九 再会
天高く雲雀の歌が響く。
のんびりと空を渡るわた雲の下で、少女と白馬は思い切り駆け回ってゲオルグの目を楽しませた。
手を振る娘に笑顔で応える様子はまさに理想的な親子そのもので、畏まって遠巻きに見守る馬丁達も、その仲睦まじい様子に気持ちを和ませた。
しばらく娘の様子を見守っていたゲオルグだったが、やがて執務を放り出して牧場で遊んでいることを知った執事に呼び戻されると、渋々城へ戻る。
「あははは、大公殿下もああいうところがおありなんですねえ」
マーゴットを迎えたエミリオが、スゴスゴと名残惜しげに去っていくゲオルグの背中を見送って、屈託のない笑顔で率直な感想を口にした。
「ふふ、クヴェンに怒られたのね、お父様ったら」
下馬を助けるエミリオの手をとって、ひらりと飛び降りながらマーゴットも笑った。彼ら親子の本当の関係を知る者は、城内にもほとんどいない。
「大公殿下といえば、もう少し怖い方だとばかり」
「あら、お父様は怖くないわ」
「そうみたいですね。なんだか、ホッとしますよ」
「そう?」
「はい。最初は僕、こちらにお勤めするのは少し怖かったんですよね……あっ、もちろん、光栄なことなのは分かっているんですけど」
エミリオが城の馬丁として働き始めたのは、確か、一年ほど前のことだったように記憶している。言われてみれば、最初の頃の彼は端から見て気の毒なほど緊張していて、ちょっと質問をしてもすごい勢いで謝罪されたものだ。思い出すと少し可笑しくなってしまう。
「けど、姫さまは、僕なんかにも分け隔てなくお話してくださるし……」
「エミリオはお友達だもの。当たり前だわ」
「ありがたいですよ、姫さま」
少年は、今ではすっかり自然に笑顔をみせるようになっていた。そして、
「……友達か。そういえば、僕にはもうおひとり、貴族様の友達がいるんですよ」
少しだけ誇らしそうに続ける。
「まあ。どなたかしら」
マーゴットは、深く考えずに返した。
「今はエウロを離れておられる方で……」
「あら、それは寂しいわね」
「はい。でも、時々絵葉書を下さるんですよ。もうすぐこちらにお戻りになるんだそうです。久しぶりに、実家の店にお寄り下さるって仰るから、今から楽しみで」
「まぁ……葉書を」
「はい。うちみたいな小さな店にずっと通って下さって……」
彼の実家は城下のすぐ近く、旧市街にある古いパブだ。葉書なんて手間のかかるものを送ってくるなんて、よっぽど親交が深いのだなと思える。
「素敵な方なのね」
素直に言うと、エミリオは深く頷く。
「そりゃもう! あ、姫さまもご存知かもしれませんね。ロディス・カスタニエ様と仰る、遠くの公爵様のご子息で……」
「ええっ!?」
突然飛び出した意外な名前に、マーゴットは思わず目を丸くして悲鳴をあげた。あまりの驚きように、エミリオは不思議そうな顔で首をかしげる。
「姫さま……?」
驚きの表情のまま、雷にうたれたように動かなくなった少女は、しばらくそのまま瞳を揺らして考え込んでいたようだったが、やがて、擦れた声で言った。
「エミリオ……ロディス様が……」
その名を口にしたのは、いつぶりのことであろうか。
「ロディス・カスタニエ様が……エウロにお戻りになるの?」
「あの……やっぱり、お知り合いなんですか?」
マーゴットな反応に、エミリオもさすがに不審に思ったらしい、不思議そうな口ぶりで尋ねる。
「え? え……ええ……」
マーゴットは混乱した。そのことについて、彼女は説明の言葉を持たない。
どう言って誤魔化せばよいのか?
