勝っても負けても野球が好き
最後の議題は『野球観戦部が存続するに値するか』というものだったが、これはこの法廷の総括的な意味合いが強かった。
早い話が、原告側の訴えを吟味した結果被告側に酌量の余地はあるのか、というのを推し量るもの。
先の二つのどちらかで負けていれば当然『不適格』と判断されるし、そのどちらでも負けなければ『問題なし』となる。つまり、先の審議次第で既に結果は決まっているようなもので、それ故に場の雰囲気は既に『大勢決す』というようなものになっていた。
当然、野球観戦部勝利、というものである。二つともを勝って見せたのだから当然の話。どうせ生徒会代表の大石はそれでも『否』の札を上げるのだろうが、この結果を見て部活代表の千鳥橋と教師代表の高速神戸が、理由もなく『否』の札を上げるとは思えない。
もはや俺達の勝訴は九割九分確定的な物になっていた。事ここに至りてはさすがに、さっきまでと比べれば余裕もある。前二つが余裕無さすぎたという考え方もできるが、ともかくあともう30分気を抜くことさえしなければ勝利が待っていると考えられる事は、負けと背中合わせに挑んでいた序盤に比べてればとんでもなく楽なものであるというのは、事実以外の何者でもなかった。
最終弁論とも言うべき、総括的な主張は春日野道に託した。野球で例えればほぼ消化試合に近く、無難にこなせばそれでよしという、前二つに比べればプレッシャーもない、易いといって差し支えない役目ではあったが、
それにしてもそこでの春日野道の気合いの入りよう、そしてその弁舌の鋭さと言ったらなかった。
あくまで事の本質が野球観戦部と重音部のいさかいであると認められた以上、彼女にとってこの場はまたとない、魚崎に対しての反撃の機会だった。
重音部で自分がいかに不遇な生活を送り、そしてそれが野球観戦部に入ることでどれほど救われたか。自らのそんな体験談を交えて、彼女はこれまでの重音部から受けた悪行の数々を遠慮なく晒した。
それは、先の西九条の説明の比ではなかった。なにせ、彼女の証言には加害者側としての立場のものも含まれているのである。
傍聴席に集まった部代表は、大概が二、三年生で、前年度末に勃発した重音部と金属探知機愛好会のいさかいの一部始終を知っている。それだけに、その金属探知機愛好会を廃部に追いやるまでの過程の話は生々しいの一言に尽き、明日は我が身と危機を感じたかその大半は絶句した。
目の前でその悪行を暴露され続けた重音部の面々は……姫島と打出に関してはもはや顔面蒼白、その色は藍より青く透明より透き通って見えるほど。そして魚崎は……とにかくだんまりだった。この法廷が終わったあと、自分達が辿る運命に早くも気付き始めているのだろうと思う。
おそらく、俺達が逆提訴などしなくても、自然と重音部は消滅することになるだろうと思う。悲劇のヒロインから一転、捏造と嘘の道化師と化した彼女らに対する、世間……つまり学校全体の評価はその落差により失墜する事だろう。おそらく魚崎は次の生徒会選挙では負けるだろうし、偽証罪は確定しているし。事がここまで露見してしまっては伝統を理由に目をつぶってきた、部活動の管理者たる教師連中も黙ってはいまい。
是正勧告くらいで済めばいいが、その行動が学校のモラルに支障をきたすと認められれば、教師はその特権を行使して活動停止、重ければ廃部を宣告することも可能だ。
原則としては法廷、あるいは審査会をとおさなければ部活の廃止は決定されないが、ここは学校である。あくまで大人に支配される社会である以上、彼らに度が過ぎると認められれば……手を加えられてしまうのもまた、当然の話だ。
まさに、攻勢転じて崖っぷち、というところ。偽証罪の処分も含めて、自分達の将来が気が気でない、というところか。こうまで完膚なきまでにやられていてはかえって気の毒に思う心がないわけではないが、
こちとら、これまでの恨みをタダで許せるほど寛容でもないし、顧問香櫨園をあんな目に逢わせてくれた連中である。許すまじ、という気持ちが勝るのもまた、当然の事だった。内部告発の嵐を巻き起こした春日野道は、最後「そもそもこんな連中に廃部を要求される事自体がおかしな話で、そもそも訴えたいのはこっちだった」というようなニュアンスで話を括った。
美しくはない終わりかただったが、俺達の本音はまさにそのようにあって。ひとつ前の審理で俺の口が彼女たちのものであったように、春日野道の口もまた、俺と西九条のものでもあり。
即ち彼女のそれは総意だった。これ以上重音部との関わりを続けたくない以上、徹底的に痛い目を見てもらうことは、必要なことだった。
「あと一球…………」
春日野道が席に腰を下ろしたところで、西九条が呟く。阪神ファンは、九回ツーアウトになると「あと一人」、九回ツーアウトツーストライクになると「あと一球」のコールを、それぞれ大合唱する。
西九条の呟きは、勝利目前ということを明確に暗示していた。苦節というべき二ヶ月間の決着がここにつこうとしている。多少感慨深くなるのは、まぁ道理と言えることだろう。
「またあそこに……帰れるんやな。」
そう呟いた春日野道にしても、それは同じだった。たぶん、一番勝利への希望が薄かったのは彼女だったはずだ。幾度となく魚崎が部活動を捻り潰すのを目の当たりにしていて、まさか野球観戦部だけがその業から逃れられるとは……思わなくはなかっただろうが、信じがたくはあったはずだ。
夢見心地になるのも無理はない。この場の誰も、こんな逆に一方的な展開が生まれるなどとは……思いもしなかったことなのだ。
さて、俺は。
素直に勝ちが嬉しい気持ちもあったが、何より……オヤジに課せられていた、役目のようなものを全うできたということに安堵する気持ちが強かった。
野球観戦部が『きっかけ』である以上、『部』であることはさほど重要ではない。西九条真訪と彼女のトラキチとしての一面を認めて、その上に生じる関係を大切にすることこそが、『部員』となった俺と春日野道が成さなければならないことだった。
………全てが彼女のためではない。無論自分自身のためでもあったが、ともかくとして、野球観戦部を守ろうとして必死になった今日の俺は、それができていたのではないかと思う。単純にその意思表示ができれば良いというわけではない。上っ面のそれでは意味がなくて、意図せずとも滲み出すくらいの気持ちが必要だった。口先だけで誤魔化していく関係も選択肢にあったところを、俺は、春日野道は、それを甲子園口駅に捨ててきたからだ。
『全力のフォークあってこそのあのストレート』
オヤジのこの言葉の意味が、今、数倍に膨れ上がって実感として押し寄せる。ハナから保険に頼ったままでこの場に挑んでいたとしたら、俺はああまで必死に西九条を庇おうとはしなかっただろうし、香櫨園の犠牲に報いようとする闘志も生まれはしなかっただろう。
