三 出会い

 


「まあ、まあ、何をなさるの!」

突然天から降ってきた色とりどりの花に、少女は驚いて声を上げた。

「あはははは、花まみれだね、マロゥ。可愛いなあ、春の妖精みたいだよ」

 楽しげにそう言って、ゲオルグはひょいと娘を抱え上げる。摘んできたというより、ちぎってきただけのように見える春の花たちが、少女のドレスからばらばらと芝生の上にこぼれ落ちた。

「スミレだわ、お父様。こんなにたくさん、摘んでいらしたの?」

「ああ、向こうに沢山咲いているよ、お前も摘みに行くかい?」

「あら、駄目ですわよ。お父様がもうこんなにたくさん摘んでしまったのだから、また今度」

「そうかい……?」

「このお花で冠を作ります。下ろしてくださいな、お父様」

「それはそれは。かしこまりました、お姫さま」

 誕生日の事件以来、ゲオルグは変わった。

 忙しい公務の合間をぬって、食事は必ず娘と一緒にとるようになり、また、見違えるほどマーゴットに優しく接するようになった。

 父が自分に笑顔を向けてくれるようになったことを、何よりも、少女は喜んだ。誕生日の事件は、結果的に、彼ら親子の関係にとって、良い方向に働いたといえる。


 太陽の眩しい午後、ガーデンテーブルに用意された紅茶が冷めてしまうのも構わずに、親子は庭で遊んでいた。

「もう、お父様ったら、お花の軸が短いのが多いわ!」

「短いと、何か悪いのかい?」

「それは悪いわ、だってほら、こんな風になって、花冠に編み込めないんだもの」

「おや、本当だ。私はこんな風に足が短い方が、お前の頭を飾った時に素敵だと思ったのだけどねぇ。ほら……」

 花を編む少女の隣で、ゲオルグは彼女の頭の上に花をひょいひょいと載せていく。

「……これでは頭を動かせません」

 長い髪にいくつも引っかった花を落とさないよう、マーゴットはぎこちなく男の方を向いて、呆れたように微笑んだ。

「ちゃんとこのように、編んで輪にすれば、動いても平気なのですわよ?」

 言いながら慎重に立ち上がり、座っている父の頭にスミレの冠を捧げた。

「お前は頭が良いねえ」

 ゲオルグはいい加減な台詞を幸せそうに口にして、娘の柔らかい髪を撫でる。何か言いたい様子のマーゴットだったが、優しく触れられると嬉しいらしく、長いまつげを伏せて俯いた。

「前の屋敷にも、花畑はあったかい?」

「お屋敷の前は草ばっかりで、あまりお花は生えていませんでしたわ」

「そうかぁ。では、どうやってこの冠の作り方を?」

「時々、エリンがたくさんお花を持ってきてくれましたの」

「へぇ……彼が、そんなことを」

 ゲオルグは、意外そうに目を細める。

 娘が会話にエリンの名を出すことを、ゲオルグはあまり快くは思っていないようだったが、彼はそれを顔には出さなかったので、素直なマーゴットが気付くことは無かった。






 誕生日の事件によって白紙に戻されていた皇女の予定は、しかし、ひと月も経たないうちに突然再開された。帝室は対立勢力を恐れないという姿勢を見せたのだ。

 マーゴットに課せられたのは、自治区内で行われる様々な式典や各地の祭り、学校や孤児院などの施設訪問、他自治区との交流会議への臨席など……様々な行事へ飛び回る、またしても忙しい日々だった。

 もっとも、公務といっても彼女にできることといえば、連れていかれた先々で、ただにこやかに、行儀よくしていることくらいである。

 けれど、愛らしい少女が懸命に各地を回る姿は、マスコミでもこぞって報道され、人々の共感を呼んだ。人前で発言させる機会をほとんど設けなかったおかげで、見る者に凛として高貴な印象を与えたらしく、やがて母に並ぶ女帝へと成長することを期待する声も高まった。

