六 呪縛

 


 世界は白く、安らかな光に満ちていた。


 夢は見ていなかった。

 ただ、言葉にできない不思議な幸福感が私を包んでいる。

 ぬるい風が頬を撫でて……ここがどこなのかは分からない。

 体は……いや、体があるのかどうかも分からない。

 わたし、というひとつの意識は、白い光の中を漂い、流れていく。


 何もかもが均一で、透明だった。

 誰かのことを思ったり、そんなことはどうでもいい。


 どこも痛くないし、少しも悲しくない。

 どこまでも静かで、幸せで、穏やかで――


 ――それはたぶん、限りなく死に似ていた。




「…………ん……」

 気がつくと、見覚えのない部屋だった。

 なぜそこにいるのかは分からなかった。部屋がやたらと眩しく感じられて、両手で目を覆うけれど、目を隠しても眩しい感じがなくならない。仕方なく、ごそごそと布団を被ろうとする。

「――目がさめましたか?」

 エリンの声だった。

 朝、部屋にエリンが居るなんて不思議だ。

 もしかしたら、すごく寝坊をしてしまったのかしらと、少女は思う。

「……ん……エリン……? 今、何時ですか? わたくし……」

 身体を起こそうとしたけれど、なぜか、手足が思うように動かない。

「……もうしばらく、眠っていて良いのですよ。姫」

 エリンは静かに言う。

「まだ早い」

「……でも、とても明るいわ」

「構いません。姫はお疲れなのですよ」

 なんだか、いつもよりも優しい声のような気がする。

 ベッドサイドに腰掛けたエリンが、布団をかけなおしてくれる。それがとても気持ち良くて、少女は甘えた子猫のように冷たいエリンの手に擦り寄った。

「そう……かも……」

 確かに、体がとても重い。声を出すのも億劫だ。 

「……明日にはアヴァロンへ戻ります。だから今は眠りなさい」

 ああ、そうか。

 ここはアヴァロンの部屋ではないのだ。

 だから知らなくて、変だったのだと、少女は納得する。そして、男の言葉が終わらないうちに、少女は再び眠りについた。




「………………」

 普段と少しも変わりないように見える、あどけない寝顔。ひとときの眠りが安らかなのは、エリンが彼女に飲ませた薬のおかげだ。

 身体にはあちこち、痛々しく痣がついていたが、幸せそうな寝顔に、昨夜の陵辱の影は見当たらない。

「……先生」

 少し離れた所に立っていた少年が、不安そうな声をあげる。傍に来ることを許されると、ジェラルドは姉の傍らへ駆け寄った。ぐっすり眠ったマーゴットの顔を覗き込んで、表情を曇らせる。

「姉上は……起きないのですか?」

 少年は昨夜遅く、この部屋に帰ってきた姉を見ていた。おそらく、ひどい怪我か病気だとでも思ったのだろう。このまま彼女が死んでしまうとでも思っているような表情だった。

「……心配しなくても、また目を覚まされたら、元気になる」

 優しい声で、エリンは言った。

「本当に?」

「……本当だ」

 それは、彼の儚い願いでもある。ジェラルドの頭にそっと手を置く。師の言葉を疑わない少年は、それですっかり安心したようだった。

 姉の傍を離れたくないのだろう、ベッドサイドに椅子を持ってきて、ちょんと座る。エリンはそれを咎めようとはせず、そのまま、苦しい息を飲み込んだ。


 ゲオルグはもう、少女無しには生きていけないだろう。十二年の時間が、彼を疲れ果てさせていたことを、エリンはもっときちんと知るべきだった。

 アヴァロン大公の死は、娘の破滅を意味する。だからエリンはゲオルグを殺せない。たとえ、今は殺したいほどに憎んでいても。

 生まれたばかりだったマーゴットををアヴァロンから――ゲオルグから、離して育てることを言い出したのはエリンだった。あの時は、それしかないと思ったのだ。

 命すら危うかった乳飲み子は、こうして無事に成長してくれたのに。

 けれど、何を間違えてしまったのだろう。他に、もっと良い道を選ぶことは出来たのだろうか。

「………………」

 いつまでも薬で記憶を誤魔化すことは出来ない。城に戻ったら、きっとすぐに彼女は父と向き合わなければいけなくなるだろう。

 素直で優しいマーゴットの心と体が、この残酷な現実に耐えられるのか、エリンには分からない。

 ――それでも、生きて欲しいと思うのは傲慢だろうか。

「……先生?」

「………………」

「先生……」

 心配そうな少年の声に我に返り、絶望の表れない瞳を少し細めてみせる。今、少年に話してやれることなど、何もなかった。

「……少し、部屋をあける。お前は誰も姫の眠りを邪魔しないよう、見ていなさい。大公殿下がいらしても、ご遠慮頂くように」

「大公殿下もですか?」

「そうだ」

「……わかりました」






 夜になると繰り返し、少女は目を覚ました。薬が切れてしまうのだ。

 悪い夢を見たといっては、震えて泣いた。

 あの夜のことを思い出すこともあった。そんな時は怯えて暴れて、許してと何度も叫んだ。介抱するつもりで近づいたエリンの大きな手を恐れて、錯乱して手が付けられなくなるようなことさえある。

