Red coif ~愛呪~

ニコ

愛情の形、憎悪の方

 母親の最期の表情は鮮明に思い出せる。

 光が薄れていく瞳、血の気が失せていく頬。

 優しさを称えた微笑み。

 まるで雪の中ではしゃいだ後のように冷たくなっていく手で、私の頬に触れてくれた。

 暗い洞窟だった。水底の様に、牢獄の様に。

 冬でもないのにガチガチと私の体は震えていた。

 温めなくては。それだけしか考えられなくて、必死になって母親の冷たい体を抱き締めた。いつもなら抱き返してくれる母親の腕は、いつまで経っても私の背に回されることはなく。それでも、それならばと、一層の力を込めて抱き締めていた。

 洞窟の外は夜中だというのにオレンジ色に輝いていて、その熱さの中に怒号にも似た声が響いていた。その声は、獲物を狩るときのそれだった。

 父親の、獲物を狩るときの声だった。

 しかし、幼い私でも分かっていた。

 これは狩りだーーー人間が『狼ろう』を仕留める為の狩りだ。

 私は、私達家族は、狩られる存在。存在するだけで狩られる存在。

 母親はいつかに私に話してくれた。


『お母さん達は、勿論あなたも、今はヒトとは相容れない立場に存在している。でもね、きっといつかは分かり合える日が来る。銃口と爪を向き合わせなくても話せる日が。共に同じ時間で、空間で。お父さんとお母さんがそうだったように』


