シュガードロップ・ブレイクアウト

二月ほづみ

一 皇女の帰還


 眩しい水面を見上げるような、白い微睡みの淵をたゆたう。

 ゆらり、ゆらりと、よせてはかえす、真昼の海の波のよう。


 不明瞭な夢の中では、たぶん、丁度午後のお茶が始まろうとしているところだ。

小さな芝生の中庭に置かれた一組のガーデン・テーブルに、三人分のティーセット。甘いお菓子の予感に胸が弾む。春摘み紅茶の清々しい香りに、思わずうっとりと息を吸い込んだ……ところで、ふいに目が覚めた。



 これからが美味しいところだったのに、と、少女は不満そうに身じろぎする。

 こめかみのあたりに置かれた大きな手が僅かに動いて、そっと彼女の頭を撫でた。太陽の光を集めたような、蜂蜜色の豊かな髪が、上着の背に無造作に広がる。柔らかいせいですぐに縺れてしまうそれを、長い指がそっと梳いて、整えた。

「そのまま、眠っておいでなさい、殿下。アヴァロンはまだ遠い」

 髪を滑る心地よい指の感覚と、聞きなれた声に逆に覚醒する。広々とした革張りの後部座席で、行儀の悪いことに、男の膝に頭を預けて眠り込んでいたらしい。それに気がついた少女は、驚いた様子で軽い体をパッと起こす。

「ごめんなさい、エリン。わたくしったら……」

 柔らかい頬を子供らしく紅潮させ、かすれた声でそう詫びた。

 傍らに座る男――エリン・グレイは、そんな少女を静かに見つめて、僅かに笑ったように見えた。ゆっくりと少女の方に向き直る所作に合わせて、長い、上等の絹糸のようなブロンドがサラリと肩からこぼれ落ちる。彫像のように端正な顔は表情に乏しいが、厳しいエリンが自分に対してだけはとても優しいということを、少女は誰よりもよく心得ていた。

「無理もありません。昨日の晩、遅くまで起きておいででしたから」

 男は、物心付くよりずっと前から傍にいる、彼女にとって最も近しい人間のひとりだ。父でなく、兄でもなく、またそれに近い存在として振る舞うことも決して無い彼のことを、しかし少女は父のように、兄のように慕っている。

 生まれて十二年、男は少女の保護者だった。

 窓の外は森。確か、居眠りをする前も森だったような気がする。どのくらい眠っていたのだろう。ずっと同じ森の中を走っていたのだろうか。

 ぼんやりとそんなことを考えながら、少女は自分を挟んでエリンの反対側に居る弟の方を見た。ふたつ年下のジェラルドも、自分と同じように寝ているかなと思ったけれど、予想に反して彼女の弟は、ジッと姿勢を正して座って、窓の外を見ているようだった。

「木の数でも数えているのかしら、ジェラルドは」

 声をかけると、あどけない顔がゆっくりこちらを見る。少年は口を開きかけて口をつぐみ、それから少し考えてもう一度口を開いた。

「キツネか鹿がいないかなと思って、探していました、殿下」

 殿下、だなんて、他人行儀な。少女は思った。ジェラルドはいつも、自分のことを姉上と呼ぶのに。

「殿下……って、どうしてそんな呼び方を? いつも通りにして頂戴」

「も、申し訳ありません。でも、お屋敷を出たら姉上のことはマーゴット殿下とお呼びするようにと、先生が……」

 困ったように口ごもったジェラルドを見る、エリンの目が僅かに細くなる。少年が早速師との約束を守れていないことを、咎めているのだろう。

 ジェラルドはしまったという顔で慌てて言い直した。

「おっ……お屋敷を出たら、殿下のことはマーゴット殿下とお呼びすることになっています」

「まぁ……本当なの? エリン」

「そうです、殿下」

「わたくし、エリンにそう呼ばれるのもずっと寂しいと申し上げていますのに。嫌だわ、ジェラルドまでそんな……せめて、わたくしたちだけの時は……」

「いけません」

 エリンが駄目だと即答したことについて、結果が翻ったためしはない。少女は不満そうな顔でため息をついて、それから足をじたばたさせて、その後ふてくされたように、再び男の膝に体を預けた。

