七 出さない手紙

 


 拝啓、ロディス様、お元気でいらっしゃいますか。

 わたくしとジェラルドは相変わらず、元気にしています。

 アヴァロンはもうすぐ春。

 今年は、四年前わたくしが城に戻った時に植えた木にはじめての花が咲きそうで、今からそれをとても楽しみにしています。

 園芸のお勉強をはじめてから、庭師達とすっかり仲良しになりました。

 皆、とっても草木に詳しくて優しいので、お話しするのがとても楽しいの。

 今は前庭に大きな花時計を作っているところで、それも春にはすっかり見ごろになるのですって。

 直轄区ではこちらとは季節が逆だと聞いていますから、これから秋に向かうところでしょうか。

 何だか不思議な気がしてしまいます。

 秘書官のお仕事はきっとお忙しいのでしょうね。

 でも、ロディス様ならきっと、立派にお勉めになっていることでしょう。

 こちらにはまだお戻りにならないのでしょうか。

 遠い異国の地のお話などを、聞かせて頂ける機会がないかしらと、

 わたくしは――




「よろしいですか?」

 熱心にペンを走らせるマーゴットの後ろで、隣室のドアがそっと開き、彼女の弟が顔を出す。スラリと長くなった腕で開けたドアを閉め、顔を上げたはずみに、肩の上で切りそろえられた髪が弾んだ。

 春の日差しが深く差し込む室内、書きものに夢中の主人の横顔を見つめる青い瞳は、年齢よりも少し大人びていて優しい。

「そろそろお支度を」

 声をかけられて、皇女はペンを止める。

「ええ、そうね。わかったわ、ジェラルド」

 軽やかな調子でそう言いながら、書きかけの手紙を三つに折って封筒に入れると、迷いなくそれを封かんして、ひょいと机にしまってしまう。

 デスクの大きな引き出しには、同じ未投函の手紙が何通も収められていた。

「では、行きましょうか」

 立ち上がり、少女は可憐に微笑む。

 背を飾る長い髪に、ツヤツヤとした白い肌、そして、ひときわ目を引く鮮やかな菫色の瞳。十六の誕生日を迎えて二ヶ月、マーゴットは、幼い日の面影を残しつつ、輝くような美しい娘に成長していた。


 人々が待ちに待った帰還の日から、四年が経っていた。

 エウロの希望となるべき皇太子マーゴットは、しかし、ここ最近はすっかり公の場から姿を消している。一時期は頻繁に行われていた、臣下の貴族達を集めての催しも、近ごろはせいぜい季節に一度程しか開かれていない。公務の大部分は、以前のように父ゲオルグがひとりで行っている。

 皇女は身体が丈夫でなく、緊張を強いられる日々の暮らしに体調を崩しがちであるというのが表向きの理由である。頻繁にテレビニュースを賑わせていた愛らしい姿も、最近はほとんど見られなくなっていた。


「晴れて良かったですね、姉上」

 ジェラルドは、いつかマーゴットが望んだ通り、彼女を姉と呼ぶことが多くなっていた。城に引きこもっての生活の中で、二人の間に事情を知らない他人が入る機会がとても少ないからだ。