今、それを経てこの結果を目の前にし、互いの『野球観戦部』に対する想いを確かめる事ができた今、その大切さがよくわかる。
その気持ちこそが、西九条が求めていたもので。甲子園口で捨ててきたものの代わりに拾っていかなければならない……これからの俺たちに必要なものだったのだと思う。
言葉にすれば歯が浮いてきそうなものではあるが、けれどもそれは紛れもなく事実であるようで、溢れんばかりの感慨はその証拠と見て間違いないのだ。歯がとれようが顎が落ちようが、それが事実なのだから……仕方ない。
ーーー審理は大詰め、クライマックスとエンドロールの境目くらいまで進行している。残すところは原告側の主張だけ、あとは陪審員が可否の札を上げればそれで全ては終わりとなる。
ここに至るまで全ての主張を退けられた形になった魚崎たちに、もはや反撃の要素は残っていない。逆に今さら何を主張するのか、興味があるほどだった。
嘘は露見し、策略はことごとく裏目に出、追求はさして効果を生まず、逆に相手の流れを呼び込むことすらあり。
この状況下で、この残り時間で、重音部にできることなどあろうはずもなかった。化けの皮をはがされた狐はただの小動物でしかなく、人を惑わすこも、操ることも、もうできはしない。
却って、彼女が最後に何を言うのか興味すらあった。あの性格だからまず、自分の非を認めたりすることはないだろうし、そもそも非だなどと思ってはいないだろうし。なにも言わないのか、あるいはあくまで最後まで悪態をついて見せるのか。
はたまた、執念深い彼女の事、考えたくはないが最後まで腹に一物抱えてる可能性だって無くはないが。
西九条も春日野道も表情は固く、勝利は確信すれど最後まで気は抜かない、という意志が見えるなか、
ふらりと立ち上がった魚崎は、もはや傍聴席などまるで相手にせず、俺達だけにむかってこんなことを言った。
「私がぁ、甘かったのかもしれないわねぇ。
あなたたちのぉ、力量をはかり損ねたわぁ。手前二つで十分仕留められると思ったのにねぇ」
まだ魚崎は笑っていられるようだった。俺の心臓は変な脈を打って、全身に不快感を伝播する。負け惜しみや悪口ではないのが、却って不自然というのか、言い知れぬ不安を掻き立てる。
「それはおあいにく様だったな」
「ええ、ほんとにねぇ。今ごろは、審査会の時のバームクーヘンがなんたらとかいう部活と同じように、そこでメソメソやってもらっているはずだったのに」
陪審員席から千鳥橋が立ち上がり、机を叩いて魚崎をこれでもかというほどの憎しみを込めて睨み付ける。魚崎はそれに嘲笑で対応していた。もはや、自分の社会的権力も、信用も、立場も失墜したなかで、彼女はやりたい放題言いたい放題のようだった。
千鳥橋の妹はバームクーヘンを食えへん部を立ち上げたメンバーの一人だとさっき香櫨園だかが教えてくれたが。どうも、魚崎は自分を支持しなかった千鳥橋への当て付けのためだけに、それを言ったようだった。
「フン、とんだブーメランになったもんやな。」
千鳥橋を擁護するように春日野道。おそらく彼女らは面識がない。だが、春日野道としてはなにか自分に近しいものを感じたのだろう。陪審員で発言機会を持たない彼女のための、精一杯の援護と見てとれた。
だが、魚崎は当然、そんなことでは怯まない。眉ひとつ動かさない。
「冗談言わないでくれるかしらぁ?春日野道。私にはぁ、重音部が潰れたからといって何一つ悲しむ要素が存在しないわぁ。
殊更にどうでもいいの。遊ぶ場所がひとつ減っただけ。欲しければまた作るし、必要なければ捨て置くのよぉ。」
扇子でも扇いでいるかのようにさらりとそんな事を言ってのけた魚崎。おそらく、彼女は強がりを言っていない。本当にそう考えているのだろう。
端の方で絶望的な表情をしている打出と魚崎はなんとも気の毒な事だが、事実として、彼女にとっては部も、部室も、部員も、暇潰しの道具のひとつでしかなく、この先もそうでしかない。
「あなた達みたいにぃ、集団に固執するようなことはしない主義なの。重音部は都合が良かっただけ。負け惜しみに聞こえたらありがたいのだけれどぉ、私にはそもそも負けたからといって失うものはないわぁ。ある種の保険ね。
それでも、入学したての一年生風情に負けるとは思ってなかったけれどぉ」
「あなたは別に負けてはいないわ。
ただその孤高の女王気取りが、勘違いだった事が証明されただけ。
自分では気づいていないのかもしれないけれど、自滅したのよ。私達は溺れかけの頭を押し込んだに過ぎないわ。」
きっぱりと言いきったのは西九条。そこでようやく魚崎の表情に怒りの火が灯った。たぶん、奴にとって一番不快な事は、『相手にされていない』ということなのだろう。自分の行動を一人芝居と揶揄されたに近い今の状況は、発火に十分な条件を持っていたに違いない。
が、それがわかっても西九条は全く引く気配がなかった。動揺のひとつも見せずに、魚崎からの殺気をその身に受け続けていた。彼女は彼女で、魚崎のスカしたような態度が気にくわなかったのだと思う。
独特な色を持つクールな煽りは、確実に魚崎のピンポイントを捉えたようだった。
「ずいぶん生意気………小娘風情が言ってくれるじゃあない?」
「その小娘という言葉自体があなたの矮小な心と器の小ささを示しているわ。悪政の下で踊らされていたそこの二人が、今は気の毒にすら思えるわね。
いい?たかが公立高校の生徒会長程度のそこまで人間が、少し力を与えられていい気になって、本来より自分を大きく見積もって好き放題やった結果、そのツケが回ってきて自分の首を絞めた。
ただそれだけの話よ。そう考えれば……女王気取り、という言葉も間違っていると言えるかもしれないわね。
確か、浪費癖のせいで国民に殺されてしまった、国家権力を自分のものと勘違いの皇后がフランスにいたわね。
あなた、それにそっくりよ。本物の女王様のようだわ。」
マリ・アントワネットか。派手な宮廷衣装のイメージと共に、その名前が頭に浮かぶ。学校権力を自分のものと過信して、好き放題やった彼女には確かに共通する部分もある。にしても、ものすごい嫌味だなぁと俺は………感心した。
なんというか、魚崎が怒りを露にすることで、この審理、原告側と被告側がようやく同じステージに立てたような気がする。もはや今さら遅い話ではあるが、こちらが必死に戦っている間、魚崎は彼女の言葉通りなら、背水に橋を架け、いくらでも退路に引く準備はある、くらい気持ちでかかってきていたということである。
まさに遊ばれていた、というところだろうか。そのまま終わるのはあまりにも癪だったから、ようやく見られた魚崎のなりふり構わぬ怒りの表情は、何となく俺に足りていなかった何かを与えてくれたような気がした。
「減らず口とはまさにこの事ねぇ、さっきまで死に体だった癖に、勝ちを拾って威張り散らすだなんて、卑しいこと……!
