四 初恋
暖かい窓辺のソファで、父が仕事をする後ろ姿を、少女は大きな本を抱えたまま、ボンヤリと眺めていた。
エリンとジェラルドが側にいられない時は、彼女は大抵ゲオルグの執務室で時間を過ごしている。警備がしっかりしているから、というのが理由だった。
午後のお茶の時間までまだ少し間がある。父の仕事の邪魔をしてはいけないと思っていたので、それまで大人しく本を読んでいるつもりなのだが――先ほどから眠くて、どうにも活字に目が留まってくれない。
それで仕方なく、読むふりをしながら父の背中を眺めていた。
ゲオルグは姿勢良くデスクに座って、淡々と何かの書類仕事を続けている。窓からさす光が、ゆるいウエーブのかかった髪や、スッとしたラインの肩に落ちて、ポカポカと暖かそうに見える。
(お父様は眠くなったりはしないのかしら……)
父と打ち解けることができて、本当に嬉しかった。
けれど自分達は、きちんと親子らしくなれているだろうか。
あの事件以来、ゲオルグが自分をとても可愛がってくれることは分かっていたけれど、これがちゃんとした『親子』なのか、少女にはわからない。
長い間待っていてくれたゲオルグに、きちんと『娘』らしくして報いたいと思っているのだが……そもそも手本となるものを知らないので、どういう風に振る舞うのが娘らしいのか、判断がつかない。普段通りにしていても大丈夫なものなのだろうか。
ふいに、両手にかかっていた重みが無くなる。
「あら……?」
しっかり抱えていたはずの本が消えていた。少女が不思議そうに手のひらを見つめると、その向こうに少し呆れた様子の父の姿。いつの間にか席を立ってマーゴットの側まで来ていて、彼女が先程まで読んでいた本を手にしている。
「……お昼寝の時間かい?」
言われてはじめて、今自分が考えていたことが、夢の中での出来事だったことを知る。
「まぁ……わたくし、眠っていました?」
「大事そうに本を抱えたままね。器用だね、お前は」
ゲオルグは微笑む。
「だけど、長椅子で寝てしまって、風邪をひくといけない」
言いながら、手にした本をテーブルに置いて、娘を抱え上げる。自分で歩けますと、口にする暇も無く、少女の体はフワリと宙に浮いてしまった。
自分ではもう随分大きくなったと思うのに、父は私を小さな子供のように思っているのだろうか。優しくされるのは嬉しいけれど、いつもこんな調子なので、少し気恥ずかしいような気もする。
「……重たくありませんか?」
「重いねえ」
「まぁ、ひどいわ。では下ろしてくださいな」
「あはは、だめだめ」
ゲオルグはからかうように笑い、そのまま、執務室の隣の寝室へ彼女を運ぶ。小さな寝台が置かれたその部屋は、あまり使われていない休憩スペースらしい。
休んでいなさい、と、柔らかく横たえられたベッドの感覚は、睡魔と格闘していた少女にはあまりに甘く、優しい。大きな手に頭を撫でられる心地よさに、自然と瞼が閉じてしまう。
「……お父様は、本当に私を子供扱いなさるのね」
少しだけ不満そうなマーゴットに、ゲオルグは悪びれる様子もなく続ける。
「そうかい? 私はただ甘やかしているだけのつもりだけれど」
「……それは良くないと思いますわ?」
「だって、私の知っているお前はほんの小さな赤ん坊だったんだから。突然十二歳になったと言われても、なかなか難しいのさ」
「……そう、なんですの?」
「そうさ。お前もそうだろう? マロゥ」
「え……?」
きょとんとする娘に、父は嘆息する。
「私を喜ばせないといけないと思って、最近何かと無理をしているだろう?」
「そんなことは……」
「はは、寝不足の顔で強がるのはおよし」
そして、ゲオルグは笑った。
「夜会は少し控えさせよう。お前には夜が遅すぎる」
「それは……」
日を開けずに夜会が続いて、寝不足気味なのは本当だった。……父がそれに気付いているとは、思っていなかったけれど。
「夜会は……嫌いではありませんのよ?」
「そうだね。分かっているよ」
健気な娘に、感心するように頷いて、しかし、
「私は、お前が帰ってきてくれただけで充分なんだ。だから……本当は、他の貴族達の前にお前を出したくなんてないんだよ」
不安げに瞼を伏せる。先日の事件のことをよっぽど気にしているのだろう。気持ちは分かる、いや、嬉しいけれど、拗ねた子供のような仕草に、少女は少し可笑しくなった。