「今年の仔馬はまだ生まれないかしら」

「まだですよ、あとひと月はかかります」

「ふふふ、楽しみね」

「はい」

 支度を手伝う少年の背丈も随分伸び、今では姉より目線が高いくらいである。

 少し低くなった声は、話すとさすがに少女であるとは言い張れなくなっていたが、今でもまだ、声を発さなければ凛々しい少女として通りそうな容姿である。

 誰の目も届かない、静かな城の奥深くで、おとぎ話のように美しい姉弟は暮らしていた。

「帽子は要らないわ。窮屈で嫌い」

「いけません。落馬して頭を打たれたらどうするんですか」

「平気よ、レイチェルは優しい子だから、わたくしを振り落としたりはしないわ」

ビロード張りの乗馬帽を突き返す姉に、ジェラルドは困ったように首を振る。

「それはそうですが、馬に言葉は通じません」

「通じるわ。ちゃんとわたくしの話を聞いてくれるもの」

「姉上……」

 わがままを聞くつもりが無い時の表情が師にそっくりで、不満だったマーゴットは少し可笑しくなってしまった。

「……もう、わかったわ。では、乗る時以外はあなたが被っていて頂戴」

「はぁ……」

 姉のヘルメットを被せられたジェラルドは、呆れ顔で姉の後に続いた。

 正午を少し過ぎたアヴァロン城はしんと静かで、けれど、庭に出ると眩しい真昼の光が2人を包む。

 マーゴットは弾んだ足取りで、すっかり慣れた東の庭を歩いていった。




 ロディス・カスタニエが直轄区で欠員があった評議員秘書官の仕事に就いて、エウロを離れたという知らせを、マーゴットは祖父エーベルハルトから聞いた。

 連邦評議員を務めている彼が城を訪れた時に、直轄区の土産話のひとつとして偶然話題に上らせたのだ。

 確か、最後に会った午餐会の日から、随分時間が経った後のことだったと記憶している。

 エウロ貴族には、特権を行使できる己の領地を離れたがらない者が多い。

 評議員やその秘書官といえば、ひとたび任官すれば、長い任期のほとんどを遠い南半球のネオポリスで暮らさなければならない仕事である。自治区の代表として赴任する評議員ならばともかく、秘書官などになれば一般の者に混じって激務もこなさなければならないし、やりたがる者の少ない仕事のひとつだった。

 そんな秘書官の任を喜んで引き受けたロディスは、変わり者だが感心だと、エーベルハルトは話していた。

 以来、直轄区へ移り住んだロディスがエウロに帰ってくることがあるのかどうかすら、マーゴットは知らない。日課のように書いている手紙は、この四年間、一通たりとも出されたことはなかった。






「ふふふ、レイチェル、あっちの端まで走りましょう!」

 少女の強引な号令に、白馬が嘶いて応え、運動場を仕切る柵を軽やかに飛越する。

「わ……殿下! 柵を越えさせては駄目です!」

「ジェラルド、わたくしの方が上手ね!」

「待って下さい!」

「嫌よ! 追いかけていらっしゃい!」

 慌てて声を上げるジェラルドにもお構いなしだ。マーゴットは上機嫌だった。

 全身雪のように白い仔馬が彼女に献上されたのは、十三歳の誕生日のことだ。

気性の穏やかな雌馬で、マーゴットはそれにレイチェルと名付け、とても可愛がった。

 彼女の背に乗りたくて乗馬をはじめたほどであり――今では、すっかり達者に乗りこなすまでに上達している。

 馬は昔から城で飼われてはいたが、今のように小規模とはいえ毎年繁殖まで行うきちんとした牧場が作られたのは、身体が弱く外出が出来なかった彼女の母、当時の皇女アーシュラのためであったといわれている。

 母もまた馬が好きだったと聞かされて、マーゴットは余計にこの場所がお気に入りになったようだった。


 白馬はひととき、少女を乗せて気持ち良さそうに駆け回る。

 ロングスカートをひらめかせ、サイドサドルで器用に馬を操るマーゴットは、後を追うジェラルドをぐんぐん引き離していく。明るい笑い声が青空に響いた。

「うわっと、姫さまは馬に乗ると人柄が変わるなあ」

 まもなく、馬丁らしい青年が仕事の手を止めて運動場の傍までやって来た。

 マーゴットは彼に気付くと、手を振って彼の方へ駆け寄る。

「エミリオ、ご機嫌よう。今日もレイチェルはとっても元気だわ」

「姫さまが可愛がってくださるからですよ……おお、よしよし、レイチェル、えらいなあ」

 エミリオは城の馬丁で、レイチェルの世話係である。青年の姿に甘えたように鼻面をすり寄せる白馬をなだめながら、彼は人懐っこい笑顔で親しげに皇女に話しかける。

「本当に馬の扱いが上手くなられましたねえ、姫さま」

「ふふふ、そうでしょう」

「上達が早いので僕らもびっくりしていますよ。それに、姫さまは背が小さくて軽いから、馬に乗るのに向いていますしね」

「……まぁ、小さいは余計だわ」

「あははは、すみません」

 エミリオはマーゴットにとって、数少ない友人のひとりといえる。

 レイチェルがやってきた当初は使用人らしく畏まった態度で、話す機会も無かったのだけれど、馬を通じて何度か言葉を交わすうちに親しくなり、年齢が近いこともあって、今では他の者の目が無いところでは、すっかり気さくに話せる仲になっていた。