いや、そうではなくて、ロディスは本当に――
「……殿下」
みるみる青ざめていく少女に、傍で話を聞いていたジェラルドが慌てて駆け寄った。今にもその場に崩れ落ちてしまいそうな姉を助けて、ジェラルドはエミリオを見上げる。
「そのお話、本当なんですか? エミリオ」
そして、真剣な顔で訊ねた。
「え? あー……うん。ホントだよ。ほら、長いことお仕事で直轄区にいらっしゃっていただろう? 今までほとんどお帰りになることは無かったみたいなんだけど――今度、休暇を利用して一度エウロに戻ってくるって」
「ロディス様……」
ジェラルドは、怖い顔でひとりごちて俯く。
「あー……と……その……すみません。そんなにびっくりされるなんて、思ってなくて……」
二人の様子に慌てたエミリオは、申し訳なさそうに肩を落とした。
もちろん、彼には何の落ち度も無い。責めているわけではないのだと伝えたくて、ジェラルドは慌てて顔を上げ、口を開く。
「殿下とロディス様は……」
「……いいえ」
その言葉を、マーゴットが遮る。
「え?」
「ごめんなさい、エミリオ。その……エミリオがロディス・カスタニエ様とお友達だったなんて知らなくて。驚いてしまっただけ」
息を整えながらそう弁解した。それは上手い嘘とはいえなかったけれど、事情を何も知らないエミリオくらいは誤魔化せたらしい。青年はしばらく皇女とその弟の顔を見比べてから、一息ついてアハハと笑った。
「……ま、僕みたいなのが公爵様のご令息と知り合いだなんて、普通思いせんよね」
「ごめんなさい……」
謝罪の言葉を述べるマーゴットに、エミリオは気を取り直したように、笑顔で続ける。
「ロディス様はいい方なんですよ。昔からよく店に来て遊んで下さって。それに、誰にも少しも偉そうなことを仰らないんですよ。だから、うちの親父や他のみんなも、ロディス様のことは大好きなんです」
「まぁ……立派なのですね……」
「ええ。本当に。お若いのに立派だって、みんな言ってます」
笑顔を返しながら、呆然とした心を抱えてマーゴットは立ち尽くす。
彼が、帰ってくるなんて。
帰還の知らせは全くの不意撃ちで、少女の心を揺さぶった。
その名を、思わなかった日は無い。
その声を、思い出さなかった日も無い。
初めて会った時、どんな言葉を交わしたのか、その次に会った時、どんな笑顔を目にしたのか、何もかもをひとつひとつ鮮明に思い出すことが出来る。
押し殺した恋心は何度も少女を支え、助けた。夢でその姿を見るだけで、悲しいことなんて全て忘れることができるほどに。
逃げるように牧場から戻り、部屋に籠もって寝台に突っ伏し、マーゴットは己の中の嵐を静めようと必死だった。
心がざわめいて波打ち、激情が暴れ回る。会えないと思っていたから、気持ちを抑えて諦めることができた。誰にも秘めて、恋心を守り続けることは、彼女にとって本当に大切なことだ。
書き続けた手紙は一度もロディスに届けられたことはないが、幻想の彼へはいつも届いていた。それで良かったのだ。それだけで、幸せだったのに。
息が苦しい。恐ろしくて、悲しくて、辛くて、けれど、心臓が震えるのは、それだけが理由ではなかった。
「………………」
たぶん――嬉しいのだ。こんなに苦しいのに。
地球の裏側で仕事をしている、あの人がエウロに戻ってくる。
ジュネーヴには立ち寄るだろうか。私のことを、覚えているだろうか。
会いたいと思ってはいけない。それは罠だ。叶うはずが無いし、合わせる顔もない。今の自分は汚れた娘なのだ。彼に優しい言葉をかけてもらうべき存在ではないし、ましてや、想いを伝える資格なんてとうに失っている。
会うべきではない。
分かってるのに……――
「……殿下」
深く引かれたカーテンの隙間から、真昼の光が射していた。いつの間にか男がそこに立っていたことを、低い声が落ちてくるまで、少女は少しも気付いていなかったようだ。
