五 成就と喪失

 


 そして、親子がヴヴェイの離宮を訪れたのは、それから三週間あまり後の、五月の最後のことだった。

 ゲオルグが娘に気を利かせて、お忍びの旅行ということで手配してくれたので、公務で遠出するときとはうって変わって、本当にほぼ家族だけの旅行である。

「お父様、見て、白鳥がいるわ!」

 湖上を滑るように泳ぐ白鳥を指差し、少女がはしゃいだ声をあげる。その様子に、ゲオルグ・アヴァロンは目を細めた。

「あまり身を乗り出しては湖に落ちてしまうよ、マロゥ」

「大丈夫ですわ。わたくしだってそのくらいちゃんと分かっています」

 湖畔をゆっくり歩いてみたいという願いを叶えてもらって、マーゴットは上機嫌だった。

「……あ!」

「どうかしたかい?」

 少女が指差した先を見ると、まだ白い羽を持たない雛が、大人の白鳥に寄り添うようにして泳いでいる。

「白鳥の、親子だわ」

「本当だね」

「まだ小さいのね……とっても可愛いわ」

 湖岸の手すりから身を乗り出すようにして、少女は水辺の白鳥を眺めていた。

「ねぇ、あの一緒にいる鳥は、あの子達のお父様かお母様かしら?」

「ああ、白鳥は家族で暮らすから、親だろうね」

「まぁ、素敵ね。お父様、私達と同じだわ」

「…………」

 少女が何気なく放った言葉に、ゲオルグが言葉を詰まらせてしまうので、マーゴットは少し不安げに父を見上げる。

「……お父様?」

「……あ。ああ、ごめんよマロゥ」

「お父様、わたくし、何か悪いことを言ってしまったかしら……ごめんなさい」

 肩を落とす娘に、父は慌てて芝生に膝をついて、俯いた白い顔を覗き込む。

「違うんだ、君は悪くない」

「……だけど、わたくし、ちゃんと……」

 明るい遊歩道に、他の観光客の姿は無い。今この付近は彼ら親子ふたりだけの貸し切りである。新緑を頂いた街路樹に涼しい風が吹くと、足下の芝生に落ちる木漏れ日がそれに合わせて揺らめいた。

 白鳥達が遊ぶ湖面は、高い日差しを受けてキラキラ輝き、不器用に餌をつつく雛達は、親鳥が泳ぐ合間をちょろちょろと出たり入ったり忙しい。

「……お父様、わたくしはちゃんと、お父様の子供になれたかしら」

「え……?」

「ずっと……気になっていましたの」

 マーゴットはまっすぐ父を見上げる。

「わたくし、ちゃんとしたお父様の娘になりたいわ」

 少女はそれを願っていたけれど、物心ついた時既に両親は側にいなかった。親子とはどんなものなのか、本当には分からない。

 前は、城に戻ることができさえすれば、それで良いのだと思い込んでいたのだけれど、今はそれでは、何かが足りない気がするのだ。

「お前……」

 ゲオルグはしばし呆然と娘の顔を見つめ、それから、柔らかくて小さい彼女の手をとると、両手でそれを包み込んで、祈るように硬く目を閉じる。

「私は……私は、もうお前が傍にいてくれさえすれば、それでいいんだよ」

 すがるような、頼りない声で言う。

「お前がどんな娘でも、私にとってお前は、もう……」

「……お父様」

「私は誓うよ、マーゴット。お前を愛してる。お前だけいればいい。必ず誰よりも大切にする。だから……もう二度と遠くへ行かないでおくれ」

 目を閉じたまま呟くゲオルグの声音は不安げで、父親のはずなのに、彼は今にも泣き出してしまいそうな子供に見える。

 どうしてこんなに不安そうなのだろう。

 ――彼が十二年、抱え続けてきた孤独と悲しみの、ぞっとするような冷たさを 彼女は知らない。

 けれど、父を安心させたい一心で、少女は自分の手を押し戴いたまま動かない父の手に、静かに頬を寄せた。

「お父様、お父様、心配しないでくださいまし。わたくしは何処へも参りません。ずっとお傍におります」

 どうか安心してほしい。そして、早く良い家族になりたい。それがどんなかたちをしているものなのかは、まだ分からないけれど。

 優しい少女は、そう願った。

「マーゴット……お前は……お前だけが、私の太陽だ」

 幸せな言葉の奥から、不安が消えない。

「これからずっと、ずっとずっと」

 砕け散った心を薄い糊で繋ぎ合わせて、男は孤独の時間を生きてきた。

 どんなに愛し合っていても、些細なきっかけで大切な人は目の前から消えてしまう。だから、もうゲオルグは永遠を信じられない。

 けれど――いや、だからこそ。

 男は少女に愛を誓い、永遠に続く幸せを願った。




 花畑を見に、高原へ出かけたのは、離宮に着いた翌日のことだった。

「まぁ……!」

 五月の雪は美しかった。緩やかな傾斜を、見渡す限り、白い星のような花が咲き乱れている。高原を覆う白い花は、確かに雪と見まごうばかり。

あまりに美しい風景に、少女は夢中で細い遊歩道を歩き回った。

「すごいわ、お父様、本当にすごいわ……!」

「喜んでくれて嬉しいよ。この離宮はアーシュラもお気に入りでね」

「お母様が?」

 マーゴットは驚いて足を止める。父の口から、母の名が出るのははじめてのことだった。

「そう。今の君のように、この一面の花畑が気に入ってね」

「まぁ……本当に、美しいですものね」

 母の話を、ずっと聞きたいと思っていたから、とても嬉しい。

「あと、彼女は山登りもするんだよ」

「山登り!?」

「ふふふ、すごいだろう? 一度なんてアルプスに登りたいと言い出して、止めるのが大変だったのさ」

「アルプス!? まぁ……まぁ……」

 それは、目の前に、壁のようにそびえる、巨大な白い山々の名だ。母は体が弱かったと聞いていたけれど、そんなことを言うような人だったのか。なんだか想像ができない。

「全くねぇ」

 ため息交じりにそう言って、ゲオルグは娘を抱き上げ、抱きしめた。

「お前がお転婆に育たなくて良かったよ、私は」

 言いながら、何かを思い出すようにクスクスと笑う。

「マロゥまで彼女のようだったら、私はもう心配で心配で、命がいくつあっても足りないだろうからね」

「ふふふふ、大げさですわねえ、お父様は」

 ゲオルグがずっと、頑なに母の話題を出さなかったので、少女もそれに触れてこなかった。父にとって、夭折した母の話は、やはり悲しい思い出なのかなと思ったからだ。けれど今日のゲオルグは、あっけないほど朗らかに、母のことを話してくれた。

