二 誕生日



 訪れたのは、ゆっくり不安を育てる暇もない、めまぐるしい日々だった。

 朝目が覚めてから夜眠りにつくまで、常に何かしらの予定が詰め込まれている。全土の貴族を集めて開かれる、皇女のお披露目の日が近いせいだ。

 何十着も用意された、仮縫い状態の夜会用ドレスを、半日かけて試着し続ける。あらかじめひととおりの作法は身に付いていたが、さらに帝位を継ぐ者としてふさわしいふるまいを、毎日何時間もかけてたたき込まれた。

 自治区に何十もある貴族の家や現在の当主の名を覚え、帝室との結びつきについてひとつひとつ学ぶ。もちろん、普通の子供が学校で習うような、一般的な知識についても教師がついた。

 毎日毎日それの繰り返しで、父とゆっくり語らう時間などあるはずもない。朝食と、夕食の時間を共にするだけ。どちらかの都合がつかなくて、朝しか顔を見ないようなこともあった。

 そんな日が、何日も続いた。

「…………はぁ」

 くぐもったため息が響く。

 彼女にとって、入浴の時間だけが唯一、周りの人間に気を使わなくても良い時間だった。使用人に世話をさせることを断って、以前からの習慣どおり、入浴時はジェラルドを浴室に入れたからだ。

 異性の従者を浴室に入れるなど、奇妙な習慣であるが、彼女にとっては幼い頃からのことなので、弟が一緒に居ないと逆に落ち着かない。

「お加減がお悪いのですか? 殿下」

 入り口に立って姉の様子をうかがっていたジェラルドが、心配そうに声をかける。

「……せめてお風呂でくらい、姉上と呼んで欲しいわ、ジェラルド」

 拗ねた目で睨まれると、少年は困った顔で俯く。

「ですが……」

「エリンは今は居ないのですよ。少しくらいわかりはしないわ」

「……でも……」

「他の場所では我が儘は言わないわ。お願い」

「…………姉上」

 少年は少しだけ嬉しそうに姉を呼んだ。

 そして、気を取り直したように難しい顔をして言葉を続ける。

「ご気分が優れないなら、あまり長湯をされない方が良いと思います」

「私が?」

「……ずっとぼんやりされています。のぼせます」

「そうね……でも、お風呂から上がったらまたお勉強があるのだもの。お父様とも、まだほとんどお話できていないというのに」

 少女は湯の中ですんなりとした足を伸ばし、不満げにばたつかせてみせる。弟は、自分にはどうすることもできない姉の悩みに、困ったような顔で俯いた。

「お父様は……やっぱりお父様も、お忙しいのかしらね」

「……大公殿下は、時々姉上が勉強されているのを、見にいらっしゃいます」

「え?」

「お部屋の前までいらして、引き返されます」

「……本当に?」


「本当です。なぜ中に入られないのかは、伺っていないのでわかりません」

「………………」

 父に疎まれているわけではない、と、半分祈るような気持ちで信じながら、しかし、少女はやはり不安だった。

 本当はもっと父と話をしたい。

 エリンからも詳しく聞いたことの無い、母のことも聞いてみたい。自分がこれまでを過ごした岬の家での生活のことも、たくさん聞いて欲しい。

 三週間後の誕生日には、成長した皇女を帝位継承者として披露する舞踏会が開かれることになっていた。今ほど慌ただしいのはその日までだと聞かされている。

 寂しいし、大変だけれど――少女は耐えた。




「おはようございます。お父様」

「……おはよう」

 きちんと身支度をして食堂で父を待っていた娘に、父は短く一言かけただけでさっさと自分の席についてしまった。

 皇女が城に戻ってもうすぐ一週間。アヴァロン大公の娘に対する態度に、軟化の気配は見えない。

 マーゴットは少し悲しそうな顔をしたが、すぐに気を取り直して自分の席に座る。

 新しい朝の光の中で、親子の食卓に会話は無かった。


 ゲオルグ・アヴァロンは、ここ百年のエウロを振り返ってみても、二人といない幸運の持ち主だと言われている。

 彼はもともと南エウロの商人の息子であり、貧しい家の出身ではないとはいえ、爵位も無く、貴族社会とは縁もゆかりもない存在であった。そんなゲオルグが、なぜ今のような地位に昇りつめることになったのか。

