契機の女がトラキチではどうしようもない。
『………八回の裏、阪神カイザースの攻撃は、
八番、キャッチャー、矢納。背番号、39。』
「行けーっ!!やのおーーーーっ!!」
「抑えろ!!高山っ!!」
座席をひとつのグループが独占していて、かたや阪神の打者への声援、かたや広島の投手への発破が飛ぶというのは、なかなかシュールだと思う。平和だと言えば平和だが、危うい均衡だと言えばそうとれなくもない。命がけのファンと命がけのファンがその場に混じって別々の応援をした場合、どんな反応が起こるか。それは、端から見ている分にはもはや科学実験に近く、触れるも避けるも恐ろしいものでしかない。
無所属の、ただの野球ファンは、くわばらくわばらと自分にとばっちりが飛んでこないことを祈りつつ、ただ単純にプレイヤーの技を楽しむのである。
ーーー夏休みもまだ始まらぬ7月23日。阪神対広島、カード三戦目を俺は、野球観戦部のメンバーに、西九条妹弟を連れだって観に来ている。
基本的に俺は、義理堅い人間……に、憧れる人間なので、約束は守る質だ。件の準決勝の前日、「今度は弟くんと妹ちゃんも一緒に」と約束した手前、それを履行するための努力は当然する。
………正直俺の努力だと胸張って言える手段ではないが、事の顛末を伝えるついでに人数分の席をねだってみた。するとオヤジは………バックネット裏の最上段、ロイヤルスイートルームという個室型の特別席を用意してくれたのだ。
たぶん、広島ファンである春日野道に配慮してくれての事なのだろう。ここなら、個室だから当然、ホームビジターの気兼ねなど全く無い。ユニフォームも着られれば、応援歌も自由だ。絶対に誰にも邪魔されず、相席が俺達だけだから全く気兼ねもない。春日野道は、球場でこれまで見たことの無いくらい楽しそうだった。
西九条の弟と妹も、普段なら絶対に立ち入れないアングルからの観戦に興奮している。香櫨園は、ビール飲み放題に感激して例のごとく一杯飲みきらず酔いつぶれた。
総じて皆、やりたいことがそれぞれできていて、ストレスフリーでとても楽しそうで。
連れてきて、などというと自分の実力であるかのように聞こえるだろうからあまり言えないが、まぁ……来てよかったと思う。
本来企業が所有していて、接待や懸賞の商品として使われるもので俺たちのような一介の高校生が立ち入れるものではないのだが。ゆえにこの件に関しては声を大にして言うことができる。
プロ野球選手の息子は、たまに得だ。
「今日だけ延長12回で決着してくれないかしら。」
阪神の攻撃に球場全体が沸き上がり、弟……知憲くんと、妹、豊ちゃんが声を張り上げて応援歌を歌うなか、
西九条真訪はぼそりとそう呟いた。
隣に座っている俺はすかさず「何で?」と尋ねる。彼女は即答で「あと一回で終わってしまうのは、勿体ないわ。」と言った。
春日野道も、香櫨園も、西九条弟妹も随分はっちゃけて楽しんではいるが、たぶんこの日一番球場を楽しんでいるのは、他ならぬ彼女だと思う。
その理由を説明するためには、やはり『以前は』という言葉を使わないといけない。自らを部長として戒めるために彼女は、球場では自分をかなり抑制して過ごしていた。具体的に言えば、あまり阪神ファンであることを表に出さなかったのである。
……その反動、という言い方が果たして正しいものか。ただ単に俺の中の印象の問題なのかもしれないが。
先日の部活法廷の結果をもって野球観戦部は正式に廃部の沙汰を受け、彼女も部長ではなくなり。ついでその日のうちに編入した野球部には、当然、元の部員のなかに代表者がいる。前回は引き継ぎ間もない事を考慮して前任の梅田だったが、今はもう既にその役職は新チーム、すなわち二年生に譲られている。
名実ともに、西九条は『部長』としての責を負わなくなった。それはつまり彼女が自分を必要以上に律する必要が無くなったということで、事務的な立場の上でも平部員と同じ地平の上にたったということで。高校一年生にはあまりにも不相応な役回りを降りることができたということでもあり。