 夢物語、そう思った。

 しかしそれが、母親が抱く最も強い願いでもあるのだと悟った。そして、ヒトの言葉を話せぬ父親の願いでもある、と。

 ならば私も同じ夢を持とうと言った。両親の願いに私の分も重ねて。そうすれば3人分だ。きっと叶う。

 母親は喜んでくれた。ありがとうと何度も繰り返し言いながら、喜んでいた。

 喜びながら、泣いていた。

 あの時私は母親の涙の意味を、果たして理解していなかっただろう。

 3人分の願いだった。とても大きくて、輝いていて。およそ消えることなく、いつの日か叶う時が来ることを疑っていなかった。

 現実の前にはあまりに矮小過ぎる願いだったのだ。

 それに気が付いた時には、棲みかである洞窟の前に、暴力を手にした人間が群れてきていた。

 これが現実。

 『狼』を産み出し、さも被害者であるかのように謳い、臭いモノには蓋をするかのようにひたすらに排除しようとする人間。

 そんな傲慢な人間に産み出され、産みの親を喰わねば生きられない『狼』。

 これが現実なのだ。

 手を取り合う、分かり合う、共存する。それが如何に途方も無い幻想であるかを、現実は幼い私に対して暴力的に叩きつけてきたのだった。

 洞窟の壁面をも震わす銃声が、ある時、一際大きく響いた。

 父親の声が聞こえなくなった。

 不思議と、心が冷めていくような感覚に憑りつかれた。

 虫の息の母親が、か細い声で私を促した。

 洞窟の奥にはいつか来るかもしれないこの時の為に、抜け道が用意されていた。母親と私で一緒に作った抜け穴だ。とても歪に掘られたそれを行けと、母親は言うのだ。

 今にも事切れん母親を連れていくことなど不可能。

 勿論、私1人だけで行け、と。

 躊躇うに決まっている。嫌だと、年相応に我が儘を振り撒きたかった。それが無意味であると知っていて尚。

 洞窟の入り口から、鼻を突く刺激臭が飛び込んでくる。

 対『狼』用に開発されたという麻痺ガス弾だ。その強さは人間が諸に吸えば脳神経がやられて逝き絶える程の。

 今の母親に逃げる方法は無く、母親を担いでいける程私は強くもなく。

 私の足は自然と洞窟の奥に向かっていた。心中という選択肢は無かった。本能と言えばそうであるが、1つだけ確かなことがあった。

 家族3人の夢を、たとえバラバラになったとしても、1人でも胸に秘めて生きていけば、きっと叶う日が訪れる。そう、思えてならなかったからだ。

 現実に叩きのめされ、嘲笑われ、それでも絶望することなく。

 母親と父親が話してくれた事、共に過ごした日々が、私の心の片隅で瞬き続けていた。

 だからこそ、私は止まらなかった。

 ガスが充満していく洞窟の中、ふと、私は振り返った。

 母親は、微笑みを浮かべていた。最期まで、私に微笑みを絶やすこと無く居続けてくれていた。

 母親の微笑みに、涙が止まらなかった。

 私の中に残る母親の最期の表情は、いつまでも優しい微笑みを浮かべていた。


     ※    ※    ※    ※    ※


「お母さんを、コロしてください」



 昼間、私の下を訪ねてきた少女の声が脳裏を反復する。

 ボロボロの服を着、栄養の足りていない細い身体の依頼主だった。年は15歳程だろうか。

 私の仕事は『狼』を狩ること。そう告げたが……。



「お母さんはきっと、『狼』になってしまったんです。見た目は人間だけど。中身は『狼』なんです」



 少し前まではそんなことをするような人じゃなかった。貧しく大変だけれど楽しくお話してくれるような人だった。

 そんなことを少女は最後に溢して。

 私は椅子のリクライニングに体を預けながら、ふと自分の母親のことを思い浮かべていた。母親の最期の表情。

 こんな依頼はこれが初めてではない。この度に思いに耽ることもそうない。

 ただ依頼をしに来た少女の、青痣が痛ましい顔が、いつまで経っても頭から離れなかった。

 絶望とは違う。しかし現状を受け入れる気などないという意思が垣間見える、そんな表情。

 もしかしたら過去の私も、こんな表情をしていたのだろうか。

 いや、もしかしたら今尚。

 そんなことを思っていたからか、正直依頼内容のこと、確認事項の記憶があまり無い。しかし手元に置いてある依頼書の中に必要事項がしっかりと書き付けられているところを見ると、私は仕事を正確にしていたのだと思わせられた。

 『狼』は狼おおかみの突然変異体だ。人間が『狼』になるなど前例は無い。

 つまり少女の言っていた内容は、そういうことなのだろう。

 躾という言葉の範疇で括りきれない、そういうこと。



「……専門外なんだがな」



 無意識のうちに依頼を請け負っている自分に嫌みを溢しながら、しかし依頼は依頼であると、私は出掛ける準備を始めるのだった。


 『狼』は通常、人里離れた森や山中といった奥まった場所を寝床にしている。それは突然変異前の狼の頃と大差無い。

 しかし狼と違い、圧倒的に活動範囲が広がっているという点が大きく挙げられる。

 『狼』討伐コミュニティを初め、多くの機関で『狼』の研究は急ピッチで行われている。

 人間の出した様々な廃棄物を喰らったことにより突然変異をした存在。知能は人間のものに近くなり、人工物をも扱う姿も散見されている。

 そんな『狼』の主食は人間、人間の出す残飯、野生動物と、実は狼とそれほどかけ離れているわけではない。

 とは言え、狼が単騎で人間を襲うなどという事例は、データベースによるとあまり無い。そもそも狼は縄張りに入る者に対して敵意を向けるらしく、そこから離れていく存在、自分達に手を出してこない存在に対してはわりと温情なのだという。

 しかし『狼』は違う。『狼』に縄張りという意識があるのかは定かではないが、獲物が近くにいようがいまいが、単騎で襲いに来る。また狼の頃はあったはずの集団行動は少なくなってきている。しかもそれは年期の入った『狼』ほど見られる傾向にある特徴だ。

 力と知能を得たことにより傲慢になったのか。集団の中にいることを好むくせに、しかし個を何より重視しようとしているのか。

 そんな卑しく醜い習性がもしあるとするならば、それが人間の出した廃棄物を喰らったことの代償だというのならば、成程『狼』もまた、見方を変えれば被害者なのかもしれない。

 まるで人間そのものの様ではないか。

 卑しさ、醜さ。

 力と知能の代償は、人間の汚れた部分をも身に付けることだったのかもしれない。

 だからこそ『狼』は人間に近づいた。それが幸か不幸かなどというのは誰にも分からない。

 しかしこれは言い替えるならば、人間もまた、『狼』の様に成り果てる可能性があるという証明に他ならない。

 『狼』の獰猛さ、無慈悲、暴力的なまでに歪んだ価値観。それは野生的宿命なのかもしれないが、人間も心にそれらを内包している。そんな可能性が存在していてもおかしくはないのではないか。

 だからこそ……人間は時に残酷になってしまうのではないか。



「『狼』討伐依頼を受けた者だ。少し話を聞かせてもらいたい」



 プレハブや鉄屑を寄せ集めただけの様なみすぼらしい家屋の入り口をノックし、私は中からの反応を待った。

 周囲にも同様の家屋が多く乱立しており、この家も特筆する程のこともない、至って普通の家屋だ。

 人々が多く行き来する街から東方に離れたこの群衆地は、街に何かしらの理由で住むことのできない者達が集う場所。端的に言うならば、厄介者の集落であると聞いている。

 今回の依頼主である少女も、街から否定された者達が住まう土地の出身なのだ。

 扉の向こう、気配にして3人。私がノックをする直前まで家内からは『何か』を叩き、床を踏み鳴らす荒々しい音が漏れていたというのに、今では鳴りを潜めて不気味な静寂を放っている。