「……随分子供っぽいことを仰るのね、お父様」
大人ぶってそう言うと、マーゴットを撫でていた指が、彼女の柔らかい髪にスルリと忍び込んで、その金色をゆっくりと梳く。そして、男はすくい取った髪に口づけ、頬を寄せる。
「そうだよ……私はもともと我が儘なんだよ。お前を誰にも渡したくない」
暖かい陽光が、とろけるような日だまりを作る春の午後。ゲオルグはしみじみと幸せそうにも、また、不安げにも見えた。
「どこにも……もう、どこにも行かないで欲しいんだ」
ベッドに広がっ長い髪に顔をうずめたまま、芝居がかった調子で言う。冗談めかしてはいたけれど、なんだか危なっかしいように思われて、少女は少し心配になってしまう。
「おかしなことを……私はもうどこへも行きませんのに」
「本当かい?」
「本当ですわ……お父様」
男の頭にそっと腕を回して、あやすように優しく呟く。
その様は親子というより、どちらかというと恋人同士のようだったのだけれど――少なくともマーゴットは、柔らかな午後の眠りに落ちる途中にそんなことには考え及ばず、ただただ、愛される幸せな気持ちのまま、明るい闇の中へと沈んでいった。
――そして少女は、夢を見た。
気持ちの良い午睡だったけれど、夢の内容はあまり素敵なものではなかった。
それは、どこかの夜会に出席する夢だ。
ロディスにまた会ったのだけれど、何故かどうしても名前が思い出せなくて、挨拶ができない夢。
よっぽど昨日のことが気にかかっているのだろうか。
何度も何度も繰り返し、名前が言えない場面を繰り返していた。
「ん……」
目が覚めて、全部夢だとわかったのに、まだ嫌な感覚が心にわだかまっていた。招待客の名前が分からないなんて、二度とあってはならないという焦りと……それから――
「どうかしたのかい?」
「お、とう、さま……?」
ゲオルグはベッドに腰掛けて、どうやら少女がさっき抱えたまま眠っていた本を読んでいたらしい。少し心配そうな顔でこちらを見ていた。
あれからどのくらい時間が経ったのかは分からないが、まだ外は明るい。
「……何だか顔色が良くないな。具合でも悪いのかい?」
「いいえ、そうではないのです。少し……嫌な夢を見ただけですわ」
「夢? どんなだい?」
男はますます心配そうに、マーゴットの顔を覗き込んだ。
「……お話しすると、あまり大したことでもないのかもしれませんけれど……」
マーゴットはゆっくりと瞬きをして、夢の内容を思い出しながら話す。
「……夜会のお客様の、お名前を忘れてしまう夢です」
それを聞いて、娘が気にしていることが思い当たったのだろう。ゲオルグは苦笑した。
「名前? ああ……昨日のことを気にしているのかな」
「そうかもしれません」
「……確か、カスタニエ公のご子息だったね」
「ロディス・カスタニエ様ですわ」
マーゴットは悲しそうに目を細める。
「今はちゃんとお名前を覚えているのに……夢の中では、何度も何度も、詰まってしまって……」
「それは困ったね」
優しく言った父に、少女は少し、甘えるような目を向けた。
「……ねえ、お父様、ロディス様は次の夜会にいらっしゃるかしら?」
眠っていたせいだろう、声がかすれる。ゲオルグの表情に、僅かに影が差した。
「……どうしてだい?」
夢のことで頭がいっぱいの少女は、少しも気が付かない様子で口を開く。
「昨日のお詫びもきちんと申し上げられなかったし……それに……」
「彼のことが気になる?」
ゲオルグはちょっと困ったような顔で、少女の言葉を遮った。
「え?」
そして、そう訊ねられて、マーゴットはやっと気がつく。
――ああ、そうだ。私は昨夜のあの人に、また会いたいのだ。
昨夜のことを思い出すと、頭がぼうっとなって落ち着かない。ジェラルドに命を奪われかけたというのに少しも怯まなくて、それどころか秘密を守ると言ってくれた。あの、どことなく挑戦的で、自信に満ちた瞳が焼きついて離れない。
「マーゴット……?」
心配そうなゲオルグに、少女は口ごもる。
昨夜のジェラルドとのことを、父が伝え聞いているのかどうかは知らなかった。だけど――
「……ええ。気になります。年の近い方って初めてお会いしましたし。またお会いしたいわ」
隠し事をするのもおかしいと思い直し、正直な気持ちを口にした。
