後編
伏羽の顔を見た瞬間受付嬢は一気に表情を変えた。
「おはようございます、伏羽様」
受付嬢は丁寧に挨拶をした。
「うむ、おはようじゃ。おぬしちゃんと約束を守ってくれたようじゃな。恩に切るぞ」
「え? 東藤から電話でもあったでしょうか」
「電話はなかったがの。まぁ良い。奴を呼んでもらえるか」
「かしこまりました」
昨日聞いた通り。東藤は伏羽が来たら電話をつなぐようにと言った。受付嬢は東藤の番号を押し受話器を耳に当てる。
『はい、東藤です』
受話器の向こうから綺麗な女の声が響いた。
「あ、東藤さん。伏羽様がお見えになりました」
『そうですか。少し代わって頂けますか?』
「え? は、はい。分かりました」
受付嬢は意外だった。先に電話で話すとは思わなかった。いや、基本的に来客は部屋に通して直接話すものだ。と、いうことはひょっとして東藤は自分でこの少女に帰るように言うつもりなのだろうか、と受付嬢は思った。
「伏羽様。東藤が話したいそうです」
「あい分かった」
受付嬢の思惑など知らずに伏羽は受話器を受け取り耳に当てた。
「よう、狐。伏羽童子が来たぞ」
受話器の向こうから返答はなかった。代わりにクツクツと乾いた笑いが響いた。
「可笑しいか。それはそうであろうな。貴様の命日が今日になったということじゃ。恐ろしくて笑いも漏れよう」
『何言ってくれてるの。逆よ逆。かわいい子鬼ちゃんが私の腹の中にまんまと入ってきてくれたから可笑しくて笑ってるのよ』
電話の向こうから聞こえてきたのは心底面白そうな男の声だった。
「ほう、言うたな。貴様は暁部めを殺した。わしは必ず貴様を殺すぞ。本気のわしの実力、なにも知らんわけではあるまい。本当に止められると思うてか」
『相手になんないわよ。あの狸だって殺せたんだもの。あなたなんて赤子の手をひねるよりまだ楽勝だわ。せいぜい吠えなさいな』
「はっ、ぬかせぬかせ。ぬかしただけ貴様の負けたときの泣きづらがみじめになるというもんじゃ。して、どうする? 貴様の部屋に上がればよいのか? それとも貴様が降りてくるか?」
『なに言ってんのどっちもゴメンよ。私、自分で動くのが嫌いなのよ。今までだってこれからだってそう』
「そうかそうか。じゃから、人間の男どもをたらしこんで自分は表に出ずに国を操ろうと言うのか」
『あぁら、やっぱり全部お見通しなのね』
「当たり前じゃ。じゃから貴様を殺しに来たんじゃ」
『なるほどね。まぁ、積もる話はあなたが無事私の前まで辿りつけたらしましょう。だから、死なないでね。妖怪頭目伏羽童子ちゃん。では、私の〔百鬼夜行・地獄絵巻〕をお楽しみくださぁい』
そこで、電話はぷっつり切れた。伏羽は受話器から耳を離した。
伏羽が受話器を返そうとすると受付嬢は口をあんぐり開けていた。
「なんじゃ。わしの顔になんか付いとるか」
「い、いえ。なんでもありません。ええと、東藤はどうしろと」
「なんも言わなんだ」
とりあえず受付嬢は受話器を受け取る。受付嬢からすれば伏羽は意味不明のことばかり言っていた。しかし、驚くべきはその意味不明の発言に東藤がしっかり受け答えしていたらしいことだ。受付嬢は何がなにやら分からなかった。
「さて、嫌な予感がするのう」
伏羽は腕組みする。と、その肩に手が置かれた。振り返ると立っていたのは公太だった。
「な! 何故貴様がここにおるんじゃ!」
「伏羽、今日はそのへんにしといて帰ろう」
「い、いや。いかん! 貴様すぐこの建物から出るんじゃ!」
「いいから。出るのはお前も一緒だから」
「だぁああ!」
伏羽が叫んだのと同時だった。カツンと音がした。すると、建物の色が変わった。いや、光が変わった。白い蛍光灯で照らされているはずなのにフロアは赤黒い景色になったのだ。見れば窓は外の光を通してはいない。そこに見えるのはフロアと同じ赤黒い暗黒だった。
「あやつ! ここで始める気か!」
「な、なんだ。おい、なんか暗くなったぞ」
見れば一階のフロアに居るもの全員がオロオロしている。皆突然の異常事態にどうすればいいのか分からないようだった。と、上階へ向かう階段、そこから突然何かが降りてきた。それはひょろひょろとした細長い、白い煙のような何かだった。それは伸びに伸び風のようにフロアを走り抜け次々と人々に触れていく。
「な、なんだ!」
人々が口々に叫び声を上げる。煙を浴びた人間はそのまま力なく倒れていった。
「ちょ、ちょっと!」
「うん!」
受付嬢たちはすぐに警備員に連絡しようと電話を取った。ボタンをプッシュする。しかし、
「あれ、おかしい。電話が通じない」
「え?」
「ずっと変なノイズしか聞こえないよ」
「ええ?」
そうこうしている内に煙は伏羽や受付嬢たちの方に迫ってきた。
「ちぃ!」
伏羽は公太をかばい煙を躱す。
「きゃあ!」
受付嬢たちは煙をもろに浴び昏倒した。もはや一階のフロアに立っているのは伏羽と公太だけだった。
「な、なんなんだよこれ。ガス漏れか?」
「違うのこれは。断じてガスなどではない」
煙はひゅるりと受付の前で一つ翻るとその先端が膨れ上がり顔を成した。それはドクロのような顔だった。
「これで仕事は完了だな」
「なんじゃ。他のものどもを眠らせるのが仕事か」
「そういうこと。ここに来るまで全部のフロアの連中眠らせてきたんだ、骨だったぜ。天足の野郎にはてめぇらは食って良いって言われてる。てめぇは鬼だからまずそうだが、そっちの小僧はまぁ美味とまではいかなさそうだが食いではありそうだ」
煙はケタケタと笑った。
「な、なんだよこれ。プロジェクションマッピングかなにかか?」
「アホか。これは妖魔じゃ」
すると階段からどんどん足音が聞こえてきた。見れば子鬼に人魂、猫又に付喪神、妖怪だらけ魑魅魍魎どもがすごい数で階段を降りてくるところだった。
そして後方でも音がした。自動ドアの開く音だ。しかし、そこから入ってきたのはオオムカデに火車に天狗、こちらもやはり魑魅魍魎。いつの間にか一階フロアはこの世ならざる怪異に埋め尽くされていた。
「な、なんじゃこりゃあ。ハロウィンにはまだ早いだろ!」
「じゃから、これは妖怪じゃと言うとろう」
「はぁ!? じゃあ、こいつらは何かのイベントの催しとかじゃなくて本当の化物だっていうのかよ」
「そうに決まっておろう! 見て分からんか!」
「騒がしいな」
煙の怪異はうんざりといった様子だった。
「で、どうするんだ伏羽童子。おとなしく食われる気はないんだろう」
煙は言う。
「それよりこの人間どもを食わせろ」
「ダメだダメだ。全員狐に奈落に落とされるぞ」
「ひぃい。それは勘弁だ」
そして、化物どもは口々にひそひそと話していた。
「やれやれ。雑魚ばっかりじゃのう。この程度でこの伏羽童子を止められると思うておるのか狐のやつは」
「さてね。でも、雑魚でもこの量だ。言っとくが天足の居る階までこの量でみっちり詰まってるからな。流石のお前でも無理だろう」
「・・・・・・・はっ!」
と、伏羽がそう言った瞬間だった。フロアに居た妖魔全員の動きが止まった。いや、動けなくなったのだ。なにせ全員凍結してしまったのだから。
「あなどられたものよ。この程度でこのわしが諦めると思うておったとはな!」
伏羽童子の口には二本の牙が伸びていた。そして額からは二本の角が伸びていた。それはまさしく鬼だった。これが伏羽童子の本当の姿だった。
「お、お前、なんだよその姿」
「あー。貴様見るのは初めてじゃったな。これがわしの真の姿。鬼としてのわしの本気モードよ」
「あ・・・・。ああああ」
公太は後ずさった。
「なんじゃ、どうした」
「お、お前本当に鬼だったのか!」
「はぁ!? 貴様気づいておらんかったのか!?」
両者の叫びがこだました。
「なるほどなるほど。つまり貴様はずっとわしをとんでもなく思い込みの激しい頭のおかしい女だと思っておったと」
「そうそう」
言いながら伏羽は目の前の小鬼を爆発で吹き飛ばす。
「で、それの面倒を見なくては、とずっとわしに付いておったと。そういうわけか」
「そういうわけだな」
「なんでじゃ!」
伏羽は目の前に武器を振りかざして飛び出してきた妖魔の群れを部屋ごと氷漬けにした。
「わし! 何度も言うておっただろう! 『わしは妖怪じゃ』『わしは鬼じゃ』『わしは人間とは違う』何度も何度も言うておったろうが! ヒントどころか答え言いまくっておったじゃろうが!」
「いや、だから。そんなもん信じるやつ居ないんだって! 堂々と『自分は鬼だ』って言ってるやつ信じるのはもう、それもやばい奴だと俺は思うよ」
「それは心の澄んだピュアな良いやつじゃろうが! お前は心が汚れておるんじゃ!」
「それには異議があるな。俺は自分で正しいと思う選択をしたんだよ」
「きいいい!」
巨大な輪入道が廊下の向こうからすさまじい勢いで二人目掛けて走ってくる。
「あれは!」
「ええい! 人が大事な話しておるところで!」
伏羽は右腕をかざす。すると輪入道の車輪が赤く赤熱し蒸発した。輪入道はホイールだけの状態になった。
「邪魔じゃ!」
伏羽はそのホイールだけの輪入道を蹴りつけて壁にめりこませた。輪入道はしくしく泣いた。
「じゃあ、わしが言った人間への渋い私見とか、お前に言ったちょっといい話とか、わしの悩み事とかも全部! 全部わしの妄想じゃと思っておったのか!」
「ああ、すごい想像力豊かなやつだなぁと思ってたよ」
