八 新天地

 


 ガイア連邦共和国の首都ネオポリスは、南半球オーストラリア大陸の東岸に位置する。アヴァロンからは別世界のように遠い場所だ。

 伝統的な町並みを優先して保存してきたエウロの多くの街と違い、高層ビルの建ち並ぶ、現代的な都市である。

 季節は秋の初め。

 政府関連の各施設が建ち並ぶ、セントラルコート地区の一角にある、連邦評議会ビル。「セントラルコートの森」とも呼ばれる広大な庭を持つ、三階建ての瀟洒な建物である。

 ここが、現在のロディス・カスタニエの仕事場であった。


 世界は現在、大きく五つの自治区に分かれている。

 ユーラシア大陸の西部にはロディスやマーゴットの生まれたエウロ自治区、北部にトッカル自治区、東部にシノニア自治区、紅海沿岸からアフリカ大陸北部にかけて、ベリス自治区。

 そして、ここオーストラリアや南極、現在では人の居住が許可されていないアメリカ大陸などは、どこの自治区にも属さない連邦直轄区となっている。

 連邦評議会では、各自治区から二名ずつ選出された評議員が集められ、四年の任期で自治区間の調整や、連邦の関与する問題についての討議、決定を行っている。

 遠い直轄区への赴任を嫌がる貴族が多い中、喜んで任官したロディスは、エウロ人の間では変人と評されることが多かったが――彼は、ここでの仕事を気に入っている。

 日々の仕事は資料集めや書類作成、スケジュール調整など雑務が非常に多く、上役である評議員――マーゴットの祖父エーベルハルトである――のわがままには振り回されてばかりで、自身には特に権限もない。

 報われることの少ない激務であるが、ロディスにとっては、渡りに船ともいえる仕事だった。

 なぜなら、ここでの仕事ぶりが認められれば、一気に評議員の職を得ることだって夢ではないからだ。エウロでは要職に就く上で最重要視される血統も、帝室の近縁であるロディスならば申し分ない。

 各自治区の内政に対して不介入の慣例があるため、連邦評議員は要職の割には自治区内では重要視されないことが多い。だが、実際にはその権限は強く、連邦政府の中枢を担う存在であり、担当官庁における最終決定権も握っている。

 いつのことになるかはまだ分からないけれど、首尾良く評議員の座を手に入れることが出来たら、ロディスには、是非とも成し遂げたい仕事があった。




 予定よりも長引いた閣議が終わり、評議員達が退席するのを待ってから、資料をまとめ直して席を立つ。

「……?」

 さっさと会議室を出るつもりだったが、ふと、部屋の向かいに座ったまま動かない人影に気付き、目をやった。

 評議員席に座っているその若い男のことはもちろん知っている。

 ベリスの評議員、アルベルト・クレディエス。

 ロディスよりもひとつ年上で、ベリス自治区クレディエス外相の、何番目かの息子である。二年前に着任した新しい議員で、ネオポリスアカデミーを卒業してすぐに評議員に選出されたという。現評議会メンバーの中では彼一人だけ飛び抜けて若年で、それだけでも大変目立つ存在だ。

 そんなアルベルト・クレディエスは、先程終わった会議の資料をまだ眺めているようだった。

 内容は、次年度の食糧配分に関する自治区間での調整についての話題だ。食糧自給率の極端に低いエウロにとっては、重要な議題のひとつである。

「………………」

 しばらく見ていても、彼はロディスに気付きもしないようだった。無理もない。こちらは彼を知っていても、向こうからすればただの秘書官の一人に過ぎない自分のことなど、気にかけているはずもないのだから。

