わりに豪華な料理の盛りつけられたテーブルが、料理と共に運び込まれていく。

 エリンは感動した客達によってあっという間に取り囲まれ、途方に暮れた顔で彼らの賛辞を受けていた。

 そして、広間の中央にはそれを満足げに見つめるベネディクトの姿があった。




「マーゴット……!?」

 最初にそれに気付いたのはゲオルグだった。

 彼は年寄りの客のひとりに捕まって長話を聞かされていたせいで、娘のそばに戻り損ねていたのだ。ゲオルグの不安げな言葉を聞いた周りの者は、改めて皇女の姿を上座に探し、彼女が居ないことを知る。

 囁きあう声が大きなどよめきに変わるのに、そう時間はかからなかった。皆が口々にそのことを口にする。

 ――皇女が居ないと。


 華やいだ雰囲気が一転し、不穏な空気が辺りを包む。中庭に面した窓がひとつ開いているのに気付いたのは、近くに陣取って、おしゃべりに興じていた女達だ。

 今まで誰も気に留めていなかった、広間の隅の大きな窓がひとつ、不自然に開いている。

 重いカーテンが夜風を受けて気だるげに揺れる様子は、まるで、皇女の失踪に気付けなかった広間の客達をあざ笑っているようにも見える。

 まさか、余興の間に誰かが広間に侵入したのか。

 もしかして、客に化けて潜り込んだのか。

 今も広間に居るかもしれない。

 疑心暗鬼が広がると、人々は容易くパニックに陥る。その騒ぎを広間の隅で見つめていたエリンは、混乱に紛れて広間を抜け出した。


「静粛に! 落ち着きなさい!」

 ベネディクトの言葉が響く。

 貴族達は彼の言葉に従順で、たった一言で広間にスッと静寂が戻る。そして、不安げな客達にベネディクト・ハミルトンは告げた。

「皇女殿下をお探しする。今広間にいる者は全員、その場を動かぬように」

 広間に入ってきた兵士達に、まず中庭から探すように指示した彼の采配を、不自然と思う者は居ない。

 娘の不在を知ったゲオルグは絶望に凍りついたが、しかし、皆の前で取り乱すことはしなかった。その代わり、腹の底が腐り落ちるような、言い知れない不確かな恐怖が、男を床に縫い付けていた。

 ここはベネディクト・ハミルトンの居城。これまでの長い膠着状態、見えない敵として対立してきた相手の城だ。

 ここで娘が姿を消したということはつまり、無事戻らない可能性が高いということ。――彼に近づくことの危険は、重々承知していたはずなのに。

「………………」

 エリンが足止めされたことを、最初に怪しいと気付くべきだった。

 そして、すぐにマーゴットの傍に戻るべきだったのだ。

 無視できない相手に捕まっていたせいで、移動は余興が終わってからにしようと考えた、それがそもそもの間違いだったのだ。

(間違い……? いや、もしかして……)

 ――全てがベネディクトの罠であったのだろうか。


「大公殿下、ご安心ください。おそらく、さほど遠くへ逃げる暇は無かったはず。すぐに見つかりますよ」

 青ざめた顔のゲオルグに、ベネディクトは優しく声をかけ、椅子をすすめる。

「……すまないな」

 本当は殴ってでも娘の居場所を聞き出したいが、この場でのゲオルグには、今の言葉の他に台詞はない。

「とんでもない。皇女殿下はエウロに必要な方です。何にかえてもお探しします」

 白々しいセリフを唱える、ベネディクトの口元が不自然に歪む。

 ベネディクト脳裏には、勝利の輪郭が浮かび始めていた。

「私にしても、彼女は世界にひとりだけの、大事な姪ですからね」

 貴族達が心配そうに見守る中、皇女の捜索は、全く見当違いの場所で行われようとしていた。




 その頃、少年は姉を探して、広い廊下を一人走っていた。

 少年はただやみくもに走っていたわけではない。

 姉が消えていった方向を考えて、広間の裏側に回ろうと考えて移動していた。

 しかし、屋敷は広く、広間に隣接する別の部屋がいくつもある。

 位置的には広間の真裏に消えていったはずだが、どの部屋に姉がいるのかは見当もつかない。

 それに当然、どの部屋も施錠されている。部屋が庭に面した作りであったなら壁伝いに忍び込めそうだが、そう簡単にはいかないようだ。

 こんな時どうすれば良いのかなんて、経験の浅いジェラルドには見当もつかなかった。まさか、この並んだ部屋のドアをひとつずつ壊して回るわけにもいかない。

 どうしよう、一度広間に戻ってエリンを頼るべきだろうか。

 けれど……それで良いのか? 本当に?