「むきいいいいいいい!」
廊下の向こうから凄まじい数の蜘蛛、網切、そして青坊主におうに、それらがみっちみちに廊下を埋め尽くし二人に迫ってきた。
「ええい!」
それをみるや伏羽は天井を吹き飛ばし、公太を抱えて上階に上がった。そこに肉塊のぬっぺほふ、女の顔を持つ人面の蛇、濡れ女が居たので伏羽はまとめて凍結させた。
「そうか、壁や天井をぶち抜いて移動したほうが相手の動きを撹乱できて上策じゃな。ってそうではない。じゃあなにか、わしに妙に優しかったのも頭のおかしいやつへの優しさであったのか!」
「ああ、放おっておいたら何するか分からなかったから」
「くそったれ!」
伏羽は壁をぶち抜き隣の部屋に入った。山童が花札をしていたので全部凍りつかせた。
「くそう! なんじゃそりゃ! わしがただただ間抜けであっただけではないか!」
「いやぁ、普通信じないと思うよ、やっぱ」
「やかましい! 謝れ! なんか知らんがわし今すごい恥ずかしい! 早く謝らんか!」
「ご、ごめん」
公太は納得行かなかったがとりあえず頭を下げた。
「きいいいいい!」
伏羽は叫びながらまた天井をぶち抜いた。公太を抱え上階に上がる。
「くそ! くそ! イライラが収まらんわ。じゃが、さっさと狐のところへ行かねばの」
「これはどうなってるんだ。一体何が起きてるんだよ」
「ええい! 貴様敬語で話せ! わしは西国の妖怪の総大将、伏羽童子様じゃぞ!」
「ええ、それはちょっと。もうそこそこタメ口で来てるし」
「むきいぃい! ええい! 今ここはおそらく地獄とつながっておるんじゃ。狐め。どうやったかは知らんが現世と地獄をつなぐ手段を手に入れたと見える。じゃからもう妖怪湧き放題じゃ。倒しても倒しても数に限りはない。このビルそのものが地獄とつながっとるようじゃから脱出手段もない。出るには狐を倒すしかないんじゃ」
「なんだと! じゃあ俺はどうなるんだ!」
「じゃから、なんで貴様がここにおるんじゃ! 巻き込むまいと駅で別れたというのに」
「いや、お前が変なことしないか心配になって」
「ぎいいいいいい!」
伏羽童子は叫ぶ。ありとあらゆる不満が今伏羽童子を怒りに駆り立てている。伏羽童子は怒りに任せてどんどん天井をぶち抜いていく。
「どこにそのボスが居るのかは分かるのか?」
「それは問題ない。やつの濃い妖気がはっきり伝わってくる。わしを挑発するようにの。おそらくあと十何階昇ったところじゃ」
「うへぇ。それはきついな」
「何、わしにかかればすぐよ」
そう言って伏羽童子は廊下に出る。すると、天狗が火矢を構えて廊下にずらりと並んでいた。
「うわあああ!」
「ええい!」
伏羽は公太を抱えて部屋に再び飛び込む。火矢は二人の頭をかすめて壁に突き刺さった。壁に火が突き燃えがる。天狗達は次の矢を構えている。
「貴様がおると自由に動けん!」
「俺のせいかよ! あんなに優しい言葉かけてくれたのにこの対応の違いは何だ!」
「ええい! まどろっこしいわ」
伏羽は公太の言葉を無視して脇に抱えた。天狗が再び矢を放つ。それが当たる寸前で伏羽は窓ガラスを蹴り破り外へ飛び出した。
「ひええ!」
伏羽は窓ガラスに指を突き刺し姿勢を保つ。公太が下を見るとそこに地面はなかった。そこは底なしの闇だった。このビルは底なしの闇の上に浮いていた。そして上を見れば井戸の底から見たように丸く切り取られた青空が見えた。
「どうなってんだこりゃあ」
「あの下は地獄じゃ。今このビルは現世と地獄の間に浮いておるんじゃな」
そう言って伏羽はビルの壁面を走って上り始めた。ここなら中を通るよりもずっと近道が出来る。東藤の居る階まで一気に突っ走れば良いだけだ。
が、そう安々とはいかないようだった。ビルの陰から、闇の底から妖魔が湧いてきた。
「ちぃ! どこへ行っても同じか!」
烏天狗の群れがバタバタと飛んでくる。船幽霊が、人魂を引いた女の生首が二人目掛けて飛んでくる。
「こなくそ!」
伏羽はそれらに応戦する。烏天狗の翼を凍らせ、船幽霊の船底を爆発で吹き飛ばし墜落させる。
「あいつら落ちたらどうなるんだ」
「下は地獄じゃ。あやつらなら問題ない」
次々と伏羽童子は襲い来る怪異達を叩き落としていく。と、ビルの向こうからぐるりと何か巨大なものが現れた。それは巨大な巨大なオオムカデだった。下を見ればビルに何巻も巻き付いている。
「すげぇのが出たぞ!」
「ちぃい!」
伏羽はオオムカデを凍らせようと試みる。しかし、デカすぎた。体の半分までは凍るがそれ以上は行かない。ついでに凍るのは表面のみのようですぐにふるい落とされてしまう。
「大分強いの! 力が中まで通らん!」
「どうすんだ!」
「こうするのよ!」
伏羽はそのまま公太をぽーいと空高く放り投げた。
「うわあああああ!」
公太は宙を舞い、ビルの屋上スレスレまで飛んでいく。その間に伏羽はオオムカデにしがみついた。
「ぬええええええい!」
そしてオオムカデの体を力を込めてビルから引き剥がした。そのまま壁を疾走し巻き付いた体もどんどん引き剥がしていく。壁が弾け飛び破片が舞い散る。オオムカデは甲高い叫び声を上げる。
「このまま落ちろ!」
伏羽はオオムカデを引き剥がすとそのまま闇の底へ突き落とした。
「うわあああああああ!」
そして落下してきた公太をキャッチした。
「こ、怖かった。すごい怖かった」
公太は涙目だった。
「ふ、わしを辱めた罰と受け止めよ。そら行くぞ!」
伏羽は公太を抱え、遅い来る妖魔を撃墜しながらとうとう最も妖気の強い、目標が居るであろう階層の窓ガラスを叩き割った。そして、フロアに侵入した。
「どうだ、大丈夫そうか」
「うーむ。あの部屋以外から妖気は感じられんな」
「なんか。俺すごく怖いんだけど。悪寒と足の震えが止まらないよ」
「やつの妖気に当てられておるのだろう」
「いや、お前と戦い始めてからずっとそれはあったんだけどな。ここに来てさらに強く感じるんだよ」
「ああ、わしの妖気とのダブルパンチじゃな。貴様は信心が足りんからわしら2体の妖気を浴びてもその程度で済んでおるんだろうな」
二人は廊下から一つの部屋を伺っていた。役員室、取締役が居る部屋だ。恐らくそこに大ボスが待ち構えている。
「待ち伏せの雰囲気もなしか。どうやらあやつ、あの部屋で待ち構えておると見える。ふむ」
伏羽は腕を構える。
「何する気だ」
「あそこの壁一体に冷気を集中させた後に一気に加熱して爆発を起こす」
「お前がずっと使ってるあの超能力かなんなんだそりゃ」
「これは妖術じゃ。わしはものの温度を自在に操る妖術を得意としておる」
「へぇ、便利そうな能力だな。お湯沸かし放題だ。でも、正面突破では行かないのか」
「あんまり性に合わん」
伏羽は能力を発動させる。一瞬濃い霧が発生したと思った次の瞬間、大爆発が発生した。
壁が吹き飛び、その向こうの部屋の中まで爆風と破片が飛び散った。
「まぁ、これでどうこうなるとは思うておらんがの」
煙で部屋の中は見えない。いや、壁がなくなった今部屋と呼べるかも怪しいが。伏羽は目を凝らした。と、
「ぬっ!」
伏羽は言うが早いか手を前にかざした。それが掴んだのは蛇の頭だった。目にも留まらぬ速さで煙の向こうから伸びてきたのだ。伏羽はそれに力を込め煙から引きずり出そうとする。しかし、もう一つ今度は雷撃が伏羽を襲い、それを躱すために蛇は離さざるを得なかった。公太を抱え廊下の反対へ飛び退る。つまり、役員室の真ん前へと。
「随分なご挨拶ね、伏羽童子。鬼といえば馬鹿みたいに真っ向勝負するものだと思っていたけど」
「スマンな。わしは鬼の中ではひねくれておる。何が仕掛けられているか分からん部屋にむざむざ飛び込むつもりはなかったわい」
煙が徐々に晴れ始めた。
「あら、そんな姑息な罠なんて張ってないわよ。だって張るまでもないんだもの」
「ほう、この部屋まで呆気なく侵入を許しておいて、自分の手駒にまだ信頼を寄せて折るのか」
「そうね。もうちょっと足止めくらいはしてくれると思ってたんだけど。ダメね。全然ダメ」
煙は晴れた。そこに居たのは2体の獣と一体の妖狐。獣の片方は電気を纏ったイタチのような巨大な獣。もう一体は頭は猿、胴は狸、尻尾は蛇、四肢は虎という異形のこちらんも巨大な獣。そしてその2体を従えて立っているのが金色の毛並みの7本の尾を持つ半人半獣の妖狐。
「え? 男?」
思わず公太は口にした。妖狐は化粧をしていた。紅を塗り、眉を描き、まぁ現代的なファンデーションを施し。しかし、その顔、体格は紛れもない男のものだった。男と言われた瞬間に妖狐は明らかに激怒した。ぴゅい、と札を一つ放った。 が、しかしすぐに伏羽が焼き払った。
「ちっ。私を男と言ったわね。坊や」
「ええと。あ、オカマか」
「うーん、そうね。まぁ、それなら許しましょう」
謎の相互理解が図られた。
「さて、ようこそお二人とも。良くここまで辿りつたわね。褒めてあげるわ」
「褒めるも何も雑魚ばかりだったわ。地獄との門をつないだところであんな雑魚しか呼べんのではわしクラスの妖怪にはなんの意味もないと思うがの。貴様どうやって暁部を殺した。七尾の妖狐、天足御前」
「んっふっふー。それは後のお楽しみよ。まずはこの私の可愛い手駒達が相手するから」
「鵺に雷獣か。どちらもそこまで強力な妖怪ではなかったはずじゃが」