 抱き上げられた肩の上から見晴らす高原の景色は、少女の目線で見るよりも広々と遠くまで見渡せて、とても気持ちが良い。湖から吹き上げる風が髪をすり抜けていく感覚も清々しく、いっそう晴れやかな気分にしてくれる。

「アーシュラはここに来たら、よくご近所のセルジュ殿を引っ張り回して困らせていたなあ」

「セルジュ様……といえば、セルジュ・カスタニエ様ですね」

 その名にドキリとしながら、訊ねてみる。

「ああ。僕らがここに滞在していた時、ちょうどセルジュ殿もご家族でいらしていたんだよ……そうそう、この間会った息子さんも居たね」

「え……っ!」

 突然父がロディスのことを話に出すので、思わず驚いた声を上げてしまった。

「あ……と、ええと……いつごろのお話なのかしら」

「うーん、セルジュ殿のお子さんがまだ四歳とか五歳とか……草原の中に入るとどこに居るのか分からなくなってしまうと、細君が困っておられたな」

 そんな小さい頃の彼は、さぞかし愛らしかったことだろう。それに……

「では、カスタニエ公爵家の別邸というのは、離宮から近いんですのね」

 どうしよう。嬉しくなってしまう。

「ああ。……どうしてだい?」

「この間ロディス様がね、久しぶりに自分も行ってみたいなと仰っていたの」

 父の笑顔にさす一抹の不安に気付かず、少女は無邪気に答えた。

「へぇ……」

「ふふふ、お会いできると嬉しいわ」

 ゲオルグの顔から一瞬、笑みが消えて黙り込む。それから、パッと笑顔に戻り、

「お前はあの子と仲良くなったのだね。気に入ったのかい?」

 取り繕うように言った。

「仲良く……なんて、まだまだ、そんなではありませんわ」

 男の腕の中で、少女は丸い頬を薔薇色に染めて目を伏せる。花畑をざわりと風が吹き抜け、少女の長い髪を揺らす。

「おや……そうなのかい?」

「仲良くなりたいと思っているのはわたくしの方ですもの」

「お前が?」

「……ええ、お話がとっても面白くて、優しくて、素敵な方よ。お父様」

「………………」

 ゲオルグはまた黙り込んだ。そして、

「……お前、もしかして、あの子のことが好きになったとか?」

 冗談にしようとして誤魔化しきれない、低い声で言った。

「あ……あの……」

 少女は戸惑う。

 正直な気持ちを話せば、父をまた心配させてしまうような気がする。だけど――


 自分の想いを自覚してしまった以上、心にも無いことを口にすることはできなかった。

「………………」

 かすかに不安を含む沈黙、それは肯定。ゲオルグはそれに気が付いたようだったが、それ以上言葉を続けることはせず、パッと表情を明るくする。

「ごめんよ、マロゥ、変なことを聞いてしまったね」

「お父様……」

「そろそろ戻って昼食にしようか」

 そして、笑顔で歩き始めるのだった。




 夜――――


「ああ、うん、やっぱりとても似合う」

 食事の前に贈られていた新しいドレスに身を包んだマーゴットを前に、ゲオルグはありきたりの感想を、いかにも感慨深げに述べた。

「……ありがとうございます。でも、お父様、突然どうして?」

「父が娘に贈り物をしてはいけないかい?」

 二人きりのリビングルームで、ゲオルグは満足そうに言う。

「え? い、いえ……そうじゃなくて……」

「はは、いいじゃないか。何しろ、夜会用のドレスはいつの間にか揃っていて、私は一着も選ばせてもらえなかったからねぇ」

「お父様……」

 離宮は壮麗なアヴァロン城に比べると、こぢんまりとした屋敷といった感じの場所で、狭いおかげで落ち着く。アヴァロン城にはこういう家庭的な居間は無いので、ここは、親子で過ごすにはちょうど良かった。

「おいで、マロゥ、こんなにゆっくりできる夜は久しぶりだ」

「はい……」

 少女は嬉しそうに頷いて、ゲオルグの隣にちょんと座る。

 そんな娘の様子を見て、ゲオルグは少し大げさに肩をすくめる。

「あーあ、もう、アヴァロンに戻らずここでずっと暮らせたらいいのになぁ」

 冗談めかした言い方に、少女は思わず笑う。

「まぁ、お父様ったら」

「だって、そうだろう?」

 二人にとって、親子水入らずでいられる時間はとても貴重だ。

「ずっと、君とこんな風にのんびり過ごせたら良いって、思っていたんだよ。ここは良いよ、花の季節もすばらしいけれど、雪に閉ざされる冬も格別さ」

 手にしたブランデーグラスを傾けながら、ゲオルグはゆらゆら揺れる琥珀色の酒を見つめていた。

「本当は、君をあちこち……自由に連れ出してあげられればいいのだけれどね」

 夢を語るように言った父に、少女は優しく微笑む。

「お父様は色々なところに行ったことがあるの?」

「ああ、私の家は商売をやっていてね、子供のころから旅ばかりだったよ」

「……まぁ、それってとても素敵ね」

「え……」

 少女が何気なく返した言葉に、ゲオルグは驚いたように目を見開いて、言葉を詰まらせてしまう。

「お父様?」

 息苦しいような一瞬の沈黙の後、ゲオルグはふわりと溶けるように微笑んだ。

「……じゃあ、どこの話をしようかな」

「そうね……うんと遠いところがいいわ」

「ははは、わかったよ」


 ゲオルグが話す遠い国の話に、少女は夢中で耳を傾けた。

 シノニアの砂漠や、ガネイシアの巨大な市場、直轄区のビル街に、広大なアフリカ大陸の景色……――遠い世界を知る男の話は面白く、いつの間にか就寝時間を過ぎていることも忘れてしまうほどだった。