 しばらく置き、再度扉をノックする。定型文を述べ、改めて反応を窺う。

 このまま居留守を決め込むつもりか。

 そう思い始めた頃、ようやく家屋唯一の扉が申し訳程度に口を開いた。それと同時に鼻を突く強烈に刺激のある生活臭が漏れ、思わず私は顔を渋らせた。

 その僅かな隙間から顔を覗かせることなく、少し息の切れた女の声が漏れてくる。



「立て込んでいるので、また後でよろしいですか?」


「後、とは、いつ頃なら都合がつきそうだ?」


「……10分程、お待ちいただけますか」



 少々乱暴気味に、私の返答も待たずに扉が閉められる。

 居留守を決め込まれなかっただけでも良い方か、と、思わず溢れた溜め息とともに、私は被っていたフードを目深に被り直した。


 扉が開く。今度は隙間ではなく、しっかりとその口を開けて。



「お待たせしました……」



 出てきたのは1人の女。年は30歳半ば程か。

 とは言えその容姿は年齢に相応しくないもので。肌は乾燥し、髪は手入れが行き届いていないのか枝毛があちらこちらに飛んでしまっている。衣服も皺が残っており、家屋の見た目相応、暮らしとしても酷く質素な日々を窺わされる。



「『狼』の退治屋が、一体どのような要件でしょう?近辺に『狼』が現れたんですか?」


「まあ……依頼があったからな。だから来た」


「それで、何を聞きたいんですか?」



 ぶっきらぼう。少し苛ついている様にすら感じる。

 そして女の暗い瞳には全くの余裕が感じられない。

 加え、先程から絶え間無く家中から流れてくる『暴力の臭い』。



「その前に、家の中にまだ人がいるだろ。怪我でもしてるのか?」


「っ……今は私しかいません。娘がいますが、外に遊びに出掛けてます」


「悪いがそれは嘘だ。先まで家中で動く気配があったし、今尚あんた以外の人の気配が奥から感じられる」



 正確には、女とは別の人間の匂いが感じられる、だ。それと血の匂い。



「何故隠す?出血しているなら手当てが必要だろ」


「いません。人なんていないし、ましてや怪我をしていることもありません。

 要件がそれだけなら帰ってください。あなたは『狼』専門でしょう?他のことは関係無いでしょう?」


「……他のこととは、何だ?」


「っ……」


「もう面倒なことは無しにしたらどうだ。あんたの娘の匂い、血の匂いも……あんたの体からずっと流れてきてる。ついでに、清潔感の無い生活臭もな」


「匂い匂いって、まるであなたこそ『狼』じゃないですか」



 フードの下にある私の『耳』が、僅かに反応した。

 頑なに事実を認めようとはしない姿勢、もはや状況は明白だった。

 依頼主である少女の傷、報告状況から既に予想はしていた。もしかすると、という別の可能性も探りたかった。しかし、現実は無情だった。




「あんた、娘を虐待してるな」



 質問ではなく、断定の意思を込めて。

 女はまるで何かに押されたかのように肩を震わせ、みるみるうちに顔色を失わせていく。そして口を開き……しかし、その空洞からは何も溢れてこなかった。

 侮蔑の眼差しを向けてから、私は私の言葉に狼狽える女の向こう側ーーー家中の暗がりに目を向けた。

 ずっと、違和感を覚えていた。

 少女曰く、今私の目の前で言葉を発せられずにいる女は、少し前まではいたって普通の親だったと言う。

 虐待の原因が分からない。少女が虐待を受ける理由は生活苦による母親の鬱憤晴らし、と考えると話は噛み合いやすい。または厄介者扱いをされていることへの苛立ちの捌け口か。

 しかし私の中で、それは違うと何かが囁いていた。

 そしてもう1つ。きっとこれが最大の理由なのだろう、目を背けていた事実を、私はこの女の口から聞かなくてはならない。



「……あんた、娘と2人暮らしだろ。今、来客はいるか?」


「っ……ない、です」


「そうか。……そうか……」



 察してしまった、事実に。女の嘘から、確信してしまった。

 開いた家中へと続く扉の向こう。今尚流れてくる、思わず顔をしかめてしまう程の生活臭。その生活臭の中に混じった血の匂い。娘の血。

 ……更にそれらの中に、まるで隠すかのように混じった匂い。

 ーーー醜い獣の匂い。



「きゃあっ」



 立ち尽くす女の首元を掴むと、私は無理矢理外へ引きずり出した。地面に倒れる女に一瞥もくれることなく扉を乱雑に開け放つ。そのまま、女のヒステリックな制止の声を無視して家中へ早足に上がり込んだ。

 あらゆる匂いが濃くなった。1本しかない奥へと続いていく廊下を土足で進み、僅か3秒程で最奥の一室に辿り着く。

 昼前だというのにぼんやりとした暗さの部屋だったが、意外と内装は綺麗に片付けられていた。家具らしい物もほとんど無く、汚れた台所と黒ずんだ小さな机、2つの椅子。窓は1つ、その反対側の壁には傷だらけの襖が。部屋全体が暗く見えるのは、申し訳程度に備え付けられている窓に、所々に何かのシミが付着した厚手のカーテンが掛けられているせいであった。