 そして、そんな彼女の傍には、常に隣に立ち、付き従う少女の姿があった。皇女と同じ蜂蜜色の巻き毛をした、背格好の近い子供である。

 美しい衣装に身を包み、皇女の隣で、晴天の空の下では日傘を差しかけ、階段をのぼる時には小さな手を差し伸べる。幼い容姿に似合わない、まるで大人の侍女のような行き届いた甲斐甲斐しさで、見る者を感心させた。

 彼女は、皇女が訪問先の孤児院で出会い、城へ迎え養うことにした『友人』なのだと、公式に発表された少女である。

――美しい一対の人形のような二人の姿は、心の広い皇女と平民の娘の、身分を越えた美しくほほ笑ましい友情の光景として、特に印象的に伝えられていた。


「………………殿下」

「わかってる、わかっているわ」

 街道を走る車の中で、マーゴットは笑いを堪えながらそう言った。

「笑いすぎです。姉上。そんなにこの格好はおかしいでしょうか……?」

「うふふふ、ごめんなさい、ジェラルド。だって、あんまり似合っているものだから……」

 巻き毛の少女の正体は、彼女の弟であった。少女の姿をさせたのは、公務の間も皇女の傍を離れさせないためである。

 これでも少年は、小さな護衛なのだ。

「……先生、僕はその……いつまでこの格好を?」

「お前が声変りするまでは大丈夫ではないか?」

 顔色を変えずにそんなことを提案(だがジェラルドにとっては命令に近い)するエリンに、少年は恨めしそうな目を向ける。

「えええ……」

「ふふふふふ、それは面白いわね」

 けれど、堂々と弟を連れて歩けることを気に入っているらしいマーゴットは嬉しそうだ。

 十歳の少年は、かつらを被ってドレスを着れば、立派に少女に見えた。誰にも疑いようも無いほどに。彼にとっては少なからず羞恥心をあおるスカートの裾をひらひらさせて、困ったようにため息をつく様も、どこから見ても物憂げな少女のそれである。

「わたくし、妹もできたみたいで嬉しいわ」

「妹としてお傍にいるわけではありません」

「わかっています。守ってくれているのよね、感謝しています」

「はい……」

 ジェラルドはうなだれたが、マーゴットは上機嫌だった。先の事件のこともあり、彼女にとって人前に出ることは少なからず不安が伴う。エリンは公の場では身を隠してしまうので、弟が隣に居てくれることが心強く感じるのだ。

「……でも、ドレスは窮屈なので苦手です」

「そうかしら? ああ、でも、城につくまでの我慢よ」

「いや、今日はまだ終わりません、姫」

「そうなの? ……ああ、そういえば、今日は夜会でしたね」


「え……」

 その日は城で、彼女の帰還後、何度目かの夜会が催されることになっていた。




 二人の少女が手を取り合って登場すると、サロンは感嘆のざわめきに包まれる。美しく着飾った同年代の少女を連れた皇女の姿は、貴族達の間でも一風変わった趣向として大いに受けていた。

 平民だという触れ込みの少女が、見事に訓練された作法でもって深くお辞儀をすると、皇女も小さく微笑んで皆に礼をしてみせる。場内は面白いように沸いた。

 皆、お披露目の晩に暗殺者の手を逃れた皇女が、隠れることもせず今度はイメージ戦略に打って出てきたと、面白おかしく噂していた。

 貴族達は基本的に、常に暇を持て余している。噂話は彼らの主要な娯楽のひとつなのだ。特に、帝位争いといえばもっとも興味のある話題のひとつである。

 マーゴットは確かに第一位の帝位継承者であるけれど、先帝の実子であること以外に拠り所がなく、しかも、父である大公ゲオルグはそもそも、爵位を持たない資産家階級の出である。最終的には血統と力を持ち合わせたハミルトン公爵が優勢だろうと公言して憚らないような者すらいる。

 しかし、皇女の帰還後、アヴァロン家とマーゴットの堂々とした振るまいに感化される者も少なくなく――貴族達にとっては、帝室から目の離せない日々が続いていたのだ。

 とはいえ、狙われていることが明白となった皇女の警護をさらに用心深く行わなければならなくなったのも事実である。最初のように大広間を埋めるほどの大人数の舞踏会は行わず、ここしばらくは一度に招待する者を絞って、小規模な夜会が続けられていた。アヴァロン家としては、貴族達の動向を把握したいという意図もあるようで、入れ替わり立ち替わり、色々な者が招待されて城を訪れている。