 彼と、その妻である先の皇帝アーシュラ、彼らの出会いについて、詳しく報道された記録は無い。けれど、彼の家で取り扱いのあった、アフリカ地方の品物を、当時はまだ皇太孫であったアーシュラ姫が欲しがったことが、二人を結びつけたきっかけであったと伝えられている。

 当然ながら、ゲオルグとアーシュラの結婚は当時、大変な驚きをもって迎えられた。彼は間もなく即位した皇帝アーシュラの夫としてアヴァロン大公を名乗ることとなり、美しい妻と共に、今世紀最大の幸運を手にすることになった。

 ――誰もが羨む、最高の幸せ。

 しかしそれは、あまりに短い祝福だった。


「あの……お父様……」

 短い食事を終えて席を立とうとする父親を、少女は控えめに呼び止めた。

「……何か」

 父の反応は相変わらず冷たいものだった。けれど、少女は怯まず言葉を続ける。

「今日は午後、ピアノの練習曲を先生に発表することになっているのです」

 マーゴットは、ちらりと上目遣いにゲオルグを伺う。

「お父様も、よろしければ……」

 父の顔に迷惑の色が見えないか、少女は必死で探っているようだった。ゲオルグは黙って聞いていたが、やがて、ふいと窓辺に目をやって、口を開いた。

「お前は……ピアノをやるのか」

「あ……はい。岬の屋敷でも、エリンに習っていました。こちらに来てから、ちゃんと先生に来ていただいて……」

「……曲は」

「ショパンのワルツで……」

「何番?」

「じゅ、十三番です」

「……ふむ」

「あ、あの……」

「あいにく、今日は私も忙しい」

 少しだけ迷うように、ゲオルグは目を伏せる。

「あ……申し訳ありません」

「……しっかり練習をしなさい。先生の言うことをよく聞くように」

「……はい」


 彼女を産んだ時、もともと病弱であったアーシュラは命を落とした。そのため、平民を当主に頂くことになったアヴァロン家の立場は、その圧倒的な格式とはうらはらにあまり強くはない。

 エウロの帝権は、議会からの承認を受けて維持されているものである。皇帝は貴族を含むエウロの民全てからの信託によって冠を戴くのだ。つまり、現在、皇女マーゴットの帝位継承権は、細い綱の上を進むような危うさで存在しているといえる。

 しかし、幼い彼女が唯一の継承者とされているのには、先代皇帝唯一の直子である以外にも理由がある。

 それは、マーゴットが持つ瞳の色だ。

 初代皇帝が自らの血統を後世に渡っての帝位の証とすべく遺伝子に埋め込んだ印である、《高貴なるスミレ色High-born violet》と呼ばれる、特徴的な紫の瞳。それが、長いエウロ帝室の歴史でずっと、帝位継承権の証とされてきた。

 三世紀あまりを経て、帝室直系にも極端に発現の少なくなっているその紫を、マーゴットは両の目に持っているのだ。

 帝室の血を濃く受け継ぐ者ならば、彼女の他にも何名かいる。それらを指しおいて彼女が第一位とされているのは、そのことに起因するものだ。

 しかし、今、求心力を失いつつあるアヴァロン家を追い落とし、彼女の即位を阻もうとする勢力があった。ハミルトン公爵と、彼を支持する貴族達である。


 ベネディクト=エイミス・ハミルトンは先帝の弟、マーゴットにすれば、叔父にあたる男だ。

 長男でありながら、紫を持つ姉の存在によって、帝位から遠ざかっていた彼は、祖父から公爵の地位を与えられると、十代のうちに有力貴族から妻を娶った。そして間もなく妻の親戚を次々周辺貴族と婚姻させて急激に勢力を広げ――今やハミルトン公爵いえば、名実ともに貴族界の若きリーダーである。

