十 動き出す時

 


美しく刈り込まれた芝生の緑と、くっきりとした空の青の下、少女はそわそわと周囲を気にしながら、次々と挨拶にやって来る者に笑顔を振りまいていた。

「……どうかしたかい?」

 きょろきょろと辺りをうかがう娘に、ゲオルグが尋ねる。

「え? ……いいえ、その……少し緊張しているだけです」

 今日はレマン湖畔のアヴァロン家の庭園を会場にした、皇女の園遊会が開催されていた。

 長い間中断されていた催しが突然再開され、マーゴットが久しぶりに貴族たちの前に姿を見せるようになってまだ間がない。少女だけでなく招待客たちもどことなく落ち着かない様子だった。

「疲れたら君は車に戻ればいいからね」

「……はい」

 この園遊会には、ロディスも招待されていると聞いていた。少女が落ち着かないのは、実際には疲れでも緊張でもなく、そちらの方が原因である。

 けれど、ロディスの姿はなかなか見えず……かわりに、にこやかに笑いながら、若い貴族の青年が近づいてきた。

「マーゴット殿下、お久しゅうございます!」

 見覚えのあるような無いような顔に、必死で記憶をたぐり寄せる。

 確か、どこかの……そう、これは、テルブロア伯爵家の長男だ。

(名前は……確か……)

「アンリ・テルブロアです。覚えていらっしゃいますか?」

 マーゴットが、彼の名を思い出す一瞬前に、青年は笑顔で自ら名乗った。彼とは確か、四年前何度か夜会で会ったことがあるはずだ。

「え……と……はい。大変ご無沙汰をいたしました。テルブロア様」

 アンリと名乗った青年は一通り挨拶の口上を述べた後、他の貴族のようによその社交の輪に移っていく……と、思いきや、ずいと一歩、皇女に近づいて、彼女の手を取る。

「この私、四年前、皇女殿下のお姿を一目拝見したその時から、その美しさの虜でございます」

 そして、大胆にも、次のような言葉を述べたのだった。

「今日お目にかかれたら、ぜひ殿下に結婚を申し込みたいと思い、参りました」

「えっ!?」

 突然すぎる申し出に、マーゴットとゲオルグはもちろん、周囲の貴族達も一斉に口を閉ざし、青年に注目する。アンリはその様子を満足そうに見渡してから、優雅に跪いて、頭を垂れた。

「突然驚かせるようなことを、申し訳ありません。ですが、私が本気であることを殿下や、他の皆さまにも分かっていただきたく……」

 目を丸くしたマーゴットが何か口を挟もうとするけれど、突然の求婚者は彼女の手を取ったまま、熱っぽい視線を向ける。

 サラサラした亜麻色の髪と、水色の瞳。いかにも口が上手そうというか、外見的には少し軽薄そうな印象のある青年だが、今彼が迫っているのは、冗談で求婚できるような相手ではない。

 だからたぶん、その言葉の通り、アンリ・テルブロアは真剣だった。

「いかがでしょう、殿下、せめてほんの少しの時間、私にくださいませんか?」

 乞うような口ぶりなのに、押しが強くて拒否しがたい。

 マーゴットは返答に窮して俯き、黙り込んでしまった。目の前の青年に嫌悪感を抱いたわけではない。隣に立つ父の反応が怖かったのだ。

 ゲオルグも、呆気にとられた様子でアンリの口上を聞いていた。

 皇女の結婚相手が誰になるのかは、目下貴族たちの最大の関心事であることはゲオルグだって承知している。けれどまさか、今日の段階で皇女に求婚する者が現れるとは予想していなかったようだ。

 そんな男の心中を知る由もないアンリは、ゲオルグをまっすぐ見て、物怖じせずに言い放つ。

「短い時間でも、この青空の下、殿下とお話させていただきとうございます。私という人間を、僅かなりとも分かっていただける助けになるかと」

 固まったまま動かない父の顔を、マーゴットは恐る恐る見上げた。

 マーゴットの危惧ほど怒っても、狼狽えてもいないゲオルグだったが、横顔を見るとやはり悩んでいるようだ。

「お父様……」

 皇女の小さな呼びかけに、ゲオルグは黙り込んだまま言葉を返さない。

 ここは大勢の招待客のいる場で、アンリはそれなりに立場のある貴族の、家を背負った長男である。他の者たちの前でこうして正面切って求婚してきた、勇気ある青年の申し出をむげに断ることはいかにも狭量だ。

 不安げな皇女だけでなく、他の貴族達もまた、突然娘への求婚を受けた、若い父親の表情を、興味津々に窺っていた。


「参ったね。驚いたよ、テルブロア卿」

 奇妙な沈黙をふいに破ると、ゲオルグはニコリと笑って娘の肩に手を置き、爽やかに微笑んだ。その口調と表情に、申し出を許すという意図を受け取ったらしいアンリは、嬉しそうに立ち上がる。

「申し訳ありません、大公殿下。ですが、美しく成長なされた殿下にお目にかかると、他の者に先を越されるのが我慢できませず」

「だそうだよ、マロゥ。どうするね?」

「え……」

「君への求婚だよ。私が返事をするのも筋違いだろう?」

 一見にこやかに、父は言う。マーゴットの目には、ゲオルグの顔に「断ってくれ」と書いてあるのが見えるようだった。

 目の前のこの若い貴族には申し訳ないが、父を悲しませるわけにもいかない。何とか、かどの立たない断り文句を考えなければ。

「えと……」

 申し訳ありませんが……と、口を開こうとして、アンリの肩越し、人垣の中に探していた人が目に入る。

「……っ!」

 ロディスだった。姿が見えないから欠席なのかと思ったけれど、来ていたようだ。彼は、この茶番を見物する客達に混じって、どことなく冷めたような目でこちらを見ている。

 彼が他の者と同様に、自分がこの青年に対して何を言うかを伺っているのだと悟ったマーゴットの胸に、迷いがよぎる。

 こんな大勢の前で、かくも誠実な申し入れを一顧だにせず断るなんて、冷たい、高慢な女だと思われるだろう。

 それは、何だか、どうしても――

(……嫌だわ)