昨日のことは、エリンも見守ると納得してくれたのだし、今更気にしても仕方がないことだ。
「へぇ……」
一瞬不満そうに目を細めたゲオルグだったが、すぐににこりと笑って娘の頭を撫で、それから、お茶の時間にしようかと言って立ち上がった。
夜――――
乾ききらない髪を夜気に晒して、バルコニーからぼんやりと空を眺めていた。
昨夜と同じ、明るい月が高く上っている。
皇女の部屋のバルコニーからは、遠く城下が見下ろせる。巨大な竜が丸くなって眠っているかのような、暗い闇の塊がレマン湖。そしてその周囲を飾るように、ジュネーヴの街の光が控えめに瞬いていた。
「はぁ……」
知らず、ため息が出る。
次の夜会の予定はいつだろう。
「………………」
次に会えたときも、昨夜のように笑ってくれるだろうか。
私に会いたかったと言ってくれた、あの言葉はどういう意味なのだろう。言葉通りの意味? 聞いてみたい。ゆっくり話す機会が持てればいいのだけど――
次から次から、答えのない問いが浮かんでは消える。胸の奥に、得体の知れない熱が凝っているみたいで、なんだか恐ろしい。
「……ねぇ、エリン」
ひとりきりのバルコニーで、遠い湖に投げるようにそう口にした。
あてもなくその名を呼んだわけではない。
「――何か悩み事でも? 姫」
夜の空気を微かに震わせて、エリンの声が届く。
振り返ると、いつの間にか隣室のバルコニーに彼は佇んでいた。昔からそうだ。こんな風に一人で外にいるとき、彼は必ず声の届く場所にいる。姿は見えないのに、呼べば魔法のように現れるので、小さい頃には、エリンはきっと魔法使いに違いないと信じていたものだ。
「……ロディス様は、次の夜会にいらっしゃるかしら」
「カスタニエ公爵の令息を、気にかけていらっしゃるのですね」
すがるような目を向ける少女に、エリンは静かに問いかけた。
「彼に、会いたいのですか?」
父と同じ問いに少し怯む。けれど、静かにそう言った彼の声音は優しかったので、素直に思ったことを口にした。
「……ええ、お会いしたいわ」
「…………そうですか」
言って、エリンは少し微笑んだ。
「招待客の管理をしているのはクヴェンです。姫から、それとなく頼んでみればいいのです」
それは彼にしては珍しく大胆な提案のように思われた。
「まぁ……そんなこと、うまくいくかしら」
「姫が望まれるなら、造作も無いでしょう」
目を丸くするマーゴットだったが、エリンは自信ありげだ。
「では、また会える?」
「もちろん」
「でも……お会いできたら、何をお話すれば良いのかしら……エリンは、ロディス様がおいくつでいらっしゃるか、知っている?」
「…………確か、今年で十九になるはずです」
少し考えて、エリンは言った。やはり彼は、ロディスのことを知っているのだ。
「……わたくしより、七つも上なのね」
他人の年齢というのは、外見からはなかなか分からないものだ。年上だろうとは思っていたけれど、もう少しくらいは近いかと思っていた。七歳も上だなんて聞かされると、少しショックな気がする。そんなに離れていては、ロディスからみれば自分なんてほんの子供にしか見えないだろう。
「……では、ロディス様はわたくしなどと話をしても、面白くはないかもしれないわね」
落胆を隠せずに呟いた。
「そのようなことを姫が心配する必要はありません」
「そうかしら?」
「そうです」
「だけど……」
この城に来る前のマーゴットだったら、エリンの言葉なら、何でも素直に信じられた。
けれど、今は少し違う。少女自身、理由は分からなかったけれど、以前より少しだけ悲観的になったような気がしていた。アヴァロンに戻って、多くの人に会って、短い間ではあるけれど、以前とは比べ物にならないくらい、いろいろな経験をしたせいかもしれない。
「ロディスは、魅力的でしたか?」
「えっ?」
唐突にそう言った声が近い。エリンはいつの間にかマーゴットの隣にいた。
手すりに背を預けるような体勢で、長い金髪を風にそよがせて、声は優しいが、こちらを見る瞳は相変わらず感情が読み取りにくい。
「……どうして?」
「恋をされたのかと」
当たり前のように言われた言葉があまりに意外で、なのに、言葉の意味について自覚すると、目眩のような、不可解な感覚に襲われる。
恋? あの青年に? 私が?
――――わからない!