「殿下……と、あ……エミリオ。こんにちは」

「やあ、ジェラルド」

 エミリオの顔を見ると、ジェラルドも嬉しそうに微笑む。姉にとってそうであるのと同じように、ジェラルドにとっても彼は唯一の友だった。

「レイチェルが走りたがっているわ、ジェラルド、競争しましょう」

「えええ……駄目ですよ!」

「いいじゃない、エミリオに審判になってもらえばいいわ。ねぇ、エミリオ」

「いいですよ」

「エミリオ!」

「ジェラルドが心配しなくても、姫さまはお上手だから落ちたりしないよ」

「いい加減なことを言わないで下さい。万一落馬なんてしたら、本当に……」

「おお、怖い怖い」

 眉根を寄せて睨むジェラルドを笑顔であしらいつつ、エミリオはひょいと柵を越え、二人を乗せた馬たちをなだめる。

「ほらほら、お前さんが怒ると馬が怯えるだろ。笑って笑って」

「しかし……」

「……もういいわ、わたくしもう一回りしてくるから、二人ともそこで見ていてね」

 あくまで心配そうな弟に、苦笑交じりにため息をつき、マーゴットは再び走り出した。ジェラルドは追いかけようかどうか少し迷ってから、その場に留まる。

「殿下……!」

「大丈夫だって、ジェラルド。本当に上手になられたと思うよ、姫さまは」

 言って、青年は微笑んだ。

「ですが、馬には言葉が通じません。レイチェルがいつの間にか機嫌を損ねても、


僕らには分からないのですよ?」

 姉の姿を目で追いつつ、あくまで不安を表明するジェラルドに、エミリオはクスクスと笑う。

「大丈夫だよ。僕には分かる。レイチェルは親友のマーゴット殿下が遊びに来てくれて、この上なく喜んでいるよ」

「ほんとに!?」

「本当さ」

 城内の者からは、恐れられることの多い『剣』のジェラルドであるが、恐ろしげな噂を耳にする機会がないのか、ただ単に呑気な性質なのか、エミリオはあまり気負うこともなく、いつも自然に話しかけた。多少言葉を選びはするが、馬に接するのと大差ないくらいだろう。

「それにしても、姫さま、いつ見てもお美しいねぇ」

「はい」

 広々と見渡せる緑の運動場を、金髪の少女を乗せて白馬が駆け回る様は、見事に絵になる光景だ。

 青天の下、マーゴットはいつまでも楽しげに愛馬と戯れていた。






 夕刻。

「ああ、本当に楽しかった!」

 湯船につかり、肩に付いた痣を撫でて、マーゴットは可笑しそうに笑った。

「ほら見て、レイチェルったら、わたくしをニンジンだと思って噛んだのよ。たぶん」

「……痕になっています」

「そうなの。面白いわね、ふふふふふ」

 幼い頃と同じように、姉の長い髪の手入れをしながら、ジェラルドは途方に暮れた顔でそれを眺める。

「ご自分で世話をしてみたいだなんて仰るからですよ」

「だって、わたくしのレイチェルですもの」

 白い腕に、ほんのり赤い痣が浮き出ている。レイチェルの歯の形だろう。ひとしきり乗馬を楽しんだ後で、マーゴットがエミリオに頼んで、餌をやろうとしているときに甘噛みされたのだ。もちろん、馬が人を食べたりしないのは知っているけれど、ぱくりと肩を食まれているのを目にしたときは肝が冷えた。エリンがいないときで本当に良かったと思った。