 父の顔を伺うと、困ったような微笑みを口元に貼り付けたままだ。

 でも、少しこの青年と話をしてみるくらいなら、大丈夫なのではないか。

 ここには大勢他の人もいるし、そもそも、自分の立場ですぐに求婚を受け入れるようなことは出来ないのだから。

「では……そうですね。少しだけ……」

「おお、ありがとうございます。光栄です! 殿下」

 周囲にどよめきが広がり、アンリはニッと笑って少女の手を取る。

娘の返事にゲオルグは笑顔のまま凍りつくが、格好をつけた手前、もはや手も口も出すことはできない。

 マーゴットは目の前の青年よりもちらりと目に入るロディスの方を気にしながら、突然の求婚者のエスコートを受け入れたのだった。


「お体の具合が良くないと聞いておりましたが」

 歩きはじめてしばらくして、アンリは気遣わしげに言った。

「……ええ、でも、近ごろは随分元気にしておりますのよ」

 親しげに手を握ったまま離してくれないのが少し気になるけれど、誘いを受け入れておいて振りほどくわけにもいかないので、そのまま答える。

「それは何よりです」

「ありがとう」

 貴族達は二人のことを気にしながらも、あからさまに注目するようなことはしなかったので、アンリとマーゴットは、柔らかな木漏れ日の射す木立の間を、二人で歩いていた。

 ジェラルドやエリンは近くにいるのだろうか。よく知らない相手と二人きりという状況には、何となく不安を覚えてしまう。

「ところで殿下、私の申し出、冗談だと思われたでしょう?」

 アンリはあっけらかんと笑ってみせた。それから、少し熱っぽい瞳で彼女を見つめて続ける。

「殿下に求婚したい男なんて、掃いて捨てるほどいる。だから、誰にも先を越されたくなかったのですよ」

 優しく掴んでいた手をそっと引いて、少女の一歩分、自分の近くに引き寄せる。すかさず正面から向き合って、紫の瞳を逃さないよう、まっすぐ見つめた。

「はじめてお姿を拝見した四年前から、あなたに夢中です」

「あの……」

「本気ですよ。私は」

 やはり、随分と押しの強い性質らしい。

 いや、言葉通り本当に急いでいるのだろうか。青年は当惑する少女に構わず、口説き文句を並べ立てる。

「テルブロア様……?」

「アンリとお呼び下さい、姫」

 呆気にとられて青年を見上げていたマーゴットだったが、やがて彼の言葉が途切れるとおずおずと口を開いた。

「あの……アンリ様、わたくし、分からないのですけれど……」

「何でしょうか? 我が姫」

 すっかり調子に乗ったらしい青年は、うっとりと答える。

「わたくしに求婚してくださるのは、光栄なのですけれど……ほとんど話したことも無い相手に、どうやって……その、興味を?」

 傷つけるような言い方にならないよう、慎重に言葉を選びながら尋ねたが、アンリはキョトンとして首をかしげる。それから、

「興味ではありません、姫。恋です」

 キラキラ光る目を細めて自信たっぷりにそう言ってのけた。

「え……あ……」

 思わずこちらが赤面してしまいそうなことを真顔で言う男だ。尋ねたマーゴットの方が恥ずかしくなって俯いてしまう。

「あの、では、どうして……その、恋を……?」

 少女には理解できない。自分には、そんな感情を向けられる理由は無いはずだ。地位が目当てならもっとうまいやり方がありそうなものだし、容姿なら、他にいくらでも美人はいる。そうではないのか?

「おかしなことを仰る。恋に言葉は必要ありません。時間も」

 マーゴットの疑問を、アンリは笑顔であっさりと否定する。

「姫はご存知でない?」

 青年の言葉に、喉の奥から乾いた音が漏れた。

 恋に条件は必要ない。

 それをマーゴットは知っていた。


「姫が帰還された、最初の舞踏界の日、私はあの場におりました」

 美しい思い出を懐かしむように、アンリは目を閉じる。

「皇女殿下といっても、まだ十二歳の幼い少女。私はあなたより五つも年上でしたから、特に関心はありませんでした。父や母は、そうではなかったようですけれどね。……ですが、初めてあなたを見て、それは変わった」

 言って、青年は大股にもう一歩、少女に近づく。反射的に後ずさろうとしたけれど、ちょうど背後にあった木立に阻まれ、アンリとの距離は急に近づいてしまった。

「あなたは凛として美しかった。恋は一瞬です」

 ふざけているようでいて、真剣さの伝わる声。自信満々の眼差しといい、物言いといい、アンリはたぶん、魅力的な青年なのだろう。

「だから……今はもっとあなたのことを知りたい。もっと話したい。分かっていただけませんか?」

 彼が今、勇気を出してここにいることが分かる。突然恋の告白などをして、無謀なことだと思わないのだろうか。

「それは……」

 いや、それはきっと、承知の上なのだ。

「…………分かりますわ」

 アンリの言葉に、少女は自身の想い人を思い浮かべていた。

 彼の言葉はもっともだ。誰かに好意を抱くのに「何故」は関係ない。

 自分だって、そうなのだから。

「……それはよかった」

 マーゴットは彼の言葉に耳を傾けるうち、目の前の求婚者ではなく、自身の思考にはまり込んでしまった。

 ぼんやりと肯定の意を示した皇女に隙があると思ったのか、それとも彼女の言葉を己の想いを受け入れたと受け取ったのかは分からない。青年はおもむろに皇女の背に手を伸ばし、俯いた白い顎に躊躇せず手をかけた。