 それは、そんな最中での出会いだった。


 習慣や作法を覚えるのは骨が折れたけれど、夜会というものは、慣れてしまえばいつも同じことの繰り返しだ。

 はじめは、あの舞踏会の日のようなことがまた起きるのではないかと不安を持っていたマーゴットだったが、幸い恐ろしい目に合うことは無く……数回も繰り返す頃には、すっかり夜会の雰囲気にも慣れていた。何より、ジェラルドがすぐ傍にいる。エリンの姿は見えないけれど、いつもどこかで見ていてくれているはずだ。

 だから、彼女はすっかり安心していた。


 代わる代わる、挨拶に来る客に応える。

 他愛のない内容の短い会話を交わす。

 マーゴットは招待客達の情報を事前に予習して仕入れているので、ひとりひとりの家や趣味に合った言葉をかける。大抵は和やかに会話が進み、それで、終わり。

 小さな夜会ではワルツを踊るようなこともないので、あとは大人達が談笑するのを、座ってただ見ていれば、やがて夜会は閉会を迎えるのだ。

 けれど、その日は珍しく、ちょっとしたハプニングがあった。挨拶に来たある客様の名前を、マーゴットがおぼえていなかったのだ。

 カスタニエ公爵セルジュ。エウロ北東部を治める大貴族であり、マーゴットの母アーシュラの従兄。しかし、その日アヴァロン城にやって来たのは、セルジュ本人ではなく、その息子であった。

「あの……申し訳ありません、わたくしったら……」

「いいえ、父が出不精なもので、お許し下さい」

 慌てる少女に、青年は気を悪くした様子もなく微笑んだ。

「ロディスです。ロディス・カスタニエ」

 彼は招待客の中では、ひときわ若く見える。銀糸のような美しい髪をした、見目麗しい青年だった。

「どうぞよろしく、姫殿下」

 混乱していたせいで、彼の美しい顔なんて目に入っていなかったらしいマーゴットだったが、しかし、彼の行動に驚き、まじまじとその整った顔を見た。

 ロディスは初対面で彼女に握手を求めてきたのだ。

 他の貴族達はそんなフランクな挨拶ではなくて、男女で作法の違う、もっと形式ばったお辞儀をする。マーゴットも当然、それに対する応対の仕方を教えられていた。だから、彼の行為に対してどのような対応で返すのが正解なのか分からなかったのだ。

「…………」

 しばし黙り込む少女だったが、やがて、どんな形であれ、挨拶を拒むのは失礼だと考えたのだろう。恐る恐る手を差し伸べた。

「よろしく……お願いします」

 細くて長い指が、皇女の小さな手に触れる。彼の笑顔はなんとなく、他の貴族とは違うものに見えた。


 夜会はいつも通り大いに盛り上がり、大人達は飽きもせずお喋りを楽しんでいる。酒を飲んで長話をする彼らの気持ちは、少女にはまだ分からない。耳をそばだててみても、美味しいワインがどうだとか、趣味の旅行がどうだとか、子供の成長がどうだとか……集まる顔ぶれが変わっても、話題はいつも同じようなものばかり。誰も彼も飽きないものなのだろうかと、不思議な感じがしてしまう。

 夜が深くなると、幼い少女はだんだんと眠くなってくる。まさか、皆の前であくびをするわけにはいかないマーゴットは、バルコニーに出てくるとゲオルグに告げると、弟を連れおもむろに席を立った。夜風に当たると、眠気が少し誤魔化されるからだ。

「ふわ……」

 暖かい部屋を抜け出し、客達から見えない所まで歩いて行って、手すりにもたれて大あくび。ずっと我慢していたのだから仕方がないのだ。清々しい空気を吸い込むと、少しだけ覚醒する。