「こ……そ、そんなことは、ありません!」
小さな箱庭で育てられた少女は、恋をまだ知らない。悲鳴のような情けない声で抗議すると、エリンは少し口元を緩めて、跪いた。
「姫はお心のままに過ごされて良いのです」
そして小さな主人を仰ぐ。
「私が、何があろうともあなたを守りましょう」
エリンは、少女の身に危険が及ぶこと以外は、ほとんどどんなことでも受け入れてくれる。彼が良いと言ってくれるかどうかが、マーゴットにとって、人生の指針になってきたといっていい。エリンが良いと言うなら、良いのだ。
「エリン……」
ロディスのこともそうなのだ、と思うと、胸の奥にわだかまっていた不穏な熱がふわりとほどけていくような気がした。
「ロディスは長くエウロの外で暮らしていた子です。姫の知らないものをたくさん知っているでしょう。話して御覧なさい」
静かにエリンは語り、少女の戸惑いに少しずつ形を与えていく。
「良いのですよ。あなたは、人を好きになっても」
強張っていた何かがするりと溶けて、少女は知らず、膝をついたエリンの首に思い切り抱きついていた。
「本当に、本当に、わたくしはあの方と仲良くなれるかしら?」
思うままの全部を、素直にぶつける。優しい言葉が欲しい。安心させてほしい。小さい頃のように。
「大丈夫です。私がお育てした姫は、賢くて素直な、可愛い方だ」
「……買いかぶりすぎです」
耳元で囁く、熱に浮かされたような甘い声。エリンは眩しそうに目を細め、微笑んだ。
「姫はもう少し自信を持たれるべきだ。あなたは、太陽として生まれてきたのだから」
この人は私に甘い。
自分がそんなに美しくも賢くもないことは、自分が一番よく知っていることだ。 けれど……今はその言葉を信じていたいと思った。
次の夜会か、その次の夜会か。彼にまた会えればいい。
恋はまだ分からない。けれど、話をして、友達になれたら……それはきっと、とても、素晴らしいことだと、マーゴットは思った。
ホールを満たすざわめきが、今夜は一段と明るいもののように感じられる。少女は、もう随分先ほどからそわそわと落ち着かない気持ちを必死に抑えて、大人しい微笑みを作り続けていた。
ゲオルグの宣言どおり、その後は夜会の回数は少し減ったが、彼女の希望は、思ったよりずっと速やかに実現されることになった。
今夜は、ロディスを招待したのだ。クヴェンに、先日の非礼を改めて詫びたいのだとストレートに頼んでみたところ、すんなりと受け入れてくれたのである。
隣に立つジェラルドの冷たい手を握る、マーゴットの指は熱く汗ばんでいる。気が急いているのが伝わってしまうかもしれない。
彼が来たら、まずどんな話をしようか。間をおかず招待してしまって迷惑ではなかったろうか、と……いろいろなことが脳裏をよぎって、他の客への挨拶の途中で妙なことを口走ってしまわないかしらと、自分でもハラハラする。
「具合でも悪いのかい?」
「えっ?」
父が隣に立っていることにも気づいていなかった。
「青い顔をして。少し奥で休みなさい」
娘の様子がおかしいので、ゲオルグは心配顔だ。
「平気ですわ。具合は別に……」
「駄目だよ、マロゥ。こちらに」
確かに具合は悪くないのだけれど、何となく理由は説明しづらい。父に手を引かれて、控えの部屋へ連れて行かれそうになった時、入り口に待ち人が見えた。
「……!」
背筋の伸びた細身の身体に、ひときわ目立つ灰銀の髪。後で知ったことだが、若く、美しく、血統も良いロディスは貴族達、とりわけ女達の間ではちょっとした有名人らしい。すぐに何人か他の客に囲まれてしまう。
本当は少女もすぐに駆け寄ってしまいたかったけれど、そんなことをするわけにもいかず……ゲオルグに促されるまま、入れ違いで下がらされてしまった。
「お前はしばらくここで休んでおいで。外のことは私が見ているから」
「お父様、わたくし具合なんて悪くないのよ」
「顔色が悪い。お願いだよ、無理しないでおくれ」
そう、懇願するような目で言う。大げさだなとは思ったけれど、何を言っても聞き入れてもらえそうにないような様子だったので、仕方なくソファに納まって、はあと残念そうに息をついた。それを見て安心したのか、くれぐれも無理しないようにと念を押して、ゲオルグは部屋を出て行く。
部屋には少女とジェラルドが取り残され……マーゴットはもう一度、ため息をついた。
「………………」
外から聞こえる歓談の声に耳を済ませる。