 少年の心が迷いで曇りかけた時、彼を呼び止める声が耳に届いた。


「ジェラルド!」

 ロディスだった。

「ロディス様……どうして……」

「君が……広間を出るのを見かけたから……だよ。姫の姿が……見えなかったから、何か……あったのかと……」

 息を切らせて走ってきたロディスは、途切れ途切れにそう言った。

 気を張っていたらしい少年は、ロディスの顔を見て安心したのか、子供らしい不安げな表情を見せる。

「姉上が、ハミルトン公爵と二人で広間の奥へ入っていったんです。先生は気付いていたかどうか分からないんですが、動けそうになかったから……僕だけで……」

「え? ……公爵と?」

 落ち着かない口調でたどたどしく語られる意外な言葉に、ロディスは思わず聞き返す。ジェラルドが神妙な表情で頷くので、青年も改めて事態の重大さを思い知ったようだ。

 深く息を吸って呼吸を整え、青い目に複雑な色を宿して周囲を見回す。

「……それは、困ったね」

 少年は白い頬を強ばらせて頷いた。

 罠に嵌まったことまでははっきりしているのに、抜け出る糸口がどこにもない。

 皇女の命はまさに今危機に瀕しているかも知れないのに。

 ――大胆な公爵の罠は、しかしここが彼自身の屋敷であるということによって、ほぼ完璧なものとなっていたのだ。




 ベネディクトが部屋を去って、どのくらい時間が経ったのだろう。

 目が届く範囲に時計が無いせいで、時間の感覚がさっぱり分からなかった。

 はじめはほとんどパニック状態だったけれど、一人にされて少し時間を置いたおかげで、どうにかまともな思考ができるようになってきた。

 なんとか、助けを呼ばなければ。

 エリンもジェラルドも、この部屋のすぐ上にいるはずなのだ。

 けれど、ここで叫んだとしても上には聞こえないのだろう。でなければ、ベネディクトが自分の口を封じずに部屋を出るわけがない。

「う……」

 寝台を降りようと身をよじる。手首の骨に手錠の金属がきつく当たって痛いけれど、そんなことを言ってはいられない。おそらく、次にベネディクトがここに戻ってきたらおしまいだ。

 彼が自分に見せた憎しみを思い返すと、心が凍りつきそうになる。

 ハミルトン公爵が自分にとって政敵にあたることは理解しているつもりだったけれど、あんな風に憎まれていたなんて。

 公爵と母は姉弟である。弟だったら自分にもいる。

(血の繋がった姉弟なのに……)

 もしもジェラルドに、あんな風に憎まれたとしたら。

 考えただけで、鉛のように心が重くなる。けれど、今それを悩んではいられないのだ。黙ってここで殺されるわけにはいかないのだから。

 何か……何とかして、自分がここにいることを外のエリン達に知らせなければならない。

「あ……っ!」

 ベッドから降りようとして無様に落ちる。

 思いきり肩を打ったが、痛みに構っている余裕がないせいか、あまり痛いとは感じなかった。

 そのまま、足で姿勢を変えて、身体を起こし、ヨロヨロと立ち上がった。

 恐怖と緊張に膝が震えている。ふがいない身体に鞭を打つように少女は顔を上げて、改めて部屋を見回した。

 出入り口は一つだけ。先程ベネディクトが鍵をかけるところは見たので、おそらく開かないだろう。

 ドア自体は木製の、ごく普通のドアのようだから、大人の男性なら蹴破ることも出来そうだが、マーゴットの力では無理そうだ。

 スペアキーでも保管していないだろうかと、デスクに駆け寄る。

「あら……」

 思わず目が留まったのは、写真立てだった。小振りなものばかりだったが、卓上にいくつも立ててある。

 見覚えのある風景。どうやらアヴァロン城で撮影されたもののようだ。

 古い写真だったが――そこには、自分が映っていた。

 ――いや、違う。これは自分じゃない。

「お母様……?」

 少女自身が見ても自分だと勘違いしてしまいそうなほどに、幼い母の姿と自分は似ていた。こんな幼い母の写真を見るのは初めてだ。今の自分と同じくらいのものも、もっと幼いものもある。

 そして、どの写真も少し年下の……おそらく、ベネディクトであると思われる少年と一緒に写っている。

 あんなに母を憎んでいるベネディクトが、どうしてこんな写真を多く手元に残しているのだろうか。

 写真の中の二人は、どれもみな笑顔だった。


 改めて見回してみると、この部屋はやはりどこか奇妙だ。

 本棚に並んでいるのは、見たところ初代皇帝の施策に関する文献や帝室の家系図、自治区の歴史書などのようだ。どれも市販されているような書物ではない。

「叔父様……」

 姉のことを大嫌いだと吐いて、子供の頃の写真を机に飾る。

 この小さな秘密の部屋に、見えない叔父の本心の欠片が隠されているような気がする。

 それは――少女が今、見落としてはいけない何かなのではないだろうか。

 本棚を見上げていると、ふと、大事そうな木箱が上の方の棚に置かれているのに目がついた。何か……小さなものを仕舞うのに丁度良いくらいの箱だ。

(鍵が入っているかもしれない)

(何とか、あの箱を床に落とせないかしら……)

 後ろ手に拘束されているので、手は伸ばせない。

 椅子に上ったらどうだろう。不自由な体でどうにか机の傍の椅子を後ろに寄せ、その上に足をかける。

(うまくいくかしら……)

 椅子の上に立つと、目論み通り、木箱は目の前にあった。

 あとはこれを上手く床に――

「きゃ……!」

 不安定な椅子の上で不用意に重心を移動したせいだ。グラッと身体が傾いだと思った時にはもう、体は椅子ごと後ろに倒れていた。

「っ!!」

 肩から背中にかけてが何かにぶつかる。激しい痛みと共に、何かがガシャンと落ちる音がした。少女の体は、真後ろにあった机にぶつかったのだ。

 衝撃で、机に置いてあったものがいくつか落ちたらしい。

「う……」

 痛い体をよじり、身を起こそうとしたところで、異臭に気がつく。

「え……?」

 机の向こうから、何かが焦げるような匂いと……黒い煙。何だろう、何かが落ちて……カーペットが燃えて……ランプだ!