 気を取り直して部屋を出ると、待っていたらしい同僚がひらひらと手を振って合図した。

「今日は長くかかったな」

「議題が議題だから、仕方がないよ。イヴァール」

「確かにな。それに……食糧問題は我々にすれば頭の痛い話だ」

「……そうだね」

 イヴァール・ブライアースは二つ年上の秘書官で、共に着任した同僚だ。

 エウロ人には少し珍しい生まれつきの黒い髪に、地中海のような華やかな青い目をした青年だった。

「それで、君は苛ついているわけか」

「僕が? まさか」

「いや、今日は普段の君と比べると、三割増で機嫌が悪いね」

 からかうようにそう言って、こちらを覗き込んでくるイヴァールに、ロディスは何となく嫌な予感がして目を背けようとした。

「当ててやろうか?」

 けれど、陽気な同僚はお構いなしだ。

「何を?」

「君のイライラの理由さ」

「だから、僕は……」

「あの若いベリス評議員」

「え?」

「羨ましいんだろ」

「な……」

「ほうら、当たりだ」

 得意げな顔で、イヴァールはニッと口元だけ釣り上げて笑ってみせる。

 彼は有能で、遠慮がなく、それから、やたらと勘のいい男であった。

「どうして僕が……」

 そんなことを言い当てられても、認めるのは癪だ。ロディスは形の良い眉を寄せて口ごもる。

 美しい同僚が気分を害しているのに、イヴァールはもちろん気付いているようだったが、あえてあっけらかんと話を続けた。

「今日の議題だよ。君、以前から食糧問題に関してはやたらと熱心だろう? うちの殿下は体面優先であまり他自治区から食べ物を引っ張ってくるのには積極的じゃないからさ」

「それは……」

「だから、君は今日の閣議で自分に発言権が無いのに苛立っているわけさ」

 イヴァールは、確信めいた口ぶりで続ける。

「ついでに、弱冠二十四の彼があの席に座っているのに嫉妬もしてる」

「……いくらなんでも詮索のしすぎだよ」

 さすがに黙っていられず、ロディスは首を振る。

「僕は別に今の職務には満足してるし、変な野心を持っているわけでもない」

「おや、素直じゃないな。俺は――」

 言いかけた言葉を遮るように、会議室のドアが開いた。

 反射的に二人してそちらを振り返る。

「………………」

 スイと姿を現した、ダークグレーのスーツに身を包んだ長身の人影。最後まで部屋に残っていたアルベルト・クレディエスが、会議室から出てくるところだった。


 一瞬、今の話を聞かれただろうかと焦ったが、アルベルトは二人を一瞥すると、

すぐに身を翻してエレベーターホールの方へ向かっていく。

 ロディスとイヴァールは、無言で顔を見合わせて、それから少しだけ苦笑して、アルベルトを避けるように階段の方へと向かっていった。


 イヴァール・ブライアースと共に秘書官の仕事をするようになって、もうすぐ四年になる。ハミルトン公爵の妻方の親戚にあたるブライアース侯爵家の長男であるが、名家の出の割には気さくで、話しやすい男だ……といえば聞こえがいいが、実際の所は初対面からやたらと馴れ馴れしくて、正直あまり得意なタイプだとは思えなかった。

 だが、今はまぁ、明るい彼のことは個人的には嫌いではない。

 ――本当に信頼できる人物であるかどうかの判断は、まだ出来ていないけれど。


 子供時代をエウロで過ごさなかったロディスには、貴族界に心を許せる友人は居なかった。むしろ、本来の彼はだ。

 とはいえ、エウロ社会は現状、貴族たちが動かしているのは事実だし、何をするにしても本国の関係者に味方がいる方が心強いのは確かだ。

 ただ、イヴァールはハミルトン公爵の強い影響下にある、ブライアース侯爵家の人間である。彼と近づきすぎることが良いのかどうか、ロディスはまだ判断を下せずにいたのだ。

 貴族同士の政争からは距離を置いておきたい。

 特に、ハミルトン公爵側に近づきすぎることは危険だと思っていた。


「君の嫉妬もわかるけど、クレディエス議員はあれで結構苦労しているという話だぞ」

 ロディスの気持ちを知ってか知らずか、わざとらしく諭すような調子で、階段を下りながらイヴァールが言う。

「『院 生 議 員graduate councilor』って?」

「あれ、知ってるのか」

 それは、大学を卒業してまもなく評議員に任じられたアルベルトを揶揄するあだ名である。イヴァールは意外そうに目を丸くしたが、人の悪口ほど伝わりやすい情報はないものだ。秘書官なら誰でも耳にしたことくらいはある。