 ――薬を飲んで眠ると、朝にはまたぼんやりして何も覚えていなかった。

 水仙の丘でロディスと過ごした短い時間のことも、昼間の彼女は決して思い出さない。

 そして、アヴァロン城へ戻って、暫くの時が過ぎていた。




「……リン、エリン……」

 細い声が彼を呼ぶ。

 冷や汗をかいた体は冷たく、数日前よりまた一回り痩せたような気がする。幸い今夜は錯乱する気配はないらしい。穏やかな口調にホッとしながら声をかけた。

「殿下、まだ起きなくて良いのですよ」

「でも、でもね、眩しいわ」

「気のせいです」


「おかしいわね、もうずっと夜のような気がするの」

 嫌に澄んだ声。胸が締め付けられるようだ。

「………………」

「岬の屋敷を思い出すわね、冬は、いつもこうだったわ」

「……そうでした」

 悲しいことと、嬉しいことの両方を記憶の忘却の彼方に置き去りにして、少女はよく、彼女が育った屋敷のことを口にした。

「わたくし、雪も嫌いじゃなかったわ」

「雪も……雪……」

「………………」

 少女の言葉が途中で途切れて、透明な雫が頬と顎を伝って細い腿に落ちる。涙の理由を、少女はたぶん理解していない。

 エリンはそっと、小さな主人の隣に腰を下ろして、手を取って暖かいカップを持たせる。

「暖まります。自分で飲めますね」

「…………」

 こくりと大人しく頷いて、少女はそれに口をつけた。






「ようこそ、しばらくぶりです。ハミルトン公爵」

「やぁ、どうも、ゲオルグ。姫のお披露目以来だったか」

 親しげに挨拶を交わすアヴァロン大公とハミルトン公爵を、周囲の貴族は遠巻きに見守る。離宮から戻った皇女は、社交界に姿を見せなくなった。彼女は、体調を崩したと説明されていた。

「そうですね」

「ヴヴェイ離宮へ行かれたとか。姉上が亡くなって以来寄りつかなかったのに、珍しいことだ」

「娘にせがまれましてね。ナルシスが見ごろでしたよ、卿も行かれては?」

「私はどうも、ああいう田舎は退屈で苦手でね」

「なるほど」

「ゲオルグ、君は……」

 満ち足りた顔で相づちをうつゲオルグに、ベネディクトは首をかしげる。

「変わったな」

「私が?」

「そうだ。以前は歩く死人のようだったのに」

 言って、少し意地悪な顔で微笑んだ。

 彼らは敵同士。しかしゲオルグにとっては、たまに顔を合わせなければならない親戚でもある。この十二年、表面上はまるで友人のような振る舞いで、お互いを監視してきた。

「死人とは、随分な言いようだ」

「気を悪くしたかな?」

「いいえ、全く。公爵の言うとおりだ」

 ゲオルグは笑った。

「以前の私は、死んでいたようなものですから」


 ゲオルグ・アヴァロンは普段と変わらぬ日々を送っていた。

 寝込んだ娘にエリンが会わせようとしないことにも、特に不満を表すこともない。公務は自分ひとりで行っているし、外から見える彼に隙は無かった。

 彼は――いずれマーゴットが自分の所に帰ってくることを、確信していたのだ。

 自分自身が冷静に狂いはじめていることを、彼はむしろ喜んで受け入れた。

 幸せだったのだ。もう二度と埋まることは無いと思っていた、心に開いた大きな穴を、あの小さな少女が満たしてくれることを知ったから。

 彼女は実の娘だ。

 タブーを犯している自覚はある。

 ……けれどそんなこと、この巨大な愛の喜びの前に何の意味があろうか。

 だから、次の日曜、城で行う午餐に招く客のリストに、ロディス・カスタニエの名があることも、彼は少しも気にしていなかった。

 少女がもう、淡い恋などに連れていかれる心配が無いことを、ゲオルグは理解していたからだ。




 お父様はどこにいらっしゃるの、と、目が覚めて最初に問いかけた少女の様子があまりにいつも通りの元気な様子だったので――ジェラルドはついうっかりと本当のことを言ってしまった。