 さっきまで机の上でゆらゆら揺れていた、アルコールランプが落ちたのだ。

 慌てて起きようともがくけれど、今度はうまく身体を起こすことが出来ない。

 少女はじたばたともがいて、芋虫のように床を這うことしか出来なかった。

「っ……!」

 したたかに打った肩がひどく痛む。

 どうしよう、燃えている。

 これでは、脱出どころではない。

 油の零れたカーペットからは、しばらく黒煙が上がっていたが、やがてパッと火がつくと、あっという間に天井まで届くばかりの勢いで炎が上がる。

 こんなに簡単に火がついてしまうなんて。

「う……く……っ……」

 何とか火を消せないだろうかと火元に這いよってみるが、一度燃え上がった炎は、両手を拘束された状態の少女ひとりではどうすることも出来ないものだった。

 火の付いたカーペットを動かそうにも、しっかりデスクの下に敷かれているそれを動かすことはできない。

(どうしよう……どうしよう……)

 ああ、こんな状態で、この火をどうしたらいいのだろう。

 消さないと、と、それだけは分かるけれど、何をすれば正解なのか、見当もつかない。

 空気はみるみる熱くなり、吸っても吸っても息が苦しい。

 どうしよう、これでは……

(……あの人に殺されるより先に、死んでしまうわ)

 少女が途方に暮れている間に、火はまるで生き物のように、狭い地下室の酸素を貪って広がりつつあった。




「あれ……?」

 足を止めたのはロディスだった。

 彼が違和感を口にした次の瞬間、ジェラルドも同じことを感じたらしく、眉をひそめ、二人は顔を見合わせる。

「何か……焦げ臭いよね」

「はい」

 微かに混じる、何かが焼け焦げる嫌な臭い。

 ここは屋敷の中である。

 深く考えるまでもなく、それは異常事態を示す臭いであった。

「火事……?」

 けれど、どこにも火なんて見えないし、騒ぎになっているような気配も無い。

「……この部屋です」

「そうみたいだね……」

 異臭は木製のドアのすき間から流れてくるようだ。

 他の場所に異常が無いだけに、それがはっきりと分かる。ロディスは短く頷く。消えた皇女を追いかけて、炎の気配に遭遇するなんて、偶然とは思えない。

 だとしたら、今は、人に知らせるよりも先に、中を確認してみるべきだ。

「ジェラルド、中に入ろう」

 たとえ何も無くても、この臭いなら勝手に部屋に入った言い訳もできるだろう。迷う様子無く言ったロディスに、ジェラルドは無言で頷く。

 幸い、その部屋のドアはごくありふれた、見栄えがいいだけの木製ドアで、そう頑丈な鍵がかけられているような様子は無かった。

 こういうドアなら、思いきりやれば蹴破ることができるだろう。

「人の家だし、ちょっと気は引けるけど……」

 辺りを見回して誰の目も無いことを確認して、ロディスは深く息を吸い込んだ。




 視界は既に濃い霧がかかったように不鮮明だった。狭い部屋なのに、煙のせいで向こうの壁も見えない。

「う……」

 意識が遠くなる。何度も何度も、断続的に短く気を失いかけては意識が戻るのを繰り返しているような気がする。

 少女は立ち上がれなかったおかげで、かろうじて部屋に残った空気で呼吸することができていた。少しでも頭を上げると充満する煙を吸い込んでしまい、たちまち酸欠で倒れてしまうことを、彼女は知らない。

 ただ、自由にならない身体と炎への恐怖と絶望で、ぐったりとその場に倒れて、動けずにいただけだ。

「………………」

 吸い込む空気が熱くて、肺を蒸されているようだ。

 偶然に味方されて僅かに命を長らえながら、マーゴットは、ふいに、ここで死んでも構わないと思った。

 無責任かもしれない。

 だけど、これは……これでは、仕方ないのではないか?

 哀れな少女を無慈悲にを食らいつくしつつある炎は、もしかすると、彼女自身を救う、許しの光なのかもしれない。

「お父様……わたくしは……」

 汚れたこの身を、呪われた魂を、跡形も残さず燃やし尽くしてくれるなら……熱いのも苦しいのも今だけだと思えば我慢できる。

 弱気な心が囁く。

 ここで終わりになるのが運命ならば、それを、受け入れれば良いだけのこと。

(後のことなんて、もう――――)




「な……!」

 ロディスは思わず叫んだ。

 ドアを破って中に入ると、部屋は薄い霧のような煙に覆われていた。これは想像したよりもずっと酷い。

「……ジェラルド、煙を吸わないようにね」

「はい」

 ハンカチで口を覆って辺りを見回す。けれど、部屋の中に炎は見えなかった。

「火元はここじゃないのか……?」

 煙が目にしみる。身体をかがめてよけようとすると、ジェラルドが袖をくいと引っ張った。

「ロディス様、こっち……」

 少年は部屋にかかってあった絵を差した。なるほど、煙はこれの向こうから流れてきているようだった。

 絵を外してみると、壁板の継ぎ目のようなすき間から、煙がもれ出ている。しかし、一見しただけでは、裏はただの壁に見えた。

「壁だけど……」

 難しい顔で考え込むジェラルド。ロディスは首をひねった。

「これじゃ……分からないな……」

 煙が漏れていることから考えれば、おそらく、この裏には何か通路のようなものがあるのだろう。ここのような大きな屋敷や城には珍しくない仕組みだ。

 けれど、隠し通路は容易に外部の人間が入り込めるものではない。ロディスの実家にも似たような仕組みはあるが、出入りの方法は家族と最上級の使用人にしか知らされていない。それぞれの家によって、様々な方法で関係者にしか分からない工夫が凝らされているものだ。

 煙の出る壁を見つめるロディスの隣で、ジェラルドはしばらくごそごそと周囲の壁を触っていたが、やがて、あどけない顔をスッと上げて口を開いた。

「……ロディス様、分かります」

「え?」

「……これ……僕、その、分かります」

 言いかけて少年は僅かに言葉を濁す。

(分かるって……もしかして、アヴァロン家と同じ仕組みってことか?)