そこまで言って……タダですむと思っているのかしらぁ………!?」
「ええ、思っているわ。だって、あなたが重音部に固執しなければ確実にあの部はこの後潰れてしまうもの。けれどあなたは、さっきどうなってもいいと言っていたし。
今さら何を恐れる必要があるのかしら。」
西九条がそれを意図していたのかどうかはなんとも言いがたかったが、彼女の言葉は徹底的に魚崎の自尊心に傷をつけていく。
明らかに数分前とはその表情の険しさに雲泥の差がある。何も寝た子を起こすような真似をしなくても良いのではないか……と俺は思わなくなかったが、だが、このまま終わられるのではたまらない、という西九条の気持ちも十分理解できたので、黙っていた。
………ただ、勝てばいいという法廷ではないのだ。
「………わかってないわねぇ。
あなたたちはぁ、自分を追い詰めたのが何者かぁ、まるで理解できていないのねぇ。重音部?姫島と打出の知恵が少しでも今回の事に関与していたと思うの?バカな話はやめてほしいわねぇ、あなたたちを追い詰めていたのは終始一貫この私。重音部なんて、駒に過ぎないわ」
声に冷静さを失い、噛みつくようにそんな事を言う魚崎。もはや化けの皮は全て剥がれ落ち、、嫉妬と憎悪で醜く凝り固まった本性が浮き彫りになる。
議場は、何か幻惑を解かれ新たに困惑を得たかのような、動揺に包まれていた。魚崎は……聞く限り、元々さほど評判の良かった会長ではなかった。が、さりとてここまで裏表の激しい人間だとも思われていなかった事だろう。
俺たちにとっては先刻承知の事実でも、初めて触れる人間には衝撃的であるに違いない。
西九条は………少し表情を硬くした。それは怯んだというより、こんな人間相手に負けられないとの意志が表に出たようだった。
「………だとしたら、酷くつまらないものに追い込まれていたのね。私達は……」
「さぁ、どうかしらぁ?つまらないものかどうか、まだ、審理は終わってはいないわぁ。確かめてみればいいじゃあない?」
「もう結構よ。確かめるまでも無いわ」
「あなたがそれでよくてもぉ、私にはよくないのよぉ。あそこまでコケにされてぇ、黙っていられる人間はそうは多くないわぁ。」
息荒く、捲し立てるように言い返してくる魚崎。それをことごとく跳ね返す西九条は市役所の職員のごとく、事務的な冷静さを持っていたが、その返しのなかで少し眉の角度が急になっていっていた。
あるいは、俺も春日野道もそうなっていたかもしれない。魚崎の言葉が、明らかに何か、その腹に一物抱えたような物言いに聞こえ始めていたからだった。
「ええ、そうね。わかるわ、あなたの気持ち。私達も、重音部には相当コケにされてきたもの。
因果応報、という言葉の意味を、帰って調べるといいわ。」
「無用ねぇ。そんなもの。いくつ負けたって、やられ返されたって、最後に勝つ者は最初からぁ、決まっているのよぉ?」
がたっ、と隣で椅子と床が擦れる音がした。春日野道が椅子を引いた音だった。見れば西九条の表情も、30分ほど前、自らの見解を議場全体に主張していたあの頃と同じように、険しいものになっていく。
敵機を照らすサーチライトの如くの、あからさまな警戒心がそこにはあった。その変貌の理由が俺にはよくわかる。
やはり、野球は九回ツーアウトから、ということなのだろうか。魚崎はまだ何か、かくし球か代打の切り札のようなものを控えている。
辛い勝利を得続けてここまで来た俺達の、リードはわずかに一点といったところ。終わりかけの試合に勝利をほぼ確信しはしたが……ホームラン一本で試合がひっくり返るなんてよくある話だ。
だから手放しで喜んだりしなかったのだ。俺も西九条も、春日野道も。まだ何かあるかもしれないという警戒心は、トラキチとしての西九条の用心深さ、春日野道と俺のプレイヤーとしての経験に裏打ちされた
、野球人としての基礎の心構えのようなものだ。
「まるでそれが自分であるかのような物の言い方をするのね。この期に及んで………」
「ふふふ……ハナからぁ、このまま終わらせる気なんて……なかったわぁ。
惜しむらくはぁ、あなた達が自分達の勝ちを盲信したところで地獄に突き落としてやりたかったのだけれどぉ」
その口調は先の二つの審理と同じように、おっとりとして落ち着いてはいたが、その表情は狂気に包まれていた。何かそこにいるものはすべて食い散らかしてやるとでも言わんばかりの、化け物じみた笑みを浮かべてこちらを睨み付けてきていた。
俺は、奇妙にもとある合点を胸にする。なるほど、だから一度負けを認めるような真似をしたのだ、と。二つ完敗を喫したとはいえ、彼女らしからぬ…とは思っていた。あれは、俺達に安心を与えるもので、自分の手に控えた切り札ーーーこれから切られる彼女のエースカードによる、精神的なダメージを大きくするための布石だったのだろう。所詮、嫌がらせの域を越えることはないが、彼女にとってはおそらく……重要なことなのだ。
だが、西九条の煽りは彼女にとって想像以上に強烈だった。だから………我慢ならず今になった、というところか。
鬼が出るか蛇が出るか。この期に及んで魚崎が切れるカードなどもはや全く想像がつかないが………それは確実に、三度俺達を追い詰めることになるだろう。
九回ツーアウトツーストライク、それでも試合は終わらない。
「盲信……私達にはあり得ない話ね。
阪神が過去どれだけ土壇場の逆転を喰らっているか……試合終了まで勝ちを断定するような愚かなことはしないわ」
「結構なことねぇ。だったらぁ、私がこれから何をするかもお見通しという事かしらぁ?」
「…………。」
西九条は黙った。ああは言ったし、確かに俺達の中に『勝ちの盲信』はなかったが、逆に『負けのイメージ』も存在しはしなかった。この展開から魚崎に何ができるのか。何を凶器として抱えているのか、それが想像つくほど、俺達の頭は探偵じみてはいない。
本業は野球観戦だからだ。
「その顔!それが見たかったの。困惑を隠しきれない、怯えた表情!いいわぁ、十分偽証罪と重音部処分の対価になるわねぇ。」
「頭おかしいんとちゃうか……!」
理解できない、とでも言うかのように頭を振って、引いた椅子にさらに腰を深く打ち付けた春日野道。そんな彼女の動揺も、魚崎にとっては養分になり得るようだった。
溢れる興奮を抑えきれないか、バイプ椅子が倒れるほど勢いよく立ち上がった魚崎は、そのままつかつかと壇上の中心にまで歩いていくと、
ポケットからハガキ大の硬紙を数枚取り出して、それを……教師代表高速神戸、そして西九条の前にそれぞれ二枚づつ裏返しに置いた。
「何の真似だ?」
俺は睨み付けながら、魚崎に聞いた。魚崎は、