「陰口なんて、いくら言われたって痛くも痒くもないさ」

「……やっぱり素直じゃないな」

「何を馬鹿なことを。僕はいつだって素直だよ」

「まぁ、確かに君なら陰口くらいは平気そうだな」

「平気だよ。そんなことは」

 短く言った言葉は虚勢ではなかった。そのくらい、評議員の座というのは貴重なものだ。あの赤毛の男がそれを理解しているかどうかは知らないけれど。

「ほぉ、頼もしいな。じゃあ、今日の閣議、君が評議員席に座っていたとしたら、どうした?」

「え……?」

「例えばの話さ。意見はあるだろう?」

 雑談にしては、やけに具体的な問いに面食らいつつも、真面目にならざるをえない。

「……まあ、餓死者の数を低めに見積もって報告するなんてのには、賛成できなかったかな」

 とりあえず一番当たり障りの無さそうな意見を口にしてみる。

「殿下は前年対比で減ってるってことにこだわってらしたからな……あはは、あんな数、少々減ってるなんて主張したって何の自慢にもならないと思うがなぁ」

 イヴァールは、賛成とも反対ともとれる様子で言いながら、軽薄に笑顔を見せる。

「……笑い事じゃないよ、イヴァール」

「おっと、失礼」

 口先だけで反省の意を示す同僚を冷たく一瞥してから、ロディスは独り言のように続けた。

「そもそも、自治区内での食料の増産自体が急務だ。現状、ほぼ無策なのがまずいけない。とはいえ、今から手を打って来年すぐに貧民の飢えを満たせるような状況には、逆立ちしたってなりっこないんだから……当面は、素直に他の自治区の助けを仰ぐべきだろう」

 一度考えを巡らせはじめると、隣でニヤニヤしている同僚のことは目に入らなくなったようだ。小麦はあと何トン欲しいだとか、連邦主導での農業再生事業を立ち上げる根回しをはじめたいだとか、ブツブツといやに具体的な呟きが続く。

 イヴァールはしばらくそれを満足げに眺めていたが、ふと、

「そのためには、ベリス野郎の靴を舐めても構わないって?」

 意地悪な言葉を差し挟んだ。

 思考を邪魔されたロディスだったが、ほんの一瞬口をつぐんで、すぐに涼しい顔を上げる。

「僕はそれでも構わないよ?」

「え……」

「実際、そういう仕事だ。直轄区でのエウロ評議員は」

 てっきり、下品な問いに潔癖なロディスは再び怒ると思っていたのだろう。イヴァールは一瞬呆気にとられた顔をして足を止め、それから慌てて先を行くロディスを追いかける。

「……全く、君は誇り高い上に気が強いな。真似できないよ」

 そして、嬉しそうに言った。

「エーベルハルト様はいい方だけど、やっぱり、そういうことはお出来にならないから……だからイヴァール、僕がもし苛ついていたとしたら、どちらかというと、そっちが原因だよ」

 アルベルト・クレディエスの立場は確かに羨ましいけれど、彼はベリスの、自分はエウロの為にここにいるのだ。背負うものの異なる相手を嫉妬しても仕方がない。

「なるほど。そうやって強がるところにはちょっと可愛げがあるな」

「だから、そういうんじゃ……」

 分からない返しをするイヴァールに、ロディスは嘆息する。長く一緒に仕事をしていたが、こういう話をしたのは初めてのような気がしていた。

「君は個人的にあの『院生』と親しくなる方が良いんじゃないか?」

「ちょ……」

「あははは、冗談さ。君らはいかにもソリが合わなさそうだ」

 清掃の行き届いたピカピカの床に、くぐもった二人の足音が響く。

 全ての会議が終わったらしく、いつの間にかホールに残っているのは、彼ら二人だけだった。

 同僚をひとしきりからかっては笑っていたイヴァールの深い青の瞳が、ふいにロディスを捕らえる。

「だけど、俺は君に付くぜ?」

 言葉の意味は、すぐには理解出来ないものだ。きょとんとしたロディスに、今度はイヴァールが真面目な表情になって続けた。

「ま、口でそう言って、だから信頼してくれなんて、言わないけどさ。親父や母上殿には絶縁されそうだけど、いざとなったら君の下に付く」

「………………」

 がらんとした廊下で、ロディスはイヴァールの真意を測りかね、難しい顔で黙り込んだ。

 イヴァールは注意深くロディスの表情を窺いながら、目を細める。

「君は野心家だ。……そうだろう?」

 あけすけな瞳に、僅かに剣呑な色が混じる。トッカルでの気楽な暮らしを捨て、エウロに戻ってきてからずっと、注意深く隠し続けてきたものを、目の前の男に見抜かれたような気がする。