「では、もういいです。わたくしは、もう一度寝てしまいます」

「……どうぞ、殿下」

 頭の上で、男がクスリと笑った気配がした。怒ったつもりが実は不安に呑まれそうだった心に、フッと安堵の灯がともる。

 こんなに長い旅をしたのは、生まれて初めてのことだ。

 ――そして、こんなに不安な旅も。


 長い金の髪に、鮮やかな菫色の瞳。

 天使のように愛くるしい、少女の名はマーゴット。

 正しくは、マーゴット=エディス・ヴィラ・アヴァロン。

 エウロを治めるアヴァロン帝室の一員であり、今は亡き先帝の忘れ形見。まだあどけない少女であるが、直系唯一の皇女として、成人した後には帝位に就くことを約束されている、第一位の継承者である。

 だが、そんな彼女も今はまだ、ただ幼く、世間知らずなひとりの少女に過ぎない。皇女として大切に育てられてはきたものの、物心ついてから未だ、彼女の(アヴァロン)城に足を踏み入れたことが無かった。

 帝位継承者として生を受けた彼女は、しかし生後まもなく秘密裏に城を離れ、世間から隠されて育てられたからだ。


 その理由は親族内の争いによるものであったが、少女はあまり、深くそのことについて知らされてはいなかった。彼女はただ、穏やかな暮らしの中で、健やかに成長した。

 彼女が育てられた家は、「岬の屋敷」と呼ばれていた。

 エウロの地図を広げたとき、その屋敷がどの辺りにあるのか、少女は知らない。屋敷の外は広い野原で、野原の向こうには切り立った崖、崖の向こうは海だった。街は遠く、屋敷を訪ねる人もおらず、皇女が屋敷を出ることも無かった。

 マーゴットとエリン、弟のジェラルド。彼女はずっとこの三人と、僅かな使用人だけで暮らしてきたのだ。

 そんな少女が、突然慣れ親しんだ屋敷を出て、見知らぬ城へ連れていかれるというのだから、不安に感じるのは無理からぬことだった。聞き分けの良いマーゴットは、そんなそぶりを見せないよう、努めて普段通りに振る舞ってはいたけれど。

 街道には柔らかな木漏れ日が射しているが、季節はまだ長い冬の途中。もうあとひと月もしないうちに、少女は十二歳の誕生日を迎えるのだ。

 皇女マーゴットは十二歳になれば城に帰還する。

 それが『約束』だった。


「眠れませんか? 姫」

「え……?」

 エリンの膝を占領して寝てしまうつもりが、少しも眠くなってこないので、寝たフリをしていた少女に、エリンは静かに語りかけた。心の中を見透かされたような気がして、少女は目を開け、男を見上げる。

 彼女の不安には、理由があった。

「……ねぇ、エリン、わたくしは、本当にお父様に嫌われてはいない?」

 生まれてまもなく、皇帝であった母を亡くしたマーゴットには、遠い城で十二年間、娘の帰りを待ち続けている父がいた。しかし、彼女の父は、これまで一度たりとも彼女の元を訪れたことがない。

 父が会いに来られないのは、彼女の居場所が秘密にされなければいけないからだ。そのことは、エリンが繰り返し話して聞かせてきた。その言葉を、ずっと信じてきた彼女だったけれど――

