百鬼夜行・魑魅魍魎絵巻
鴎
前編
「ふむ」
少女は目に映る景色を見つめ言った。そこに広がっているのは大都会。辺りを埋め尽くす家家家。走り回る大量の車、歩き回る数えきれない人人人。遠くに目を移せば巨大なビルがいくつもいくつも並んでいる。それらが春の陽光に照らされている。
「なんという景色じゃ。これが人の世の中心か」
少女は悔しそうに唸る。
「木々が申し訳程度にしかない。山々までも人の家々で埋め尽くされておる」
少女が立っているのは鉄塔だった。およそ、人が立つ場所ではない。その鉄塔の格子にはられた鉄骨の一つに少女は立っているのだ。
「この街のどこかに狐めが居るのか。いよいよじゃ暁部。貴様の敵は必ず取るぞ」
少女は決意と、仄暗い感情をその表情に写す。
「妖気はあそこからか」
少女が見つめるのは都会の中心のビル郡。そこを強く凝視していた。
「馬鹿みたいに妖気を垂れ流しおって。ふん。図に乗っておられるのも今日までじゃ。この伏羽童子が来たからにはな」
少女はそうしてぴょんとひとつ下の鉄骨に降りた。
「全部わしが終わりにして見せる」
そう言って少女はまたビル群を見つめた。そんな少女に呼びかける声があった。
「君! 早くそこから降りなさい!」
「分かっとるわ! 今降りとるじゃろうが!」
呼びかけていたのはメガホンを持った警察だった。少女はその呼びかけに応じぴょんぴょん降りていった。
少女はその後3時間に渡って職務質問を受けるはめになった。
「公太。洗濯物取り込んでよ」
「え?」
「え? じゃないでしょ。ずっと家に居るんだから家事くらい手伝いなさい」
「えー」
「えー、じゃないの」
公太は母に言われてしぶしぶベランダに出て洗濯物を取り込んだ。二人分なのでこれいといった量もないが面倒なのは面倒なのだ。公太は本当にしぶしぶ作業した。ポイポイとベランダから居間に洗濯物を投げ込んだ。
「ちょっと。あんまり乱暴に扱わないでよ」
「えー」
「えー、じゃないでしょ。私ちょっと買い物に出るから。留守番よろしくね。出来たら洗濯物も畳んどくのよ」
「マジか」
「マジかじゃないの。お願いね」
そういって母はおばちゃんパーマのかかった髪を揺らし出ていった。公太は残され山積みの洗濯物を眺めた。二人分なので大した量ではない。だが面倒なのは面倒だった。
「本屋に行くか」
公太は洗濯物から目を背け、母が出ていったのと同じように玄関に向かった。スニーカーを履き扉を開ける。午後の日差しはもう傾き始めている。今頃同級生たちは授業の真っ只中だろうと思われた。
それを思うと公太は少し憂鬱になった。
「あー」
力のない唸り声を上げ鍵を閉めると公太はアパートの階段を降り始めた。平日の午後の街は人通りが少なかった。郵便配達員のバイクの音とトラックのエンジン音だけが響いていた。
彼の日常はそんな感じだった。三条公太は不登校児だった。
本来通学に用いる自転車をこぎ公太は本屋に向かった。街を行き交うのはおばちゃんや老人だけだ。小学生でさえまだ下校していない。会社員なんてもってのほかだ。静かな平日の真昼間。普通の高校生なら風邪を引いたときくらいしか見ることのない景色だ。その中を公太は走った。
彼が学校に行かなくなったのは高校一年の春だった。今はそれから半年経った春の始め。主な理由は彼自身でも良く分からなかった。ただ一番大きな理由は勉強だったように彼は思う。彼の進学した高校は進学校で勉強のレベルが高かった。高かったといっても地元では中の上くらいのものだ。ずば抜けて頭の良い高校でもない。ただ、それでも彼には付いていけなかった。勉強をする気が起きなかった。しなかったらなおのこと付いていけなくなるのは道理で一年経った頃にとうとう彼は限界が訪れ、そして学校に行かなくなった。そういう感じで彼はこうして平日の町中を走っているのだ。
本屋は彼の家から10分ほどのところだった。ビル一個丸々本屋という作りの本屋。彼は今日発売の少年漫画を求めていた。漫画コーナーは3階だった。彼はエスカレーターに乗り3階まで行くと目当ての本を買った。
漫画は良かった。図抜けて好きということもなかったが漫画を読んでいる間は色々なことを忘れられる。高校生活を描いたものは苦しくなるのでパス。もっぱら彼が読むのはファンタジー系だった。包を小脇にとっとと家帰ろうとエスカレーターを降りる。と、コーヒーでも買っていこうと公太は思った。一階には喫茶店が併設されている。そこでアイスコーヒーを買うことにした。
一階に着くと入口横の喫茶店に向かった。いい感じの珈琲の匂いが漏れ出していた。本を買った客がここでコーヒー片手に読書に勤しめるようになっいるのだ。もう何度も買っているので別に何を思うこともない。公太は注文しようと店員の元に向かう。と、
「だから、コーヒーを出せと言うとるじゃろうが」
「申し訳ありませんお客様。当店はコーヒーにもいくつかございまして。どちらになさいますか」
「何があるんじゃ」
「おすすめは期間限定のストロベリー&ラズベリースペシャルマキアート。あとよく注文がありますのはキャラメルホワイトチョコレートフラペチーノにスコティッシュブラックモカフロートなどですね」
「あ・・・・・・。あ・・・・・・?」
レジに女が一人立ち往生していた。年齢は公太と同じくらいだろうか。ショートヘアーでTシャツにジーパンにサンダルという実にラフな格好だった。目が青い。外国人の血でも混じっているのだろうかと公太は思った。女は店員の言葉に固まっていた。
(ああ、初めて使うのか)
公太は思った。この店は品名が実に分かりにくい。名前だけでは何が入ってるのかさっぱりなのだ。今でこそ慣れたが最初は公太も意味不明で今の女と同じように若干固まったことがあった。ドヤ顔で品名を言い切った女性店員はいつまでも固まっている女に表情を弱ったものに変えた。
「大丈夫ですかお客様。一応普通のコーヒーも――」
「だ、大丈夫に決まっておろう。最初のを頼む」
「ストロベリー&ラズベリースペシャルマキアートですね。ではサイズをショート、トール、グランデ、ベンティからお選びください」
「あ・・・・・・・・・・・?」
女は再び固まった。
「え・・・・Mで」
「と・・トール・・・でよろしいでしょうか」
「あ、ああ。それで頼む」
女はなんとか注文を終えた。女の顔には疲労感と敗北感を浮かんでいた。女はそのまま商品の受け取りカウンターへと移動していく。公太は哀れみ、そして同情を抱きながら列を進んだ。この店を初めて使うものが誰しも通る道だ。皆、あれを乗り越えて成長するのだ。そして公太は自分の注文をした。
「アイスコーヒーのショートで」
「なっ!」
公太の言葉に移動していった女が勢いよく振り向いた。
「アイスコーヒーあったのか!」
女は驚愕していた。
「も、申し訳ありませんお客様。先程お伝えしようとしたのですがお客様が注文を決められたのでてっきり」
「な、なにぃ」
女はわなわなと震える。
「今から注文は・・・・」
「も、申し訳ありません。もう出来ますので追加注文という形に・・・・・」
「な、なにぃ」
そう言っているうちに女の前には実に豪奢なストロベリー&ラズベリースペシャルマキアートが置かれた。女はその威容にさらに震えた。公太はその様をしばらく眺めた後に言った。
「あの、交換しますか?」
女の表情は明るく変わった。
「いや、悪かったの。この店を使うのは初めてでな。はっきり言って意味不明じゃったわ」
「初めて使うならそんなもんです」
女は公太が注文したアイスコーヒーを飲んでいた。公太は女が注文したストロベリー&ラズベリースペシャルマキアートを飲んでいた。
公太は何故か女と同席するはめになっていた。コーヒーを交換したらもう終わりかと思っていたが女が「せっかくじゃ」などと言って同席してきたのだ。
「いや、都会に出てくるのは初めてじゃったからな。色々カルチャーショックを受けておる」
「地方の方なんですか」
「ああ、まぁな。わしは千状ヶ岳で妖怪の頭目をしておってな。鬼の伏羽童子という。今回は困っているところ助けてもらいあいすまなんだ」
「はぁ」
公太はさっさとこの女の元から去るべきだと理解した。冷静に考えればさっきから話し方も妙だ。いわゆる電波さんだと公太は判断した。出会ってまだ二桁分も言葉を交わしていないがはっきり分かった。関わり合いになるべきではない。さっさと会話を打ち切り席を立つべきだ。
「じゃあ、僕はこれで」
「ああ? なんじゃ唐突に。もう行くのか」
「ええ、家に帰ってやることがあるので」
「ちと待てい。もう少し話さんか」
「いえ、申し訳ない」
公太はペコリと頭を下げる。そしてストロベリー&ラズベリースペシャルマキアートを手に取り立ち上がった。
「まぁまぁ、良いではないか」
そう言って伏羽は公太の腕を掴んだ。公太は軽く振りほどこうとする。
(む?)
だが振りほどけなかった。異様に力が強い。
「む」
「少しだけじゃ少しだけ。この街について聞きたいことがあっての」
「むむむ」
「悪いようにはせんぞ。貴様をいきなり取って食うということはない。安心せい」
「むううううううううん!」
公太はとうとう全力で力を込めた。しかし、振りほどけなかった。
「そんな全力で逃げようとするな! そして、少しは人の話を聞けぃ!」
「だって、あなたヤバイ人でしょう」
「な、なんじゃ藪から棒に」
「そんな喋り方でそんな意味不明な自己紹介する人は社会的にヤバイ人です」
「な、なんじゃと。喋り方も自己紹介も嘘偽りないわしの本当の姿じゃぞ。ケチ付ける気か」
「そういうこと真顔で言う人はヤバイ人です」
「貴様言うたな!」
ざわりと辺りの空気が蠢いた。何か場の雰囲気が公太にも分かるほど変わった。
(?)