 イエスとも、ノーとも答えられない。ロディスは口をつぐんだまま、しんとしたホールで、二人はしばし見つめ合う。

 野望といわれればそうだが、ロディスのそれはそんな名で呼ぶには純粋すぎるものだ。夢と言い換えたほうが適当だろう。

 彼がここで評議員の座を狙う理由は、エウロを救うためだった。


 二人の間に不可思議な沈黙がしばらく続き、やがて、イヴァールは、ハァとひとつ深い息をついて、言葉を続けた。

「休眠中の食料プラントの資料、集めてるだろ。トッカルとの北部境界にいっぱいあるやつ」

「……えっ?」

 思わず驚いた声をあげてしまった。

 そのプラントについては確かに着任以来、仕事の傍らに調べ続けているが、今日の会議に話題が登ったわけでもないし、イヴァールにそれを話したこともない。

「実は俺も前に調べたことがあってさ。君とは意見が合う気がする」

「イヴァール……?」

「そうだな、先に言っておくよ」

 混乱するロディスを安心させるように、イヴァールは笑った。

「俺はハミルトン公が次期皇帝に就いたりしたら、エウロはいよいよ崩壊すると思ってる」

 そして、今度こそ本当に物騒な言葉を紡ぎ出したのだった。

「な……」

「かといって今の帝室に自治区を建て直すだけの力が残っているとも思わないけどな」

 帝室批判とも――曲解すればハミルトン公爵による帝位簒奪の黙認ともとれる台詞である。どちらにしろ、皇帝の臣たるエウロ貴族には、あるまじき発言であることは確かだ。

 エウロだってもちろん法治社会だけれど、こと帝室と帝権に関しては、裏切りの意志有りと知られれば粛正もあり得る。その実行者たる影の剣は、一部では伝説のように語られることもあるのだけれど――ロディスは実際彼に会っている。

 想像していたのとは違って、ジェラルドは随分可愛らしい剣だったけれど、あの少年が姉の敵対者に対してどういう行動を取るのかは、まぁ、自分の身に起きたことを顧みても想像に難くないところだ。

 ともかく、貴族達は決して信頼できない者の前でそういう意見は表明しない。誰に聞かれて足を掬われるとも限らないからだ。

「……そんな不穏当なことを考えている君こそ、野心家なのじゃないのかい? 

 イヴァール・ブライアース」

 もしくは、ただの馬鹿だろう、とは、思ったけれど口にしなかった。呆れるロディスに、イヴァールは自嘲的に呟く。

「俺は駄目だ」

「何故?」

「今のエウロを押さえ込むには、血の力が絶対に要る。俺は妾腹で、母も中流出身だから、家を継ぐのはおそらく俺より血統の良い弟になるだろう。どうあがいても、俺だけでは何も成しえないのさ」

 彼らしくない台詞だったが、言っていることはおそらく正しい。返す言葉が見つからなかった。




 エウロ自治区の、現在においても改善の見通しのたたない貧困の、最も深刻かつ根本的な原因は、慢性的な食料不足にある。

 彼らの故郷は、沿岸部の海面上昇に加え、過去の失策により、この数百年間における農業の衰退が世界で最も激しい場所となっていた。

 まずこの食料不足を解決することが、エウロの困窮を救うための最も大切な対策になるはずだ。

 それを最初に考えたのは、もうずっと前、トッカルの寄宿舎に入っていた頃のことである。

 子供の自分ですら分かるような単純な施策を、エウロ自治区は実現することが出来ずにいる。そう思い至ったときに感じた憤りを、ロディスは今も思い出すことができる。

 理由は簡単だ。貴族制度があるからだ。

 戦争のない今の世界において、支配者の特権はただの甘い蜜だ。

 外の自治区では、『千年の退行』なんて揶揄されていることを、エウロの貴族達は知っているのだろうか。

 アヴァロン家初代ヴィンセント・アヴァロンが、化石じみた制度を持ち込むことによって、当時混乱の中にあったエウロは、確かに一度は立ち直りかけたといえる。

 だけど、それは長続きするものではなかったし、今は石の棺よろしく、故郷をゆっくりと死なせつつある。

 エウロに特権階級はいらない。

 自分を含めてだ。

 ――あんなもの、壊してしまうべきなのだ。





『続きまして、エウロ自治区からのニュースです。

ジュネーヴでは、皇女マーゴット殿下の十六歳の誕生日を祝う式典が、各地で開催されています。

 長く公の場に姿を見せていない皇女殿下ですが、帝室報道官からの発表では、最近では体調を崩すことも無く過ごされているとのこと。

 今年は久しぶりに市民の前に姿を見せる機会があるのではと、期待する声も多く聞かれました……』




「ニュースくらい部屋で見ろよ、ロディ」

 不意に落ちてきた同僚の呆れた声に、ロディスはゆっくりとソファにもたれ掛かり、真上を向いて声の主の顔を見上げる。スーツ姿のイヴァールが、買い物の紙袋を抱えて立っていた。