 また、権力の為に手段を選ばない人物であることも、貴族達の間では公然の秘密だ。生前の姉との不仲も有名である。

 今回の彼女の帰還と披露には、そんな政敵ハミルトン公爵家への、牽制の意味を多分に含んでいた。だから、アヴァロン家はマーゴットに、完璧な美と、継承者としての堂々とした振る舞いを要求した。

 十二歳という早すぎる節目を経て、少女は、子供としてただ甘やかされ、愛される時代を終えることになる。






 廊下が長すぎる、と、マーゴットは繰り返し思った。

 どうしてそんなことを考えていたのか、自分でもよくわからなかったけれど……とにかく、大広間の明かりが遠く感じられて仕方なかった。

 長い廊下を1人で歩く。今、ここだけは、エリンもジェラルドも傍にはいない。ここに立つために、自分はここへ戻ってきたのだから。

 段取りは頭に入っているが、着慣れない正装のドレスが重い。

「…………」

 緊張を沈めようと、静かに深く息をのんだ。まっすぐ、光のある場所まで歩けば、そこが玉座だ。

 多くの有力貴族がその名を連ねるエウロ議会では、【紫】を神聖視し、過剰に優先する帝位継承のしきたりに対して、長年にわたり疑問が投げかけられている。

 成長し、帰還した皇女のお披露目の場は、彼女が次の帝位に就くことを貴族達に納得させるためにアヴァロン家が用意した舞台だった。彼女はここで、皆を納得させられるような、継承者に相応しい存在感を見せつけることを求められている。

 素朴な心根の少女には、大変な重荷であった。


 廊下の途中で、マーゴットは立ち止まる。

 深呼吸。作法を教えてくれた教師の言葉を思い出していた。

 皆が見ている。

 ――恐れを気取られてはいけない。

 ゆっくりと。

 ――子供であることは忘れて。

 決して急がず。

 ――誰よりも偉そうに。

 背筋はピンと伸ばして。

 ――美しく。

 目線は高く。

 ――そして、

 決して笑わず。

 教えられたことを繰り返し心の中で唱えながら、幼い皇女は、光の中へと進み出た。

 広い、広い、玉座の間。

 シンと静まり返ったその場所はまばゆいシャンデリアの光で満ちていて、そして――数え切れないほどの、正装した貴族達で埋め尽くされていた。

 少女は驚きを顔に出さないように、ゆっくりと周囲に目をやる。エリンもジェラルドも見当たらない……しかし、玉座の脇には父の姿があった。そういえば、今朝は時間が合わず会えなかったので、今日顔を見るのは、これがはじめてだ。

 笑顔で挨拶をしたくなるけれど、今ここで父を落胆させてはいけない。マーゴットはそう思い直して、数歩進み出て、彼の前に立つ。

「………………」

 見上げた父は、どことなく呆然とした表情で、彼女を見つめていた。

 喜びでも、悲しみでもない。まるで幻でも見ているような表情。

 おそらくは、ほんの一、二秒。けれどそれは、ひどく長いものに感じられる。自分はうまくやれているのだろうか。もしかして、何かへまをやらかして、父を落胆させてしまったのではないだろうか。

 しかし、少女の心に不安が忍び込むよりも僅かに早く、ゲオルグは無言のまま目の前の皇女に跪いた。

 ――次の瞬間、広間の空気に震えるような振動が走ったかと思うと、広間を埋めていた貴族達の全てが、それにならって膝を折り、頭を垂れる。

 正装の人の海が、大きく波打ったように感じられた。その光景に、思わずのまれてしまいそうになる。

 ああ、これでは本当に、自分が子供ではないみたいだと、マーゴットは思った。そしてようやく気付く。

(みたい、ではなくて、わたくしは……)

 緊張で、じわりと背に汗をかく。

(もう、子供でいることは、許されないのだわ)