見れば目の前の女の顔は怒りに震えている。そして髪が逆立っている。そして、女の目の前のアイスコーヒーおよび公太の手元のストロベリー&ラズベリースペシャルマキアートがグラグラ震えていた。
(な、なんだ)
明らかに様子がおかしかった。と、女がハッとした表情で公太から手を放した。
「い、いかんいかん。すまなんだ。つい激情に身をまかせるところであったわ。町中で力を使うなときつく言われておったというのに」
女は手を引っ込めた。公太はなんなんだろうと思った。ますますこの女は謎だ。「力」とか中二ワードまで飛び出す始末。
「つまり、あなたはオタクかなんかなんですか。重度の中二病ってやつですか」
「な・・・・・・。い、いや。もうよい。それでよいわ。それでよいから少し協力してもらえんか」
「はぁ」
「頼む」
女は顔の前で手を合わせてお願いしてくる。まぁ、結局ヤバイ人だという評価に変わりはなかったが話だけでも聞いてみるかと公太は思った。ヤバイが悪い人間ではなさそうだ。まだ早計ではあると思ったが「之はアカン」と思ったら全力で逃げることにしようとも公太は思った。
とりあえず公太は席に戻った。
「話だけですよ」
「おお、聞いてくれるか」
「聞くだけです」
公太はストロベリー(以下略)を一口飲んだ。
「わしはの、この街に巣食う妖怪を殺しに来たんじゃ」
「へぇ」
公太はとりあず付き合う。
「じゃが、そやつの居場所が分からん。ゆえにこの街について知っているものに少し協力してもらいたいんじゃな」
「なるほど。妖怪っていうとどこかの廃墟とか神社とか、そういうところに隠れてるってことですか」
「いや、こやつは普通ではない。正体は狐でな。人間に化け人間社会に溶け込んでおる。そしてどうも社会の中枢に潜り込みこの国を動かそうとしておるようなのじゃ」
「ふむ」
公太はとりあえず終わりまで聞くことにした。
「顔だけは割れておる。こやつがこの都会のどこかにおるはずじゃ。貴様、何か心当たりはないか」
そう言って女はピラリと写真を取り出した。そこに写っていたのは女だった。スーツ姿のいかにもやり手というような。
(手が込んでるなー)
公太は思う。しかし、ふとその姿に見覚えがあるのに気づいた。この顔、この女は、
「この人、四葉重工の重役の秘書の人ですね」
「む? 知っておるのか」
「はい、この前ニュースになってましたから」
そうだった。この写真の女はつい先日、四葉重工の汚職事件でニュースに出ていたのだ。公太は不登校児なので自然テレビを見る時間が多くなる。なので、世情について同年代よりも詳しいという悲しい特徴があった。
女の名前は確か東藤と言った。四葉重工が国営の工事に関して癒着していたという事件に関わりのある人物だ。癒着に関する取引に関わりがあるとかでテレビで頭を下げていた重役。その重役と一緒に行動していた秘書の女だ。ちらりと写っただけなのに世間では美人すぎる秘書とかで話題になっていたのだ。
「この人が妖怪だって言うんですか」
「そうじゃ、まさしく」
「それはないでしょ」
「いや、間違いはない。わしらのネットワークの情報じゃからな。こいつであることに間違いはない。ただ、どこにおるかが分からなんだ」
「根拠がさっぱりですけど。その人なら四葉工業の本社に居るでしょう」
「で、あるか。ならばとりあえず行かねばなるまいな。いや、おぬしに出会えて幸運じゃったわ。して、そのビルはどこにある」
「都心ですね。ここからなら電車で1時間弱だと思います」
「電車か・・・・・」
伏羽は顎をさすった。公太は思う。随分手が混んでいると。随分練られた設定だと。だが、あくまで妄想のはず。ならば、ここからわざわざ行くということはないはずだ。
「すまん。電車の使い方が分からん。連れてってはもらえんか」
「え、行くんですか」
「それはもちろん」
女は当然のように応える。いや、当然なのだ女の中では。そういう設定なのだから。しかし、そこで公太ははたと気づいた。この女は地方から出てきたのだ。女が地方出身という点はこの店の両方が分からなかったところと服装が地方を中心に展開している衣類店のもので統一されていることから信憑性は高い。ということはこの女はこの設定のためにわざわざこの街まで出てきたということになる。
そんなことあるだろうか。普通はない。普通のヤバさのやつでもない。あるのはとんでもなくヤバイやつか、もしくは恐ろしく斬新かつ遠回しな詐欺である場合か、もしくは、もしくはこの女の言っていることが全部本当である場合だけだ。
公太は自分の思考に一瞬固まった。
「どうした」
「い、いや。なんでも」
いや、本当というハズはなかった。あんまりにも荒唐無稽であるし。
『四葉重工の秘書が妖怪である』
(うん。無いな。こいつは多分とんでもなくヤバイやつなんだ)
字面だけでヤバかった。冗談で口にしてもヤバイやつだった。困ったことになった。こんなやばい奴と関わることなんてあとにも先にもこれっきりだろう。そして女はいかにも正気というような目をしている。それがあまりに痛ましかった。これが本当に狂っている人間の目か、と公太は思った。そうすると公太はなんだか目の前の女がとても可哀想に思えてきた。自分が今不登校という状況なのもあってだろう。実に同情した。この若さでここまで狂っているなんて。この先の人生どうやって生きていくのだろう、と公太は思った。
「よし、なら行ってみるか」
行って公太は自分でも驚いた。思わず口にしてしまったのだ。なんだかこの女の力になりたいと思ったのだ。こんな狂った状態でこんな大都会を歩き回るのは危険すぎる。危ないことも一杯ある。付いていくべきだと思ってしまったのだ。
「ほ、本当か? いや、今までのノリなら当然断られると思ったんじゃが」
「いいんだ。行こう。行って妖怪をこらしめてやろう」
「な、なんじゃ貴様。どうたんじゃ。急に異様に素直ではないか。なんか突然タメ口じゃし」
「大丈夫だ。俺が付いてる。君は楽にしてれば良いんだよ」
「な、なんじゃ貴様。なんか気持ち悪いぞ」
「気にしないで。そうと決まれば善は急げだ。早く駅に向かおう」
「お、おう。頼む。いや何はともあれおぬしに出会えて幸運であった。こうも上手く事が運ぶとは。礼を言うぞ」
「ああ、全部俺に任せとけ」
公太は言った。『全部俺にまかせとけ』。そんな言葉今まで言ったこともなかったのに。言ってしまったなぁ、と公太は思った。
二人は席を後にする。それぞれコーヒーを手に取る。
「ああ、いかん。ホットコーヒーになっとる。やってしもうたわ」
伏羽がそう口にする。なんのことやら、と公太は自分の分のストロベリー(以下略)を口にする。
「む」
それはホットストロベリー(以下略)になっていた。
目的の四葉重工本社ビルがある街の駅までは公太の予想通り1時間弱だった。
伏羽は切符さえまともに買えない有様だった。なので公太が二人分買った。
「すまんな」
「別に良いけど。なら、ここまでどうやって来たの」
「人目のあるところは歩いたが、それ以外では山を駆けて来たわ。本当は全部走れば一番楽じゃったんじゃがな。騒ぎはなるべく起こすなと言われておったから」
「なるほど。それはすごい」
そういう設定か、と公太は思った。
平日なためかまだ電車は空いており二人は席に座ることが出来た。電車に乗っている間伏羽はずっと外を見ていた。感動しているような落胆しているような複雑な表情だった。どんどん都心に近づくにつれその表情は濃くなっていった。
「どう。初めての大都会は」
「いや、すさまじいの。人間というやつは」
「すさまじいか」
「こうも人間のものだけで埋め尽くされた景色を見るのも、こんなに街が人間で埋め尽くされているのを見るのも初めてじゃ。悔しいような感動的なような、妖怪としては複雑な心境じゃな」
「なるほど」
そうこうしている内に二人は駅についた。ホームに降りた瞬間伏羽は声を上げた。
「なんじゃこりゃ」
ホームは人で埋め尽くされていた。いや、休日や帰宅時間帯に比べればまだましだが、それでも伏羽にとっては十分なもののようだった。
「ど、どこに行けばいいんじゃこれは」
「こっちだよ」
そんな伏羽の手を取り公太は階段へと向かう。人混みの流れに乗りながら通路を進んでいく。
「なんじゃこれは迷路か? 人が埋め尽くされた迷路ではないか。なんじゃここは」
「こっちだよ」
「貴様本当に行き先が分かるのか」
「まぁ、何回も来てるし」
「ウソじゃろ。回数重ねたところでどうこうなるシロモノには見えんぞ」
公太は迷いなく進み問題なく改札を抜けて駅の外へ出た。公太は慣れたものだったが伏羽は肩で息をしていた。不安と緊張で疲れたらしい。
「とんでもない街じゃ」
そして一言感想を述べた。
二人は駅を出て目的地を確認する。
「ここから5分もかからないな」
「そうか。それは良かった。もう人混みはこりごりじゃ」
「地下道を使って行くのが早いみたいだよ」
二人は地下道を歩き、ほどなくして地上に出る。そこには巨大なビルがそびえていた。特徴的な円錐形の形。そして『YOTUBA INDUSTRY』の文字。
「よし、本丸じゃな。いよいよじゃ。ボコボコにしてくれるわ」
伏羽は悪意に満ちた笑顔を浮かべ拳を鳴らした。
「申し訳ありません。事前のアポイントメントのないお客様はお通しできないようになっております」
「何?」
ビルに入ってすぐの正面受付。会話を始めてすぐに言われた言葉がそれだった。伏羽が言った言葉は一言。
