十一 迷路



 午後遅い時間に目を覚ました時、部屋には少女ひとりきりだった。

 重たい体を無理やり起こし、庭師に頼んで今朝咲いた花で小さなブーケを作ってもらう。そしてそれを持って、母の霊廟へ来た。

 迷路の中にひっそりと立つ霊廟は、いつもひんやりとして、静かだ。最近では、ここを訪れるのはたぶん、マーゴット一人である。

 少女が城に戻るまで、片時も献花を欠かさずこの場所を訪れていたらしいゲオルグは、おそらく、もう長いこと霊廟に足を踏み入れてすらいない。


 祭壇のスイッチを入れると、母は変わらない姿と明るい声で、父の名を呼んで楽しげに駆け回る。

 この映像の中の母はたぶん二十歳前後のはずだ。マーゴットもあと少しすれば、この母と同じくらいの年になる。

 その時自分は、どうなっているのだろう。

 先のことなんて考えると気持ちが重くなるばかりだ。母は……母ならば、どうしただろう。

(お母様なら、お父様を救って差し上げられるのに)

 いくら問いかけてみても、当然霊廟の立体ホログラムは答えてはくれない。

 少女にとって、母とは偶像だ。偉大な崇拝の対象であるにもかかわらず、ただの一言も彼女に直接声をかけてくれることはない。

 周囲の全ての人間が自分の中に母を見ているのに、自分は彼女を知らない。永遠にたどり着くことができない目標地点のようなものだ。

 幼い頃は淡い憧れの対象であった美しい母は、そのことを知った後は暗い呪詛の対象となっていた。父だって、エリンだって、きっと本当は自分よりも母を愛している。なのに今、生きているのは自分だった。

(だから私は、お母様をお恨みしている)

(命を下さった方なのに)

 自分より母が生きているべきだったと、これまで何度思ったことだろう。神様はどうして、私を生かすことを選んだのだろう。


 母の祭壇に花を捧げ、母を恨む祈りを捧げる。そしてマーゴットは、何より自分を強く憎むのだ。

 こんな想いを、誰にも話せるはずはない。だから少女は、いつもここへは一人で訪れることにしていた。




「……マロゥ、ここに居たのかい」

 父の声が聞こえたのはそんな時だった。ハッとして振り返ると、夕焼けを背負ったゲオルグが、静かな微笑みを浮かべて霊廟の入り口に佇んでいた。

「お父様……」

「ひとりで……どうしたんだい?」

「え、あ……いいえ…………お花を」

 彼はここへは来ないとばかり思っていたのに。

「ああ。なるほどね。でも、もっと明るい時間に来なさい。ここは寂しい」

 まるで、母を忘れてしまったかのような物言いに、少女の暗い心が軋む。

 ――そんなのは嘘だ。自分を愛するふりをして、本当は母を求めているくせに。

(……お父様は、嘘つきだ)

(私のことなど――愛していないくせに)

 奪われ、汚され、その上で、マーゴットはゲオルグを許したのだ。この関係がどんなに罪の重いことであったとしても、彼が自分を本当に愛してくれていたのなら、まだ救われるものを。