「かといって、エミリオの仕事を取るのはいけないと思います」

「うーん……そうねぇ……」

 弟の心配をよそに、不満そうに呟く皇女の声が、湯気に満ちた浴室にくぐもって響いた。


 日が暮れると、日中元気だったマーゴットは、目に見えて大人しくなる。

 着替えを終えると、一人でさっさと部屋に戻り、何をするでもなくボンヤリと、青を深めていく窓の外を眺める。やがて運ばれてきた一人分の夕食も、少し手を付けただけですぐに食事をやめてしまうのだ。放っておくとろくに食べずに眠ってしまうことも多かった。

「……失礼します、姉上。お茶をお持ちしました」

 やがて、彼女の様子を窺うように、トレイに乗せたティーセットを手にしたジェラルドが部屋に入ってくる。先ほどまでと打って変わって、気だるげな瞳が少年を見た。そしてすぐにそっと目を伏せ、小さなサイドテーブルにカップが並べられる様子を黙って眺める。

「また……あまり食べていらっしゃらないのですね」

「夜はいらないわ。おなかがすかないんだもの」

「お昼間あんなに遊び回られたのだから、ちゃんと食べないとお身体にさわります」

「あなたまでメイドのようなことを言うのね」

「言いますよ」

 昼間のマーゴットは明るくて自由だ。けれど、日が落ちると変わってしまう。

 夜の彼女はいつも憂鬱で、悲しそうで、儚くて――けれど、やはり優しい。

 幼かった少年には、はじめの頃、その理由がよく分からなかった。

 だから、ただ、夜が来なければ良いのにといつも思っていたものだ。どんな姉も大好きだけれど、元気な方が嬉しいから。

 けれど、彼の願いは届かず、夜の来ない日は無かった。

 マーゴットは一度も泣き言を言わなかったから、ジェラルドも息を潜めるようにして、重たい夜を越えてきた。

 食事のトレイを片づけてしまうと、細かい絵付けが施されたカップに、弟の手で甘い色あいのロイヤルミルクティーが注がれる。そして、シュガーポットではなく小さなトレイに乗せられた、白と水色の色違いの角砂糖。

「……お砂糖が多いわ」

「はい」

「………………」

 夕食の後、彼女の元にいつもより砂糖の多いミルクティーが運ばれてくるのは、毎日のことではない。

 それが合図であることを、マーゴットは知っていた。

「お父様がお戻りなのね」

「……はい」

 政務に忙しいゲオルグは、城を留守にすることが多かった。

 月のうち半分以上も城に居ないようなことも珍しくはない。今夜は、そんな彼が久しぶりに居城に戻ってくる予定なのだ。

 それが意味することを、二人は決して口にしない。

「……お砂糖はいらないわ。蜂蜜をたくさんいれて頂戴」

「……姉上」

 受け入れられない要求に、ジェラルドの声が微かに震える。マーゴットはそっと目を伏せ、呟いた。

「……わかっているわ。ありがとう、ジェラルド、下がっていいわ」

「ですが……」

「大丈夫。きちんと全部飲んでおくから」

「食器をお下げするまでお傍にいるように、言われています」

 彼女がそれを飲み干すのを、見届けるのが彼のこの宵の仕事である。

 例外は無い。

「………………」

 マーゴットは諦めたように息を吐いて、それから、そろそろと用意されたカップに手を伸ばした。

 エリンとゲオルグの間で、どんな約束が交わされていたのか、あるいは交わされていないのか、彼らは知らない。

 知った所で何にもならないし、逃れられるものではないからだ。


 青い砂糖を溶かし込んだ、暗い合図のミルクティー。

 いつも、嫌なのは飲んでしまうまでだ。砂糖が余分に入っているせいか、やたらと甘いばかりで嫌な味もしない。口に含むとやがて頭がぼうっとなって、細かい思考が保てなくなってくる。体温が上がってやたらと部屋が暑く感じられ……それから、気持ちがとても軽くなるのだ。

