アグロー、アーグルトン

安良巻祐介

 

 その街の名前は、地図の上には確かにあるらしい。

 遠くあてどもない探究、或いは夢見るような彷徨の果てに、街へと辿りついた者は、到底現実ではあり得ないほど大きくて真っ赤な日が、背景の空を塗りつくしているのを見る。

 赤い光の照らし出す街は、家々の並びや、路地の裏手や、空き地や、川に渡された鉄橋や、土手や、それら全てに重篤な懐郷病の気配が横溢しており、胸の奥の色々な思い出を掻きたてる。

 この光景を目にしたならば、誰しもが知らぬ間に街の中に踏み入り、家の一つに、路地の一つに、空き地の一つに、ふらふらと入りこんで行ってしまうだろう。

 人の姿が一つもないということには、何の疑問も抱かずに。

 明らかに異常である。街は人が作るものだ。人のいない街などありえない。そんな事は、誰でもわかっている。

 しかし、それは、誰にとっての街でもない、「貴方にとっての懐かしい街」なのだ。

 誰かと別れて帰る道、気付くといつもはにぎやかな家々の並びに、人の影がない。或いはふと振り返った路地に誰もおらず、夕陽だけが差している。ぼんやりと眺めやった空っぽの空き地で、廃材が日を浴びている――寂しさと不安と、奇妙な恍惚とを、胸の内に同時に去来させる一瞬の風景。

 カットでしかない筈のそれらを、モザイクのようにかき集めて、並べて、組み合わせて。

 本当ならば形の合う筈のない、そういう欠片同士が、なぜかぴったりと合ってしまって、継ぎ目さえも消えてしまって。

 この街は、そうして出来ている街なのだ。

 だから、人はおらず、景色ばかりが生きている。

 永遠の赤い夕陽の中で、呼吸している。独り歩きしている。消えずにいつまでも存在し続けられる。

 失った筈の、或いは手に入れても泡雪のようにすぐ溶けて消えてしまう筈の、そういうものが、目の前に、当たり前のように存在している。

 誰も抗えない。誰も逃げられない。自分の胸の中に入り込むように、歩いて行って、景色の内の一つに没入してゆく。そして、消える。赤い、懐かしい景色の中に溶けこんでしまう。

 そうして、また街だけが、誰かを待ち続ける。

 人のいない、懐かしい、どこか不安で寂しい、恐ろしい、美しい思い出だけが、他の誰でもない、貴方を。

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アグロー、アーグルトン 安良巻祐介 @aramaki88

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