『東藤という秘書を出せ。大柄の妖怪の総大将、伏羽童子が来たと伝えるのじゃ』
だった。その一言で美人の受付から表情は消えた。
「な、何故じゃ。電話だけでもせんのか」
「申し訳ありません」
美人の受付は深々と頭を下げた。本当に深々としたもので相手にはその先何かを言う気力が削がれるものだった。
「な、なんとかならんのか」
「申し訳ございません」
「こ、このままではこの会社はおろか貴様らの国が揺るぎかねんのじゃぞ」
「申し訳ございません」
「せめてわしの話くらい聞かんのか」
「申し訳ございません」
もはや、受付嬢は申し訳ございませんと言って頭を下げるマシンと化していた。伏羽は「ぐぬぬぬ」と歯を食いしばる。にっちもさっちもいかないとはこのことだ。まぁ、当たり前の話なのだが。
「仕方ないよ。今日は帰ろう」
「な、なに? 貴様まで何を言い出す。このままではまずいのはむしろ貴様ら人間の方なんじゃぞ」
「いいからいいから。仕方ないよ」
「ええい、話せ! そして娘! 貴様もわしの話を聞け! なんなんじゃどいつもこいつも!」
伏羽は掴んだ公太の腕を振り払いながら喚く。一階のロビーの人々が何事かと受付に注目していた。公太はいたたまれなかったが自分で付いていくと決めていたことだ。きっとこうなるであろうことは分かっていた。仕方ないのだ。見れば受付嬢も困った表情だった。公太はパチリと一つウィンクを送った。それで受付嬢は察したらしい。困った表情から同情的な表情へと変化した。
「お客様。今日はお帰りください。私どもに出来ることは残念ながらないのです。申し訳ありません」
「な・・・・。い、いや。ならせめて伝えてくれ。『伏羽童子が来た』と。それだけでよい。それだけでよいから伝えるのじゃ」
「・・・・・・・・かしこまりました。確かにお約束いたします」
「な、なんじゃ。貴様も急に態度が柔らかくなったな。なんなんじゃ貴様らは」
「お約束いたしますお客様。ですのでどうか今日のところはお引取り下さい。そしてゆっくりお休み下さい」
「なんじゃ。なんなんじゃもう。仕方ない。今日は帰るわ。明日また来る。その時は頼んだぞ」
「・・・・・・かしこまりました」
受付嬢は何か覚悟を決めた表情になった。公太は申し訳なく思った。
そうして公太はなんとか伏羽を四葉重工本社ビルから連れ出すことが出来た。見れば空が赤く色づき始めていた。もう日が暮れる。
「いやぁ。上手くいかんな。人間の世の中は面倒ばかりじゃ。コーヒーから電車から人に会うのから」
「まぁねぇ。地方よりはずっと面倒だろうなぁ」
「いやぁ。明日来たら会えるかのう」
「ああ、きっと会えるよ」
公太はにっこり微笑んだ。
「そうかぁ? わしは中々難しいように感じたが。そもそもアポというやつか。事前に連絡しろと言われても連絡先も分からんままどうやってしろというんじゃ。ノコノコ向こうが出てくるとも思えんし」
伏羽はむぅ、と眉をひそめた。
「大丈夫。上手くいくよ」
「なんか貴様調子のいいことばっかり言うの。というかその嘘くさい笑顔はなんなんじゃ。なんかコーヒー屋からずっとその笑顔を貼り付けておらんか」
「そ、そんなことないって。大丈夫大丈夫」
「本当に妙な奴じゃ。まぁよい。今日のところは引き上げるとするか。さすがに疲れた。貴様は知らんだろうがあのコーヒー屋に着くまでも紆余曲折あったんじゃ。大変じゃった」
「そうそう。今日は帰ってゆっくり休もう。っていうか君ちゃんとホテル取ってるの」
「いや、ホテルは取っておらん。しかし、問題はない。そのへんのビルの屋上で野宿でもするわ」
「え、いやいやいやいや。まずいよそれは。警察呼ばれるって」
「警察? そんなことで来るのか?」
「いやいや不法侵入だって。普通に捕まるよ」
「なに? 弱ったの。なら仕方ないそのへんのベンチででも寝るとするかの」
伏羽はすぐそこに目についたベンチを見る。
「いや、ホテル取るって発想はないの」
「うーむ。取り方がなぁ。よう分からん」
「それは俺が電話するよ。お金は?」
「あと4千円じゃなぁ。もうそろそろ余裕がないな」
「よ、4千円か・・・・・・」
4千円では泊まれるホテルなどそうそうない。この都心では特に。困ったあげく公太は仕方ないと言ってみた。
「じゃあ、うちに来ない? 部屋が一つ余ってるから寝るくらいなら出来るけど」
「何? いや、だが迷惑をかけるのは躊躇われるな。どこかそのへんで寝るのでわしは構わんぞ」
「いや、危ないから。何かあってからじゃ遅いんだよ。いいから家に来なよ」
「そうか? すまんな。なら、ありがたくお言葉に甘えるとしようかの」
「よしきた」
この女を一人にすると何が起こるか分かったものではない。公太はそう判断した。何か起きてからでは周りに迷惑もかかるし何より本人のためにならない。まだ、誰かに保護してもらう段階には早いようにも思われた。なら、今夜は目の届く所に泊まってもらって、明日家の連絡先を聞いて電話して帰ってもらう。それが公太が思いつくところの最善策であるように思われた。
「とりあえず帰るか」
「ああ、おぬしの家はどこなのじゃ」
「あのコーヒー屋のすぐそこだよ」
「なるほど。ならまた1時間か」
「そうだね」
公太はふと今の時間帯がなにに当たる時間かを理解しげんなりした。まぁ、それはともかくとして公太はとりあえず話題を振る。
「で、あのビルにその妖怪は居そうなの。本当にあの写真の人が妖怪?」
「ふむ、あの女が目当ての妖怪であることは間違いない。いや、ネットワークの情報を抜きにしてもあのビルに目当ての妖怪が居ることは間違いない」
伏羽はヌラリとビルを見上げる。茜色の空に照らされた四葉重工本社がそびえている。
「こんなに濃い妖気は久々じゃ。やはりやつはよほどの上玉のようじゃな」
伏羽はクツクツと笑った。公太は少し不気味に思う。今の笑い方は本当に妖怪のようだと思ったからだ。
そして二人は四葉重工のビルを後にした。二人は駅に戻り。帰宅ラッシュで正真正銘のすし詰めになった電車に乗る羽目になった。公太は苦痛をこらえ、伏羽は阿鼻叫喚の有様で家に向かったのだった。
二人がビルを出たあと、受付嬢はほっと胸を撫で下ろしていた。
「大変だったわね。あんな変な子見たことなかった」
「私も。居るのねあんな子」
ふう、と応対した受付嬢は息を吐き出す。
「明日も来るって言ってたわね。困ったわね。あの状況じゃ『止めて下さい』とも言えないし」
「そうね。変になっちゃった子みたいだったし。付添の男の子もそんな風だったし。いつまでも続くとも思えないけど」
「そうね。何日間の辛抱かな。いや、そう信じたい」
と応対した受付嬢は電話を手にとった。
「ちょっと。まさか東藤さんに電話するの」
『東藤さん』と受付に呼ばれるあたり、東藤秘書が色々な人に親しまれているであろうことが伺われた。
「一応約束しちゃったし。もしかしたら本当に知り合いかもしれないし」
「えー。そんなことないと思うけど。本当に真面目ねあんた。呆れるわ」
「仕方ないのよ。約束しちゃったし」
そう言って受付嬢は電話をかけた。しばらくの呼び出し音のあと電話は取られた。
『はい、東藤です』
綺麗な女の声だった。
「お疲れ様です。こちら受付カウンターです。あの、東藤さんに先程お客様らしき方がお見えになったもので一応連絡をと思いまして」
『お客様ですか? そんな予定はなかったはずですが』
「ええ、はい。アポなしで来られまして。なのでお引取り頂いたのですが。すみません少し様子のおかしなお嬢さんでして。多分関係はないと思ったんですが、本当に一応連絡させていただいたんです」
『そうでしたか。それはまたご苦労さまです』
「お客様は『フワ』様と名乗られていました。『フワ』が来たと伝えろ、と。短髪で高校生くらいのお嬢様でしたね。お知り合いだったでしょうか」
受付嬢は一応伝えたが、東藤からまともな答えが帰ってくるとは思っていなかった。そもそも『フワ』という名と外見だけだ。おかしなこともいくつも口走っていたし、態度も妙だった。東藤のようなキャリアウーマンの知り合いとは思えないというのが受付嬢の印象だった。
『ええ、知っています』
しかし、帰ってきた答えは単純なイエスだった。
「え、お・・お知り合いでしたか。す、すいません変なこと言ってしまって」
『いえ、正確には顔見知りではありませんよ。こちらが一方的に名前を知っているだけです。そうですか、お見えになりましたか』
「あ、あの。明日また来るとおっしゃったのですが。お通しした方がよろしいでしょうか」
『ええ、是非そうして下さい。お見えになったら私に電話を下されば』
「分かりました。では、そのように致します。失礼しました」
『はい、お疲れ様です。ありがとうございました』
受付嬢は受話器を置いた。そしてまた、今度は大きく息を吐き出した。
「なに? あの子東藤さんの知り合いだったの?」
「知り合いってわけではないらしいんだけど、顔は知ってて明日会うって」
「へぇ~。変な話もあったもんね。あんな、いやあんなって言ったら失礼なんけど、あの
女の子と東藤さんに繋がりがあるなんて」
「ほんとにね。びっくりした。様子がおかしい、とか言っちゃったから私。しまったな・・・・」
「大丈夫よ。東藤さんならそんなこと気にしないって。この前だって、たかが受付嬢のわたしたちに美味しいチョコくれたじゃない。いい人だってあの人は」
「そう? そうよねぇ」
「東藤さんも大変よ。あんな汚職事件に関係ないのに巻き込まれて。訳解んない理由で記者に追いかけ回されて」