「……なぜ、そのようなことを?」

 刹那の沈黙のあと、静かにエリンが答える。

「……嫌われていないといいけれど」

 エリンの言葉を信じられなくなったわけではない。けれど時折、一度も会いに来てくれなかった父が自分をどう思っているのか、恐ろしいような気持ちになることがあるのだ。

「大公殿下は姫のことを愛しておられます」

「そう……かしら」

「自信がおありでないと?」

「それはそうだわ、だって……」

 少女が言葉を続けようとするのを遮るように、エリンの指が、暖房のせいで紅潮した頬をなぞる。

 頬からこめかみへ、それから、緩く結った髪を撫でるように。それはとても優しい動きで、心から大切なものを慈しむような、優しいものだ。

「姫は健やかに美しく、お育ちになった。心配なさることは何も無い」

 少女は安堵したように再び目を閉じる。エリンは自分を大切にしてくれる。愛されている。だから――きっと、父も同じであるはずだと、信じよう。

 規則的に揺れる車内は暖かく、少女と彼女の従者を乗せて、街道は帝都ジュネーヴへと続いている。




 帝都ジュネーヴは、山と湖に囲まれた美しい街である。

 長い車での移動を経てたどり着いたそこは、世界を知らない少女にとっては、全く見たことの無いような賑やかな街だった。

 街道沿いの建物には、エウロの――アヴァロン家の紋章を染め抜いた、紫の旗が掲げられ、歩道には、帰還する皇女の姿を一目見ようと集まった人々が連なる。

「随分と人が多いのね、今日はお祭りか何か?」

 見慣れぬ大勢の人間に驚きながら、マーゴットが言うと、エリンは小さく笑って首を振る。

「あれは、殿下の帰りを待っていた人々です。皆、あなたの帰還を祝っているのですよ」

「まぁ……この方達が、みんな?」

 マーゴットは驚いた様子で、街道の様子を眺める。けれど、後部座席の真ん中に座らされた彼女からは、身を乗り出しても外の人々の様子まではあまり見えない。

 しばらく子供らしくそわそわと周囲を伺っていた少女だったが、外を見たいと言ってもエリンに止められるのを分かっているらしく、やがて、諦めたように大人しく座り直した。


 世間の祝賀ムードとはうらはらに、皇女の帰還は、彼女を守り育てた大人達にとっては、大きな緊張を強いられる行事であったのだ。

 その事実を知る者は少なかったが、皇女マーゴットは、生まれてから城を離れる短い期間に、何度もその命を狙われていた。彼女が再び人々の前に姿を現すということは、つまり、再び命を狙われる危険に直面する可能性もあるということだ。

 マーゴットには分からなかったけれど、街道のお祭り騒ぎは、厳重な警戒の元にあった。


 車は市街地の半ばで止まり、そこから城までの移動は馬車になる。アヴァロン城の周囲は、「旧市街」と呼ばれる、伝統的町並みの再現区域となっており、自動車の走行は禁止されているのだ。

 この後は馬車に乗ると説明されてマーゴットははしゃいだが、喜び勇んで降り立った石畳の広場は、しんと静まり返っていた。先ほどの賑やかな街道のようなものを想像していたので、マーゴットは拍子抜けした様子であたりを見回す。

 今日はこの区域への市民の立ち入りは制限されていたのだ。そのせいで、彼女が降車する広場も、ぐるりと兵士が取り囲んでいて、彼女たち以外に人の気配は無い。

 遠い隊列を、マーゴットは少し物足りなさそうに眺めてから、促されるままに豪華な装飾の施された馬車に乗り込んだ。


 それから、のんびりと十五分も進んだころだろうか、唐突に馬車が止まる。

 少女は気付いていなかったようだが、そこは既に城の敷地の中だった。美しく刈り込まれた芝生が広がる、広い前庭だ。

「………………」

 馬車を降り、自分達の他には、やはり兵士しか居ないらしいということに気がつくと、マーゴットは俯いて、足を止める。

「……エリン、わたくし……」

 誰も出迎えてくれないことを不安に思ったらしい。けれど、エリンが何か言葉をかけようとしたところに、燕尾服姿の初老の男が、数名のメイドを従えて進み出てきた。それに気がついたマーゴットが、慌てて緊張した面持ちで背筋を伸ばす。

「大公殿下よりハウス・スチュワードの任を仰せつかっております、クヴェン・ラントにございます。――お帰りなさいませ、殿下」

 男は深々と頭を下げた。メイド達もそれに続く。

「あ……」

 こういう時の応対に少女は不慣れだ。とっさに返答が浮かばないらしい。言葉を詰まらせるマーゴットの背に、エリンがそっと触れて促す。

「参りましょう」

 皇女がそろりと歩き始めると、使用人達はよどみなく道を空け、あとに続いた。

彼女の行く手には、西暦代の壮麗な城砦建築を見事に再現した、白亜のアヴァロン城があった。


「長旅でお疲れでございましょう、お部屋をご用意しております」

 クヴェンの低い声が柔らかく響く、長い廊下には彼らの他に誰の姿も無い。あまり賑やかな城のようには見えなかったが、皇女が通る区画には、特に人払いがされているようだ。

「いえ……お部屋はあとで構いません」

 足を止め、控えめに、けれど不安げな表情に似合わないキッパリとした口調で、少女は言った。

「まずは、お父様にご挨拶を」

 それが一番大切なことであると、マーゴットは考えているようだった。

 一瞬の沈黙のあと、クヴェンはすぐに口を開く。

「かしこまりました。大公殿下をお呼びして参りましょう」

「……お仕事中でいらっしゃる?」

「左様でございますが、皇女殿下のご意向をお伝えして参ります」

「わたくし……」

「皆様、こちらへ」

 皇女の不安な呟きを遮って、家令は彼らを部屋に通した。

 城内に応接間と呼べるものがいくつあるのかは分からないが、案内されたのはその一つであるらしい。適温に調整された天井の高い部屋で、マーゴットが中に入るとクヴェンは廊下で深々と礼をして、扉を閉めた。

