魔王降誕

黒弐 仁

魔王降誕

どこから伝えればいいのでしょう。

どうやって伝えればいいのでしょう。


今こうしている間にも、私の中で「それ」が大きくなっていくのが分かります。

本当の私は眠っていて、今この瞬間も実は夢の中にいるのであれば、どんなに良かったことか。

けれども、真実は残酷なもので、「それ」が私に与えている体の不快感が、このことは現実であることを伝えてきます。

そんなことよりも、こんな風に現実逃避をする暇があったら、この事実を100人にでも1000人にでも伝えておけばよかったと後悔してもしきれません。そうして、一人でも多くに信じてもらえれば、結果はまた違っていたのかもしれないのです。



事の始まりは、おそらく、昨年の夏に友人たちと一緒にあの屋敷に行ったことからだと思います。

その屋敷は私が通う大学のある街の外れのほうにありました。どうやらその地域では有名な心霊スポットであり、昔その屋敷では、当主が虐殺を繰り返したとか、陰陽師が悪霊払いをしていたとか、そういった噂が学生たちの間で飛び交っていました。

つまりは幽霊屋敷として認識されていて、興味を示し、そこへ赴く学生も多かったと聞いていました。今にして思えば、そこへ行ったことのある人もいるという事実が、私に「何もない、大丈夫である」と根拠のない自信を持たせたのだと思います。


私のいるサークル内でもその話で盛り上がり、最終的に、私と女友達一人、男友達二人の計四人でそこへ肝試しに行くことになりました。

実をいうと、私自身は、幽霊とか心霊現象だとか、そういったことには興味はありません。ただ、その男友達の内の一人に好意を寄せており、今回の肝試しを通していい仲になれればという思いがあったので参加を決意しました。


夜九時ごろに最寄りの駅前に集合し、例の屋敷へと向かいました。その日は熱帯夜で、湿度も高く、汗で肌がべとべとになり不愉快だったのを覚えています。

「屋敷」と聞いていたので、それなりに大きい建物を想像していましたが、実際に見てみると田舎にありそうな一階建ての少し大きい程度の家という印象を持ちました。長い間手入れがなされていないのか、庭は雑草が生い茂り、屋根の瓦は足りていない部分が多く、外壁もかなり汚れていて所々穴が開いていたりへこんでいたりしていました。


建物の中に入ると、どの部屋もひどく散らかっていました。ここに肝試しに来る人はやはり多いようで、お酒の缶やお菓子の袋なども落ちていました。

建物自体はそんなに大きくないため、一時間もしないうちに一通り見終わりました。

当然といえば当然ですが、幽霊が出てくるなんてこともなく、「まぁ、こんなものか」とがっかりしたような、ほっとしたような複雑な気持ちでした。


それじゃあ帰ろうかとなった時、男友達の一人が、じっと天井を見つめていました。

「どうかしたの?」と聞くと、「天井裏に何かある気がする」と返ってきました。

天井にスマートフォンの光を当ててみると、古くなっているせいかいくつもの穴が開いていました。中には人が入れそうな大きさのものもありました。


男友達二人は肩車をして天井裏を覗き込み、何かないか手探りをしていました。

しばらくして、何か小さい、箱のようなものを取り出してきました。それの蓋と思われる部分には、よくわからない、漢字のような、呪文のような、そんなものが書かれた、お札のようなものが貼られていました。


薄暗い闇の中でも、友人たちが動揺しているのが分かりました。

恐れをなしているのか、だれも箱を開けようとしません。

ここまで来て日和っている男たちに、私はいら立ちを覚えました。

しかし、この後の、私の軽率な行動がその後の多くの悲劇を生むことになったのです。

私もこの時にもっと警戒をしていれば、おそらく私は普通の人生を歩むことができたというのに。


この世には、絶対に触れてはいけないものが存在するのです。なぜそんな簡単なことが分からなかったのか、悔やんでも悔やみきれません。

いえ、頭の隅にはそういった考えはあったのかもしれません。ですが、自分がそのようなものに遭遇するとは夢にも思わなかっただけなのでしょう。自分がいつ事故にあうか、いつ死ぬかが分かる人間など一人もいないのです。


しびれを切らした私はその箱を手に取ると、勢いよく蓋を開けました。

その中には小さい、仏像のような、何か人の形をしたものが入っていました。

それが何を意味しているのかは分かりませんでしたが、私は記念に写真を撮っておこうと思い、箱から取り出そうとしました。

作られてから相当な年月が経っていたこともあるのでしょうし、また、私自身少しイライラしていたので、無意識に力が強くなっていたことも手伝ったのでしょう。

私が手に取った瞬間、それは跡形もなく崩壊し、床へと落ちていきました。慌てて拾おうにも、まともな明かりといえばスマートフォンのみです。さらに、かなり細かくなってしまっているようでしたので、結局、私たちは修復をあきらめてそのままにし、逃げるように帰路につきました。