もう一人の受付嬢は同情のため息を吐く。東藤はこの前の汚職事件以来、色々な理由で記者に追いかけ回されていたのだ。それで社内の人々から同情を買っていた。
「秘書っていうのも楽じゃないわね」
「ほんとに受付嬢で良かったわ。それでそのうち良い男見つけて結婚して、そしたら私の人生ハッピーなんだけどなー」
「ふふ、そうなると良いわね」
「いや、あんたこそ今度の合コン忘れてないでしょうね。頭数に入ってるんだからね」
「ええ、結局私も行くの?」
二人はとりとめのない会話に終始した。もうそろそろ終業時間。多くの人間は残業に残るが来訪者はぐんと減る。二人の気も和らいでいるところだった。そうして、一日は終わろうとしていた。
ガチャリと東藤は受話器を置いた。ここは役員の部屋の横、秘書室だった。受話器を置くと東藤は窓の外を見た。
「そう、来たのね」
東藤は言った。丁寧にまとめられた黒髪を軽く撫で付ける。
「なら、丁重におもてなしなくちゃならないでしょうねぇ」
そう言った東藤の声は女のものではなく。かすれた男のものだった。
東藤は窓の外を見ていた。そこには二人の少年少女の姿。少女はビルを見上げていた。その瞳ははっきりと、この部屋の東藤に向けられていた。
東藤はクツクツと人間らしからぬ笑いを漏らした。
空はもう夕闇に沈みつつあった。ここは公太の街の駅前だった。過酷な帰宅ラッシュに揉まれながら二人はなんとかここまで戻ってきたのだった。
「じゃから、仕方なかろう。会えんものは会えんかったんじゃ」
『――――! ――!!』
公太は缶コーヒーを飲みながら伏羽を見ていた。伏羽は電話をしていた。スマホだ。公太はなんとなく伏羽がスマホを持っていたのが驚きだった。妖怪という設定なら持っていなさそうなものだと思ったのだ。
「なに? そういうことじゃない? じゃ、どういうことなんじゃ」
『―――――!』
「わしか? いや、『伏羽童子が来た、東藤を出せ!』と一言言うてやったんじゃ」
『!? ―――――!!!!』
「ああ? いや、わしはわしじゃし。それ以外にどうしろと・・・・」
先程からの感じだと伏羽はどうも怒られているようだった。電話の向こうから怒気を含んだ声が聞こえてくる。しかし、公太は安心した。常軌を逸して家を出峰したというわけではなさそうだ。ちゃんと向こうも伏羽に話しをしているし。だが、良く良く考えればそれも妙な話であることに公太は思い至らなかった。
『――――?』
「ああ? 今は親切な、ええと。そうじゃ」
伏羽は公太に目を向ける。
「おぬし名はなんという」
「俺? 俺は三条公太だ」
「なるほど、そういう名であったか。これほど世話になっておきながら名も聞かずあいすまなんだ」
伏羽は電話に戻る。
「公太という男児に案内されて今夜はそこで泊まることになっておる。何? もちろん名乗ったわ。『妖怪頭目伏羽童子』とな」
『――――――!!』
「いや、でもわしはわしじゃし」
『――――――!!!!!!』
「わ、分かったわ。わしがアホじゃった。分かったから。もう、気をつけるわ。力? 力はさすがに使っておらんわ。あ、コーヒーをホットコーヒーにはしたか」
『!!!』
「分かった分かった。ん? 公太にか?」
伏羽はスマホを耳から話し公太に差し出した。
「こやつがおぬしと話したいらしい」
「はぁ」
公太はとりあえずスマホを取り耳に当てる。
「はい、代わりました」
『あ、どうも孫がお世話になっております。私、伏羽の祖父です』
電話の向こうから聞こえたのは老人の男の声だった。柔らかい優しい響きだ。
「あ、どうも。世話というほどのことはしていませんよ」
『いえいえ、随分ご迷惑をおかけしたようで申し訳ありません。孫は少し、いや大分変わったところがございまして」
「はぁ、鬼とか妖怪とかは口走ってましたね」
『そうなのです。思い込みが激しいと言うかなんというか。こうしてたまにごっこ遊びが乗じて家を出ていくのです。いやはや困ったもので』
なるほどやはり本当に変になっている女なのだと公太は思った。そして少し安心した。詐欺のような犯罪の類ではなさそうだ。
「なるほど。でも、今日は大丈夫ですよ。僕の家に泊まってもらいますから」
『そのようで。本当に助かります』
「明日そちらに帰るように言いますよ。この街で伏羽さんみたいに振る舞ってたら危ないことばっかりだから」
『ありがとうございます。こちらからもそのように伝えますので。では、お願いします。また、孫に代わって頂けますか』
「了解です」
公太は伏羽にスマホを差し出す。
「うむ」
伏羽は電話を受け取る。
「して、どのような塩梅じゃ」
『―――――。――――――』
「何? わしは頭がおかしい女だということにした? ふ、ふざけるな! 誰がそんな! 声がでかいじゃと? 誰が黙っておれるかそんな仕打ち!」
「――――――」
「分かった分かった。あんまり自分の正体をおおっぴらにはせんわ。その方がスムーズに事が運ぶんじゃろ。分かったわ。うむ、ではの。やつは必ずや討ち滅して見せるわ。安心せい」
伏羽は電話を切りスマホをポケットに閉まった。
「大分怒られたわ」
「そうみたいだね」
「自分の正体はあまりバラすなと。わしはわしじゃというのに面倒なことじゃ。あやつ、お主の前で頭のおかしい女を演じろとまで言よった。まぁ、おぬしにはもう明かしておるから今更隠すこともないがの」
「なるほど」
ここまで来ると見事なものだと公太は思った。頭のおかしい女を演じないことで完全に頭のおかしい女となっているのだ。もう、理屈が複雑になってきたので公太はそれ以上考えるのは止めた。
「じゃあ、家に行こう」
「うむ」
公太は駐輪場から自転車を引っ張ってきた。
「後ろに乗って」
「二人乗りというやつか」
公太は伏羽を後ろに乗せ自転車を漕ぐ。家まで10分。これといって面倒な道でもない。平坦な道を走るだけ。実際、別段なんということもなくあと少しというところまで来た。伏羽はなんとなく街の感想を言ったりしていた。
「あれ、三条じゃん」
と、唐突に声をかけられたのはアパートのある住宅街に入ったところだった。
「え」
公太は振り返る。そこに居たのは中学の同級生だった。
「誰それ彼女?」
「いや、そういうわけではない」
同級生は別段仲の良かった相手ではなかった。一度同じクラスになった程度だ。高校は別の学校に行ったがそういえば住んでいる街は一緒だったか、と公太は思い出した。確か名前は飛田だったな、と公太は思い出した。
「なんだそりゃ」
「地方から出て道に迷ってて泊まる所がないっていうから家に泊まることになったんだ」
「はぁ!? なんだそれ、お前ビッグイベントじゃねぇか!」
「いや、まぁ」
公太は同年代のこういうノリが苦手だった。
「あんた気を付けろよ。何されるか分からないからな」
「何もしないよ」
「心配するな。わs・・・・私の方が強い。何をされても拳一つでねじ伏せるわ」
「ひえぇ。格闘技やってる人か。そりゃ大丈夫だな」
伏羽は勘違いをされていると気づいたが言いつけを思い出してそれ以上は何も言わなかった。
「・・・・・・三条。学校行ってないんだって?」
「ああ、まぁ」
「高浜から聞いてさ。大丈夫か」
高浜とは公太と同じ学校に通っている中学からの同級生だ。高浜も公太と別段仲が良いというわけでもなかったが同じ中学からの進学ということでそれなりに言葉は交わしていた。そして高浜の遊び仲間が飛田だった。なので情報が入っているのだろうと思われた。
「大丈夫だよ」
公太は答えた。
「・・・・・・。もし、本当に苦しかったら誰かに相談しろよ。柊とかさ。最近会ってるのか」
「最近は会ってないな」
柊とは公太が仲が良かった同級生だった。最近会っていなかった。それどころか公太は最近友人とあまり遊んでいなかった。会いづらかった。正直今こうして飛田と話しているのも辛いと思った。一体相手に自分がどう見えているのか良く分からなかった。
「そうか、なんだったら俺でも話くらいなら聞くからさ」
「ああ、ありがとう」
「あんまり無理すんなよ。じゃあな」
「ああ、ありがとう」
公太はどこか無機質に返事を返した。そうして飛田は去っていった。公太は少しうなだれた。
「なんじゃ。貴様学校に行っとらんのか。そういえば今日は人間で言うところの平日というやつじゃろ。おぬしがこうしてわしと居るのも妙な話じゃ」
「ああ」
公太はまた無機質に答えた。
「ふむ」
伏羽は一言そう漏らす。公太はその後にまた何か言葉が続く気がして身構えた。きっと苦しいことを言われると思った。
しかし、それっきり何もなかった。無言で二人は夕闇の中に佇んでいる。
「何をしておる。さっさと行かんか。日が暮れるぞ」
「え?」
「じゃから、おぬしの家に行くんじゃろうが」
「え。あ、ああ」
安心と、少しの拍子抜け。とりあえず公太は自転車を走らせる。今まで散々やかましかったのに伏羽は公太のことについては何も聞かなかった。公太は良く分からなかったが良かった、と思った。
「ちょっと。洗濯物放ったらかしてどこ行ってたのよ」
「ごめん。ちょっと本屋に」
「本屋? うん? その子は誰?」
「お初にお目にかかる。わs・・・・私は伏羽と申す。今日はこちらに泊めていただきたく」
「町中で道に迷ってて、紆余曲折の末、うちに泊めようという結論に至ったんだ」
「ええ!?」
帰ってくるなり公太の母が二人を迎えた。キッチンからはいい匂いが漂っている。もう夕食が出来上がろうとしているのだ。匂いから主菜は魚の煮付けであろうことが伺われた。