「この2匹は私が手塩にかけた特別な妖魔なの。私が選び抜いた鵺と雷獣を地獄で鍛えてそして連れてきた。あなたでも手を焼くはずよ? まぁ、でもその前に少しお話をしましょうか。せっかく遠路はるばるこんなところまで来てもらったんだしねぇ」
天足はクツクツ笑った。伏羽は舌打ちをする。何故か天足は余裕だ。2体の妖獣、そして天足の妖術。確かにその2つを使えば伏羽と良い勝負をするだろう。しかし、あそこまで余裕を持てるほどの実力差にはならない。それは伏羽にも自信があった。得体が知れないというのが所感。しかし、伏羽には確かに問い正したいこともあった。なので聞いてやることにした。
「ふん、貴様の計画とやらはどこまで進んでおる。もうすぐ日本は手に入りそうか?」
「そうねぇ。もう随分の男を手篭めにしたわ。財閥の重役、トップ、国会議員に政界の重鎮。裏の人間もちらほら。皆、私と一度寝てしまえばおとなしくなったものよ。人間の男って可愛いものねぇ。でも、まだダメね。全然ダメ。あと十年はかかるかしら。平安時代ならいざ知らず。さすがにこの複雑な現代社会で国を意のままに操るにはまだ時間がかかるわねぇ」
「ちっ。じゃが十年あればお前の手の内ということか」
「うふふ、そういうこと」
「え? 手篭め?」
そこで公太はふと疑問に思った。
「お前男だよな」
天足は殺意に満ちた目を向けた。
「いや、オカマか。手篭めにするって、ああ。そうか女に化けてるのか。じゃあ、結局女と寝てるってことで、いやでも中身は男・・・・。ん? 心は女か。じゃあ普通に女と寝てることになるのか? 難しいな」
「どうでも良いことを悩むな! 緊張感のある場面なんじゃぞ!」
伏羽は咳払いを一つする。気を取り直して質問を続ける。
「それで、国を手に入れてどうしようというんじゃ貴様は。そういえばビルの中の人間は生かしておったな」
「当たり前じゃない。行方不明者や死人が出たら私が動きにくくて仕方ないもの」
「ふむ。で、貴様は何がしたいんじゃ。貴様の目的が見えんわ」
「どうするって。別に何も考えてないけど」
「何?」
「ただ、こういう大きいものを思い通りに出来たら楽しそうって思っただけよ。それだけ。それで思い通りに動かして、誰かを叩き落としたり、絶望させたり、争わせたりしたら楽しそうだなって思うだけ。だってそうでしょう。私の指先一つで誰かを殺すことも、組織を潰すことも、国同士の仲を破壊することも、果ては戦争を起こすことだって自由自在なのよ。どれだけ高潔なものの希望も打ち砕ける。どれだけ腐った人間でも社会の頂きに立たせることが出来る。そうすると今までの世の中のあり方を否定できる。夢を追うとか馬鹿らしい通年も、仲間だとか絆だとか、誰かと手を取り合うとか。真実とか愛とか。そういった希望も破壊できる。そして、代わりに人格の狂った奴を社会の中心に置いてみる。今の悪人とか、欲望に忠実とかそういった連中よりもさらにひどいのを。大量殺人犯や本当の危険思想の人間を。メディアや法令を使って社会の中心に持っていき、逆らうものは処罰する。きっととても楽しいわ。そう、つまるところ私に目的があるとすればそういうこと。私はね、この国を滅茶苦茶にしたいのよ。それも歴史上類を見ないほど滅茶苦茶にね」
「なんじゃと」
「でも、それってあなたの目的とも合致するんじゃないの。あなたも妖怪の世を復活させたいんでしょう。なら、世の中が滅茶苦茶になるのは良いことじゃないの?」
天足はクツクツ心底楽しそうに笑った。伏羽は心から嫌悪を示した。
「たわけが。そこまで滅茶苦茶になったら妖怪にもろくでもない事が起きるわ。戦時中と戦後の状況を知らんわけではあるまい。人の恐怖からろくでもない怪物が現れた。お前の世は下手をすればそれ並か、それ以上にひどくなる。どうなるか分かったもんではないわ」
「あら、じゃああなたはどうするの。私のやり方より上手い人の世の壊し方があって?」
「あるわ。そんなもん」
「どんなの? 興味あるわぁ」
「それはまだ分からん」
伏羽はむすっとして答えた。
「困った人ねぇ。それはあんまりにも妖怪の長としてふさわしくない答えだわぁ」
「知らんわ。じゃが何かあるに決まっとる。じゃからわしは貴様には従わんわ。大体聞いとるだけで虫唾が走るんじゃ、貴様の話は」
「あらそう、残念。私あなたのことそんなに嫌いじゃないんだけど」
天足はまたクツクツ笑う。さすがに公太も不快感を禁じ得ない。こいつはとんでもないやつだと思った。こんなやつに好き勝手させたら本当にやばいと。
「それから、貴様。この力をどこで手に入れた」
「この力? ああ、地獄の門を開く術のこと? これよこれ」
天足は懐からシャリンと鍵を取り出した。黒い、なんの装飾もない鍵だった。
「貴様、それは!」
「んふっふふふ。良い顔ねぇ。いい表情の歪み具合よ」
「それは獄卒が地獄と下界を行き来するための鍵じゃろう。なぜそんなものを持っている」
「それも後のお楽しみ。いや、あなたと話すの楽しいわねぇ。こっちのアクションでいろんな表情をしてくれて。嫌悪、驚愕、次は何を見せてくれるかしら。あ、そうだ。憎悪も見たいわねぇ。大狸を殺したときのこと話してあげましょうか」
大狸、そのワードが出た途端伏羽の表情が醜く引きつった。公太でさえ一歩引き下がるほどの怒気、そして憎しみ。
「貴様!」
伏羽は腕をかざした。しかし、間に鵺が割って入る。鵺の肉体が赤く赤熱する。しかし、すぐにその熱は引いていった。
「なんじゃこいつわ」
鵺はうなりながら伏羽を睨む。
「大狸、あいつは厄介な相手だったわねぇ。とにかく強かったわ。多分あなたと同じくらい。ついでに手下も多かった。今みたいに私の手下を並べても攻めきれなかったくらい。こっちが人質を取っても変化で上手く抜けられちゃうんだもの。頭を痛めたわ」
伏羽は天足を睨みつける。
「そうじゃろう。あやつは貴様程度では逆立ちしても敵わぬ相手よ。わしと同じくらいじゃと? わしよりずっと強かったわ。何にも増して心がな。やつは強く、そして優しかった!」
「そう、とにもかくにもやつは強かったわ。でも、ダメ。全然ダメ。こっちが奥の手を披露したら形勢逆転。なんとか奴を追い詰めたわ。で、面白いのはここからよ?」
伏羽はもう一度腕を振るう。しかし、やはり鵺に止められる。
「あいつ何をしても折れなかったのよ。だから試しちゃった、色々。もう、思いつく限りの痛み、精神の痛苦、絶望。ありとあらゆるものをやつに試してやった! ずっと目の光は消えないまま! でも、体は傷だらけ、そして最後にはやつに何も残っていなかった! どう、このみじめさ! あの去神暁部のあのみじめな様! 胸が空いたわ! たった一人になりながらそれでもまだ諦めないあの狸の狂気! 全部つまびらかにしてやったわよ。あんなみじめに死んだやつ、あいつの他には居ないでしょう! あははははは!」
天足は大笑いした。ゲタゲタといつまでも笑っていた。公太はあまりに不快だった。公太は伏羽の顔を盗み見る。おそらくは友人その凄惨な死に様を教えられて、しかし伏羽は笑っていた。
「ふ、そうか。最後までやつは折れなかったか」
「なに? どうしたの? あんまり悔しくて笑っちゃった?」
「いやなに。わしの知る暁部は最後まで去神暁部であったということか。貴様はなんにも分かっておらんな。相手の心を最後まで折れなかったということはな。貴様は結局あやつに勝てなかったということじゃ。なんじゃ。その程度でそんな嬉しそうにしておったのか。やはり貴様は三下じゃな。貴様に時代を背負うことは出来んわ」
「なんですって」
そこで天足は顔を醜く歪めた。この妖狐の性格から時代を背負う云々はどうでも良いだろう。ただ、三下呼ばわりされたことがたまらなく受け入れられないかったようだった。
「あなたイラつくわね。さっきは好きって言ったけど前言撤回。あなた、殺すわ」
「そうかそうか。ようやくやる気になったようじゃの。こっちは元よりそのつもりよ」
伏羽は低く身を歪める。ミシミシと全身の筋肉が音を立てた。吹き出す妖気で床にヒビが入った。
「さぁ、始めようか」
両者の間にピリピリと見えないものの火花が散っているのが公太には分かった。
「行きなさい!」
天足のその一言で2体の獣が地を蹴った。それに合わせて伏羽も地を蹴った。一瞬で伏羽はまず鵺の方に向かった。
先程、どういうわけか鵺に妖術は通用しなかった。なので先にこちらから叩くのが後々やりやすいと判断したのだ。伏羽は力いっぱい鵺に拳を振るった。
「ぬぇい!」
横腹に直撃する右拳。鵺は吹っ飛ぶがすぐさま体勢を立て直す。
「ちぃ、骨の一本も折れんか。頑丈な奴じゃ」
お次は雷獣。しかし、雷獣の姿は伏羽の目に映らなかった。
「げ、こいつわしより早い!」
雷獣はまさしく稲妻そのものの速度だった。縦横無尽に駆け回り伏羽を翻弄する。伏羽は目測を合わせて蹴りを繰り出す。
「ぐっ!」
しかし、その蹴りもするりとすり抜け雷獣は伏羽に一撃見舞った。吹き飛ぶ伏羽。
「大丈夫か!」
「大した威力でないわい。ただ、ああも動き回られると厄介じゃな」
伏羽はちらりと鵺の方も見る。
「あっちはどうも見た目よりずっと沢山の獣が混じっておるな。妖気の質も滅茶苦茶に混じっておる。だから妖術が通りにくいのか」
片や高い防御力、片や最速の移動速度。
「うーむ」
伏羽は考え込む。