 広いバルコニーに人影は無く、ザワザワと、風の音が聞こえてくる。

 見上げると、明るい月が高く昇っていた。

(今日はいつまで続くのかしら……)

 もう二十一時を過ぎているのに、皆眠くならないのだろうかと思いながらマーゴットはため息をついた。

 終わらない宴に少しだけうんざりしていたけれど、風の音はとても落ち着く。草原に囲まれていていつもこの音を聞いていた、岬の屋敷のことを思い出すから。

 ジェラルドは、エリンに何か言い含められているのか、姉から少し距離を保った場所でピタリと足を止め、彼女の側に寄ろうとはしなかった。話し相手が欲しかったのだけれど、こういう、他の者の目のあるところで、ジェラルドは会話に応じてくれない。今までもそうだった。だから、それはよく分かっていることだけど――それでも何となく残念に思いながら、マーゴットが暗い庭を眺めていると、ふいに、真横から声がした。

「夜会は退屈ですか?」

「……え?」

 人影はないと思っていたから、少女は驚いた。声のした方を見てみると、大きな柱の影に座り込むようにして、誰か居るようだ。すぐ近くだが、暗いせいで顔は見えない。しかし、

(この声は……)

 覚えがあったので、少女は声をかけた。

「……ロディス様? どうかされたのですか?」

 はじめ、しゃがみ込んでいる彼が、具合でも悪くしたのだと思ったらしい。心配そうに覗き込んだ皇女に、青年はクスクスと笑う。

「大丈夫です」

 涼しい夜風に凜と響く、なんだか心地の良い声だった。

「なら、良いのですけれど……」

「ご婦人方の相手に疲れたので、隠れているんですよ」

 もてるらしい青年は冗談めかしてそう言ったが、マーゴットは子供すぎて、彼の言葉の意味があまり理解出来ない。

「では、見つからないように声を潜めた方がよろしいかしら」

「ふふふ、それはいいな」

「ロディス様は、夜会はお嫌い?」

「嫌いです、なんて言ったら、家の者に叱られますね。でも、あまり得意ではないかなあ」

 話しやすい人だな、と、少女は思った。もう一度、先ほどの非礼を詫びておいた方が良いかもしれない。そう思って口を開こうとしたとき、影の中のロディスはひょいと立ち上がる。