そして、俺達がトラキチとしての彼女を受け入れるという気持ちを示し、遠回りながらそれを態度と法廷中の言動で示したことで、彼女に一切の気兼ねは必要なくなったのだ。
今日のこの観戦も例によって学校帰りだが、到着するなり彼女は鞄から阪神のユニフォームと帽子、メガホンを取り出し、そしてそれらを全て身につけた。当然、彼女のそんな姿は今まで香櫨園も春日野道も、俺も見たことがなく、その新鮮さに一瞬は言葉を失ったものだったが………照れ臭そうに帽子を深く被った彼女を、春日野道が誉めちぎった。香櫨園が、それでいいのだと深く頷いた。俺は……右にならった。
ーーー野球観戦部として、ファン意識の在り方も研究していく、とした以上、西九条は立派な研究対象だ。完全無欠のトラキチ。むしろ、控えられた方が部としては困る。
………以前、俺はたしかそんなことを言ったと思う。彼女はそれに徐に頷いて、以降本当に全く気兼ねがない。応援歌も歌えば、ヤジも飛ばすし、点が入れば他の人間同様手放しで喜ぶ。
普段のクールな彼女が作り物だというわけではないのだろう。たぶん、トラキチとはこういう人種なのだ。阪神のことにだけ、おかしくなったように熱にうかされる。漬け物石もダイヤモンドのように輝き始める、そんなおかしな連中なのだろう。
「本当にいい眺めだわ。こんなところから試合が見れるだなんて……一生に一度もないと思ってた。」
「大袈裟な、とも言えないのかな」
「この中で、生きてるうちにここに座る事のある人なんて一割にも満たないわ。」
西九条は球場全体を指し示した。レフトスタンドを除いて一面全て黄色。菜の花畑と表現するにはちょっと花弁が荒々し過ぎるが、まぁ、そんな感じだ。
「……あまり、こんなことは言いたくないのだけれど。
出屋敷………」
HとKを組み合わせた球団トレードマークをあしらった黒い帽子の下、ふと表情を固くして、西九条の切れ長の瞳がこちらを見据える。
モノには組み合わせというものがあって、何でもそうだがそれが噛み合えばモノ同士は自分が持つ以上の輝きを放つし、逆に場違い同士だといくらモノがよくてもくすんでしまうこともある。
ディスコにモナリザが置いてあったって、その真価は発揮されない。しかるべきところに置かれてこそ、その価値は示される。
地球46億年が産み出した最高傑作、などと思ったこともある、100人いれば120人が美少女だと言うであろう彼女の、その輝きが頂点に達する場所が、まさか阪神甲子園球場だなどと、出会った時想像ついただろうか。まぁ、無理だ。今でさえ信じがたい。
荒々しく飛ぶ歓声罵声をBGMにし、夜間照明をスポットライトにして。背番号18、タイヨウのモデルのユニフォームを身にまとった彼女が、これまでのどんな瞬間より魅力的に感じられたのは、ほぼほぼ事件のようなものだ。
「………なに?」
まともに目を合わせるとろくなことにならなさそうだ、という予感を胸にしつつ、あえて試合に目を戻しながら俺はそう聞き返した。
全く意気地の無い話である。あるいはとんだ勘違い野郎というのか。何をそんなに意識する必要があるのか、以降こんなことがあるたび目線をそらし続けるのか………
「………やっぱりいいわ。気にしないで、ろくでもない話だから。」
ふ、とため息をついた西九条。一度帽子を深くかぶり、それから人差し指で軽くつばを押し上げる。
「もう何度もしている話だし。
………この景色に当てられたのかしらね。」
そう呟いた彼女は、ほんの少しだけ口許を緩めた。俺は「ふーん、そう」と特段興味もないような返事をしつつ、跳ね上がった心臓の音が隣に聞こえないことを願う。
………まあ、彼女が何を言いたいか、大体わかった。想像通りであるならば、確かにもうこれ以上はいい。それは十分に伝わっている。だからこそ、部活法廷も戦い抜けたし、今こうしてここにいる。