「お客様を招いて午餐……?」

 寝間着姿のマーゴットは驚きに目を丸くした。

 弟が口を滑らした情報によると、今日は城に大勢の客を招いて午餐会が開かれているというのだ。

「そ、そんなこと……」

 アヴァロン城へ戻ってもう一週間も、ほとんどの時間を寝床で過ごす生活を続けている。頭がはっきりしないし、寝ても寝ても体がだるくてすぐに眠くなってしまう。

 病気だろうかとエリンに訴えても、疲れているだけで問題無いの一点張りだし、だいたい、こういうことがあれば心配して飛んできそうな父が一度も姿を見せない。

 いい加減、病人のように部屋に軟禁されていることを少女も疑問に思っていたところに、この話である。少女は焦った。

「そんな大切な時に、わたくしが寝ていてはだめでしょう?」

「ですが……」

 少年は口ごもった。姉を部屋から出さないようにと、エリンにきつく言い渡されている。

「エリンは心配のしすぎなんだわ。わたくし、少しだるいだけで、別にどこも悪くないのに……」

 けれど、マーゴットは俯いて表情を曇らせた。

 体の重さとともに、奇妙な不安が胸に差し込む。

 ヴヴェイ離宮に居た最後のあたりからの記憶があやふやで、どうにも気持ちがすっきりしない。

 けれど、そんなことを言っている暇はないと思い直し、だるい体を起こして部屋を出ようとする。

「だ、だめです、姉上!」

 ジェラルドは必死に止めようとするが、彼女に逆らうのには抵抗があるし、そもそも、姉が元気なのは嬉しい。

「駄目ではないわ、着替えを用意して頂戴」

 そう頼むマーゴットは、すっかり元気になったように見える。

「もう一週間よ、皆さまに重病だとでも思われたら大変でしょう? ご挨拶だけして、お詫び申し上げてから……すぐ部屋に戻るから」

「ですが……せめて先生が戻られてから……」

「……エリンが帰ってきたら、絶対駄目だって言うんですもの」

「そうですけど……」

 ジェラルドは困り果てて俯く。けれどやはり、久しぶりに見る元気そうな姉の姿が、嬉しかったのだろう。

 結局少年はマーゴットに押し切られる形で着替えを手伝わされることになり……そして、いつものように二人は二人の少女になって、午餐会の開かれている中庭へと向かったのだった。




「わ……眩し……!」

 頭上から差すきつい日差しに、マーゴットは目を細める。

 しばらく日の下に出ることがなかった彼女には、正午過ぎの光は少々刺激が過ぎるようだ。

「……皇女殿下?」

 彼女の姿を見つけた招待客が、驚いた声で近づいてくる。

「本当だ、殿下、伏せっておいでと聞いていましたが」

 それに気付いた少女は、眩しそうに顔をしかめながらお辞儀をする。

「あ……皆さま、ごきげんよう。少し気分が良かったので、ご挨拶だけでもと」

 庭に現れた少女はあっという間に客に囲まれて、周囲はちょっとした人だかりになる。

 もっとも、今は広い中庭のあちこちで人々が集まってお喋りに興じている時間であったので、マーゴットもその集団のひとつのように溶け込んで、目立つことなくすんなりと午餐に紛れ込むことができた。

 まもなく彼女の不在に気付いたエリンが二人を探しに来たのだけれど……既に貴族達に囲まれた状態では手が出せない。

 エリンはすぐに、諦めたように身を隠した。


「殿下、参りましょう」

 来客と話している姉の裾を、ジェラルドが少し焦った様子で引っ張る。

 少年は師の姿を見つけたようだった。姉を外に出してしまったなんて、叱られるに違いない。はやくエリンのもとに戻ろうと、少年は無言で懇願する。弟の様子に、マーゴットは嘆息した。

「仕方ないわね……では皆さま、また後ほど」

 二人は手を取って中庭を横切る。

 その途中で、ふいに呼びとめる声があった。

「殿下?」

「え?」

 ピタリと少女の足が止まる。

 そこには、少し驚いた様子のロディスがいた。


「……お体の具合が良くないと聞いていましたが」

「あ……あの……」

 ロディスは親しげに微笑んで二人に近づく。マーゴットが幻でも見ているような表情で自分を見上げているのを不審に思ったらしい。首をかしげて彼女の顔を覗き込んだ。

「やっぱり顔色が良くないのではないですか? マロゥ」

 何も知らない青年は、親しげに話しかける。

「あの後すぐにヴヴェイから戻られたと伺いましたが……高原は少し寒かったでしょうか」

「………ロディス様……」

 少女はじりと後ずさった。ロディスには、その反応の意味がわからない。

「姫……?」

 姉の様子がおかしい。

 傍らにいた少年は、やはり姉を連れてすぐに部屋に戻ろうと思った。マーゴットの手を握って、ロディスを無視して走り出そうとして、しかし――――

「マーゴット!」

「!?」

 来客から彼女の登場を伝え聞いたらしいゲオルグが、血相を変えて現れたのだ。父の声が耳に入った瞬間、つないだ手のひらに力がこもる。ジェラルドは、少女の体が恐怖にこわばっていくのを感じた。