 五月とはいえ、高原の夜は深い。

 しんと冷えた外気を厳重に遮断して、屋内は暖炉の柔らかな熱によって暖められていた。僅かに曇ったガラス窓は、彼らのいる部屋を外界から切り離しているようにも思える。

 まるで、世界に自分たち二人しか存在しないような。

 そんな気持ちになってしまいそうな夜だった。

「……お父様」

 そして、やがて一通り話を聞き終えて満足したらしいマーゴットが、少しだけ眠そうな目を向ける。

「なんだい?」

「今日はわたくし、嬉しかったです。お父様からお話してくださるとは、思っていなかったから。お母様のこと」

「アーシュラの?」

「ええ」

 ゲオルグは少し面食らった様子だったが、やがて気を取り直したように肩をすくめた。

「おかしなことを言う子だね、私が君に、彼女とのことを隠しているとでも?」

「え? いえ……そうではなくて……」

 少女は少し困ったように首をかしげた。しばらく考えて、恐る恐る続ける。

「お父様にとって、お母様との思い出は……お父様だけのものでしょう?」

「君……」

「だから、お話してくださるとは思っていませんでしたの。わたくしには……」

 大人びた目で、本当に大人のようなことを言うマーゴットに、ゲオルグは苦しいような嬉しいような複雑な表情で息をつく。そして、頼りない娘の体を引き寄せて、甘い香りのする髪を優しく撫でた。

「私は幸せだよ」

「お父様……?」

「あの日、アーシュラがいなくなって、人生にはもう、暗闇しかないのだと思った。けれど……今は、君がいるんだ」

 穏やかな夜の、暖かい部屋で。

「私は……幸せなんだよ」

 幸せな結末か、それとも、不安な祈りか。

 うっとりと呟く声は、しかし、どこか独り言のようにも思えるものであった。






 朝――

 微かに響く朗らかな鳥の歌に、少女は目を覚ました。

 ベッドにはもう明るい日が落ちている。今日も良い天気のようだ。

「ん……」

 大きく伸びをしてから、跳ねるように起き上がる。

 朝の到来に心が弾む。今日はどこへ行ってみようか。昼食は外で食べるからと、昨日のうちにクヴェンに頼んであったのだ。

 供を付けることが条件であるとはいえ、自由に外出させてもらえるのは生まれて初めてだ。一秒でも早く遊びに出ようと、少女は慌てて部屋を出た。

 気持ちの良い木の床を歩き、狭い離宮の廊下を渡る。そして、食堂に入ったところで、ふと立ち止まった。

「……エリンは、どうしているかしら」

 この離宮には一緒に来ているのだけれど、エリンはすぐ目の届かない所に隠れてしまう。食事も一緒に食べないし。せっかく楽しい気持ちで、皆で旅行にやって来たというのに、少々不満だ。

「………………」

 きょろきょろ辺りを見回してみても、廊下に出てあちこち歩いてみても、エリンは居ない。ジェラルドを呼んで聞けば知っているかしらと一瞬思ったけれど、すぐに、それよりも面白いことを思い付いた。

(ふふふ、これは面白い考えだわ!)