いつもどおりの浮ついたざわめきに、普段なら改めて興味を惹かれたりはしないのだが、この壁の向こうに彼がいると思うと、もどかしいのと、嬉しいのとで、頭がぐらぐらしてしまう。けれど、ゲオルグの言いつけを無視するわけにもいかないので、少しだけ間を置いて、それから戻ろうと思って――マーゴットは、恨めしそうに時計を睨んだ。
ホールに戻るタイミングを悩みつつ、ジリジリと時間が過ぎる。
五分……十分……十五分……
ああ、もう、そろそろ戻っても咎められないだろうか。
そんな時、苛立つマーゴットはうらはらに、じっと人形のように動かなかったジェラルドが、周囲に人が居ないからだろう、珍しく自分から口を開いた。
「……殿下。こい、とは、どのようなものですか?」
「え?」
弟の口から出た言葉の音と意味がつながらなくて、少女は首をかしげて彼の方を見る。今日も可愛らしい格好のジェラルドは、真面目な顔でこちらを見て言う。
「先生が仰っていました。姫はこいをしているのだと」
「ええ……っ!?」
ジェラルドが繰り返した言葉の意味がやっと意味を伴って届く。思わず、素っ頓狂な声を上げてしまった。
(エリンったら、ジェラルドにまでそんなことを)
「ち、違う……違うわ、ジェラルド」
そして、なぜだか恥ずかしくなって必死に否定した。
「違う? こい、ではないのですか?」
ジェラルドは、どうやら恋という言葉の意味すること自体、理解していないらしい。不思議そうに首をかしげている。
「一度お会いしただけの方よ、そんな……」
簡単に恋なんてするわけがない。
続けようとしたけれど、言葉が出なかった。
知らないのだ。恋なんてしたことがない。
この気持ちに、何という名があるのかなんて、分かるはずがない。
「あ……」
ジェラルドが少し驚いたようにマーゴットから視線を外す。弟が目をやった方を見て、少女も思わず声をあげた。
「あ……っ!」
バルコニーに佇む後姿がひとつ。
それは、紛れも無くロディス・カスタニエその人だったのだ。
心臓が跳ね上がる。
姿を見かけただけだというのに、ただ会って話をしたいだけのはずなのに、どうしてこんなに胸が高鳴ってしてしまうのだろう。
「殿下、行かれてはどうですか」
少年は神妙な顔で口をひらく。
「殿下のご希望を叶えるお手伝いをしなさいと、先生が……」
そして、そう言って無邪気に笑ったのだった。
――声をかけて、彼が振り返った時のちょっと驚いた表情を、彼女は一生忘れることはないだろうと思った。
我ながら大げさなことだ、と、心のどこかで滑稽にも思う。けれど彼女にとってそれは、はじめての経験であり、えもいわれぬ甘美な瞬間だった。
「……姫?」
「え……と、あのぅ……ご、御機嫌よう、ロディス様」
突然現れてぎこちなく挨拶する少女に、虚を突かれた様子のロディスだったが、すぐに、気を取り直したように向き直る。
「ホールにお見えでないと思ったら、こんなところに隠れていらっしゃったのですね」
言って、にっこりと笑った笑顔に、マーゴットは心の底から安堵する。
「今日は、あの子は?」
ロディスは少女に二、三歩歩み寄って言った。不意に近くなった声に慌てながらも、マーゴットは声を潜めて控えの間を指す。
「……ジェラルドなら、あちらに」
指し示した部屋の窓辺に、佇むドレス姿の少年を見つけると、ロディスは妙に嬉しそうにひらひらと手をふる。ジェラルドはばつの悪そうな顔で頭を下げていた。彼がこの間のことなんて忘れてしまったかのようにニコニコしているのが、少女にはとても不思議に思える。
「あの……ジェラルドのこと、怒っていらっしゃらないの?」
そう、恐る恐る訊ねてみた。
「怒る? まさか。そんな筋合いはありませんよ。剣はあなたを守ろうとしただけなのだから。小さいのに、立派なものだと驚きました」
ロディスは当然のことのように言うけれど、マーゴットは納得がいかない。
「ですが……あの子の早とちりのせいで、ロディス様は怪我をされて……」
「ストップ」
「?」
きょとんとする少女に、青年は笑う。
「今夜は、楽しい話をしましょう。せっかくお会いできたのだし」
他人の笑顔が、こんなに自分を嬉しい気持ちにしてくれるなんて、今まで知らなかった。年上のこの人が、子供の私なんかと話すのを楽しまれるはずがないなんて、悲観的になっていたのが嘘のようだ。話すうち、そんなことは少しも気にならなくなって、まるで……そう、それは、夢でも見ているような時間だった。
