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「アコンカグアの頂上に置いてきた。子猫の血はきっと凍りついているのでしょうね、羨望の眼差し。切り殺された、祖父の眼差し」

「誤訳です。祖父の目玉」

「切り殺された、祖父の目玉。旅をしていく。どこまでも川の流れを上って、空へ。親猫の爪を携えて、遥か彼方へと行くだろう」

「結構」

 業務を終えた後、口寄せの結果と誤訳の確認をしてもらうべく僕はカイネ女史のもとを訪れていた。

地下書庫のそのあまりの広大さから配属当初は気づかなかったが、彼女のための机というものが下の階へと続く大階段の付近に存在していて、ありがたいことに女史は午後三時から五時の間は決まってそこにいた。僕の机は未だない。発見していないだけで、もしかしたらどこかしらには存在するという可能性はある。

 口寄せの仕事に就いてから、四か月が経過していた。毎日同じことの繰り返しではあったが、僕はこの日ようやくこの仕事における達成感を得ることに成功していた……A1000の口寄せが終わったのだ。

地下一階すべての書籍を回ったともなれば、さすがに感慨深いものがあった。

「ご苦労様です」

 しかし僕の予想に反して、彼女の口調は依然淡々としていた。

 一通り書類に目を通した後、僕の顔を見た彼女が「まだいたのか」とでも言いたげな表情を浮かべる。僕は不服だった。

「定時ですよ」

「明日から地下二階に取り掛かることになるんですよね。まだ二階に足を踏み入れたこともないので、迷子にでもならないよう今日のうちに見て回ろうかなと」

 女史はこちらには少しの関心も見せず、首にかけていたスタッフ証を外しながら言った。

「定時です」

 一瞬の隙もないような横顔が、今はただ腹立たしかった。

「明日からの仕事に支障が出るので」

 鞄にファイルを詰め込んでいた彼女がちらりと僕のほうを見る。気迫のこめられた眼差しに怯まないよう、その目をじっと見つめ返す。数秒の間の後、彼女は目を伏せポケットから小さな鍵を取り出し、僕に差し出した。

「では、戸締りのほうをお願いします」

「……分かりました」

 あっけなく受け渡された鍵に、僕は少しだけ驚いていた。

「今日までに私のほうでB0200までの口寄せは済ませてあります。それでは」

 黒いシンプルなトートバッグを肩にかけ、颯爽と彼女は歩き出す。すれ違いざまに香ったラベンダーに、一瞬ぎくりとした僕は、その背中に声をかけることすらままならない。

 僕は潔癖なまでの沈黙に取り残された。一寸の狂いもなく整頓された箱のひとつひとつには、喋る死体が入っている。

 四か月前の自分ならば数分前の自分の言動を悔いてそそくさとこの場を去るのだろう。しかし、口寄せとしての仕事をこなしながら欠落したもののうちのひとつであるのか、身震いひとつすることもできない身体になってしまったようだ。

この空間で唯一気味が悪いものは間違いなく、僕という口寄せの存在だった。

 地下二階へと続く階段は、見覚えのあるかたちをしていた……白い部屋の延長線でぼんやりと明るくとぐろを巻いている、螺旋階段。一歩踏み外せば永遠に転がり落ちることになるような、果てを感じさせない設計だ。

 僕は少しだけ慎重に階段を下って行った。下りながら、上りのことを考えてげんなりする。もう慣れたものではあったが、地上に出て退勤するためにはあの長い長い階段を毎回上りきる必要があった。

時間にして約十五分。あれを毎日ヒールで上りきるカイネ女史の体力には驚かされる。

 二階の様子は一階とほとんど変わりはなかった。同じようにガラスの扉があり、「本棚」がずらりと並んでいる。変わり映えのしない光景に、僕は失意の溜息を吐いた。

 それでも来たからには一通りは見て回ろうと、僕は本棚の間をゆらゆらと散歩し始めた。気まぐれに小窓を開ける気にはならなかった。地下書庫には死を彷彿とさせるような視覚的なオブジェクトは存在しない。彼らの声だけが唯一僕に死の恐怖を思い出させるものだった。