 ひとり納得して、メイドに貰ったサンドイッチ入りの籐カゴを抱え、いそいそと屋敷を出た。

 離宮には警備兵などもいないから、出かけようと思えば一人でだって外に出ることができるのだ。

 外に出ればすぐに花畑だ。

 そのまま、ひとりで遊歩道をどんどん歩いていく。

 これはささやかな作戦だった。

 そう。

 こうして一人で出かければ必ず――


「……殿下」

 ほら、やっぱり。

「おはようエリン、今日もいい天気ね」

 思惑通りの登場に、満足な気持ちで振り返る。いつの間にか私の後ろに居たエリンは、いつも通りの無愛想な顔でこちらを見ていた。

「お一人で遊びに出かけないで下さい」

「あら、一人じゃないわよ。あなたを待っていたんだもの」

「………………」


 エリンは無表情のまま、僅かに目を細める。マーゴットには分かる。この場合、呆れているのだ。

「ふふふ、思った通りだわ」

 少女は上機嫌だった。

「エリンったら、いつもどこかに隠れていて、呼んでも出てきてくれない時もあるでしょう? だから、こうすればきっと来てくれる、って」

「殿下……」

 呟くエリンの真っ黒な衣装が、暖かい花畑には全く不似合いで、なんだか可笑しい。

「ねぇ、エリンもたまには一緒にピクニックに行きましょう」


「……あなたは、全く……」

 得意げにそう言うと、エリンはため息をついた。そして、諦めたように少女の手から籐カゴを受け取る。

「……同じことをあなたの母上にもやられたことがあります」

 エリンは少し笑っていた。それを見てマーゴットはますます嬉しくなる。

「まぁ、遺伝かしらね。ふふふふふ」

「毎日この辺りはジェラルドと歩き回られているでしょう。

 エリンの言葉通りだった。離宮の周りの花畑は、もう随分ジェラルドと二人で遊んで回った。

「どこか、他に行きたい所でも?」

「あの、向こうの丘の方まで行ってみたいわ。遠いからまだ行っていないの」

 少女が指差した方向を見て、エリンは少し困ったような顔をする。

「だめかしら?」

「……構いませんが、昼までには戻れません」

「あら、そのためにサンドイッチを持っているのよ」

「………………」

 少女の策略にエリンは閉口し、

「……少し遠いですが、歩けますか?」

 そして、諦めたようだった。

「もちろん!」

 元気よく答えると、彼はそれ以上何も言わず、二人で目的の丘を目指して歩いた。黒い衣服を纏ったエリンは、やはり、緑と青の高原では異質な感じがする。

 だけど彼のまっすぐで長い金色の髪が風になびく様は、少し見とれてしまうくらいに綺麗だ。

 母もこの離宮を訪れたことがあると父は言っていたけれど、だとしたら、エリンもここに来たことがあるのだろうか。

「……お母様が、アルプスに登りたいって仰ったって」

「そんなこともありました」

 不意打ちでそう言ってみると、エリンは驚いた風も無く言った。

「エリンも知っているのね」

「大公殿下に聞きましたか?」

 ずっと、エリンから母のことは聞かされて育った気がしていたけれど、考えてみれば、母がどんな人だったのか、人となりなど、個人的なことは教えてもらった記憶がない。

「ええ。お母様もこのお花畑が大好きでいらっしゃったって」

「……それは、アーシュラが恋人に可愛いと思われたくて見栄を張っただけですよ」

 言いながらクスリと笑う。

「本当は山の方が好きだったくせに」

「まぁ……」

「……大きくて揺るぎない、強い存在だから。アルプスが好きだと」

 言って、エリンはとても懐かしいものを見るような顔で、雪の残るアルプスを眺めていた。

 ずっと昔に死んだ人の話を、まるで昨日のことのように語る。その姿はなぜかとても遠いものに感じられて、少女はすぐに返事をすることができなかった。

 エリンと、それから父の心の中に、今も母がいる。

 私もお会いしたかったわ、と、言いそうになる言葉を呑み込んだ。自分は、母の死と引き換えに生まれてきた存在なのだ。母のいなくなった場所に、自分は立っている。発すべき言葉を改めて探していると、エリンの方が口を開いた。

「姫は、この近くにカスタニエ家の別邸があることはお聞きですか?」

「あ……はい。どこにあるかまでは、聞いていないけれど……」

 そのことについてはかねてから知りたかったのだけれど、父があまりいい顔をしない気がして、訊ねることができずにいたのだ。

「そこの木の向こうをご覧なさい」

「え? ……あっ!」

 言われるままに、木立の向こうに目をやって、息を飲む。

 そこに居たのはまさしくロディス・カスタニエ、その人だったのだ。確かに、会えれば素敵だと思ってはいたけれど……何の約束をしたわけでもないのだ。会えるはずがないとも思っていた。それなのに――まさか、本当に会えるなんて。

 呆然としている少女に、エリンはスッと籐カゴを差し出す。

「昼食はあの子を誘ってはいかがですか?」

「えっ?」

「カスタニエ家の別邸は、この丘の上なんですよ」

 ロディスが立っている場所を仰ぐ。エリンの視線の先に、確かに別荘らしい建物が見えた。

「でも……」

 突然そんなことを言われても、心の準備ができていない。

「わ、私がこのカゴを持って行ってしまったら、エリンのお昼ご飯が無くなってしまうわ」

 とっさに、エリンを言い訳の具にしてしまう。

「私なら……」

 勇気の出ない少女に、エリンは苦笑する。そして、そっとカゴを開けて、ぎっしり詰まったサンドイッチを二つばかり取り出した。

「これで大丈夫でしょう? 姫」

 駄目だとは言えない。――頑張らなければ。


 促されるまま、おずおずと歩きはじめた少女だったが、すぐに、困ったことに気がついた。

 ロディスは一人ではなかった。最初はちょうど彼の影に隠れて見えていなかったけれど、誰かと一緒だ。

(お友達、かしら……?)

 並んで話しているらしいのは、ロディスと背格好の似た青年に見えた。これでは、突然出ていって話しかけるのは、さすがに迷惑だろう。そう思って木陰で足を止める。草原の端に立っている二人が何を話しているかは聞こえてこない。

「………………」

 これはやっぱり、引き返してエリンの所に戻るべきだろうか。

 常識的に考えれば、そうするべきだ。いつまでもここに隠れているのもおかしい。

(でも……)

 約束も無しに会えるはずないと思っていた。

 夜会の日に、はしたないのを承知でヴヴェイでお会いしたいとまで言ってしまえば良かったかしらと、あれから随分悩んだりもした。

 けれど、こうして会えてしまうなんてすごい。運命的な何かを感じてしまうと言っても、大げさじゃないような気がしてしまう。

「………………」

 木陰に隠れてのぞき見をするなんて、随分と行儀の悪いことだ。見つかったら何と言い訳すればいいか分からないし、嫌われてしまうかもしれない。

 これはやっぱり……やっぱり早くここを離れるべきだ。

(せっかくお会いできたのに……)

 どうしてもその場を離れることができなかった。たとえ、見ていることしかできないとしても、彼の姿を一瞬でも長く、この目に捉えていたいと思ってしまう。

 ――けれど結局、話しかける勇気が出せないまま、少女はやがて、その場から離れた。


 エリンがすぐに来てくれるはずだと思ったけれど、彼は現れない。

 花畑をひとり、トボトボ歩くマーゴットの手の中には、ふたり分のサンドイッチが空しい存在感を放っている。自分が情けなくて、嫌になってしまう。

 正午を回ろうとする高原はのんびりと穏やかで、そんな中でこんなにうじうじしているのが余計に馬鹿らしくなってくる。広々と見下ろせる雪解け水の湖の向こうには、花ではない本物の雪を戴いて、白く輝くアルプスの山々。