「あ……あ……あ……」

 大きな瞳が驚愕に見開かれ、少女は、微かに震えながら、ロディスと父の姿を代わる代わる見つめていた。

「姫……?」

 ただならぬ雰囲気を感じつつ、状況が理解出来ない様子のロディスと、

「お前、もう体は大丈夫なのかい?」

 嬉しそうに、心配そうに、歩み寄るゲオルグ。

 ――――それは二つの、欠けた記憶のピース。


「でん……」

「ご……ごめんなさい……っ!」

 弟の言葉を遮り、握られた手を振り切って、突然、少女は走り出した。

 深く、安らかな霧に包まれた五月の雪の高原が突然、暴力的なほど鮮やかに、彼女の脳裏に蘇っていた。

 ――もちろん、あの雷の夜の記憶も共に。




 ただ、夢中で逃げた。

 すれ違う来賓が不思議そうな顔をして振り返るのにも構ってはいられなかった。とにかく、ひとりになりたかったのだ。


 真昼の庭はどこもかしこも美しく刈り整えられていて明るい。

けれど、木や枝の作るほんの僅かの影にさえ、あの雨の夜の幻影が宿っているような気がした。怖かった。どうして。どうしてどうしてどうして、こんなことに。

 私は――


 思うように足が動かない。

 まるで、重い鎖に繋がれてでもいるようだ。

 今は、自分の姿を誰にも見られたくない。だから、身を隠す場所を探して、少女は走った。

 走って、走って、走って。

 中庭を通り抜け、石の回廊で使用人にぶつかりそうになる。そして、驚いた様子のメイドに捕まるのも怖くて、必死で逃げた。

 所詮は城の庭の中。どこへも逃げ場など無かったというのに。

 ただただ少女は、あの懐かしい岬の屋敷へ帰りたいと念じ続けていた。

 どこにあるのかも分からない、懐かしい家。

 冬は雪、夏は白夜。あの小さい家でまた暮らしたい。昔のように。

 ――何も知らなかった、昔のように。


 あっという間に息があがって目が回る。よく手入れされた庭木が秩序立って小道をつくる裏庭は、まるで迷路のようだ。走っても走っても、その中をぐるぐる回るばかりで、アヴァロン城は少しも遠くなってはくれなかった。

「……あっ!」

 足が縺れて派手に転んでしまう。けれど、痛みに構わず身を起こして、擦りむいた足をそのままにまた走る。

 痛いのは嫌だ。

 怖い。

「……!」

 明るい太陽の下にいるのに、夜の雷に打たれたような気がする。

 あの夜、あの部屋で――父が自分に、何をしたか。

 目をそらそうと……忘れようとしても、もう無理だった。記憶は小さな容れ物に入り切らずあふれ出る水のように、壊れかけた心を溺れさせる。ゲオルグの手はどこまでも彼女を追いかけて、少女を犯す。何度も何度も、何度も何度も。

「あ、あ、あ、あああああ……」

 分かっている。

 ――――逃げられはしない。

 そう。母の命を喰らい、この世に生を受けた。だから、逃げられるわけがないのだ。この身はあらかじめ罪人で、つまり、最初から呪われている。

 私は……――


 やがて少女は、緑の迷路の中に、ポツンと忘れられたように立つ、小さな建物を見つけた。石造りのささやかなそれは丁度彼女が身を隠すのに丁度良かったので、マーゴットは何も考えずに足を踏み入れた。

 中はひやりとして涼しく、汗をかいた体には心地よい。むせるような草と花の香りが届かないことも、何故か彼女を安心させた。

 静かな……本当に、忘れられたような場所だった。

「ここは……」

 そして、祭壇に捧げられていたらしい、枯れた花を見て気がついた。ここはホログラフ霊廟だ。

「…………お母様……」

 こんな場所があることは知らなかった。裏庭の迷路の中に、ひっそりと立てられた、おそらくはゲオルグの……秘密の場所。

 しおれた献花がまださほど古くはないところをみると、父は最近まで、ここを訪れていたのだろう。

 恐る恐る祭壇に近づいてみる。花が置いてある場所にホログラム映像の再生装置が埋め込まれているのに気付かずに、少女はそれに手を触れた。

「……?」

 日陰に、ゆっくりと女が身を起こす。豊かな金髪をなびかせたその人は、クルリと振り向いて笑った。

『ゲオルグ、こっちよ!』

 ――その笑顔は、自分に似ていた。

「……っ!」

 こちらに駆けてくる、母が少女の体をすり抜ける。振り返るとその姿はもう無く、かわりに、正面でまた新しい映像が立ち上がった。

『ゲオルグ、こっちよ!』

「あ……」

 元気に駆けていって、そして消える。

 恐ろしくなってでたらめにパネルを操作すると、どんどん別の映像が再生されていく。

「いや……いや……」

 動いている母の映像を見たいとずっと思っていたのに、今はただ恐ろしかった。マーゴットは、目を閉じて、耳を塞いでその場にうずくまる。

「許して……許して、許して……お母様……」

 高く明るい母の声はいつまでも響く。目と耳を閉じても安息は与えられず、少女はたまらず霊廟を飛び出した。

 キンと差す陽光が、疲れた体に痛い。

 少女は再び走って、走って、いつの間にか迷路を抜け、薔薇園に迷い込んでいた。季節は初夏、香り高い一番花が開く季節だ。

 けれど、かぐわしい花の香りに、何故か心が乱れる。明るい太陽の下にあってなお、深い色合いを失わない艶やかな赤紫。庭師達が丹精込めて育て上げた大きな薔薇の花が、自分を見つめる目のように思えて恐ろしかったのだ。