 革靴の足音だけが反響している。無意識のうちに呼吸すら密やかになっていた僕は、不意に棺の群れの中で立ち止まった。

 カイネ女史の言葉を思い出す。B0200までの口寄せは済んだ、と彼女は言っていた。その言葉通り、B0200の棺の小窓がほんの少しだけ開いていた。

女史らしくない、と思いながらも僕はその隙間から漂う死者の気配を遮断しようと、そっと小窓に手をかけた、その瞬間だった。

「君は誰だ」

 隙間から聞こえた鈴のような囁き声に、身体が強張る。

 問いかけるような響きが、やけに人間じみていた。

棺の中にあるのは人間ではない、書籍だ。忘れかけていた薄ら寒い嫌悪感が、全身を駆け巡った。恐怖、とも呼べそうなその感覚に追い打ちをかけるように、「本」は言葉を続ける。

「芥音ではないな。足音が違う……君は誰なんだ」

 僕は絶句した。

 久方ぶりの恐怖が僕を襲う。声も出ないままに後ずさる。あわててあたりを見渡すが、もちろん、この地下書庫には職員である僕以外の人間が居るわけもない。

同じ文言を繰り返すだけの死体が、彼女の名を口走ることはまずありえない。

「生きて、いるのか」

 やっとのことで絞り出した言葉を一蹴するような嘲笑が、棺の中から聞こえた。

「いいや、死んでいる。俺は死体だ、この通りに」

 僕は信じられない思いで恐る恐る棺に近づいた。そして、口寄せになって初めて、小窓の中を覗き込んだ。

 棺の中には、十歳ほどの少女がまるで眠っているような平穏を纏って横たわっていた。僕は本気で、この子は本当は生きていて、ここで僕をからかうためだけに待っていたのではないかとすら思った。

「そろそろ質問に答えてくれ。君は誰だ、口寄せか?」

「そうだ」

「名前は?」

「……コノリ」

「鷂か、なかなか勇ましい名前だな。男と喋るのは久方ぶりだ……晴田氏には俺の声が聞こえなかったから」

 少女の柔らかな唇からこぼれ出す言葉は、明らかに少女のそれではない。

「お前は、何だ」

「さぁな。ただ喋る死体さ。もっとも、この身体は俺のものではないがね。そう怯えないでくれ。幽霊なんかじゃない、とは言い切れないが、少なくともこちらとしては君を取り殺したりする意図は毛頭ないんだ……そうしたいともしも思ってもな、出来ないんだよ。死体だから」

 心底愉快そうに、くっくっくと笑う死体はますます幼い女の子の像からはかけ離れていた。棺の中から視線を逸らし、小窓を半分だけ閉じる。

「……カイネ女史はお前のことを知っているのか」

「あぁ、君は彼女の部下なのか。さしずめA書庫の整頓が済んだといったところか。明日からは君がここの担当、ということかな?」

 僕は並々ならぬ不信感と恐怖心をこの時点で抱いていたが、この奇怪な現象とひとまず会話を続けることにした。

「そうだ、四か月前からここに赴任している」

「なるほど。芥音からは一度も君の名前を聞かなかったな」

 この死体とカイネ女史が会話をしている現場を想像してみる。本来聞くことだけが僕たち口寄せの仕事であるのに。

本に語りかける人間は、狂人だ。おぞましい光景だと思った。

「芥音は俺の友人さ。仕事の合間を縫ってここへ来て、俺の退屈しのぎに付き合ってくれる」

「馬鹿な、あの人が」

 特異な事例の書籍はすぐさま国へ報告して、国家書庫へ送り込むことになっている。あの真面目な女が、これを黙認していることなど考えられない。

 信じられない僕に向かって、死体はますます嘲笑うような口調で言う。

「あの子はたまに来て、俺が一人でも退屈しないように少しばかりのおしゃべりに付き合ってくれるんだ。部下なのに知らなかったのか?」

「……」

「はは、まぁいい」

 僕は手元のタブレットを見下ろす。B0200に関するページは白紙で、備考欄にすら何の情報も書き込まれていなかった。死体が声を上げて笑うたび、僕は悪い冗談に巻き込まれているような気分になっていく。

 視線を上げると、白い箱が何百、何千の単位で目の前に積み重なっていた。そのひとつひとつにあるのは本。

 いや、本ではない。死体である。なぜ今まで気づかなかったんだ。なぜ今まで気づかないふりができたんだ。

 突然にその実感が重く肌に触れてきたので、僕は思わず頭を抱えた。

「本は、喋らない……」

「だろうな。俺は死体だ、そして死体は喋るらしい」

 小窓をぴしゃりと閉じ、地下書庫には再び静寂が訪れた。否、僕自身の呼吸だけが先ほどよりも荒く、響き渡っている。

祖母の遺体が喋るのを初めて聞いたときに感じた凍りつくような恐怖を、久方ぶりに全身が思い出していた。

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