 月光を受けた髪が、白く光って、揺れる。

「おかげであなたとお話しする機会があるなんて、ちょっとラッキーです」

 率直な物言いに、何となく心引かれる。ロディスは柱の影から手を伸ばして、悪戯っぽく言った。

「姫殿下、もう少しこっちにいらっしゃいませんか?」

「えっ?」

「内緒話でもいたしましょう」

 年上なのにいかにも子供っぽい言いようで、少し笑ってしまう。招待客の中では若い人だなと思ったけれど、一体何歳くらいなのだろうと、マーゴットは想像した。

「内緒話だなんて、それこそ叱られますわよ」

「大丈夫ですよ、ほら、こちらに」

 彼女はジェラルド以外に、年の近い人間と親しく接した経験が無い。だから、こんな風に堅苦しくなく、近い目線で話ができるのは嬉しかった。

 興味をひかれるまま、その手を取る。

 大人が二人で手を回して、届くか届かないかくらいの大きな円柱は、なるほど彼ら二人の姿くらい、簡単に隠してくれそうだ。


 少女は子供らしく笑って、柱の影に回りこむ。

 影の中だと思ったが、二歩くらい回ると今度は逆に明るくて、ロディスがニコニコと笑っているのがよく見えた。明るいのですね、と、言いかけた時――

「え……っ!?」

 何かが背後の、頭の上の方から落ちてきた、ような、気がした。

 マーゴットとロディスの間に強引に割って入ってきたそれは、そのまま彼を床に倒して馬乗りになり、そして……

 翻るフリル、オレンジ色のドレスの裾が目に入り――振り上げた小さな手には、月の光を受けた鋭利な刃が握られていた。

「っ!」

 虚を突かれた青年は何の抵抗できず、何が起きたのかも分からない様子だった。

 無言の少年が、まさに彼の喉元めがけてナイフを振り下ろそうとした時……

「やめて……ジェラルド!」

 皇女はつい、今は口にしてはいけない名前を呼んでしまった。

「えっ……?」

 驚きのこもった、ロディスの小さな声がバルコニーに響く。

「あ……あ……」

 マーゴットは喉の奥からせり出しそうになる悲鳴を、どうにかこらえる。

 風の音と、それから、中の人々が笑い合う声が、三人の沈黙を埋めていた。マーゴットの小さな叫び声は、お喋りを楽しむサロンの客達にまでは届かなかったようだ。振り下ろされた刃は、おそらくは、姉の声がギリギリ届いたということなのだろう。ロディスの首元を僅かにずれた、冷たい床に突き立てられていた。

(どうしよう……)

 声を出そうとしても、喉からもれるのは壊れた笛のような、かすれた音だけ。

 何もかも、決してやってはいけないことばかりだった。

「……――ジェラルド?」

 ロディスが呟いた声が妙に冷静に響いた。同時に、カラン、と、ジェラルドの手からナイフが落ちた音がする。

「あ……」

 何と言えば良いのか思いつけない。

「あの……」

 何か言い訳をしなければ。何とかこの場を取り繕わなければ。ああ、いや、まずはこの人に謝罪をすべきだ――頭が真っ白になってしまって、少女は、倒れたままの青年に駆け寄ることすら出来ずにいた。

 ジェラルドも同じなのか、ジッと固まったまま微動だにしない。ほんの数十秒の出来事のはずなのに、それよりずっとずっと、長い時間に感じられた。

 遠い談笑、夜風のにおい、そして――

「ええと……念のため伺いますが、姫、ジェラルドというのは、この子のことですか?」

 沈黙を破ったのは……妙に冷静な、ロディスの声だった。自分に馬乗りになったままのドレス姿の少年を見つめている。

「え……あ……あの……」

「随分、変わった名前の女の子だ。小さいのによく訓練されているみたいだし」

 その言葉からは、もうジェラルドが女の子ではないということにすっかり気付いているのが伝わってくる。困った。けれど、致し方がない。この状況で彼がそれに気付かないことを期待するほうがどうかしてる。

「………………」

 ジェラルドは、緊張した面持ちのまま、俯いてそれを聞いていた。

 まさに今殺されかけたというのに、ロディスの声にはもう驚いたような様子は無く、むしろ、少し面白がっているような色すらみえる。何か説明しなければ、と、マーゴットは焦った。

 まず、最初に、何をどう話せば良いのだろう。いや、そもそも、彼に何かを説明すること自体、とてもまずいのではないだろうか。


「ジェラルド」

 どこからともなくエリンの声がした。姿は見えない。

「もういい。こちらに来なさい」

「……はい」

 石のように固まって動かなかったジェラルドは、フッと力が抜けたように肩を落として、ロディスから離れて立ち上がった。ナイフを拾って、戸惑ったように瞳を揺らし、姉の方をチラリと見てから、声のした方へと走り去る。

「……つ……っ」

 起き上がった青年が痛そうに首を押さえたので、少女はハッとして駆け寄った。青白く浮かんだ手に血がついているのを見て、慌てて持っていたハンカチを差し出して……そして、やっと口にしたまともな言葉は……

「……ごめん、なさい」

 謝罪の言葉だった。

「いいえ、僕こそ、あの小さい護衛の少年を驚かせてしまったようだ」

 ロディスはもう、何も意外そうにはしていなかった。

「申し訳ないことをしました」

「あの……驚かれないのですか? こんなこと……」

 口ごもる少女の困惑を知ってか知らずか、ロディスは口を開く。

「驚きましたよ。女の子じゃなかったなんてね」

 そして、少し真面目に言った。

「今のあの子が、あなたの剣ですか?」

「………………」

 ああ、困った。マーゴットは思った。この人はもう、わかっているのだ。

 彼の言う通り、少年は彼女の半身、影の剣。いずれはエリンの元を巣立ち、未来の皇帝の影の守護者となるべき存在だ。ジェラルド、なんて名前が女の子のものではないことは明らかだし、さすがに今更誤魔化すことはできないだろう。事情を説明しても良いものなのだろうか。