 そのカーテンの下、力無く倒れ伏している小さな影が1つ。依頼主である少女だ。

 傍に寄ると僅かに呼吸をしていることが確認できた。しかし身に纏う薄い布に守られていない柔肌の到るところに赤黒い打撲跡、擦り傷、切り傷……。

 刺激の無いように、そっと少女の頬に手を添えた。ヒンヤリとし、痩せこけ、乾燥した肌の手触りだった。不意に、私の母親の、最後の表情がフラッシュバックした。

 1つ、目を閉じ深呼吸をする。

 怪我こそ多いものの、少女の命には別状は無いようだ。

 緩慢な動きで、私は立ち上がる。そのまま部屋の内部を見渡す。

 ここがこのみすぼらしい家の中に存在する唯一の部屋。しかし外観から察するに、まだこの家には部屋があるはずだ。廊下には確かに別の出入口があったが、汚い布が掛けられただけのその向こうは厠しかなく。つまり人が生活する空間はこの暗いリビングとも言えぬような一室のみ。

 だからこそ、外観と内観との広さに違和感ができてしまっている。

 フードの下の『耳』が疼いた。

 いる、そう確信を得るまでに、そう時間も要しなかった。

 自然と傷だらけの襖へと視線が流れる。

 私は被ったフード付きのマントの中で、腰に提げた『相棒』へと手を伸ばした。

 その時、廊下から髪の毛を振り乱しながら女が飛び込んでくる。その口から発せられるは奇声のそれだった。

 女は飛び込んでくる勢いのまま、私に向かって体当たりを繰り出してくる。

 姿勢を低くし足払いをかけると、女は受け身も取れずに床へ顔面から突っ込んだ。しかしそんなことも意に介せず、上体を上げると私の足にしがみつこうと手を伸ばしてくる。

 鼻頭を強打したようで、盛大に鼻血を垂れ流しながら。その瞳は何を映しているのか、瞳孔が開き切っていた。

 私は伸ばされた手を蹴り上げる。そのままマント内から手を引き出すと、構えていた『相棒』ーーー対物破壊小銃を縮小改造の末に生まれた片手銃の銃口を女へと向け、一切躊躇すること無く引き金を引いた。撃ち出された20mmの弾丸が、倒れた女の頬を掠めつつ、汚れた床を意図も容易く貫通していく。

 一瞬の出来事に女の動きが止まった。

 その隙に襖へと一気に近付くと壊す勢いで開け放った。同時に『相棒』の銃口を、襖の向こう側へと突き出した。



「っ……」



 そこには信じたくなかった、予想通りの光景が広がっていた。

 襖の奧は押し入れではなく、8畳程の空間だった。明かりは部屋の角を囲むように置かれた4つの蝋燭の火のみ。最奥には祭壇のような台座が設けられ、その上には何者かの名前が刻まれた位牌やボロボロになった書物が数冊。用途不明の金属質な置物が、蝋燭の明かりに照らされてオレンジ色に輝いていた。