 他家の者に口外してはいけないと言いつけられているのだろう。ジェラルドは苛立たしげに目の前の壁を撫でている。その様子が子供っぽくて、ロディスは少し可笑しくなってしまった。

 緊迫した状況にも関わらず、苦笑が浮かぶ。

「……分かったよ、ジェラルド。開けられるんだね」

「……はい。たぶん」

「僕は後ろ向いてるから、心配しなくていいよ。まぁ、見てても僕には、君や君の先生がいる城に忍び込もうなんて気は起きないけどね」

 クルリと後ろを向いて、肩をすくめる。

「だから、ジェラルド、急いで!」

「……はい!」


 背中の向こうで少年が何をしたのかは分からなかったが、それは一瞬の出来事だった。目の前にブワッっと煙が吹き出たのに気付いて振り向くと、壁には人が一人通れるくらいの穴が空いていた。

「うわ……」

「行きましょう!」

 驚いている暇は無かった。

 そのまま煙を吸わないように身体を低くして中に入る。石造りの冷たい壁が手に触れる。

 そこは、薄暗い階段の途中だった。

「これは……」

 ロディスは思わず足を止めた。

「滑りやすいようです。お気を付けて」

 少年の言葉が過剰にこだまする。視界が悪く、下り階段には果てが見えない。随分と深いようだ。

「地下に……続いてるのか……?」

「そのようです」

 下へ下へと降りていくその向こうに、火元はあると思われた。




「離せ! ベネディクト!」

 ぐるりと衛兵に取り囲まれた広間で、ゲオルグの怒鳴り声が響く。ずっと冷静を装ってはいたが、身動きのとれないままの歯がゆい状況に、いよいよ気持ちを抑えることが出来なくなったらしい。

 貴族達は皆、息を潜めるようにして、事の成り行きを見守っていた。

「いけません! 今お探ししていると言ったはず、あなたまで危険な目に遭ったらどうする……」

 一人で出て行こうとするゲオルグを、傍にいたベネディクトが押しとどめる。

「私のことなどどうでもいいんだ! 彼女に何かあったら……!!」

「皆、気持ちは同じです。……大公殿下」

「貴様……」

 ゲオルグは言葉を飲み込んで、拳を握りしめる。

「ゲオルグ、気をしっかりもって」

 気も狂わんばかりの絶望感に、喉の奥がちりちりと焼けるようだ。

 ここは今、全てがベネディクトの有利に動いている盤上。彼はまるで一歩も動けない哀れなキングだ。

「今度はきっと、祈りは届きます。姉上の時とは違って、ね」

 ベネディクトの勝ち誇った顔は、どことなく彼を冷遇した祖父に似ていた。




「ここだ!」

 ロディスが叫ぶ。

 煙を辿って延々地下へと降りる途中に、その部屋はあった。

 外から簡単な鍵がかけてあるドアを夢中で破って、そこで、倒れている少女を見つけた。

「姉上!」

「姫……!」

 呼びかけてもマーゴットはピクリとも動かない。気を失っているようだ。

「隠し部屋……」

 そこは、薄暗い通路のイメージからはかけ離れた、きちんとした書斎だった。

「何故こんなところに、こんな部屋を……」

 けれど、ロディス達には、次々と浮かぶ疑問について考えを巡らせている時間的余裕は無かった。机とその後ろの本棚が燃えており、高い炎が天井を炙っている。

「急がないといけない。ジェラルド、姫を連れて出るよ」

 この部屋が屋敷のどの辺りに位置しているのかの見当はつかないが、火勢は衰えそうに無い。もたもたしていたら自分たちも煙にやられそうだ。

 ぐったりした少女を抱え、炎を避けながら部屋を出て、がたつくドアをどうにか閉める。

「急ごう!」

「でもロディス様、どっちに……!?」

 来た部屋へ戻るには階段を上に上らねばならない。けれど、それは今まさに煙がのぼっている方向へ戻ることになる。

 この通路は狭く、上へ戻るのは危険だ。

「……下へ! ここは公爵家の隠し通路だ。必ず出口がある」




 ロディスの判断は正しかった。

 階段を下りると煙は彼らを追いかけることはせず、通路はすぐに水路らしき開けた場所に出た。

 深い場所を流れる水路のようだ。管理する者がいるのか、点々と小さな明かりがついている。流れは冷たく澄んでおり、水と共にどこからか新鮮な風が流れてくる。出口は近くにあるようだ。