 言葉にならない怒りが少女の指を動かし、いつの間にか手元のホログラムモニタのスイッチを入れていた。

『ゲオルグ!』

 暗い顔で俯く少女のすぐ横から、眩しいアーシュラの笑顔が弾ける。

「……っ!?」

 娘に歩み寄ろうとしていたゲオルグは、雷に打たれたように立ちすくんだ。

「……お父様、わたくし、お母様に似ている?」

 生き写しの顔を上げて、少女は微笑む。

「君は……」

 ゲオルグはみるみる青ざめ、在りし日の妻の笑顔を呆然と見つめる。

 この映像を撮影した日のことは、今もはっきり思い出すことができる。

 美しい高原はヴヴェイ。二人で結婚を決めた頃の記録。

 これは――人生で一番、幸せだった頃の風景だ。

 けれど、ゲオルグは過去からの呼びかけに答えることは無く、早足に霊廟に踏み込むと、バンと乱暴にスイッチを切ってしまった。


 アーシュラはもういない。

 献花台に両手をついた背中が僅かに震えていた。髪は乱れ、横顔は険しい。

 妻と娘は違う、それは、ゲオルグが一番分かっていることなのだ。

 そして、今はマーゴットを失いたくないのだということも。

 けれど、二つの愛が同じものなのか、違うものなのか、男には分からないのだ。

「……身体が冷える。部屋に戻りなさい」

 必死に抑えたような声でポツリと呟くと、ゲオルグはくるりと踵を返し、無言のまま霊廟を後にする。

 少女もすぐに後を追ったが、男は娘を待とうとはせず、背の高い影はどんどん遠くなっていった。

「お父様…………」

 夕暮れの青に染まる庭は暗く、雲の無い空に最初の星がポツリと浮かんでいた。




 ひどいことをしてしまった。

 取り返しのつかない後悔と自己嫌悪の念が、少女の心を焼いていた。

「殿下…… 殿下……!」

「平気よ……しばらく放っておいてちょうだい」

「ですが……!」

「大丈夫だから……」

「姉上……」

 浴室に籠もってしまった少女に、ドアの向こうから弟が不安げな声で抗議している。けれど、今はどうしてもひとりになりたかった。

 父にあの投影映像を見せるなんて、本当に考え無しなことをしてしまった。

 自分のことしか考えていない。身勝手で、軽率で……本当に、酷い女だ。

 彼のことを、こんなに大切に思っているのに。

(大切に――……)

(……それは嘘じゃない)

(けれど……)

(――本当に?)

 四年前のあの嵐の日、たぶん自分は、それまでとは別の人間になった。

 変えたのはあの人だ。

 そして、それは……決して、自分から望んだことではなかった。

(私は、お父様を憎んでいないといえるんだろうか)

 ぬるくなった湯に浸かっていると、身体が溶けて消えていく気がする。

 この肉体が無くなってしまえば、背徳の罪も、報われない恋も、何もかも一緒に消えて、楽になれるのだろうか?

「お父様……」

 四年間。恐怖と苦痛がどのようにして愛と快楽に変化していったのか、記憶の中の夜はあやふやなものが多くて、今となっては深い霧がかかっているように思える。

 どうしてこんなことになったのか、その奥に何があるのか、おぼろげな記憶を掘り起こすことはとても恐ろしかった。だから、今までは考えないようにしていた。知れば、父を本当に憎んでしまうような気がしたから。

(そんなことになるくらいなら、本当に消えてしまった方がましだ)

(私はずっと、お父様のことを愛していたいのに)




 雲の上を歩くような頼りない足取りで、弟を遠ざけたまま、少女はひとりで部屋に戻った。

 薄暗い部屋に誰の気配も無いことに安堵し、力なく窓辺の椅子に腰を下ろして……それから、そっと机の引き出しを開けた。

 そこには、彼女が今まで書きためた手紙が無造作にしまってある。

 全て、例外なくロディス・カスタニエに宛てたもので、時々思い出したように書いては、差し出すことも無いまま封をしてここにしまっていた。

 いつの間にか随分たくさん溜まっている。彼女が、恋した人に会いたい気持ちを封じ込めて、諦め続けるために書いたものだった。

 封筒は真っ白で、表にも裏にも何も書かれていなかったが、そのひとつひとつにどんな内容を書いたのか、ありありと思い出せる。

 ロディスに会えたら話したいこと……四年分の嬉しかったことや楽しかったことがこの手紙の束に詰まっているのだ。

 忘れるはずがない。

 必ず、良いことがあったときにだけ手紙を書いた。後ろ向きな内容を書いたことは一度も無い。

 だから……この手紙の中のマーゴットは、いつだって幸せに満ちあふれた、魅力的な――『そうありたい』と願った、理想の少女だ。

「………………」

 少女は無表情にそれらをかき集め、小さな手で抱えて暖炉の傍に持っていき、躊躇うことなく、バラバラとそこに放り込む。そして、暫く無言のままそれを見つめていたが……やがて、慣れない手つきでそれに火をつけた。

 ――白い封筒がみるみる焦げて、薄暗かった部屋に、パッと花が咲いたように明るい炎が上がる。

 四年分の気持ちだが、燃やしてしまうとあっという間だ。

 パチパチと小さな音をたてて、少女の目の前で彼女の幸せな幻影は灰になり――後にはただ、暗闇が残された。

(ばかみたい。簡単だわ)

