十二 光の方へ
数日が、穏やかに過ぎた。
ゲオルグは公務で城を留守にしており、マーゴットは部屋から出ようという気分にはならなかったものの、手に負えない悲しみや激情に心を乱されることなく、静かに、息を潜めるように過ごしていた。
それはとても、天気の良い正午前だった。
そろそろ昼食の時間だけれど、ジェラルドが食事を運んで来る気配がしない。
まぁ、それならばそれでいいかと、いつもの椅子に腰をかけ、少女はぼんやり考えていた。
空腹ではないけれど、ジェラルドが長い時間自分の前から姿を消すことは普段無いことなので、少しだけ落ち着かない。ほんのり心配に思いつつ、日の差すバルコニーを眺めていた時、唐突に視界に弟が現れた。
「……えっ?」
どこからやってきたのか、視界の外から舞い降りてきたジェラルドは、バルコニーの手すりの上にひょいと降り立った。突然のことで、手品か何かを見せられたような感じだ。
全く、だんだんエリンに似てきたようだ。呆気にとられている姉の元に、弟は嬉しそうに駆け寄る。
「姉上に、お客様です」
そして開口一番、満面の笑みで言った。
「え? お客様だなんて……」
聞いてないわ、と、言おうとしたのを、ジェラルドが遮る。
「内緒のお客様です」
「内緒の……?」
「はい」
「……どなた?」
「お会いになればわかります」
仕方なく、ジェラルドに言われるままに部屋を出た。
クヴェンに見つかるのではないかと思ったけれど、彼は今朝納入されたワインの検品で、地下のワインセラーに篭もっているのだそうだ。
そうなると、皇女が自らの剣と二人で庭に出るのを怪しむ使用人はいない。手を繋いだままスタスタ歩くジェラルドに、半分眠ったような時間を過ごしていた少女の足は追いつかない。
「はやいわ、もう少しゆっくり……」
「あ……すみません」
浮き足立っていた少年は、ハッとした様子で歩みを姉に合わせる。ジェラルドと並んで、少女は庭をコソコソと歩いていく。
どこまでいくのだろうかと、不思議に思いつつ周りを見回すと、庭の花々が生き生きと美しいのに、何となく久しぶりに気付いたような気がした。
そういえば、今は花の季節だ。
心が洗われるような心地になって歩いていると、マーゴットの紫の瞳に、今度は天と地がひっくり返るような光景が飛び込む。
「……こんにちは」
「え……!?」
木漏れ日の中、植木の幹に軽くもたれたその人影が、彼女に気付いて手を振ったのだ。灰銀の髪に光が揺れて、キラキラ光っているように見えた。
「本当に連れてきちゃうなんて、驚いたな、ジェラルド」
「ですから、お連れしますと申し上げました」
「ああ、本当だね。ありがとう」
ロディスとジェラルドはこんなに親しかっただろうか。友人のように笑い合う二人に、マーゴットは全く付いていけない。
「あの……」
「お久しぶりです、殿下。といっても、一週間ぶりくらいですけど」
まごついて俯く少女に、ロディスは屈託なく笑った。
突然の出来事に、マーゴットはろくに返事も出来ず、おもちゃの人形のようにコクコクと無言で頷く。
一体どうして、何がどうなって城内に彼がいるのだろう。
(内緒のお客様って、私に、つまり、それは、ええと……)
答えは分かりきっているのに、少女の心はそれを理解しきれない。そんな内心を少しも気にしないような顔で、ロディスは本題を口にした。
「天気も良いですし。城下にでも遊びにいきませんか?」
「え? 城下……」
マーゴットは、今度は本当に意味が分からないといった様子で首をかしげる。
城下とは、城の外のことではないか。
遊びに行くとは、外に出ようと言っているのか? どうして?
「――デートにお誘いしてるんですよ」
ロディスがクスクス笑いながら説明し直すと、マーゴットの丸い頬は、みるみる林檎のように紅潮していった。
(どうしよう)
(どうしよう!)
(どうしよう!!)