それから10日ほどが経った頃、悲劇的なことが起こりました。一緒に屋敷に行った女友達が亡くなったのです。検死の結果、直接の死因は心臓発作ということでしたが、その遺体は実に奇妙であったと聞きました。


その手には先端に血の付いたマイナスドライバーを持っていたのです。そして、おそらくは、それを使ったのであろうことが推測されますが、目はぐちゃぐちゃに潰れており、耳の穴からは血が大量に流れ出て、鼓膜が破れていたことが分かったそうです。つまり、彼女は自分自身で目と耳を潰したのです。

そして、目が潰れているため、実際には分かりませんが、その顔は酷い苦痛を与えられたことが分かるような、この世のものとは思えないような形相をしていたそうです。


彼女の母親が言うには、家じゅうに響き渡るような叫び声が聞こえた後、急に静かになり、部屋を覗いてみると、そこにはすでに息絶えている彼女の姿があったそうです。


警察は、自殺に見せかけた他殺の可能性も考えたそうです。しかし、彼女の部屋には彼女以外の誰かがいた痕跡はなく、また近隣で不審な人物を見たという情報もありませんでした。さらに彼女の持っていたマイナスドライバーからは彼女の指紋しか検出されず、心臓発作の原因も薬物などの外的要因は考えられないとのことでした。


彼女と親しかった私も、警察から事情聴取を受けました。その時の私は、あまりにも突然のことで、ショックが大きく、何を答えたのかはあまり覚えていません。

ですが、あの日の夜あったことは話さなかったと記憶しています。おそらく、不法侵入で逮捕されることでも恐れていたのでしょう。完全に自分の保身しか考えていなかったことが分かります。

今の私であれば、信じてもらえるかどうかは別として、迷わず話しているのに。

本当に、いくつもの選択が最悪のものだったと思っています。私の考えは全てにおいて浅はかでした。


彼女の葬儀には、ともに屋敷に行った彼らの姿もありました。その顔には血色はなく、目はどこか怯えている感じでした。

やはり、あの時のことが原因だと思っていたのでしょう。ですが結局、葬儀の間、私たちは何も話さないままでした。


葬儀の後少しして、彼ら二人も相次いで亡くなりました。死因は同じく心臓発作。また、その時の様子は、手に持っていたものはそれぞれアイスピック、シャープペンシルと違ったものの、二人とも、目が潰れ、鼓膜が破れているという彼女と同じ状態で見つかったのでした。


ここまで来て、ようやく私は焦り始めました。

あの人形は、悪霊か何かを封印していたのだ。私たちがそれを解いたのだ。きっと呪われたのだ。だから順番に殺されたのだ。次は、きっと、きっと私だ。

色々な考えが頭をめぐりました。

それから私は部屋に籠るようになり、ただただ、いつか来るその日に対する恐怖で震えていました。

しかし、一か月経っても、二か月経っても、変化はありませんでした。私は何の根拠もなしに難を逃れたのだと安堵していました。


今の自分の状況を考えると、この時点で「あれ」に殺されていたほうがどんなに楽だったかと思います。先に逝った彼らをうらやましくも思います。

私の、地獄と呼ぶにふさわしい本当の苦しみはここから始まったのでした。


ある晩、自宅のベッドで寝ていると、声が聞こえてきました。最初のほうはあまりに小さく、何を言っているのかは分かりませんでした。その声は段々と大きくなり、少しするとなんとか聞き取れるようになったものの、その声は異様に低く、何と言ったらいいか、もごもごとした感じではっきりとはしていない感じでした。しかしそれは日本語ではなく、聞いたことのない言葉だというのは分かりました。



「ゔぉうせねいさぁもじゅむがゔぁたぁゔぉざるゔぁゔぁふぇおいるででぃとう」



そのような言葉をひたすら繰り返していたと思います。

声はさらにさらに大きくなり、ついには家全体が震えているのではないかと思うほどになっていきました。

私は死に物狂いで必死に耳を塞ぎました。しかしそんなことは気休めにもなりません。声は容赦なく私の三半規管を痛め続けました。生まれて初めて、本当に気が狂うかと思いました。

もういっそのこと、何かで自分の鼓膜を突き破ってしまおうかと思ったその時、急に声が消え、静寂が戻りました。


私は恐る恐る、閉じていた眼を薄く開けてみました。どうやらまだ真夜中のようで部屋の中は真っ暗闇でした。しかし、私はその中に何かの気配を感じました。

よく注意して見てみると、暗闇よりも、もっともっと黒い何かが私のベッドの横にいるのが分かりました。その何かは、じっとして動きません。どうやら私のことを見ているようでした。まっ黒のはずなのに、なぜか私には「あれ」が笑っているのが分かりました。