「どうしたの? もう、手詰まりかしら。天下に名の轟く伏羽童子も案外大したことないのねぇ」
雷獣と鵺が一遍に襲いかかってくる。雷獣は目で追えないほど早い。なら、やはり、先に鵺を叩くべきか。そう思い伏羽は鵺に掴みかかる。が、伏羽の動きよりもあらゆる面において雷獣の方が早い。一瞬で伏羽にしがみつきそして電気を流し込んだ。
「ちぃいいいい!」
さすがの伏羽もただでは済まない。全身の筋肉の自由が奪われる。そこへ鵺が虎の腕で渾身の一撃を見舞った。
「ぐっ!」
伏羽は吹き飛び壁に叩きつけられる。壁は伏羽のぶつかった衝撃に耐えきれず崩壊した。
「くそ!」
「駄目ねぇ。その雷獣はあなたのどの動作よりも動きが早いのよ。自分の動きよりも襲い蹴りに当たる道理はないわよねぇ。そして、鵺はあなたのあらゆる攻撃を受け切る防御力とあなたのその頑強な肉体を壊す攻撃力がある。さぁ、どうするのかしら」
伏羽は向こうの戦術はもう読めた。補足不能な動きを見せる雷獣が電撃で相手の動きを止め、攻撃力のある鵺がそれを叩く。その繰り返しで相手を疲弊させようと言うのだろう。
「けっ、ワンパターン戦法じゃな!」
そういうことなら。まずは雷獣をどうにかせねばならない。だが、どうしたものか。伏羽はこうなればと両手を広げる。
「範囲攻撃じゃ!」
雷獣、鵺が居る範囲、その全体が一気に凍りつく。伏羽は補足できないなら広範囲の攻撃で捉えようとしたのだ。が、
「ダメダメ」
天足が札をかざした。すると、床に五芒星が浮かび上がる。
「ちぃ! しゃらくさい!」
すると、伏羽の妖術の発動が止まった。天足は妖術に対するジャミングの結界を張ったのだ。そのまま雷獣と鵺が襲いかかり伏羽は床に叩きつけられた。そこに鵺が追撃をしかける。
「くそ!」
立ち上がる伏羽はボロボロになってきていた。
「おい、大丈夫か!」
「大丈夫じゃわい! まだ、かすり傷程度じゃ!」
伏羽は言うがしかし、この戦法を崩せない限り少ないダメージといえど蓄積される。そうすればいずれ敗れるのは伏羽の方だ。
「どうするんだよ。このままじゃヤバイだろ」
「分かっとるわ。じゃから今考えておるんじゃ」
鵺は強靭な肉体。雷獣は最速の肉体。そして天足の妨害もある。どうにかして雷獣の動きさえ止められればコンビネーションが崩れ勝機は十分見えてくる。
「わしのあらゆる動きより早い、か」
再び2体の獣が仕掛けてきた。
「本当か? そんなことあるまい」
ニっと笑って伏羽はまた2体の獣に向かっていった。
「おい、そのままじゃさっきと同じだぞ!」
叫ぶ公太の声に振り返ることなく、伏羽は雷獣に挑む。雷獣はすさまじい動きで伏羽を撹乱し、攻撃の糸口を与えない。伏羽はそれを目で追い、そして蹴りを放つ。
「さっきと一緒だ!」
公太が叫ぶ。雷獣はやはり安々とそれを躱し伏羽に取り付いた。そのまま電撃が来る。
しかし、それまでの一瞬、
―ガァ!!!!!!
轟音が響き渡った。それは伏羽が上げた大声だった。蹴りより拳より速い音の攻撃。それが伏羽が取った手段だった。予備動作の一つもない攻撃で、雷獣はその轟音を至近距離で直撃する形になった。
「ぐが・・・・・」
雷獣はそのまま昏倒し、地面に倒れた。すかさず伏羽はそれを凍結させた。
「さて、まずは一体じゃな」
伏羽はコキリと拳を鳴らした。
天足は舌打ちする。残るは鵺一体。
「でかい声出すなら先に言え!」
そこで公太は叫んだ。
「言ったら作戦にならんじゃろうが!」
伏羽の言葉もまだ聞こえていないようで公太は耳を抑えていた。
しかし、これでコンビネーションは崩れ去った。鵺が脇目も振らず伏羽に突進する。伏羽はそれに対し、思い切り床を殴りつけた。床は陥没し、大穴が開いた。そこに鵺は飛び込む形となり大きく体勢を崩し前のめりに倒れ込んだ。伏羽がすかさず駆け寄る。そこに天足は札をかざす。しかし、伏羽が崩れた破片を投げつけ天足はそれに応じざるを得なかった。
「これで2体じゃ!」
伏羽は鵺の口に直接手を突っ込むとそこで力を直接発動させた。いかにジャミングが発生していようと手で触れて直接なら力は発動できる。そして妖術への耐性があろうと、高熱や極低温に耐性があろうと。体内から直接では防ぎようはない。鵺は内側からみるみる内に凍りつき、やがて動かなくなった。
伏羽はようやく2体の獣を倒した。
「さて、終わったぞ天足。これで終いかの」
自分の手駒を潰された天足。しかし、彼は笑っていた。
「うふふふ。あっはっはははは。良いわねぇ。そう来なくっちゃ」
「なんじゃ楽しそうじゃの。よほど余裕があると見える。奥の手というやつか」
「そう、そうですとも。この程度で終わってたら拍子抜けも良いところよ。これから出てくる彼に申し訳ないってものですからね」
「グダグダ抜かすな。さっさと出せ。そいつを捻り潰してさっさと貴様を殺すわ」
「そう? そんなこと言っちゃって大丈夫かしら? 後で吠え面かいても知らないわよぉ?」
天足は心底楽しそうに笑っている。妙だった。いかに地獄と現世を繋いだとは言え天足が呼び出せるのは今まで戦ってきた程度の妖魔ばかりだ。当然だ。地獄に置いて現世の妖魔風情を相手にするのは同じ妖魔だけだ。だから、この先何が出てきてもせいぜいが伏羽と同格。いや、天足の実力を考えればそれ以下と考えるのが妥当だった。だが、天足の余裕は明らかに勝利を確信しているものだった。
「さぁ、おいでなさい」
そう言って天足は先程取り出した黒い鍵、地獄と現世をつなぐ鍵を宙に差し込んだ。ガチャリと音が響く。すると鍵と同じ程黒い色をした大きな門が現れた。ギシリとそれが音を立てて開く。天足はまだ笑っている。伏羽はそこから現れる何者かを凝視した。公太はただ状況を見守るしかない。
―ギギギギギギ、ギィイイ
そうして門が開き、それは現れた。
「なっ」
一目見ただけで伏羽は絶句した。
それは鬼だった。ただの鬼ではない。身の丈は伏羽より二回りほど大きい。ざんばらな白い長髪に巨大な角に獰猛な獣を思わせる瞳。そしてその2つの瞳の他に額にもう一つ目があった。まるで般若の面のような恐ろしい顔だ。手には巨大な金棒。そして服装は妖魔とは思えない、豪奢な鎧に袴だった。
そしてそれが現れた途端。今まで以上に空気が変わった。それを見ているだけで心が奈落の底に落とされるようだ。空気はまるで鋼鉄になったかのように肺に入ってこない。呼吸が上手く出来ない。伏羽でさえそうだった。
「ああ・・・・」
「大丈夫か!」
後ろで公太が倒れ伏した。半ば意識を失いかけている。
「くっ!」
伏羽はその存在を睨む。いや、睨もうとした。しかし、心が追いつかない。それはあまりに恐ろしかった。
「どういうことじゃ天足! 何故このような者がここに居る。何故貴様がこのような者を呼び出せる! これは現世、地獄、この世の理に対する冒涜じゃ!」
対する天足は今日一番の大笑いを上げた。
「あはははははははははっはっはははっっはははは! 良いわ! 良いわよその顔! 今日一番良い顔だわ! それそれそれ! そういう顔が見たかったのよ! 愉快で愉快でたまらないわ!」
天足は伏羽の質問に答えることなく笑っている。と、その存在はぐるりと天足を見た。
『今日は奴らを殺せば良いのか?』
それはまさしく地獄のような恐ろしい声だった。
「ええ、お願い致します。前のように一切の容赦なく事をお済ませ下さいませ」
天足は似つかわしくない丁寧な深い礼をした。
『あい分かった』
その存在は金棒を構えた。それだけで伏羽は吹き飛ばされるような錯覚を感じた。
「なんなんだあれは」
公太が弱々しい声で伏羽に問うた。
「あれは獄卒じゃ。地獄において最高権力を持つ十王、その直属の地獄の番人。地獄という理そのものを管理する怪異の頂点に君臨する存在。それが奴、亞防夜叉じゃ」
「な、なんだってそんな奴が。勝てるのか?」
伏羽は答えない。ただ、ギリリと奥歯を噛みしめる音だけが公太の耳に届いた。
そんな二人の重苦しい空気に割って入るようにパンパン、と天足の合いの手が入った。
「さぁさぁ始めましょう伏羽童子。あらら? どうしたの? さっきまでの勇ましい伏羽童子はどこへ行ったのかしら。大丈夫? 今ならまだ逃げても見逃してあげるわよ?」
伏羽は唇を噛みしめる。そして力いっぱいの空元気で笑顔をつくり言う。
「黙れ、そんな気はないくせに。わしはそいつも倒して貴様を殺す!」
「ああら残念。今のは本当だったのに可哀想。あなたのせいで後ろの坊やも死んじゃうわねぇ。あら、そうだ」
天足はツイと指を動かした。すると、部屋に浮かんでいた五芒星が消滅した。
「なんのつもりじゃ」
「ハンデがあると可愛そうでしょう? 全力でやりなさいな。そしたらきっと勝てるわよ? あっははは」
天足は笑う。これはつまり伏羽が何をしようと亞防夜叉に勝てるはずがないという自信の現れ。そして、全力を出す伏羽が無残に敗れるところを見たいという嗜虐心の現れだ。
「舐めおって」
伏羽は呟く。しかし、その考えがあながちハズレでもないことも伏羽自身がよく分かっていた。
しかし、それでも諦めるわけにはいかなかった。
『もう良いか? ゆくぞ』
「ええ、よろしくお願いいたします」
天足が言うが早いか、伏羽は全力で地を蹴り亞防夜叉の顔面に突撃した。全身全霊の蹴りを亞防夜叉のこめかみに叩きつける。
しかし、亞防夜叉は眉一つ動かさず、首の傾き一つなく、ただそれを受けた。