 そんな宗教じみた部屋の真ん中、大きな傷だらけの檻が1つ。

 その檻の中に、『それ』は静かに鎮座していた。

 人間の天敵。狩り狩られる存在。

 2mの体躯を丸めるように……1匹の『狼』が檻の中で息をしていた。

 じっとこちらを睨む瞳に浮かぶは憎悪の感情。少し開かれた口元からは粘度の高い涎を垂らし続けている。

 檻の前には空になった器が1つ。器の端に赤黒いシミが付着していた。



「……くだらないッ……!」



 吐き捨てるように、思わず言葉が私の口をついた。

 人間は、弱い生き物だ。何かにすがらなくては立ち上がることもできない者も少なくない。そしてそんな弱い人間は、すがる対象を有り得ないものに見出だすこともざらにある。

 『狼』は人間を狩り、人間は『狼』を狩る。そんな関係性にある2つの存在。

 その相手に畏怖と畏敬を抱いてしまう可能性も、零ではないのだ。

 それ故の、くだらなさ。



「あんたに、何が分かるッ!!!」



 背後から、ようやく人の言葉が響いてきた。

 振り返ると、震える足でゆっくりと立ち上がる女の姿があった。



「私には……もう何も無いのに……もう、もう、もうッ!!!」



 ギラギラと光る目は人間とは思えないような妖しさを秘めていた。砕けるのではないかと思える程に噛み締められた歯と荒い呼吸に、女の壮絶たる軌跡の面影を垣間見せられた。



「……何、これ……」



 不意に、違う声が空間を貫いた。か細い声だったが、一瞬で空気が静まるような強さを帯びていた。

 私が声の主に目を向ける。

 女は、恐れるようにゆっくりと、背後を振り返った。



「何で……『狼』……?」



 汚れたカーテンにもたれるように、傷だらけの体を震わせながら、依頼主の少女はじっと、襖の奧へ閉じ込められた獣を見続けていた。



「お母、さん……?これって……」


「っ……」



 娘の戸惑いの声に、母親である女は何も言えないまま、ひたすらに目を泳がせてしまっている。

 現実に起きていることが理解できない娘と、現実に起きていることを理解したくない母親。



「……あんたの母親は、『狼』を神格化している」


「っ!?」


「え?しん、かくか?『狼』を、神格化?」



 女は遂に目を伏せ、そのまま俯き押し黙ってしまった。

 その反応に、少女は少しずつ状況が呑み込めてきたのか、目の端に雫を浮かべ出した。



「何、で……」



 少女がゆっくりと女の、母親の元へ近寄る。

 目の前に傷だらけの娘が立っても、母親は一切顔を上げようとはしなかった。



「……願掛け」


「え?」


「今、あんたの母親は願掛けの真っ最中なんだ」



 もう無意味だけど、と続けて。



「願掛けの最中は、他者にその行程を知られてはならない。それが原則だ。だから、無意味」



 私は檻に近付き、前に置かれたシミの付いた器を持ち上げた。

 『狼』がこれでもかと暴れる。檻が悲鳴のように甲高く軋みを上げる。

 それを無視し、器に付いたシミをじっと見つめた。そして、項垂れる母親に添う少女に目を向けた。



「これは……あんたの血だ。母親であるそこの女からの理不尽な暴力に傷付いた、あんたから流れた血だ」



 私は器を、苛立ちを隠すことなく床に放り投げた。

 陶器の割れる音が辺りに響き、その音に女は肩をびくりと震わせた。



「この女は傷付けた娘から流れた血を集めては、『狼』に飲ませていたのさ」


「そ、それが、願掛けと何の関係が……」


「願掛けにはやり方なんてあってないようなものだ。そいつがやりたいようにやるだけ。ついでに言えば、この女の願掛けは宗教じみた考えが含まれている」


「『狼』を神格化しているという、あれですか?」



 肯定の意を込め再度『狼』に目を向ける。

 今尚暴れる『狼』の目の中には野性的な鋭さだけではなく、妖しく濁った異様な気配を内包していた。



「願掛けっていうのは、呪仏的な要素が大きい。呪いには媒体とするモノが必要だ。それと、呪いを達成させるための『穢れ』となるモノ。今回で言えば、媒体は『狼』、『穢れ』はあんたの血だ」


「『穢れ』?それにあたしの血が必要なんですか?」


「ヒトから生まれるモノは総じて『穢れ』が含まれている、それが呪いを扱う者達の共通認識みたいなものだ。しかもそれはヒト自体が新鮮で清らかなモノであった場合の方がより効果が大きいともされている。新鮮とは年齢、清らかさとは端的に言えば処女のこと。1番簡単に手に入れられる、あんたが最適素材だったってわけだ」