 皇帝は自らの剣を決して公にはしない。それに今は、どこで誰が彼女の命を狙っているかもしれない状況。少女とジェラルドの関係は、彼女の暮らしの中で、もっとも大切で基本的な秘密なのだ。外の人間に、軽々しく話して良いものではない。秘密を守ってもらえなければ大変なのだ。

 けれど、平気な顔をしているけれど、今ジェラルドは彼を殺そうとしたのだ。突然そんな目に遭わせておいて、何も見なかったことにしてくれなんて頼むのも、虫の良いことだろう。

「わたくし……」

 こんな時どうすれば良いのかなんて誰も教えてはくれなかったし、教えられていないことを判断できるほど、少女は大人ではない。俯いて、今にも泣き出してしまいそうなマーゴットに、ロディスは血のついた襟元を気にすることもなく、にこりと笑った。

「大丈夫ですよ、姫、私はあなたの敵ではないつもりです」

「え……っ?」

 意外な言葉に、素っ頓狂な声をあげてしまう。恥ずかしくなって視線を逸らそうとしたけれど、ロディスの目が、それを許してはくれなかった。

「秘密は守りますよ」

 優しい声と、強いまなざし。血の付いたハンカチで首を押さえる姿は痛々しいが、傷ついた彼は妙に美しく見えた。

「ほ、本当に……?」

 情けなく掠れた声が漏れる。なぜだか分からないけれど、自信に満ちた瞳から目が離せなかった。ロディスは嫣然とした微笑みを浮かべ、言葉を続けた。

「ええ、だって、申し上げたでしょう? 内緒話をしましょう、って」

「な……」

 二人の間に、夜の冷たい風が滑り込む。少女は呆然と、目の前の人の、月の光と同じ色の髪と、傷ついてなおキラキラ光る瞳を見つめていた。

「僕は、あなたに会うためにエウロに戻ってきたんです」

「え?」

「まぁ、こういうことは、他の者もみんな言うでしょうけれどね」

 冗談なのか、そうでないのか分からない言葉。けれど、これまで他の者に言われた社交辞令の中に、今の台詞みたいなものが無かったのは確かだ。

「でも、僕はやっぱりラッキーかな。だって、こうやって、秘密を共有する仲になれたんだから。ふふ」

 指先がジンと痺れて、なんだか魔法にかけられたような気分だった。何か言わなければいけないのに、ずっとろくなことを言えていない。この人は一体何なのだろう。どうしてこんなことを言うのだろう。