「見ればわかるわぁ。百聞は一見にしかずなのよぉ」
と、至極愉快そうにそう言った。
先にそれを開いた高速神戸は、その表面を見ても何もピンと来ない様子。百聞は一見にしかずではないのか。他人が一目でわからないものを今さらどうしようというのか。
………そもそも何故高速神戸だけに手渡したのか。
噴火警戒レベル3の活火山のごとく、ふつふつと疑問点は沸いてくる。その爆発を見る前に、とばかり西九条は、努めて事も無げにそれを表に向けた。
………そして。
「これは………。」
絶句する。まるで言葉を失い、石にでもなったかのように硬直する。
いや、彼女だけがそうであったかのような表現は正確ではない。春日野道も西九条をコピー機にかけたかのように黙りだったし、微動だにしなかったし。もし野球観戦部に四人目がいたとしたら、俺のことも同じように表現したことだろう。
それは写真だった。スマホで撮られたものらしく縦長で、しかし最近の携帯機器の進歩の著しさと言えばない。画像は鮮明で。
そこに写っていたのは、俺達三人だった。横並びで甲子園の座席に座る、野球観戦部三人の姿だった。周囲には阪神ファンしかおらず、座っているのは俺達だけ。左上にはバックスクリーンも写りこんでいて、そこには阪神カイザースと………広島東洋レッズのスターティングラインナップが表示されている。
紛れもなくこれは、あの日………春日野道が魚崎にしてやられた、阪神広島戦で撮られたものだった。この写真で隣の二人が絶句したのは、これを見た瞬間………三つ目の議題が頭に浮かび、
そして魚崎がこの後何を言い出すのか、すぐに想像がついたからだろう。
少なくとも俺は、そうだった。彼女が、高速神戸にだけその写真を見せたことの意味も含めて、最悪のシナリオが頭に浮かんだのだ。
「………。」
写真から目を離さない西九条。離せば否応なしにその写真について弁明しなければならなくなるが、何と言っていいのかまだ見当がつかない。たぶんそんなところだろう。目が右往左往している彼女を、俺は初めて見る。
かたやの春日野道は、まるで半月前………それこそ例の事件で気落ちしていた頃の彼女に戻ってしまったかのように、怯えすくんでしまっていた。彼女の心持ちを思えば当然だろうとは思う。
俺は……どちらかというと西九条に近かった。確実に来るべき追求に対して、どう反論していくか……そんな事を必死に考えてはいたが、しかし考えめぐらず黙っているしかなかった。
そもそもからして、議場自体に残された時間はもはや五分程度しかなく、加えて、
野球観戦部は全ての主張を終えてしまっているのだ。
魚崎は、そんな俺達を見て非常に満足そうに笑うと、もはや大石や千鳥橋には目もくれず、ただ一人高速神戸だけを相手にするように陪審員席に歩みより。
自白を迫る刑事のように、彼に詰め寄った。生徒相手とはいえ突如そのように圧力をかけられては教師といえどたじろぐ。反射的に体を引いた高速神戸に、魚崎は件の写真を目の前に突き付け、そしてこんな事を言った。
「これは野球観戦部がぁ、存続に足る部活ではないことを証明するためのぉ、動かぬ証拠です、高速神戸先生ぇ」
高速神戸はちんぷんかんぷんといった様子だった。が、それとは真逆に全てを察したのが俺達だった。西九条に視覚に写りこみそうなほどの緊張が走り、春日野道の表情が焦燥と絶望に染まっていく。俺の心臓も早鐘を打ち始めた。
弁明したところでどうにかなるかはわからないし、そもそも弁明できる時間がない。絶対に負けないための最後のカードとして、魚崎が最後までそれを取っていたのだとしたら、俺達は完全な戦略的敗北を喫することになる。
全ての余裕が、この時に裏付けされたものなのだとしたらーーー
「僕にはよくわからないのだが、魚崎君。これの何が問題なのか……」
「先生ぇ、これは部間規則には表記されていない事ですがぁ、
我が校の部活動従事者が、その活動において世間に迷惑行為を働くことは、許されますかぁ?」
議場がざわついた。当然、傍聴席の人間からはその写真は見えない。ゆえにおそらく、野球観戦部が何かしらの無体を世間に対して働いた可能性があるということに対しての、単純な動揺だろう。
が、俺達はそんな半端な認識では済まない。彼女の今の発言をもって、全てを察した。最後の議題は『野球観戦部が継続するに値する部活かどうか』だ。
魚崎は、この写真でそれを否定しようとしている。
「……いや、社会秩序を守ってこそ学生というものだから、当然それは許されない。
部間規則に記されていないのは、それがあまりにも当然のことだからだ。基本的な道徳観念だからだ。
目上の人には挨拶をしなければならない。日本の法律にそんな規定がないのと同じ事。その程度も自分で判断つけられない部活に、存続の権利はないよ。」
魚崎は勝ち誇ったように笑った。本来であれば、その言葉は彼女にこそブーメランとして返ってくるものだ。が、既にそれを批判され、ある程度罪が確定してしまった彼女には、もはやこの先加えてどれほどの非難が集まろうと関係がない。これ以上堕ちようがない状況で、野球観戦部の足を引っ張り地獄に引きずりこむことは、彼女にとってはノーリスクハイリターンだ。
西九条が腰を浮かす。魚崎がその『決め手』を話してしまう前に、先に事情の釈明をしようとしたのだろう。
だが、残念なことに、彼女のそれは魚崎が口を開くよりも一瞬遅かった。
「だとしたらぁ、野球観戦部に存続の権利は無いわぁ!!
いいかしらぁ?!その写真に写っているのは甲子園球場のライトスタンド!阪神ファンの聖地よぉ。
当然、阪神のホーム試合では阪神ファンのみが観戦を許されているわぁ。逆に言えば、対戦相手のファンがそこで観戦をすることはルール違反、野球観戦の道徳観念に反する行為!違うかしらぁ、春日野道!?」
嬉々とし跳ねるような声で、そう叫んでくる魚崎。春日野道は何も言い返せない。どころか、掟を破り村八分を受ける村民の如く、怯えと自責に震えうつむくばかり。
たまらず、西九条が「プロ野球のファンがファンたる条件はーーー」と、反論しようとしたが、
魚崎はそれを上回り大きく甲高い声でそれを封じ込めた。
「ーーー春日野道ぃ?!あなた、確か広島ファンではなかったかしらぁ?!
おかしいわねぇ、この日のカードは阪神広島戦。本来広島ファンがライトスタンドに座ることはご法度とされているはずなのに、あなた、写真に写っているけれど?それも、他の二人も一緒にねぇ!
まったく、不思議な話よねぇ?あれほど自分達の活動に自信をもち、正当性を主張できる、立派な部活ですもの、その程度のルールは知らない訳もないし、その上で破るなんて、あり得ないわよねぇ!?