決してきれいな決着ではなかったが、勝利できたのは根幹に『それ』があったからだ。四人のなかに、共通の認識としてそれがあったからこそ、綱渡りのなかで価値を拾ってこれた。左右どちらの足を出すかの選択で、迷うことがなかった。
そして、その核になっていたのはいつだって、西九条真訪だったのだ。
「いいんじゃない?言葉にして、逆に白々しくなることなんてよくあることだし。
形になるまで、持ってれば。」
何の気なく、思ったままの言葉を俺は口にした。西九条はそれに少し体を引いて、顔をひきつらせる。
「………何?」
「人の心を平気で読むのはあまり感心しないわ。その想像力に関しては素直に称賛したいところだけれど、
正直、気持ち悪い。」
「あっそ」
バイキンにでも触れるかのような態度を取る西九条相手に、俺は俺でため息をつく。
思えばこうまで直接的な悪口を浴びせられたのははじめてだ。それだけ……軽口が叩けるくらい、近しい関係になったということで……いいのだろうか。まぁ、そういうことにしておこう。
目の前のグラウンドでは既に八番矢納、九番代打三木と凡退に倒れ、バッターは一番の赤岩に戻り、しかもツーストライク。
スコアは1対0、どうやら最小差スコアのまま、最終回を迎えることになりそうだった。豊ちゃんと知憲くんはトーンダウンし、入れ替わるように春日野道のテンションが大幅に上がっていく。たぶん酔いでほとんど意識の無い香櫨園と肩を組んで声援を送り、そして、赤岩がファーストゴロに倒れたところで歓喜しながら俺達の方へ近寄ってきた。
「シンジロー!!広島、エエ流れやで!!打順もクリーンアップから、一本出たら一気に流れかわるでぇー!!」
「うぇああ、ひっく、なんだかよくわからんが盛り上がるのは結構なことさ、うぇぇぇぇぇい!!」
例によって香櫨園はビールを一杯も飲めていない。にもかかわらずこの様。何故それでも飲もうとするのか、小一時間問い詰めたくなる。節制するとか言ったのは……あれは酔いにうなされていたに違いない。
かたや春日野道は、真性のレッズ女子といった感じ。お団子アタマにはハチマキがよく似合う。少し押し上げられた前髪がなんとも可愛らしく、全体的な白と赤のコントラストは彼女の活気に溢れ陽気な性格をそのまま現したかのような、そんな印象を振りまいているようだった。
「へへん、まこっちゃん、悪いな!今日は広島が勝たしてもらうさかい。新井熊なんかおらんようになったかて、まだこっちには栗山もエルニーニョも尾形もおるんやさかい。
さ~あ、覚悟してや~?」
片腕を西九条の首もとに回して、抱え込むようにして近づいた春日野道。もはや首でもとったかというほどに勝ち誇った笑顔を見せる。
西九条は「忍さん、暑苦しいわ……」とそれを押し退けつつ、接触の折りに歪んだ帽子をもう一度正す。そして、彼女にしては珍しく、自信満々の様子でこんなことを言い返した。
「忘れてはいないかしら。今の阪神には、最強のストッパーがいるのよ。藤掛兆治。
今、四月から32回連続無失点記録を更新中、防御率は驚異の0.53。例えどんな重砲を並べていたって、あの人は打ち崩せはしないわ。」
西九条が阪神の事を誉めるのは相当珍しい。それだけ成績が圧倒的で、信頼に足る選手ということなのだろう。その理由はわかる。オヤジがいつか話してくれたか、いちゃもんひとつで更なる進化を遂げたという通称『火の玉ストレート』は、もはやプロのバッターがかすりもしないという超常現状を巻き起こしている。
ボールが前に飛ばないでは点を取ることなど不可能だろう。今、かのピッチャーはその領域にまで達している。
「うっ……せやった、アレがおったんやったか……せやけど、それを言うたらうちの栗山かて打率.321でホームランは11本!ハーラートップタイやで。
盛者必衰、いつまでも勢いの続くもんなんかあらへん、今日が年貢の納め時かもわからへんで~!」
「そうだぞ~諸君!諦めないものこそが強いんだ、中国の歴史書か何かにそう書いてあっただろう?」