 三人だけになった部屋で、少女は落ち着かない様子できょろきょろと辺りを見回してから、観念したようにソファに腰掛ける。少し背の高い椅子だったので、深く座ると小柄な彼女の足は浮いてしまった。

 足が着かないとは思わなかったのだろう、マーゴットは少し居心地悪そうに足を動かしたが、どうやっても絨毯につま先が触れることは無かったので、すぐにじたばたするのはやめて大人しく父を待つことにしたようだった。

 いくらでも座る場所はあるにも関わらず、エリンは空気のように静かに、皇女から少し離れた場所に控え、ジェラルドもその隣に立っていた。

 マーゴットは、いかにも傍へ来て欲しそうな顔で二人を見るけれど、エリンはチラリとも動かない。そして、師がその様である以上、ジェラルドも動けないようだった。

 エリンの脇で健気にじっと動かずに居るジェラルドは、不安げな姉を心配そうに見つめながら、マーゴットだけでなく、彼にとっても父親であるはずの、アヴァロン大公が現れるのを待った。




 待っている時間は、やたらと長く感じられるものだ。

 特に、初めて会う父を待つ時間などは。

 マーゴットにとっては永遠にも思えるような時間は、時計の長針が大きな目盛りをひとつかふたつ刻む程度。

 そして、しんとした部屋に、やがて待ち人は現れた。

「……!」

 扉の開く音に、少女はぎくりと肩を震わせて、もたもたと立ち上がる。

 入ってきたのは、えんじ色のフロックコートを着込んだ、姿勢の良い長身の男だ。

 娘に少しも似ていない濃い茶色の巻き毛と、細い銀縁眼鏡の奥の瞳は、老いてはいないがどことなく疲れた様子の、くすんだはしばみ色ヘーゼル

 アヴァロン家現当主、ゲオルグ・アヴァロンはエリンとジェラルドを一瞥してから、大股に部屋に入る。そして、言葉の出ない様子の娘を、冷たい目で何も言わず見下ろした。

 十二年ぶりの、親子の再会である。

 マーゴットは、誰の目から見ても美しく、愛らしい姫に成長していた。礼儀作法だって、懸命に身につけて今日を迎えている。歓迎されるはずだ。父は、喜んでくれるはずだと、信じて不安な長旅を耐えてきたのに。男の、彼女を見る表情は冷たかった。

 マーゴットを前に、ゲオルグは立ちつくしたまま動かない。

 応接間は不可解な静寂に包まれ、少女は父の言葉を待つように彼を見上げる――


――随分長い間、そうしていたように思える。

「……ただいま、戻りました。お父様」

 沈黙に耐えきれなくなった少女が、おずおずと口をひらいた。おそらく不安のせいで擦れた声が、高い天井に吸い込まれるように消えていく。

「………………」

 そして、やがてゲオルグはポツリと落とすように言った。

「……長旅ご苦労だったな。今日はゆっくりと休みなさい」

 優しい言葉とうらはらに、男は少しも嬉しそうな顔はせず、まして娘を抱きしめようなどともしなかった。そして、不便があれば使用人に伝えるようにと言い置いて、さっさと部屋を後にしてしまうのだった。




 夜。マーゴットは絶望していた。

 もしかして自分は、大切な場面で大変な間違いをおかしてしまったのではないだろうか。

 アヴァロン城で過ごすはじめての夜の、新しい寝室。ずっと、城に帰る日を夢見て暮らしてきた。本当なら、もっと感慨に浸っているべき時間のはずなのに。

 時計の針は二十一時半を指そうとしている。

 初めて会う父親から、冷たく素っ気ないねぎらいの言葉をかけられてから、もう何時間か経つ。部屋には少女ひとり。誰にも話を聞いてもらえないまま、先ほどから寝台に座ったり、長いすに座ったり、部屋の中をぐるぐる歩き回ったり、落ち着かない時を過ごしていた。