 もとよりきちんと結われてはいなかった髪を振り乱し、少女は自分の身を隠してくれるものを探して彷徨った。隠れたって、消えてしまえるわけではないのに。ただ、一時の恐怖から逃げ出したかった。


 そして、白薔薇のアーチをくぐりぬけたところで、疲れてよろめいた身体は、何か柔らかいものに抱き留められた。

「あ――……」

 ハッとして見ると、日に透ける白銀の髪が目に入った。それは、彼女を探しに来たらしい青年の腕だったのだ。

「――姫、やっと見つけた」

 ロディスはニコリと笑う。けれど、マーゴットの瞳がみるみる涙に潤んでいくをみて、心配そうに身をかがめた。

「……マロゥ? 探しに来ては、迷惑でしたか?」

 涙を引っ込めようと歯を食いしばって、ふるふると首を振って違うと伝える。

「では、どうしたのかな」

 あやすように、優しく問う。

「…………」

 うまく答えることができないことに少女は焦ったが、青年は気にしない様子で空を仰いだ。

「……裏庭って広いんですね。今、僕も迷いそうになったけど、もしかして姫も?」

 何か口にしたら、途端に我慢できず泣き出してしまいそうで。本当は嬉しいはずなのに、ろくに目も見られずに俯いた。

 少女の反応に、ロディスは少し困ったように首をかしげて、逃げようとする視線を追いかけた。

「……大公殿下の所に戻りますか?」

「!」

 その途端、少女は驚いたような顔でロディスの方を見て、必死で首を横に振って拒絶の意志を表明する。彼女の反応が少し意外だったらしく、ロディスは目を丸くして、それから吹き出すようにして笑い出した。

 青年が膝をついて、肩を震わせて笑うものだから、マーゴットは慌ててしまう。顔を動かした拍子に涙がぽろりとひとつぶ頬を伝ったが、それだけで、泣きべそは引っ込んでしまった。

「……あ、あの、ロディス様……?」

 目の前の銀髪がさらさら揺れる様を、途方に暮れて見つめる。何か、こんな笑われるようなおかしなことをしてしまったのだろうか。

 何か声をかけた方が良いのだろうか。

 考えがまとまらぬうちに、彼の薄い手のひらが、手すりか何かを持つようにガシリと彼女の肩を掴んだ。

 思いの他の強い力に、内心ドキドキと胸が軋んだ。ひとしきり笑い終えたらしいロディスがパッと顔を上げる。

「ふふ……いや、すみません。あなたがあんまり必死で嫌がるものだから」

「え……っ?」

「では、このまま散歩でもいたしましょうか。何だか、あなたとはこんなのばかりだ。いい加減、大公殿下に叱られますねぇ」

 彼は悪戯っぽく笑った。そして、少女の言葉を待たずに手をとって歩きはじめる。もう、今のマーゴットにはそれを素直に喜ぶことはできない。けれど――拒むこともできなかった。


 少し前、恐怖にかられて走り抜けたばかりの庭を、二人で歩く。奇妙なほどに平和な、ほんのひととき。

 様子がおかいしことを心配してくれたのだろうか、ロディスは少女の手を握って離さなかった。会うごとに近づく距離に、喜びを感じる心は生きている。

 このままどこか、父の目の届かない遠くまで逃げてしまいたい。けれど、それを口にしたら、きっと彼は困惑するだろう。

 けれど……そうじゃなかったら?

「………………」

 カスタニエ公爵領はとても遠い。エウロの東の端にある。

 ――言ってしまいたい。

 この城から離れた、遠い、遠い場所に、連れて行って欲しいと。

「……ロディス様」

 すんなりと細い指をかたく握る。ひんやりと冷たくて、他人の感触がした。

「……ジュネーヴには……ずっと、いらっしゃるのですか?」

 心と違うことを口にする。

「そうですね、今はレーゼクネに戻る時じゃないし」

「今は?」

「ええ」

 見上げた青年の、僅かに幼さの残る横顔は真剣だった。その目はなんだか自分を見ていないような気がしたけれど、次の瞬間、ロディスは彼女の方をまっすぐ見て言った。

「殿下は、将来の夢とか、ありますか?」

「えっ?」

 不思議な質問だった。

「夢……ですか?」

「そう」

「……不思議なことを仰るのですね」

「だって、あなたはまだ十二歳でしょう。それとも、無事成人して帝位を継ぐこと以外、何も考えられない?」

「え……?」

 やっぱり真剣な眼差しで、誰も口にしないようなことを簡単に言う。

「殿下は、望めば何だって出来る方なんですよ」

「………………」

 ロディスの口調は何気ない雑談のようで、けれど、少女の心を激しく揺さぶった。おそらくは、青年の意図したものとは、別の方向に。

 けれどマーゴットは黙り込んだ後、蚊の鳴くような声で自らの心を否定する。

「……夢、だなんて。そんなこと……わたくしにはとても……」

 夢を見て良い資格はだたひとつ、自由であることだ。

 少女にははじめからそれは無い。

「……そうですよね。すみません、マロゥ」

 思いの他あっけなく質問を引っ込めて、青年は再び穏やかな笑い顔に戻った。試していたのだろうか。それとも、本当に冗談で?