 母は、あの山が好きだったという。

「お母様……」

 父にも、エリンにも愛された母。二人を見ていると、この高原には母との素敵な思い出がたくさん詰まっているように思える。

 自分もそうなれたらいいのに。せっかく、奇跡のような再会が果たせると、思ったのに。

 一人でいると気が緩むせいか、容易く涙が滲む。涙を堪えようと空を見上げたら、あまりにいいお天気で、何だか余計に悲しくなってしまった。

「……っ……ぐす……」

 目の奥が熱い。こんなつまらないことで泣き出してしまうなんて、なんて子供なんだろう。すすり上げると鼻の奥もつんとして痛かった。

 マーゴットはその場に座り込んで、そのまま、バスケットを脇において仰向けに寝転がる。

 草の絨毯は思ったより硬かったけれど、少女はそのまま、流れる涙を拭いもせず、ぼんやりと流れる雲を眺めていた。

 どうせ一通り泣いたら気分がスッキリするに違いない。

 そうしたら、エリンを探して一緒にお昼ご飯にしよう。

 そうすればきっと、今日もまた楽しい日になるに違いないから――――




「――ああ、やっぱり」

「えっ?」

 不意に落ちてきた声に、驚いて飛び起きた。その拍子に、目に溜まっていた涙が一筋頬に流れる。

「あれ……?」

 そこには、少し驚いた様子のロディスがいた。

「あら……あの……」

 今見ているのは幻なのだろうか。

 うまく言葉が出ない。何が起きているのか理解が追いつかなくて、惚けたように青年の顔をまじまじと見つめていると、かがんだ彼の指が、不意に頬に触れた。

「泣いていらっしゃる」

「あ……の……」

「……こんな良い天気のお昼間に、供も付けずお一人で、悲しい夢でも見ていらっしゃったのでしょうか、姫」

 言って、ロディスは微笑んだ。

「ロディス様……本当に……?」

「やっぱり、夢でも見ていらっしゃったのかな」

 そう言われて、やっと今の状況に気がついた。彼の指が頬に触れている。じんわりと伝わる暖かさが、ズキンと深く胸を打った。

「わたくし……わたくし……」

 困った。涙が止まってくれない。

 もう少しも悲しくなくて、むしろ飛び上がりたいくらい嬉しいはずなのに。涙腺が壊れてしまったのだろうか。

「……姫、本当に何かあったのですか?」

 はらはらと涙をこぼす少女に、さすがに心配になった様子でロディスは言って、その顔をのぞき込む。

「違うの……違うんです、ロディス様、わたくし……その……お会いできるなんて、思っていなくて……」

 誤解を解かねばと、嗚咽を抑え、必死に言葉を絞り出す。

「脅かしてしまいましたか?」

「違いま……ううん、驚きました。とっても……ふふ、でも、嬉しいんです……」

 頑張って落ち着かないと。泣き声はみっともない。

「姫……?」

「ロディス様、ロディス様、お会いできて嬉しいわ。わたくし、とっても……」

 涙がぽろぽろこぼれるのもそのままに、精一杯の気持ちを込めてそう口にした。ロディスは少し安心した様子で、懐からハンカチを取り出す。

「……泣いたり笑ったり、忙しい方だ」

 少女の涙を拭い取って、ふわりと笑う。

「でも、僕もお会いしたかった。殿下」

 ロディスの青い瞳が、城で会った時よりもずっと近い。明るい光の下で見る姿も、やっぱりとても素敵だと思う。

 少女は、幸せだった。




 二人の頭の上にあった太陽が、やがて傾いて、広い空が淡い山吹の夕焼けに染まる。

 彼らは随分と長い間、並んで座って、色々な話をした。

 ひとつひとつはとても他愛も無い話で、特別なことは何もなかったのだけれど、少女にとってはこの上なく楽しく、幸せな時間で――――

「風が冷たくなってきましたね。寒くありませんか?」

「平気です。涼しくて気持ちが良いくらい」

「……なら良いですが、僕と会っていて風邪をひいたなんてことになっては、大公殿下に申し訳がありませんからね」

 言って、ロディスは何気なく自分の上着を脱いで、少女に着せかけた。肩や背にホッとするような暖かさが伝わり、いつの間にか自分の身体が随分冷えていたことを知る。

「うふふ、ねぇ、ロディス様、これって本当は夢だったりしないかしら」

「夢?」

「ええ。だって、夢みたいだわ。こんな眺めの良いところで、こうしてふたりだけで、お話する機会があるなんて」

「……そうですね」

 ロディスの声が、ゆったりと高原の夕風に乗る。

「そういえば、姫殿下は僕などには手の届かないお人だった。ふふふ、すみません。お話すると普通の可愛いお嬢さんだったので、忘れていました」

 彼の言葉も行動も、全部が少女を翻弄する。

「手が届かないだなんて。そんな……」

「では、届きますか?」

 こちらを見つめる、不意に真剣な色を帯びた眼差しに、息が詰まりそうになる。

 心臓が止まりそう。

 瞳が語る、幸福な予感。

 ――私は、期待をしても良いの?