私の脳内で警鐘が鳴りました。「あれ」を見てはいけないと。「あれ」の正体を知ってはいけないと。おそらく、本能的に自分の命の危機を感じたのだと思います。

私は再び目を閉じました。自分の持っているすべての力と意識を瞼に注ぎ込み、必死に目を閉じました。

目を閉じたまま、私はあまりの恐怖に体を震わせていました。全身の毛穴という毛穴からは汗が滝のように吹き出していました。おそらく「あれ」にとっては、瞼を開けさせることなど容易かったでしょう。必死な私の姿などさぞかし滑稽だったでしょう。しかしその時の私には他に取れる行動など思いつきませんでした。


しばらく経つと、「あれ」の気配が無くなったように感じました。再び、私は恐る恐る目を開けてみました。そこには真夜中の暗闇があるだけでした。

心底安堵した私の体はべっとりとした汗でぐちょぐちょでした。とても気持ちの悪い感触ではありましたが精神的疲労のほうが勝り、私は気絶するように再び眠りにつきました。


翌朝目覚めた私は両親の様子を見てみました。両親はいつもと同じように朝食を摂っていました。どうやら、昨夜の「あれ」の声は聞こえてはいなかったようでした。

私は考えました。きっと彼らは「あれ」の声を聴き、姿を見てしまったために自ら鼓膜を破り、目を潰したのだろう。そのあとで、きっと、「あれ」に殺されてしまったのだろう。

しかし、なぜ、私は見逃されたのだろう?なぜ五体満足のまま生かされたのだろう?

この時、私は自分が生かされたわけを、この後文字通り身をもって知ることになろうとは知る由もなかったのです。


難を逃れたと思い込んでいた私は、それからしばらくの間、何事もない日々を無意味に過ごしていました。

しかし、「あれ」が現れた夜から二か月ほどたった頃、私の体調に変化が現れました。

まず、生理が来ていないことに気が付きました。これまでも何度か遅れることはありましたが、よく考えたらここの所全く症状が現れていないことに気が付きました。

おそらくは重なった友人たちの死や本気で感じた命の危機などで、かなりのストレスをため込んでいたからだと思い、この時はさほど気に留めていませんでした。


それから少しして、吐き気、頭痛、倦怠感、食欲の減退など生理の時とはまた違う様々な身体症状が現れました。特に吐き気は酷く、一日に何度も嘔吐することもありました。

不調は何日も続いたため、近所の診療所で受診してもらいました。そして医師から言われたのは、衝撃の言葉でした。

私が、妊娠している可能性があるというのです。つまり、ここ最近の不調は悪阻によるものだというのです。

私自身、性行為をしたのは高校3年時の当時の交際相手が最後で、それ以降は誰かと関係を持ったことはありませんでした。また、私の所属していたサークルではアルコール類を無理やり飲ませるようなことはせず、私自身積極的に飲むほうではなかったので、泥酔して意識がなくなった時に、ということも非常に考えにくいことでした。

なので、私は妊娠などするはずがないと思っていました。しかし、一度そのようなことを言われてしまうと、ずっと頭の片隅に引っ掛かりました。


そして私は近所のドラッグストアで妊娠検査薬を買い、試してみることにしたのです。

信じがたいことに、結果は陽性でした。

私は結果を受け入れることができず、今度は産婦人科で受診しました。結果は妊娠10週目ということでした。

10週目。その言葉を聞き、記憶をさかのぼりました。そして、私はある記憶にたどり着き、全身から血の気が引くのを感じました。

10週前、それは、「あれ」が私のところに現れた時に一致するのです。

ここにきて私はようやく悟ったのでした。あれが私だけを生かした理由、それは、私を母体にするためだったのです。

ある種の蜂が、蝶や蛾の幼虫に卵を産み付けるように、「あれ」は私を孕ませたのでした。あれはきっと、生物の生殖とは全く違う方法で増殖していくのです。おそらく、ほかの三人は、生殖に「適してなかった」、それだけの理由で殺されたのでしょう。

猛烈に焦った私は、医師に強姦されたと嘘をつき、中絶したいと申し出ました。

医師のほうも私の表情を見て何かを悟ったのでしょう、何も詮索はせず、手術を行ってくれる別の医院を紹介して下さいました。


中絶手術は少し大きめの総合病院で行われることとなりました。

手術当日、担当してくださる医師は注意事項等を説明していましたが、私は自分に起こったことで頭が散漫で、話は全然入ってきませんでした。話が一通り終わると、手術室に案内されました。