 腰を抱く腕に気がついて少女が我に返った時には、ごく自然な流れで、青年のキスを受けようとしている所だった。

「っ!?」

「申し訳ありませんが」

 驚いたマーゴットがアンリを避けようとして体のバランスを崩したのと、いずこからか現れたジェラルドの言葉が二人の間に割って入ったのは、ほぼ同時だった。

「え?」

 突然水をさされた青年は、情けない声を上げて動きを止める。ジェラルドはずかずかと二人の間に割って入って、姉の手をとって背に庇う。

「一人の求婚者に過ぎないあなたに、それ以上は許されません。テルブロア卿。立場をお考え下さいませ」

 師匠に負けない神出鬼没っぷりを発揮しはじめているジェラルドは、怒りの篭もった声ではっきりと言った。

 いつぞやのこともあるし、弟がアンリに何かするのではないかとマーゴットは焦ったが、幸い、それはどうやら杞憂のようだ。

「殿下、参りましょう」

 ジェラルドは姉の返答を待たず歩き始める。

 掴まれた手が痛い。

 弟は自分の迂闊さにも腹をたてているようだ。

「あのっ、テルブロア様、ごめんなさい。お話の続きは、その……また、後ほどね」

 申し訳なさそうにそう言って、マーゴットは弟に引っ張られてその場を後にすることになった。

 きょとんと不思議そうな顔のままその場に取り残された青年の頭の上では、やはり、気持ちの良さそうな雲雀の歌が響いていた。




「ちょっと、待ってちょうだい、ジェラルド」

 無言のまま、どんどん歩いて行くジェラルドの歩幅はもう姉より広い。

 着飾ったマーゴットが彼に付いていくので精一杯なのに、少年は気づいていないようだった。

「何を考えていらっしゃるんですか、殿下。あのような……」

「だって、あまり酷くお断りすることも良くないし……」

「それはわかりますが、あんまりです」

「……怒らないで欲しいわ」

 マーゴットが拗ねるように呟くと、ジェラルドは足を止めて振り返る。

「怒ってません」

「怒ってるわよ」

「そんなことありません」

 への字口でそんなことを言われても説得力は皆無だ。マーゴットは苦笑した。

「ごめんなさい。だって、あんなことをなさろうとするなんて、思わなかったんだもの」

 多少やり方は強引だったとはいえ、心からの告白を捧げてくれたアンリには、少し申し訳ないことをしてしまったように思える。

「……そうですが」

「いい方だったわよ」

「では、テルブロア卿と結婚しても良いと?」

「それは……」

 アンリ・テルブロアには悪いけれど、それとこれとは話は別だ。それに、結婚相手なんて、自分で選べるものではないだろう。

(そもそも、わたくしが結婚をするかどうかだって……)

 未来の皇帝が結婚をしないわけにはいかない。

 けれど、父がそれを許すとは思えない。今のマーゴットには、全部が想像もつかないことだ。


「…………姉上、参りましょう」

 言葉に詰まる姉に、少年は気を取り直したように優しく言った。

「どこに?」

「今日は、他に話したい方がおいででしょう」

「え……わ……ちょっと、待って……駄目……」

 ジェラルドの言葉の指すところが分かったのだろう、マーゴットは慌てて拒絶するが、ジェラルドはさっさと姉を引っ張って行く。

 はじめは、会ってあんなに沈み込むなら、会わないほうが良いのではないかと思ったジェラルドだったけれど、師の言葉を聞いて考えを改めたようだった。

 戸惑う姉を連れ、一筋の希望に向かって、健気な少年は足を進めた。




 ロディスは数人の貴族の輪に加わっていたようだったが、皇女と共に、自分の方へと向かって歩いてくるジェラルドを見つけると、すいと輪を外れ、人目を避ける方へそれとなく移動した。

 そして、高い木立の影で三人は再会した。

「――久しぶりだね、ジェラルド。今日は女の子の格好はしてないんだ」

 まっすぐやって来たジェラルドに、ロディスは悪戯っぽく笑って目を細める。

「そういうことを仰らないで下さい」

「ふふ、ごめんごめん」

「……ご無沙汰しております、ロディス様」

 ジェラルドは、素直に嬉しそうにはにかんで言った。

「ああ、久しぶりだね。本当に。こんなに大きくなって」

「四年も経てば変わりますよ」

「……ああ、そうだね」

 ロディスは穏やかに微笑んで頷く。それから、弟の陰に隠れて小さくなっている少女を覗き込んだ。

「それで、殿下はどうしたのかな。テルブロア卿から逃げてきたんですか?」

「あ……あの……」

 マーゴットはまともにロディスの顔を見られずにいたが、弟につつかれて、フラフラと前に出る。

 謁見の日からずっと焦がれていた人が、ひょいと目の前にいる。園遊会の招待客リストを見て、期待しないでもなかったけれど、突然こんな風に相対して、ろくな言葉なんて浮かんでくるはずがない。