幌馬車が石畳を下る小気味よい揺れに、頭の中が連動しているように錯覚する。揺れているのは馬車と、少女と、その心だ。
マーゴットとロディスは、空の酒瓶のすき間に挟まるようにして、人目を忍んで城門をくぐり抜けた。
大勢の衛兵がいるので、見つかりはしないかと少女は心配げだったが、城では平穏が長く続いていたから、毎日出入りする店の馬車の荷台などはいちいち調べない。おかげで二人はあっさりと外に出ることが出来た。
「手間をかけたね」
門を出てしばらくしたところで、ロディスが御者台に顔を出して親しげに声をかけた。少女も後ろから恐る恐る覗き見る。
「いやいや、お安い御用ですよ」
馬車を操っていたのは、日焼けした肌に深いしわの刻まれた、人の良さそうな壮年の男だった。
「なにしろ、ロディス様にはいつもエミリオが世話になってますんでね」
「エミリオ……?」
知った名を聞いてマーゴットは表情を緩めた。この男は、エミリオの知り合いなのだろうか。
「ああ、本当に皇女様がいらっしゃる」
御者の男はロディスの後ろから顔を出した皇女を見て、目を丸くした。
「あ……その、ご機嫌よう」
混乱したままの少女はぎこちなく笑いかけた。
「いやァ、どうもどうも、お目にかかれて光栄です。しかし、お忍びで街に遊びに行かれるなんて、殿下も大人になられたんですなぁ」
「ふふ、内緒だからね」
「分かってますよ」
「悪いんだけど、夕方も頼めるかな」
「もちろん、夜はまた魚なんかを届けることになっていますので、お安い御用ですよ」
御者とロディスは随分と親しそうに見えた。聞いてみたら、男はエミリオの父親なのだという。旧市街にはエミリオの実家――つまり、この御者が経営するパブがあり、ロディスはジュネーヴ滞在中にはよくそこに食事をしにいくのだという。
そういえば、エミリオもそんなことを言っていた。
興味深い話に驚いたり、感心したり。馬車の荷台に乗るなんて初めてだし、内緒で城の外に出るなんていうことも初めてだ。
おまけに想い人と一緒だしで――ドキドキしていいのやら、ハラハラしていいのやら。
けれど、隣のロディスを見ると、彼は自信満々で、楽しそうに見える。だから少女も、いつの間にか素直な高揚感でいっぱいになっていた。
やがて、ガタンと遠慮の無い揺れと共に、馬車が止まる。どうやら旧市街の入り口に着いたらしい。
「着きましたの?」
「ええ、ちょっと待っててくださいね」
ロディスはひょいっと荷台から降りると、幌を上げて手招きした。
「じゃあ、行きましょうか。姫、お手を」
「わ……はい……きゃ!」
荷台は高くて、ヒラリとは飛び降りられなかった。優雅に膨らんだスカートも邪魔になる。少女は、ロディスに縋り付くような格好でズルズルと荷台から降りることとなった。
「……大丈夫ですか?」
「ご、ごめんなさい」
真っ赤になって荷台の金具に引っ掛かったスカートを外す。
「う、馬でしたら、もう少し上手に降りられるんですけれど……」
恥ずかしいのを必死に誤魔化すマーゴットに、ロディスはニコリと笑った。
「ふふ、じゃあ、今度は遠乗りにでもお誘いしましょう」
旧市街の終点で馬車を降りた二人は、そのままジュネーヴの街に出た。
少女にすれば、四年暮らしていて、初めて足を踏み入れる市街地だった。
「殿下、これを」
「……?」
大勢の人が行き来する賑やかな通りに目を奪われていると、急にバサリと頭に何かがかぶさる。何かと思うと、フードのついた軽い男物のマントのようだった。今までロディスが身につけていたものだ。
「あ。やっぱり僕のでは丈が長すぎますね」
「あの、これ……」
「殿下のお顔は街の者もよく知っているでしょうから。でも、これではちょっと、余計目立ちそうですね」
濃紺のフードを目深に被り、踝までマントに隠れた少女の姿は、お忍びの皇女というよりは怪しい魔女だ。
「あら……」
ショーウインドウに映った自分の姿を見て、マーゴットもクスリと笑う。
確かにちょっと不格好だけれど、彼のものを借りているのだと思うと、すごく幸せな気持ちになった。