――二人で話をしていた時間は、随分長い時間のようにも、あっという間の短い時間のようにも思われる。
エリンが言ったとおり、彼の話は何もかもが新鮮で、面白かった。
彼は幼いころに他の自治区の学校に入り、同年代の大勢の学友と長い間、寄宿舎で家族のように共に暮らしたのだという。少女には、とても想像がつかない世界だ。
「まあ、では、十二年もトッカルにいらっしゃったのね」
「ええ、ついこの間帰ってきたばかりで。だから、なかなかこちらの生活に慣れなくて、困っています」
あまり困っているようには思えない調子で、ロディスは微笑む。マーゴットは感激していた。
「十二年だなんて、私と同じです。すごいわ、ふふふ」
トッカル自治区といえば、エウロ東部に隣接する、広大な隣の自治区だ。地図でみたことがあるだけで、どんなところかは知らなかった。
「姫は他の自治区へ行かれたことは無い?」
「はい。それどころか、以前は屋敷の敷地から出たことすらほとんど無くって……」
「なるほど…」
ロディスが何を話してもマーゴットは、珍しそうに、嬉しそうに感心する。
「でも、これからはたくさんご旅行の機会もありますよ、きっと」
「そうかしら。だといいけれど……」
「遠出しなくても、これからの季節は、レマン湖のほとりにピクニックに出るだけでも気持ちが良いですよ」
「まぁ……それはとっても素敵だわ」
ロディスの言葉に、マーゴットは夢をみるようにほうと息をつく。
「湖へは一度行ってみたいと思っていましたの。きっと楽しいのでしょうね」
レマン湖の側はこれまで何度か車で通ったことがあったけれど、通り過ぎるだけで、車から降りてゆっくり眺める機会は無かった。
うっとりと目を細める少女に、ロディスは思いついたように口を開いた。
「ああ、そういえば、湖畔にアヴァロン家の離宮があったでしょう。大公殿下におねだりすれば良いのですよ」
「まぁ……」
少女は目を丸くする。アヴァロン家にはこの城の他にもいくつか離宮や別邸があるとは聞いていたが、そんなのは初耳だ。ぜひ行ってみたい。
「うふふ、さっそくお父様にお願いしてみようかしら」
ああ、本当ならもっと皇女らしく振舞わなければいけないのに。とても無理だ。夜のバルコニーで彼と並んで暗い庭を眺めながら、少女の心はすでに晴天の湖畔へと飛んでいる。父と、エリンと、ジェラルドと……できれば、彼も一緒がいいな、なんて、都合の良いことを思うけれど、それはもちろん、口にはできない。
「お父様、お願いしたらなんておっしゃるかしら……」
「――私に何をお願いするって?」
唐突に、父の声が二人の間に滑り込んできた。
マーゴットが驚いて振り返ると、少し呆れた様子の父がこちらを見ている。
「いけない子だ。休んでいなさいと言ったのに」
ゲオルグは不機嫌を隠さない。マーゴットは慌てて、ロディスを庇うように前に出た。
「具合なんて悪くありませんわ。はじめからそう申しておりますのに……」
「………………」
むきになる娘に、ますます怪訝な表情で少女とロディス様を見つめる。自分が叱られるのは仕方ないが、ロディスを悪く思われることは嫌だと、マーゴットは思う。突っぱねてしまったけれど、素直に謝った方が良かったのだろうか。けれど、まだ彼と話をしていたい。
まごつく少女の肩に、ロディスの手がそっと置かれる。驚いて見上げると、ロディスは端正な微笑みを崩さずに、
「……大公殿下、申し訳ありません。僕が話に付き合わせてしまったのです」
謝罪の言葉を、涼しい顔で口にした。
「え……?」
罪を被るような発言に、少女は混乱する。違うのに。部屋を抜け出してまで話しかけたのはこちらの方で――
「……違うわお父様、わたくしがお声をおかけしたのです」
慌てて言い直す。
「どうしてもロディス様ともう一度お話がしたかったの。だから、お姿をお見かけして、ついお部屋を出てしまって……」
必死で青年を弁護する娘を、ゲオルグは難しい顔のまま、黙って見つめる。
「ごめんなさい、お父様。でもね、本当にわたくし、大丈夫なのよ」
「………………」
ゲオルグは黙り込んだまましばらく考え込んでいたが、やがて、フッと表情を和らげた。
「お前がそう言うなら……私は構わないのだけれどね」
取って付けたような、どことなく不自然な譲歩だったけれど、マーゴットは気付かずに胸をなで下ろした。