そんなあなた達が、いったい何故広島ファンを連れだって、ライトスタンドで仲良く試合観戦しているのかしらぁ?!」
逆王手を宣告されたかのような焦燥が、俺の体を突き抜ける。中盤の無駄話まで計算の内だとすれば、まったくしてやられた。
横目で時計を見れば残りは三分弱。おそらく魚崎は俺達に反論の時間を与えはしない。ひとつ前と違ってそのメリットがないからだ。
ターゲットを高速神戸だけに絞ったのは、かの教師が見るからに堅物で、印象もその実も柔軟な思考を持たざる者であるからだろう。
………残念なことに、広島ファンが阪神主催試合のライトスタンドに座ることは確かにルール違反だ。球界全体から非難を受けるものだし、それで不快な気分になる者も少なからずいる。
だが、俺達から言わせればあのときの春日野道は、魚崎がそれを暴露するまで広島ファンではなかった。応援もせず、グッズのひとつも持ち込まず……普段標準装備のファンクラブのバッグですら、その日だけは別の物にしていたほど。
西九条が言いかけたように、プロ野球球団に対するファン意識というのは、精神的なものによる。極端な話、当人が阪神ファンだと言えば阪神ファンだし、広島ファンだと言えば広島ファンだ。複数球団のファンであることすら、おかしくはない。
要は、その場で『広島ファン』らしい行動をとらなけば、当人は広島ファンではない、という見方もできる、ということだ。現に、春日野道は、あの場で誰一人として不快な気持ちにはさせなかっただろう。まぁ、大応援のなかでほぼ沈黙していたのが疎まれた可能性はあるが……それはあの場においてはトラキチの西九条もおなじだった。
だから、俺達は春日野道を擁護するとき、確証をもって『何も違反していない』と言い張ることはできる。
だが、問題は状況だ。それを説明する時間がない。そして、高速神戸にそれを理解してくれるだけの柔和な頭がない。さっき魚崎がそれを利用して俺達を追い詰めようとしたのが………その間接的な証明になる。
「まさか、春日野道、あなたこの期に及んで自分は広島ファンではないなんて言うつもりはないでしょうねぇ?!その赤い団子頭引っ提げて、レッズオフィシャルファンクラブの赤い手提げ鞄持ち歩いて、ああそういえば、重音部の頃にはそれ行けレッズの演奏の練習もしていたわよねぇ!
さぁどうなの春日野道ぃ!言ってごらんなさいな!あなたは、広島ファンなの?!自分が広島ファンだと自認していて、ライトスタンドに座ったの?
高速神戸先生に、ほらぁ、言いなさい!本当の事を!」
愉悦の麻薬に浸かりきった魚崎の高笑いは、もはや人としての形を残してはいない。
「…………っ」
狂喜の絶叫が槍のように春日野道に降り注ぐ。彼女は、ぐっと唇を噛み締めて下を向いて今にも崩れそうな感情を圧し殺しているようだった。
西九条同様、彼女にとっても広島東洋レッズという球団のファンであることは、彼女を彼女たらしめるアイデンティティーの一部である。今、ここで堂々と自分が広島ファンであると宣言できないことは、自分自身の否定になる。個性の拒絶になる。
が、ここで広島ファンだと宣言してしまうことが、九割がた野球観戦部の終焉を意味するのだと、頭の切れる彼女は既に気づいている。弁明すらできないまま、魚崎が語った印象のまま結審に持ち込まれれば、高速神戸は間違いなく『否』の札を挙げることだろう。そうなれば、自分の手で野球観戦部の首を落とすことになる。
疑う余地なく仲間思いの彼女にはそれは、余りにも辛すぎる選択だ。四面楚歌、八方塞がり。今のままでは……彼女は、針のむしろ、袋の鼠だ。
………それは、いただけない。
野球観戦部は、あとにも先にも春日野道の存在あってこそ、ここまでやってこれたようなものだ。途中参加ではあるが、その影響は計り知れないものがある。ややバランスに欠ける西九条と俺を、平行に保つ努力をしてきてくれたのはいつだって春日野道だった。そもそもからして、今問題にされているライトスタンドの事だって、ギスギスしていた野球観戦部の空気を、なんとか平常に戻そうとして……気をかけてくれて、やってくれたことだ。
一番、部の事を考えてくれていたといってもいい。そんな人間に、敗北の責任を総ざらい押し付けるような真似をしてなるものか。事実がどうあれ………例え野球観戦部がこのままつぶれることになったとしても、春日野道がその責任に自分の身を押し潰されることだけは、絶対にあってはならない。
これは、魚崎の策略なのだ。意図してかせずかは知らないが、このまま終わってしまってはこの法廷の後に、野球観戦部はその内側に確実に遺恨を残す。ただでさえ気落ちがちだった彼女にこれ以上ダメージを与えては……少なくとも以前のままの俺達の関係は戻らない。近い将来、いずれ瓦解を見ることになる。
それは、ダメだ。それを認めてしまっては、全力ではなくなる。オヤジとの約束も果たせなければ、俺自身が成すべきことも、中途半端に終わってしまう。
地を固まらせるための雨であるはずのこの危機は………
俺達を成長させてくれる、
契機にはならなくなってしまう。
「ーーー何を黙っているの?!言わなければそれだけ、あなたへの疑惑が増すばかりよぉ?
それとも、あなたの広島レッズへの愛はその程度のものーーー」
「ーーー忍さんはっ!!」
水をかければ瞬時に蒸発しそうなほど白熱した頭が、肺から空気が無くなるほど、口が頬まで裂けていきそうなほど、強烈に俺にそう叫ばせた。
傍聴席のざわめき、魚崎の狂気、高速神戸の疑念、西九条の憤怒、全てを塗りつぶして俺の絶叫が議場に響き渡る。
突然の出来事に対応しきれず、場には一瞬の空白が生まれた。だが、俺は場を静まらせることをしなかった。
「その日、広島ファンじゃあなかった!!
俺と西九条の仲を取り持つために、それこそ、魚崎の言ってるレッズの赤いカバンだって持ってこなかったし、グッズのひとつも持ち込んでいなかったし、レッズの応援だってしていなかったしーーー」
「ーーー出屋敷ぃ!?あなたに発言を許した覚えはないのだけれどぉ!?」
すぐさま、魚崎が俺に向かってそう怒鳴り返してくる。彼女の主張はもっともだ。今の俺に発言権はない。許可されていない以上、これはルール違反だ。
だが、知ったものか。ここでだんまり決め込んでどうなるというのか。敗北が決定的になって、春日野道が失意のどん底に沈むだけだ。それが何の意味をなす?この期に及んで守る秩序が、ルールに従って清く正しい法廷を守り通すことが、綺麗な敗北が、潔い引き際が、理性的な立ち振舞いが、何ら彼女の努力に報いるものでないという事実を、黙認したままこの場を終えて、
それでなお何か得られるものがあるとすれば、それは人の心と引き換えの、冷酷者の仮面ではないのか。
俺は、そんなものより遥かに大切な何かを得られるかもしれないという期待を持って……得たいという希望を持って、
西九条真訪を認め、春日野道忍とそれを誓い、香櫨園克美と解り合おうとしたのではなかったかーーー
「ーーーそもそもファンって、自分の心に寄るものっていうか、本来他人が知り得る事のない気持ちであって、その意思表示がなければ明確な基準もありもしなければ他人が断定できるものではないんだ!