「賢いあなたを困らせるつもりは無かった」

「あ……」

「あ、今の、大公殿下には内緒にして下さいね。ご不興を買ってあなたに会えなくなったら寂しいし」

 軽い調子で言いながらふふふと笑って、ロディスは先へ立って行こうとする。少女は、縋り付いてしまいたい気持ちを必死で抑えて、足を止めた。

 握った手が後ろに引かれ、青年もそれに気付いて立ち止まる。

「あの……」

「?」

 深刻な顔で口ごもる少女と、何も知らず首をかしげる青年。

「わ、わたくし……わたくし……」

 そして、やっとのことで小さく呟く。

「……遠くに行きたいです。ロディス様」

「姫?」

「遠くへ……城を出て、ずっと遠くへ……わたくし……」

一度口にしてしまったら、気持ちをせき止めることは出来なかった。

「遠くに行きたいです……! ロディス様……!」

 青空の下、見事に咲きそろった薔薇の花弁が、重さに堪え兼ねるように傾いでいる。喉の奥から絞り出された、夢と呼ぶにはささやかすぎる望み。マーゴットの言葉は、まるで押し殺した悲鳴のようだった。

 自分の指をギュッと握る、少女の力の必死さにロディスは目を細める。皇女の真意を測りかねたのか、言葉を選んでいるようにみえた。


 ――ロディスにとっては、皇女の言葉は意外だったのだ。

 ちょっとした意地悪のつもりで、鎌をかけてみたのだけれど、まさかこの幼い少女が――何不自由なく守られて育った、『エウロで一番恵まれた娘』であるにもかかわらず――城を出たいなどと。

 今まで何度か接してみて、彼女がいたずらに我が儘を言って周囲を困らせるようなタイプでないことは理解している。年齢よりも思慮深く、賢い少女であることも。

 では、なぜ?

「ぁ……」

 ……けれど、返答に窮したロディスが次の台詞を紡ぐよりも先に、突然、少女が擦れた声をあげて後ずさった。

「あ、あ、あ……」

 彼女の、恐怖に染まった視線の先には、静かな笑みを浮かべてこちらにやってくる、ゲオルグ・アヴァロン。

 背が高くて姿勢の良い彼の姿は、遠くからでもはっきり判別できた。

「……?」

 少女が明らかに父を見て怯えていることにロディスは気付くが、彼はすぐに口を開こうとはしなかった。そのまま、平静を装って注意深く少女の様子を伺う。

「起きていて大丈夫なのかい?」

「お父様……」

 父の言葉はあくまで優しい。

 ロディスから見れば、ちょっと過保護な父親だとは思ったが、彼女が育った経緯を考えれば無理もないことかと理解していた。自分が彼女の味方・・かどうかなんて、アヴァロンには分からないだろう。

 少女は、父親に叱られるのを恐れているのかと思ったけれど、違うのだろうか。以前会った時よりも、男は落ち着いていているように見える。前はもっと苛立っていて、神経質そうな人物だったと思うのだけれど――


「…………」

 冷えた汗を握って、震えていた少女の指は……けれど、やがて、力を失ったようにするりとロディスの手から滑り落ちる。

 様子がおかしいと、思った時はもう遅かった。マーゴットの瞳はうつろに翳り、もうロディスの方を見ようとしない。

 父はにこりと笑って、娘に手を差し伸べた。

「おいで、マーゴット」

 父を見上げる紫の瞳から、透明な雫がたったひとつ、零れて落ちる。

「……はい。お父様」

 そうして、何一つはじまらないまま、ふたりは別れた。




 ――やっぱり、無理だったんだ。

 逃げ出すなんて。

 諦めてしまうと、存外気が楽になるもので……けれど、大きな手のひらは恐ろしい。午餐会は続いているはずだけれど、ゲオルグは客達のいる表の庭には戻らないようで、城の裏口の方へ向かっているようだった。

(……まだお客様が大勢見えているというのに、お部屋に戻るの?)

「――……」

 ……嫌だ。怖い。

 戻りたくない。

 やっぱりお庭に戻りましょうと、言いかけた身体は簡単に浮き上がる。抵抗は無駄だと、頭ではなく身体が理解しているようで、もがこうとしても手足が言うことをきいてくれない。触れられた個所が氷のように硬くなっていくのが分かった。