「はぁ……」

 ひやっとした冷たい空気が襟元に入り込む。煙の中を進んできたせいか、まともな空気がやたらと美味く感じられた。

 水路の水にハンカチを浸して、ぐったりしたまま目を覚まさないマーゴットの額に水を流す。

「姉上……」

 ジェラルドは心配そうに呟いて、姉の手をしっかりと握る。

「大丈夫、息はあるよ。でも……はやく医者にみせた方がいいね」

「……とりあえず、手錠を外します」

 姉の無事を確認してホッとしたのか、少年は少し落ち着いた様子で言った。

「外せるの?」

「はい。このタイプなら」

 呆気にとられて見ているロディスの前で、少年はごそごそ小さな道具を取りだすと、テキパキそれを外してしまった。

 彼のような幼い子供がこんなものまで持ち歩いているのだろうかと、ロディスは内心恐ろしいような心地がしたが、こんな時は本当に頼りになる。

「ジェラルド」

 冷静な横顔に、ふと声をかける。

「君は、姉さんが大切かい?」

「えっ?」

「それとも、姉さんが皇女だから、大切なのかい?」

 初めて会ったときからずっと、尋ねてみたいと思っていた疑問だった。

 この少年は、自らの運命をどんな風に思っているのだろう。

「ロディス様……?」

「難しい?」

「………………」

 少年はあどけない顔に微かな困惑を浮かべ、黙り込む。しかしやがて、小さな声で言った。

「……僕には、わかりません。姉上が姉上であることと、姉上が皇女であることは、同じです」

 三百年にわたり、アヴァロン家は一度も帝位を脅かされたことがない。

 大きな戦争が起こらない時代の中、彼ら影の剣たちは、敵となるものを一人一人消して、帝室を守り続けた……いわば生けるセキュリティシステムのようなものだ。

 目の前の少年も、生まれながらにして人ではなく、皇女の持ち物である。

 けれど、ロディスが漠然と抱いていた機械的な暗殺者のイメージより、剣たちはずっと人間らしく見えた。

 彼らは持ち物としてでなく、あくまで人間同士の絆をその理由に、主を守ろうとしているようだ。

 少年は剣として育てられたことを恨まず、きっと姉を心から愛している。

 ロディスにしてみれば、奇妙とすら思える特異な精神性であるが――おそらく、だからこそ、帝室の剣は強いのだ。


 自由になった少女の手首は、随分暴れたのだろう、あちこち皮膚が破れ、痛々しい傷になっていた。よく見ると火傷もあるようだ。ジェラルドが沈痛な面持ちで姉の手をそっと取ろうとした、その時だった。

「!!」

 少年はパッと顔色を変えて立ち上がる。そのまま、弾むように小さな体が宙を舞った。

「ジェラルド!?」

 何が起きたのか分からないロディスの前に飛び出した小さな体の上に、何者かの影が落ちて――同時に、乾いた音が地下水路に響いた。

「誰――」

「ロディス様、姉上を!」

「――っ!!」


 敵だ! 

 少年の言葉に、慌てて少女の体を抱いて庇う。

 見上げると、ジェラルドの細い両腕に、刃物が生えているように見えた。

 特殊な形状をしているが、短剣のようだ。少年は両の腕をそのまま剣のごとく振りかざし相手に切り掛かった。

 ジェラルドの太刀筋には遊びがなく、まっすぐ相手の喉笛だけを狙っていく。

 ああ、先程のエリンの剣技にとても似ている、と、ロディスは思った。

 そして同時に気付く。向かいに立つあの男は、先程広間でエリンを相手に舞っていた男ではないか?

 黒い、男だ。

 長身に似合わない身軽さと、血の通っていないような白い顔。

 そして、人とは思えない、赤い瞳。

 仮面のような無表情に、底知れぬ気味の悪さを感じた。




 ドオ、と、鈍い音が響いてくる。

 天井の焼け落ちる音だ。

 隠し部屋を焼き尽くそうとしていた炎は、そのまま上へ上へとその手を伸ばし、今は屋敷の床を炙っていた。

 しかしながら、多くの使用人がベネディクトの命令で皇女を探しに庭に出る中、広間の真裏に位置する部屋に広がりつつあった火災に、気付く者はまだ無い。

 ただ一人その異常に気付いていたのは、裏庭にいたエリンだった。




 男の風のような一撃は、しかし少年の身体では支えきれない程に重い。

 体重が足りず、衝撃を受け止めた足がズルズルと後ろに下がる。

 銃を使おうとしないということは、たぶん、相手も自分と同じ、誰かの影を司るものなのだろう。

 誰の? それは自明だった。ハミルトン公爵のものに違いない。

(この男……)

 似ているけれど、自分たちとは戦い方が違う。

 男の手には、ジェラルドの物より随分と長い刃物が握られていた。

 得物が短く、間合いを詰めなければ攻撃があたらない少年にとって、重い上に早く、おまけにリーチの長い相手は厄介だ。

 だけど、エリンにもよくこういう長剣で稽古をつけられていた。なんとなく――対処の仕方は分かる。

「お前……も、皇女の剣か……」

 どことなく驚きを含む声だった。

 たぶん、自分の存在を知らなかったのだろう。

(……どうりで、不用意に襲ってきたわけだ)

 大人には狭い足場が、少年には好都合だった。躊躇わず懐に飛び込む。

 一撃必殺のつもりで心臓を狙った――が、すんでのところで後ろにかわした男の胸に届かない。

(読まれてる?)

 間を置かずもう一撃、二撃――

 男は後ろに飛び退いた。その僅かな隙に、少年は背後のロディス達の方をチラリと見る。心配だったのだ。

 けれど、刹那の油断を男は見逃さなかった。

 一歩で間合いを詰めた男が、ジェラルドの首を切り裂こうと腕を伸ばす――

「あ……っ!」

 男の攻撃は正確だった。自分と同じだ。急所しか狙わない。

 ――殺されると思った。

 だが、少年の体はそれをすんでのところで避けていた。

 偶然? ――ありえない。

 幸運? ――それもおそらく違う。

 切っ先が薄い皮膚を切り裂く寸前に、身体をねじってそれを逃れる。

 傍で見ていると、恐ろしく洗練された身のこなしに見えたことだろう。けれど、それは違うのだ。少年はただ、怖かっただけだ。

 身体が、痛みを知っている。

 男の刃が自らを殺す痛みがただ、怖かった。

 痛いのは嫌なのだ。だから――考えるよりずっと巧みに、身体が逃げた。

(――先生……!)