あの日、魚崎、お前が何も言いさえしなければ、忍さんを広島ファンだと断定できる人間はいなかったし、忍さん自身だって広島ファンじゃないままでいられた!俺らだって、他の観客だって、誰も不快にも不幸にもならなかったんだ、それをーーー」
「ーーーだったら何故あのあと逃げたのかしらぁ?!あなたは!やましい心がないのであれば、そのまま堂々としていればいいのではなくてぇ?!
露見しては困ることだからこそ逃げたのでしょお?バレて困るということは、それだけ元から罪の意識があったからということではないのぉ?!」
魚崎はばぁん、と俺達の前にもう一枚の写真を表向きで叩きつけた。二人を抱えて逃走する俺が写っている。
あのときその場から立ち去ったのは、魚崎の悪意が明らかで、それに対して西九条がもはや巻き戻しの効かないほど怒りに震えているという状況のなかで、
それらがぶつかり暴力にでも発展すれば、部同士の問題以前に警察沙汰になりかねない可能性すらあったからだ。無論、春日野道を周囲の阪神ファンの冷視から避ける意味合いもあった、が、何度も言うように、俺は春日野道の野球観戦の仕方が、モラルに反していたとは欠片も思ってはいない。
やましい心があったわけではない。ただ単純に、生まれるべくせず生まれてしまった危機的状況を、応急的に回避しただけのことだ。
………だが、この論争は敗けだと思った。他人の目からは、この写真は決定的な証拠に成りうるだろう。俺の主張など、高速神戸は受け入れるまい。この法廷の帰趨は印象によって決する。
野球観戦部は………今、それに弱い。
「被告側、発言をやめなさい!!出屋敷、君の発言は認められていない!!」
魚崎の反論から間髪置かず、大石が叫ぶ。だが俺は構わなかった。
「何故露見させた?!それをすることで誰が得をしたんだ?!周りは不快な思いをして、俺達は球場を去った、そのままにしていて誰も損はなかったのに!
お前だけだろう、得をしたのは!お前が愉悦を得たいがためだけの暴露だったはずだ、あれは!
罪の意識?!あるわけねぇだろ、ハナから悪いことなんてしていない!阪神びいきの広島ファンがいたら不自然か?個人の自由だろ?別に赤いメガホン叩いてた訳でもなければ応援歌歌ってたわけでもない、ユニフォームだって着ていない!
普通の身なりの人間が普通にそこで野球観戦をしていて、それの何が問題なんだ?!普段の忍さんを知らなかったとしたら、それを指摘することがお前にできたのか!?
悪意の塊が、語るな!!自分の勝手で大勢の人間を無意味に不幸に陥れる人間に、ルールやモラルを語る資格がーーー」
後ろから手が回って、口を塞がれて。俺の言葉はそこで断絶した。
背面に誰がいるのかはわからなかったが、それが女の手であることだけはわかった。背中に、男のものではない柔らかな感触が広がる。すぐに声がした。
「シンジロー、ありがとう、もうええ」
と。
それが春日野道のものだと解るまでに時間はかからなかった。頭はまだ熱湯の沸かせるほど沸騰していたが、その反面少しホッとした気持ちにもなる。
もはや、この法廷の勝ち負けなどどうでもよくて、これから先も『部活仲間』として付き合っていくときめた連中を守るためだけに、筋が通らなかろうが説得力に欠けようが、構わず思いの丈をぶちまける野蛮で冷静さに欠く自分に自覚はあって。
そしてそんななりふり構わない自分が少し怖かったのだ。踏み越えてはならない一線に靴半分踏み出してしまったような気がどこかにしていて……ほんの少し、怯えていたのだ。
たぶん、春日野道もこの法廷の敗北を悟ったのだろう。だから、こうして止めに来てくれた。自分のことでこれ以上……という想いが口許の手のひらから伝わってくる。
次の一瞬、俺は安堵していた。負けたのに、野球観戦部の廃部がほぼ確定的なものになったのに、ホッとしたのだ。
たぶん、一番大切なものは守れた、という気持ちから。あるいは………魚崎の画いた、最悪のシナリオからは……逃れることができた、という気持ちから。
「………出屋敷君の今の一連の発言は法規に違反しています。
陪審員は、最終判断でペナルティ分を考慮するように。」
大石が、左右の陪審員……高速神戸と千鳥橋に対してそう告げる。
もはや、敗北は確定的なものとなった。もともと、あの写真が証拠として出た時点で勝機などありはしなかったが………今の宣告で、一縷の望みすら断たれたことになる。
終わった。確実な未来を前にして、俺は春日野道の手をやんわりと引き離し、彼女に対して頷き、ゆっくりと自分の席につく。
惜しむらくは、西九条が立ち上げた部を、守りきることができなかったことか。
一番大切にしたかったものが何か。それはたぶん共通認識だから、彼女は俺の一連の行動を理解してくれてはいるだろう。どのみち、あのまま黙っていたとしても負けていた、ということも……たぶん。
が、それでも。無くしたくはなかった。勝利目前まで行っていたことへの惜しさもある。最後に魚崎が『あれ』を用意していた以上、最終的な勝利は無かったのかもしれないが、それでも。
「………。」
ため息をひとつつく。これでよかったのか、という問答に意味はない。最後勝ち負けより大切な物を得ようとして、やるべき事をやった……つもりだ。
グラスとグラスをぶつけ合って、壊れるかどうか。それは、試してみなければわからない。それぞれかよかれと思って起こした行動のなかで……将来がどう形作られていくのか。それは唯一未来しか知り得ない。
「……全く醜い言い分を晒してくれたものねぇ。一二時間前、正義を語っていたのが懐かしく思えるわぁ」
息切れからようやく回復したばかりの魚崎が、圧倒的な悦をその瞳に宿して、ゴミでも蹴り飛ばすかのように見下ろしてくる。その視線には確実に侮蔑が混じっていた。
が、不思議と……もう腹は立たなかった。何故そんな気持ちになったのか、この10分の間に心にどんな科学反応が起きたのかわからないが、
目の前に佇む生徒会長は酷くやせっぽちで孤独に見えて、それが哀れにすら感じられたのだ。
「審判が楽しみねぇ……まあ、結果は見え透いているけれどぉ?
あれほど勝利を確信していたのが全く、無様なこと。」
息荒く笑う魚崎。もはや聴衆はどちらも狂気といった印象しか得られないのだろう。陪審員席含め、完全な沈黙を保っていた。
もはや言い返すこともなく、その気力もない。彼女の愉悦に手を貸すことにすら抵抗を感じなくなっていく。本当に決着がついてしまったのだと、数度目の実感がふわふわと頭上をさまよう。
そんななかで。
西九条真訪が立ち上がり、徐に口を開いた事こそが、俺の脳に………その時一番の刺激を与えた。
腰に手を当て愉悦に浸る魚崎の、その遥か向こう………彼女には絶対に見えない何かを見据えた、その表情は、
ひどく透明質で、そして……不自然な言い方にはなるが、
いつもの西九条真訪のそれだった。
「………魚崎。」
「審理は終わったわぁ、西九条。往生際の悪い真似はよしなさぁい?