「くっ!」
伏羽は一旦距離を取る。そして再度飛び込み今度は怒涛のラッシュをかけた。腹、みぞおち、脛、二の腕、心臓、金的、喉笛、そしてその他のあらゆる部位。どこかに弱点がないかと伏羽は殴り、蹴り、嵐のように攻撃を繰り返す。しかし、亞防夜叉は何一つ動じてはいなかった。
『軽い』
そう言って亞防夜叉は神速で動き回る伏羽を当たり前のように掴み取り投げ飛ばした。
「くっ!」
伏羽は両手をかざす。妖術をかますつもりだった。亞防夜叉のに霜が立っていく。そしてその目の前には瞬間凍結、そして瞬間加熱。大爆発が巻き起こった。壊れていなかった部屋の壁も吹き飛ぶ。伏羽は衝撃から公太を守る。
「はぁはぁ」
公太をかばいながら立ち込める煙に目を凝らす。しかし、煙の晴れた先には相変わらず金棒を構えて立っている亞防夜叉があった。傷一つなかった。
「くそぉっ!」
伏羽は今度は一気に接近し、亞防夜叉の死角まで回り込むと直接その肌に触れた。亞防夜叉の体表が赤く赤熱する。どんどん加熱し真っ赤になる。亞防夜叉は鬼の形をした火の塊となった。しかし、亞防夜叉はそのままぐい、とかがみ込み伏羽を掴んで持ち上げた。
『わしにはそんなものは効かんぞ』
そして、べしゃりと床に叩きつけた。
「くぅう・・・・」
伏羽は痛みと屈辱でうめき声を上げる。亞防夜叉はあっという間に元通りの姿のなった。
『すまんな小童。貴様にはわしは殺せん。では、そろそろこちらの出番とさせてもらおう』
亞防夜叉は金棒を振るった。伏羽はそれをかわそうとした。だが、出来なかった。気づいたら伏羽は天井まで吹き飛び、そのまま上階を貫通して軽く5階分くらい吹き飛ばされたのだ。
『さて』
「人には当てないでくださいよ」
『御意』
亞防夜叉は飛び、壁の一切が存在しないかのように吹き飛ばしながら伏羽の元へ降り立った。伏羽は足払いを繰り出したがそれごと、また金棒で殴りつけられる。今度は横。伏羽は壁を粉砕しながら窓ガラスを割り、外まで飛び出した。
「くっ!」
そのままでは落ちてしまう。伏羽は妖術で爆発を起こし、なんとかビルの中まで戻った。しかし、そこに亞防夜叉が立っていた。そのまま金棒が振り下ろされた。再び伏羽は下の階まで吹き飛ばされる。
その後はその繰り返し。抵抗のしようがない。こっちの攻撃は通用しない。相手の攻撃は見えない、防げない、そして強大。勝負にならなかった。詰みだった。
ガシャリ、と音がした。公太が振り返ると亞防夜叉が立っていた。片手にはボロボロになった伏羽が掴まれていた。
「ふ、伏羽!」
公太は叫ぶ。しかし、反応はない。亞防夜叉はそのまま公太の横を通り過ぎると部屋のフロアの真ん中に伏羽を放り投げた。伏羽は力なく床に転がった。
『終わったぞ』
「どうもありがとうございました。ふっくく」
天足は笑っていた。というか天足はずっと笑っていた。伏羽が吹き飛ばされ姿が見えなくなってからも物見の術でそれの姿を追い、攻撃の振動が聞こえる度に大笑いしていた。どうしようもない性根だった。
「さぁさぁ、伏羽ちゃん。万策尽きたわねぇ。何か言い残すことはあるかしら?」
これほど伏羽がボロボロになっても天足は近づくことはなかった。残ったわずかな力で首を刎ね飛ばされるのを恐れているのだ。ハイになっても用心深さは損なわれていなかった。
「あら? どうしたの。何か言うことはないの? それとももう言葉を発する余力も残されていないのかしら」
伏羽は何も答えなかった。
「案外あっけないものだったわねぇ。もう少し善戦してくれるかと思ったけど。これなら、向かうところ敵はないわね。もう、私の邪魔を出来るものは居ないんだわ。当たり前か。獄卒の相手を出来る奴なんて地上に存在するわけないものねぇ」
天足はにっこり笑って伏羽を見る。
「残念だったわねぇ、伏羽童子。これで、この国はオシマイよ。あなたの故郷もそのうち蹂躙してあげる。あなただけじゃない。日本中の妖魔という妖魔を支配してあげるわ。そして人間社会も私のもの。もう、その未来への障害はない。私の勝ち。うふふふふ」
公太はそれを見ていることしか出来ない。助けようにも亞防夜叉の姿を見るだけで体が動かなくなるのだ。冷や汗が吹き出し、体が硬直する。
「そうだ、この国を支配したら次は世界っていうのも面白そうねぇ。この星全部を滅茶苦茶にするの。うふふ、とっても面白そう。さて、じゃあそろそろ終わらせましょうか。やってくださいな。亞防夜叉様」
『御意』
亞防夜叉は伏羽を掴み持ち上げ金棒を構えた。そのまま頭を叩き潰す気だ。
「ふ、伏羽!」
公太はまた叫ぶ。すると伏羽はようやく言葉を発した。
「何故じゃ」
伏羽の言葉に亞防夜叉は動きを止めた。遺言くらいは聞こうと思ったのかもしれない。
「何故あなたほどの人があんな汚い狐の下についているのじゃ。何故・・・・・。獄卒とはこの世の均衡を守る誇り高き仕事ではなかったのか」
『・・・・・・・』
亞防夜叉は黙っている。その顔は般若の面のような恐ろしい表情のままで真意は掴めない。
『あの狸も同じことを言うた』
やがて亞防夜叉は口を開いた。
「それはそうじゃ。奴も同じことを思うはず」
『だが、わしは獄卒ではない』
「なに・・・・? だが、その姿、その力はまさしく話に聞いた獄卒そのものじゃぞ」
『そうだ。昔は獄卒だった』
亞防夜叉の声に少しだけ悲哀が混じった。そして亞防夜叉は金棒を置きその鎧を引っ張り地肌を見せた。そこには大きな傷があった。
『昔、ささいなことがきっかけで事故があった。わしはその時にこの傷を負ったのだ。そして力の半分を失った』
「半分? 半分でこれなのか」
『半分でこれなのだ。そのためにわしは妖術を使えん。程度の低い妖術なら使えようがな』
程度が低いというのも恐らく自分の妖術よりも遥かに上だろうと伏羽は思う。
『事故のせいでわしは妖術を使えなくなった。それはつまり獄卒としての職務をまっとうできなくなったということだ』
亞防夜叉の声は相変わらず恐ろしい地獄のようなものだったが、明らかに悔しさが滲んでいた。
『だから、わしは獄卒でなくなった。知っておるか。獄卒というのはな、産まれたときから獄卒として生まれるのだ。獄卒になるために育ち、獄卒として生き、獄卒として死ぬ。そういうものなのだ。獄卒でない獄卒に居場所はない。今、地獄にわしの居場所はないのだ』
「・・・・・・・」
公太は黙ってそれを聞いていた。
『そんな折にそこな狐が門を開き、地獄の外れであぶれておったわしを拾った。やつはわしに居場所を作った。わしは居場所が欲しかったのだ。そして狐は言うた。この国を手中に収め、あらゆることを意のままに出来たなら、この傷を癒やす方法も見つかろう、と』
「馬鹿な。そんな言葉を信じたのか。そんなものこやつの戯言だ。本当なわけがなかろう」
「ウソでも構わん。こやつが見つからんと思っていてもひょっとしたら見つかるかもしれん。わずかでも可能性があるならばわしはそれにすがりたいのだ。わしはな、また獄卒に戻りたいのだ。どうしても戻りたいのだ。あの、あのわしが居たかった場所に戻りたいのだ。言ってはならんことなのは分かっている。だが、わしは何をしてでもあの場所に戻りたいのだ』
「・・・・・・・・」
公太は黙ってそれを聞いていた。
亞防夜叉はずい、と伏羽に顔を近づけた。般若のような恐ろしい顔を。
『分かるか小童。わしの苦しみが』
伏羽はしばらく黙った後にニィ、と笑った。
「すまんな、わしにはおぬしの苦しみは分からん。わしは妖怪じゃがなんだかんだ恵まれて生きてきたからの。じゃが、おぬしと似たような奴なら一人だけ知っておる」
『なに?』
「そいつはおぬしの後ろでずーっとおぬしの話に聞き入っておるぞ」
亞防夜叉は振り返った。そこには人間が一人いた。それは少年だった。なんの力もない人間の少年だった。少年は言った。
「俺、あなたの言ってること少しだけ分かります」
公太も今までずっと今みたいだったわけではなかった。中学までは普通の少年だった。普通に親と暮らし、普通に友だちと遊び、中学校では普通に部活をこなし、普通に普通に生きていた。公太はたまにそういった普通の日々を思い出した。それは昔はなんとも思わなかったのに、今となってはあまりにきらびやかで満ち足りていたように見えた。公太は昔みたいに戻りたかった。でも、もう戻ることは出来なかった。公太はなんでこうなってるんだろう、とそういう時に思うのだった。
亞防夜叉は伏羽を床に置いた。そして公太のもとに歩み寄った。
「ちょっと! 亞防夜叉様! 何をなさっているのです!」
天足が叫ぶが亞防夜叉は聞かず、ズンっと公太の前にかがんだ。恐ろしい顔だった。公太はそれだけで失神しそうだった。しかし、公太は恐怖をこらえて眼の前の亞防夜叉を見据えた。
『わしの言っていることが分かるだと。貴様は何者だ小僧』
「た、ただの17才の子供です」
『高校生というやつか』
「いえ、高校には行っていません。不登校です」
公太は何故こんなところでこんなことを堂々と言っているのか良く分からなかった。
『何故行かん。学生とは学校に行くものではないのか』
「勉強に付いていけなくなって、苦しくなって行かなくなりました」
『ふむ』
亞防夜叉は顎に手を当てて首をかしげた。
『貴様わしの言っていることが分かる言ったな』
「ちょっとです。俺はあなたじゃないんで」