 この手紙が灰になっていくように、消えて無くなってしまいたい。

 それもまた、至極容易いことのように思えた。




 深夜。

 ゲオルグの部屋に鍵はかかっていない。たびたび夜にここを訪れることのある少女は、それをよく知っている。

 部屋を抜け出したマーゴットが、息を殺して男のベッドの脇に立っていた。

 寝室は静まり返り……ゲオルグは、眠っているようだ。裸足のまま、少女は父に歩み寄る。

「………………」

 闇に慣れた目は、僅かの月明かりで眠る男の姿を見ることができた。安らかな息遣いにホッと胸をなで下ろす。きっと今は悪夢を見てはいない。

 幸せな夢を……できれば、母と一緒の夢を見ていればいいと思った。

 寝台を揺らさないように慎重に上がる。

 手を伸ばし、気付かれないように広い背を撫で、そのままそっと肩に手をかけ、手を胸に滑らせる。

 心臓の位置は――たぶん、このあたり。

 少女の手には、不似合いな刃が握られていた。

 それは、銀色でピカピカ光る、飾りの無い、針のような形のナイフだった。

 確か、いくつか不吉で美しい名があったはずだ。以前エリンに聞いたことがあるのだけれど、思い出せない。

 よく手入れの行き届いたそれはとても軽く、けれど切先にちょっと触れるだけで彼女の薄い皮膚を傷つけた。

 他に、いい方法を思い付かなかった。

 でも、これで楽になれるのなら、それはとても素晴らしいことなんじゃないか。

 それ以外のことを考えられなくなる程に、少女の心は追いつめられ、冷静さを失っていた。

 他に方法が無いのだ。

 他に方法が無いから、仕方ないのだ。

(仕方ない)

(いいの)

(いいのよ)

(もう)

(充分――)

 少女はギュッと両手でナイフを握り、ゆっくりとそれを振り上げる。


 ――けれど、その刃を男の胸に突き立てることは、できなかった。

「う……」

 動かない自分の手に、涙が滲む。

 なぜか、どうしても、手が動かなかった。

 体の重みを乗せてこの胸に刃を突き立て、ゲオルグの心臓を止めた後、自分も後を追うつもりだった。それで全部を終わらせることが出来るから。

(それだけのことなのに)

 生きたいのだろうか。

 生きていて欲しいのだろうか。

 この人に? 自分に? 分からない。何もかも。

(私は……)

(私は――――)

「……マロゥ?」

 届いたのは、囁くような小さな声だった。

 男を刺そうとした姿勢のまま、少女はハッと息をのむ。けれど、彼が口にした言葉は意外なものだった。

「…………いいよ」

「え……?」

「そのナイフで、私を殺せばいい」

 穏やかな声音には、ひとさしの恐怖も感じられない。

「おとう……さま……?」

 男の手がスッと伸びて、力の抜けた少女の手を包み込むように掴む。

「……終わりにしよう」

「あっ……」

 そこではじめて、自分が何をしようとしていたのかを悟る。

 死ぬ、つまり、殺めるということ。

 自らの首筋に向けて切っ先を動かそうとする力に抵抗して、マーゴットはナイフを放す。それはゲオルグの首筋を僅かに傷つけて、枕に刺さった。

「だ……め……」

「マロゥ?」

「だめ……だめ……お父様……」

 うわ言のように呟く言葉と同時に、ゲオルグの胸元に冷たい雫が落ちる。

 殺せない。

 男はゆっくり身を起こしてナイフを拾い、サイドテーブルに置いて、枕元のランプを点ける。暖かい小さな明かりが照らす、少女の目からははらはらと大粒の涙がこぼれ落ちていた。

「……君になら、いつ殺されたって構わないんだよ。私は」

 まるであらかじめ決められた約束について話すように、ゲオルグは静かに言った。

「君を力ずくで奪った罪は、そのくらいで許されるものだとは思わないけれどね。けど……愛してしまったんだ。君が欲しかった。それを狂っていると言われるなら、たぶん、そうなんだろう。私は……――」