 怯むわけにはいかない。このためにここへ戻ってきたのだ。

 皇女は静かに、集まった者達の方へと向き直る。隅から隅まで、全てのひとの姿を目に焼き付けるように見回して、それから――ゆっくりと、教えられた通りのお辞儀をした。




 やがて、静寂に支配されていた広間に、一転して優雅なワルツが流れはじめると、緊張していた空気はフッと和やかなものに変わる。

 ざわざわと、和やかに話す声が聞こえはじめ、眼下で音楽に合わせ、男女が手を取ってクルリ、クルリと舞い踊る。

 マーゴットは、ゲオルグに導かれて用意されていた席につき、ようやく一息ついていた。用意された甘い飲み物に、喜んで少しだけ口をつける。新鮮なピーチジュースは、うっとりするほど美味しかった。

「短い期間に、よく学んだのだね」

 囁いたゲオルグの声は、少女が今まで聞いたなかで一番優しい声だった。

「……ありがとうございます。お父様」

 涙が出そうになるのをこらえ、答える。むやみに言葉を発しないようにしなさいと言われているので、なるべく小さな声で、周りに聞こえないように。マーゴットがそっと隣を伺うと、ゲオルグは静かに微笑んでいた。

 広間を満たす音楽は、緊張していた心をするするとほぐしてくれる。ようやく深く息ができるようになると、マーゴットは、自分の手が随分と冷たくなっていたことに気が付いた。


「皇女殿下、この度はおめでとうございます」

 やがて、一人の男が皇女と大公の前に進み出て、ニコリと笑って恭しく礼をする。 マーゴットは、彼の顔を知っていた。名前もちゃんと覚えている。

「……わたくしも、この日を迎えられたこと、嬉しく存じます、ハミルトン公爵」

 ベネディクト=エイミス・ハミルトン。

 周りの大人達が最も警戒する、彼女の叔父。

 優しげで、線の細い感じのする男だった。ゲオルグよりも年がひとつ下だと聞いていたから、年寄りでないことは知っていたが、それでも想像していたよりもずっと若く見える。

「姫は、ダンスのご経験は?」

 どことなく少女を子供扱いするような声音で、公爵は手を差し伸べる。

 お披露目の後の舞踏会には参加しなくて良いと言われていたので、マーゴットは面食らった。何と答えて良いのか分からず父の方を見るが、ゲオルグの表情から答えは読み取れなかった。

 皆の前で父や執事に助けを求めるわけにはいかない。自分で決めなければと思うと、かあっと頭に血が上るような心地がする。

(……だけど、叔父様を前に、断るわけにはいかない)

 ワルツなら、一応ひととおり踊れるはずだった。

「皆様のように、上手ではありませんけれど、多少は」

 必死で平然を装い頷く。ベネディクトはどことなく含みを感じさせる微笑を浮かべ、彼女に手を差し伸べる。

「では、踊って頂けますか?」

 彼はこの城で生まれ、この城で育った正真正銘の皇族だ。非の打ち所のない完璧な身のこなしを目の当たりにすると、今日の為に必死で作法を覚えてきた田舎育ちのマーゴットは少々気後れしてしまう。

 けれど、ここで父に恥をかかせるわけにはいかないのだ。

「……喜んで」

 皇女が叔父の手を取って立ち上がると、音楽がスッと止んだ。

 広間にどよめきが広がる。二人がゆっくりとホールへ下りると、踊っていた者達は次々とお辞儀をして場所を空けていく。広間の中央まで進み出て、向きあうと、まもなく演奏が再開され、皇女と公爵は踊りはじめた。暫くその様子を眺めていた他の貴族達も、やがてダンスの輪に加わり、広間はまた何事もなかったかのように、華やかな舞踏会へと戻る。

 身長差がありすぎる大人と子供のカップルだ。踊る姿はあまりさまにならない。けれど、ダンスの得意なベネディクトがぎこちない少女のステップに器用に合わせてやると、マーゴットは懸命にそれに応え、やがて、楽しそうな表情を見せる。