手術は医師のほか、看護師も立ち会うようでした。準備が整い、医師が作業に入ろうとしたその時でした。医師が、いきなり叫び声をあげたのでした。空中の一点のみを見つめ、ぶるぶると体を震わせながら、建物全体に響き渡るような金切り声を上げ続けました。私と看護師は医師の視線の方向へと顔を向けました。が、その先には何も見えませんでした。


しかし、私には分かりました。「あれ」が手術室にいるのだと。今は何故か、私には姿を見ることも声を聴くこともできませんが、あの夜に感じた気配は体全体に伝わってきました。

医師は叫びながら、自分の耳を押さえつけました。おそらく、「あれ」の声が聞こえていたのでしょう。


医師は手術室に置いてあった、メスのような医療器具を手に取り、それを自分の左右の耳の中に突っ込みました。耳の穴からは大量の血液があふれ出していました。

三半規管も傷つけてしまったのか、彼は平衡感覚を失ってしまったようで、その場に座り込んでしまいました。しかし、まだ叫ぶのを止めません。その手に持ったメスを、今度は自分の両目に突っ込みました。それでも叫ぶのは止めませんでした。

最後に彼は、いやだ、いやだと叫んだかと思うと、急に静かになりました。看護師が確認したところ、どうやら心臓は止まっているようでした。私が見たその顔は、恐怖と苦痛に歪んだ、この世のものとは思えない形相でした。

「あれ」は、常に私のすぐそばにいたのです。きっと、私が腹の中にいるものを無事に生むのを見届けるためでしょう。そして、それを邪魔しようとした医師を殺してしまったのです。


恐れをなした私は、ここまで来てようやく両親に全てを打ち明けました。

幽霊が出るという噂の屋敷に行ったこと、そこで人形の様なものを壊したこと、一緒に行った友人3人がおそらく呪われて殺されてしまったこと、私のお腹の中には友人たちを殺した化け物の子供がいること。全てを、できるだけ詳細に伝えました。

両親ははじめ、私を疑っていたようでした。私は両親にも強姦されたと嘘をついていたため、どうやら私がショックで錯乱しているのだと思い込んでいたようでした。しかし、友人三人と医師が全員同じ奇妙な死に方をしていたことを知ると、私の話を信じる気になったようでした。


両親は、悪霊払いを行ってくれるお寺に私を連れて行ってくれました。

そのお寺の僧侶は私を見るとすぐに、顔をこわばらせました。どうやら、私に何か悪いものが憑いているのを見抜いたようでした。私がこれまでのことを話すと、僧侶は、難しそうだが何とかやってみる、お祓いが終わったら、屋敷についても調査してみると約束してくださいました。

そして、お祓いが始まりました。僧侶は、額に汗をにじませながら、熱心にお経を唱え続けました。しかし、少しすると、ぴたりとその声は止まりました。私と両親が不審に思って見ていると、僧侶は急に叫び始めました。その後は、友人たちと同じ末路をたどりました。


絶望しました。もはや私には、「あれ」に対抗する術はないのです。また、僧侶の悲惨な末路を目前にして、両親も事の重大さを理解したのか、その日からどこか怯えたような目で私を見るようになりました。

それからしばらくは、何事もない日々が続きました。しかし、少し大きくなり始めた自分の腹を見るたび、私は猛烈な不安を覚えました。

ある日、両親に呼び出され、何か厚い封筒を渡されました。中には札束が入っていました。これを使って、子供を落ち着いて生める場所に行きなさいとのことでした。

聞こえはいいですが、要は手切れ金でした。両親は自分に災いが降りかかるのを恐れたのです。早い話が、私は両親に見捨てられたのでした。

私は何も言わず、封筒をもって家を出ていきました。私自身、両親を巻き込みたくはなかったからです。


結構な量の現金をもらったとはいえ無駄にすることはできないので、私はネットカフェに住み着きました。ネットカフェであればビジネスホテルよりも格段に安く寝泊まりできるためです。これならしばらくの間は何とか暮らしていけるだろうと思っていたのですが、このあたりから私に新たな変化が現れました。

それは、「飢え」でした。ただの空腹ではありません。いくら食べても、どんなに食べても、決して満たされることはなく、凄まじい空腹が延々と続くのです。

さらに、一度に食べる量も人間のそれではありませんでした。以前の私であれば、喫茶店のメニューにある小さめのパスタ一つで満足できるくらい食が細く、また好き嫌いも多いほうだったのですが、この頃になると食べ物とあれば見境なく、貪欲に食らうようになっていました。


ある時、ファミリーレストランでメニューに載っている料理を片っ端から注文したことがありました。店員は不審な目で私を見ましたが、代金はちゃんと払う、料理もすべて食べられる自信があると言うとしぶしぶ注文を受けてくれました。