 これが盛られた薬の作用であることは知っていた。何の薬なのかと訊ねても、エリンは教えてくれない。ただ、必要なものだから必ず飲むように、とだけ繰り返されるのだ。

 甘い薬は重い気分を押し流し、その代わり幸せな気分をねじ込んでくる。

 まるで自分が、何もかも報われた幸せな娘のような気がしてくる。

 そんなのは全部幻なのに。

 あっさりそんな風になってしまう自分はとても嫌だし、汚らわしいと思う。

 けれどそんな思いすら、じきに、どうでもよくなった。


「……おいしい。ジェラルド。おかわりが欲しいわ」

「二杯飲んではいけません、殿下」

「姉上って」

「……姉上。いけません」

「おいしいのに……エリンったら、意地悪ね」

 だんだんと焦点が合わなくなる瞳は潤み、湯上がりなのに青白かった頬は薔薇色に染まる。濡れた唇は陸に上がった魚のように開かれ、苦しげに息をつく様はいやに艶めかしい。

 ジェラルドは複雑な表情で、溺れていく姉の大きな瞳を見つめていた。

「では、姉上……失礼します」

 ミルクティーを飲み干すのを確認すると、少年はすぐに手際よく食器を片づけてしまう。

「……ジェラルド、もう行ってしまうの?」

 寂しいのか、不満そうに少女は口を尖らせる。

「はい。姉上」

 少年は少し気まずそうに目を逸らすと、パチリと部屋の明かりを消す。そして、まどろむ姉を残して部屋を出ていった。

 暗い部屋にひとり残されたマーゴットは、空っぽの幸福感を抱えて虚空を見る。

「………………」

 夕暮れの名残で紫色に染まる、遠い雲が目に入った。

 閉ざされた城の、鳥籠のようなこの部屋で、けれど空は毎日違う。

 雲を見ていると、まるで自分も一緒に空を飛んでいるような気持ちになる。

(ああ、綺麗)

(雲は何かを思うことはあるのかしら)

(――何にも思わないわよね)

(だったら、わたくしと同じだわ)