「………………」

「……姫?」

「あ……の、出来れば、な、名前で……」

 少女は俯いた。

「……お父様は普段、私のことは、マロゥと」

 ――回りくどいけれど、私にすれば精一杯の愛の告白のつもりの台詞。耳が熱い。きっと真っ赤になっているに違いない。

 今がちょうど夕焼けの時間で良かったと思った。

「…………危ういなあ」

「えっ?」

 情けない声を上げて顔を上げると、ロディスは悪戯っぽく笑っていた。

「いけませんよ、姫殿下。そんなことを仰ると、僕が勘違いします」


 ――ああ、やっぱり、この人の笑顔は魅力的だ。

 優しくて可愛らしい感じなのに、どことなく危険でドキドキする。外の世界を何も知らないマーゴットにとって、彼は新しい世界への扉そのものですらある。

 彼と言葉を交わすたび、彼女は見知らぬ新しい自分自身を知るのだから。

「ロディス様……」

 何かを言おうとして、視界の隅に動く人影を見た。誰か……と、思うまでもなく、誰が現れたのかを知る。

 ――父だった。


「……こんな所に居たんだね」

 ゲオルグは、呆れたような、怒ったような声で言った。

「お父様……」

 探したよ、と、言いながらゲオルグは大股に近づいて、ロディスの上着の中から抜き取るように少女を抱き上げる。

「……お父様?」

 らしくない、どことなく乱暴な動作。怒っているのだ。

「カスタニエ卿、久しぶりだね。娘が厄介をかけてしまったようで、申し訳ない」

 そう、かろうじて慇懃に言う。

「……とんでもない。大公殿下。姫を長くお借りしてしまったようで、申し訳ありません」

 上着を拾い上げて、ロディスも立ち上がった。

 苛立ちを含んだ父の物言いに、少女はどうして良いか分からなくなって、ふたりの顔を代わる代わる、途方に暮れて眺めていた。

 マーゴットと目が合うと、ロディスは少し笑った

「僕は失礼します。ではまた、ジュネーヴで……マロゥ(・・・)」

 僅かに当てつけるように、青年は言った。その毒にゲオルグは気付いていたが、恋に目がくらんだ幼いマーゴットには分からない。

「……はい。ロディス様」

 つい先程まで、燃えるような太陽が一面のオレンジに染めていた空を、いつの間にか薄藍の宵が覆い尽くそうとしている。

 日は既に落ち、遠い山の端が柔らかい桃色に染まって――この瞬間、世界は幻想的な青紫の中にあった。




 恋とはたぶん、たちの悪い流行り病のようなものだ。

 感染は一瞬の不可抗力。出会った時、言葉を交わした時、そんな些細な偶然――あるいは、神の悪戯で。

 その甘い糸に捕らわれてしまったら最後、炎は容易く燃え上がる

 相手が本当に自分にふさわしい人間であるのかどうかとか、今がそれにふさわしい時期であるのかどうかとか、冷静な分析や判断は少しも役に立たない。

 そんなものが歯止めになる状況を、恋とは呼ばないからだ。

 ただただ、激しい炎に焼かれるように、愛しい相手のことしか考えなくなる。

 ――本当はその炎は、容易く消えてしまうものでもあるのだけれど。瞬間の熱の強さは、しばしば人に偽りの永遠を見せるものだ。

 その想いも、あるいは、そんな間違いのひとつであったのかもしれない。


 夜。

 夕暮れの頃には既に、薄明に紛れ低気圧はすぐ傍まで迫っており――

 嵐の気配から逃げるように親子が離宮に帰り着くとまもなく、ヴヴェイに来て初めての雨となった。


「……食べないのかい? マロゥ」

「……いいえ、食べていますわ」

 曖昧な返事を返して、少女はぼんやりと料理を口に運ぶ。ゲオルグが怪訝な顔をしても、少しも気が付いていない様子だった。

 食堂は夜と雨の両方によって閉じこめられ、親子の食卓はまるで深海を渡る箱船のようだ。

「具合でも悪いのかな?」

「……そんなことありませんわ」

 マーゴットは半分夢見心地だ。

 夢見心地で、ロディスが別れ際、自らの名を呼んでくれたことを、繰り返し繰り返し、思い出していたのだ。食欲がないわけでも具合が悪いわけでもなかったが、少女は父の話を半分も聞いてはいなかった。――少女はただ、想いが届いたかもしれないという、幸せな予感に浸っていたのだ。


 ロディスが名を呼んでくれた。

 それが全てだ。

 心の中で、彼の声が何度も再生されている。別れたばかりなのに、もう次いつ会えるのかと気になって仕方がない。だから、暖かい食事も心配そうな父も、今のマーゴットにとっては風景の一部くらいのものでしかないのだ。

「………………」

 娘を連れて離宮へ戻る道の途中から、終始口数の少なかったゲオルグは、食事が始まって気を取り直し、彼女と会話をしようと何度も試みていたのだが……

 結局、それが空しい努力だと知った後は黙り込んだ。

 男は鈍くない。幼く、外の世界と人を知らない少女には、あの美しい青年は、どんなにか魅力的に映るだろう。

「………………」

 黙り込んだまま、娘の様子を注意深く伺う。けれどそんな父の視線にすら、少女は気付かない。

 沈黙。

 雨の音。

 幸せな恋の妄想に捕らわれた少女と、強ばった顔でフォークを置くその父。

 男の心に不安と絶望の雨が降っていることに……やはり、少女は気付かなかった。




 気がつくと、食堂に父はいなかった。

 テーブルにはすっかり冷えたメインディッシュが、半分も手が付けられていない状態で残されている。

(いやだわ、私ったら、随分ぼんやりと食事をしていたのね)

 時計を確認する。随分遅くなった。

 たくさん歩いて疲れたし、さっさとお風呂に入って眠りたい。

 だけど、父のことが気になった。

(……今日はたぶん、とても心配をかけてしまったわ)

 昼食を持って出かけたことは知っていたはずだけれど、いつもは夕方のあんな時間まで離宮に戻らないことはない。だからきっと、心配して探しに来てくれたのだろう。

 父には一言謝っておかなければいけない。帰り道も食事の時も、ずっとロディスのことで頭がいっぱいで、まともに会話できなかったような気がする。もしかすると、怒っているかもしれない。

(お父様、心配性だから。きちんとお詫びしてこよう)

 席を立って居間を覗いたけれど、ゲオルグは居なかった。部屋を覗いてみようと考えて、少女は、自分のドレスが随分汚れていることに気がついた。

 そういえば今日は、草原にじかに座ったり寝ころんだりしたのだ。落ち着いて考えれば、あまりこのまま室内をうろうろするのは憚られる格好だ。

(……先に、お風呂にしましょう)