 ――否、違う。どうして私は、この状況をあまり困ったことだと思えていないのだろう。

 やっぱり、大変なことがはじまってしまったような、そんな気がする。

「会いたかったです。マーゴット殿下」

 悪戯っぽい台詞を吐いて、どことなく意地悪そうに笑うロディスに、少女はその時、すっかり見とれてしまっていた。




 無言で前を歩くエリンの後ろを、少年は速足でついて歩いた。師は二人でいる時は少しも歩幅を考えてくれないので、離れずにいるためにはほとんど走るような格好になる。

 沈黙が痛い。

 叱られると思った。

「先生……あの……」

 何気なく廊下を歩いているようでいて、誰ともすれ違うことはなかった。エリンは城の中で人のいない場所を本当によく知っている。

「先生……」

 姉が暗がりに引き込まれるのを見て、攻撃のスイッチを入れてしまった。酷い勘違いで、危うく客をひとり殺す所だった。

「あの……ごめんなさい。先生」

「…………ジェラルド」

 ふいに立ち止まった師がおもむろに振り向く。

 ガクンと身がすくむような恐怖に、その瞬間何が起きたのか、ジェラルドにはわからなかった。

「あ……」

 胸に感じた鋭い痛みに我に返る。

「……お前はもう何度か殺されてみた方が良いな。ジェラルド」

 エリンが手にした細いナイフが、少年の胸に突き立てられていた。

「あの少年が暗殺者に見えるようなら、一人の敵のために百人も殺すことになろう」

「せ……ん、せい……」

 痛い。いや、それよりも。怖い、だ。

 エリンがあとほんの少し腕に力を込めていれば、本当に自分は死んでいた。この瞬間、死神に心臓を撫でられたのだと悟った少年は、恐怖した。

「……ごめんなさい」

「分かっているなら良い。先に部屋に戻って、傷の手当てをしていなさい」

「はい」

 自らの血を廊下にこぼさないよう、手のひらで胸の傷を押さえて、少年は会場へ戻る師の背中に、擦れた声で返事をした。




 今年で十歳になるジェラルドは、確かにアヴァロン大公ゲオルグの息子であり、マーゴットの弟であるが、皇族としては扱われていない。

 彼は皇子ではなく、皇女の『剣』。彼女を生涯の主人とし、その身を守り、闇のうちに敵を排除するための存在だった。


 彼らのような者は、エウロの歴史の中、常に皇帝に寄り添うように存在していたとされる。公的な記録に残ることは無いが、最強をうたわれる暗殺者の系譜であり、貴族達の間では『剣』や『影の剣』などと呼ばれ、恐れられている。

 ジェラルドは、はじめから姉を守るために生まれてきた子供であり、生まれた時からエリンの弟子である。だから、表立って少年が皇女の弟として存在することはありえない。たとえ、マーゴットが彼をあくまで弟として愛していたとしても。



「痛っ……」

 傷の浅さの割に出血が多くて、止血に時間がかかってしまった。明日からしばらく、傷がふさがるまで身体を動かすのが辛いと思うと気が重い。

 けれど師が彼の身体を傷つける時、その傷はいつも切り口が綺麗で手当てがしやすい。消毒すると、血が出ていると大げさに見えた傷も、少年の体の表面を多少傷つけただけのものであることがわかる。エリンは先程、本当に自分を殺そうとしたわけではないのだなと思った。

 それが分かると、少年は少し嬉しくなった。

「………………」

 ジェラルドは、自らの境遇を不満と感じたことはない。

 生まれた時から、彼自身の喜びも悲しみも、全て姉のものだと教えられてきたから。そのことに疑問を感じるようにはできていなかった。

 マーゴットは、彼にいつも沢山の優しさをくれる。父は彼を息子として扱わないけれど、彼自身もゲオルグを父だと思うようには教えられていないから、特に気になることはなかった。

 姉も師も大好きだ。二人の役に立つ存在になりたいと願っている。

(次からはもっと、ちゃんと出来るようになろう)

 すっかり止血を終え、着替えを済ませてから血に汚れた洋服を畳む。けれど、出血が多かったせいか、すぐに頭がぼんやりとして……いつの間にか、小さな剣であるところの少年は、ベッドに倒れ込むようにして、眠りに落ちていった。





「なんということをするのです、エリン、ジェラルドは悪くないのに!」

 夜会を終え、慌てて部屋に戻ったマーゴットは、奥の間で弟の血のついた服を見つけ、思わず声をあげてエリンをなじった。

「ひどいわ……」

 エリンは時々、彼女の弟にとても酷い仕打ちをする。彼がジェラルドを憎く思っているわけでないのは分かっているけれど、それでも、こんなのはあんまりだ。

「これで良いのです。痛みはいずれこの子を救うでしょう」

 目を覚まさない少年を膝に抱いて、彼が不器用に巻いた包帯を直しながら、エリンは静かに言った。

「でも……さっきのは、わたくしが悪いのに……」

 ジェラルドの小さな身体はいつも傷だらけなのに、自分は何もしてやることができない。今感じているこの怒りは八つ当たりだ。ひどい姉だと、マーゴットは思う。そして、しょんぼりしてエリンの隣に腰を下ろした。