 涙の止まらなくなったマーゴットは、嗚咽を堪えながら必死で首を振った。


 父を憎んでいる。

 だけど、大切だ。

 誰よりも。

 だから――この罪はやはり、ふたりのものだと思った。


「――君は優しいね、マロゥ。もっと私を憎んでもいいのに」

 手を差し伸べて、娘の涙に濡れた頬を拭う。

 少女の長い髪は縺れ、顔色は青白く、皮膚はとても冷たかった。

 悩み疲れた顔は普段の美しいマーゴットとは別人のようだったが、ゲオルグは愛おしそうに目を細める。

「そんな風だから、私は甘えてしまうんだね。君に」

 返事の代わりに、少女は男の胸に体を預けて、それから、長い間言葉も無く泣いた。

 しゃくりあげるわけでも、嗚咽を漏らすわけでもなく、ただただ、身体に溜まった毒が流れ出るように、透明な涙を流し続けた。

 小さな明かりに映し出される光景は、親子のそれでも、恋人同士のそれでもなかった。






 ロディスはジュネーヴを離れ、実家のあるレーゼクネへと向かっていた。

 長い長い時間を列車に揺られて家へ帰るのは慣れている。遠い寄宿舎に入れられていた子供の頃からそうだったからだ。

 窓の外の景色が徐々に暮れていき、やがて夜が来て……また朝が来る。小さな部屋で時間を渡っていくような、長距離列車のコンパートメントは好きだった。

 家族用の豪華な個室に一人で座り、足を投げ出して、外を見つめる。


 旅をすると分かるけれど、エウロには本当に貧しい村が多い。

 自分たちが仕事で扱う、膨大な数の餓死者数、その一人ひとりが生身の人間なのだと想像したら、その恐ろしさに身が震えるような気持ちになるものだ。

 自分はその、故郷の困窮を救いたくて、四年前ここに帰ってきた。

 封建制度に守られ、自分たちだけ裕福な暮らしを続けて何も思わない貴族達など、皆消えてなくなってしまえばいいとさえ思っている。

 帝室なんてその最たるものだ。

 だから、もともと、皇女のことなんて――ほとんど、憎んでいるといっても過言ではなかったはずだ。

 彼女自身に出会うまでは。

 まるで新雪のように真っ白だった少女。

 人の上に立つ者の無知は罪だ。けれど、そう言ってしまうにはあまりに彼女は幼く、そして、善良だった。

 少なくとも、あんな歪な愛の関係に苦しまなくてもいいはずだ。

「マロゥ……」

 後悔と憐れみを含んだ低い呟きは、ここでは誰に届くことも無く、ロディス自身の心の中へ還っていった。






「坊ちゃま、お帰りなさいませ」

「ただいま、ラッセル」

 嬉しそうに出迎えてくれた執事は、前会った時より一回り老いたような気がする。

「父上は?」

「書斎にいらっしゃいます」

「わかった」

 ロディスの父、カスタニエ公セルジュは、貴族界では変わり者として知られている。一人息子を早々に外の学校にやり、自分は年中この辺境の居城に篭もって、本ばかり読んで暮らしていた。