「エリン……」
顔を上げると、エリンは静かに傍らに立っていた。最近はいつも暗い光を湛えた、青と紫の目を見つめる。
エリンが自分を心配して姿を現したのだろうことは明白だ。けれど、何を言うべきだろう。この四年間、エリンにだってロディスのことを話したことはないのだ。
「ジェラルドから、話を聞きました」
彼はやはり、何もかもお見通しなのだろうか。
少女は迷い、言葉が続かない。
でも、きっと――エリンは見ないふりをするだろう。マーゴットは思った。
今まで、自分と父の関係に対してそうしてきたように。
(……私のために、そうしてきたように)
けれど、紡がれた言葉は予想とは少し違うものだった。
「……ご自分のことを、後ろめたく思われる必要はありません」
エリンは嘘をつかない。だから今も、何も言わず去ると思ったのに。
「殿下は殿下です。お心のままに」
エリンは何を言っているのだろうか。口調は優しかったが、その言葉はやたらと冷たく、空虚に響いた。皇女は知らず、唇を開く。
「心……?」
心、と、声に出すと、そのいかにも人間的な響きに、改めてじわりと闇が胸に巣くう。
「……心って何?」
「殿下……?」
「わたくしの……心って何!?」
心など、今の少女にとっては絵に描いた青い鳥のようなものだ。
「そんなもの……そんなもの……」
うわごとのように呟きながら立ち上がり、ぐらりとよろめく。
「姫……」
「……勝手なことを言わないで!」
差し伸べられた手を乱暴に振り払う。
「何も、何も……エリンは何もしてくれなかったくせに!」
シンとした部屋の空気を、皇女の悲鳴が切り裂いた。
目を背けていても、エリンの動きが止まるのを感じる。あんまりなことを言ってしまった。優しい少女は言ってしまってから後悔するけれど、それは決して、思ってもみない言葉というわけではなかった。
最近、エリンはあまり彼女に近づこうとしない。城に来るまでは本当に父や兄のように側にいてくれたのに、戻ってからはだんだん離れて、ここ二年くらいは姿を見ない日の方が多い。
遠くに行ったわけではないと理解はしつつ、マーゴットにしてみれば、見捨てられたような気がしていた。
「………………」
心のままにあるとは、どうすれば良いのだろう。
どうすれば良かったのだろう。
「……無理よ。わたくしは……」
エリンに対してなのか、己に対してなのか分からない怒りと苛立ちがこみ上げる。これ以上、エリンを傷つける言葉を吐きたくはない。だからマーゴットはどうにかそれだけ呟いて、再び寝台に突っ伏した。
エリンは分かっているのだろうか。父だけでなく、エリンだって、少女を通してその母を探し続けている。
彼女は彼女としてこの場所にいるのではない。愛されているのでもない。
かつてこの城で生きた、彼らに愛された儚い亡き母。その忘れ形見である自分。それ以外の存在価値などありはしない。
彼女はここで、母の代わりとして生きている。
子供の頃は、そのことが嬉しかった。長く惜しまれる母を誇りに思ったし、娘として産まれたことに感謝することはあっても、それを恨みに思うことなどありはしなかった。
だけど――今はもう、違うのだ。
憎んでしまう。
恨んでしまう。
――いっそ、本当に心なんて無ければ楽だったのに。
少女の思いに気付いていたかどうかは分からないが、エリンは長い間沈黙し、やがて、冷たく感じるくらいにいつもどおりの調子で、静かに告げた。
「……ロディス・カスタニエは明日、報告を兼ねて殿下に謁見に参ります」
その名にマーゴットはギクリと肩を震わせる。けれど顔を上げない彼女には、声音とはうらはらに悲しそうなエリンの瞳は見えない。
「ご自分のお気持ちに、嘘をつく必要はありません。私もジェラルドも、それを望みます」
重ねて言って、少女の返事を待たず、エリンは去った。