 エリンがなぜ容赦も手加減もしてくれなかったのか、はじめて分かった気がした。

 その後は考えるよりも先に身体が動く。

 攻撃をよけられることを想定していなかったらしい男の腕の下に潜り込み、そのまま飛びかかる。

 両手の短刀でバランスを崩した男を押し倒し、とどめを刺そうとしたが、男は持っていた剣から手を離して、少年の手首を掴んだ。

 落ちた剣の、乾いた金属音が地下の空間に響く。倒されたまま、そいつは赤い目を細めて笑った。

「……エリンに似ている。忌ま忌ましい」

「先生を知っている……? お前は……」

「……イノセント。小僧、私のことが知りたいか?」

「あ……」

 低い声がジェラルドを惑わせた。

 帝室の暗殺者、影の剣の存在を知る者は多いが、師の顔や、まして名を知る者は多くない。

 掴まれたのは片方の手だけで、相手も同じ条件だとはいえ、自分だって片手は空いている。体勢的にはこちらが有利なのだ。最後まで言葉を聞かずに刺し殺せば良かった。けれど、チラリとよぎった興味に、少年の手が止まる。

 純真イノセントと名乗った男の赤い目が不自然に光った気がした。それは高性能の義眼であったが、そのことを少年は知り得ない。

「お前……」

 ジェラルドが何か言いかけた時だった。


「油断するな! ジェラルド!」

 遠く、声が響いた。師の声だ。

「えっ?」

「――遅い」

「イノセントは、『二人いる』!」

 どこからか届いたエリンの声と、倒されたまま男が不敵に笑ったのがほぼ同時。危険を察知したジェラルドは、ハッとして振り返った。

 天井から何かが落ちてきたように感じた。

 瞬間、師の言葉を理解する。『二人目』だ。

 巨大な烏のようなそれは、ジェラルドではなく、皇女を狙っている。

「……っ!!」

 間に合え!

 捕まれていた腕を引きはがし、身を翻して一歩、二歩、新たに現れた敵を追う。あてずっぽうの剣は空を切り、少年の身体はそのまま水路に落ちる。

 けれど、相手もジェラルドの攻撃に対応せざるをえなかったせいで、自らの一手を諦めなければならなかったようだ。

 間に合った……が、たかが一撃を防いだにすぎない。

 水に体をとられ足が重かった。必死に起き上がると、はじめの一人が動くのが見えた。

 手放した剣を拾っている――けれど、そちらにはとても間に合わない。

「姉上ぇっ!」

 これでは、ロディスごとやられる。

 ――――駄目だ!