「わたくし……」

 父は自分を待ってはいなかったのだろうか。それとも何か……彼をがっかりさせてしまうようなことをしてしまったのだろうか。

「………………」

 最初からこれでは、明日以降どうなってしまうのだろう。暗澹たる気分に、泣いてはいけないと思いつつ、涙が滲むのを止められない。服を汚してしまうと思ったが、ハンカチを持っていない。部屋のどこかにはあるのかもしれないけれど、場所がわからないので、袖のフリルで乱暴にそれを拭った。

 明日は父と朝食を共にすることに決まっているらしい。このまま泣きはらして朝を迎えるわけにはいかない。そんなことでは余計嫌われてしまうに違いないのだ。何とか別のことを考えて気を紛らわそうと、少女は半べそのまま部屋を見回した。

 大きなベッドの天蓋には細かい装飾レースがたくさんついていて、微かにゆらめくランプの光を受け、薄い影を壁や床に落としている。

 家具は少ないがどれも使い込まれた風合いで、華美ではないけれどこの上なく豪奢なものだ。

 この部屋はかつて、彼女の母が自室として使っていた部屋なのだという。なんとなく、初めて足を踏み入れたような気のしない、落ち着ける感じのする部屋だった。

 部屋の外には広いバルコニーがある。晴れの日の昼間には、遠くレマン湖まで見渡せると、ここまで来る間にメイドが話してくれた。

 ああ、もっとジュネーヴのことを勉強してくれば良かったと、マーゴットは後悔した。美しい山や川、有名な古い建築物のことや、何より、この城のこと。

 もっと詳しく頭にいれておけば、父と話すきっかけになったかもしれないのに。

「……エリンなら、詳しいかしら」

 部屋の片隅にある、続きの間へのドアを見つめる。今、エリンとジェラルドはあのドアの向こうに居る。奥には入っていないからよく分からないけれど、部屋があるらしく、これから二人はそこを使うのだと聞いた。

 何でも、母が存命だった時も、この隣の部屋にはエリンがいたのだそうだ。

 エリンは彼女の母、先の皇帝アーシュラの『剣』であり、常に傍にあって主人を守る役目を担っていた。子供のころからずっと一緒だったのだと聞いていた。

「どうしましょう……」

 このまま眠りにつくのはあまりに不安だ。せめて、少しエリンと話をしたい。城に入ってから、もともと無口なのにさらに口数が減っていて、ろくに話をしていないのだ。

 寒々しい寝間着姿を少し恥ずかしく思い、羽織るものが無いかどうか少し探して……しかし、見つかりそうにないので諦めた。

 ドアの前に立って、恐る恐るノックする。

「…………」

 返事が無いな、と、思った瞬間にドアが開いた。

 エリンがなぜか、少し驚いた表情でこちらを見ていた。

「殿下……?」

「あ……あの、こんな時間に、ごめんなさい。わたくし、その……」

 隣の部屋は半分くらいの広さで、明かりは半ば消えていた。

 ジェラルドはどうやら眠っているようだ。小さな本棚と、小さなデスクセットが目に入った。読書灯が点いているところをみると、エリンは本でも読んでいたのだろうか。彼は珍しく長い髪を緩く結っていて……慌てる少女の様子をしばらく見下ろしていたが、やがて、静かに言った。