「ちょっと全然事態が分からないんだけど」
「説明するよ」
状況把握が出来ず困惑する母に公太は今日の出来事を説明した。本屋に行って伏羽と会ったこと。伏羽は訳の分からないことばかり言ったこと。それに従って四葉重工のビルに行ったこと。伏羽の保護者と電話で話したこと。警察に届けるほどではなく、一日泊めてさっさと故郷に帰すこと。公太は口下手だったので概要を説明することしか出来なかった。しかし、長い付き合いなので母はそれで大体を理解したらしい。
「そう、そういう話なら私は別にいいけど」
「悪い。放ったらかしにしたら大変な事が起きる気がして」
「そうねぇ。あの子がねぇ。普通の子に見えるんだけど」
「あんまり普通じゃないんだよ」
二人は伏羽を見る。伏羽はテレビに釘付けだった。二人の会話など聞こえていないらしい。バラエティ番組から目を離せないでいる。
「まぁ、とにかく一日だけだ。向こうの保護者の人とも了解は取り合ってるし。明日には帰ってもらうよ」
「そうね。それが良いわね」
母はうんうんとうなずいた。
「そうと決まれば準備しなくちゃ。和室で寝てもらうわね。あとはそう、晩御飯も。二人分しか作ってないわ。何か買ってくるわね」
そう言って母は手早く火を止め、ご飯をかき混ぜ、味噌汁に出汁と味噌を加えた。そして再び買い物袋を手にとった。
「何かやっとくことある」
「そうねぇ。じゃあ布団出しといてくれる? 和室の襖の奥に仕舞ってあるから」
「了解」
そう言って母は玄関に向かう。と、足を止めて、
「最初見た時、彼女連れてきたかと思ったわよ」
「違うから。そういうんじゃないから」
「残念ねぇ」
そう言って母は玄関から出ていった。
「元気の良い人じゃな。母君は」
テレビから一旦目を話し伏羽が言った。
「ああ、とにかく元気が良いんだよ。母さんは」
それから20分ほどで母は帰宅した。手には明らかに3人分とは思えない量の食材が詰まった買い物袋が下げられていた。公太はしっかり布団を出しておいた。今は亡き父親が使っていたものだった。今は亡き、とは言ったものの父親は公太が生まれてすぐに亡くなった。なので公太は父の顔は写真でしか知らないのだった。
「じゃあ、もう何品か作るから先に食べてて」
そう言って母はとりあえずとばかりに魚の煮付けとほうれん草のおひたしと味噌汁、ご飯を二人の前に並べた。
「いただきまーす」
「いただきます」
二人は晩御飯にありついた。
「うむ、上手い。上手いぞ母君」
「そう? それは良かったわ。まだまだ作るからどんどん食べてね」
食卓にはその後、きんぴらごぼうやら酢豚やらかぼちゃのサラダやら、次々と料理が並んでいった。
「ちょっと作りすぎじゃないのか」
「良いのよ。あんたが久々にお客さん連れてきたんだもの」
最終的にテーブルの上の料理は誕生パーティもかくやという豪華な量になっていた。公太はこれは食えないと思ったが伏羽はどんどんバクバクと平らげていく。伏羽の体は別に大きくはない。その体のどこにというほど伏羽は料理を食べ続けた。
「君、大丈夫なの」
「何がじゃ? 全部美味いぞ。いくらでも食えるわ」
「良かった。これだけ喜んで食べてもらえると作ったかいがあったってもんだわ」
そして、テーブルの上の料理はどんどん減っていった。明らかに3人前をはるかに超える量の料理の数々はその大部分を伏羽が平らげてしまった。
「はっ。すまん。おぬし、それに母君全然食えておらんのではないか」
「いや、俺はもう十分食ったよ」
「私は自分の分は別けてあるから大丈夫よ。それよりありがとう。こんなに美味しそうに料理を食べてもらえたのは久々だったわよ。公太なんかいつも文句タラタラだし」
「そんなことないだろ」
「バカ言いなさい。何が入ってるだの、何が入ってないだの。何か一言言うじゃないあんた」
「なんじゃと。人様に飯をまかなってもらっておいて文句を言うのか貴様。けしからん奴じゃ」
「そうよ、伏羽ちゃんももっと言ってやって」
「なんだよ・・・・・」
公太が2対1で劣勢に立ったところで夕飯は終わった。
「「「ごちそうさまでした」」」
3人揃って言って母は後片付けを。公太はベランダへと向かった。
「母君、わしも手伝おう」
「あら、いいのよ伏羽ちゃんは。お客サンなんだから休んでて」
伏羽は茶碗洗を手伝おうとしたが母が構わないということで公太の居るベランダに向かった。
公太はベランダに佇んでいた。ここは8階建ての5階。幼い頃からずっと住んできた部屋だった。ここからの景色はずっと同じ。公太が幼少の頃からそしてこんなになってからも同じだった。だからとか感傷的になるつもりは公太にはなかったが、公太はここから外を眺めるのが好きだった。
「なかなか壮観な眺めじゃな」
「そうだな。このへんはここより高い建物が少ないから随分先まで見通せる」
公太の前には住宅街からなる夜景が広がっていた。ビルや商業施設によるネオンなどない地味な夜景だったがこれはこれで公太は好きだった。
「これは人の暮らしの夜景だからな。それはそれで好きなんだ」
「なんじゃ、詩的じゃな」
「そんなかっこつけたつもりはなかったけど」
伏羽も夜景を見つめた。
「恐ろしいもんじゃ。ここから見える明かりは全部人間のものじゃ。信じられんほど繁栄しておる」
伏羽はあくまでこういうキャラか、と公太は思った。仕方ない。なんとなく疲れているし付き合うかと公太は心に決めた。
「そうだろうな。こんなに人間が住むなんて昔の人は思いもしなかったろうな。ちなみにお前は何歳なんだ? もう随分生きてるのか」
「わしはもう150になる。人間で言うところの明治時代が始まるころに産まれたわけじゃな。いや、色々あったわ」
「そうだな。人間の歴史も色々あった」
「戦時中はわしらも苦労したわ。巣食っとった町ごと焼かれるものもおった。得体の知れない怪物が生まれてそれを退治したこともあった。世が荒れるというのは妖怪にとっては良いことのはずなんじゃがな。良いことばかりでもなかったわ」
「へぇえ。妖怪も大変なんだな」
「そして近代化が進むに連れて人々の心から恐怖は薄れていった。妖怪は人間の恐怖によって力を維持する。人間の心から闇への恐怖が薄れるということはそのまま妖怪の力が弱まることも意味しておる。そして、最近になってインターネットというものも現れた。ありとあらゆる未知がどんどん潰されていった。妖怪の居場所はいまやほとんどない。力のある土地でひっそりと暮らすしかなくなっておる」
伏羽の表情は哀愁に満ちていた。
「でも、お前はこんな風に街に降りてこれるんだな」
「わしは特別力が強いからな。妖力だけで言えば古の名だたる妖怪たちにも引けをとらんと自負しておる。まぁ、さすがに街に来れば万全とはいかんがの」
「そんなもんか」
ふーん、と公太はとりあえず相槌を打っておく。そして一応疑問に思ったことを口にしてみる。
「お前が追いかけてる妖怪っていうのはどういうやつなんだ。相当強いのか」
「ああ、相当強い。四国の大狸がやつに殺られておる。それで今四国の妖怪のパワーバランスはめちゃくちゃになっておるのだ。わしは向こうの連中とも馴染みでな。敵討ちの意味でも奴を追っておる。しかし、それ以上にやつは危険じゃ。やつは妖怪の身で人間の
世をも手中に収めようとしておる」
公太はその言葉でふと自分の知識ににた妖怪が居るのに気づいた。
「それって平安時代の玉藻の前と同じような感じだな」
公太の言葉に伏羽はぽんと膝を叩いて相槌を打った。立ったままなので不格好な相槌だった。
「良くぞ気づいた。何を隠そう、やつはその金毛白面九尾の愛息子よ。長らくどこぞに隠れておったようなのじゃがの。ここ最近になって急に力を付け暴れておる」
公太は良く分からないワードがあったが特に気に留めず先を聞いた。
「へぇ、それで大企業に潜り込んでるのか」
「そのようじゃな。そこから国の中枢に手を伸ばそうとしておるようじゃ。三下の雑魚妖怪がやろうとしておるなら放ってもおくがの。どうせ上手くいかん。じゃがあの玉藻の前の直系の子となれば話は別じゃ。成功せんとも限らんのよ。なのでわしがそうなる前に退治するんじゃな」
「なるほど。妖怪も色々大変なんだな」
ふむ、と公太は顎に手を当てた。まぁ、作り話として聞いている分には面白い話だと思ったのだ。妖怪が国家転覆を画策しているときたか、と。
「ならお前は世を正す正義の妖怪なのか? そんな風に悪い妖怪を倒すっていうことは」
それを聞いた伏羽はくふふ、と笑いを漏らした。
「何を言うておる。わしの目的とて人間社会の破壊よ。その後に妖怪の世を復活させるのがわしの最終的な目的じゃ。やつの行動はそのための計画の妨げになるのよ。だから退治するに過ぎん。人間の味方をしているわけではないわ」
そう言って伏羽はもう一度くふふ、と笑いを漏らした。
「なるほど」
公太は相槌を打つ。やはりそういうキャラはぶれないのだなと。徹底して妖怪キャラなのだな、と。
大体話し終えたのか伏羽はくぁっ、とあくびを一つかました。公太は黙ってまた夜景を見た。ただ、少しだけ伏羽に意識を向けて。
「貴様のことは聞かんぞ」
「え?」
伏羽は唐突に口にした。
「その方が良いように思う」
「・・・・・・」
公太は何も言わなかった。そう言って伏羽はベランダから離れた。
「わしはもう寝る。明日に備えねばならんからな」