 説明していて、胸くそが悪くなる一方だった。

 呪いなどというものは簡単に手を出して良いような代物ではない。どんなに熟練した呪術師であっても、自分の力を過信してはならないという程に危険な要素が多いものなのだ。

 呪いは失敗すれば必ず報いを受けることになる。否、成功したとしても、それは巡り巡って自分の元へと返ってくるのだ。

 人を呪わば穴2つ、それが自然の摂理なのだ。



「とは言え……偶像崇拝していようが、所詮は『狼』だ。そして、それを狩るのが私の『本業』だ」



 下ろしていた『相棒』を、私は再度『狼』に向けた。

 対『狼』用に改造した特殊銃だ。20mm経口、全長30cm超、総重量20kgの『片手銃』。その威力は分厚い『狼』の皮膚など容易く撃ち抜くことを可能とする。



「止めてええ!!」



 世界の終わりとばかりに、悲嘆に暮れた表情で女が私と『狼』の間に割り込んでくる。

 庇うように檻を抱く母親のその姿に、少女は今にも泣き出しそうな表情を浮かべた。



「『これ』は私の全てなのおッ!『これ』が私の……私のおッ!!」


「知るか、退け。あんたにも事情があるだろうが、それは私にも同じことだ。あんたがそいつを抱えるように、私も貫き通したい意志がある」


「知らないわよッ!これ以上、私から何も奪わないでよおッ!!」



 必死に泣き叫ぶ女の言葉に、ふと泣き出しそうだった少女の、息を飲む音が聞こえた。



「奪われたくないと哭くあんたが、1番近くにいるあんたを想ってくれているやつから奪っていくんだな」


「何言ってるのよおッ!ワケ分からないことばっかりッ!」


「……そうか」



 もう、どれだけ言葉を重ねても無駄だと悟った。少なくとも私の声は一切女の心には届かないだろう。



「もう嫌よッ!皆私から……皆……私はただ人並みの幸せが欲しいだけなのにッ!どうして、どうしてそん、ガフッ!!?」



 金属の甲高い破壊音が響いた。

 女の口から、言葉の代わりに鮮血が吹き出した。



「え……」



 少女の口から薄く漏れた声。

 私と少女の目の前で、檻を内側から破壊し、突き出された丸太の様な腕が、檻を抱くように立っていた女の腹を鷲掴み、恐ろしい握力で握り潰していた。



「ア、ア……ゴブッ!!」


「あ、お、お母さああん!!!」



 更に大量の吐血。少女が悲痛な叫びを上げた。

 女は涙を流し、どんどん色を失せさせていく細い腕をこちらに向ける。

 しかし、それに応じる隙も無く、女の身体は檻の中へと引きずり込まれていった。

 そして響く液体の音、骨の砕ける音、喰われていく肉の音。

 鼻腔を吐き気のするような死体の臭いが貫いてくる。

 ガシッと、赤黒い毛に覆われた太い腕が軋んだ檻を掴む。まるで熱した金属を曲げるかのように、意図も容易く檻が捻曲がる。

 できた隙間から亡者のように、静かに獣の巨体が這い出てきた。獣は発達した2本の足で大地を踏み締め、その体躯を持ち上げた。

 でかい。通常の1.5倍のサイズはあろうか。

 私の中の本能が、自然と獲物とその周囲の環境を捉える。獲物の如何なる行動にも対処できるように、極力身体の力を抜く。

 異様な雰囲気を漂わせた『狼』。私のフードの下の『耳』がピクリと動いた。

 瞬間。

 『狼』の足元の床が弾けた。尋常ならざる力で蹴り出された『狼』の身体。その巨体に似つかぬ俊敏さで、『狼』は私目掛けて一気に突っ込んできた。

 姿勢を低くし、タイミングを合わせて『狼』の顎を下から蹴り上げる。『狼』は急停止できず、突っ込んだ勢いのまま私の頭上を越えて後方へ吹き飛んでいく。

 私の見た目の細さからは信じられない程の力に、泣き崩れていた少女の瞳の涙がピタリと止まる。

 私は足手まといにしかならない少女に近付き、壁側へと放り投げた。受け身も取れぬまま、少女は地面をゴロゴロと転がっていく。

 その姿を一瞥し、再度『狼』を見据える。

 覚束無い足取りで、ゆっくりとその巨体を持ち上げていた。

 その目の濁り、口元から垂れる本来なら透明色であるはずの、紫に変色した涎。呪いにより存在自体が歪になってしまった成れの果て。

 そんな『狼』を、無感情に見つめる。

 憐れむ気持ちは毛頭無い。ましてや、助けようなどとは微塵も思わない。私にしてやれるせめてものことと問われれば、この歪な存在の息の根を止めてやることのみだ。

 真っ直ぐ、『相棒』の銃口を『狼』に向ける。

 ビクリと巨体が揺れる。本能的に、また知識として、私の持つこの得物が秘めた残虐性を察しているのだ。

 『狼』の体が低く沈む。2つの足に力を込め、再度飛び掛かりを試みようとしている。

 私はただ、それらの行為を見届けるだけ。静かに迎え撃つ体勢を取る。

 不意に、私をじっと狙い定めていたであろう『狼』の視線が外れる。その先の床に転がっていた少女を見据えており。

 『狼』はまるでそれしか見えていないかのように、全力で少女に飛び掛かった。

 私は察した。初めから『狼』の狙いは少女にしか向けられていなかったのだ。始めに飛び掛かってきたときにも、私のすぐ後ろに少女がいた。そして今も少女に向かって飛び掛かっている。

 『狼』は、すでに『狼』として存在などしていなかった。呪いにより存在を歪められた存在。呪いを掛けようと試み、失敗した女を喰い。今の『狼』の目的は、呪いに関与した存在を喰うだけの存在なのだ。