「休みに引きこもっていると気持ちが暗くなるからね。ここのがちょうど良いんだよ」

 休日はだいたい、自分の調べ物か資料読みに費やすことがほとんどだ。

 だから、本当を言うと引きこもっていたとしても気持ちが暗くなったりはしないのだけれど……宿舎の清掃員に嫌な顔をされるからロビーに待避してきたんだとは何となく言いづらい。

「ホームシックか? 君らしくないな」

「勝手な解釈をしないでくれる?」

「あはは、それは失礼。じゃあ、今度の休暇はどうするんだい? またこっちに居残り?」

「……いや、久しぶりに戻ろうと思ってるよ」

 イヴァールが言っているのは、今度のイースター休暇のことだ。まとまった時間ができるし、評議員がエウロに戻るタイミングに合わせれば飛行機での移動が許可されるので、帰郷する者が多いのだ。

「へぇ、じゃあ一緒だな」

「君も?」

「まあね、時々家に戻っておかないと、母上殿に、死んだことにでもされそうでさ」

「……笑えないジョークだよ」

 あれから、イヴァールの個人的な話を度々聞くようになっていた。

 彼はこう見えて、実家では随分と苦労してきたようだ。身分の違う実母とは共に暮らせず、継母は今のブライアース夫人(彼女のことは、ロディスもよく知っている)で二人目。しかも、夫人は自分が産んだ息子に家を継がせるつもりらしく、イヴァールにはあからさまに冷たいらしい。

「ははは、全く」

 一人っ子の跡取り息子であるロディスには、彼のような境遇の難儀さは計り知れないが、当の本人はあまり気にする様子はなく、いつもあっけらかんと他人事のようだ。

 イヴァールはロディスの隣にどかりと座り、遅い夕食が入っているらしい紙袋をごそごそ開ける。

「夜、もう食べたかい?」

「いや、まだ」

「ふふん、だと思った。一緒にどうだい?」

 嬉しそうに言ってテイクアウトの袋を開ける。

 別にロディスの分まで買ってきたわけではないのだろうが、こういう類いの店を妙に気に入っているらしい彼は、いつも必要以上に買い込んでくるのだ。

「じゃ、お言葉に甘えてどれか頂こうかな」

 空腹ではあったし、今から外に食べに出るのはちょっと面倒だったので、正直ありがたい差し入れだ。

「遠慮無くどーぞ。俺はこのローストビーフサンドがあれば他はどれでもいい」

「なんかそれ、この間も食べてなかった?」

「最近の定番なんだ」

 ファーストフードの類は、忙しい時にもサッサと調達して空腹を満たせるので、ロディスも割とよく利用するのだけれど、イヴァールのテイクアウトフード好きは偏執的だ。

 たぶん、仕事場から徒歩圏内の店ならば、所在地はもちろん、メニューも味も知り尽くしているから、ちょっとしたフードガイドブックなみだと思う。

「よく飽きないねぇ」

「飽きないさ。うまいもん」

 食事の時は妙に子供っぽい表情になるイヴァールは、まだ具の暖かいサンドイッチをパクリと口に放り込んで、やたらと美味そうにそれを平らげる。そして、先ほどからチラチラとテレビに目をやるロディスの方を見て言った。