伏羽は居間に戻り母と何やら楽しそうに会話していた。二人でゲラゲラ笑い、しばらく話すと伏羽は奥の和室に入っていった。それきり静かになった。寝たらしかった。
公太は相変わらず夜景を見ていた。時折走り回る救急車の音や、電車の走行音が響いている。
公太は母に呼びかけられても「うん」とだけ答えてベランダに居座り続けた。そうしていたかった。
伏羽は変なやつだった。真顔で狂ったことを次々と口にする。でも、公太はなんだか嫌いになれなかった。公太は伏羽と知り合えたことがなんだか嬉しかった。
時刻はすっかり深夜だった。街はすっかり眠りにつき、公太も母もそれぞれ自分の部屋で休んでいた。そして伏羽、伏羽童子も与えられた部屋で眠りについていた。が、突如おもむろに目を開いた。
「やれやれ、あの受付の娘はしっかり約束を守ったようじゃの」
伏羽童子は跳ね起き、風のように軽やかに、しかし、何一つ音もなくベランダへと向かった。が、ベランダには出られなかった。窓に張り付いているものがあったからだ。
「貴様ら狐の差し金で間違いないの」
「ははぁ。本当に鬼だ。こんなところに、人間の家に」
「お前は食って良いって言われてるぜ」
そこに張り付いていたのは怪物だった。数にして3体。胴まで犬の不定形のもの。頭が牛で金棒を持った巨大な怪物。それから提灯の怪物。
「貴様ら程度に食われるわしではないわ。悪いことは言わんから去ね」
「なんだなんだ。態度のでかいヤツだな」
「心配すんな。見たところ大した妖気もない。雑魚だ」
「さっさと食っちまおう」
そう言って怪物たちはミシミシと窓ガラスに力をかける。
「やめんか貴様ら。この家には世話になった人間がおるんじゃ」
そう言って伏羽童子はくいっと右手の指を動かした。
「ぎゃ」
「なんだこりゃあ」
「熱い」
3体の体から火が燃え上がった。
「やれやれ。仕方ないか」
伏羽童子はそう言うとベランダに勢いよく飛び出し、3体を蹴りつけてベランダから弾き出し、さらに上に思い切り蹴り上げた。
「屋上が良かろうな」
その3体を追って伏羽童子も壁を蹴り屋上へと飛んだ。一瞬だ。打ち上がった3体に余裕で追いつき、伏羽同時はそのまま3体を屋上に向かってまた蹴った。しかし、伏羽童子には捕まるものがなかった。そのままでは落下だ。
「よっと」
と、伏羽童子は自分の後方に腕を振るう。すると爆発が発生した。その爆風に乗り、伏羽童子は難なく屋上に降り立った。
屋上には当然人は居なかった。それどころかなにもない。普段から滅多に人が踏み入ることのない場所だということが分かる。冷たい風が吹き荒んでいた。
「なんだお前。妖術? ただの雑魚妖怪じゃないのか」
「何にせよ3人居るのだ。一遍で襲えば苦もなかろう」
3体は伏羽童子の正体が掴めないでいた。
「今の大分すごいことやったんじゃがのう。まだ、力量の差が分からんか」
「はったりだ。3人で畳んじまおう」
そう言って3体は伏羽童子に襲いかかった。犬の化物。犬神は素早い動きで、提灯のお化けは口から火を漏らしながら、牛の化物、牛鬼は巨大な金棒を振りかざす。
「仕方ない。ほどほどで遊んでやろう」
伏羽童子はタン、と一歩踏み込んだ。
「ん?」
「あれ?」
牛鬼と提灯お化けは目を見張った。伏羽童子が目の前から消えたのだ。
「ぎいいいい」
と、叫び声が後方から聞こえた。見れば屋上の端、そこで伏羽童子が犬神の頭を掴んで立っていた。
「見えんかったろう。見えなかろうのう。貴様らでは」
伏羽童子はクツクツと不敵な笑みを浮かべる。
「な、なんだ。何が起こった」
「瞬間移動でもしたのか。また妖術の類か」
「違うわ馬鹿者。ただ単に一歩歩いただけじゃわい」
牛鬼と提灯お化けは喉を鳴らして固まった。今の一瞬何が起こったのか2体にはさっぱりだったからだ。対する伏羽童子に握られた犬神はパニックだ。
「ぎいいいい! むぎいいいいい!」
「ええい、やかましいわ。貴様はしばらく凍っておれ」
そう伏羽童子が言うと犬神はパキパキと音を立てて動きを止めた。全身が凍りついたのだ。そのまま伏羽童子は犬神を地面に放おった。ゴトンと音を立てて犬神は落下した。動く気配はない。
「な、なんだ。何者だお前」
「こんなに強いなんて聞いてないぞ」
「なんじゃ、貴様ら狐に何も聞かされておらんのか。わしは伏羽童子。千状ヶ岳で鬼の頭目をやっておるものよ」
伏羽童子はクツクツ笑った。
「伏羽童子? 伏羽童子だと!」
「なんだって? そんな馬鹿な。この国でも指折りの頭目じゃないか。なんだってそんな大物が! ふざけやがって! 天足の野郎図りやがったな!」
「いや、待て待て。あいつの言葉に踊らされるな。やつの妖気はどう考えてもそれほどのもではない。三下も良いところよ。伏羽童子などとはったりに決まっておる」
「阿呆め、妖気が感じられんのはわしが自ら抑えておるからじゃ。そのまま漏らせばいかに人間の街といえどどういう影響があるか分からんからな。どれ、本当の妖気を見せてやろうかの」
と、伏羽童子がそういうと周囲の空気が一変した。今まで晴れ渡っていた夜空には黒雲が立ち込めた。生ぬるいのに背筋を凍らせる風が吹き始めた。闇という闇に何かが潜んでいるようなそんな空気だ。どこからか何かが泣いているような何かが笑っているような声が聞こえる気がした。人間ならそれだけで恐怖で足がすくむような雰囲気。それが伏羽童子が本当の妖気を放ったために生まれたものだった。
そして妖怪の牛鬼と提灯お化けには人間以上にその妖気の恐ろしさが実感できた。
「あ・・・・ああ」
「ひ・・・・ひぃい」
2体は足を震わせ、涙すら浮かべていた。2体には今の伏羽童子から妖気がもろに当たっている。それは全身に寒気を走らせ、精神を削り取る恐ろしいものだった。2体は息さえ出来なかった。
「はい、お終い」
伏羽童子がそう言うとそれまであった空気が一瞬で消滅した。得体の知れない不気味さは消え、空を覆っていた黒雲も消失し、元通りに月が姿を見せた。
2体はようやく重圧から開放され息をした。
「はぁ・・・はぁ・・・・」
「ダメだ・・・・本物だ! 本物の伏羽童子だ! 天足の野郎等々目を付けられやがった! だから大狸は殺すなって言ったんだ! あの馬鹿野郎!」
「ちくしょう! クソが! こんなもの勝てるわけがない! 天足の野郎! 俺たちを騙しやがった!」
2体はそれぞれ喚き散らしていた。
「災難じゃったのう。しかし、妙じゃな。貴様ら明らかに古典的な妖魔じゃ。なんでそんな連中がこの現代の大都会を闊歩しておる」
「はっ! 言うもんかよ。言ったら天足に殺される」
「そうかそうか。分かったわ。で、続けるかの? 力量の差ははっきりしたように思うがわしは妖怪同士で争うのは好かんのでな。逃げるなら見逃してやるぞ」
「く、くそう」
「ダメだ、逃げよう! 勝てない」
「ちくしょう。分かった、とっとと逃げよう!」
そう言って牛鬼と提灯お化けは一目散に体を翻し、逃走を図る。しかし、その時牛鬼の目に映ったのは空に浮かぶ月に何かの影が横切る所だった。
「あ、ああ! ダメだ天足の野郎が見ている」
「なに?」
「何かが空を飛んでる。野郎俺たちを見張ってやがる!」
「ちきしょう! 帰っても無駄だってことか!」
2体はすぐさま足を止めた。2体は板挟みの状況に陥っているようだった。前門の虎肛門の狼状態だ。伏羽童子は一つため息を付いた。
「なんじゃ、やるのか?」
「ちきしょうくそったれ! このまま帰ったら死ぬよりひどい目に遭うだけだ!」
「そうだ! なんとしてもてめぇを殺さなくちゃならねぇ!」
「貴様らも従う相手を間違えたな。同情するぞ」
「ちきしょう! うるせぇ!」
2体は伏羽童子に襲いかかる。しかし、明らかにその表情は恐怖に染まっている。明らかなやけくそだ。戦う気もあったものではなかった。提灯お化けはデタラメに火を吹き散らかし、牛鬼は闇雲に金棒を振るってくる。
「ううむ、気分が乗らんのう」
伏羽童子は仕方ないといった調子でそれに応じた。牛鬼の金棒、闇雲とはいえ怪力で巨大な牛鬼が振るった金棒だ。それを、伏羽童子は片手で安安と受け止めた。衝撃で地面が陥没したが伏羽童子にダメージは見られない。
そこへすかさず提灯お化けが炎を吹き付けた。しかし、伏羽童子がついと指を振るとそれは一瞬で沈下した。
「なに!」
そのまま提灯お化けの舌先が凍りつく。
「むぐ!」
提灯お化けは危険を察知し、距離を離した。
「ちきしょう!」
牛鬼はそのまま滅茶苦茶に金棒を振り回す。何度も何度も伏羽童子めがけて渾身の力で金棒を振り下ろした。しかし、それら全てを伏羽童子は片手で受け止め、いなした。何一つダメージを負わせることは出来ない。
「くそったれ!」
牛鬼はそのまま、横薙ぎに大きく金棒を振るった。
「ふむ」
伏羽童子はそれにタイミングを合わせ蹴りを見舞った。牛鬼の怪力と伏羽童子の怪力、2つがぶつかりへし折れたのは牛鬼の金棒だった。折れた先は何度もバウンドし、給水塔にぶつかって止まった。
「く、くそ!」
牛鬼は武器を失った。それ以前にやはり力の差は圧倒的だった。攻撃側の牛鬼は息も絶え絶えの状態でいるのに受けていただけの伏羽童子は表情一つ変わっていない。実力が違いすぎた。
「うーむ」
伏羽童子が声を上げる。
「貴様かなりの剛力じゃな。これほどの力のものはわしの配下にもそうおらん。なるほど、貴様ら下界のものではないな」
「っ!」
「暁部のやつが何故狐風情に殺されたのか合点がいかなんだ。狐は確かに強大な妖魔じゃが暁部を殺せるほどではない。じゃが、なるほどそういうことか。で、あるならわしもまずいやもしれんな」