窓の外の漆黒がやがて濃紺に変わり、その後深く澄んだ青紫を経て……じわりと白に溶けていく。
傍らで眠るゲオルグの安らかな息遣いを感じながら、少女はずっと長い時間、窓枠に切り取られた空を見つめていた。
昼間言われた言葉を何度も思い出す。けれど、いくら考えてみたところで、答えは出なかった。
エリンは無責任だ。今、自分が父を裏切るようなことをしたらどうなる。
(お父様……)
この人をいたずらに追いつめ、傷つけることはできない。これは、自分と父二人だけの問題ではないのだ。
自分から純潔と初恋を奪った男のことを、しかしマーゴットは誰よりも哀れみ、愛していた。少女は男の理解者だった。ゲオルグが、犯した罪の罰を既に受けていることも知っているのだ。
時々、思い出す。何のためにこの城に戻ってきたのだろう。
そして、何もかもを投げ出してしまいたくなる。
手の届く範囲の人のことに精一杯で、とても皇帝などという、大きな仕事ができる器が自分にあるとは思えない。一人だけの考えで言うなら、他に帝位が欲しい人がいるのなら、その人に継承権を譲ったって一向に構わない。誰がなったとしても、自分がなるよりもずっとましだろう。
だけど、それは言ってはいけないことなのだ。
少女は愚かではない。自分が権利を放棄すれば自治区内に大きな混乱と、下手をすれば争いを呼んでしまうことを理解している。そうなってしまっては、少女の弱さのために、さらに大勢の人を不幸にしてしまう。
――つまりは、何も出来ない。
これはたぶん、ゲオルグが背負ってきた荷と同じものだ。ただ生きて、この城に居続けなければならない。折れることは決して許されない。
(可哀想なお父様、あなたはこの家に生まれたわけじゃないのだから、逃げてしまえば良かったのに)
もうじきに、朝が来る。
薄明の時間が終わり、空に太陽が昇ったら、あの人がやってくる。
「………………」
四年前、最後に会った午餐会の日のことを、少女は実はあまり詳しくは覚えていない。あのころの記憶はあやふやで、他のことも含めてはっきりしていないことの方が多いのだ。
けれど、陽光の下で白く光っていた灰銀の髪と、柔和な笑顔に縋り付きたい気持ちになったことははっきり記憶に残っている。
ひと目会うことすら叶わぬままこんなに時間が経ったのに、未だに恋心を忘れていない自分は滑稽だろうか。
会いたくて、嬉しいのに、怖かった。
ただただ、朝が来ないで欲しいと祈りながら、白みゆく空を見つめていた。
少女が願おうとも、朝が来ないわけはない。淡々とその日ははじまり、やがて、約束の刻限はあっさりとやって来る。
少女は緊張した面持ちで広間に立っていた。
ロディス一人に会うのにこんな広い部屋を使う必要は無いのだが、応接間に通して、彼の近くで言葉を交わすことに自信が無かったのだ。だから、あえて謁見者が遠いこの広間を選んだ。
そもそも摂政ゲオルグの指名という形で秘書官の任に就いているロディス・カスタニエが、報告と挨拶にアヴァロン城を訪れるのはごく形式的なことであり、マーゴットに会いに来るわけではない。
彼は自分の気持ちなんて知るはずはないし、四年前少しだけ親しくした子供のことなど、気に留めているかどうかも分からない。
だから、平常心で、揺れる気持ちを気取られないように。
そして、胸の奥に閉じこめたこの想いに、再び無謀な火が点くことが無いように。
何度もそう念じながら、少女は待った。
やがて広間の向こうの端で音もなく扉が開くと、案内されて来たらしい白い人影が現れ、ゆっくりこちらに近づいてくる。
「……!」
思わず、息をのむ。背筋の伸びたスマートな身体に、さらりとした銀色の髪。
四年分大人びて、凛々しくなったその人が、少女の目の前に居た。
「……ご無沙汰いたしております、殿下」
懐かしい声だった。
「あ……」