 人を呪わば穴2つ。呪いの贄として使われた血の持ち主である少女もまた、呪いに関与した存在の1人なのだ。



「……悪いな」



 『狼』が地を蹴る一瞬手前に、『狼』と少女の間に立ち塞がる。

 銃口は『狼』の眉間にピタリと照準を合わせて。

 『相棒』と『狼』との距離が瞬く間に零にーーー。



「ーーー願わくばーーー」



 ーーー引き金を引いた。

 次の瞬間。

 ガウンッ、と、轟音が空気を揺らした。

 家内がビリビリと震える。

 紫に変色した体液が迸り、部屋全体を華々しく飾った。

 『狼』の巨体は、今いる隠し部屋を越え、リビングを越え、壁を突き破り、やけに眩しい太陽の下。口から上の赤と紫の肉片群を開花させ、力無くその身を横たわらせた。

 薄い硝煙を上げる『相棒』を片手に、私は『狼』だったモノの傍に立つ。怖いもの見たさか、精神がおかしくなったのか、少女も私の陰に隠れるように覗きに近寄る。

 『狼』の、上顎から上が弾け飛んでいた。

 残された下顎、付随する舌、その奥の穴。

 2度と何も漏らされることのないと思われたその穴から、1つ、空気を揺らした。



「ーーーーーー」



 人の名前だろうか。

 私の後ろでえずきかけていた少女が口元を手で隠し、その目は驚きを称えていた。

 風は無い。閑散とした住宅地、誰も様子を見に顔を覗かせることもない。ただただ初夏の陽射しが寂れた大地を照らすのみだった。

 私は達成感もろくに無く、ただただ胸くそ悪い気持ちのまま、1つ大きな溜め息を吐いた。


     ※    ※    ※    ※    ※


 託児所ではないぞ、そんな意味を込めて、私は不機嫌さを隠すことなく机に頬杖を付いていた。

 視線の先には依頼主の少女。手に湯気とダージリンの香り立つティーカップを持ち俯いている。

 依頼は完遂した。それが少女の真に願った形だったかは別として。

 放心状態の少女をその場に置き去りにするわけにもいかず(そもそも報酬も貰っていない)、やむ無く私の事務所へと連れて来たのだった。



「最期、『狼』が発していたのは……あたしの父親の名前です」



 黙りだった少女が、ゆっくりと口を開いた。



「昔、あたし達家族は街で暮らしていました。その頃はお母さんとあたしの2人だけじゃなくて、お父さんも一緒に暮らしていました。

 お父さんは暴力的な人で、お母さんに対しては特に強く当たることが多かったです。でも、お母さんはそんなお父さんでもずっと好きで、どれだけ暴力を受けても見放したりしませんでした。

 お父さんは、本当は暴力なんてしたくないんだって、お母さんは言っていました。でもお仕事で、周囲がお父さんに求めることが沢山あって、ストレスもその分沢山あって。それを発散させる対象を家族に向けていて。

 あたしは、そんなお父さんが好きではありませんでした。どんな理由であれ、暴力が良しとされることは無いんだって思ってますから。

 でも、お母さんは違いました。お父さんという存在に依存していたんだと思います。盲目的に、お父さんを求めてしまっていたんです」



 でも、と。少女はそこで一呼吸置いた。



「お父さんは、亡くなりました。過労でした。ある朝、突然息を引き取っていました」



 死因は過労であったのに、父親の職場はその事実を認めなかったという。それどころか父親の問題点を挙げ連ね、一方的に悪役に仕立て上げたのだと。



「父親を悪役にし、その家族である私達まで謗り、住む場所を追い出されました。それから、お母さんは変わってしまいました」



 私は少女の告白をじっと聞いていた。同時に、母親である女の言動を思い返していた。

 『ただ人並みの幸せが欲しい』『もう何も奪うな』ーーー心からの慟哭だったのだろう。

 死して『狼』に喰われて尚、その依存する夫の名を呼ぶ程に。



「……あんたは、本当は母親のことをコロして欲しいなんて、思っていなかったんじゃないのか」



 問い掛けに、少女はじっと黙ったままだった。

 それを肯定の意図見なし、私は続ける。



「その証拠に、あんたは何度も母親を呼んだ。母親に寄り添った。母親に本当の自分を見てもらいたいと叫び続けていた」


「……それが分かっていて、母親をコロしたんですか」




 少女の言葉に、1つ溜め息を吐いた。



「私がヤらなくても、あの女は近いうちに死んでいたさ。自らの呪いによってな。そして、そのときにはあんたも一緒に道連れだ。それが呪いってやつだ」


「呪いに詳しいんですか?」


「いや……私も調べたことがあるだけだ」



 私も、同じことをやろうとしたことがあった。

 全てを呪ったことがあった。人間も、『狼』も、何もかも。

 しかし全てを呪うことは、父親と母親を呪うことと同義。それだけは許せなかった。



「あんたを庇うつもりは無い。だからはっきりと言うが、あんたが私に依頼を頼まなかったとしても、今回の結果は来るべくして来る未来だったと思ってる。今以上の被害が出て、な。

 だが、もしもの話なんぞ何の意味も無いことだ。現実は過去のもしもを願ったところで無意味にしかできていない。もしもを語るのなら、今語るしかない。今、未来のことにもしもを語るしか意味がないんだ」



 それが、私が見つけた希望。父親も母親も奪われ、失意の内に囚われた私が掴み取った、生きていくための道標だった。

 両親と私が願った未来ーーーヒトと『狼』が互いに認め合い、共存していく未来。

 夢物語であることは百も承知で、しかし願って止まない私の家族の夢なのだ。それが叶う日を渇望し、叶えるためにフードを血に染めるのだ。



「あんたがこれから先、あの母親をどう思い生きていくのかは自由だ。それに指図するような権利なんて誰にも無いからな。

 だが例えどのような生き方をするにせよ、ヒトというのは往々にして他者に良くも悪くも干渉する。あんたの父親が仕事に忙殺したように。あんたの母親が亡き夫を思い歪み、『狼』を奉るようになったように。それらには必ず周囲のヒトの存在がある。