 入浴を済ませると、もうそろそろ寝てしまうべき時間がきていた。一日遊びまわって、体は心地よい眠気にぼうっと熱い。

 父に謝るのは明日の朝にすべきかもしれない。

 昨日は心配をかけて悪かった、と、朝、朝食のときにちょっと触れておけば、それでも良いのではないか。

「………………」

 一通り悩んだ後、やはり少女は父の部屋に向かうことにした。

 今日はせっかく素晴らしいことがあったのだから、気持ちよく一日を終えよう。そうして、また……ジュネーヴに戻ったらあの人に会えるのだ。

 こんな嬉しいことはない。だから、父にもちゃんと安心してもらえるよう、声をかけてから眠ろう。




「お父様……いらっしゃいますか?」

 控えめな少女のノックに応え、扉が開くまでには少し間があった。

 青い顔で出てきた男は、娘の顔を見て一瞬ギクリと肩を震わせた。けれど、それを悟られないように優しげな声音で少女に問いかける。

「マロゥ、どうしたんだい?」

「あの、お父様にお詫び申し上げるのが遅れたと」

「え……?」

「今日は、わたくしの帰りが遅いから、心配して探しに来て下さったのでしょう?ごめんなさい。わたくし、ついうっかり時間を見ていなくて……」

 申し訳なさそうに口を開いた少女に、男は表情を和らげる。

「ああ……そのことか。気にしないでいいよ、マーゴット」

 そして、優しい瞳はゆらりと揺れて、怯えたように光る。

「私も……気にしないから」

 男の言葉はどことなく白々しい。

 娘の目を見ようとしないゲオルグは、苦しげに呟いた。

「……そんな格好でうろうろしていると本当に風邪をひくよ。はやく部屋に戻って、休みなさい」

「あ……はい」

 ぎこちなく微笑んでみせる父を、少女はホッとした様子で見上げる。

「お父様、ありがとう」

「え?」

「てっきり、すごく怒っていらっしゃるかと思いました」

 安堵した様子のマーゴットは、父がギクリと肩を震わせるのに気付かない。

「私が怒る? ……君に?」

「ええ」

「……でもやっぱり、お父様は優しいのね。よかった」

 言って、少女は、幸せそうに微笑んだ。

 その母と生き写しの顔で。

「………………」

 雷に打たれたように、男の表情が凍り付く。

「……では、失礼いたします。お父様。おやすみなさい」

 優しい父の言葉に満足して、マーゴットがきびすを返そうとした、その時――

「……待ってくれ」

 閉じようとしたドアの間から、ゲオルグの手が伸びて、少女の肩を掴んだ。

「……?」

 強い力に、驚いて振り返る。

「お父様?」

「………………」

 目が合った。

 冬の海のような、重く暗い色の瞳。

 男の目は躊躇うように一瞬伏せられる。けれど――

 刹那、雷鳴。

 男はそのまま、娘を抱きすくめるようにして自らの寝室に引きずり込んだ。勢いよく閉められたドアの外に、彼女が羽織っていた薄いケープがハラリと落ちる。

「お……父様?」

「――――いかないでくれ」

「どうい……」

 何が起きたのかを理解できず、問おうとした少女の言葉は強引な接吻で途切れた。

 ――割れるような雷の後は、土砂降りの雨。外は嵐に変わりつつあるらしい

 強い水滴が窓を叩く、くぐもった雨音が室内に響いていた。

 驚いて、逃れようともがいた腕は容易く抱き込まれ、扉に押し付けられるような格好で、か細い悲鳴すら上げられないまま、彼女はそれを受け入れるしかなかった。

「……! …………っ!」

 それは、呼吸すら許さないとでもいうような、口内を貪る野蛮なキス。唾液に混じる苦いブランデーの味――けれど、男は酔っているわけではないようだった。

 驚きと恐怖と酸欠で意識が白く霞む。

 僅かに唇が離れた瞬間、少女は叫んだ。

「……めて、やめて、お父様! 嫌……!」

「――嫌?」

 父はその瞳に絶望と狂気を宿して、拒絶の言葉を口にした娘を覗き込んだ。

「なぜ……?」

 悲しそうに目を細める。

「なぜ、君がそんなことを言うんだ? 私は……」

 長い金髪を掬って、愛おしむように頬擦りする。そして、懇願するような声で哀れっぽく呻いた。

「いかないでくれ。……愛してるんだ」

 頬をなぞる冷えきった指がなぜか、とても悲しかった。男は少女の細い身体を抱きしめて、独り言のようにポツリと言った。

「……渡さない。誰にも、絶対に」

 惚けたように目を見開いて、豹変した父の背中ごしに宙を見つめていたマーゴットだったが、ゲオルグが自分を抱いたまま立ち上がったのに我に返り、床から浮いた足をばたつかせ、弱々しく抵抗した。

 ――けれど少女の必死の力は弱く、狂気にとらわれた男を止めることなど出来はしない。

「お父様……お父様!」

 やめてと言いかけた言葉が、二度目の接吻に消える。

 頭に手を回されて身動きが取れなくなると、そのまま落ちるように押し倒された。


 乱暴な所作なのに、広いベッドは意外なほど柔らかく少女の身体を受け止める。

 ほのかに照らすフロアスタンドの光の中、長い洗い髪が無造作に広がり――無力な少女は、男の目には、異様なほど美しく見えた。

 肩を押して自分を引きはがそうとする細い腕を片手で掴んで押さえ込み、石鹸の香りがする首筋に舌を這わせる。

「ん……!」

 助けを呼ぼうとでもしたのだろうか、何か叫びかけた口はしかし、言葉を発する前に大きな手で塞がれてしまう。視界が霞むけれど、男は力を緩めようとはしない。

 苦しい。

 必死に息を吸おうとしているのに、空気がほとんど喉を通ってくれなかった。目の前の父の顔が白くぼやける。

 恐怖と息苦しさに、ポロポロと涙がこぼれた。

「…………っ!」

 でたらめにもがく白い腕が宙を掻く。体を動かすと、意識はさらに遠くなり、徐々に力は入らなくなる。

「ん……! ん……」

「……愛してる。君は、私だけのものだ」

 ゲオルグは押さえ込んでいた手を離したが、既に抵抗する力を失っていたマーゴットは、ぐったりと動かない。

 大人しくなった少女に愛おしむように口づけて、こぼれ落ちた涙を拭う。震える身体を優しく抱き起こし、胸元の貝ボタンを、何かの重要な儀式のように、ゆっくりと外していった。

「あ……」

 衣服を剥ぎ取られようとしていることに気付いた少女は、男の腕の中で微かにもがいて、抵抗を試みる。けれどもう、ゲオルグにすれば恋人の可愛らしい身じろぎにしかみえないようだ。嬉しそうに微笑んで目を細める。

「心配いらない、私の可愛いマロゥ」

 男の手はとまらない。器用な指はすっかりボタンを外し終え、胸元のはだけた寝間着をするりと肩から落とした。

「……愛してるんだ」

 部屋を切り裂く稲妻に、少女の幼い裸体が白く浮かぶ。

 優しげに囁く愛の言葉は、しかし、彼女への呪詛のようにも聞こえた。


 お父様は優しい。

 本当は、お父様は、優しい方だ。

 だから……

 だから、私が――――――


 闇に映える肌の白に、誘われるように胸元に唇を落とす。

 肉付きの薄い背をあやすように撫でながら、ゆるゆると膝の間に手を差し込んで、嫌がる細い身体を開かせた。逃げようとする細い腰を抱き込んで、恐怖に打ち震える、柔らかい内股を撫で上げる。