 ジェラルドに助けを求めようと隣を見ると、既に傍らに彼の姿は無く……弟はおそらく、気を利かせたつもりなのだろう。

「あ、あの……」

 口ごもるマーゴットに、ロディスは苦笑する。

「彼、押しが強いから、かわすのが大変だったでしょう」

「え……」

「あなたはああいうタイプには弱そうだ」

 冗談めかしてそんな風に言われると、フッと背中が軽くなる。

 四年の時間を越えて、少女の記憶のままのロディスが不意に現れたような感覚だった。

「そ、そんなことは……その……ええと、良い方ですけど……」

「殿下はお美しくなられたから、これからいくらでも求婚者は現れますよ」

「えっ?」

「おや、意外そうな顔ですね」

「だって……」

「全く、そういう所、変わりませんね、殿下。危なっかしいというか、自覚が無さすぎるというか」

 ざあっと強い風が吹き、光の差していた庭がにわかに翳る。ロディスの言葉に含まれた微かな感慨が、少女の心をざわめかせた。

「ロディス様……」

「今、僕がお誘いしても、うっかりついてきてしまいそうだ」

「え? あ……」

 恐れや、迷いや、悲しみが溶けていく。けれど、ここでこうして立っているのが精一杯だ。

「ほら、不思議そうな顔をする」

「お誘い頂ければ、それは……」

「あはは、僕は嬉しいですけれどね。いけませんよ、マロゥ。あなたは子供ではないんだし、もっと、慎重にならないと」

 己の言葉が少女にどのくらいの衝撃を与えるのか、ロディスは正確には理解していない。

 だから、優しくするつもりで残酷な言葉を口にする。

「それか……本当に一度僕に時間をくださいますか? 個人的に」

 控えめだけれど、明らかな誘いの言葉。

 震えるような歓喜に、頭がぐらぐらしてしまう。悩むまでもなく、もっとあなたと話がしたい。けれど――

「………………」

 胸が痛んだ。彼の言うとおり、少女はもう子供ではない。

 そして、分かりすぎるほど分かっている。

 その申し出を受け入れる資格があるほど、自分は清くも美しくもないのだと。

「あ……の……」

「……迷惑だったかな、すみません」

「ち……違うの!」

「姫?」

「違うんです……でも……」

 我ながら考えが支離滅裂だ。

 けれど全部本心で……けれど、全部が嘘でもある。

そして、それを自覚してしまうと、好きな人の前に立つこと自体が苦しい。

「ごめんなさい……わたくし……そろそろお父様の所に……戻らないと……」

 必死でそれだけ言葉にして、少女は逃げるようにロディスの前から走り去った。






 優しく話しかけただけつもりだったけれど、皇女の反応はあまり良いものではなかった。やっぱり、色々と自分の思い違いだったのかもしれない。

 木漏れ日の下で、ロディスは単純にそんな風に思っていた。そしてふと、傍らに佇む少年の存在に気づく。

「追いかけなくていいのかい?」

 片時も姉の傍を離れないはずの剣が、走り去るマーゴットの背を呆然と見つめていた。

「………………」

 ロディスの問いに答えないまま、ジェラルドの青い目が戸惑うように揺れて、逃げるように視線を逸らす。

 確か、彼はまだ十四歳くらいだったはず。それなのに、随分と大人びた表情だなと思った。ロディスは苦笑して言葉を続ける。

「……怖い顔だな、姫も君も、久しぶりに会ったのに、笑ってくれないのかい?」

 そんな何気ない言葉が、今の少年にどんな風に響くのかを、やはり、ロディスは知らない。

 ジェラルドは思い詰めた瞳を青年に向けて、ためらいがちに口を開く。

「どうして……どうして、ロディス様……」

 木の葉のざわめきにかき消されそうな微かな声で、少年は苦しげに呟いた。

「……どうしたの?」

 暢気な声音に、少年はキッとロディスを睨む。

「どうして……あんなこと言うんですか」

「え?」

「殿下に優しくするんですか?」

 端正な面立ちを歪ませて、少年は八つ当たりの言葉を吐く。

「四年も会いに来なかったくせに!」

 ジェラルドは、口をつぐんで俯いてしまう。

 そして、守るべき人の背中が遠ざかりつつあることに改めて気がつくと、身を翻し、皇女の方へと駆け出した。

 後には、突然の出来事に呆気にとられたままロディスが残された。




 ジェラルドは驚いていた。

 自分自身にだ。

 四年間は本当に長かった。だから、ロディスに言いたいことは山ほどある。それでも、本当に言ってしまうとは思わなかったのだ。

 剣は己の言葉を持たないはず。どんな激情だって己の内に収めて、姉の影にならなければならない自分だというのに。

「………………」

 不用意なことを言ってしまったと反省していたが、後悔はしていなかった。むしろ、何かがふっ切れたような心地すらする。

 だって……言わなければ伝わらない。ロディスが気付いてくれなければ、マーゴットはまた辛い気持ちをひとりで抱えなければいけなくなるのだ。

 そんなのは駄目だ。嫌だ。

 マーゴットがロディスの前から逃げることしか出来なかったのは、もう、何もかもを手遅れと諦めているからだろう。

 そして、それでも諦めきれない気持ちが彼女を苦しめている。それを、少年は理解していた。

 ずっとずっと、彼を待ち続けていたのだから。


 エリンが言ったように、閉ざされた姉の世界に、何か変化が起きれば。そんな期待をこめてロディスの元へ姉を連れて行ったのに。

 自分が分からない。一体何がしたかったのだろう。

 ロディスは悪くないとは思いながらも、四年の時間の中で立派な大人になって、何食わぬ顔で再び姿を現した彼を見ると、憎しみすら沸いてくる。

 あんなに優しい言葉をかけて、期待させるだけさせておいて、どうして、肝心な時に傍にいてくれなかったのだろう。

 どうして一人で遠くへ行ってしまったのだろう。

(……今ごろになってまた、気まぐれに優しい言葉をかけたりして)

 本当にひどい男だ。

 けれど……

 彼なら――

 ロディスなら、姉を救ってくれるのではないだろうか。

(ロディス様……)

 再び心から笑う姉の姿が見たい。昔のように。

 見えない糸にたぐり寄せられるように、父の元へと駆け寄っていく姉の後ろ姿を追いながら、少年はひたすらそんなことを考え続けていた。






 嫌に静かな夜だった。

 いつの間にか窓の外は雨が降っている。けれど、春らしい霧雨で、少しの雨音も聞こえてはこない。

「………………」

 昼間の出来事が何度も蘇る。

 ロディスに会えて嬉しかった。

 けれど、辛かった。

 好きなのに?