そして運ばれてきた料理を食べ始めると、店員や他の客はぎょっとした目で私のことを見ていました。きっと、料理を食べている時の私の形相は人間とは思えないものだったのでしょう。しかし私はそんなことは気にせず、ただただ一心不乱に目の前の料理を食べ続けました。

ものの一時間ちょっとで全ての料理を平らげた私を周りは奇異の目で見ていました。ここにきて私はようやく恥ずかしさを覚え、早急に会計を済ませるとそそくさとファミリーレストランを後にしました。


この変化が、私の腹の中にいる「それ」のせいであることは察しがつきました。明らかに、自分の胃袋に収まる量以上のものを食べているのに、食べたその瞬間に無くなるようなのです。どうやら、私の腹の「それ」は物理法則でさえ無視しているようでした。

また、食べ物を食らっていくそのたびに、お腹の中のものが少しずつ、大きくなっていくのを感じました。

一日当たりの食費は多い時で5万円を超えることもあり、このようなペースで使い続けていると、両親から渡されたお金はみるみるうちに無くなっていきました。

そして残りわずかとなった時、私は考えました。

この飢えは腹の中の「それ」が生まれるまで続くのだろうと。このままでは、腹の中のそれが生まれる前に私は飢えにより死ぬだろうと、そんなみじめな死に方をするくらいであればいっそのこと。私はホームセンターに行き残ったお金で必要なものを買いそろえると、駅へと向かいました。


私は電車を乗り継ぎ、なるべく人口が少ない場所を目指しました。そして、地方のローカル線の無人の駅で降りました。

しばらく歩いていくと、周りを草木に囲まれた古びた小屋のようなものを見つけました。ドアを軽く押してみましたが、鍵がかかっているのか開きませんでした。今度は少し強めに押してみると、少し鈍い音がした後、ドアが開きました。

ドアがもろくなっていたのか、はたまた私の力が強かったのか分かりませんが、ドアは壊れてしまったようでした。

放置されてから随分経っていたのか、中は荒れ放題で部屋中にカビ臭が充満していました。また、鼠が住み着いているのか、糞のようなものも落ちていました。


以前の私でしたら嫌悪感を抱いていたと思います。しかしこの時は、もうすぐすべてが終わると信じていたため、そういった感情はありませんでした。

私はここで、自分の人生を終わらせようとしたのです。


私はホームセンターで買ってきたものを順番に取り出し、試していくことにしました。

まず私が取り出したものは包丁でした。私は自分の服を脱ぎ、上半身裸になりました。自分で見たお腹は妊婦のそれでした。妊娠のことはよくわかりませんが、妊娠時期から考えると、腹が大きくなる速度が普通よりも格段に早いことは確かでした。

私は脱いだ服を細く畳みたすきのような形にして、それを口に含み、力強く噛むと大きくなった自分のお腹に包丁を突きつけました。

想像以上の恐怖感でした。運動した時に出るものとは違う、べとついた汗が大量に吹き出し、体全体は小刻みに震えていました。しかし、私はしなければなりませんでした。自分が受けている極限の苦しみから逃れるために、自分の中にいる「それ」を外へと出させないために。

意を決すと、包丁を持った両手を大きく上げ、自分の腹を目掛け、勢いよく振り下ろしました。

しかし、包丁の刃が体に届こうとするその直前のことでした。バキンという鈍い音とともに、刃の部分が根元から折れて床に落ち、持ち手の部分だけで突くだけで終わってしまいました。


続けて、折れた刃を手に取り、自分の首を掻き切ろうとしました。しかしながら、持っていた刃が急に凄まじい熱を帯び、反射的に手を放してしまいました。

床に落ちた刃はみるみるうちに溶け、最終的には消えてなくなってしまいました。


気配は感じませんでしたが、「あれ」が邪魔をしているようでした。

ここまでは予想通りでした。元々、そう簡単には事は運ばないと思っていたため、私はさっさと別の方法を試すことにしました。


次に私はロープを取り出しました。小屋の中の適当な高さのひっかけられそうな場所を見つけると、ロープで輪を作り、首を吊ろうとしました。

しかし、首を吊るったその直後には私の体は床の上叩きつけられました。痛めた体をさすりながらロープを見てみると、どうやら焼き切れているようでした。

その後も三回、試してみましたが結果は全て同じに終わりました。


私はまだ諦めませんでした。次に試したのは除草剤でした。

私が食べたもので成長しているのなら、きっと毒も同じように取り入れるに違いないと考えたのです。致死量が分からなかった私は容器の中のものすべてを飲みました。

しかしながら、食べ物を摂取した時と同じように飲み込んだ瞬間に消えていくのを感じました。それだけではありません。同時に、異常なスピードで腹の中の「それ」が大きくなるのを感じましたのです。そして「それ」は、ごちそうさまでしたとでも言わんばかりに、私の腹の下で蠢きました。