「気になるニュースかい?」

「え? あ……まぁね」

 指摘されてはじめて、自分がテレビを必要以上に気にしていたことに気付く。

「可愛いよな」

「は?」

「皇女殿下。もう十六歳なんだ」

 ニュースは先ほどからずっと、皇女マーゴットの近況について取り上げていた。しかし、彼女の映像は流れず、穏やかに微笑む、成長した少女の写真が映し出されていた。

「ああ、可愛いね」

「会ったことある?」

「あるよ」

「話したりした?」

「うん」

「うわ、知り合いか。さすが公爵様」

「……僕、まだ公爵じゃないし。っていうか、君は帝室の夜会くらい顔を出したことがないの?」

「俺はそういうの苦手だし、妾腹の長男なんかが社交界で目立ったら争いの元だろ?」

「それは、まぁ……」

「俺、わりと弟のことは可愛いしな」

「ふぅん……」

「それでそれで、君、皇女殿下とは親しいのか?」

「普通かな」

「普通って……」

「求婚しようと思ってた。四年前は」

「ははぁ、なるほど……って、ええええええ!!」

「……そんなに驚くようなこと?」

 以前からイヴァールには話してもいいような気がしていたので、何となく流れで本当のことを言ったのだけれど、ものすごく驚かれてしまって面食らった。

 けれど確かに、驚くようなことだったかもしれないなと、言ってから思った。

「あ……いや……わ、悪い。でも、君の口からそういう貴族っぽい言葉が出るとは……」

「悪かったね」

「いや、でも……」

 イヴァールは狼狽をパッと引っ込めて、ホットコーヒーを一口含む。

「なるほどね、皇配になるか。名案だな」

「今はもう考えてないって」

「本当に?」

「……本当だよ。今度本国に戻ったら、挨拶くらいには出向こうと思ってるけど」


「なんだよ、つまらないな」


 故郷の窮状を救うことこそ己の生きる道と定めたときから、ロディスは目的のために手段を選ばないことを決めていた。

 大学を飛び級で卒業して、大急ぎでエウロに戻ったのも、皇女に近づくのが目的だったのだ。彼女が十二になってアヴァロンに戻ることは、前々から帝室が約束として掲げていたことだったから。

 ロディスの帝位継承順位は三位であり、彼女からみれば再従兄にあたる。年齢も釣り合うので、アヴァロンが考える彼女の婚姻相手としては最も妥当な人選だと自負するところだ。

 帰還に間に合うように社交界に溶け込み、うまく立ち回れば、彼女を妻にすることはさほど難しくないと踏んでいた。

 マーゴットがいつ帝位に就くのか、それは議会次第であり、四年経った今もまだ分からないことだ。

 けれど、彼女の夫になるということは、すなわち遠くない未来には、エウロの終身独裁官――皇帝の夫の座につくということである。

 ロディスが目的としているエウロ復興の事業は、皇配の立場があればおそらく実現できる。

 そのために自ら仕組んだ出会いだった。

 自分の世辞のうまさも、無駄に端正な目鼻立ちも、美点ではなく、どちらかというと恥ずべき特性だと思っているが、十二の少女を籠絡するには役に立つだろうと考えていたし、実際、もくろみはあっさり成就しつつあった。けれど。

「……いい子だったんだよ、巻き込みたくない」

 実際に会ってみたマーゴットは、あまりにあどけなく、善良な、普通の少女であり、ロディスがそれまで想像していたアヴァロンの皇女像とはかけ離れていた。

 彼女を取り巻く大勢の他の貴族達と同じように、彼女を利用しようとすることは、たとえ大義のためとはいえ、許されることではないように思えた。

 だから、ロディスは考えを改めたのだ。


「甘いな、ロディ。両眼ともにスミレ色の、純血の一人娘だぞ。暗殺されるか、利用されるか、どう転んでもふたつにひとつさ」

 ロディスの返答に、軽い冗談でも吐くような調子でイヴァールは言う。

「それは……」

「だったら、君が平和的に利用したって、構わないと思うけど」

「……人をモノのように」

「でも、そうだろう? アヴァロン家の娘なんて、人間とはいえないさ。可哀想だけどさ」


 中央での仕事に打ち込むうち、彼女のことを考えることは少なくなっていた。

 貴族同士の面倒な付き合いに心を砕くより、秘書官としての日々の方がずっと有意義だし、面白い。

 確かに大きな権力を手に入れるような、一足飛びの【裏技】は使えないけれど、こちら側からエウロを良い方向に変えていきたいという新しい目標もある。

 けれど……イヴァールの言葉は冷たいが、たぶん真実だ。

 素直で世間知らずだった可憐なあの娘は、今、幸せに成長しているのだろうか。

 かつての自分のような悪い考えの男に騙されて悲しい思いをしているのではないかと思うと、心が痛む。

 あの薔薇園でマーゴットと別れてから、いつの間にか、随分と長い月日が流れていた。

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