 ――いや、好きだからだ。

 昼間、自分に求婚してきた、あのアンリという青年が羨ましい。あんな風にまっすぐに想いを告白できたなら、どんなにか良いだろう。

 報われないかもしれない恐怖を抱えることになるとしても、今の自分のように、その一歩を踏み出す資格すら持たない者よりは、よっぽど幸せに近いはずだ。

 だって、アンリ・テルブロアは今日の求婚が上手く行かなくても、他にいくらでも素敵な相手との出会いがあるのだから。

 彼はきっと――いや、必ず幸せになるだろう。

 未来とはそういうことだ。

 無限に可能性があるということ。

 そしてそれこそが、自分と彼らの一番の違いなのだと、少女は改めて思い知らされていた。

 ロディスに……いや、彼でなく他の誰かが現れたとしても、今のマーゴットは、その手を取るという選択肢は選べない。

 だって、他人には決して話せないことがある。そしてこれは――隠し通せるような、それが許されるような秘密ではないのだ。

(お父様……)

 こうして一人でいると、父を恨んでしまいそうになる自分が一番許せない。


 唐突に、ノックの音が部屋の静けさを破る。

 心の中を覗かれたようなタイミングに、少女は思わず体を強ばらせた。そして、動揺を悟られまいと取り繕った返事をして、ドアを開ける。

「……マロゥ」

 ホッとしたようにそう言うと、ゲオルグは彼女の腕を掴んで、強引に引き寄せる。

抱きしめられると、フッと甘いブランデーの香りがした。

「お父様、酔っているの?」

「いや、眠れなかったから少しだけ」

「まぁ……その割には随分……きゃ……」

 少女の言葉が終わらないうちに、ゲオルグは抱きしめた娘の体をひょいと抱え上げて、幸せそうな表情で驚く娘の顔を覗き込む。

「突然、君が居なくなったような気がしたんだ」

「お父様……?」

 昼間のことを気にしているのだろうか。

「でも良かった……」

 柔らかい胸元に頬をすり寄せる、子供のような仕草に胸が痛む。

「お父様……わたくしは、お傍におります」

「ああ……マロゥ、そうだね。僕は馬鹿だな」

 この人はもうずっと、失うことだけを恐れて生きている。

 父であり、家族であり、恋人――……彼に幸せをあげられるのは、他の誰でもなく、自分だけにしかできないこと。

(私が居なくなったら、お父様には何もなくなってしまう)

 取り上げることなんてできはしない。

 大切な人なのだ。


 そして、今の自分の全てを知っている、ただ一人の人。

 ――やはり、この人と共にあることでしか、自分の存在する価値は無いのだろう。


「昼間……君は、嬉しかったかい?」

「え?」

「あの青年。君に結婚を申し込んだ彼のこと」

 恋人を膝に乗せて、甘い囁きと同じ調子で、男は言った。

 一瞬、ロディスと話していた所を見られたのかと思ったけれど、ゲオルグが言っていたのはそのことではなかったらしい。

「……驚きましたけれど……」

「君と結婚したいという者は多いよ。……当たり前の話だけれど」

「そう……」

 生返事を返しながら、マーゴットは目を閉じる。

「わたくしは……」

 瞼の裏に思い浮かべるのはただ一人。

「……好きな人と結ばれることが無いのなら、結婚など望みません」

 少女のか細い、けれど、きっぱりとした言葉の裏に見え隠れする切ない気持ちに、男は目を細めた。

「好きな人が……いるのかい?」

「さあ……でも、居ても関係ありません。……そうでしょう?」

「マロゥ……」

 ゲオルグは胸にかかる少女の髪を掬って、そっと口付ける。それは、どことなく赦しを乞うような仕草で――

 男の心はいまだ、救われない闇の中にある。その闇を生んだ原因が自分の存在にある以上、少女は際限なくゲオルグを赦した。




 ロディスは誘いを全部断り、夜にはまっすぐ部屋に戻った。

 直轄区での生活に慣れた彼にとって、貴族達との付き合いは心底面倒で、鬱陶しいものに思える。我ながら、以前はよく我慢をしていたものだと思う。

 自分で用意したラベンダーティーをカップに注ぐ。あまり上手にいれられるとはいえないけれど、ひとりで飲む分には十分だ。

 柔らかな花の香りを楽しみつつ口をつけて、ホッと一息。ソファに腰掛けて、昼間の――ジェラルドに言われた言葉を思い出した。


『四年も会いに来なかったくせに!』


 まさか、あんな台詞を、ジェラルドに言われるとは思わなかった。

 会いに行ったほうが良かったような言い方だったけれど、肝心の皇女本人には、会話もそこそこに逃げられてしまったから、本当の所はわからない。あの様子では自分とは話したくなかったようにも思えるし、確かめる術はない。

 謁見の時の違和感と、昼間の少年の怒りは繋がっているような気がする。

 けれど、それがなぜ、どのように繋がっているのかは見当もつかない。何だろう、望まない結婚でも迫られているのだろうか。

 だとしたら自分に当たられたってどうしてやることもできない。悪いが自分はもう彼らを利用しようとは考えていないのだ。

(……可哀想だとは思うけどね)

 何とも割り切れない気持ちになって、何気なく窓の外に目をやった、その時のことだった。

 バルコニーの手すりに、大きなカラスが一羽、止まった。と、思った。けれど、星明かりを受けて白く輝く金髪を持つそれは、無論、鳥などではない。

「……え?」

 ティーカップを持ったまま、思わず立ち上がる。

「……ジェラルド?」

 どこから現れたのか、唐突に四階の部屋の窓辺に現れたそれは、まさしく、昼間ロディスに非難の声を投げつけた少年その人だった。

「ちょ、どうしたの……?」

 この状況でこんな風に声をかけて迎え入れる自分はどうかしてるな、と頭の隅で思いつつ、彼ならば無理もないかもと妙に納得もして、窓を開け、迎え入れる。

「夜遅く、申し訳ありません」

 少年は開口一番、真面目な顔でそう詫びた。謝罪すべきポイントが盛大にずれているので、思わず笑ってしまいそうになる。

「僕を殺しに来たの?」

「え、けっ、決して、そういうわけでは……!」

 少年はパッと頬を赤らめて否定した。黒ずくめの怪しい少年の頭に、ロディスは苦笑してポンと手のひらを置いた。

「冗談だよ。でも、僕を消しにきたんじゃないなら、玄関から普通に来ればいいのに」

「え? あ……」

 少年はますます混乱したように赤くなって、肩を落とし、すみませんと頭を下げた。窓とドアを勘違いでもしているのだろうか。それか、友人の家を訪問する方法を知らないとか。

