銭湯の坂上二郎

 私が幼稚園の頃の話。

 そのころは私の家は貧しく、というよりは周りみんなが貧しかった。

 大阪の下町で放出(はなてんと読む)というところに両親と弟、妹の家族5人が住んでいた。

 二階建ての木造のアパート。トイレは共同で汲み取り式だったので毎晩怖くて母に付いてきてもらっていた。鍵は粗末な金具を引っ掛けるだけのもので、鶏小屋の戸についてるものと同じだった。壁は薄く、騒いでいるとよく隣から怒られた。

 隣にゴルフの打ちっ放しがあって、そこで飼っている犬にうちで夕飯に残った魚の煮付けなどの残飯を持っていくと恐らく待合室にあったであろう「少年マガジン」を毎回くれた。何が連載されていたか覚えていないが、不定期ながらそれを読むのが楽しみだった。

 4畳半と6畳の狭い部屋。風呂など当然なく、1日置きに父や母と銭湯に通っていた。

 だからずっと風呂は1日置きに入るものだと思っていた。

 ある日、銭湯で体を洗っている中年のおじさんがいて、そのころ人気者だった「コント55号」の坂上二郎にそっくりだった。もちろん、本物がこんな下町の銭湯に一風呂浴びにくるわけなどない。

 私は恐いもの知らずもいいとこでその坂上二郎に声をかけたのだ。

「二郎ちゃん、二郎ちゃんでしょ!」そうしたらそのおじさんはにこりと笑って

「そおうだよ、ぼくよく知ってるね」と返してくれた。

「欽ちゃんはどうしたの?」と聞くと

「うん、欽ちゃんはねえ、駅前の喫茶店でコーヒー飲んでるよ」すごい機転の利いた答えだった。

 その時の私は本物の坂上二郎と信じて疑わなかったのである。

 何度かやりとりをしたがその坂上二郎さんは嫌な顔ひとつもせずにニコニコと体を洗いながらこんなガキの相手をしてくれたのである。

「じゃあ、ぼく、欽ちゃんが待ってるからね」と、浴室から出ていった。


 浴室からガラス戸越しに見ているとその坂上二郎さんは、ランニングシャツ、ラクダの腹巻、ニッカズボン、地下足袋を履いてヘルメットを下げて出て行った。

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有川 景 短編シリーズ 有川 景 @kei-arikawa

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