春はまだ青いか

青い向日葵

春はまだ青いか

 近年、春らしいうららかな天気がめっきり少なくなって気分の変わりやすい空模様に翻弄されている。かんの戻りだ夏日だと強風や雷の合間に異常気象が定着する毎日を戸惑いながらやり過ごしているうちに春はいつの間にか終わっていて、じめじめとした長い雨の後は殺人的な猛暑が容赦なく待っているのだ。

 年度始めの新しい生活、桜の開花、花吹雪、艶々と茂る若葉に季節の到来は感じていても、何処か他人事ひとごとのような無責任な気持ちでぼんやりと見過ごしてしまう己の薄情にうんざりして目を閉じ、瞬きをしてそっと立ち止まり、ゆっくりと振り返る。

 誰もいない何も変わらない風景に過去の遠い遠い場所を重ねて無理矢理に思い出をずんずん辿ってゆくと、必ず通るのはあの商店街の入り口の小さな古いアパートと夜中の二時に閉店するセルフサービスの惣菜の店と坂の上の深夜のコンビニと煙草の自販機。黄緑色の四角い公衆電話。

 あの頃は缶ジュースと同じような手軽さで煙草が買えた。値段も今より随分と安くて街に喫煙所も多かったし、携帯電話なんて特殊な職業の人しか持ってなかった。当時私達は小型のPHSを利用していた。通話及び半角カナの30文字程度のメッセージを遣り取り出来る。寝ても醒めても私のデジタル時計のような狭い液晶画面には意味もない一言のカナ文字が引切りなしに飛んで来た。私達は誰よりも繋がっていた。何となく。それで充分だった。

 時代は変わったのだ。

 何度も機種変更してスマートフォンになってからも一度交代している携帯電話のアドレス帳にはもうあの頃の人間関係は残されていないのに、ふと思い出すエピソードはいつも遠い昔のことばかりで、最近の電話帳こそもしも突然消滅しても驚くこともない程度のいい加減な情報で構成されていると感じる。長い間、何の為に生きてきたのかすらまったく定かでない。

 春。

 遠い昔。

 だが、心象風景は止まっていた。あの日のまま。春のままで。


「季節の中で一番好きなのは」


 この質問の答えも変わらない。やはり春だ。

 移りゆく季節の中で最も勢いのある一見希望が満開のようで不安や悲しみも少なからず含有する切なくて賑やかな季節。

 何故、春が好きなのだろう。よくよく考えてみると私達が出会った季節だから、ではないだろうか。気づいた時、戻れないあの日の陽だまりのような暖かい空気を頬に微かに感じた気がした。風が、今年も春を運んでゆく。


「こんな日がいつまでもずっと続けばいいね」


 そう言った日から数年足らずで君はものも言わず背中を向けて眠るようになったけれど、その温もりのすぐ傍で泣いてなんかいないで確かな存在に触れるべきだったのかもしれない。去ってゆく足音を聞いてばかりいないで何処までも追いかけて行き、ずっと続くリアルな暮らしを作り上げて生きることだって私達には可能であったはずなのに、あの春の清々しい朝の光の中で不意に今生の別れを予感した通り、それきり会えずに何十年という恐ろしい単位の年月が過ぎ去って、今も時々刻々と過ぎてゆくこの瞬間は何も生み出さず、ただ遠い追憶の中の幻の君を追いかけては見失い、どう足掻いても今を描けなくて途方に暮れる。

 薄桃色の優しい春は絵画のモチーフみたいに作り物の小綺麗さを纏って少し遠いところに毎年いつも見えていたとしても、私とあの日の君の青く飾り気のない短い春は色褪せる気配もなく、ただいつまでも青く、この胸のぽっかりと空いた穴の向こうに食事の時間でも待つように、ちょこんと座っている。


 こんな日がいつまでもずっと続けばいいね。


 続いている。続いていたんだ。

 君は、あの日のことなどすっかり忘れて生きていてほしい。私の名前も好きな季節も髪の手触りも体温の低い肌の微かな温もりも寂しい部屋の風景も二人で歩いた商店街も全部全部忘れて、君の人生を生きているか。

私には答えを知る由もない永遠の問い。

 何の噂も連絡も情報が一つとして届かないことが、君の幸福を示しているのだと信じたい春。

 私の春は、いつの日も青いまま。

日常から外れた何処かで、薄れゆく記憶の狭間でくっきりと鮮やかに、いつもそこにある。

 君は何気ない約束を守ってくれたのかもしれない。ずっと傍にいるからと、あの日の青いくらいに澄んだ黒い瞳と嘘ではなかった口約束は私の凍えるような深い孤独を救ってくれた。

 あの日も、あの時も、今もずっと君は、青い春のままで。

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