5

 この会話があった次の日、僕は出勤するや否やカイネ女史の姿を探した。この地下書庫で息を切らして走りまわることになったのが、この日が初めてだった。地下書庫は異常に広く、女史はいつものごとく無線を切っている。

 ようやく彼女の姿を捕えたのは昼休憩に入ってからだった。地下書庫の出口付近で待ち伏せをしていたところ、今日も今日とてグレーのスーツを着こなしたカイネ女史が煙のように現れて足早にドアへ向かうのを確認できた。

慣れた手つきでコードを打ち込む彼女にさっと近づき、扉を塞ぐかたちで立ちふさがると、彼女は露骨に怪訝な表情をして僕を見上げた。

「お昼の予定は」

 恐怖は時に人を駆り立てる。昨日体験した出来事の真相を解明するためにも、僕はこの上司を問い詰める必要がある。

「どいてください、邪魔です」

「食事に誘うくらいは僕にも許されますよね」

 女史の表情はぴくりとも動かない。しかし鞄を掴む彼女の手に力が込められたのに気付いた僕はますます目を細めた。

「分かっているんでしょう。それとも、何かやましいことが?」

 数秒の沈黙の後、女史は長くか細いため息を吐いた。

「……ハルタ氏曰く、図書館前の通り沿いにあるカフェのガレットがおすすめだそうです」

「じゃあ、そこで」

 長い長い階段を誰かと上るのは初めてだった。カイネ女史はその細い脚で、呼吸ひとつ乱さずに歩を進めていく。僕はその数歩後ろを歩きながら、会話のシュミレーションを何度も何度も重ねていた。

 カフェはこじんまりとしていて、いかにも若い女性が好みそうな外装をしていた。僕と女史、双方にとってそぐわないと感じる。

それでも彼女は一切のためらいも見せずにテラス席に腰掛け、花のイラストで飾られたメニュー表をぱらぱらとめくり始めた。

 それから女史は、レモンの薄切りが浮いた水を二杯持ってきた店員に、僕に確認することもなくガレットを注文した。店員がメニューを下げていくのを眺めながら、思い出したかのように「アレルギーはありませんよね」と聞いてきた。僕は黙ってうなずいた。

「それで、あなたが聞きたいのはもちろん、B0200のことですね」

 グラスのレモン水に口を付けた後、カイネ女史は言った。

「ええ、あれは明らかに報告の対象です。B0200は明らかに僕に語りかけてきました」

「……最初にあれを見つけたのは、ハルタ氏です。半年前、彼は口寄せの作業中、他の書籍とは異なる特徴を持つ書籍を発見しました。あなたも知る通り、書庫に収容される書籍は全て、一定の間隔で電気を通すことで繰り返し同じ文句を発声します」

 女史は僕とは目を合わせようとはせず、グラスの中に浮かぶ氷を眺めている。

「しかし……B0200は常に違う言葉を発声していた。幸か不幸かハルタ氏の耳ではB0200の言葉を正確に聞き取ることができなかったので、私はあの書籍の口寄せを担当することになりました。初めてあの小窓を開けた瞬間を今でも覚えています」

「あれは、何と」

「はじめまして、と」

 その時の光景を思い出したのか、女史の表情がほんの少しだけ陰ったように感じた。陽の下で見る彼女の肌はその表情に反して眩しく、僕は灰色のスーツからほんの少し覗くほっそりとした手首から、視線を外すことができない。

「あの書籍を正式に報告していないのは、彼が……B0200が、そうしてほしいと私に頼んだことが発端です」

「あれが言うことに耳を貸したのですか」

「最終的な責任は全て私にあります。しかし正直なところ、あれが中央書庫に収容されたところで何かめぼしい発見があるとは到底思えません。私は……」

 女史が何かを言いかけた時、ガレットが滑り込むようにテーブルの上に現れた。さわやかな風貌の若い男性店員が、ガレットとは別に小鉢を女史の手元に近い場所に置く。

「あの、頼んでいません」

 僕が言うと、店員はにっこりとほほ笑んだまま、サービスですとだけ言って去って行った。

「あなたは、B0200について国へ報告するべきだと思いますか」

 女史はもう、ナイフとフォークを手に取ってガレットを切りにかかっていた。器用に生地の端をたたんでフォークで口に運ぶ様子をぼんやり眺めながら、僕は答える。

「いいえ。僕は口寄せとしてのあなたの能力を信頼しています……それに今更僕のような新米が口を挟んでも、仕方のないことのように思えますし。あなたの考えに賛成です。現在日本にいる口寄せで、女史以上に優秀な人材はいないと僕も思います」

 これは紛れもない本心からの言葉だった。カイネ女史の仕事ぶりは、図書館で彼女の名前を検索すれば一目で分かる。

「……正直なところ、あなたがB0200の声を聞いたことにある種の安心を感じています。口寄せのパラノイア発症率は年々増加傾向にありますから」

「なるほど、よく聞きますね。前任のハルタ氏も、発症の予兆が見られたので治療も兼ねた意味で異動となったと」

「もっとも、本人はその事実を知らされていないようですが」

 僕はガレットの端を小さく切りながら、ハルタ氏との会話を思い出した。

彼は妻の話をしていたが、彼に結婚歴がないことを僕は知っていた。才能があったとはいえ、彼のような純粋な性格をした人間がこの仕事を正気で続けていくのは些か過酷であることは僕にも容易に想像ができた。