 夜は長く、助けの手は来ない。

 だから少女は、全てを受け入れるしかなかったのだ。






 光る雲がやがて夜に溶け、部屋が真っ暗になってしまうまで、マーゴットは窓辺の椅子に腰掛けたまま動こうとはしなかった。

 だらしなく脱力したまま、うつろに目を泳がせ、もう何かを見ているのかどうかも分からない。

 彼女には確かに意識はあったが、目覚めているといえるのかどうか。

 目を開けて夢を見ているというほうが、あるいは正しかったのかも知れない。

 しかし、やがて、時の流れすら曖昧に感じられるようになった頃、不意に硬質なノックが響く。

「……はい」

 微かな声を聞いて、男が部屋に入ってくる。ゲオルグは暗い部屋で娘の影が動くのを見つけると、愛しそうに微笑んだ。

「明かりは、付けない方がいいかい?」

 声は穏やかで甘い。

 そして、躊躇なく彼女の側へ歩み寄る。自然に、さも、当たり前のことのように。

「お帰りなさい、お父様」

「ああ。ただいま、マロゥ」

 言いながら男は、ゆるりと立ち上がった娘を引き寄せて、抱きしめた。

 長身のゲオルグの胸にすっぽりと収まってしまう身体は、四年前に比べると随分成長し、柔らかく丸く、娘らしくなっていた。

「お父様……」

 ぐったりと力の入らない手で、マーゴットは男の背を、ゆるゆると撫でる。

 この男は父であって、父ではない。

 彼女を縛る鎖であり、今はもう彼女無しには生きていけない、人の形をした哀れな獣だ。

「留守中、変わりは無かったかい?」

「ええ……毎日平和だったわ。……レイチェルはとっても優しい子なのよ」

 獣に語りかける、少女の言葉は優しい。

「あの白馬だね、美しい馬に育った。君にふさわしい」

「わたくし、乗馬がとっても上手くなったのよ」

「それはいいね。今度一緒に遠乗りに行こうか」

「まぁ……お父様も馬に乗れるの?」

「もしかすると、君より下手かもしれないけれどね」

「そう……だったら、わたくしがお父様に教えてあげるわ」

「嬉しいね。それはぜひお願いしよう」

「レイチェルと一緒に遠くに行けるなんて……素敵だわ」

「ああ、私もしばらくは長く城を開けることもなさそうだから、近い内の予定に入れよう」

 ほの暗い部屋で交わされる、不自然な親子の会話。

 ゲオルグは少しだけ娘から身を離すと、宝物の存在を確かめるように、両の頬を包み込む。

「熱いな。熱でもあるんじゃないのかい?」

「……そんなことはないわ」

「そうかな。だって、こんなに」

「でも……」

「そうだね」

 男は小さく笑う。

「……確かめてみようか」

「んっ……」

 まるで本物の恋人同士のように、悪戯っぽく囁きながら戯れに与えられる深い接吻を、少女は容易く受け入れた。


 頭の芯が痺れ、抗えぬ強烈な幸福感が男を酔わせる。

 公務で城を離れている間は、新妻を家に待たせているような、歓喜に満ちた焦りに包まれていた。

 会えない時間は辛かったが、彼女は自分を待っているのだ。

 この部屋で、いつまでだって、必ず。逃げずに。


 羽毛が詰まっていると言われても不思議がないくらいに、少女の身体はどこまでも柔らかだ。それに、やはり微熱があるのだろう、その口内は触れている頬よりずっと熱い。

「……ん……ん……」

 口づけに交じる吐息と、もどかしげな喘ぎ。崩れ落ちそうになる細い腰を片手で支えた。突然の激しさに溺れそうになってもがきながらも、けなげにも男に応えようとする唾液は甘く、男は満足そうに目を細めた。


 長いキスが途切れると、マーゴットは深く息をつきながら、窓を差して呟いた。

「外が……明るいわ……」

「今夜は満月だよ」

 暗かった部屋に、いつの間にか寄り添う二人の薄い影が伸びていた。

 白い光が、少女の豊かな長い髪や、たおやかな腕を、どことなく非現実的な映像として浮かび上がらせている。

「まぁ……」

 子供っぽい感嘆の声を上げる恋人を、ゲオルグは改めてその腕に閉じこめる。

「月が見たいわ」

 薬のせいで余分な熱を帯びた身体をぐったりと男に預けて、少女はうっとりと口を開く。

「庭に降りてみるかい?」

「ええ……そうね、お父様」

「だけど……身体は大丈夫? 少し熱があるよ」

「大丈夫」

「……わかった。では、何か羽織って行こう」

 満たされた笑顔で、男は言った。




 深夜。闇に浮かぶ、押し殺した嬌声に、苦悶の色は見えない。

 マーゴットはすでに、その髪一本から爪の先までゲオルグのものだった。

 男の寝室で、執務室で、あるいは彼女の自室で。数え切れないほどマーゴットはゲオルグに抱かれてきた。二人の関係はもはや後戻りのできないものだ。 

 少女はたぶん、母とおなじ形をした空っぽの入れ物だ。父の心を毒した孤独を夜ごとすこしずつ受け入れ、悲しく美しく成長した。

 はじめは恐怖に打ち震え、羞恥に涙を流し、やがて諦め、受け入れ、そして――歪んだ愛の闇に堕ちていった。

 この命の形がもはや親と子のそれではなく、罪のものであることは理解している。

 けれど、少女の心が男を赦すほどに快楽は深くなり、違和感は遠くなった。そして、いつかゲオルグが言った言葉を思い出すのだ。

 私達にとって、これは全て正しいことなのだと。




 白い光が閉じた瞼をかすめる僅かな感覚に、少女は目を覚ました。

 眠っている間に外気に触れていた、剥き出しの肩が冷たい。朝だ。

 このまま起床してしまおうかどうかを一瞬考えたが、隣の男がまだぐっすりと眠っているのを見て、乱れた毛布を引き寄せる。

 朝食の時間までに、一度自分の部屋に戻って着替えをしなければならない。けれど、眠っているゲオルグを置いて寝所から姿を消すことは、マーゴットには出来なかった。

 この人には、自分が必要なのだ。

(……良かった。ちゃんと眠っていらっしゃる)