私は愕然としました。腹の中のそれは毒までも栄養にしてしまったのです。むしろ、毒が「それ」の成長を大きく増長させたのでした。


それからも私は買ってきたものを使い様々な方法を試してみました。しかし、そのどれもが失敗に終わったのでした。

また、ある時は、私は飛び降りや線路への飛込も試してみました。しかし、どういうわけか地面に到達する、列車に接触するその直前になると私がいたあの小屋に戻っているのでした。


もはや全てを諦め、小屋の中でじっとしていると、空腹がまた私を襲いました。

両親からもらった金は底をつき、どうしようもなくなってしまったのです。

結局、私は惨めに死を待つことを選んだのでした。

私は動くのをやめ、小屋の隅で横たわりました。飢えとの戦いは過酷でした。それは私が経験したことのない、凄まじい苦しみでした。


あとどれくらいで私は死に、この苦しみから解放されるのだろう。そう思いながら、虚ろな状態でいると、私の前に一匹の鼠が現れました。そこそこの大きさがあり、おそらくはドブネズミと呼ばれているものでしょう。糞が落ちていたのでもしかしたらとは思っていたのですが、やはりこの小屋に潜んでいたようでした。

ここで、私自身にも信じられないことが起こりました。私の体が勝手に動き、次の瞬間、その鼠を捕えていたのです。詳しくは分かりませんが、鼠の移動スピードを考えると、普通の人間が素手で捕らえるのは至難の業だというのは想像がつきます。

そのような生物がなすすべなく捕らえられたということは、私自身はそれを凌駕するスピードを出していたことになります。また、私はきれい好きであり、汚らしい鼠など絶対に触れようとは思わないので、普段の私からはやはり考えられない行動でした。


その鼠は、キーキーと悲鳴にも似た大きな鳴き声を出しながら、私の手の中で必死にもがいていました。しかし私の手からは凄まじい力が出されているのか、抜け出すことはできませんでした。

そして私は、大きく口を開けると、その鼠を生きたまま頭から齧り付きました。そのまま鼠の頭を噛み千切ると、私の口内はひどく血なまぐさい臭いであふれました。鼠の頭骨をものともせず噛み砕き、脳と思わしきものが出てきても、何のためらいもなくそれらを飲み込みました。

続けて、手足、胴体、さらには尻尾までをも食らい、五分と経たないうちに全てを平らげてしまいました。


食べ終わり落ち着くと、私は泣きだしました。この一連の行動が、私自身によるものなのか、または腹の中の「それ」が私を操ったのかはわかりません。ただ私は、自分がもはや人間として人生を終わらせることすら許されず、人外の存在になってきているのを自覚し、ひたすらに泣き続けました。


少しして泣き終わると、またもや空腹が私を襲ってきました。小屋の中にはもう他に食べられそうなものがないと分かると、外に出て小屋の周りにいたあらゆるものを食らいました。昼寝をしていた野良猫、木にとまっていた鳥、地面を歩いていたトカゲ、草木についていた虫、さらには小屋の壁を這っていたナメクジまでも、私は捕まえては食らいました。

死ぬことさえできない私は、もはや生きるために食べるのではなく、食べるために生きている生物へと成り果ててしまったのです。


食べているものの体内には病原菌やら有毒物質やらがあったりもしたでしょう。しかし、先ほどのとおり、腹の中の「それ」は毒物によってより大きく成長するようで、これらのものを食べ始めると、私の腹は猛烈なスピードで肥大化していきました。


この頃になってくると、私は主に夜中に行動をするようになってきました。昼に行動する生物は寝ているため捕らえやすく、夜間は多くの虫が活動をしているためです。また、私の肥大化した腹はもはや妊婦のそれではなく凄まじい大きさとなっていたため、人目に付くのを極力避けたかったというのもありました。


ある日の夜、私は小屋を出て食物になりそうなものを探し、徘徊していました。そして、小屋から少し離れたところに畑を見つけました。

中に入ってみると、そこは芋畑でした。私は無我夢中で掘り起こすと、まだ土がついているにもかかわらず、生のまま食べ始めました。もはや犯罪がどうとかなど気にしていられませんでした。

途中、おそらく芋の中にいたのであろう虫の感触が口内に時々走りましたが、私は構わず貪り続けました。

空が少し青白くなり始めたところで私は食べるのをやめ、小屋へと戻りました。夜が明ければ、人に見つかるリスクが高くなると考えたためです。


次の日の夜も、私は芋畑に行きました。全ての芋には手を付けておらず、まだ残っていたからです。

その日は雨が降っていましたが、そんなことは私には関係ありませんでした。芋畑につくと、私は芋を掘り起こし、貪り始めました。

食事を始めてから少しして、何かの光が私のことを照らしました。災害時用の大きめの懐中電灯の様でした。どうやらこの畑の持ち主のようで何か怒鳴っているようで、その声から、おそらく中年くらいの年齢であることを察しました。