 相変わらず、面白いというか、彼らは色々変わっている。

「それで、どうしたのかな。わざわざ君が訪ねてくるなんて」

「ロディス様……」

 問われて本題を思い出したのか、少年は思い詰めた表情になってロディスを見た。そして、意を決したように口を開く。

「お願いです。僕と一緒に、今から城に来て下さい」

「えっ?」

 意味が分からない。けれど、冗談を言いにこんな所まで彼がやって来るとも思えない。

「……何かあったの?」

「姉上に会ってください」

「殿下に? どうし……」

「お願いします!」

 上手な頼み方を知らないのだろう、少年はただ、必死にそう言って懇願した。

 けれどそれは、二つ返事に承諾するには、あまりに突飛で、重大すぎることだった。こんな夜ふけに、招かれてもいないのにアヴァロン城を訪れるということは、つまり、忍び込むということだろう。

「……ジェラルド」

 ぬるくなった紅茶を一口飲んで、どうにか気持ちを落ち着ける。

「それで……君は、僕に何をしてほしいんだい?」

「それは……」

 少年は少し考えて、続けた。

「……姉上を、助けて下さい」


 園遊会の後、マーゴットは疲れたといって部屋に篭もってしまった。

 娘の体調を一番気にするゲオルグが、今夜皇女の部屋の戸を叩くことは無いだろう。経験則で、少年はそう思っていた。

 それで、遅い時間なのは承知の上で、クヴェンの招待客リストにあった住所を盗み見て、どうにかここまで来たのだ。

 ロディスはまたいつ直轄区へ帰ってしまうかしれない。ジュネーブにいるのは今日までかも。そんな風に考えたら、居ても立ってもいられなかったのだ。

 マーゴットにちゃんと会って欲しい。

 会って、せめてもう少し、昔のように、話を――――


「……僕が、殿下を救う?」

 ロディスは訝しげに目を細める。

「はい」

「そんなこと……」

「ロディス様にしかできません」

「ジェラルド……」

「お願いします。どうか、どうか……」

 今はもう、ロディスにそんな危険を冒すメリットは皆無だ。

 だけど、こんな風に頼み込まれて無下に断ることができないくらいには、ロディスは彼ら姉弟に好意を抱いていた。

「……どうして僕なんだい」

 その問いに少年は答えられない。その代わりに、泣きそうな声を搾り出すようにして訴える。

「……あなたでなければ、駄目なんです」

 理由を語るつもりは無いらしい少年は、ただそう繰り返すだけだ。

 常識的に考えるならば、城に忍び込むなんて馬鹿な頼みを引き受けることなんてできない。

「…………」

 しかし、困った顔でしばらく考え込んだのち、ロディスはふと真面目な顔になってジェラルドを見つめ、分かったよと頷いたのだった。

 リスクを取った理由は二つ。少年がこうして、忍んで訪ねてまで自分に懇願する理由が知りたいというのがひとつ。そして、四年前のあの日、少女の願いを聞き入れてやることができなかった、その罪悪感がひとつだ。

 そうして、ポットに残った飲みかけの紅茶をそのままに、ロディスは、少年と共に城へと向かうことにしたのだった。




 深夜という程ではないけれど、既にかなり遅い時間である。

 夜目の利く猫のように軽やかに坂道を上って行く少年に、どうにかこうにか付いて行く。市街地にあるロディスの部屋から、アヴァロン城までは歩きだと小一時間はかかる。近いとは言い難い道だった。

 旧市街の細い街道は暗く、先を行く少年が何度も闇に紛れて見失いそうになったものの、やがて、遠く見えていたアヴァロン城が間近に迫る。ジェラルドに従って高い城壁の脇をぐるりと回って、二人で通用門をくぐった。

 城に忍び込むなんて、どんなに大変なことだろうと身構えていたけれど、剣に兵は逆らわないことにでもなっているのか、番兵に止められることもなかった。


 拍子抜けしつつ踏み入った夜のアヴァロン城は、異様と思えるほどに静まり返っていた。広い庭は夜の海の底のようで、巨大な石の城は、まるで難破した古代の船のようにも見える。

 三世紀以上もの間、エウロの支配者であり続けた一族が住まう城にしては、あまりに寂しい。

「ロディス様、こちらです」

 少年の声に導かれ、夜露に濡れた芝生を踏んで先を急ぐ。

 やがて、微かな明かりが見えてくると、ロディスは何となく不安になった。

 時間的に考えて、皇女は部屋で休んでいる頃だろう。ジェラルドはまさか、自分を彼女の部屋まで連れていくつもりだろうか。

(それはいくらなんでも……)

 ここまで来ておいて躊躇するわけにはいかないのだけれど、自分がここに来ることを、マーゴットは知っているのかと、改めて疑問が湧いてくる。

「ジェラルド、あのね……」

「――待て」

 石の階段に足をかけたジェラルドに声をかけようとした刹那、重い声が二人を捕らえた。

「え……」

 ジェラルドの背が緊張で強ばるのが、何となく伝わってくる。二人の背後に、見知らぬ男が立っていた。

 青白く光る長い金髪が、夜の風にゆっくりとそよいでいた。

 ぬるい、春の夜。いつの間にか、霧のような細かい雨が降りはじめていたことに、ロディスはその時、ようやく気付いたのだった。


 霧雨の細かい水滴に、城内からもれる明かりが控えめに反射して、二人の前に立つ男の長身を、幻のようにあやふやに浮かび上がらせる。この男の声を、以前にも一度耳にしたことがある。いつぞやジェラルドに殺されそうになった、あの時だ。