これで充分です、と言おうと口を開きかけた少女を、ロディスの言葉が遮った。
「うん。やっぱり何か別のものにしましょう」
「別のって……?」
「僕が見立ててしまって良いですか?」
「えっ……」
呆気にとられたまま、促されて近くにあった建物に入る。
そこはただの婦人服店だったが、店で買い物などしたことのないマーゴットには、大きなクローゼットにでも見えたのだろう。キョロキョロとあたりを見回し、おずおず洋服を手に取る。
値札がついているのを見て、ようやくここが商店であることを理解したようだった。
「こちらです、ひ……」
店員と話し終えて戻ってきたらしいロディスが、そう言いかけ、ちょっと苦笑して身をかがめる。
「姫はまずいですね。マロゥ」
笑いを堪えるような、少し子供じみた声。秘密を打ち明けるように、こっそり耳打ちされた親しげな言葉に、少女の胸は熱くなった。
「あの……あのあの……わたくし……」
「うん。良く似合っています」
口のうまい店員に一揃い洋服を見繕ってもらい、身軽な格好になったマーゴットが、生まれたての仔馬のように、頼りない様子で立ち尽くしていた。
店員が自分の身につけていたものを紙袋に詰めてロディスに渡しているのを、夢見心地で眺める。
そして、ロディスに手をとられて店を出て、街道を下り、最初の横断歩道の赤信号で立ち止まる。
「……お気に召しませんでした?」
気遣わしげな声をかけられてはじめて、自分がろくに礼も言わずにぼんやりしていたことに思い至る。
「えっ!? え……あ、いいえいいえいいえ……ご、ごめんなさいっ! 違うんですっ! あの……これ、とっても素敵で……その……」
慌てふためき、大げさな身振り手振りをつけて早口で弁解するが、特に何の返答にもなってはいない。とりあえず、気に入らないわけではないことは伝わったらしい。ロディスは肩を揺らして可笑しそうに笑った。
「良かった。あなたは可愛らしいから、何を着てもよくお似合いだ」
「あ、あの……すみません。こんな、お洋服まで……用意していただいてしまって……」
ロディスが見立てたのは、優しい空色のワンピースだった。
それは、彼女が城でいつも着ている豪華で重いドレスよりも随分身軽で、彼女を普通の娘に見せてくれる。
「いいえ、僕がお誘いしたのですから、当然です」
信号が青に変わって、歩道を渡る大勢の人と一緒に二人で歩きはじめる。ロディスに倣って、平気な顔で足をすすめるマーゴットだったが、やがて、
「……わたくし、信号を歩いて渡るのって、初めてです」
と、小声で言って小さく微笑んだ。
「それは……そうでしたか。では、街に出たのも?」
「はい。今日が初めてです。ですから、何もかも珍しくって……すみません、行儀が悪いですわね」
少女の言葉に、さすがのロディスも驚きを隠せなかった。箱入り娘だろうとは思っていたが、まさか城下街を自由に歩いたことも無いなんて、とんだおとぎ話だ。「ふふ、存分に堪能されるといいですよ。折角なので、やったことの無いことをしましょう」
「はい……!」
街道は、大勢の人が行き交っている。
人々の歩調はおっとりとした皇女のそれより随分早く、マーゴットはどんどん追い抜かされていく。急ぎ足になろうとするの止めて、ロディスはのんびり歩くように促す。そして、二人で手を繋いで歩いた。
汗ばんだ細い指から、少女の緊張が伝わる。けれど同時に喜びも伝わってきたので、ロディスは安堵していた。
短い夢が、彼女の助けになるのかどうかはわからない。結局、ただの自己満足で終わってしまうのかも。
けれど、今日この時はこれで良いのではないかと思えた。
しばらく歩いて、ああそうだ、と、ロディスは唐突に足を止めた。
「お腹空きませんか?」
「え……あ……あああ……っと、その……」
昼食をとらずに城を出てきたから、少女は確かに空腹だった。けれど、それを口にするのはいかにも気恥ずかしい。
「ああいう店、きっと入ったこと無いでしょう。行きましょう」
少女の返答を待たず、ロディスは道沿いのカフェを指さした。軽食を気軽にテイクアウトできる類の、カジュアルな店だ。