『なるほど。では、そのちょっととはなんだ』
「居場所がない事と、昔に戻りたいことです。でも、俺はあなたみたいに頑張ってたわけじゃない。頑張っていた場所があって、そこに帰りたいとか立派な感じじゃない。ただ、今よりましだったと思う昔に戻りたいだけです」
公太は続けた。ちょっとだけ、きらびやかだった昔を思い出しながら。
「でも、俺はもう戻れません。俺の居場所はもうありません。正直、俺はどうしたら良いのか分かりません」
『・・・・・・』
「もう、どこにも俺の居場所はありません。この世の全てが俺を蔑んでるような、俺を嫌っているようなそんな感じです」
公太はちょっと苦しくなった。自分の思っていることを言うのは苦しかった。現実を見なくてはならないから。
「なんでこうなったのか分かりません。普通に生きて普通に選択したらこうなってました。俺はこの世の中が良く分かりません。本当にただただ苦しいばっかりだ。出口が見えません。この先どうなるのか分かりません。どうしたら良くなるのか分かりません。分からない。分からないんです。分からないことばっかりだ。だから、そこはあなたとは違います。あなたはどうしたら良いのか分かってるから」
亞防夜叉は黙って聞いていた。
「だから、本当は俺はあなたに何か言うことなんて出来ません。あなたがどうしたら良いかなんて分からない。あなたにどうすべきか助言なんて出来ない。でも、きっとあなたは俺と同じような気持ちになってるんじゃないかと思った。だから、これだけは言いたかったんだ。あなたは間違っている」
公太はそう言った時、殺されるかと思った。少しでも変な事を言ったらすぐに首をもがれるかと思ったのだ。でも、亞防夜叉はそうはしなかった。黙っていた。
「こんな風に誰かを殺したり誰かを不幸にするのなんて間違ってる。そんなのは違うでしょう。僕らは確かに外れものだ。僕らは確かに昔みたいに戻りたい。でも、それは誰かを犠牲にすべきことじゃない。だってそうだ。僕らが戻りたい昔はそんな風には生きてなかった。僕らが戻りたかった昔はもっと平和だったはずだ。こんなことしてたって、戻れないですよ。そのやり方で元居た場所に戻ってもそこはきっとあなたの居場所じゃない。だってきっと、あなた自身が一番それを感じてしまう」
『・・・・・・』
「止めましょう。こんな事は」
公太は気づいたら泣きそうになっていた。悲しかったのだ。眼の前に居る遠い遠いところからやって来た同胞の有様が悲しかったのだ。
『では、わしはどうすれば良いのだ』
亞防夜叉はゆっくりと口を開いた。
『この寂しさをどうすれば良いのだ。わしは死ぬまで元居た場所に焦がれながら、悲しみながら生きていけば良いのか。そんなのはわしは、わしはとても嫌だ』
亞防夜叉は続けた。
『わしはずっと苦しかった。気の遠くなるような時間、その苦しみの中に身を置いた。だからどうしても苦しみから抜け出したかったのだ。だから、こんな風になってしまった。わしは残念だが貴様とは違う。わしは貴様のような綺麗な涙は流せない。もはや、どんな魑魅魍魎よりもおぞましいものとなってしまった。わしはもう戻れんのだ。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・』
亞防夜叉はその般若のような顔を歪ませて泣いた。
『そうなのだ。もう、わしは戻れんのだ。そうなのだ。もうわしはどうやってもあの頃に戻れんのだ。もう、あまりに遠くまでやってきてしまった』
亞防夜叉はとうとう自分がどこにやってきてしまったのかを理解してしまった。亞防夜叉の涙は止まらなかった。どんどんどんどん涙が溢れてきた。公太は言った。
「そんなこと、無いと思います」
『ある、あるのだ小僧。貴様は幼く世を知らなさすぎる。もう、どうしようもない所というのはあるのだ。わしは本当の夜叉になってしまった』
「そんなことない、だってあなたは今泣いている。泣いてるうちはまだまともなはずだ。罪を償えば良いんです」
『だが、もはや』
「大丈夫です。きっと大丈夫だ。まだ、戻れる。だから、まだ負けないで下さい」
公太は力の限りに叫んだ。公太はあんまり自分の言いたいことをちゃんと言えた気はしなかった。でも、力の限り頑張って言った。それだけだった。
『・・・・・・・・ふむ』
亞防夜叉は立ち上がった。
『言うたな小僧。その言葉の重さも知らずに』
公太は亞防夜叉を見上げた。その顔は相変わらず般若のようだったが、あまり恐ろしくはなかった。どこか勇ましさを感じた。
『小僧、貴様家におる間、日がな何をしておる』
「これといって何もしてません。ただ、漫画読んだりしてぼーっとしてます」
『グハハハハハ。わしも同じだった。日がな棒遊びなどして過ごしておったわ』
亞防夜叉は笑った。気分の良い笑い声だった。そして天足に振り返った。
『スマンな狐。どうやらわしはこの小僧を殺せそうにない』
亞防夜叉は言った。
「は? 今なんと言われましたか亞防夜叉様」
天足は呆気にとられていた。亞防夜叉が何を言ったのか全然理解出来ていないようだった。
『わしはもう降りると言ったのだ』
そんな天足に亞防夜叉ははっきりと告げた。天足は目を見開いて事が現実であることを理解した。
「いえいえ、なにをおっしゃっておられるのですか。もう少しなんですよ。十年と言いましたが言い直しましょう。あと五年。五年でこの国を手に入れてみせます。そうすれば貴方様の願いも叶いましょう」
『すまんな。もう良いのだ。もう、諦めがついた。わしは、この傷を治す術にはもうこだわらん。他にやるべきことがあったのだ』
「そんな、お待ち下さい。そうだ、まだ私の言葉を信用なさっていないのですね。この国の次は世界を手に入れてご覧に入れましょう。そうすれば確実にその傷を治せますよ」
『もうよい、もうよいのだ。貴様にはここまで手を貸しながら申し訳ないと思うておる。だが、もうよいのだ』
「そ、そんな。後生です亞防夜叉様。どうか、わたくしに手をお貸し下さい。ここで亞防夜叉様が去られてはわたくしはどうすれば良いのですか」
『然るべき場所で罪を償うのだ。わしと同じに。わしらはあまりに悪事を働きすぎた。ここいらが潮時なのだ』
「そ、そんな・・・・・・」
『すまん』
亞防夜叉は狐に謝っていた。公太から見ればこんなクソ野郎に謝ることなど何も無いと思うのだが亞防夜叉には亞防夜叉なりの筋というものがあるようだった。天足は未だ事を飲み込みきれていないようだった。当然だ。天足の奥の手中の奥の手、それが降りると言ったのだ。つまり、天足の計画が頓挫するということを意味していた。天足はプルプル震えていた。
「あんたはどうするんだ」
公太は天足は置いておいて亞防夜叉に問うた。
『わしは地獄に戻り罪を償う。これだけのことをしたのだ。重い罰が待っているだろうが受け入れようと思う』
「そうか」
亞防夜叉に迷いはなかった。公太はそれで良かったと思った。
「くっ、くくっくっくっく」
と突如天足が笑いだした。
「いけません。いけませんねこれは。本当に本当にいけない」
天足はブツブツと言葉を繰り返している。
『狐。貴様のその鍵。わしが持ち帰らせてもらうぞ』
「ふふふ、うふっふっふふ。いけませんよ。それは。もういいですあなたは」
天足は顔を上げた。随分常軌を逸していた。
「良くも私をコケにしたな! 許さんぞ!」
天足が吠える。そして、黒い鍵を虚空に差し込む。すると、亞防夜叉の後ろに虚空が開いた。闇だった。ただただ闇だった。
「な、なんだ!」
「これは『奈落』よ。地獄で一番の深い『無間地獄』よりなお深い、本物の『無』の空間。ここに落ちればいかに獄卒といえどただでは済まないわ!」
もはや天足に亞防夜叉を説得しようと言う気はないようだった。だが、亞防夜叉を失うということは完全に計画が終わるということを意味していた。もはや、天足は正気ではない。ただ、激情に身を任せ憎き相手に報復するという意思のみに従っている。。
『むう』
奈落はすさまじい勢いで何もかもを飲み込んでいた。空気や瓦礫だけではない。周囲の空間ごとこのフロアを引きずり込もうとしている。亞防夜叉は足を踏みしめ抗う。亞防夜叉でさえ『奈落』には抵抗する以外にないのだ。
「あっははははは。そのまま落ちてしまいなさい!」
天足は笑っている。ただただ楽しくて仕方がないといった様子。
「阿呆じゃな。スキだらけじゃ」
そう言った途端。今まで倒れ伏していた伏羽が跳ね起き、一瞬で天足の元に迫った。
「なっ!」
「それは貴様のものではない」
そして、天足の手から鍵を奪い取った。そのまま蹴りを一撃、天足は吹き飛ばされる。
鍵を外したために奈落は閉じつつある。しかし、亞防夜叉はその前にもはや飲み込まれようとしていた。
「おっさん!」
『ぬうう』
と、亞防夜叉の後ろで大爆発が起こった。伏羽の妖術だ。その爆発の勢いでわずかに後押しされ、亞防夜叉は踏みとどまった。そして、奈落の穴は消えた。
「はぁはぁはぁはぁ」
残されたのは屈辱に醜く顔を歪ませる天足と、それを見下ろす伏羽だった。
「クソクソクソクソクソ、クソッタレが! 何故だ! 何故ここまで来てこうなった! 何が間違っていた! 勢力は完璧だった。亞防夜叉まで揃えた。段取りも完璧! 計画は全て予定通りに進んでいた! 何故だ!」