「無駄だっ!」

 少年の脳裏に敗北のイメージが焼き付く直前、エリンの手がロディス達の前へ届く。エリンはジェラルドよりずっと速く、長く、強い。

 攻撃姿勢に入りかけていたイノセントだったが、手を止めて飛び退いた。

 割り込んだエリンの動きに、過剰に怯んだようにも見える。庇う者が無い分、相手の方が有利だったはずなのに。

「先生っ!」

 通路の向こうではちょうど、降り立った二人目の男が立ち上がる所だった。

 ゆらりと起き上がり、エリンから逃げた二人目の男の隣に立つ。

「な……」

 思わず言葉をのんだ。

 二人のイノセントは、同じ顔をしていた。

「双子……?」

 まるで鏡を挟んでいるかのような、同じ服、同じ顔。 

 人形のように無機的な佇まいもそっくり同じで、異様さが際立つようだ。

 ただし、よく見ると、ひとりの目は紅で、もうひとりの目は漆黒だった。

「………………」


 双子の刺客は押し黙り、エリンを睨む。

「……久しいな、イノセント。生き延びていたとは思わなかった」

 静かに口を開いたエリンの言葉は意外なものだった。彼らはやはり、顔見知りなのだ。

「私の目は以前よりよく見える。今にお前に死をくれてやる」

 赤い目の一人が言った。

「まがい物の剣にそのようなことは出来ぬ。お前などジェラルドにすら勝てはしない」

「エリン……」

「待て」

 僅かに怒りを滲ませる片割れを、黒い目のイノセントが制する。

 ずぶ濡れのジェラルドはゆっくりと姉の側に移動し、小さな背で二人を守るように立つ。

 これで二対二。

 だが、こちらにはエリンがいる。もう負けない。

 ロディスはただ、未だ目覚めない皇女を抱いて、彼らのやり取りを見つめることしかできなかった。

 嫌な静寂が辺りを包んで――やがて、イノセントの赤い目がチラリと光った。




「旦那様っ! 大変です!」

 広間に走り込んだ使用人の女が、悲痛な声で叫んだ。

「火事です! 皆様、お逃げくださいまし!!」

 息を切らせて叫んだ声に、人々ははじめ意味が分からないといった様子で顔を見合わせる。

 しかし、間もなく開け放たれたドアから煙が侵入しはじめ、それが彼ら自身にも危険が及ぶものであると分かるやいなや、一気に恐慌に陥った。

 避難の指揮をとるべき衛兵達も状況が掴めずにバタバタと走り回るばかりで、どちらに逃げれば安全なのかさえ、誰にも分からないような状況が広間を包んだ。

 火勢は、既に手の付けられない状況へと移りつつあった。




 ――全てが、ほんの短い時間の出来事だった。

「ジェラルド! 追うな!」

 双子が図ったように別々の方向に散っていくのを、追おうとした少年をエリンが制する。

「でも……」

 ジェラルドは不安そうにエリンを見上げた。

 彼の危惧は尤もだ。お互い姿を晒している今なら勝てるのだ。

 今あの二人を見逃したら、次またいつ襲われるか分かったものではない。けれど、エリンは首を振った。

「火が回っている。上はもう駄目だ。急がねば退路が無くなる」

「では……」

「水路を下流に辿る。おそらく、庭に井戸で繋がっている。……ロディス」

「え……はい」

「怪我は無いか?」

 唐突に自分に話を向けられて、ロディスは少し面食らったが、すぐに気を取り直して頷いた。

「大丈夫です」

「殿下を頼めるか」

 ほのかな通路の照明を背負ったエリンの表情ははっきり見えなかったが、少し笑っているようだった。

「……ええ」

「では、頼む。――行こう」


 夜空を照らす炎の赤。

 ハミルトン公爵の城が燃えていた。

 ようやく秩序を取り戻した衛兵に誘導され、来賓たちが次々と庭に避難する。

 着飾ったドレスはすすに汚れ、皆恐怖と疲れに疲れ切った表情をしていた。火事の原因について、皇女をさらった輩が火を放ったのだろうかと囁く者も多かった。

「どうして……どうして……こんなこと……」

 ベネディクトは側近に支えられながらうわ言のように呟く。

 無事に庭まで避難してきたものの、助けを借りないと膝から崩れ落ちてしまいそうな様子だった。

「私の館が……わたしの……ああ……」

 十六でアヴァロンを追われ、失意の中から築き上げた彼の城。燃えているのは絵や壁やカーテンではなく、ベネディクトの二十年なのだ。

「………………」

 対照的に、先刻まで取り乱して喚いていたゲオルグは無言だった。

 取り乱すベネディクトをしばらく黙って見下ろしていたが、やがて、フラリとその場を離れ、炎に包まれた屋敷の大屋根を見上げる。

 それは、もはや小手先の消火など受け付けはしない、天国まで届く烽火のような、圧倒的な炎だった。

 熱風が男を打つ。紅蓮に照らされた蒼白の横顔は、まるで別の景色を見ているようにも見えた。

「アーシュラ……」

 血の気の失せた唇が、ぎこちなく動く。

「君が……見ているのかい?」

 空を仰ぎ妻の名を呼ぶかすれた声は、おそらく、誰の耳にも届いていない。


「……大公殿下」

 音も無く現れたエリンが、ようやく見つけたと言わんばかりにゲオルグの肩を掴んだ。

「あ……」

 振り向いたゲオルグの呆けた表情が、みるみる怯えた子供のように変化していくのを遮るように、短く告げる。

「ご無事です」

「エリン……」

「申し訳ありません。危険な目に遭わせてしまった。私の責任だ」

「私は……私は……」

 夜露に濡れる芝生に膝をつき、父は、軋むような声で搾り出すように言葉を紡ぐ。

「私の……罰を、あの子が受けたのかと……」

 痩せた肩が震えている。

 エリンはそれを、ただ、黙って見下ろしていた。




 痛みと苦しみが途切れた後は、不思議と安らかだった。

 自分はついに死んでしまったのだろうかと、定まらないあやふやな思考の中で、マーゴットは何度もそう思った。

 苦しみは無い。悲しみも。

 むしろとても幸せだった。

 だから、もう――――

 ――けれど。

 『マロゥ』と、愛しい人が呼ぶ声がする。 

(私を探していらっしゃる?)

「ロディス様!」

 声を振り絞るけれど、うまく発声できないみたいで、自分の声は聞こえてこなかった。夢の中と同じだ。やはり、死んでしまったのだから、口はもう動かないのだと思った。

「――心配しました」

(ああ、ごめんなさい)

(あなたは、わたくしの夢なのですね)

 少女は思った。憐れなこの魂は、最後までこの人に未練があるのだ。

(心残りがあるのかしら)

(――――ええ、あるわ)

 心残りはただ一つ。たとえ報われないことが定められていたとしても、せめて、本当の気持ちを伝えておきたかった。

「ロディス様……わたくし……」

 今度はすんなりと声が出る気がした。

 周囲がぼうっと明るいおかげで、彼の顔がよく見える。

 随分と都合のいい夢だ。

 けれど、最後くらい良い夢をみても、バチは当たらないだろう。

 だから――

「……お慕いしておりました。初めて言葉をかけて下さった日からずっと」


 ずっと、本当はこの気持ちを伝えたかった。

 恋を知ったおかげで救われた。

 辛い時も、寂しい時も、忘れないでいられたから生きていけた。

(ああ、だから、あなたに、せめて、感謝を――)

「わたくし、幸せです。最後に、あなたのお顔を見られて」

 こちらを覗き込む、美しい顔にそっと手を伸ばしてみる。

 いつかこんな風になれたらと密かに願っていたことが現実になったみたいで、なんだかとても嬉しい。

(私は……――)