「いえ、先生。それは野球観戦部のレポートブックに書かれていたことで、書いたのは私です。酔っていて頭がしっちゃかめっちゃかになっているのはわかりますが、法廷での私の感動を薄めてしまうような間違いはやめてください。」
少しトーンダウンして西九条。そういえば、香櫨園は同じ事を彼女に伝えて、希望を取り戻させたのだったか。彼女にとっては一生忘れられない、大切な言葉になったことだろう。
それが酒のせいとはいえあんな風では、そりゃあ幻滅しかねないか。
「法廷……あー、法廷。そーかそーか、あたし、言ったな、そんな事も。
かーっ、いい教師だなあたし。こんなピンポイントでいい言葉持ってこれる女、そうそういるかね、ええ?出屋敷、結婚する?」
「しないです」
「先生、その辺にしとき。みんなドン引きしとるさかい。結婚相手は学生以外で探しぃな。」
「だぁーって、出屋敷はあたしの運命の生徒だぞ?!U13代表の頃からずっと目をつけてきたんだ、ヒネてはいるがいい男だぞぉ?君らはそうは思わんのかね?!」
「別に思いません」
即答の西九条。俺は心のなかで小さく舌打ちする。香櫨園の戯れ言ついでなどにハナから期待はしていないが、少しくらいは間を取ってくれてもいいのではないか。
これでも、部を守ろうとして必死こいて演説ぶちあげた人間なのだ。そりゃあ、あまり格好のつくものではなかったが………
「お?まこっちゃん、全否定かい。冷たいやっちゃな~、あんだけ守ってもらっといて」
「……出屋敷が守ろうとしたのは部でしょう。私じゃなくて。」
「おんなじようなもんやんか。なぁ、シンジロー?」
春日野道は、なかなか答えるに恥ずかしい事を聞いてきた。西九条がさっと帽子に顔を隠したことから、それは受け手も共通認識なのだということがわかる。
確かに、同じようなものだ。春日野道もそうだろうが、俺が守ろうとした野球観戦部というものは、西九条真訪が『自分の居場所』あるいは『気の許せる同志』を得ようとして作ったもので、俺たちを引き合わせる契機になったもので。
それを守ろうとするということは、そういう西九条の気持ちを守ろうとするのと同じことだった。
結局、野球観戦部は潰れてしまったが……俺達は武庫川の好意で野球部の名義を間借りして、学校での活動を続けられることになった。行動に関して野球部からの制約は全く無く、部室も今津から野球部への貸与という形で元通りに使えて。重音部の妨害がなくなったこと以外はほぼ元通りの部活動を行えるようになった現状を鑑みれば、俺と春日野道は彼女を守ったということになるのかもしれない。
だが所詮それはモノの表面だけを切り取った見方であって、香櫨園の庇護のもとになければそもそも武庫川の助力は得られなかっただろうし、その武庫川がああまで他人に理解のある質でなければ、香櫨園の持ちかけた野球観戦部の救済案を呑んでくれる事はなかっただろうし。陰ながらアシストしてくれた梅田にしろ、勇気を振り絞って魚崎に立ち向かってくれた今津にしろ、そして気持ちの上で発破をかけてくれたオヤジにしろ………いろんな人の助けなしには、なし得なかった事だ。とても、俺一人の手柄のように語れた事ではない。
「西九条は……俺に守られた訳ではないと思う。というか、なんというか………皆、に守られてた、っていうか。
結局同じようなモノなのかもしれないけど、でも、やっぱり、違う……かな。
何か……」
何とも微妙な答えになってしまった。気持ちの上では否定したくはない。が、春日野道のニュアンスでは安易に肯定もできない。俺は、俺を助けてくれた全ての人への感謝を忘れたくはない。義理堅い人間へ憧れるものとして、それを忘れた肯定はできないのだ。
かといってわざわざ細かく弁明するのも何か変な気がするし。ここは、曖昧な答えになっても、仕方がない……
「………肝の座らんヤツやな。そこは嘘でもエエから『そうや』と言うてればええんや。せっかく、見せ場作ってやったのに……意気地無し。」
はあ~あ、と盛大にため息をついて肩を落とした春日野道。西九条が明後日の方向を向いて、帽子を少し持ち上げた。