「何か、心配事がおありですか」

「ええ……その……」

 何と言い出すべきか言いよどむマーゴットに、エリンは小さく息をつく。

「起きていると、ますます眠れなくなりますので、床におつきください」

「でも……」

「お話は聞きましょう」

 その言葉に少女は安堵したようで、促されるまま素直に床に入る。エリンは、主人の小さな体にたっぷりした綿布団をかけてやりながら口を開いた。

「大公殿下が、冷たいと感じましたか?」

 エリンは分かっていたのだ。少女は驚き、それから拗ねたように口を尖らせる。

「やっぱりお父様は、わたくしを疎んじてらっしゃるの?」

 正直にこぼすマーゴットに、男は口元を僅かに緩めて微笑んだ。そして、ベッドサイドに跪くようにして、少女の目線に合わせて、穏やかに話しはじめる。

「姫は今日、父上をはじめてご覧になって、どう思われましたか?」

「わたくし……?」

「そうです。実際に会われたのは、今日がはじめてだったでしょう」

「わたくしは……そうね、少し、驚きました」

「驚いた?」

「思ったより背がお高かったわ。エリンとそう変わらないのね」

「……そうですね。年は、私の方が下ですが」

「まぁ……そうなの」

「はい。……だから殿下、ゲオルグ様も面食らわれたのではないかと」

「……お父様も?」

「大公殿下は、姫がまだほんの赤子だった時分しかご存知ないのですから。無理も無いでしょう。あなたは……」

 言いかけて、エリンは言葉を途切れさせた。変わりに、スッと腕を伸ばして、マーゴットの額に手を触れる。そして、遠慮がちにその頭を撫でた。

「……お父様に、嫌われていないならいいの。わたくし……お会いできて、嬉しかったわ」

 少女は落ち着いたらしく、気持ちよさそうに目を細めて言う。

「…………」

 エリンの、左右色違いの目が微かに揺れたように見えた。光の加減かもしれない。だけど、先程の驚いた様子といい、彼の感情が表情として現れるのは、あまり無いことだ。

 マーゴットはそれが何となく気になり、額に添えられた冷たい指を捕まえる。

「わたくし、エリンのことも驚かせてしまったの?」

「私が?」

「ええ。先程、お部屋から出てきたエリン、何だかびっくりしていたようだったから……。ごめんなさい、何か、邪魔をしてしまったのかしら」

「………………」

 エリンは無言のまま、少し困ったような微笑みを浮かべ、小さな手をそっと布団の中に入れ、掴んだ指を離す。

「この部屋は、懐かしい。……姫の部屋からノックが聞こえた時、少し、昔に戻ったような気持ちがいたしました」

「エリン……」

「姫は……お母上に、とても、よく似ていらっしゃる」

 エリンの声は淡々として静かで、けれど、優しい。

 母に似ていると言ってもらえるのは嬉しかった。自分がひとりではなく、確かに両親の子として生まれてきたのだと、実感することが出来るから。

 その夜、少女が眠りにつくまで、エリンは傍らで見守り続けた。彼は、母にもこんな風に接していたのだろうか。その優しい気配に、重い幕の下りた思考の隅で、マーゴットは思っていた。