「疲れただろう、マロゥ」

 父と言葉を交わすのは久方ぶりだ。

「表は他の者に任せているからね、お前は部屋で休みなさい」

 あの雨の夜以来――

「……会いたかったよ」

 耳元で甘く囁いて、歩きはじめる。

 足の向いた方向で、男が少女を、彼女の部屋へと連れていくつもりで無いのだということが、その時はっきりと分かった。

 嫌だ。そっちは嫌だ。

 うまく声が出ない。

 抱かれたまま振り返って裏庭の方を見ると――ロディスのいる裏庭が、奇跡のように明るい場所に見えた。

 まだこちらを見ているらしい、揺れる銀髪が小さく見える。

「ロディス様……」

「……彼とは何の話を?」

「……お庭が、広いというお話を……」

「そう」

 男はもう、苛立つ様子は見せなかった。

 ――ああ、遠い。

 もう永遠に、あの庭には戻れない気さえする。


 硬い靴音が廊下に響く。永遠に、どこにも就かないで欲しいと思ったけれど、少女の願いは聞き届けられることはない。

 バタンと、扉が閉まる音。見慣れた風景、父の執務室だった。そのままデスクのある部屋を通り過ぎて、いつか彼女が午睡に使った、小さな寝室へ入る。

「……震えているね」

 優しい声でそう言って、ゲオルグは少女の背を撫でた。

 ずっと、こんな風に触れてくれることを、とても嬉しく思っていたはずなのに、今はただ恐ろしい。

「おとう……さま……」

「私が怖い?」

 言いながら少女を床に下ろした。手を離されると、震えていた足がガクリと崩れそうになって、再び抱き留められるような格好になる。

「怖がらなくていい。マロゥ、私はね、わかったんだ」

 慈しむような言葉、父は本当に幸せそうだった。

「私はもう、君がいればそれでいいんだ。そして、君は私のそばにいてくれる。いつだって――そうだろう?」

 うっとりとそう呟いて、頭を撫でていた大きな手が頬に添えられる。男の手はしんと冷たい。

「私は誓うよ。君を必ず幸せにしよう。君の望みなら、なんでも叶えてあげる」

「……お父様……」

 優しい言葉。恐ろしいけれど、これはやはり父なのだ。長い、長い時間、自分を待ち続けていてくれた人。

 ――憎めるはずはない。

「愛しているよ、私のマロゥ」

 ああ、これは、鎖だ。

 私と父は、あの夜からずっと見えない鎖で繋がっているのだ。どんなに遠く離れたところで、もう、この絆は消えないのだろう。

 少女の答えを待たず、ゲオルグは娘に口付けた。

 あの夜のように荒々しくではなく、初恋の相手にするようにおずおずと、静粛に。まるで聖なる儀式のひとつのように。最初は額に、その次は鼻に、それから頬と、唇に――

 心はゲオルグを憎めないが、身体は違う。恐怖と、痛みと、羞恥の記憶にがくがくと震え、無言のうちに男を拒絶する。けれど、ゲオルグはそんなことを少しも気にしている風は無く、小さな体を優しく抱きしめて、甘い声で囁いた。

「……午餐会はじきに終わる。それまでここで、待っていてくれるね」

 紫の瞳を覗き込みながら、少女の首元を飾るリボンを解く。繊細な手触りのそれを手に巻いて、ゲオルグは立ち上がった。

「すぐに戻るよ」

 そして男はやはり少女の答えを待たず、彼女を残し、部屋を後にしたのだった。




 カチ

 コチ

 カチ

 コチ



 秒針は嫌になるほど正確に、孤独な時間の一瞬一瞬を刻みつける。

 父が部屋を去ってから過ぎた時間は、もうすぐ三十八分。少女は、ずっと壁掛け時計の秒針が動き続けるのを見ていた。

 ピタリと止まったまま、動かないように見える長針も、ずっと見ていると僅かずつ動いているのが分かる。その動きは、どちらも憎らしいくらいに正確だ。

 部屋はしんと静まり返っていて暗く、やたらと寒く感じられる。時計を見ていないと、時間が過ぎているという感覚自体が麻痺してしまいそうだった。

 窓の外は眩しい午後、十四時過ぎ。招待客達は、そろそろ帰る時間かもしれない。

 ジェラルドは私を探しているだろうか。

(……きっと、探しているわよね)

 見失ったことでまたエリンに叱られていたらどうしよう。弟のことは幸せにしてやらなければいけないのに、いつも迷惑をかけてばかりだ。

(ジェラルド……ごめんなさい)

 自分がいなくなれば、あの子は自由になるのだろうか。


 あの後、ロディスはどうしただろう。何度も話の途中で別れてばかりで、せめて一言お詫びを申し上げればよかった。

 不作法な娘だと思われたままになるとすれば、それはとても辛いことだ。

「………………」

 悲しい。だけど、諦めなければならない。

(だって私は……お父様のものなのだから)

 客がみんな帰ったら、父はこの部屋に戻ってくるだろう。

 そうしたら、また――

 ああ、恐ろしい。

 戻ってきたら……――――


 カチ

 コチ

 カチ

 コチ



 秒針が進む音に耳を澄ませる。

 嫌な音だ。今は、これ以上時間を進めないで欲しいのに。

「………………」

 落ち着かない。心がざわざわして、なのに体は重い。

 どうしよう、少女は迷っていた。

 なぜか?