人に見つかってしまったことにひどく動揺した私は、他の人間を呼ばれてはまずいと思い、怒鳴っているその人の口を手で塞ごうとしました。私の手が彼の口に当たった瞬間、その頭部はゴキンという鈍い音とともに後ろ向きに、ありえない角度に曲がってしまいました。彼はそのまま地面に倒れると数分間痙攣し、やがて動かなくなりました。


私は、人に見つかった時には動揺したのに、人を殺してしまった時には恐ろしいほどに冷静でした。きっと、この時には私は人外のものになっていたからでしょう。

その死体を見ていると、また空腹が私を襲い始めました。




そして…、私は…、その死体を貪り始めました。




私の身体能力や様々な部分の力はよほど強くなっているようでその死体を食い尽くすのに苦労はありませんでした。

私の顎は、頭蓋骨や大腿骨をも噛み砕くことができました。また、私の腕は、食べやすいように素手で手や足を胴体から引きちぎることができました。

私は一晩かけて一人の人間を食べ尽くしたのでした。

死体が無くなっても、私は自分の体についた血液を延々となめ続けていました。


いつの間にか雨は上がっており、空が青白くなり始めたため、私は小屋へと返っていきました。その途中、水たまりに映った自分の顔を見てみました。まだ周囲は薄暗かったのですがそこに映った姿を私ははっきり見ました。

髪はふり乱れ、頬はこけ、それなのに目はぎらついて、口の周りには赤黒い血を大量につけた醜い自分の顔がありました。おそらく、昔話に出てくる山姥の姿はこのような感じなのでしょう。


それからも、私は何人もの人を殺めては食しました。そして今に至ります。

誰か人に会ってしまえば、きっと殺めて食してしまう。なので、現在、私にできることといえば、こういう形で誰かに伝わることを祈るだけなのです。

きっと、私は地獄に落ちるのでしょうね。元々、私の勝手な行動から始まったことであるのに、無関係な人々が次々と命を落としてしまいました。しかし私は、その罪を償うことすらできません。警察に自首しようにも、恐らく「あれ」が邪魔をするでしょう。

自ら自分の命を絶つこともできなかった私が罪を償えるのは、きっと、死んだ後地獄に落ちてからなのです。


この苦しみからはいつ逃れることができるのか。そんなことを常に考えてきましたが、もうその時はすぐそこに迫ってきているようです。


さっきから、私の腹の下で「それ」が活発に蠢いているのです。

腕が何本もあるのでしょうか、それらを使って腹の下からあらゆる方向を突いてきます。そのせいで、私の腹は、まるで水面に水が落ちているかのようにあらゆる場所から波を打っているのです。

尻尾のようなものも何本も生えているのか、腹の内部を、まるで大量の蛇が這っているかのような感覚が走っています。もしくは、一匹だけではなく、何匹もいるのでしょうか。私には分かりません。

時折、腹から、何かおぞましい、鳴き声のようなものも聞こえてきます。その声が聞こえるたび、私は発狂しそうになります。


一体、「それ」が外に出てしまったらどのような災いをもたらすか想像もつきません。「それ」と「あれ」がともに、何か恐ろしいことを起こすに違いありません。

そんなことが分かっているのにもかかわらず、私にはなす術がありません。私は結局最後の最後まで罪を犯します。「それ」の母体として、外に出してしまうのです。

おそらく、「それ」が生まれた時、私は息絶えているでしょう。直感的に自分の死期が近づいてきているのが分かるのです。

なので最後に、これを残しておきます。



お父さん、お母さん。こんな親不孝な娘で本当にごめんなさい。私は最後の最後まで、あなたたちを愛していました。もし、許されるなら、生まれ変わっても、私はあなたたちの娘になりたい。






















腹の中の動きが激しくなる。暴れている。うねっている。気持ち悪い。痛い。痛みが大きくなっていく。出てこようとしている。嫌だ。腹からの鳴き声段々と大きくなる。産声だ。鼓膜がはちきれそういたい気がくるいそうおなかがうごいてるいたいいたいきもちわるいいたいやめていたいおなかがおなかがいたいいやだいやだたすけてだれかたすけてあれのこえがきこえるいやだうるさいうるさいみみこわれるきがくるうふさいでいやだいやだあれのすがたもみえるこわいいやだいやだわたしをわたしをみるないやだこわいこわいめがつむれないいやだこわいこわいおなかがさけたいたいいやだいたいいたいいたいしっぽがでてきたいやだもどっていやだいたいいたいそれがかをおみせたこわいいやだこわいわたしをみるないたいいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいや











「以上が手記に書かれていたことです。血がついて読みにくく、ちゃんと解読できたかは分かりませんが」

若い刑事が言った。

その廃屋の中にいるのはこの若い刑事の他、彼の上司にあたる中年の刑事と捜査員数名である。また、廃屋の外にも多くの捜査員がおり、周辺の状況を調べていた。


事の始まりは1件の通報だった。昨夜、付近を乗用車で運転していた男性が、この廃屋から人の悲鳴のようなものが聞こえ、また、その直後に爆発音なものも聞こえたと。

不審に思い中に入ってみると女性の遺体を見つけたため、通報に至った。

しかし、捜査班が見たその遺体は実に奇妙なものだった。


「俺もこの仕事に就いて結構な年数になるが、こんなものは初めてだ。」

「これは、他殺…なのでしょうかねぇ?この手記を読む限りだと、女性は精神が錯乱していたと考えられなくもないですが、さすがにこの状態では、自殺とは考えにくいですよね…。」

二人は横たわる遺体を見た。


その遺体は、股から胸部にかけて大きく引き裂かれていた。遺体の周囲には腸や腎臓などの内臓が飛び散らかっている。

死ぬ間際、よほどの苦痛を味わったのか、その顔は凄まじい苦悶の表情を浮かべ、とてもこの世のものとは思えない形相だった。


「誰か別の人間が女性に成りすまして手記を書き、その後殺害したという線は考えられないでしょうか」

「もしそうだとしたら、こんな大胆なことをする意味はないだろう」

「女性を殺害した犯人のほうが精神錯乱者だったとか」

「だとしたら、手記が女性の視点というのが納得いかん。俺は精神錯乱者が絡んだ事件をいくつも担当したことがあったが、そういったやつらは大抵が『悪者を倒してやった。自分は正しいことをしている』と自分を英雄視しているんだ。だがこの手記では自分は罪人であり、間違いを犯したと言っている。さらに言えば、最後の方はともかく、それまでの文は記憶に基づき、時系列にのっとって書かれているのが分かる。錯乱者に見られる文章の破城や矛盾などは見られない。これらを総合して考えると、精神錯乱者の可能性は低いだろうな」


二人の刑事が話し合っていると、外にいた捜査員の一人が中に入ってきた。

「すみません。少しよろしいでしょうか?」

「どうした?」

「聞き込みを行ったところ、最近この辺りでは行方不明者が何人も出ているという情報が複数入ってきました。それと…、その…、何と言いますか…、この近辺で夜中に化け物を見たという情報もありました。」

ふたりの刑事は互いの目を見た。手記には、何人もの人間を食らったと書いてあったが…。


「せめて、手記の中に自分や誰かの名前でも書いてあればよかったんですがねぇ…」

「とにかく、この女性の身元を一刻も早く照会しろ。それと、この手記に書かれているような不審死があったかどうかの記録も調べてくれ。それらが分かったら、この女性が行ったと思われる屋敷についても調べてみなければならんな。」

「え!?それじゃあ、ここに書かれていることを信じるのですか!?」

「じゃあお前は、「これら」をどうやって説明する?俺だって、幽霊だの心霊現象だのそんなことは信じちゃいない。だが、この状況を見てみろ。もしこれを、「精神錯乱者による事件」で片づけてしまったら、後々とんでもないことになってしまう気がするんだ。」

中年の刑事は冷や汗をかきながら震える声で言い、天井と、遺体の横辺りを指さした。


天井には2メートル程の大きな穴が開き、どんよりと曇った空が見えていた。

おそらく、昨夜の爆発音とはこれと関係しているのだろう。しかし、その穴もまた奇妙であった。

まず、瓦礫が廃屋の中にはあまり落ちておらず、屋根の上や廃屋の周辺に散らばっており、また、露出した骨組みは大体が上を向いていた。

すなわち、これは外側からではなく、内側から起こったものであることが推測された。

もう一つ、爆発物を使用した痕跡が一切なかった。

もし爆発物を用いたのであれば、少なからず焦げ跡等が残るはずである。それどころか廃屋そのものも燃えていただろう。

しかし、それらしき跡は一切発見されなかった。


中年の刑事の身長は175cm程度。彼が天井に手を伸ばしてみても届くか届かないかといったところを見ると、床から大体二メートル弱といったところだろうか。

(脚立か何かに乗れば届くとは思うが、そんな小さく不安定な足場で、こんなにも大きく、それも屋根までも突き抜けるような穴を爆発物も使わずに開けることなど、果たして人間に可能とは思えない…)

そしてそのまま視線を女性の遺体の横にまでずらした。





そこには、血でできているのであろう、一メートル程もある赤黒い巨大な足跡があった。

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魔王降誕 黒弐 仁 @Clonidine

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