「ところで、何を楽しそうに話していたのかな。私も聞かせてもらいたいな」
ピリピリした笑顔で、男はロディスに言う。ロディスは気付かないふりをして、にこやかに答えた。
「姫がレマン湖へ行かれたことが無いと仰ったので、離宮に遊びに行かれてはどうかとお話していたのです」
そうだ。離宮だ。少女は思い出してパッと表情を明るくする。
「そうなの、ピクニックへ行ってみたいわ、お父様」
ロディスの言葉に便乗して甘えた調子でお願いしてみると、ゲオルグは苦笑する。
「ああ……ヴヴェイの離宮だね」
てっきり、駄目だと言われるかと思ったけれど、返ってきた言葉は意外なものだった。
「確かに、あそこからなら湖は近いし、今からなら
「ナルシス?」
首をかしげた少女に、ゲオルグは目を細めて続けた。
「星のような形で、雪のように白い、可憐な花だよ。この季節は……高原にうっすら雪が積もったかのように、一面に咲く」
「フリブールの『五月の雪』といえば、随分有名ですね」
ロディスが言った。
「卿は見たことが?」
口を挟まれて不機嫌そうなゲオルグだったが、ロディスは平気な顔をして微笑んでみせる。
「……あるはずなのですが、何しろ物心着く前に訪れたのが最後ですので……少しも覚えていないんです」
「そうか……」
青年の言葉に、ゲオルグはどことなく含みのある相づちを打った。
「素敵ですわね、お父様、行ってみたいわ」
うっとりと言った少女の、美しく結い上げられた髪を、ゲオルグは崩さないようにそっと撫でる。
「そうだねぇ……この三ヶ月近く、お前もずっと忙しかったものな。一度ゆっくり休む時間をとるのも、いいのかもしれない」
「まあ、本当? お父様」
「もちろんだとも」
少女の目には、父はすっかり機嫌を直してくれたように見えた。ニコニコ笑って寒くならないうちにホールに戻っておいでと言い残すと、二人を置いて中へ戻っていったからだ。
「……嬉しいわ、とっても楽しみ。綺麗なところなのかしら」
父の許しが得られた安心感もあいまって、バルコニーの手すりに捕まって、少女はのびのびと言う。ロディスも、改めてマーゴットの隣に立った。
「高原を埋め尽くす白い水仙の花が、まるで雪のようだと聞いています。湖もアルプスも近くですし、きっと美しい場所だと思いますよ」
「まぁ……素敵」
彼とこんな風に話せることが、信じられないくらい嬉しくて、マーゴットはすっかり浮かれていた。
「これでロディス様もいらっしゃれば、もっと素敵なのに」
言ってしまってから、浮き足立ってうっかり慎みのないことを口走ったと少女は後悔したが、ロディスは、僅かに驚いたような目を向け――それから、空を見上げて考え込んで、呟いた。
「……ヴヴェイといえば、うちも別邸があります」
どことなく他人事のように言ってから、少女を見て微笑む。
「そうだなあ、僕も一度行ってみようかな」
「本当に!?」
「ふふ、さすがに姫にお会いできるかどうかは、わかりませんけれど」
「そう……ですわよね」
「おや、残念に思ってくださる?」
「それは……」
優しい声に、心が震える。
部屋からこぼれる照明に縁取られた、繊細なラインの横顔。二人で並んでお喋りをする、春の夜のぬるい空気。今なら甘えたことを言っても許してもらえるような気がして、知らず知らず、口を開いていた。
「……それは、残念ですわ」
桃色の頬をつやつやさせて、恥ずかしそうに目を伏せる少女に、青年は端正な瞳を向ける。
「ふふ、よっぽど退屈されているのかな。僕などにそんなに目をかけてくださるなんて」
言葉と視線に含まれる、少しだけの、試すような色あい。けれど、それに気付くには少女はまだ幼すぎる。
「そ……いう、わけではなくて……わたくし……」
困ったように赤くなって俯いてしまうので、ロディスは苦笑して言い直した。
「うそうそ、僕もですよ」
「え?」
「また会えると嬉しい」
青年は笑った。
まだ出会ったばかり。顔を合わせたことすら今夜で二度目の、遠い人のはずなのに。彼の笑顔は容易く少女の心に滑り込んでくる。
「………………」
私もです、と、呟くのがやっとだった。
それも、情けないくらい小さな声で。
再会の約束を交わせるほどの仲ではなかったけれど、その言葉は充分過ぎるほどの幸せを、その夜のマーゴットにくれたのだった。
夜会が終わっても、微熱が下がらない時のような、浮ついた気持ちに翻弄されていた。あの後彼とどんな会話を交わして、どんな風に別れたのか、実はあんまり覚えていない。