 ――この部屋のドアが開いていることを、知っていたから。

 ゲオルグは、待っていて欲しいとだけ言い残して、部屋の鍵はかけずに出ていった。逃げても捕まえられると思っているのか、逃げても仕方がないと思っているのか、それとも、逃げ出さないだろうと、自信があったのか。

「………………」


 カチ

 コチ

 カチ

 コチ



 鍵は開いている。

 父は居ない。

 こんなことを考えてはいけないのに。


 カチ


 ――逃げようと思えば逃げられる。


 コチ


 逃げたってもうどうしようもないのに。


 カチ


 ――逃げ出してしまいたい。


 コチ


 けれど――



 それはきっと、許されないこと。




 その後、部屋に主が戻ってくるまでには、さらに、長針がその小さな世界をぐるりと2周するくらいの時間が必要だった。沈黙の中で待ち続けるには、あまりに長い時間を経て――――

 キイ、と、静かにドアが開いて、閉まる。

 深く西日の差し込む寝室に、一瞬少女が居ないようにみえて息を飲んだゲオルグだったが、すぐに、幼い恋人を見つけて微笑んだ。

 マーゴットは、部屋の隅の一番暗い場所にうずくまるようにして、彼を待っていたのだった。

 じっと動かない様子は眠っているようにも思えたが、彼が近づくとハッと顔を上げる。怯えた小動物のような所作だったが、男の目には何もかもが愛しく映る。

「……ただいま、マロゥ、随分と待たせてしまったね」

「お客様は……」

「皆お帰りになったよ」

「そう……」

「さあ、マロゥ。そんな所に隠れていないで、こちらにおいで」

 言われるままに少女はのろりと立ち上がり、ゆっくりと男の足下まで歩を進める。ゲオルグは満足そうに目を細め、ベッドサイドに敷かれた厚いラグに膝をつき、愛しい娘の瞳を覗き込んで……もう一度同じ問いを投げかけた。

「……私が怖い?」

「………………」

 少女は微かに俯いて、諦めたように目を閉じる。

「……いいえ」

 望んだ通りの返答。えもいわれぬ満足感に、男は知らず笑っていた。この少女の心も体も、もう、自分だけのものだ。

「いい子だね、マーゴット」

 力なく立ち尽くす細い体を抱きしめる。気が遠くなるような幸福感。柔らかい髪からは、蜂蜜のような甘い匂いがした。


 寝台の影が、木の床に長く伸びていた。

 夕暮れに染まる部屋に、衣擦れの音と、少女の吐息だけが響く。

 一瞬でもはやく暖かい皮膚に触れたくて、細かい刺繍装飾の施された衣服を一枚一枚、もどかしく感じながら脱がせていく。下着に手をかけられる時にすら抵抗は無く、少女は震えながらも従順だった。

 幼い肢体はその何もかもが小さく細く、不確かで脆い硝子細工のようで、生きていること自体が奇跡のように感じられる。

 あらわになった白い肌を、恐怖のせいでこわばり、しっとりと汗ばんだ鎖骨に、男の指が滑る。指が通った道を、唇が辿る。少女は男の肩を弱々しく押すが、それ以上拒むことはなかった。

「あっ……」

 口づけを落とす度、小さな吐息が漏れる。理性の糸は容易く焼け落ちていき、無意識のうちに腕に力を込めていた。


 少女は必死に男を受け入れようとしているように見えた。あの夜泣き叫び、許してと繰り返した唇はもう拒絶の言葉を紡ぐことはない。まるで、それが己の務めだとでもいうように。

 はじめは人形のように無表情だったマーゴットが、やがて羞恥と戸惑いに表情を歪ませる様は、ゲオルグに彼女の生命の存在を確かめさせ、喜びを与えた。

 何度見ても同じ笑顔を繰り返す空虚な投影映像ではなく、少女は今、ここに確かに生きているのだと。

「お父様……」

「大丈夫だよ、もう痛いことはしない」

 言葉は嘘ではなかった。

 少女が自分を受け入れてくれるなら、力で押さえ込んで奪う必要は無いのだから。

 血が通う白い肌は、唇を付けるたび、桃色に上気していく。

 不安そうに裸身を隠そうと動く腕に手を添え、自らの首に回させる。そして、女のそれとは程遠く未熟な胸に耳を付けて、早鐘を打つ心臓の音を聞いた。

 まさに自分が待ち焦がれていたものが、正しい形でこの手に収まっていくのを感じていた。

 そっと背筋に指を這わせると、マーゴットはギクリと身を震わせて、男の後ろ髪をギュッと握る。そんな少女の一挙手一投足が愛らしく、ゲオルグの心に暖かな火をともしていく。

「心配いらない。私達にとって、これは全て正しいことなんだよ」

 

 恍惚と呟く男は狂っていた。

 そして、この交わりの罪を知っていた。


 何もかも理解した上で、手を伸ばさずにはいられなかった。

 男にとって少女は、それほどに強い救いの光であったから。

 狭いらせん階段を、暗い方へと降りていく。この道の底に何があるのかはまだ分からない。

 ゲオルグとマーゴットはそうして、いびつな親子関係に終止符を打ったのだった。

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