「や……めて、お父様……やめて……やめて……」

 恐怖に息も絶え絶えの少女が発する、か細い懇願が聞き入れられることは無い。

「可愛いよ。やっぱり君は天使のようだ」

 誰かに触れられることがあるなんて思ってもみなかった場所を、次々に男の手が辿っていく。

 我が身に何が起きようとしているのか、父が何を考えてこんな仕打ちをするのか。少女にはまるで何も分からない。ただ、胃に重い泥を流し込まれているような不快感と恐怖に、全身が震えるのを止められなかった。

 幼い肌は、経験したことのない愛撫にただ怯えていた。手が、舌が、吐息が、少女の身体を犯し、一方的に貪る。男が彼女に与えたものは、恐怖と痛みと羞恥と――それから、圧倒的に重い、愛そのもの。

「んっ……あ……」

 性愛の快楽とはほど遠い。けれど見知らぬ感覚を恐れ、零れ出る声は愛しく、狂った男を安堵させた。

 これが唯一、正しいやり方なのだと思った。

 開かせた足の間に口付けて、無理やりに舌を侵入させる。少女の固い肢体には、その行為はただ鋭い痛みとして刻まれるものだ。

「いや……いや……ぁああああ……」

 マーゴットは痛みに悲鳴をあげ、力の入らない身をよじって必死に逃げようとする。けれど、何度逃げても同じことである。クスリと笑った男にあっけなく押さえ込まれ、今度はもう動けない。

「力を抜いて。そうしたら辛くない」

 あくまで優しく囁き、口づけた場所に細い指を無理矢理滑り込ませる。ギシギシと軋みながらも、少女の体はそれを受け入れる。

「や……あぁっ……ああああっ!」

 少女の悲鳴が雷鳴に紛れ、潰れる。

 この深く暗い夜の底に、愛する少女をつなぎ止めよう。

 そうすればもう二度と、彼女を失わずにすむのだから。


「ゆる……して。許して……お父様……」

 朦朧とした意識の中で、少女は何度もそう繰り返していた。


 お父様は優しい。

 本当は、お父様は、優しい方だ。

 だから、私が――


 ――――悪いのは、全部私なんだ。


 少女には、長い間誰にも言えなかった不安がある。

 ずっとずっと、周囲の人間は皆そんなことを口にしたことは無いし、皆自分を大切にしてくれるから、口にすればきっと叱られる。

 だから、普段はほとんど忘れていた。

 けれど――時々、そう、時々、ほんの少しだけ、考えてしまうことがあるのだ。

 ――十二年前、消えるべきは母ではなくて、自分だったのではないだろうかと。


 雷鳴。

 抵抗する力はとっくに失い、寝台の真ん中で、少女はぼんやりと天井の模様を見つめていた。身を割られるような痛みも、不快な異物感も、慣れると耐えられないほどではなくなり、やり過ごせる。

 時折光る稲妻が、父の影を怪物のように大きく壁に映す。その姿はまるで、自分を食べているようだと思った。

 そして知ったのだ。


 死すべきはまさしく、自分であったのだと。

 だから……だからこれはきっと、自分に与えられた罰だ。






 ――深夜。


 全てが終わった後も、雨は止まなかった。

 青白い夜の闇と、時折光る遠雷が、ぐったりと横たわる少女の肢体をぼんやり浮かび上がらせている。

 男は無言のまま、優しく優しく、娘の頭を撫でた。

 痛みから開放された少女は、放心したように無反応で、裸の身体を投げ出したまま、虚空を見つめピクリとも動かない。

 その様はさながら糸の切れたからくり人形のようだ。ゲオルグは幸せそうに微笑んで、力の抜けた手を取り、その指に口づける。

 氷点下の気配が背後に現れたのは、その直後だった。

 ドアは開いていた。

 廊下に落ちた少女のケープを手に、その男が居た。

「――ゲオルグ・アヴァロン。あなたは……」

 感情の無い声が微かに震えている。


 首筋に吸い付く冷えた刃物の感覚。今更この男が怒ることもあるのだと、ゲオルグは意外に思った。そして、ため息交じりに目を伏せる。

「……ちょうど良かった。私を殺してくれ」

 言葉は本心だった。

 自分の心が理性を失ってしまったことを、ゲオルグは知っている。全部分かっていて実の娘を抱いたのだ、それも、無理矢理に。

 愛している。

 許されないことだとしても、もう戻れない。

 だとしたら――――

「………………」

 エリンは何も言わなかった。

 長い、長い沈黙。


「…………け、ません」

 掠れた声が、微かに響く。

「エリン、いけません」

 ――暗闇を裂くように、最初に言葉を発したのは、マーゴットだった。涸れた喉を震わせ、手を伸ばして。

「……おねがい。お父様に、ひどいことをしないで」

「……っ!」

 エリン・グレイはその言葉に弾かれるように、透明な短剣を降り下ろした。

 切っ先はゲオルグの喉元をかすめて、そのまま力任せに脇に置かれたクッションに沈み込む。――次の瞬間、裂けた布地の間から、勢いよく白い羽毛が舞い上がった。

 ゲオルグの目の前で、天使の羽をむしり取ったような、白く柔らかな羽根が、稲妻を受けて光りながら、純潔を失った少女の身体に降る。

 それは凄惨で、神々しいほどに美しい光景だった。

 男は娘に手を伸ばしかけたが、エリンはそれを許さない。脱力した身体を父から引き離すように抱き上げる。

「……お部屋にお連れします」

 憎むような、憐れむような目でゲオルグを見下ろして告げた。

「大公殿下には生きて頂く。……それが、この方の為だ」

 返事を待たずに、少女を連れて部屋を出て行く。

 細い足を伝って、鮮やかに赤い雫がひとつ、シーツに落ちた。

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