 あんたは父親が受けた不当なレッテルと母親が犯した非人道的行為による禍根、その2つを背負わなくてはならないんだ」



 それは理不尽に与えられたものだ。それも重くのし掛かる咎なのだ。



「……歪みません」



 長い、長い沈黙の末、少女は呟いた。

 それは、とても力強い言葉だった。

 驚いていると、少女はいつの間にか顔を上げ、私をじっと見ていた。



「あたしは絶対に歪みません」



 繰り返された言葉には恐れも迷いも無く。

 何かを決意したような瞳が、私を見透かしているような得たいの知れない気持ちを想起させた。



「……なら、私がこれ以上言うこともーーー」


「でも!それには!」



 誤魔化すように発した私の言葉を遮るように、少女が食い気味に被せてくる。



「あたしは弱いです。誰かのためにも、ましてや自分のためにも扱える力なんてほとんどありません。あたしはもっと強くならないといけないんです」



 不意に、空気が変わった、気がした。嫌な予感が止まらない。私の中で警鐘が鳴り続けている。



「あたしには、あたしを鍛えてくれる師匠が必要なんです!」


「ちょっと待て」



 今までかいてきたものとは質の違う汗が私の背を流れていく。

 この流れは経験上ろくなことにならない。



「あんたはまだ年端もない、ハッキリ言えば子どもだ。この時世、生き急ぐやつは大抵まともな最期にならない」


「あなたは……『あなた』というのは失礼でしたね。えっと、赤頭巾さん、で良いでしょうか。赤頭巾さんはソロで活動していると聞いています」


「おい、私の話を聞け」


「ギルドには参加していないんですよね。理由はよく分かりませんが、何か高尚な理由があるんだと思います」


「あんたは私との会話に参加しろ。ついでに私のことを無駄に持ち上げようとするな」


「そんな赤頭巾さんに折り入ってお願いがあります!」


「分かった、私からもお願いする。頼むから会話をしてくれ」


「あたしを……あたしを弟子にしてくださいッ!」


「……」



 今にも飛び掛からんとばかりに、少女が身を乗り出して懇願してくる。

 私は目元が引きつっているのを感じながら目を閉じ、大きく溜め息を吐く。



「あんたはこの後コミュニティに連れて行く。孤児として保護してもらう予定だ。

 『狼』によって両親を失った子どもというのは数多く存在するんだ。それの保護及び養育等の支援もコミュニティではしていると聞いている」


「あたしには必要ありません!あたしは赤頭巾さんの下で働くんです!」


「『働くんです』じゃない。私は求人募集なんてしていない。そもそもソロで活動していると分かっているのなら共に仕事をしようなどと思うことの方がおかしいと思わないのか」


「思わないです!」


「思え」



 ああ言えばこう言う、何を言っても少女は応じる気はないようだった。

 段々イライラしてくるのを何とか抑えながら、私はおもむろに机の上に置いてあった『相棒』を掴むと、銃口を少女に向けた。



「これ以上ここに留まろうと言うのなら、あんたはもう依頼主ではなく侵入者だ。あんたがそうである以上、こっちも相応の対応をする」


「あたし、まだ報酬を払えていません」


「払う能力も無いだろう」


「はい、だからここで働いて返済します」


「だから……」


「お願いします、雑用でも何でもします!!どんな危険なことだって、お手伝いできるのであればやります!!どうかあたしを弟子にしてください!!」


「っ……」



 少女の目を見てしまった。やはり強い決意を秘めた瞳だった。

 そしてその奥。

 濡れた黒真珠の奥に、妖しい淀みが渦巻いているのを見てしまった。

 少女の母親が崇拝していた、『狼』の瞳の中で漂っていた濁りに酷似していた。



「呪いか」


「え?」



 小さく、ポツリと呟いていた。

 首を傾げる少女に首を振る。

 椅子のリクライニングに体を預け、私は天井を見上げた。

 事務所内の掃除は結構行っているつもりだが、天井まではなかなかカバーできていない。角に薄い蜘蛛の巢が張られているのを見つけた。

 何度めかも分からない溜め息を吐く。

 やはり、私の予感は的中することになってしまったのだ。



「……まずは、掃除から頼むぞ。徹底的にな」


「はい?」


「師弟関係とやらは知らんが、ここで働く以上、まずは雑務からってことだ」


「……は、はいッ!すぐやりますッ!ありがとうございますッ!!」



 骨よ折れろとばかりに、凄まじい勢いで少女は頭を下げる。

 そして、部屋の隅に立て掛けてある掃除道具の下へとまっしぐらに走っていったのだった。



「あ~……私は何がしたいんだ」



 似つかわしくない後悔が頭の中でぐるぐると回る。

 不意に目眩と頭痛が襲ってきたような気がして、静かに目を閉じた。

 暗転する視界。事務所内でも脱がない、マントに付いたフードの下で、『耳』が力無く垂れているのを感じながら。

 私は現実逃避の如く、夢の中へと意識を投げ出すのだった。

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Red coif ~愛呪~ ニコ @nico-youzinkyo

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