不死島先輩は、ばかだ。
逢坂 新
2006/11/9
「精神的に成長のないものは、ばかだ」と、
たぶん、言ったと思う。
たぶんというのは、彼女の口元をすっぽりと覆う人工呼吸器のせいで、ただでさえ弱々しい彼女の声が、分厚い水槽を隔てたように不明瞭だったからだ。
とはいえ、僕の推測はほぼ完璧に当たっていたと思う。
当時の僕はいつも何かしらの理由で彼女に怒られていて、彼女は僕を叱るときには決まって夏目漱石のあの一文を引用した。
二〇〇六年十一月九日のことだ。
彼女が大学を休学してから、もうすぐ一年が経とうとしていた。
窓の外に季節はずれの雪が降っていたことをよく覚えている。
じっとりと水分を含んだ、鉛のような雪だった。
その日は彼女の二十歳の誕生日で、同時に命日だった。
あの気の毒な中東の農家の息子、サッダーム・フセインが死刑を宣告された、その四日後のことだ。
彼はたくさんの人間を殺してきたけれど、不死島先輩はひとりの人間の命も奪ったことなどなかった。
聖戦に万歳、神は偉大なり。
だけど、不公平だ。
彼女がいったい何をしたというのだろう。
中東の独裁者に匹敵するような罪が、彼女にあるのだろうか?
頭ではわかっている。
悪人にも善人にも、死は前触れなく、等しく訪れるものだと。
だけど、納得がいかないのだ。
どうして彼女が死ぬ必要があったのだろうか。
二〇〇六年。千円札の顔が、まだ夏目漱石だった年。
メッカを巡礼中のイスラム教徒が将棋倒しになって死んだ。
インドネシアの地震で大勢が死んだ。
戦場では米兵がイスラム教徒を撃ち殺し、イスラム教徒がイスラム教徒を爆殺していた。
そして、不死島先輩が、死んだ。
そんな年だ。
彼女の言うとおり、僕はばかだった。
今まさに消えてなくなろうとする彼女の命から目を背けて、雪なんか眺めていたのだから。
後ろを振り返ってはいけないと思ったのだ。
振り返ってしまったら、そのまま彼女が完全に塩の塊になって死んでしまう気がした。
ソドムから逃げ出すロトのような気分だった。
塩化性多臓器不全。
彼女を殺した病気の名前だ。
珍しい病気だった。
体の色んなところが徐々に塩になっていく病気で、原因の究明や治療法の確立は未だなされていない。
一億人にひとりの確率で発症する、一〇〇%確実に死に至る病だった。
彼女の身体が崩れてしまうのが怖くて、塩になってしまった彼女の肌の感触が怖くて、僕はやつれて細くなった彼女の手を握ることさえできなかった。
「佐藤くん」
彼女の父親が、僕の名前を呼ぶ。
「娘と、話がしたいんだ。……少し席を外してもらってもいいだろうか」
思えば、僕はここで「嫌だ」と言うべきだったのだろう。
彼女の存在が消えてなくなるその瞬間まで、僕は彼女に寄り添うべきだったのだろう。
けれど、僕はそれを選べなかった。
彼の言葉に無言で頷く。
くたびれ果てた彼女の両親は、彼女の塩になった左手を握っていた。
やめてくれ、と思った。
そんなに強く握ってしまったら、不死島先輩が崩れてしまう。
けれど口には出せなかった。
結局、僕は黙って病室をあとにした。
死にゆく不死島先輩の顔を見るのが怖くて、僕は下を向いて歩いた。
だから、今際の際のそのときに、彼女がどんな表情をしていたのかを僕は知らない。
火葬場で焼かれた彼女の頭蓋骨は、思いのほか小さかった。
さらさらした細い髪も、くりくりとした愛らしい目も焼き尽くされて失われてしまったそれを、火葬場の職員が丁寧に砕いて骨壺に納めた。
彼女を砕く音が無駄によく響いて、僕は何度も吐き気を抑える羽目になった。
ぼろぼろになった彼女の骨を箸でつまみながら、胃の中に詰まったあらゆるものを吐き出してしまいたかった。
「なあ、佐藤君」
足から順番に行儀良く骨壺に納められ、桐の箱に仕舞われて、驚くほどコンパクトになった不死島先輩を抱えた彼女の父親が言った。
ずいぶんと憔悴しているようだったけれど、ぎりぎりでどうにか崩れ落ちないように耐えている、といった表情だった。
「今どきの火葬場の焼却炉ってのは、全然煙が出ないようになってるらしい。ダイオキシンがどうとかって話で」
彼が僕にいったい何を語りかけ、何を言いたいのかはよくわからなかったが、僕は曖昧に頷く。
「そういう良くないものは、高性能なフィルターが全部
不死島先輩の父はそう言って、節くれだった手で、彼女だったものが納まっている桐箱を撫でる。
「空に行けないんだったら、この中か? 俺にはそうは思えないんだよ。これは、もうモノだ。きざしじゃない。そういう風にしか、見えない。俺は、俺には、薄暗い煙突の中で、きざしが煙と一緒に捕まっちまったように思えるんだよ」
ひどく苦しそうな声だった。
自らの一部をえぐり取られてなお、毅然と立っていなければならない。
そういった立場に置かれた人間が絞り出す、悲鳴のように聞こえた。
「きざしは、まだ、暗いところで泣いてるんじゃないか? あいつが何をしたって言うんだ? 誰が、俺が悪いのか? わからないんだ、佐藤君」
わからない。
僕にもわからなかった。
ただ、彼のやり場のない怒りの矛先を、僕に向けて欲しいと思った。
強く強く強く強く、死ぬまで何度も殴りつけて欲しいと思った。
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