どんなに頭で考えてみた所で、姿を見てしまうと容易く胸が高鳴る。形式的な返事をすればよいだけなのに、言葉が出てこない。身体の内側が震えるよう。
この人に会いたいとずっと思っていたのだ。
「あの……」
だけど、だけど、今はそれを表に出してはいけない。なけなしの虚勢をはって、マーゴットは練習通りの微笑みを作ろうとする。
「……な……長い間、エウロを離れておられたと……聞いています」
少女の声はうわずってぎこちなかったけれど、ロディスは青い目を細め、にこりと微笑んでこたえる。
「ええ。直轄区での、評議員秘書官の任を頂いております」
そんなこと、もちろん知っている。
けれど、初めて聞いたような顔で答えなければ。
「……それは、大変なお仕事を。ご苦労様でした」
どこにも気持ちの篭もっていない、白々しい台詞。
本当はこんなことじゃなくて、もっと、別の……――
「とんでもない。仕事はやりがいがあるし、楽しいです」
「そ……ですか。それは……何よりです」
「ええ」
時間が過ぎてしまう。同じ部屋の空気を呼吸できる時間が終わってしまう。
何か言いたい。いや、何も言ってはいけない。何も……
「あの……しばらくエウロにおいでですか?」
「……はい」
「長い休暇を頂きましたので、その間はこちらにと思っています」
「そうですか……」
言って、少女はそっと目を伏せた。自分の四年間と、ロディスの四年間を思うと、もうそれ以上の言葉は浮かばなかった。
「おかえりぃ」
その晩、皇女への謁見を終えて帰宅したロディスを出迎えたのは、玄関ドアの前に立つ、イヴァールのおどけた声だった。
「は?」
一緒に休暇をとってエウロに帰国したのは確かだけれど、家に来るなんて一言も聞いていない。
「お邪魔してようと思ったんだけど、誰も居なくてさ」
「見れば分かるよ」
ここはジュネーヴのカスタニエ家別邸だ。
四年前、毎日夜会漬けの日々を送っていたときに暮らしていた部屋である。ロディスは、とりあえず今日はここで休んで、その後、適当に実家のあるレーゼクネまで戻ろうと思っていたのだ。
「使用人居ないの?」
「居ないよ、皆父の元に帰した」
「ふぅん、本国でまで一人暮らしかあ。本当に変わってるな、君」
玄関ドアの鍵を開けて部屋に入るロディスの後ろを、イヴァールはへらへら笑いつつ続いて歩く。別に追い返す理由もないので、何となく二人で久しぶりの部屋のドアをくぐった。
「僕だって久しぶりに戻る部屋だからね、何のおもてなしも出来ないよ」
「了解了解、後で飲みに行こうぜ」
「わかったよ」
調子の良い友人の言葉を適当に流しながら、暑かった上着を脱いでハンガーにかける。さっさとソファに陣取ったイヴァールは、何故か不思議そうにロディスを見上げた。
「怒らないんだなぁ」
「何が?」
「アポなしで遊びに来ても」
「……ま、事情があって、そういうタイプは慣れてるんだよ」
「分かるような、分からんような説明だな」
「君よりもっと頭の痛くなるような友人もいたってこと」
ロディスが言ったのは、彼がエウロに戻る前の学友のことで、イヴァールに分かるはずはない。自由な
「俺以上と言われると、微妙なジェラシーを感じるな」
「はいはい」
けれど、別れを告げてきた場所での話だ。今更自慢する気にはなれなかった。
「それで、どうしたの? 本当に遊びに来た訳じゃないんでしょう?」
子供じゃあるまいし、と、思いながらイヴァールを見たけれど、彼はきょとんとして首をかしげる。
「本当に遊びにきたつもりだったけど、今日って皇女殿下に会ってきたんだろ?」
それから、悪戯っぽくにやりと笑った。
「どうだった?」
「……何が?」
「例の計画。ザ・政略結婚……」
「やめたって言ってるでしょう。そういう下心で会いに行ったわけじゃないよ」
興味津々の友人にロディスはうんざりと目を細める。
「じゃあ、どういう下心だよ」
「帰還の報告をかねて、ご尊顔を拝しに」