「まぁ……」
オープンテラスで和やかに食事する人々を見て、少女は感嘆の声を上げる。
ちょっとしたことにいちいち驚いてくれるので、デートの相手としては大変にやりやすい。
「マロゥ、こっちこっち」
「え? あ、はい!」
「あれがメニューですよ」
指された方を見上げる。当然、こんな風に店で料理を注文するのも初めての体験だろう。
「まぁ、たくさんあるのね」
「食べてみたいものは?」
「全部食べてみたいわ!」
「あはは、一度には難しいかな」
幼子のような反応にロディスは笑って、そして二人一緒に並んで、ずらっと並んだメニューから厳選したハンバーガーと飲み物を頼んだ。
「すごいわ……」
「そうですか?」
「こういうの、夢でしたの!」
店のマークが印刷された紙に包まれた暖かいハンバーガーを両手で包み込み、少女は感動しきりである。
硬いテラスの椅子に腰掛けて、がさがさと包みをあけ、周囲をキョロキョロと確認し、おずおず口を開けるとパクリ一口。しかし、納得がいかないらしく、首をかしげつつもう一口。
どうやら、詰め込まれた具をうまく食べられないらしい。角度を変えながらパクパクと難しい顔でかじりついては、ポロリと落ちたレタスを腑に落ちない様子で口に運び直す。ハンバーガーひとつにこんなに悪戦苦闘できるのも、なかなか貴重な才能ではないだろうか。
注文したカプチーノを飲みながらロディスが静かに観察していると、少女はハッとして顔を上げた。
「あ……ご、ごめんなさい。わたくし、一人で食べて……」
「いいえ、一生懸命に食べていらっしゃるので……ふふふ、面白くて」
「ええっ」
「ちょっとギュッと抑えながら食べるとうまくいきますよ。あまりお行儀を気にせずに」
「……こうかしら」
「そうそう、上手です」
驚くことや、気恥ずかしいことや、嬉しいことが多すぎるせいで、めまぐるしく表情の変わる少女は、おそらく彼女自身が思うよりもずっと魅力的だった。
マーゴットにとっては、車の窓から眺める景色であったジュネーヴの街は、歩いてみるととても広い。くたびれるまであちこち歩き回って、二人は公園へやって来ていた。
城にも同じような庭はあるけれど、見知らぬ大勢の人が自由に行き交っていて、同じ庭でも全く雰囲気が違う。のんびりベンチに座る老人や、ジョギングで汗を流す女の人、はしゃぎまわる子供たち――少女の目には、何もかもが新鮮に映った。
「まぁ、では直轄区の街というのは、こことは随分違いますのね」
「ええ。見上げるようなビルが青い光に包まれていて……不思議な夜景です。こちらには高層ビル群のあるような街は、珍しいですから」
「まぁ……」
「でも、僕はエウロの街が好きですよ。何だかんだいって、落ち着きます」
キラキラと夕日を反射しながら流れ落ちる噴水を眺めて、二人で長い間、色々な話をした。それは少女にとって、これまでの数年間の中で、間違いなく一番楽しく、幸せで、刺激的なひとときだった。
このまま時間が止まってしまえばいいと、何度祈りたくなったかわからない。
自分がこんな幸せな思いをしてもよいのだろうかと、何度恐ろしくなったかわからない。
黄みを帯びた太陽の光に透けて揺れる銀色の髪。
繊細な曲線を描く横顔、ピンと伸びた背筋、何気なく髪をかきあげる、男性にしては華奢な手。
ずっと、この人とまたこんな風に並んで座って、話をしたいと夢見ていた。
「……ロディス様」
やがて、少女が口を開く。
「何でしょうか」
青年は穏やかに答える。つい先刻まで嬉しそうにはしゃぎ回っていた少女の気分が、太陽と共に沈みはじめていることを、彼は感じ取っていた。
「どうして……今日は、わたくしをお誘い下さったのでしょうか」
切なげな言葉に、ロディスは小さく微笑んだ。
「……理由が必要ですか?」
穏やかな返答にマーゴットはしばらく沈黙し、それから、ごめんなさい、と、消え入るような声で呟いて、下を向いた。
触れれば今にも崩れてしまいそうな細い肩を見下ろして、青年は穏やかに言葉を続ける。
「あなたは、もう僕のことなんて憶えてないかなって、思ってました」