「緊張していらっしゃるかな?」

「……このように男の方と踊るのは、初めてです」

「それは光栄の至りです、姫」

「わたくしも、今日はお目にかかれて嬉しく思います」

 これまでの間、皆が口を酸っぱくして『ハミルトン公爵には気をつけるように』と少女に教えてきた。しかし、二人で空の帝位を争っているのだと言われても、マーゴットには中々実感の持てる問題ではない。実際、こうして向き合ってみると、公爵は随分と優しそうな好人物に思えた。

「……それにしても美しくおなりだ。その上、姉上に生き写しでいらっしゃる」

「お母様と……?」

「ええ。まるで、姉上がお戻りになったようだ」

 言って、ベネディクトは微笑んだ。


 皇女が公爵と踊ったことで、夜会はいっそう盛り上がり、賑やかになった。

 ワルツは続く。

 優雅に、重厚に、しかしあくまでも軽やかに。

 貴族達は色めいていた。何といっても、この十二歳の少女は次期エウロ皇帝である。どの者も興味津々だし、些細な繋がりでも持てれば後々大きな利益を得られるかも知れない。

 帝室とハミルトン家の政争は多くの貴族の知る所ではあるが、今はまだどちらが勝利するとも知れない争いである。そのため、立場を決めかねる者も多かった。

 小さな皇女と言葉を交わそうと、群がった者が次々と手を差し伸べる。

 生真面目な少女は、可能な限り全ての申し出に応えていた。

 小さな少女が大人を相手に器用に舞い踊る様は誰の目にも愛らしく、また、誰に対しても丁寧に、物おじもせず振る舞う姿は、誰の目にも頼もしく見えた。

 多くの者の脳裏に残る、惜しまれながら夭折した彼女の母と彼女の姿が重なるということもあり、マーゴットは、いかにも帝位を継ぐに相応しいという印象を、周囲に与えることに成功していた。


 ――フワリ、フワリ、クルリ。


 少女の姿は人の波に見えたり、隠れたり。

 彼女が可愛らしくターンを決めると、女達が歓声をあげる。

 徐々に場が盛り上がり、その雰囲気を察した楽団は、速めの曲を演奏しはじめた。

 貴族達はこういう悪のりが大好きだ。負けじとドレスを翻し、曲に合わせてステップを速める。


 ――フワ、フワ、クルリクルリ。

 ――フワ、クルリ。

 ――ああ、目が回りそう! と、誰かが楽しそうな悲鳴を上げる。

 ――姫さま、お上手ですわ、と、黄色い声。

 ――次は私と、と熱いまなざしを送るのはどこかの家の次男坊か?

 

 次は私と

 いや、私と――


 熱気が最高潮に達しようとしていた時に、それは、起きた。

 ダンスの真っ最中だったマーゴットは、その時、相手を務めていた男性にグイッと引き寄せられた。エスコートにしては乱暴すぎる動作に、一瞬混乱する。

 そして、息を吸い込みかけた所を、別の方向から手が伸びてきて、もっと強い力で抱き寄せられた。

 キャア、と、明らかに恐怖の悲鳴。皇女の周囲に居た者がパッと踊るのを止めて、不穏なざわめきと共に後ずさりする。

「マーゴット!」

 緊迫した叫びがホールに響いた。同時に、ぴたりと音楽が止む。

 父の声だ、と、かろうじて思ったけれど、自分が今どうなっているのかが分からない。視界いっぱいに広がっているのは、白い……誰かの服だ。

「な……何……?」

 どうして父が叫んだのか、どうして音楽が止まったのか、突然視界を奪われただけのマーゴットにはサッパリ理解出来ない。

「う……ああっ!」

 やがて、男のうめき声と同時に中央のドアが乱暴に開き、舞踏会に不似合いな、衛兵たちの足音が近づいてくる。

 混乱の中で、声のする方を見ると、掌から血を流した先程のダンスの相手が、兵士達に取り押さえられる所だった。膝をついて苦しむその男の傍らには、ホールの照明を受け、艶めかしくそれを反射して光る――長めの刀身のナイフ。