 しかし、母を早くに亡くしたロディスにとっては、ただ一人の肉親であり、そして……幼い頃から、誰よりも尊敬する人物だ。

「ただ今戻りました、父上」

「……よく戻った」

 昔から少しも変わらない、本に埋め尽くされた書斎。父はいつも一番奥で椅子に腰掛けて、庭を見下ろせる窓辺で本を読んでいる。

「少しも変わられませんね、父上は。……ああ、本が少し増えたかな」

 声をかけると、セルジュはゆっくりと振り返る。

 家族と別れてから徐々に年をとっていった父の長い金髪は、いつの間にか白に近い色に変わっていた。

 母似だと言われることの多いロディスだったが、瞳や、輪郭や、手の形や、何気ない表情を見ると、確かにこの父の子なのだと実感する。

「何も変わらんよ、ここは。お前はどうだ? 直轄区での暮らしには慣れたか?」

「ええ、もうすっかり。あちらは面白いですよ、父上も一度おいで下さい」

「……そうだな、考えておこうか」

 父は薄く笑った。

「父上、今日は……お伺いしたいことが」

 ロディスは笑顔を引っ込めて、姿勢を正す。

「何だ」

「先の皇帝、アーシュラ様のことです」

「……アーシュラの?」

「はい」

 家に戻った理由の半分はこれだった。父は先帝の従兄だ。彼女が存命の頃には交流も深かったと聞いている。

「……父上、マーゴット殿下にお会いになったことはありますか?」

「生まれたばかりの頃には。アヴァロンに戻られた後、直接会ったことは無いが」

「……彼女は、お母上にそんなに似ていますか?」

 不可解に思える息子の問いに、セルジュは顔を上げ、しばし口を閉ざし黙り込んだ。そして、遠い記憶を辿るような表情で、デスクに視線を落とす。

「……映像で何度か見ただけだが。正直、はじめは驚いた」

「え?」

「生き写しだと思ったよ。まるで、生きていた頃のアーシュラが、戻ってきたようだった」

 息が詰まる。ロディスの中で、あらゆる想像が確信に変わっていく。

「……どんなご夫婦、だったんですか? アーシュラ陛下と、アヴァロン大公は」

「珍しいことを知りたがるな」

「すみません」

「いや、構わぬ」

 セルジュは懐かしそうに目を細めた。

「初めてアーシュラにゲオルグを紹介された時は、驚いたものだ。何しろまだアドルフ陛下がご健在だった時のことだからな」

 アドルフというのはセルジュの祖父、ロディスの曽祖父にあたる、先々代の皇帝のことだ。

 随分厳しい人だったと聞いているが、物心ついた頃にはすでに故人であったため、ロディスはその人に会ったことはない。

「……父上でも、驚かれたんですか?」

「それはそうだ。皇太孫が平民の恋人なんて作って、どうするんだと思った。反対されることは、火を見るより明らかだったからな」

「よく結婚できたものですね」

「全くだ。どうやってあのお祖父様を説得したのかは知らないが……大したものだよ」

 セルジュは愉快そうに微笑んだ。父がこんな顔をして、彼らの話をするとは思わなかった。

 きっと、いい思い出なのだろう。

 今のロディスの気分からは、想像もつかないことだ。

「……そうですね」

「それに……」

 複雑そうな表情で目を泳がせる息子に、セルジュは言いかけた言葉を引っ込める。

「どうした?」

「……いえ、すみません。不思議だと思って」

「不思議?」

「誰に聞いても、アーシュラ様のお話は、良い思い出ばかりのようですから。ええと……すごく立派な人だったんだな、と」

 言葉を選んだら、馬鹿に凡庸な表現になってしまった。

 けれど、そんな感想しか思い浮かばないくらい、先帝については良い話しか耳にしないのだ。

「ふふ、まぁ……そうだな。早く逝く者は、優しい思い出しか置いていかないものだ」

 父は穏やかに言って、僅かに目を細める。

「お前の、母のように」

 母のことを出されると、それ以上何も言えなくなってしまう。

 確かに、幼いころ死んでしまった母に対しては、美しい思い出と甘ったるい思慕しか残っていない。

「……そんな顔をするな。ロディス」

「すみません」

「まぁ、大胆で公正で、生きていれば実際に、良い皇帝になったと思うよ」

「良い皇帝に……」

「賢く、強い女だった。あれが生きていたなら、私ももう少しジュネーヴに顔を出したかもしれないな」

「父上が……?」

「良い友だったよ」

「……そうですか」

 自分に輪をかけて貴族嫌いの父がそこまで言うなら、きっとよっぽど惜しい人物だったのだろう。ロディスは窓に目をやって続けた。

「……では、アヴァロン大公が彼女を失った悲しみは、時間では癒やせぬほどに、深いでしょうか」

 息子の言葉の意味が分からなかったらしい、セルジュはしばらく沈黙して考え込んでいたが、その問いに込められた意味を聞き返すことはしなかった。

「……傷は、そうそう都合よくは消えないものだ。それが、命をかけて愛した女ならば、なおさらであろう」

 セルジュは、遥か彼方を見るようなまなざしで、そう言った。




 貴族の家に生まれながら、長い時間を、エウロの外で暮らした。

 同じ境遇の友人は居ない。

 父が自由に育ててくれたので、貴族らしいしがらみとも無縁で暮らしてきた。

 けれど、なぜか、あの少女と接するうち、不思議な親近感が芽生えていたような気がする。

 あらゆる期待や、責任や、羨望や、悪意を、生まれながらに背負わされている。自由は無く、他人から羨まれるほどいいものではない。

 そんな境遇を、自分だって本当は理解している。

 エウロの外で、長く異邦人として過ごし、それゆえ、自らがエウロ人であることを意識し続けてきた。

 誰といても、どんなに楽しくても、そこが自分の本当の居場所であるとは思えなかった。

 いつもどこか自分の世界を探していた気がする。客人として通り過ぎるのでなく、根を張って、守りたいと思えるような。

 自分にとってそれは、やっぱりこのエウロだった。

 それを確信したからこそ、居心地の良い生活や、大切に思っていた友人を捨てて戻ってきたのだ。

 だから、マーゴットはたぶん、自分にとってははじめての、同じ世界に暮らす友だったんだと思う。

 今は、さらに暗い闇の底に突き落とされて、助けの手も無く。亡き母と同じ顔の自分を、どんなにか呪って暮らしてきたことだろう。

 ――こんなことに、自分が気付いたところで、どうにもならないのに。

「……僕は……」

 自分が、この巡り合わせの中で何が出来るのか、本当に何かができるのか。それはまだ分からない。

 けれど、もう、伸ばした手を引っ込めるようなことをしたくないと思った。

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