「最後に、なんて、悲しいことを仰らないで下さい」

 温かい手が、頬に触れた。

「――……え……?」

 乾いた唇が動く。

「あ……」

 そして、夜露の匂いのする、ひやりとした空気が肺に届いて――気がついた。

 これは、彼岸へ渡る刹那の夢ではない。

 もう一度、確認するように深く息をしてみる。

 乾いた土が水を吸い込むように、ぼんやりしていた手足の感覚が戻ってきた。同時に、身体のあちこちがひび割れるように痛む。

 燃えさかる隠し部屋に居たはずだ。

 助けてもらったのだろうか。

「すぐに医者が来ますから、大人しくしていてくださいね」

 優しい人の心配そうな顔が目に入った。

 柔らかい銀色の髪が、夜のせいかひときわ白く、光るようだ。

「わたくし……助かったのですか?」

「助からなかったように見えますか?」

「それは……」

 ロディスはちょっと意地悪そうに笑った。それから、その笑った顔のまま言う。

「さっきの言葉、本当ですか?」

「え……?」

「僕を好きだと言って下さった」

「……!」

 抱き起こされた姿勢のまま、咄嗟に飛び起きようとしてしまって、逆にしがみつくような格好になってしまう。

 ああ、なんてこと――どうしよう。

 さっきのが、夢じゃなかったなんて。

「わ、わたくし……その……」

 違うんです、とは、言えなかった。

 ようやく言えた言葉を否定したくない。

「姫?」

「わたくし……」

 だけど。

「わたくしは……」

 これが夢ではないならば。

「……駄目なんです」

 少女は、その気持ちを肯定することは出来なかった。

「何がです?」

「さっきの……は、嘘じゃ……ありません」

 すすけた頬に、涙が落ちる。

「でも、駄目なんです。わたくしには、ロディス様を好きになる資格がないの」

 愛の言葉の代わりに一粒、また一粒。

「許されないのです。そんな、勝手なことを……願うなんて。罪を……ええ、大罪を、負っているのですから。わたくしは……!」

 ずっと、この気持ちを支えに生きてきた。

 口にしないことで、伝えずにしまい込むことで、想いを抱き続けることを許されているような気がしていた。

 実らない恋は苦しいけれど、甘かった。

 だけど、言ってしまったら、伝えてしまったら……もう、だめだ。

 だめなのだ。

 ――今度こそ、本当に、諦めなければ。

「好きです。大好きです。初めて城でお会いした時から、ずっと……ずっと!」

 紡ぎ出した愛の言葉は、別れの誓いだ。

「お会いできなかった間も……どんな時も、何をしている時も、忘れたことなどございません。でも……でも……っ!! わたくしの罪は、決して無くならない。決して……終わらない!」

 ロディスは皇女を腕に抱いたまま、黙ってマーゴットの言葉に耳を傾けていた。少女の告白は悲鳴に変わり、やがて嗚咽になって、そして、押しつぶされるように掠れて小さくなる。

「ごめんなさい……ごめんなさい……わたくし……」

 青年は、少女の背に回していた腕に、静かに力を込めて、口を開いた。

「……姫、勝手を申し上げて良いですか?」

 小さく笑って、涙に濡れた紫の瞳を覗き込む。

「結婚してください」

 全ての言葉や、気持ちや、音や、光が、輪郭を失い、静寂に溶けていくようだった。彼の言葉の意味が分からない。

「あなたは、その罪を背負ったままでいい」

 心臓が、止まってしまうと思った。

「僕にはまだ力が無い。だから、今すぐあなたを連れ去ることは出来ない。けれど、いつか、必ず、お迎えに上がります。だからマロゥ、共に歩みましょう」


 ロディスの肩越しに、轟々と天を突くような、炎が見えた。

 本当なら今ごろ、自分の体もあの中で灰になっていたはずなのだ。


「……信じられませんか?」

 少女が黙り込んでしまったせいか、ロディスは少し困ったように首をかしげる。

「そ……んな、ことは……だけど、それは……それでは……」

 何もかもどうなってしまっても良いと思ってしまいそうな歓喜。

 だけど、言葉が詰まる。言えないけれど、言わなければ、この人を騙すことになってしまう。

「わたくしは……わたくしの罪は、重いのです。夫となる方に、幸せを差し上げることができないかもしれない。それなのに、自分だけ……」

 傷だらけの手で顔を覆った少女の気持ちを見透かしたように、ロディスは微笑んだ。大人のような子供のような、不思議な笑顔だった。

「この間、言いましたよね、マロゥ。僕はエウロのために生きようと思った人間です。そのためには、何だって利用しようと思って、あなたに近づいた。それなら、どうでしょう?」

「ロディス様……?」

「ほら、ね、ちょうどいい政略結婚になりませんか?」


 ロディス様が笑う。

 この方はいつもこうだ。

 魔法のような言葉と笑顔で、私を翻弄する。


 風に舞う火の粉が、流星のように夜空をチラチラと渡っていく。

 改めて、何もかもが夢なんじゃないかと思っていた。

 だって、これでは――幸せすぎる。

「マロゥ?」

「はい」

「オーケー?」

「……はい」

 目を丸くしたまま勢いで頷いた少女を、青年は少し見つめ、それから、困ったようなため息と共に抱きしめた。

 心の中で、少女は思う。

 あなたは知らないだけなのだ。きっと後から悔やむに決まっている。

「じゃあ……約束ですからね。迎えにいくまで、誰の求婚も受けないで下さいね」

(ああ、でも……ごめんなさい)

(その言葉に、すがらせて欲しい)

(せめて、今だけでも――)

「……はい」

 こうして彼らは、二人だけの約束を交わしたのだった。

 涼しい初夏の、忘れられない夜の出来事である

 皇女マーゴットの無事は間もなく人々の知るところとなり、その夜の一連の事件は、結局、事故という形で対外的な決着をみることとなった。

 ハミルトン公爵による皇女暗殺未遂は闇に葬られたが、その代わり、皇女を危険に晒した公爵は、帝室に大きな借りを作ることとなった。


 日の出の勢いだった公爵家と彼が支配する派閥の勢力は、この夜の事件によって多少の翳りをみせ、力を失いつつあった帝室はその権威をいくらか取り戻すこととなる。

 これにより、エウロ貴族界のパワーバランスは、ほぼ、皇女帰還以前までの状況に巻き戻された形となり――

 貴族達は相変わらず、混沌としたゲーム盤の上を踊り続ける。

 ――本当の変革の日が来る、その日まで。



 ロディスはあの夜の約束を黙したまま、再び直轄区へと戻っていった。

 彼が皇女マーゴットと正式な婚約を交わすのは、それからさらに、五年後のことである。

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