言いながらニコリと微笑むロディスの顔は端正すぎて嘘くさいが、隙もない。
イヴァールは納得出来ない様子でしばらくロディスを睨んでいたが、やがて深く息をついて、人の家のソファにぐったりと伸びる。
「……つまらんな」
「つまらないことはないよ、気になってたんだ」
「何が?」
「元気にしているのかどうかって」
「君が気にしなくても良いことだろ、それは」
「まぁ、そうだけど……一応ね」
言いながら窓の外を見るロディスの複雑そうな表情を、イヴァールは注意深く観察しながら続けた。
「それで、我らが皇女殿下は、元気そうだったか?」
ロディスは黙り込んだ。そして、しばらく考えてからポツリと言う。
「……良く分からなかった、かな」
「はぁ?」
素っ頓狂な声をあげるイヴァールの向かいに、缶の飲み物を持って来たロディスが座る。冷蔵庫に冷やしてあったらしいそれをグラスに注ぐと、ひとつをイヴァールに渡した。
「昔はもっと、感情がストレートに出ていて、素直そうな感じだったんだけど」
何となく、ロディスらしくない、歯切れの悪い言葉だった。イヴァールは首をひねる。
「それ、四年も前の話だろ。十六歳といったら難しい年頃だし、多少は印象も変わるのが当然さ」
「うん。それはそうだと思うんだけどね、何か、こう……」
ロディスは、違和感の正体を掴みかねるように、手のひらを見つめる。
最後に会った日に皇女が自分に言った言葉がじわりと、しみ出すように蘇る。
彼女はあの日薔薇園で、『城の外に連れ出して欲しい』と言ったのだ。
単なる戯れの我が侭とは思えないような、切迫した訴えだった。
そうだ。あの時突然妙なことを言った彼女に、もしかして城で何か辛いことでもあるのかと心配に思ったのだった。
「ロディ?」
あの時は、心配する気持ちより罪悪感の方が強かった。己の野心のために少女を利用することはもう止めておこうと思い直したところだったし、彼女から寄せられる好意も自覚していたので、いたずらに傷つけないためにも、これ以上近づかないことが彼女のためだと思った。
「おーい……大丈夫かい?」
イヴァールの呼びかけは届かない。
ロディスは、自分が色々なことを忘れていたことを、ここに来てようやく思い出していた。
どこか遠くへ行きたいと、絞り出すように言った言葉の意味について、彼は何も追求しないままエウロを離れ――そして、今日まですっかり忘れていた。
素直で、善良で、笑顔が可愛らしかったマーゴットは、今日はどこか悲しげな表情を見せる少女に変化していた。それは、ロディスが想像していた彼女の成長した姿とは異なるものだ。
ただの思い違いであれあればいい。
けれど――心に何かがわだかまる。
もしかして自分は、何か間違いをおかしてしまったのではないだろうか。
「姉上、今日もずっとお部屋にいらっしゃるのですか?」
躊躇いがちに声を上げるジェラルドの声は、少女の耳に届いてはいたが、意味のある言葉としては認識されない。
乱れたベッドの上で長い髪はもつれ、青白い手足を投げ出して寝間着のままで着替えようともせず、ぼんやりと何を見るでもなく寝そべっている。
ロディスに再会した日から、いつもなら元気でいる昼間も無気力に過ごすことが多くなっていた。
「姉上……」
「……聞こえているわ、ジェラルド」
面倒くさそうに口を開く。
「良いお天気だから、あなたはレイチェルのところで遊んでいらっしゃい」
「そんなこと、出来るわけありません」
「あら……そう。……そうね」
分厚い膜を通してやり取りしているような、どんよりと鈍い会話。心配そうなジェラルドのまなざしは今の姉には届かない。
「でも、あなたは好きにしていて良いわ。わたくしに付き合って退屈なのはかわいそうだものね」
「姉上」
「いいのよ。可愛いジェラルド」
弟がそれを望まないことはわかっている。こんなことを言ったら、弟を困らせるだけだということも。