「ねぇ、ジェラルド。わたくし、変じゃなかった?」
「はい?」
浴室に、少年の素っ頓狂な声が響く。
少女はぶくぶくと鼻まで湯に浸かって、のんきにこちらを見る弟を恨めしげに睨んだ。ジェラルドは慌てて首を振る。
「殿下は変ではありません」
「あねうえ」
「……姉上は、変ではありません」
ざばざばと流れ落ちる湯を手のひらに受けながら、深くため息をつく。湯気の向こうで、ジェラルドは心配そうにこちらを見ているようだ。
「そうだといいのだけれど……ねぇ、わたくし、どうしてしまったのかしら」
「入浴されているのだと思いますが」
「そういうことではなくて!」
「では……ええと……」
ジェラルドが困った顔で俯いてしまったので、少女は幼い弟に無理な問いかけをしてしまったのだと気づく。
「ああ……ごめんなさい。ジェラルド、あなたに八つ当たりをしてはいけないわね。むしろ、お礼を言わなければ」
「姉上……?」
申し訳なさそうに言い直す少女に、少年は首をかしげる。
「あなたのおかげで今夜はロディス様とゆっくりお話が出来たんですもの」
「ああ……こいの話ですか」
「……あなたそれ、ちゃんと意味が分かって言っている?」
「わかりません。あ、えと……すみません。先生がそう仰っただけなので」
「全く……」
「だけど、姉上を幸せにするものだと、先生が」
少年は大きな目をあまり動かさずに、真顔で言った。
「だから、たくさんこいをされると良いと思います」
弟の気持ちは嬉しいけれど、無茶なことを言う。少女は苦笑した。
「沢山って……もう、ジェラルド、恋は一度にたくさんするものではなくてよ」
「ひとつでいいものなのですか?」
「それは……」
まっすぐそんなことを言われると、少し照れる。情けない顔をしているのを弟に見られるのが嫌で、少女はバスタブで身を縮こめる。
「……そうです。たぶん」
お湯のせいだけでなく、頭がクラクラする。ああ、エリンの言う通りなんだ、と、その時ようやく思った。
私はたぶん、恋をしたのだ。
恋なんてまだ……いや、まだまだ、遠いものだと思っていた。
もっと大人になってからか、そもそも、自分にそんなことが出来るとは思っていなかったのかもしれない。恋愛というのは、自分のように、役割の定められた者には縁遠い――自由な人の、特権だと思っていたから。
自分の立場に、自由な恋愛や結婚が許されないということくらいは、少女だって、分かっているのだ。
けれど……ああ、なんてことだろう。
恋をするのは、少しも難しいことではなかった。特別なことのように思っていたのが馬鹿らしいくらい。
難しいどころか、呼吸をするように自然な、当たり前のことで――それなのに、あの人のことを考えるだけで、息苦しいほどに幸せな気持ちになる。
不思議だわ。
私は……
「ああ、わたくし、どうしたら……」
胸の内で暴れる、初めての恋の喜びに翻弄されて、少女は喘いだ。
「姉上?」
「ジェラルド、わたくし、嬉しいの」
「それは……良いことです」
「だけど、苦しいわ」
「……?」
弟の澄んだ瞳を見つめて、マーゴットは泣き出しそうな笑みを浮かべる。
「あなたもきっと、いつか分かるわ」
偉そうにそんなことを言って、少女はずっとずっと、先刻の彼の笑顔を思い返していた。あの微笑みが自分に向けられたものであることを思い出すだけで、この上なく誇らしく、幸せになる。だけど、同時になんともいえない切ない気持ちにもなった。
恋をするのは簡単だった。けれど、彼にも同じように思ってもらえるにはどうすれば良いのか、見当もつかないし、とても無理なんじゃないかという気がする。
第一、自分はずっと年下の子供で、世間知らずで、彼にとって魅力的な相手だとは思えない。
もしかしたらもう恋人がいるかもしれないし、私が皇女だから仕方なく相手をしてくださっただけなのかもしれない。
(――ああ、いやだわ)
そんなのはとても辛いし、そんなことを考える私は醜い。
また会えると嬉しいと言ってくれた言葉を、信じればいいではないか。
自分が会いたいと思うのと同じくらい、あの人もそう思ってくれればいい。
そんな世界はどんなに素敵だろう。
のぼせ上がった頭で、そんなことを考え続けていた。
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