何ともやるせない感覚が広がって、微妙な空気が流れる。
……春日野道の言うように、嘘でもそう言って見せればよかったか。せっかく楽しみに来ている場で、冗談のひとつも飛ばせないのは頭の柔らかさに欠けたか。これでは高速神戸の事を笑えないか。どうにも、場の空気を読むのは苦手だ………
「………けど、事実として……あくまで事実として、私があなたたちに……守られたのは、たしかな事だわ。」
誰に向かって言ったわけでもない、とばかり。星空に向かって、西九条はそう呟いた。呆れ顔だった春日野道が一瞬でそれを驚き混じりのそれに入れ換える。俺はゆっくり彼女の方に顔を向ける。
相も変わらず、彼女のすまし顔は、透明という言葉以上に透き通って見えて、夜風に撫でられて、綺麗だった。
「………あなた達がどう思って、何を考えてそうしたかはともかく……ね。
………言わなくていいわ。どのみち、悲しい思いか、恥ずかしい思いしかしないもの。
だいたい、わかっているの。」
ーーーみなまで言わなくても。
続く言葉が頭のなかで弾けて、俺はそれで十分だった。彼女がそれで悲しい思いをすることはない。それは、俺と春日野道、そして香櫨園が一番よくわかっている。彼女よりも、だ。
だとすればもう答えなど、必要ないではないか。
これから先、まだまだ学校生活は長く続く。来年三年生になる春日野道の事を考えても、向こう一年はこのメンバーでやっていくことになる。
西九条が『野球観戦部』に求めたものは、知らずのうちに俺達も求めていたものだ。彼女だけが特別なわけではない。上っ面のモノではなく、心の底にあるなにかを常に共有していけるような、そんな相手がほしいと考えることは、自然なことで、そして誰しもが持っている欲求だ。
俺達が、このメンバーで、それを得られるのかどうか、それはまだまだこれから先どうなるかわからない、見えるはずの無い未来の話になる。今それが既に手に入っているかといえばそうではない。時間も、経験も、まだまだ始まったばかりで圧倒的に足りない。
それらを補っていこうとする課程で、西九条が『だいたい、わかっている』それを、みながお互いに持ち合わせていることは、大切なことだ。
今は言葉にしないと確認できないことも、そのうち何も言わずともわかるようになるかもしれない。互いにぶつかって割れるのが怖くて言い合えないことも、言えるようになるのかもしれない。
そんな、俺達が心のなかで求め描くモノを、繋ぐきっかけになり得るものが『それ』だと思うのだ。
それさえあれば、というような便利なものではない、繋がる努力のそのほんのきっかけになるもの、だがそれがなければどうにもならないもの。
今は、それを得られた事を少し喜び、守り抜けたことに感謝し、そして得られた現状を楽しんでいればそれでいい。それが、互いを大切にするということであって、尺取り虫の一歩のごときわずかな前進を重ねることで、それが最後に大きな一歩のなるのだと、
俺はそう思うのだ。
「だったら、それでいい。」
俺は西九条にそう言った。
西九条は一瞬面食らったように硬直したが、それは氷解して、
すぐに微笑みに変わった。
春日野道もそれ以上何も言いはしなかったが、俺の肩をバシンと叩いてきた。彼女の感情表現は………いつだって痛覚を伴う。
香櫨園の酔いが覚めたかのようなスッキリとした顔もまた、印象的だった。
ーーー大丈夫、とそう思う。
野球観戦部はこれから先も、野球好きという唯一無二の共通点でもって、線で繋がり、点を広げていくことができるだろう。
その結論がどのようなものになるか。
それが今は、楽しみですらある。
『阪神カイザース、選手の交代をお知らせ致します。
代打いたしました三木に変わりまして……』
「おっ?藤掛か?」
アナウンスを聞いて、春日野道がスタンドに目を向ける。ライトスタンドは既に沸き上がっていて、その脇から出てくるボール型の車の助手席には選手が一人乗っている。