「……わたくしのことは、放っておいて」
けれど少女には、そんなことしか出来なかったのだ。
「…………」
ジェラルドは黙り込み、不安そうに表情を曇らせて、そっと身を翻した。
マーゴットから拒絶されることは、彼にとって、自身の存在をも否定されることに等しい。
けれど、主人の言葉に従わない選択肢を、少年は持ち合わせていない。
「……では、隣におります。何かあればお呼び下さい。姉上」
黒い外套の後ろ姿が、ドアの向こうに消えるのを確認して、寝返りを打つ。
馴染んだ羽毛の肌掛けにくるまって、重い身体を小さくして……それから、かたく目を閉じて、溢れそうな気持ちに必死に蓋をした。
心とは何と不自由なものだろうか。
考えてはいけないと思えば思うほど、思慕は深まっていた。
瞼の闇の向こう、誰も居ない広間を、ゆっくりこちらに歩いてくる姿が見える。
記憶よりもいくぶんか大人になった顔立ちは涼やかで、けれどやっぱり瞳には他のエウロ人と違う光を湛えていて……
――ずっと、会いたかった人だった。
ジェラルドが部屋に戻ると、師はいつもと同じように小さな読書灯の傍で淡々と本を読んでいた。ドアの前に立ち尽くして、少年は難しい顔でエリンを睨む。
「先生……」
「何だ」
読書にふけっているように見えたエリンだが、彼の方を見ようとせずに低く返す。一瞬怯んだ様子を見せたジェラルドは、しかしやがて、意を決したように口を開いた。
「……どうして、姉上とロディス様を?」
少年の非難めいた言葉に、エリンは本を置いて顔を上げた。
「殿下がそれを望まれていたからだ」
他の者からの謁見の申し出はほとんど断っていたにも関わらず、ロディスの皇女との謁見を許可させたのはエリンであることに、ジェラルドは気づいていた。
彼は公には何の権限も持たないが、ゲオルグや執事クヴェンに対しては個人的な影響力を持っている。
エリンがあんなことをしたせいで、マーゴットは落ち込んでいるのだ。ジェラルドは少なからず憤りを覚えていた。
「姉上が?」
「そうだ」
「ですが……」
「お前が口を出す必要はない」
短く断じるエリンの言葉に、ジェラルドは憮然と目を上げた。
「……姉上は苦しんでおられます」
「分かっている」
「なら……」
「変化が、必要なのだ」
少年の言葉を苦しげに遮って、エリンは深い息をつく。師の苦悩を感じ取ったジェラルドは、神妙な顔で黙り込んだ。
「……今のままでは、殿下のお心は持たない」
師弟はこの部屋で重い秘密を共有し続けた。今まで少年は、師のすることに異を唱えたことはない。
これまで、エリンがどんなにゲオルグを娘から遠ざけようとしても、最終的には、彼にはゲオルグを止めることは出来なかった。
仕方なく彼らは皇女に薬を盛った。心が壊れてしまわぬように、子を孕んでしまわぬように。
けれど、今の歪んだ平穏は、遠からず、彼らの大切なマーゴットを押し潰すだろう。
限界が近い。それを、エリンは悟っていた。おそらくは、ジェラルドも。
机にしまわれたたくさんの手紙を盗み読んだことはなかったけれど、マーゴットが、幼い日出会ったあの青年を想い続けていることを知っている。
何か――この硬直した箱庭を壊してくれる何かを、剣達は探し求めていたのだ。
皇女がロディスの謁見を受け入れたことを口実に、エリンはゲオルグを説得して彼女が公の場に出る機会を増やさせた。
娘をあまり外に出したがらないゲオルグであったが、いつまでも皇女が城に引きこもったままでは人民の安心も、貴族達の忠誠も、維持することが出来ないのは確かなことである。だから、しつこく反対することは無かった。
そして、春が終わる頃には、皇女は再び社交の場に姿を見せるようになっていた。
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