「そう思われるなら、強くおなりなさい。姫」

「エリン……?」

「誰よりも強い光になって、この子を照らしてやりなさい。あなたが幸せに生きれば、この子も必ず幸せになる」

 エリンの美しい横顔は、どこか遠くを見ているようだった。

「これは姫の影。姫は光なのだから」

 彼の言葉は時々難しい。自分はどうすれば良いのだろう。幸せになる、なんて漠然としたことは曖昧すぎて分からない。今だって充分幸せだ。

 だけど――たぶん、それでは駄目なのだ。

「わたくし……はやく大人にならなければいけないのね。エリン」

 今の彼女には、自分の意志だけで決められることなんて無い。ジェラルドに……それから、エリンにも。守ってもらうばかりだ。

「エリンとジェラルドがくれるものに、何一つ報いることができないわ」

「………………」

 エリンは何も言わなかった。返事の代わりに、汗ばんだジェラルドの額をゆっくり撫で、長い指で乱れた金髪を整える。

「傷……ひどいの?」

 心配そうに覗き込むマーゴットに、彼は小さく微笑んで首を振る。

「深くはありません。私が怖かっただけでしょう」

「エリン……」

「カスタニエ家の令息は、ジェラルドのことを気付いて?」

「あ……」

 唐突に切り出されたその話題に、背筋がピリッと緊張する。

 ジェラルドのことは、外の人間に知られてはならないことだ。ロディスはこの子が男の子だということだけじゃなく、剣だということにも気付いていた。

 それを知ったらエリンは……彼に、何かするかもしれない。

 自分の身が万一にでも危険にさらされる可能性に際して、エリンが誰に対しても容赦をしないことを、マーゴットはよく知っている。それが彼の務めであることは理解しているけれど、優しい少女は、自分のために自分以外の人の命が軽く扱われてしまうようで、喜ばしく思うことは到底できなかった。

 そんな事態はできうる限り、避けなければいけない。

「それは……」

 嘘をつこうとして、言葉に詰まる。

「あの……エリン、大丈夫……大丈夫よ」

 彼に隠し事なんてしたことがないから、何といえば誤魔化せるのか分からない。

「……何がですか? 殿下」

「えっ? そ、それは……」

 エリンの、二つの色違いの目がマーゴットを見る。責めるような気色はないけれど、嘘をつこうとしていることは気付かれているような気がする。だったら、やっぱり嘘は無理だ。

「わたくし、ロディス様は良い方だと思ったわ」

 素直に話すしかない。

「秘密を守って下さるって、仰ったの。だからね、わたくし、信じたいと……」

「秘密……?」

 エリンの目が微かに厳しくなる。ロディスに危害が及ぶことは避けたい。少女は必死だった。

「お願いよ……あの方に酷いことをしないで」

「庇われるような理由がおありで?」

「も、もちろんです! だって、ロディス様は何も悪くないんですもの……わたくし達の不手際で、偶然……」

「それでも、秘密は守らなければ意味がありません」

 ああ、エリンは私の頼みを聞いてはくれないのだろうか。絶望的な思いが胸に広がる。けれど、次の言葉は意外なものだった。

「……わかりました」

「え?」

「姫が信じると仰る少年を、私も信じましょう」

「エリン……っ!」

「しばらく見守ります」

 ホッとしたせいで涙ぐむマーゴットの丸い頬を、形の良い指がそっと辿るように滑る。エリンは不思議なことを言った。

「……私も、できれば、彼には生きて欲しいと思います」

 彼が他の人を気遣うような台詞を口にするのはそう無いことだ。それも、今夜初めて会った客のことなんて……

「あなたが外の方に優しいことを言うなんて、珍しいわ」

 思った通りをを口にしてみる。エリンの瞳が僅かに揺れるのを、マーゴットは見逃さなかった。

「ロディス様のことを、エリンは知っているの?」

 皇女に問われ、守護者は黙り込む。

「………………」

 そして、少し考えてから、ポツリと言った。

「……多少、縁のある子供です」

 マーゴットはエリンの出自を知らない。彼の紫の左目は、彼女とエリンが遠くない親戚同士であるのだろうと想像させるものだったけれど……今まで、自分のことについて詳しく話してくれたことは無かった。

 眠るジェラルドの頭を撫でる、優しいのか恐ろしいのか分からないエリンの心の端に、マーゴットはその時、触れたような気持ちになっていた。

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