「貴様の計画は虫酸が走るが良く出来たものだったわい。亞防夜叉を倒せるものなど、確かにこの現世には存在しなんだ。だが、残念だったのう。貴様の計画は一人の不登校の小僧によって潰えたのじゃ」
「馬鹿な! そんな社会の落伍者に私の計画が潰されるなど有り得ない!」
「ふん。落伍者も侮れんということよ。わしも改めて学んだわ。お互いにものを知らなんだのう狐」
天足は札を構えた。伏羽も最後の力を振り絞り天足を見据える。最終決戦だった。
「かぁ!」
天足は札を5枚発動した。爆発、雷撃、凍結、暴風、呪い。一度にあらゆる道術が発動し、伏羽を襲った。しかし、伏羽はかわさなかった。爆煙が晴れ、そこには変わらず立っておる伏羽があった。
「ちぃ!」
天足はまた次の札を取り出した。黒い矢が天足の周りに現れる。破魔の矢だった。それが一斉に伏羽を襲った。伏羽は走り始めた。そして、飛んでくる矢を全て妖術で吹き飛ばした。
「くっ!」
天足は封魔の陣を張る。光の鎖が何十本も伏羽に巻き付いた。しかし、伏羽は巻き付いた鎖を全て引きちぎった。
「くそぉ!」
伏羽は天足の目の前までやってきて拳を振り上げた。
「喰らえ! クソ狐!」
強烈な一撃が天足の顔面に直撃した。
伏羽の一撃。それは天足に直撃し、一発で意識を奪った。天足は白目をむいて伸びていた。伏羽はそれを見下ろしていた。戦いは終わった。
「はぁはぁ」
伏羽は満身創痍だった。ただでさ亞防夜叉に瀕死の状態まで追いつめられたのだ。そこを無理やり動かして天足を倒した。もはや、余力はわずかしか残されていない。そう、天足を殺す分しか残されていないのだ。
伏羽は天足の首を掴み持ち上げた。
「これで終いじゃ。天足御前」
伏羽は拳を振り上げる。が、
「殺すのか伏羽」
そう言ったのはいつの間にか傍らに居た公太だった。伏羽は動きを止めた。振り返ることはしなかった。
「ああ、殺すとも。言うたであろう。こやつは生かしておけん。生かせば必ずやまた世を乱すであろう。何よりこやつは暁部めの敵じゃ」
「でも、殺さなくたっていいんじゃないのか。本当に殺すしか無いのか」
「ああ、そうとも。こやつは殺すしか無いんじゃ。わしらのために、そして貴様らのために」
「本当にそうなのか?」
「何故じゃ。何故そんな問いを投げかける。貴様には関係ないはずじゃ。妖魔が一匹死ぬ。人間の貴様には関係なかろう」
悪い妖怪が死ぬ。おとぎ話では良くある話だ。昔から悪い妖怪は殺されて物語はハッピーエンドとなるのだから。
「ああ、俺には正直こいつを生かしておいていいのかは良く分からない。こんなクソ野郎を生かすのが正しいことかは分からない。でも、それが納得いかないのを一番分かってるのはお前のはずだ」
「何を言っておる。わしはこいつを殺すためにここまで来たのじゃ。迷いなど無い」
「じゃあ、どうしてそんなに苦しそうなんだ」
公太から見える伏羽の顔、それは苦悶に歪んでいた。とても迷いのない者の顔ではなかった。とても苦しそうだった。
「お前妖怪同士が争うのは嫌だって言ってもんな。殺し合うのはもっと嫌だって言ってたもんな。呆れたぜ、お前こんなクソ野郎でも殺したくないんだな」
「違う、こいつは例外じゃ。こやつは殺さねばならん」
「駄目だよ。だってお前は、お前は優しいんだ」
伏羽の表情が揺らいだ。
「お前こんな不登校のどうしようもないやつにもちゃんと接してくれたもんな。お前はお人好しだ。良いやつだ。そういうやつはこんなことしちゃいけないんだと思う」
公太は伏羽の手を掴んだ。天足を掴んでいる手を。
「止めよう伏羽」
そう言われて伏羽は腕から力を抜いた。天足は床に落ちた。伏羽は天足を殺すのを止めた。伏羽はそこで初めて公太を見た。
「やれやれじゃ。お人好しは貴様も大概じゃわい」
伏羽は言った。公太は笑った。良かったと思った。
伏羽はしかし、困ったように天足を見下ろした。
「じゃが、こいつはどうする。このまま野放しには出来ん。わしの山の岩にでもくくりつけておくか」
伏羽は困って唸った。いつもの伏羽に戻ったようで公太は安心した。
『そやつはわしが連れて行く』
そこで、今まで静観していた亞防夜叉が口を開いた。ズンズンと二人の近くまで歩いてきた。恐ろしかった。だが、公太は怖がらないよう頑張った。
「連れていく?」
『ああ、一緒に地獄に連れてゆく。そこで十王に裁きを受ける』
「なるほど。それが一番良いやもしれんな」
亞防夜叉は天足を担ぎ上げた。伏羽は手にしていた黒い鍵を亞防夜叉に渡した。亞防夜叉はそれを使い、黒い大きな門を開いた。
「さて、これで終いか」
『ああ、色々と本当に済まなんだ』
「まったくじゃ」
『貴様、わしが奈落に落ちようとした時に助けたな。わしは貴様の敵のはず。何故助けた」
「体が勝手にうごいたんじゃ。じゃから、わしに礼は要らんぞ。礼ならこの体にするがよい」
『グハハハハ。ぬかしよる。なるほど確かにお人よしだ。本当に助かった。礼を言う』
亞防夜叉は結局、伏羽に礼を言った。そして公太の方を見た。
『小僧、貴様はどうするのだ』
「どうもしませんよ。全然どうすれば良いのか分かりません」
『そうかそうか。悩め、悩むが良い。若人とは悩むものであろう。悩むことは間違いではないであろうからな。遠くから貴様の行く末が良いものになるのを祈っておる』
「どうも。あなたも頑張って下さい」
『うむ』
亞防夜叉は門を開いた。その向こうには地獄が広がっていた。どこまでも荒涼とした殺伐とした景色だった。
『ではさらばだ。達者で暮らせ』
そう言って亞防夜叉は門の向こうへと消えていった。
すると、景色がぐるりと回転した。赤黒い景色が徐々に現実のものへと戻っていく。そして、何かが沢山すごい勢いで門に向かって飛んできた。召喚された妖怪達だった。
「うわぁ!」
公太は尻もちをつく。ビル中の妖怪が全て門に吸い込まれていく。
「狐めの術が解けたんじゃな。あの鍵が術の核だったんじゃ」
妖怪はどんどん吸い込まれ、最後の一匹が吸い込まれるととうとう門は消滅した。見れば外の景色も青空だ。元通りの現実に戻ってきたのだった。
「これにて一件落着じゃな」
伏羽は言った。気分が良さそうだった。
「さて、帰るとするか」
「ああ、帰ろう」
公太と伏羽は戦いを終え、帰路についた。
ビルを出た公太は時計を確認した。
「あれ、入ったときと時間が同じだ」
「このビルは今まで地獄と現世の間におったのじゃ。時間の流れも現世と違ったのじゃろう」
二人はビルを見上げる。そこには凄惨な破壊の跡があった。
「どうなるんだ、これ。さすがに酷すぎるぞ。全部元通りになったりしないのかよ」
見れば路上を歩く人々もビルの異常に騒ぎを起こしていた。路上を歩く人からすれば瞬きする間にビルがボロボロになったということだから騒ぐのも当然のことだった。
「妖怪の術と言えどそこまで現実離れは出来んわ。しかし、これは参ったの。じいに言ってみるか。なんとかしてくれるかもしれん」
「中の人達は大丈夫なのかな」
「狐は自分の計画のために生かすと言っておった。記憶は消えておるかもしれんが大丈夫じゃろう」
「なるほど」
残念ながら公太に出来ることが何もないようだった。もはや、伏羽の『じい』とやらが全てうまくこなしてくれることを祈るばかりだ。
二人はそのまま駅に向かう。しかし、
「お前血まみれだけど大丈夫か」
「ああ、もう傷はふさがってきておる。鬼は回復力はずば抜けておるんじゃ」
「それは良かったけど、その血はどうにもならないぞ。そのまま駅に入ったら大騒ぎだ」
「ふむ、では拭いてゆくか」
二人はまずコンビニに向かった。そこで公太はウェットティッシュを買った。これで血糊を拭くわけである。コンビニから出ると伏羽は電話をしていた。
「ああ、スマン。わしは狐を殺せなんだ」
『―――――』
「ああ。のう、じい。暁部めはわしを恨むであろうか」
『――――――』
「そうか、良かった」
伏羽はじいと電話しているようだった。公太はじいの声は聞こえなかったがなんと言ったかは分かった。
そして公太がウェットティッシュを渡すと。伏羽は顔や手についた血を綺麗に拭き取った。服はまだところどころ破けパンクな感じになっていたが電車に乗る分には問題なさそうだ。
「さて、じゃあ行くか。って行くかって言ってもどうする。もう、お前は帰るのか」
帰るのか、と言って公太は寂しくなるのが分かった。伏羽とお別れになるのが嫌なようだった。
「いや、一息つこう。わしも疲れた。おぬしと会ったコーヒー屋にでも行くとしよう」
「なるほど。じゃあ、あそこに行くか」
二人は駅に向かい電車に乗る。通勤時間帯ではなかったので人混みに埋もれずに済んだ。伏羽はそれを心底喜んでいた。
「あんなものはわしはおろか人間の居る場所でもない」
伏羽は言った。
そして二人はコーヒー屋までやってきた。レジに付くと伏羽の表情は険しいものになった。
「なんということじゃ。メニューが変わっておるぞ」
「ああ、丁度そういう時期なんだろう」
見ればストロベリー&ラズベリースペシャルマキアートは姿を消していた。代わりにマンゴー&パイナップルアーリーサマーフラッペが姿を見せていた。
「わし思うんじゃが本当にこんな小難しい名前にする必要があるのか? もっと一目でどういうものか分かるようにした方が良いと思うんじゃが」
「そうか? 名前から大体分かるけど」