あなた達の負けは、決定事項よぉ。この期に及んで、まだ諦められないと言うのならーーー」
「ーーーそうじゃないわ。」
きっぱりと言い張った西九条。
「あ?」と返した魚崎の嘲笑に、不純物が混じる。対して、西九条は改訂の砂利まで見えそうなほど、透き通った澄まし顔でいた。
「あなたに、お礼を言わなければいけないと思って。」
「………はあ?」
とたん、魚崎の顔色は一変した。嘲笑から嘲りも笑いも消え失せる。まるで内蔵を繰くり出したアオスジアゲハのような、中身の醜猥さを隠せない、それでいて豆鉄砲に弾かれたかのような同様の色を見せていた。
「………ふざけていられる立場かしら」
「いいえ、ふざけてなんていないわ。
本気で言っているの」
「冗談言わないで頂戴」
「冗談じゃないわ」
「礼を言うといったのかしら」
「そう。ありがとうと伝えないとと思って」
「馬鹿は休み休み言ってもらえるかしら」
「大真面目よ。」
「あなたに感謝される筋合いなんて何一つ無いのよぉ!!」
突如魚崎は絶叫した。その呼吸の荒さに肩を上下させ、すぐ背後の原告席に拳を打ち付ける。だあん、と激しい衝撃音がして、茅の外に追いやられていた打出と姫島が跳ね上がる。
俺は………その彼女達の様を見て、西九条がなにに対して礼を言っているのか理解した。そしてそれは、とんでもない嫌味であると………そう思う。
「ええ。一生わからないでしょうね。
別にいいの。
理解してもらおうなんて、これっぽっちも思ってはいないから。」
この二ヶ月で彼女が得ようとしたもの。そして、得たもの。
得ることができたきっかけに対しての礼、ということなのだろう。なるほど魚崎にはわかるはずもない。そして、殊更にわからせてやる必要もない。
当然あるはずの怒りや悲しみを置き去りにしてきたかのような西九条のその佇まいが……全てを物語っている。部がなくなるのは悲しいことだ、が、もっと大切なことは……別にある。
「本当に、感謝しているわ。
魚崎生徒会長。」
「この小娘を黙らせてぇ!!」
怒りに狂った魚崎は、彼女の印象を女王たらしめていた要素のひとつである長い黒髪を、台風にしぶかれた柳の枝のごとく振り回して大石にそう怒鳴り付けた。
面食らった大石は手順を再確認するためか手元の資料に目をやって頭を右往左往させたが、魚崎の激情はそんなことでは留まらなかった。
「結審よ!!早く!!
もう結論は出揃った筈だわぁ!!世間に対してぇ、迷惑行為を働いた!その証拠もここにある!これ以上何も考慮する必要はないでしょお!!
とっとと叩き潰して!ここから追い出して!!負け犬の遠吠えは聞きたくない、耳障りだわ、引導を渡して身の程をわからせてやって!!」
メッキも何もあったものではない、感情のまま叫び、それらを全て叩きつける。その姿はまるで政権末期の独裁者のようで。
傍聴席は干潮の如く引きに引いていた。もとの生徒会長の幻影は、陽炎のごとく揺らいで、そして消えていく。
「そ、それでは、結審に移ります。野球観戦部の、存続に賛成であれば『可』、廃部相当であると考えれば『否』ーーー」
「余韻なんていらないの!早く!早く!挙げなさい!結果なんて誰もがわかっているんだからぁ!!
さぁ、早く!」
木の板がたわむほど強烈に机を殴り付けた魚崎。急かされた陪審員は……まるで審理拒否、とでもいうかのようにどちらの札も掲げなかった千鳥橋を除いて、光の早さで『否』を挙げた。
どよっ、と議場の空気が揺れる。俺の心を、突風のように喪失感が駆け抜けて、
そしてどこかへ流れていった。
魚崎は、ピアノの鍵盤の一番端を連弾したかのような高笑いで、これを喜んだ。
「だぁから言ったでしょお!!勝者は最初から決まっていたのよ!!
さぁ、さっさと出ていきなさいなぁ!!ここは部活法廷よぉ!!廃部の決まった部活動に、用事はないわぁ!!
卑屈な犬っころどもは、とっととこの会議室からーーー」
ーーー消え失せろ、とでも言うつもりだっただろうか。その結果を見届けた人間の、おそらく大半がその結果に疑問を呈し首を捻るなかで、魚崎はそれを勢いで抑えつけるようにそう叫ぼうとして、
しかし中途でそれをやめた。
野球観戦部の……被告席の後方、ちょうど俺の真後ろあたり。会議室に入る唯一の出入口が、張りに張ったゴム膜に針を突き刺すかのごとく、その場の緊張を全て打ち払うように、豪快な音を立てて開いたのだ。
否が応でも注目はそっちに移る。これはもう識以下、反射のようなもので、俺以外の人間もすべからくその方角に目をやった。
そして、そこから転がるように、雪崩れるようにして飛び込んできた白い雑巾のように見える何かを認めて。それが人であり、次いで何者かを議場全体が認識したとき、大きなどよめきが起こった。
もっともそのざわつきが議場を揺らす頃には俺達は椅子を蹴り飛ばしその人のもとに駆け寄っていて。
魚崎が動揺に言葉を失うなか、不安定にゆらめくその雑巾は、真っ先にたどり着いた西九条に抱え起こされる。
「香櫨園先生!?」
春日野道がその名前を叫んだとき、その雑巾は西九条に肩を借りながらふらふらと立ち上がって、
よろめきながらそのまま、ちょうど一時間半前まで自分が座っていた席まで歩いていく。
西九条が支える肩のもう片側、左の肩に手を回した俺は、半ば担ぎ上げるような形でそれを助けて、そして着座させた。明らかに意識は朦朧としていて、目は死んだ魚のようになってしまっている。
それでも彼女は、机を支えに体を起こし、そして呻き唸りながら、呆然と突っ立つ魚崎をひと睨みしてのち、
酒臭い息で、耳元で、俺にこんなことを尋ねてきた。
「……勝ったかね?」
躊躇わず俺は「負けました」と答える。ただし、今の気持ちそのままの口調で。すなわち、無駄に残念がるような素振りは見せず。
香櫨園克美は、「そうかね。」と一言呟いて微笑み、震える手で俺の背中を弱く叩いた。たぶん、これが今の本気なのだろう。その感触をもって、俺の胸にははち切れそうなほどの…………雑多な感情の塊が押し寄せた。この状態で……恐らく、医務室から這ってきたのだろう。そうまでして駆けつけようとしてくれる顧問の存在に、
俺は純粋に心打たれていた。
「先生、無理をしないで………!」
既に着座したにも関わらず、その肩を支え続ける西九条が、目を真っ赤にして、そう絞り出すような声で呟く。香櫨園は息を吐くように笑った。そして、西九条の頬を静かに撫でる。