その言葉に、俯いていた少女は驚いて顔を上げる。
「そんな……こと、あるわけが……ありません」
「そうですか?」
「そうです。わたくしは……」
マーゴットは、深く息を吸い込む。
「わたくしは……あの、ヴヴェイでロディス様と見た美しい花畑を、生涯忘れることはありません」
十六歳の少女には不似合いな、遠い昔を語るような眼差しが、今日の日の終わりを見つめていた。
ほんのすこし考え込むように目を伏せたロディスだったが、すぐに気を取り直したように明るく言う。
「そんな悲しい顔をなさらないでください、マロゥ。また一緒に行きましょう」
「ロディス様……?」
「五月の雪だけでなく、あなたが望むなら、どんな所にでも」
少女は、嬉しそうな顔はしなかった。
ただ、大きな紫色を潤ませて、震える唇をそっと噛みしめる。そして、掠れた声でポツリと言葉を紡いだ。
「……世界は、広いでしょうか?」
ロディスは一瞬沈黙し、それから、不安げに揺れる瞳をまっすぐ見つめる。
「……もちろん。あなたの世界も」
青年が笑うと、少女もつられたように笑顔を見せる。
けれど、彼女はそれ以上多くは語らず、その微笑みにはもう、かつての無邪気な皇女の面影は見えなかった。
やがて、西の空を染めていた夕日が沈み、冷えた風があっという間に夜を連れてくる。公園を行き交っていた人々の姿も、いつの間にか消えていた。
そろそろ帰りましょう、と、青年が言いかけた時だった。
薄暗い視界に、さらに濃い影が落ちた。
背後に人が立つ気配。
「――えっ?」
何かを感じて、ロディスはパッと振り返る。
「っ!?」
眉間目指して、鋭い何かが飛んでくる、気がした。
しかし当然、それを避けることなんて出来ない。
何が起きたかを理解できないまま、身の危険だけを強く感じた。
――瞬間。
静かな公園に、妙に高く響く金属音。
「ロディス様っ!」
少年の声だった。
カランと、嫌に澄んだ音をたてて転がる何か。ジェラルドの体が躍り出て、二人を守るように立ちふさがっていた。
「ジェラルド!」
マーゴットは思わず声を上げたが、少年は後ろ姿のまま動こうとしない。
そして、幼い視線の先には――
黒い、人影。
「何……?」
闇が凝ったような長身の人影は、植え込みの間で微動だにしない。
周囲の暗さもあり、それがおそらく背の高い男であること以外、こちらから見て判断することができない。
静寂の中、カラカラと石畳の上を滑る枯れ葉の音がやけに大きく響いた。
少年と男が睨み合っていたのはほんの数秒だったが、奇妙な緊張感が辺りを包み、一瞬一瞬が長く感じられる。
しかし、人影はそれ以上彼らを攻撃しようとはせず、しばらくの後、木々が作る更に濃い闇の中へ溶けるように消えていった。
「今のは……」
呆然と立ち尽くしたまま、ロディスが呟く。その声に、少年は少し力が抜けたように振り返った。
「ロディス様、殿下、申し訳ありません。城に戻りましょう」
少年は短く言った。ロディスもマーゴットも黙って頷く。
「姫、平気ですか?」
硬い表情の少女に、ロディスは気遣うように声をかけた。マーゴットは顔を上げて、冷たくなった手で自らの顔を覆う。
「ロディス様、ごめんなさい……危険な目に……」
少女が見当違いの責任を感じていることを察したロディスは、彼らしくないくらい子供っぽい笑顔を見せた。
「怖かった?」
「え……」
「僕は平気ですよ。ジェラルドが助けてくれましたし、姫もご無事だし」
まさか、街でこんな目に遭うとは思ってもみなかった。だから本当は、少しばかり虚勢の混じった台詞だったけれど、見たことのないような青年の表情は、マーゴットの心をたやすく奪った。
「ロディス様……」
「今日は楽しかったです。マロゥ」
「わ……わたくしも……」
少女は言って、瞳を潤ませる。
見つめられると、何度でも恋に落ちるような心地がした。
「良かった。また来ましょう、きっと」
「……はい」
少女の声が喜びに震えていたのを、寒さのせいと思ったのだろうか、ロディスは自らの外套を彼女の肩にかける。