遠くからしか見えない俺たちには、その背番号まで確認する手段はない。が、この場面……九回一点差で、登板するピッチャーなど藤掛以外には考えられなかった。
結構な天の邪鬼の西九条にしても、さすがにその予想に逆らうことはできなかっただろう。
だが、続くアナウンサーの声は、意外な選手の名前をコールした。
『…………タイヨウ。
ピッチャーは、タイヨウ。
背番号、18。』
どわっ、とどよめきと歓声の入り交じった爆発的な声と熱気が甲子園球場に吹き上がる。その時、横目に見た西九条と春日野道の、信じられない、とでも言いたげな呆気にとられた表情などは、写真にとって永久保存にしておきたいほどだった。
「タイヨウか……懐かしいナァ、国鉄スワンズ時代は凄かったぞぉ、ノーヒットノーランも一回やってるし……って、あたし歳ばれるんじゃないか、こんな話してたら」
自分で言って一人で自滅するアラサー間近の女教師の独白は歓声の中に消える。
呆気としたまま動けない西九条。そこでそれは無いだろうとでも言いたげな軽く絶望混じりの表情が、その心の動揺をそのままに映し出している。
オヤジは、このところ打たれていた。一点代だった防御率も、一昨日のしあいで二点にまで上昇してしまっていた。
一点差でそんな調子の悪いピッチャー。いくら知り合いでもここでは見たくなかった、と、西九条の心情はそんなところか。
………息子としては少し傷つくところだ。オヤジは登場するだけでガックリされるようなヘボな選手ではない。それは絶対だ。
お前の背中の背番号は何番だ、ローマ字でなんと書いてある。サインボールの恩を忘れたか、今こそ応援してやるときではないか。
ここは、いくらトラキチ西九条と言えど一言いってやらねばならない。
俺は、ひとつ咳払いして「あのな……」と声をかけた。
が、次の瞬間西九条は、首から下げていたメガホンを片方づつ両手にもち、右手のそれで正面の鉄柵をこれでもかというくらいに強打しその勢いで飛び上がるように立ち上がると、椅子の上に飛び乗って鉄柵に片足を立て、左手のメガホンを口許にあて、片足を鉄柵に乗せて……
以前、一塁アルプスでそうしていたときのように、鬼のような形相を作り上げて、
腹の底から出て鼓膜を破り、片側の耳を突き抜けんばかりの大声で、
こう叫んだ。
「タイヨウ!!しっかり抑えんと承知せんぞ!!!」
その場にいる全員がひっくり返らんばかりの大声だった。
落ち着いたらしい彼女は再び首にメガホンをかけ直し、上品にゆっくり、水面に滴が落ちるかのように静かに着席する。
「お、お前なぁ……」
俺は、呆れて、あきれ果ててこう言ってやる。
「誰のお陰でこの席に座れてると……ちょっとは遠慮というか、控えようとか思わないのか?」
西九条真訪は、それを言われて少し固まって………何か思い詰めたように下を向いたが、
ある時吹っ切れたように勢いよく……帽子が後ろに吹っ飛ぶくらいのスピードで顔を上げて、
それから、やはり地球46億年の奇跡かと思わせるくらい美しく、爽やかで、
そしてこれまで見たことのないくらいいっぱいいっぱいの笑顔で、
こんなことを言った。
「だって、私、トラキチだもの。」
「ええ………」
「出たわね。」
ーーーそりゃ出るだろ、と言い返しそうになったのを、すんでのところで飲み込む。
そうだ。これから、これが普通だという付き合いを目指していかないといけないのだ。
西九条真訪がトラキチであり、トラキチがこういう人間であるということを当たり前に感じる、そんな関係を、だ。
……全く。
見ず知らずの、顔も見合わせたことの無い人間に、それを望んで……野球観戦部は作られたのだというのだから。
ーーー西九条真訪は、
どうしようもないやつだ。
ーーー契機の女が阪神狂ではどうしようもない。おわりーーー
契機の女(ヒロイン)が阪神狂(トラキチ)ではどうしようもない。 馬似ムルタ @hayao880
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