「その先へ進んではならない」

 淡々とした声で、男は言った。

「……進めば、戻れなくなる」

 黒い衣装に身を包んだ彼が、ジェラルドと同じ種類の人間であることを、彼の姿を目にした瞬間から、ロディスは何となく悟っていた。

「あの、先生、これは……」

「ジェラルド」

 男に睨まれると、ロディスを庇うように立ち尽くしたまま、少年は何も言えなくなってしまった。

 声をかけられた時は殺されるのではないかとさえ思ったが、どうやら、男にそういうつもりは無いらしい。こちらを静かに見つめている男に、ロディスは注意深く口を開いた。

「あなたは……」

「そこの子犬の師だ、ロディス・カスタニエ」

「僕のことを……」

「知っている」

「僕がここに来ることも、知っていたみたいですが」

「……ああ」

 男は短く肯定した。そして、抑揚のない口調のまま、言葉を続ける。

「この先に、気安く足を踏み入れることは許さない」

「……あなたに殺される、というわけですか」

「場合によっては」

 妙なことを言う。けれど、そもそも、剣が自分を害するつもりなら、声などかける必要は無いだろう。戸惑うロディスに、男は告げた。

「……何を見たとしても、皇女殿下の、救いとなることを誓えるか?」

 不思議な、そして理不尽な問いだった。

「誓えるならば、私がお前を殿下の元に連れていこう。誓えぬならば、早々に立ち去れ」

 師弟揃って勝手なことを言う。

 そんなこと、誓えるはずがないじゃないか。

「……僕に、それを選べと?」

「ここに来たと言うことは、お前は既に一度、選んでいるはずだ。私はそれを確かめたいだけ」

 男の言葉に、心の奥で波がうつ。

 自分は、本当は、もうあの娘の人生に関わるのはよそうと、選んだのではなかったのか。

「僕は……」

 それなのになぜ、ここへ来てしまったのだろう。

 ジェラルドに頼まれたから?

 いや、違う。

 そうじゃない。

「………………」

 彼女に恋愛感情があるのかと言われたら、たぶん答えはノーだ。けれどなぜか、ずっと彼女のことを気にしていた。四年前、薔薇の庭で別れた日からずっと。

「……何を見ても、なんていう前提で、誓いなんて立てられません」

 考え考え、ロディスはゆっくりと己の心を言葉にしていく。目の前の男にはきっと、口先だけの甘い嘘は通じない。

「けれど、僕は……彼女の味方でいたいと思っています」

 言ってみると、ストンと腑に落ちる。

 そうか。そうだ。

 味方になりたかったんだ。


「……その言葉に偽りが無いのなら、くるがいい」

 しばしの沈黙の後、男が口を開いた。

「……ジェラルド」

「はい」

「お前は、ここで待っていなさい。後ほど、彼を家まで送り届けるように」

「……はい。先生」

 ホッとしたように返事をした少年を残して、男に誘われるまま、静まり返った城の中に足を踏み入れた。




 長い廊下を、誰とすれ違うこともなく進んでいく。

 外から見ても静かな場所だと思ったが、室内は更にシンと、沈み込むような独特の雰囲気に満ちていて、とても人が暮らす場所のようには思えない。

 こんな広くて、寂しい場所に、マーゴットやジェラルド、アヴァロン大公に、それから目の前のこの男も暮らしているのか。

 不思議な気がする。自分はやっぱり、帝室のことを本当は何も知らないのだと感じた。

「……あの。あなたの、名前は?」

 重い沈黙の中、ふと思い付いて訊ねてみた。答えてくれないかも知れないなと思ったけれど、意外にも、男は静かに言った。

「……エリン・グレイ」

 ジェラルドの師であるということは、つまり、亡き先帝の影であった人物なのだろう。ジェラルドといい、この男といい、想像よりもずっと細身の体躯に、引き込まれそうになるほどに美しい容姿。剣はみんなそうなのだろうか。

「エリン……あなたは、何故僕を城に入れたんです?」

「聞いてどうする」

「どうもしません。気になっただけです」

「………………」

 男は躊躇うように僅かに沈黙して、そして、言った。

「ジェラルドは、何と言った?」

「……皇女殿下を、助けて欲しいと」

 男は再び黙り込んだ。そして、ポツリと呟く。

「……そうか」

 口数の少ない男だけれど、話しにくいような感じではないな、と、ロディスは思う。必要のあることだけ言葉にするタイプなのだろう。実家の父もそういう性格なので、なんとなく対処方法が分かる。

「どういう意味なんですか?」

「……あれの言葉は正しい。我々には、姫は救えない」

 淡々とした言葉に感情らしきものは浮かばない。けれど、彼がそれを悲しく感じていることが、ロディスには分かった。


 エリンはロディスを空の部屋に通し、そのままバルコニーへと連れ出した。

 霧雨が、春の夜のにおいを、よりいっそう濃密にするようだ。静かな城の広大な庭で咲き誇る、あらゆる花の香りだった。

「……こちらに。声を発しないように」

 エリンは、奇妙なことを言い置いて、手を伸ばす。どうやら、隣のバルコニーへ飛び移れというらしい。やっぱり影の剣というのは、窓やベランダのことを廊下やドアなんかと勘違いしているに違いない。

(そんな簡単に言われても……)

 昔から、木登りなどは大の苦手なのだ。彼らみたいにヒラリとはいかず、娘のように彼の手を借りることになって、何となく情けない。

 フラッと歩き出そうとするロディスを止めて、男は耳元で囁くように言った。

「殿下の秘密がここにある。ジッとして、動くな」

 抑えた声には逆らえない重さを感じる。

 今しがた、話しにくくもないなと思ったばかりだけれど、男の息がかかった首筋が、恐怖に冷えるような感じがした。

「あの方を理解するつもりなら、ここにいることだ」

 もったいぶった言い方をするなと思いつつ、バルコニーの様子を見ると、一ヶ所開いた窓から、ゆるゆると風が吹き込んでいるようだった。

 軽いカーテンがフワリと揺れて、室内の様子を……――

「……っ!!!」

 そこで目に入ってきたのは、ほの明るい室内。豪奢なベッドの上で――

(な、これ……)

 思わずエリンに状況を説明させようと、後ろを振り向く。しかし、後ろにいたはずの男の姿は無くなっていた。

(ちょっと……)

 なんてところに置いていくんだと思ったけれど、ロディス一人ではもと来たバルコニーに戻ることもままならない。エリンの言ったとおり、息を潜めて柱の陰に隠れていることしかできなかった。




「あ……んっ、はぁ、はぁ……ああっ!」

 開いた窓から聞こえてくる。あられもない嬌声。見つかってしまわないだろうかと中の様子を窺うと、弓のようにしなる、細い背中が目に入った。

 滝のごとく流れ落ちる豊かなハニーブロンド。間違いようがない。

(姫……)

 思わず目をそらす。

 他人の情事を覗き見るような趣味は無い。エリンは一体、何を考えているんだ。全く、本当に、普通じゃない。どうかしてる。

(僕は帰る……)

 そう思った矢先のことだった。

「……んっ、お……お父様……」

(え……)

 荒い息を付きながら少女が発した一言が、怒りに激していた頭に冷や水を浴びせかけた。

(お父様……だって……?)