ありがとうございますと、皇女は消え入りそうな声で囁いた。
いつの間にか点灯したらしい街灯のほのかな光が、控えめに真心を交換する二人を照らしていた。
来た時と同じように荷馬車に揺られる。
荷台の後ろにロディスと並んで腰をかけて、星空を眺めて帰った。
御者が気を利かせて、人通りの少ない通りを通ってくれたので、今度は隠れる必要も無かった。辺りは静かで、星がよく見える。
「さっきの」
「え?」
「どうしてお誘いしたか、という話」
「……はい」
「実は少しだけ、嘘をつきました」
ロディスは打ち明け話をするような調子で言った。暗いせいでもうお互いの顔はあまり見えない。
「本当は、こんな風にお誘いすることはもうないかなと、思っていたんです」
「えっ?」
「そのほうが、あなたのためになるのではないかと」
「どうして……そんなことを?」
「僕は、姫が考えておられるような人間じゃないんです」
「わたくしが……?」
「ええ、僕、悪党なんです、これでも」
言葉と正反対の優しい声に、少女は翻弄されたように言葉を失ってしまう。
「でも……今日はこうして、会いに来てくださったわ」
「そうですね」
「それは……」
どうして? と、聞きたかったけれど、マーゴットはそれを口にすることができなかった。怖かったのだ。期待した答えが返ってこないかもしれないから。
「………………」
言葉の続きを口にできずに俯いた少女に、ロディスも、少し迷うように瞳を泳がせて、そして、言った。
「僕は、エウロが好きです」
青年の端正な横顔に、一筋の星明かりが落ちる。遙か頭上の遠い光を掴もうと、ロディスは知らず、手を伸ばす。
「生まれた土地ですから」
それは、彼の心の中にいつもあって、けれど、人に話すことの無かった言葉だった。誰にも、言う必要なんてないと思っていた。
「ロディス様……」
「僕の手はこのとおり、あまり遠くまでは届かない。だから、あまり多くは願わないようにしています」
でも、と、ロディスは微笑む。
「あなたには幸せになってほしいなと思います」
星空に投げた言葉が、プカリと浮かんで、消えていく。
ロディスがなぜこんな話をするのか、少女にはわからなかった。けれど青年の物言いは穏やかで、少女のもどかしい気持ちをふわりと受け止めてくれるような、妙な安心感に包まれていた。
「……ああ、星がきれいだ」
「本当に」
「やっぱりエウロはいいです」
「羨ましいわ」
「どうしてですか?」
「その台詞、外の世界を知っていないと言えないですもの」
顔がよく見えないおかげで、緊張せずに話せる。そういえば、何も知らない子供の頃も、こんな風に彼と話すのがとても楽しかった。
「はは、そうですね」
「南半球の空は、別の空なのですわよね」
「ええ、こことは違う星が見えます」
「見てみたいわ」
「遠いですよ?」
「……でしょうね」
「行きましょうか」
「えっ?」
「いつか、必ず」
あの頃にはもう戻れないけれど、こうしてまた話が――この先の話を出来ることが嬉しい。
「……はい」
叶わなくてもいい。この瞬間の幸せがあれば、きっと生きていける。
彼らを乗せた馬車は、旧市街を通り抜けてアヴァロン城の通用門をくぐる。見つからないように、馬車の上で二人は別れることにした。
ロディスを乗せて去っていく荷馬車が見えなくなるまで、少女は何度も振り返り、名残惜しそうに見送った。
城を抜け出す時に着ていた服が入った紙袋の取っ手を、ギュッときつく握る。今日一日の思い出が、この袋に全部詰まっているような気がした。
「……姉上」
「分かっています……」
急かすように声をかけた弟に、少女が答える。そして、城内へ目を向けたその先に、エリンが立っていた。
「先生……」
ジェラルドは緊張して足を止める。
エリンはいつも通りの無表情で、子供たちを見下ろしていた。
「お帰りなさいませ、殿下」
怒っているのか、呆れているのか、そうでないのか。何にしろ、彼に無断で城を抜け出して遊んでいたことは事実だ。
「エリン……これは……」
真っ先に少女が思ったのは、このことで、ジェラルドが叱られるのではないかということだった。