僕自身も、この先いくら経験を積んで慣れが出てきてもあの書庫で感じた恐怖を忘れることは出来ないだろうと感じる。

あの書庫に並ぶ遺体は、すべて来る日の僕であるのだという気付きが、本能的に死への恐れを呼び起こすのだ。

「コノリさんには引き続き、B書庫の担当をしていただきます。そしてB書庫の口寄せが終了するまでの期間、B200への口寄せを毎日録音し、私に提出するようにしてください。B200の処理については、その結果を見たうえで判断します」

 開き直った様子でカイネ女史は僕に仕事を押し付けてきた。顔をしかめて反論の意を示しても、まったくこちらを見ようとはしない。視線は相変わらずガレットに向けられていて、女史は最後の一切れにフォークを突き刺すところだった。

 僕は断れる立場ではなかった。僕は、昨日体験した一連の怪奇を思い出し薄ら寒い気持ちになっていた。

 僕が了承の返事をすると、カイネ女史は軽くナプキンで口元を押さえた後に足元に置いていた鞄に手をかけた。慌てて立ち上がろうとすると、女史は半分も手をつけていない僕の皿のガレットを指さし、「どうぞ、ごゆっくり。昼休憩はまだ30分あります」と口早に言った。

「もうひとつだけいいですか」

 今にも店を出そうな勢いの女史を引き留める。

「なんでしょう」

「なぜ、そこまで露骨に、僕に邪見な態度をお取りになるのですか」

 もしかしたら、彼女は誰にでもそうであるのかもしれない。少なくともハルタ氏の様子を見るに、カイネ女史が彼に親切にしていたとは到底思えなかった。

他人から向けられる感情に頓着はしていないつもりだったが、実際のところ僕は彼女に多少の期待をしていた。同じ才能を持った彼女が、何かの拍子に僕に微笑みかける瞬間を待っていたのだ。

 部下からの切り込んだ質問に対して彼女がどんな反応をするのか、僕は注意深く観察していた。カイネ女史は振り向くと、初めて僕の目をじっと見た。

はっとする。

その表情は美しさにまみれて底が見えない。完全に凪いだ水面のように、ひと時の揺らぎすらない。僕は無意識のうちに息を止めていた。

店の喧騒も、食べかけのガレットもすべて忘れて、彼女のゆったりとした瞬きを見つめていることしかできなかった。

「それ、片づけておいてください」

 幾ばくかの沈黙の後、カイネ女史が呟く。

彼女の言うそれが先ほど店員の持ってきたサービスの小鉢であるのを理解するのに数秒を要した。小鉢を覗き込むと、つまみのように様々な種類のナッツが盛られていた。

「私、ナッツ類は食べられないんです。アレルギーがあるので」

 そういうと、女史はさらりとお札を二枚テーブルに置き、僕が何か言うよりも前に今度こそ店を出て行ってしまった。

 テーブルに残された僕は、華やかなカフェの中ですっかり場違いになってしまっていた。彼女の灰色の背中を見送った後、呆けたような気持ちでナイフとフォークをのろのろと動かす僕は、自分がとんでもない間抜けなのかもしれないとすら思い始めていたところだった。

 一切れを作業のように口へ運ぼうとしたところで、カタン、と椅子が引かれる音がする。

突然現れて僕の向かいの席を断りもなく陣取った男は、いつも通りの軽快な様子でにやりとした笑みを浮かべながら僕に話しかける。

「なるほど、あれは美人なんてもんじゃないな。お前が惚れても、振られても、何も不思議はない」

「盗み聞きか、仙堂。いい趣味だな」

 いつからいたのか、仙堂は勝手に僕のレモン水を飲み干して、うんうんと数度頷く素振りをした。

「俺みたいな平凡な男からしたら、むしろ怖いね。あの美貌は。あの人を寄せ付けない雰囲気は性格から来てるのかもしれないけどさ」

「あの人はいつもそうなんだ。いつも」

「相当お堅いらしい。さっきの店員くんもなかなか美丈夫だってのに、かわいそうだな」

「どういう意味だよ」

 仙堂は笑みを浮かべたまま、すっと小鉢をさした。指を突っ込んでみると、ナッツの下に敷かれていた紙に触れる。薄桃色の紙には、ボールペンで電話番号が走り書きされていた。

なるほど、と僕は呟く。僕が幻術か何かにかかっているわけではなく、カイネ女史の姿は傍から見ても稀有なものであるらしい。

 僕は無感情にその紙を三回ちぎった。どちらにせよ無意味な紙切れであることに変わりはない。

「俺はもっと優しい子が好きだなぁ。丸っこくてふんわりした感じの」

「惚れてるなんて言ってないだろ」

「惚れてない上での執着なら尚性質が悪いな?」

「……もう行くよ。仕事に戻らないと」

 僕が立ち上がろうとすると、テーブルに機嫌よく頬杖をついていた仙堂がまじないを唱えるような口調でこう言った。

「地下に篭りすぎるなよ、きっと人間と本の区別もつかなくなるぜ。そうなったら……面白すぎて笑えないからさ。お前は昔から本が好きだったもんなぁ」

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ラザロは待っている 伊智 @UN01iti

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