 いくらなんでも、聞き違いではないだろうか。申し訳ないと思いつつ、室内に目を戻した。

「んあっ……ああっ! お父様、おとうさま……っ!」


 白い肢体は、ランプの明かりのせいだけでなく桃色に上気している。ドレス姿も可憐だったけれど、一糸まとわぬ姿の少女が乱れ喘ぐ様には、息が詰まるように濃密で淫靡な美しさがあった。そして、繋がった身体を揺さぶられる度、マーゴットは切ない声で鳴いて、父を呼ぶ。

(あれ……あれは……)

 少女の細い身体を抱きしめる、あの相手の男は……

(アヴァロン大公……)

 まさしく、少女の父親、その人であった。

 目の前の情景は受け入れがたく、けれど、目を背けることができなかった。

 声を上げてしまわないよう、己の喉を押さえつける。

 花の香りのする夜気が気道に入るたび、自分の形が変わっていくような、不愉快な感じがした。

 ロディスが見ている向こうで、少女は男に与えられる快楽に溺れ、乱れて、やがて達し、折れ崩れるようにゲオルグの胸に倒れ込んだ。

 広くて寂しい城の、二人だけの時間。痛ましく、おぞましく、目を覆いたくなるような愛の形が、そこにあった。

 それはいびつで、醜く、悲しくて、けれどなぜか美しかった。




 やがて、大公は娘と少し会話を交わして、裸の少女にガウンをかけて口付け、部屋を出ていった。

 呆けたように部屋を見回した少女は、窓が開きっぱなしであったことに気付いたらしい。フワフワと揺れるカーテンを不思議そうに見つめて、言った。

「花の香りがするわ、エリン……居るのね」

「……はい」

 どこからともなくエリンの声がしたと思ったら、ふうっと上から落ちてくる。

 すれ違う刹那、目が合った。今までどこに隠れていたのだ、こんな所にどうして連れてきたんだと文句を言いたかったが、ここで声を上げるわけにはいかないので、仕方なく黙って見送った。

 彼はロディスを柱の陰に隠したまま、部屋の明かりの中へ進み出る。

「窓を閉め忘れておいでだったのですね」

「雨の……においもする。外の空気が吸いたいわ」

 ぐったりした身体を起こして、外に出ようとする。激しい情事の名残か、よろめく身体をエリンが支えて、ガウンに包み込むようにして抱き上げた。

「霧雨です」

「……きもちがいいわね」

「今日はお加減が悪いと伺いましたが?」

「大丈夫よ、悪いのは私じゃなくてお父様。わたくし、お父様をまた不安にさせてしまったのね。いけないわね……」

 優しく囁く少女の目はうつろで、星のない今夜の空のように、底の見えない闇を抱えている。

「お父様、お可哀想。心配なさらなくても、わたくしに……本当に求婚なさる方なんて、いないわ」

 かすれた声や、白い腕、乱れた長い髪――すべてが透き通るようで、今にも夜に溶けてしまいそうだった。




 その後、すぐに従者の腕の中で眠ってしまった少女を置いて、ロディスは城を出た。帰り道ジェラルドと少し話をしたような気もするが、覚えていない。

 落ち着ける自分の部屋に戻り、冷えたソファに倒れ込む。

 吐き気がする。あんなものを見せて、救って欲しいだなんて。自分に一体どうしろというのだろう。

「………………」

 どうして、いつから、あんなことに。疑問は尽きない。

 けれど、今思えばロディスには心当たりがあった。

「……まさか、あの時から……?」

 四年前。薔薇の庭で別れた日、ゲオルグに会った瞬間に少女がみせた、異様に怯えたような表情。

 いかにも娘に甘そうな父親なのにおかしいなと、不思議に思ったのを覚えている。

「まさか……」

 でも、だとしたら。

「………………」

 あの日、少女は言った。城を離れて、どこか遠くへ行きたいと。

「………………」

 ――あの日、彼女は救いを求めていたとでも?

 自分に? そして、

(……救えなかったと?)


『遠くへ……城を出て、ずっと遠くへ……』

『わたくし……』

『遠くに行きたいです』

『ロディス様……!』


 そんなことを、今ごろ言われたって困る。

 本気で助けて欲しいなら、もっと強く手を引っ張って、助けてと叫べば良かった。そうすれば、もっと……

「……いや」

 逃げ出しそうになる思考を引き止める。

「違う」

 あの時、助けてと彼女は叫んだのだ。あれで精一杯だっただけで。

 本当に助けの必要な人ほど、大きな声を上げることなどできないのだから。

 自分はそれを知っていたはずなのに。

「………………」

 久しぶりに会った彼女の態度がぎこちなかった理由も、ジェラルドが怒った理由も、ようやく分かった。

 先刻見た、少女の白い肌が、切ない声が、生気の失せた瞳が、脳裏にこびりついて離れない。

 見てしまった以上、自分には関係ないと突っぱねてしまう気持ちにはなれなかった。

 勝手極まりない打算で彼女に甘い夢を見せたのは、紛れもなく自分なのだから。

 あの時の自分の選択は、間違っていたのだろうか。

(だけど、だったら今……正しい選択って、何なんだ?)


 ――体が重い。

 今日はもう、眠ってしまいたい。

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