牛鬼は距離を取る。しかし、取ったからといってどうなるものでもない。奥歯を噛み締め唸るしか無い。
「おい、どうすんだ」
提灯お化けが呼びかける。しかし、牛鬼は答えない。もはや、打つ手なしだ。提灯お化けと自分では眼の前の怪物に手も足も出ないことははっきりと分かってしまった。
「ちくしょう」
しかし、このまま帰れば狐にどのような目に遭わされるか分かったものではない。
「ちくしょう」
牛鬼の頭は破裂寸前だ。にっちもさっちもいかなくなっている。
「ああああああ! ちくしょう! 天足! 見てるんだろうが! もう、こいつがどうしようもない化物だってことは十分分かっただろ! 俺たちを帰せ!」
牛鬼が選んだのは雇い主への命乞いだった。牛鬼の声は虚空に響き渡り、そして消えた。当然空に雇い主の姿はない。しかし、答える声が響き渡った。かすれた男の声だった。
『ダメ、ダメね。全然ダメ。まだ、そいつの本気の1割も引き出せてない。だから、もう一手打ちましょう』
「あ?」
ぴゅうううううう、と何かが落下する音が響いた。それは牛鬼の真上からだった。
「な! おい、ふざけ――――」
牛鬼の叫びは落下してきたものにかき消された。が、死んではいなかった。
「あ?」
「ぼーっとするでない」
伏羽が潰される寸前に牛鬼を掴んで助けていた。
伏羽は落下してきたものを見上げる。それはがちゃがちゃというやかましい音と砂埃を巻き起こした。そして、その舞う砂埃を上回る巨体が現れた。
「がしゃどくろか」
それは巨大な骸骨だった。骸骨は四つん這いで伏羽童子を睨んでいた。骸骨は咆哮した。それは甲高い不気味なおよそ生物のものではない咆哮だった。
「無念の死を遂げた亡霊の成れの果てか。これは厄介じゃな」
がしゃどくろが現れた途端、あたりの空気が冷えた。相当な妖気、邪気。伏羽童子ほどではないががしゃどくろも放っておくと良くない影響を撒き散らす。
と、がしゃどくろはずい、巨大な手を動かた。
「む」
伏羽童子は身構えるがその手が伸びたのは提灯お化けの方だった。
「ちきしょー! 厄介なのは全部始末すんのか天足のクソ野郎!」
提灯お化けはそのままがしゃどくろに噛み砕かれ消えた。がしゃどくろはそのまま、凍りついた犬神の方にも伽藍洞の目を向ける。
「相手はわしじゃ!」
伏羽童子はそう言って思い切りがしゃどくろを蹴りつける。がしゃどくろの上体が浮かび上がって仰向けに倒れた。肋骨が何本か砕けている。
「うむ?」
と、伏羽童子は足の違和感に気づいた。何やら重い。いや、思えばがしゃどくろが現れてから少し体が重かった。
「怨念の類か。生者が恨めしくてならんのじゃな貴様は。まずいの、このままではこのマンションに何をするか分からん」
がしゃどくろは起き上がり。右上でを思い切り振るってきた。凄まじい勢いだ。
「ちっ」
伏羽童子はそれを両手で受け止める。全身を使いなるべく衝撃を和らげる。適当に受け流したら下の部屋まで陥没してしまうからだ。掴んだ両手が重くなる。
「長引かせれば何が起こるか分からんな。とっとと終わらすぞ」
伏羽童子は掴んだ片腕にさらに力を込める。
「えぇい!」
そしてそのままその巨体を投げ飛ばした。がしゃどくろは宙を舞い屋上から飛んでいく。
「すまんな、わしでは貴様の無念を晴らすことは出来ん。許せ」
伏羽童子は右腕をかざす。するとがしゃどくろの全身が赤く発光する。温度が急激に上昇しているのだ。がしゃどくろはそのまま燃え上がった。叫び声を上げるがしゃどくろはどんどん炎上する。いや、火の勢いはさらに増している。もはや燃えているとは言えなかった。がしゃどくろは高温にさらされ蒸発していった。そして跡形もなく消滅した。
「やれやれじゃ」
伏羽童子はパシパシと体に付いたほこりを払った。辺りを見回す。
牛鬼はがしゃどくろに押しつぶされ死んだようだ。提灯お化けは食われた。あとは犬神。相変わらず凍りついて動かない。伏羽童子は近づいていく。牛鬼も後ろに続いた。伏羽指を振る。途端、犬神の凍結が解けた。
「ぶはぁ!? なんだ、何が起きた!」
「大丈夫か」
犬神は訳が分からんとばかりに辺りを見回す。
「お前さんが冬眠しとる間に事は終わったぞ。お前らは狐のやつめに捨て駒にされたんじゃ。提灯のやつは殺されてしもうた」
「な、なんだと!」
「まだ、やる気はあるか?」
「ね、ねぇよ。お前が強いってことももう分かった。俺は逃げる」
「お、俺もだ。もう付き合ってられねぇ」
牛鬼も合わせて答えた。
「どこへじゃ」
「え、ええと。天足のところに戻ったら多分殺されるな」
「じゃろうな」
伏羽童子はふむ、と顎に手を当てた。
「町外れの山間の廃寺にわしの仲間がおる。もし、行く当てがないならそこへ行ってわしの名を出せ。面倒ぐらいは見てくれるじゃろう」
「ほ、本当か! ウソじゃねぇだろうな」
「そんなくだらんウソはつかんわい」
「お、恩に切るぜ」
牛鬼と犬神は一目散に飛び去っていった。伏羽童子はその後姿と上空に目を見張った。狐が何かをしてこないか見張った。が、何もしてこなかった。伏羽童子に何かされるのを恐れたか、もしくは目的は達成したのでもう興味はないのか。何にしても今日はこれで終わりのようだ。
伏羽童子は屋上の通用口に目を向け、下の階に耳を立ててみる。しかし、通用口に人の気配はなし。下の階も深夜らしい静かなものだ。
「狐めが結界でも張っておったか。わしでも気づけんとは腕が良いと見える」
伏羽童子はようやくそこで一息ついた。
「ううむ。思っている以上に手強いのこれは。明日が大一番じゃな」
そう言うと伏羽童子はぴょんと屋上から飛び降り公太の部屋へ降りていった。屋上にはいくつかの陥没跡、破損した給水塔が残っていた。明日には大騒ぎになるだろうと思われた。
「醤油取ってくれ」
「うむ」
伏羽は脇にあった醤油を取り、公太に渡した。公太は醤油を卵にかけた。
「貴様醤油派か」
「伏羽は何派なんだ」
「わしは醤油マヨネーズ派じゃな」
「邪教じゃないか」
「なんじゃと。あれが一番美味いんじゃ」
二人は朝食を取っていた。ご飯に味噌汁にちょっとしたサラダとハムエッグ。そして、焼きナスビ。二人はもぐもぐとご飯を食べていく。
「ナスビは一人何個だったかな」
「2つじゃな。わしはもう食ったぞ」
「俺ももう食った」
ナスビは一つだけ残っていた。
「じゃんけん」
「パー」「グー」
伏羽の負けだった。公太は残ったナスビを美味しそうに頬張った。
「いやぁ、良い味付けだな本当に」
「ぐぬぬぬぬ」
二人は朝食を終えた。公太は学校には行かないのでこれといってすることもない。午前中は静かだ。ただ、伏羽は行かなくてはならなかった。
「さて。で、本当に帰るんだよなお前」
「んん? ああ、そういう話か」
公太は昨日の伏羽の祖父との会話を思い出す。祖父は自分に『伏羽は帰るように伝える』と言っていたから伏羽にも当然伝わっているだろうと思ったのだ。
「うむ、帰るわ。どうにも相手が悪いようでな。一旦帰って作戦の練り直しじゃわい」
「なるほど」
ものは言いようだなと公太は思った。
「じゃから、わし一人で十分じゃ。おぬしは付いてこんでよいぞ。世話になった」
「え。そ、そうか」
随分あっさりしたものだと公太は思った。変になっている人間の行動パターンとはこういうものなのだろうかと。公太は少し残念だった。
伏羽は時計を確認した。
「うむ、もうそろそろ出るとしようかの」
伏羽は立ち上がる。
「駅までは送るよ」
「む? いや、気遣いは無用じゃぞ。わし一人で大丈夫じゃ」
「いやいや、心配だから」
「大丈夫じゃ」
「そもそも駅の場所覚えてるのか」
「・・・・・・・大体は」
「ダメだな。やっぱり付いてくよ」
公太は出かけるために寝間着から着替えに部屋へ向かった。
「ううむ。駅では別れねばの」
伏羽は己の無力さを実感しながら呟いた。と、茶碗洗いをしていた母が伏羽に振り向いた。
「あら、もう行くの」
「うむ。もう、出ようと思う。いや、母君には本当に世話になった」
「良いのよ。伏羽ちゃんいい子だし」
「そ、そうか?」
「公太があんなに元気なところ久しぶりに見たから。ちょっと嬉しかったの。ありがとうね」
母は微笑んだ。
「なんじゃ。あやつ、いつもはあんな調子ではないのか」
「まぁ、大体あんな風に無気力だけど。あの子学校行かなくなってからなんか元気なくなっちゃってね。まぁ、当たり前なんだけど。でも、伏羽ちゃんと帰ってきたときはどこか芯が入ってたっていうか。久々にああ、元気だなって思ったのよ」
「ふーん。そういえば母君はあやつに学校に行くようには言わんのだな」
「うん、人に相談したら言わない方が良いって言われたから。あの子が自分で行くって言うまでは言わないの。まぁ、その代わりに家事とかの手伝いはどんどん押し付けるんだけどね」
母はどこか不安の混じったような笑顔だった。元気の良い人間でも、我が子が不登校であるということに何も思わないはずはなかったのだ。しかし、それでも母は自分の子のためになることを自分なりに考えて、分からないことは他人に相談して、頑張っているようだった。
「そうか、母君は頑張っておられるのだなぁ」
「え、そうかしら」
「わしには子がおらんから残念ながら良く分からんが。まぁ、そんな風に子のために頑張れるのは良い母君だとわしは思う」
「そう、どうもありがとう。やっぱり伏羽ちゃんはいい子ね」
母は笑っていた。
「あ、そうだ。これ持っていって」