「ジェラルド、お前は部屋に戻っていなさい」
低い声は冷たく、少年が肩を震わせるのがわかる。マーゴットは弟を庇うように前に出た。
「違うの、エリン、ジェラルドは悪くないわ……!」
「ジェラルド」
「……はい、先生」
少年はそう言ってマーゴットに一礼すると、静かに駆けていく。
心配そうにそれを見送る少女だったが、やがて、小さな背中が見えなくなると、恐る恐るエリンの方を見た。当然、彼は怒っているだろうと思った。
「……城下は、楽しかったですか?」
けれど、耳に届いたのは意外にも、穏やかな言葉だった。
「え……」
面食らうマーゴットに音も無く歩み寄ると、エリンは彼女の手の荷物を受けとる。
不思議そうに中を覗いているので、慌てて事情を説明しようとすると、
「ジュネーヴで、それを買われたのですか?」
少女が身に着けているワンピースを見て、当たり前のように言う。
「あ……はい。ロディス様に……」
「……姫は城下の店は初めてだったのでは?」
「とても面白かったわ。でも、わたくし、お金を持ち合わせていなくて……」
「では今度街に降りる時は、いくらかお持ちになると良いでしょう」
「そうね、そう…………えっ?」
かけられた優しい言葉に、一瞬遅れて少女は顔を上げる。
「ですから、あらかじめ私にお知らせ下さい」
滅多に笑わない男の唇に微かな笑みが浮かんでいた。
「エリンっ!」
弾かれたように飛びついてきた少女の体を、男は眩しそうに受け止める。
随分と久しぶりに見る、子供らしく喜ぶマーゴットの姿。エリンは知らず目を細めた。
「夕食の時間をずらすよう、クヴェンに伝えてあります。お部屋でお召し上がりになりますか?」
「ええ、じゃあ、エリンとジェラルドと一緒に食べたいわ」
「我が侭ですね」
「……駄目かしら」
男は冷たい手で少女の頭を撫で、少し考えてから言った。
「……仰せのままに」
マーゴットの部屋に夕食を運び、三人は、随分と久方ぶりに食卓を共にした。
叱られなかったことにホッとした様子のジェラルドが嬉しそうに姉の隣で、切り分けた白身魚を行儀よく口に運ぶ。
エリンは今日の出来事については一言も尋ねようとせず、岬の屋敷にいた頃の彼がそうであったのと同じように、淡々とワインを飲んだ。
会話が弾むでもなく、むしろ静かに進行されるその様子は、決して和やかな食事には見えなかったが、三人で囲むには少々狭い円卓に皿が並ぶだけで、岬の屋敷での食卓を思い出した。少女にとっては、泣きたくなるほど懐かしい風景だった。
今日は嬉しいことがたくさんあった。あり過ぎて、息苦しいくらいだ。
「………………」
俯いて手を止める。今日ロディスと体験した城下での出来事を、エリンとジェラルドに話そうと思ったのに。なぜか、言葉が出てこない。
そして、少女は気付いたのだ。
今日のような嬉しいことがあった日に、ゲオルグが不在であることに安堵している自分がいる。今夜、父が城にいなくて良かったと思っている。
何という、酷い娘だろうか。自分は。
「……姉上?」
見開いた目から突然こぼれ落ちた涙。
気付かずに声をかけたジェラルドが、その涙を見て驚いたように口をつぐんだ。
「………………」
心を裂くような、大きな悲しみは無い。
楽しかった今日のときめきが、まだ胸に暖かく残っている。城を抜け出して遊びに出かけることができたことは夢のようだった。
嬉しかった。本当に。
けれど、心と体が乖離したかのように、ぽろぽろ零れる涙を止めることが出来なかった。
ゲオルグを憎みたくない。そう願う心に偽りは無いはずだ。それなのに、どうしてこんなにも、父を裏切るようなことばかり考えてしまうのだろう。
「姉上、どうかされましたか……姉上……」
「……んでも、なんでもないの、何でもないのよ」
溢れる涙を拭いながら、少女はか細い声を搾り出した。
「ジェラルド、今日はとっても……楽しかったわ……ほんとなの。だから、だから……何でもないのよ」
幸福な時間に満たされれば満たされるほど、罪悪感が少女を苦しめた。
けれど、それでも、願ってしまうのだ。