「貴様異能力者か何かか」
二人の会話を店員は微笑ましそうに見ていた。
「どれにするんだ」
「じゃあわしこのマンゴーので」
「マンゴー&パイナップルアーリーサマーフラッペですね。サイズはどうなさいますか」
「え・・・・Mで」
「トール・・・・でございますね」
「そ、それで」
伏羽はまたも敗北した。公太はアイスコーヒーを頼む。
「わしもアイスコーヒーにすれば良かったかの」
「なんであんな難しいの頼んだんだ」
二人はそれぞれ注文したものを受け取ると席に着いた。二人はようやく大きく息を吐いた。大分遅れて疲れがやってきたのだ。
「つ、疲れた」
「わしもじゃ。じゃが、全てうまく行って良かった。おぬしのおかげじゃ。おぬしがおらなんだら今頃わしは死んでおるじゃろう」
「怖いこと言うなよ」
「本当のことじゃ。亞防夜叉を破るすべはわしにはなかった。そしてわしにはやつの苦しみは分からなんだ。おぬしがやつを変えたおかげじゃ。礼を言うぞ」
伏羽は会釈した。
「いや、そんな大層なことじゃ。あんまり上手く言葉に出来なかった気がするし」
「それでも、やつはおぬしに心打たれたのじゃろう。顔が変わっておった。あやつはきっと大丈夫じゃ」
「そうか、それなら良かった」
公太は亞防夜叉を思った。遠い遠いところに居る、種族の違う同胞を。きっと亞防夜叉はいつか居たかった場所に戻るだろうと公太は思った。
「不登校というのも悪いことでもないかもしれんな」
「それはないだろう。全然良いこと無いよ。苦しいばっかりだ」
「そうか、苦しいか。なら貴様はその苦しみを乗り越え、いつか望みの場所に行けたなら昔よりずっと優しい人間になっておるだろうな。苦しみを痛みを知れた人間は優しくなるものじゃ」
「そ、そうかな」
公太は少し照れた。
「ああ、おぬしの生はきっと良いものになるぞ」
「何を根拠に言ってんだよ」
公太は憎まれ口を叩く。伏羽は答えた。
「千状ヶ岳の妖怪総大将、伏羽童子が言っておるのだ。間違いはない」
伏羽は笑っていた。
「そうかよ」
公太も笑った。これからどうなるのかは分からないし、きっとまだ苦しいままだろうが、少しだけ力が湧いた。公太は久しぶりに頑張ろうと思った。
二人はコーヒーに口を付ける。公太は普通のコーヒーだ。いつもの味わいである。
「そっちの美味しいか?」
公太は聞いた。伏羽童子は笑顔だった。
「これは美味い。実に美味いぞ」
「そうか、そりゃ良かった」
「この店にはまた来るとしよう。今度来たときは必ずや一人で上手く注文してみせる」
「頑張ってくれ」
公太は難しい気がしたがとりあえず応援しておいた。
そうして二人は店を出た。
二人は本屋を後にして駅前に向かった。伏羽は走って帰るようなことを前言っていたが。
「電車の使い方をマスターせねばならん」
と言い、電車で帰ることにしたのだ。公太は自転車を押し、伏羽は歩いていた。伏羽はやっぱり感動していような落胆しているような目で街を見ていた。人間の繁栄、それそのものが妖怪の衰退を意味してるのだと知った今の公太にはその顔が少し寂しかった。
「お前はこの後どうするんだ。その、山に帰ってから」
「そうじゃの。まぁ、とりあえず四国に行こうと思う。あそこは今本当に滅茶苦茶じゃ。まだ、小競り合いで済んでおるが本当に全面戦争が起こったら大変なことになる。そうなる前に様子を見にこうと思う」
「妖怪っていうのも大変なんだな」
「こんなことしておるのも少数派じゃがな。まぁ、仕方ない。そういう星の下に生まれておるからな」
「本当にお人好しだなお前は」
そう言って伏羽は懐から包を取り出した。公太の母から貰ったおにぎりだ。残念ながらぺしゃんこに潰れていた。
「ぬう、懐に入れておったのは失敗であったわ。母君に申し訳ない」
そう言いながら伏羽は潰れたおにぎりを包から出して頬張った。2つに順番にかぶりつく食べ方だ。
「梅干しとしゃけじゃな。どっちも美味いやはり母君は料理が上手いのう」
「お前しゃけ派か」
「おぬしはなんと言うのじゃ」
「『さけ』だな」
「『しゃけ』の方が親しみが湧くじゃろ。響きも可愛いし」
「いや、俺はずっと『さけ』でやってきてるから」
駅が近づいてきた。もう、お別れが近い。公太は自転車を押すのを止めて立ち止まった。
「お前本当に帰るのか」
「ん? そうじゃが?」
「お前、本当に妖怪で居るのか」
「なんじゃ急に」
「お前なら十分人間としても暮らせるだろ。人間の方が良いんじゃないのか」
公太は伏羽を侮辱することを言っているのを自覚していた。しかし、なんでかどんどんそういう言葉が出てきてしまった。なぜだか止められなかった。
「だって、もう妖怪は滅ぶんだろ。あの狐みたいなやり方もしないんだろ。じゃあ、俺にはもう妖怪が繁栄する未来なんて見えないよ。妖怪はもう時代に取り残されてるんだろう」
公太は言ってしまった。伏羽は怒るかと思った。激怒して去っていくかと思った。しかし、伏羽はニィ、と不敵な笑みを浮かべていた。
「言うたな公太」
伏羽は言った。そして続けた。
「わしらが時代に取り残されたぐらいで身を引くような上等なものだと思うておったのか。わしらは滅びんぞ。例えこの世の全てがわしらから目を背け、わしらを否定しようともわしらは滅びん。わしらはわしらのために生き、そしていつか必ず貴様らを滅ぼし妖怪の世を取り戻す」
伏羽はクツクツ笑った。
「その時まで首を洗って待っておれ、公太」
「さっき、俺の人生バラ色みたいなこと言ってただろうが。それじゃお先真っ暗なんじゃないのか」
「それはそれ、これはこれよ」
「なんじゃそりゃあ」
公太は呆れた。論理が破綻していて納得できなかった。しかし、伏羽はそういうものだった。妖怪という邪なものであった。でも、公太は鮮やかな生き様だと思った。公太は知らずの内に伏羽に憧れていたのだ。
「あとわし、貴様がわしを頭がおかしい女扱いした事も忘れんからな」
「それは謝るよ」
「当然じゃ!」
そしてとうとう駅に着いてしまった。
「本当に切符買えるんだろうな」
「なんとかするわい。おぬしの助けは要らんぞ」
「本当かよ」
「大丈夫じゃ」
公太はそれはそれで残念だったが仕方ないと諦めた。伏羽に任せてみることにした。
「・・・・・・」
公太は別れの言葉をどう言うものか考えていた。たった2日の付き合いだった。でも、もっと長かったような気がした。だから、本当に寂しかった。
「公太」
そんな公太に伏羽が言った。
「達者での。良く生きよ」
そう言われて公太も自然と別れの言葉が出てきた。
「ああ、お前も元気でな」
「ああ、さらばじゃ」
「ああ、じゃあな」
そうして伏羽は去っていった。公太はその後ろ姿が見えなくなるまで見送った。
伏羽の姿が見えなくなり、公太は自転車を押して家路に就いた。とても寂しかった。でも、残念とは思いたくなかった。思いたくなかったが残念だった。公太はこの二日間を一生忘れないだろうと思った。
「公太。今日は早いのね。朝ごはん食べるの」
「うん」
公太は眠気眼で食卓に着いた。まだ、朝の7時だ。公太にしては随分早い。母親が朝食を並べる。トーストにハムエッグ。そしてヨーグルトだ。
「伏羽が居た日に比べてグレードダウンしてないか」
「当たり前でしょうが。あれはお客さん用に豪華にしたんだから。伏羽ちゃん良い子だったわねぇ。元気にしてるかしら」
「ああ、きっと元気にしてるよ」
公太はトーストにまずかじり付き、そしてハムエッグ、サラダ。それらを平らげるとヨーグルトを食べ朝食を終えた。
「ごちそうさん」
「おそまつ様。あんた、先に洗濯物回すから、終わったら干して頂戴」
「いや、今日は無理だよ」
「え? なんで」
「学校行くもん」
「え?」
母は我が子から出た言葉に耳を疑った。幻でも見るかのように我が子を見て固まった。公太はそのまま部屋に戻って着替えを済ませた。半年ぶりに着る制服だ。少し、気分が悪くなる。学校というだけで苦痛が湧いてきた。でも、公太は今日は行こうと思った。公太は部屋から出て玄関に向かった。何故か母親が綺麗な姿勢で待っていた。
「なんだよ。なんか変だぞ」
「それはこっちのセリフよ。あんたどうしたの」
「どうもしないよ。ただ、今日は行こうと思っただけ」
「苦しくないの」
「苦しいよ。でも、今日は行くよ」
「そう、頑張ってね」
母は言った。母は笑っていた。こんな風に笑う母を見るのは久々であることに公太は気づいた。それだけでも良かったかなと、公太は思った。
「行ってきます」
「いってらっしゃい」
半年ぶりにそんな言葉を交わし、公太は玄関を出た。天気は晴れだった。普通ならいい気分なところだろうが公太は気が重い。
「やっぱ止めといた方が良かったかもなぁ」
そんなことを言いながらも公太は歩を進めた。気は重かった。最初から負け戦に向かう気分だった。何にも変わらない気配がプンプンした。
(でも、行くって決めたしなぁ)
公太はそんなことを思いながら駅に向かう。今日行ってどうなるかは分からなかった。そしてこれからどうなるかも分からなかった。でも、大丈夫だ、と根拠のないことを言った妖怪を信じてなんとかやっていこうと公太は思うのだった。
百鬼夜行・魑魅魍魎絵巻 鴎 @kamome008
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