母はそう言ってアルミホイルの包を取り出した。
「おにぎりだから。お昼に食べてちょうだい」
「あい、分かった。確かに頂こう」
そう言って伏羽は包みを受け取った。
「おい、行くぞ」
と、そうこうしている内に公太が着替えて部屋から出てきた。伏羽も付いて玄関に向かった。
「伏羽ちゃん元気でねー」
「うむ、母君も元気でな」
二人はそれぞれ手を振った。そして伏羽と公太は家を出た。
公太は自転車の二人乗りで伏羽を駅まで送り届けることにした。自転車なら駅まで10分ちょいである。平日午前中の街はこれといった障害もなく二人はスムーズに駅に向かっていった。
「そういや、昨日屋上で何か事件があったっぽいな。母さんが朝話してた。いたるところが陥没して、給水塔に鉄の棒が突き刺さってたらしい。妙なこともあったもんだよな。隕石かなんかかな」
「ふむ、隠しても仕方なかろうな。それはわしの仕業じゃ。昨日、狐めの妖魔に襲われての。屋上で戦ったのじゃ」
「なるほど」
公太は始まったぞ、と思った。
「雑魚妖怪であったがの。狐めの策略に嵌められた哀れな連中であったわ。まぁ、わしの手にかかれば一捻りであったがのぉ」
「やっぱり強いのかお前は」
「そらそうじゃ。大狸の死んだ今、少なくとも西国一であると自負しておる」
「へぇえ。そりゃすごい。妖怪の頭目とか言ってたよな。じゃあ、手下の面倒とか見てるのか」
「もちろんじゃ。まぁ、抜けた連中ばっかりじゃがな。それなりに楽しくやっておるわ。あやつらのためにも妖怪の世を取り戻さねばならんのよ」
「そうか、リーダーってのも大変なんだな」
「うむ」
伏羽は一言だけ答えた。公太はその返答に微妙な伏羽の変化を感じた。
「なんかあんまり元気ないみたいだな」
「そうか?」
「昨日はこっちが聞かなくてもベラベラ好きなこと話してたから」
「なんじゃそれは。わしがやかましい奴みたいではないか」
実際そうだったが公太は言わないでおいた。
「そうじゃのう、昨日の戦いですこしおセンチになっておるかもしれんのう」
伏羽は少し声のトーンが落ちた。
「貴様には話すとするか。聞いてくれるかの」
「ああ、良いよ」
「昨日襲ってきた妖怪は4人じゃった。しかし、その内2人は死んでしもうたんじゃ。狐の策略で1人、わしの手で殺したのが1人。わしはそれが嫌じゃった」
「ふーん」
「わしは妖怪同士で争うのが嫌いじゃ。殺し合うのはもっと嫌いじゃ。同族同士なのじゃから仲良くしたいんじゃな。なので良い気分ではなかった」
「なるほど」
設定とは言え公太はしんみりした気分になった。公太からすれば妖怪なんていうのは退治するのが当たり前みたいなイメージだった。しかし、確かに妖怪にも命があるというなら、やはり死ぬのは嫌だろう。そして仲間同士で殺し合うのは人間と同じで嫌だろう。
「じゃあ、その狐っていうのと戦うのはどうなんだ。お前は退治するんだろう」
「やつは仕方ない。大狸めを殺したし、やつがおると人間の世、妖怪の世双方が乱れる。やつは殺すしか無いんじゃ」
伏羽童子ははっきりと口にした。
「そう、やるしかないんじゃよ」
伏羽童子は重ねるようにして付け加えた。
「ふーん」
公太にはそう言った伏羽童子がどこか寂しそうに見えた。
「じゃあ、もし。そいつを殺さずに済むんだったらそうするのか?」
「うむ? いや、やつは強大な妖怪じゃ。戦うとなると殺す以外に終わらす手段はないじゃろう。でなければこちらが殺られる」
「だから、もしもの話だよ。もし、そいつがお前に降参して、もう悪いことはしません許してくださいって言ったらどうするんだよ」
「そうじゃなぁ。じゃが、やはりやつは大狸の敵じゃ。殺さねばなるまいよ」
「そうか、そんなもんか」
公太は少し寂しかった。そして、この会話も全部嘘っぱちであるということが残念だった。もし、全部本当で、伏羽が妖怪で、こんな風に話を聞くことにも本当に意味があったらと思った。そしたら、それはきっと楽しいことなのにと。
と、そうこうしている内に駅が見えてきた。
「よし、到着。で、本当にお前帰るんだよな」
「もちろんじゃ。今のわしではやつと戦うのは分が悪い。一旦帰って作戦会議じゃ」
「最後までブレないなお前は」
「なんじゃそりゃ」
「いや、何でもない」
公太は駐輪場に自転車を停め、伏羽を下ろした。
「京都だったか」
「む? ああ、千状ヶ岳は京の北じゃ」
公太は昨日千状ヶ岳の場所について調べていた。そこは鬼の住まう山として有名らしく練ってある設定だ、と公太は思ったのだった。
「じゃあ、切符はあっちだな」
「むむ、大丈夫じゃ。切符は一人で買える。じゃから貴様はもう帰れば良いぞ」
「え? 本当に大丈夫なのかよ」
「大丈夫じゃ大丈夫じゃ。困ったら駅員に聞く故。貴様はもう良いぞ。本当に世話になったわ。この恩は忘れんぞ」
「あ、ああ。こっちこそ。なんか楽しかったよ」
どうやらこれでお別れのようだ。公太は残念だった。眼の前の女は頭のおかしい電波女であるというのに。結局この女と過ごしたのは一日だけであるというのに。それでも、少し愉快な一日だったからだ。そして公太はなんだかんだこの女は良いやつだと思ったのだ。
「ではのお」
伏羽はヒラリと手を振り行ってしまう。
「おい」
公太は思わず呼び止めた。
「これから先も大変だと思うけどしっかりやれよ。おじいさんにあんまり心配かけたらダメだぞ」
「ふ、あい分かった。貴様こそあまり母君に心配をかけてはならんぞ。だが、焦るなよ。貴様ならなんとかなろう。貴様も母君と同じで良いやつじゃ」
「な」
そう言って伏羽はテクテクと歩いて駅に入っていってしまった。その言葉は公太にとってとてもとても、いつからか待っていた言葉だった。
「何を根拠に言ってんだあの女」
公太は一人ごちた。だが、あんまり力の入っていない悪態だった。
ふと、公太は伏羽を追いかけたくなった。あと少しだけ何か言いたいような、言葉を交わしたいような気がしたのだ。急いで駅に入っていく。伏羽はきっと今は駅員に切符の買い方でも聞いている頃だろうと思われた。伏羽はすぐに見つかった。やはり、駅員に質問している所だった。
「四葉重工の本社ビルに行きたいんじゃが。どの切符を買えばいいんじゃ?」
伏羽はそう言っていた。公太はやっぱりこうなるのか、と思った。
―ガタンゴトン、ガタンゴトン
電車は揺れる。公太は伏羽から一両隣に乗っていた。やはり、伏羽は四葉重工に向かった。なんだか綺麗な別れ方になりそうであったのに結局こうなるのかよ、と公太は呆れた。
「本当にブレないな」
伏羽は座席に座って窓の外を見ている。昨日と同じような表情。しかし、どことなく決意めいたものもその目には写っている。
(また、殴り込む気なのか。全然おじいさんの言いつけ守ってないじゃないか。これは弱ったぞ。下手したら本当にあの東藤とか言う秘書と会うまであいつ帰らないんじゃないのか)
公太は一人頭を抱えた。乗りかかった船という言葉もある。今日は昨日と同じで止めようと思う。しかし、もしこれから毎日だったらどうなるだろう。公太は毎日こうやって伏羽を止めなくてはならないかもしれない。それは困った。本当に困ることだと公太は思った。
(いざとなったらあのおじいさんをこっちに呼びつけて連れて帰ってもらおう)
公太は決心した。こうなったら最後まで面倒を見るしか無い。なんとか今日をしのぎ、伏羽を説得して連れ戻さなければなるまい。
―ガタンゴトン、ガタンゴトン。
電車は揺れる。伏羽童子は窓の外を眺めていた。人間の町だ。伏羽童子は基本的に山の中に居る。だから、人間の街というものはあんまり知らなかった。いや、暇つぶしに山の近くの街に降りることはある。だが、こんな大きな街は知らなかった。これが人間の作ったものだと言うのに心底驚かされる。本当に自分は人間に打ち勝てるのかと不安になる。
(それもそうじゃが、今は狐じゃな。さて、勝てるかどうか。真っ向勝負なら、間違いなくわしの勝ちじゃが。昨日立てた予想が当たったならどうなるかは分からんの)
昨日の妖怪との戦い。現代に不釣合いな妖魔の連続召喚。そこから伏羽童子は狐の持つ奥の手に関して一つ予想を立てていた。伏羽童子はだからこそ覚悟を決めていた。
(しかし、あやつは良いやつじゃったの。人間もよう分からん)
伏羽童子は公太のことを思い出していた。公太には四葉重工本社に行くと言わなかった。おせっかい焼きなのでまた付いてきかねないと伏羽童子は思ったのだ。
伏羽童子は人間と関わったことがあまりない。基本的に敵だと思っている。しかし、いざ接するとなるとどうも敵として見きれなくなってしまうところがあった。
(わしは甘いのう。どうも言葉を交わして相手も自分と同じようなところがあると分かると非情になれんくなる部分があるのう)
伏羽童子はそれは自分の欠点だと思っていた。妖怪の長としては旨くない性分だ。妖怪の世を作ろうとするならばどうしたって何かと戦わなくてはならないのだから。
(あやつめ、わしが狐を殺さん道もあると思うたのかの。それは、難しいがのう)
伏羽は公太に言われた言葉を思い出す。『もう、敵いません。許してください』などと向こうが言うとは思えなかった。言ったところで自分がどうすべきかは決まっているのだ。
(む、もうすぐ到着か)
アナウンスがかかる。もうすぐ駅員に教えてもらった駅に着く。もうすぐ戦いが始まるのだった。
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