あの人に、ロディスに、また会いたいと。
摂政としてあちこち忙しく飛び回るゲオルグは、城にいない時間も長い。
けれど、泊まりの仕事でもないのにこんな夜遅くになって部屋に戻らないことは、あまりないことだ。
自分だけが楽しんだことへの罪悪感からか、少女は眠らずに父を待っていた。
けれど、部屋にも、執務室にも、男の影は無い。
まだ城に戻っていないのだろうか。
自分が幸せだと、父が逆に不幸になるような気がして心配だった。顔を見て、おやすみを言いたいと思った。そうしないと、父が消えてしまうような気がする。
どうしてかは分からない。……やっぱり、罪悪感かもしれない。
城内をあちこち彷徨って、それから、上着を羽織って庭へ出た。
月の見えない、暗い夜。
けれど、仰ぎ見ると先刻ロディスと並んで見た満天の星が輝いている。もうここに彼はいないのに、見上げているだけで満ち足りた、穏やかな気持ちになれる。
夜露にぬれた芝生を駆けて、少女は父の背中を探す。外に出てきたのは、なんとなく予感がしたから。ゲオルグが、あの場所にいるのではないかと。
「お父様……」
予感は当たりだった。
ゲオルグは一人、深夜の霊廟にたたずんでいた。
声をかけるまで振り返らなかった後ろ姿は、まるで、ずっとずっと、もう何年もそこに立ち尽くしていたような風に見えた。
「……マロゥ?」
驚きを含んだ声だった。
「どうしたんだい、こんな時間に……」
「お父様こそ」
「私は……」
石造りの霊廟に、小さな声が響く。ゲオルグがここに花を持って訪れるのは、ずいぶんと久しぶりのことのはずだ。
「お母様に、お花を?」
「……ああ、受け取ってもらえないような気も、するけどね」
「そう……かしら」
「……うん」
言って、男は、消えそうな顔で笑った。
「私は、ここで祈る資格はないよ。分かっていたんだけどね」
呟いて、それから、少女が心配そうな声を上げる前にパッと顔を上げる。
「それで、君はどうしたんだい? 私の顔なんて見たくないだろうに」
「な……何を、仰るの!」
自虐的な言葉を吐く父に、思わずカッとなって言葉を荒らげる。
「そんなわけ……無いわ!」
娘が怒ったので、男は驚く。
「マロゥ……?」
「わたくしは……」
(ああ――違う。そうだ)
自分は確かに彼の不在を喜んだ。けれど。
相反する二つの本心に、言葉をつなげることができなくなって、マーゴットは口ごもり、俯く。
ゲオルグは、そんな娘の様子をしばらく眺めた後、不意に、優しい声で言った。
「今日は、元気がいいね」
「え……?」
「いつもと声が違うから」
「あの……」
「良い事があったのかい?」
ゲオルグは優しかった。
そして、男に似合わない父親らしい言葉は、少女の罪悪感を煽る。
「お父様、わたくし……」
何を言えばいいのだろう。ちょうど良い言葉が思いつかない。もちろん、今日の出来事を正直に話すことも出来はしない。
少女はふらりとゲオルグに歩み寄り、男の体に腕を回して、慈しむようにそっと抱きしめる。
「……本当に、優しい子だね、君は」
冷たい石の霊廟で、ゲオルグの体はすっかり冷え切っていて、少女の体温は柔らかな炎のようだ。
いつだって彼の心を溶かし、許す。
「私の祈りは届かないかもしれないけれど、それでも……願うよ。君が今夜みたいに、元気でいてくれるといい」
穏やかな声、父はきっと、本当はこういう人なのだと思う。
母が生きていたら、いや……そうでなくても、何かがひとつ、違っていれば。
たぶん、今夜だって彼らはお互いの幸せをもっと素直に願い合えたのだろう。
何が、誰が、いつ、どこで、道を違えてしまったのか。
知ったところで時は戻らず、
悔いたところで罪は消えない。
「……お父様、冷えてしまいますわ。戻りましょう」
「ああ……」
手を取り合って霊廟を出ると、闇に慣れた目に星空がいっそう豪華に見える。
見上げると、罪深い二人の元にも、小さな星がひとつ、落ちてくるような気さえした。
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