 こんなにも甘く、暖かく、幸せな眠りの中にあって、けれど、ゲオルグはたびたび悪夢に怯えて目を覚ます。苦しむ彼が夢の中で呼ぶ名は、いつも彼女のものではない。

 けれど――それでも男は少女を求める。

 だから応える。愛しているから。

「お父様……」

 この人は家族だ。決して失いたくはないし、悲しい思いはさせたくない。

 それは償いであり、彼女なりの愛の証しでもあった。

 夢うつつの内に溺れて過ごせる夜はいい。けれど正気の朝、己のいびつさを俯瞰すると、底なし沼に足を取られたような恐怖を覚える。

 だけど、罪を犯し続けることでしか彼を救えないのなら、それは仕方のないことなのだろう。これ以外、父のために出来ることなど無いのだから。

「………………」

 答えの無い問いを心の中に押し込み、微かな衰えの浮かぶ頬に、そっと手を伸ばす。指先に暖かさが伝わると、少女はホッとして目を細めた。

 艶のある赤い巻き毛を少しだけ撫でると、男はゆっくりと目を開け、それから、自分を覗き込む紫色の瞳に、安堵したように微笑んだ。

「……おはよう、マロゥ」

 優しい声。良かった。幸せそうだ。

「おはよう、お父様。ご気分は?」

 微笑む少女は天使のように清らかで、光に縁取られた裸身は昨夜の淫らな彼女とは別人のようで、神々しくさえある。

「とてもいいよ。……でも、もう朝だなんて」

 言いながらゲオルグは、柔らかな曲線を描く少女の腰を抱き寄せて、滑らかな首筋に鼻を寄せる。

 甘い香りのする肌に子供のように顔をうずめ、甘えた声で呟いた。

「今日はもう、仕事は後回しにしてしまおうかな」

「まぁ……呆れたお父様ね」

「そうだよ?」

「いけないわ」

「そんなことを言ったって、だいたい君がこんなにあったかくて抱き心地がいいのがいけない」

「きゃ……ふふふふふ、くすぐったいわ」

「だめよ、だめ、お父様、もう朝食の時間ですもの。起きないとコックが可哀想」

「後で暖め直させればいい」

「ふふふ、いけません。ほら、目も覚めてきたでしょう?」

 あやすように囁くと、ゲオルグは嬉しそうに目を細め、娘を覗き込んだ。

「……では、今日は君が馬に乗るのでも眺めにいこうか」

「本当?」

「もちろん」

「じゃあ、本当に早く起きましょうよ、お父様。今日もとっても良い天気。わたくし、はやくレイチェルの所へ行きたいわ」

「はぁ……もう……わかったよ。では、観念して起きるとしよう」

 声を弾ませるマーゴットを改めて引き寄せて、小鳥のようにキスを交わす。

 どこにも翳りのない、まるで幸せな恋人同士の、優しい朝の時間。

 気掛かりに思うことも、不安に思うことも、辛く思うことも、少女は父の前では何一つ口にせず、また、可憐な顔に暗い表情を浮かべることもない。

 それが愛する父のために自分ができる唯一のことであると考えていたから。

 それは自分で自分にかける暗示。

 少女は全てに目を瞑る。

 そして、罪に怯えながら、男の救いとなり続けるのだ。

 ――彼女は、それ以外の己の全てを、自身から切り離してしまっているようにみえた。


 四年という時間は幼かったマーゴットには永遠にも等しく、彼女の心は決して強くはない。

 どこからどこまでが本心で、どこからが虚勢なのか。

 大切なものを見失ったまま、少女の心の奥底にはどんよりと澱がたまり――おそらく、僅かずつ彼女の精神を蝕みつつあった。

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