 全てがほんの一瞬の出来事。けれど何が起こったのかを把握する前に、少女の体はふわりと浮き上がる。抱き上げられて初めて、マーゴットは自分を抱きすくめていた白い服の人が、エリンであることに気付いたのだった。

「!?」

「お話は後ほど」

 低い声で短く言って、エリンは歩き出す。

 魔法で時間を止められたかのような、奇妙な沈黙が支配する中で、マーゴットは虚を突かれたように目を丸くして、固唾をのんで見守る周囲の貴族達を見つめていた。

 夜会が、台無しになってしまった。

 少女は何かを言いたそうに見えたけれど、早足のエリンは彼女に口を挟む隙を与えず――マーゴットはそのまま、広間から退場したのだった。




「マーゴット!」

 エリンに抱きかかえられたまま、奥の間に戻った娘を、ゲオルグは彼の手から奪い取るようにして抱きしめた。そのまま、抱え込むように暗い部屋に崩れ落ちる。

「ああ、マーゴット……よく無事で……」

「……おとう……さま?」

 父の肩が小刻みに震えているのに気付いたのか、少女は不思議そうな顔をした。

「どうなさったの? ……わたくし、大丈夫ですわ」

 恐怖を感じていないのか、感じる暇もなかったのか、マーゴットはいつも通りの様子で微笑んで言う。

「ねぇ、エリン」

 同意を求めるように、傍らに立つエリンに視線を向ける。エリンは少女の目を見つめ返したが、何も言わず、またその表情からは何の感情も伺い知れない。

 父を安心させる念押しの言葉を期待していたらしい少女は、困った顔で首をかしげた。

「だけどあの方、どうしてナイフなんて持っていたのかしら……」

 広間で起きたことが、自分の暗殺未遂であったことを、少女は理解していない。

「いいんだ。もういい!!」

 ゲオルグは喚いた。


「お前をもう貴族共の前になど出すものか!」

「お父様……」

「いいんだ……いいんだ……もう、ふたりでこの城を出てもいい……」

 弱々しい声で、すがるように言う。ゲオルグは泣いていた。娘を抱いたまま、絨毯の床に膝をついて。

「なぁ、そうしようマーゴット。私と……」

 少女は父の背を、そっと、いたわるように撫でる。

「……わたくし、お父様を失望させてしまった?」

「そうじゃない。お前は賢くて、美しい。」

 泣き笑いの瞳が、尊い何かを見るように、少女を見つめる。

「太陽のようだ。私の……私の可愛いマロゥ」

 このひと月か、それともこれまでの十二年か。

 平民出身の孤独な大公ゲオルグ。娘を隠し、ひとりでアヴァロンの全てを引き受けてきた彼をつなぎ止めていた糸が、ぷつりと切れてしまったようだった。

 そしてそれは同時に、凍りついた心が人間らしさを取り戻した瞬間でもあった。

 父の言葉に、少女は安堵したように目を細める。

「お父様……わたくし……お父様に嫌われていたわけでは、なかったのね」

「嫌う? 私が?」

「ええ。だって、なかなか笑って下さらなかったし、お話する機会も少なくて……心配していたの。でも、わたくし、嬉しいです」

「お前……」

「わたくしなら、大丈夫です。エリンが助けてくれましたから、少しも怖くはないんですよ」

 少女はゲオルグの体を離し、にっこりと笑って手を広げて見せる。 

「ほら、この通り、どこも怪我だってしておりませんし」

 マーゴットが命を狙われたのは、これがはじめてのことではなかった。

 彼女は、生まれて間もない赤子の時に、既に三度、死神とすれ違っている。

 だから今夜、ゲオルグも、エリンも、思い知らされることになったのだ。止まっていた争いの時計が、再び動き始めたのだということを。

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