 控えめなランプの光が、眠る少女の頬に睫毛の影を落とす。

安らかな寝息を聞きながら、エリン・グレイは長い間、主人の寝顔を見つめていた。

 ここは男にとって、息苦しいほどに懐かしい部屋だ。

 時が止まった部屋。けれど、ここは今日からこの幼い姫の場所となる。

 マーゴットが戻り、きっと、全てが変わるのだ。この部屋の時計も、正しい時を刻みはじめるに違いない。

「……大公殿下が驚かれるのも、無理は無いのですよ。姫」

 届かない言葉を、そっと落とす。

 眠るマーゴットは、見事に母の幼い頃に生き写しだった。だからエリンには、ゲオルグが今のマーゴットを見てどう思うかが、手に取るように分かる。

 ずっと一緒にいる自分ですら、時々、彼女・・が生き返ったように感じることがあるのだから。

「………………」

 二つ年上のアーシュラ。彼にとってはただひとりの主君。本当は、彼女が死んで、自分が長らえることがあるなんて、思ってもみなかった。

 だけど、自分は生き延び、今はこの少女の守護者としてここにいる。

 アヴァロンから遠く離れた家で、健やかに育っていく少女を見るにつけ、心の奥では、今日の日が来ないことを願わずにはいられなかった。

 ここでの暮らしは、厳しく、心休まらない日々になるだろう。けれど、彼女は生きている限りアーシュラの娘だ。皇女であることからは逃れられない。

 そっと自らの左の目に手をやる。

 エリンの左目も、彼女と同じ紫色だった。

 この色が容易く人の一生を狂わせることを、彼は誰よりもよく知っている。これを持って生まれたせいで、一度は時の皇帝に死を望まれたのだから。

 三歳だった。もう、ほとんど覚えてはいない。

 この数十年、繰り返された親族間のいがみ合いで、アヴァロン家は力を弱めてきた。そして、平民の父を持つ皇女マーゴットの運命は、想像するまでもなく危うく、儚いものだ。

 だからあの日、自分とゲオルグは、戦い続けることを選んだのだ。この光を翳らせることなど考えられない。

 あまりに早く、逝ってしまった人のために。


 少女を起こさないようにそっと立ち上がり、明かりを消してから奥の間を覗く。

静かに本を読んでいた彼女の弟が、師の気配を感じて顔を上げた。

「……ジェラルド」

「はい」

 名を呼ばれると、ジェラルドは手にしていた本を置いて立ち上がった。

 読書灯の無いベッドサイドを見て、エリンは少し眉をひそめる。そして、諭すような調子でそれを咎めた。

「またそんな暗い明かりで本を読んでいたのか。目を悪くしては務めが果たせないと、いつも言っているだろう」

「ごめんなさい……」

 少年はしゅんとして肩を落とした。彼は本が好きだった。

 特に、写真が多く載っているものを見つけると、どんなものでも目を輝かせていつまでも眺めている。風景写真でも、人物写真でも、とにかく見知らぬものが描かれていれば何でも良いようだった。

「こちらの明かりをつけて、私の机を使うと良い。明るくして読みなさい」

「はい。先生」

 少年の嬉しそうな声に、エリンは僅かに表情を緩め、息をつく。

「少し部屋を空ける。じき戻るから、私が戻るまでは眠らないように」

「わかりました」

 素直にそう答えた少年の頭をちょっと撫でて、エリンはふらりと廊下へ出た。




 カタン、と、音を立てたのはたぶんわざとだろう。

 寒く暗い庭でベンチに腰を下ろし、星を見ていたゲオルグは、いつの間にか背後に立っていた男に気付くと、ムッとした様子で口を開いた。

「いつからそこにいた?」

「今ですが」

「……お前は相変わらず、何処から現れるか見当もつかない」

「申し訳ありません」

「……マーゴットは、眠ったか?」

「はい」

「そうか……」

 男の言葉が途切れた空白を、冬の夜の冷たい空気が埋める。

 星も凍りつくような、冷たい夜だった。

 一瞬立ち上がろうとしたゲオルグだったが、ふうと息をついて、すぐにベンチに腰を落とす。

 落ち着かないようでもあり、落ち込んでいるようでもある。

 大公と呼ばれるこの男の疲れた背中を、エリンは見下ろして言った。

「大公殿下は、寒い庭がお好きで?」

「好きなわけない」

「そうでしたね。あなたには、星の夜よりは暖かい太陽の下がお似合いだ」

 エリンがゲオルグ・アヴァロンとまみえるのも十二年ぶりだ。

 かつて、彼の妻が生きていた頃、ゲオルグは明るく快活で、謙虚だが少し向こう見ずなところのある、魅力的な若者だった。

 今も一見、若々しく以前と変わらないように見えるけれど――その心は、別人のように変質してしまったように思える。長い孤独と、孤立した摂政としての暮らしが、彼を摩耗させてしまったのだろう。無理からぬことだ。

「マーゴット殿下は――」

「っ!」

 娘の名を出されると、ゲオルグはギクリと肩を震わせ、目を泳がせる。

 ――まるで、かの小さな皇女を、恐れてでもいるかのように。

「姫は、自分が父君に疎んじられているのではないかと、危惧しておられます」

「え……」

「姫はあなたをずっと慕っておいでだった。あなたに会いたい一心で、不安な旅路をここまで来られた。……あなたとて、それは同じでは?」

「お前……」

 淡々と告げたエリンの涼しい横顔を、ゲオルグは一転、憎々しげに睨む。

「説教のつもりか」

「事実をお伝えしたまで」

 男は苦しげに目を閉じる。そして、呻くように呟いた。

「……十二年だぞ。お前に、私の気持ちがわかるものか」

「………………」

 エリンは答えない。

「お前は……お前はずっとあの子の傍にいた。私は……そうじゃなかった!」

 冷え切った夜空に、震える声が浮き出ては、消えていく。

「お前はいつもそうだ! お前はいつも……!」

 抑えきれないように声を荒らげるゲオルグの言葉を、エリンは無表情で受け止める。

「……けれど大公殿下、あなたは、私の持たないものを全て持っている。姫の愛も、これからはあなたのものでしょう」

 ゲオルグはアーシュラの伴侶で、エリンはアーシュラの影だ。

 ひとりの太陽を中心に、対角線上に立っていた二人は、主従でも、ましてや友でもない。光が消えた後には、いびつな関係だけが取り残された。

 ゲオルグは自覚的にエリンを憎んでいたし、エリンはたぶん、無意識にゲオルグを羨んでいた。

 冴えた空には、満天の星。

 二人の世界は、隣り合いながら決して交わることはない。

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