「遅くなって……済まないな、西九条。
君の……話を、少しは、真面目に……聞いておけば、よかったよ。
やはり、タダより怖いものは……ないな。
摂生せねば……」
春日野道が「アホ……」と呟いて両手で顔を覆った。西九条などはもう口をきっと縛って、落ちる寸前のそれを堪えるのに必死なようだった。彼女がこの体を押して来てくれた事、それ自体への感動もあっただろうが、そればかりではなくて、ようやく、野球観戦部が無くなったという事実に対する単純な悲しさと悔しさを、感じることができたのかもしれない。
正直俺もかなりくるものがあってヤバかったが、それを何とか堪えられたのは、遅れて新たな人物が会議室に現れ、そして俺の席の横に立ったからだった。
見上げた先に、春秋時代の豪傑を思わせる風貌の、髭もじゃの小男と、坊主頭のすらりとした青年の、自信に満ち溢れた顔があった。そして、その後ろには……老いてなお上品な雰囲気を持つ、女性教師の小さな姿。
それが野球部監督の武庫川と、エース梅田、そして………音楽教諭今津であることに気づくのに、時間はかからなかった。
俺は跳ね上がるように立ち上がる。武庫川は「ああ、ええよ出屋敷。そんなかしこまらんで」と一言、俺を制すと、そのまま舞台中央部………突然の出来事に全く頭がついていかない様子の魚崎が彫刻のように立ち尽くすところの目の前まで歩いていき、
そして彼女をじっと見てこんなことを言った。
「なんや知らんけど、とりあえず金輪際うちの試合は観に来んでもらえるかな。
ワシら、あんたの道楽のために試合やってるんとちゃうんやで。」
穏やかながらドスの利いた声で、その目は全く笑っておらず。
さしもの魚崎も、これには無言で一歩引き下がるしかなかった。あの迫力に当てられて、対抗できる人間などこの議場のなかには存在しないように思われた。
「西九条、春日野道……出屋敷。」
肘で何とか体を支える香櫨園が、やはり呻くようにそう言う。全員、彼女の方を向いた。香櫨園は、酒に当てられて真っ赤な顔を、しかしそれでも好戦的な笑みの形にしていた。
「真打ちは……最後にやって来るのが……スジだ。
私は………約束を、守る。ここに来る前に、言ったはずだ、君たちの………活動の場を、奪わせやしないと。絶対に………」
「……ですが、先生。私たちは……もう。
負けてしまいました。野球観戦部は………廃部です。」
つまる声でそう言ったのは西九条。春日野道はもう何も話せない。
香櫨園は、少し笑みを緩めて「それは残念だし、すまなかったと思う」と言った。西九条はすぐさま「先生のせいではありません」と言い返したが、その続きは香櫨園の人差し指に抑えられた。
「………が、だからといって……諦めるのは、よくないな。西九条。
こういう時こそ、思い出したまえ。君が分析してきた、野球の試合を。使いたまえ、その教訓を。
君は……レポートに……大物スターズと、鳴尾浜商店街野球部の……あの試合の総括に、
何と書いたのかな?」
「……………!」
ハッとしたように、西九条が顔を上げる。
その動作で、はらりと一筋、耐えきれなくなった滴が頬を伝った。だが、その跡とは対照的に、彼女の表情には生気が戻ってきていた。
言葉とは魔法のようなもので、一言で人を再起不能にするものもあれば、人を甦らせるものもある。香櫨園は、魔法を使った。
その効果がどちらに出たのか。彼女の表情は、それを如実に示していた。
「諦めないチームは……単純に強い………」
西九条が、噛み締めるように呟く。
香櫨園は頷き、ぐっと口角を歪めてこう告げる。
「あたしはまだ、諦めてはいない。」
ーーー次の瞬間、香櫨園は火山から上がる火柱のごとく勢いよく立ち上がり、魚崎を睨み付けた。
ただでさえ武庫川からの圧力に押されていた彼女は、突然劣勢に立たされたかのような雰囲気に戸惑いを隠せず、
「何ぃ……何だというのぉ……」
と唸るように呟きながら、また一歩足を下がらせた。
が、そこはもう原告席のテーブルで、彼女はそれ以上の後退ができなくなってしまった。
香櫨園が、叫ぶ。
「野球観戦部は廃部で構わない。ろくでもない審判ではあるが……判決がそのようである以上、我々はそれに従う!」
場内がざわついた。当然だろう。明らかに観戦部の三人を助けるために乱入してきた連中が、こうも魚崎を圧迫しつつ、結局素直に廃部を認めるというのである。
いったいなにしに来たのか、というのは当然の反応だろう。
俺の心の片隅にも、そういう気持ちが無いではない。が、それよりも大きく膨らむものが彼女への期待で、かつ元より存在するものがかの顧問への信頼だった。
香櫨園はああ言った以上必ずなにかをやり遂げる。俺は確信をもって隣の二人の顔を見た。西九条、春日野道とも、まるで一時間前、対等にやりあっていた頃の強い気持ちが全面に押し出された表情に、戻っていた。
香櫨園は、身を削るような叫びを続ける。
「部が解散の憂き目に遭った以上、あたしの可愛い教え子三人は、もう野球観戦部部員ではない。そうだな、そこの生徒会長。」
不意に指名されて、あからさまに面食らった魚崎。だがすぐに、ひきつりながらも嘲笑を取り戻し、
「そうよぉ?あなた方の野球観戦部はついさっき廃部になったわぁ。もはや部がなくなったのでは、部員ではないわねぇ、ただの無所属生徒かしら?
そんな連中は部活法廷に居座る理由がないわ。さぁ、さっさと出ていってーーー」
「ーーーでは、これよりこの三名は野球部へ入部する。」
香櫨園が酒やけのしわがれ声でそれを宣言した時、
場は一瞬、完全な静寂に包まれた。
これが何故完全であったか。当の俺たちもが、その発言の意図を全く理解できず、言葉を失ったからだ。
「………あの、先生?」
だから、その静寂を最初に破ったのは西九条真訪だった。涙も引っ込んだと言わんばかりにキョトンとして、普段香櫨園を見るときの………呆れたような、困ったような表情で彼女を見上げる。
春日野道にしてもそれは同じことで「野球……部?」と困惑を隠さず首を捻る。
俺は、まさか香櫨園はこの期に乗じて俺の野球現役復帰をさせようとしているのか、という疑念が先行してしまい、それを抑えるのに必死だった。そんなバカな話はあるはずがない、香櫨園克美はいつかそれを諦めたと言った。俺はそれを信用するのだ、と。
……ついでざわりと場内が揺れ、最後に魚崎が例によって高笑う。
「非常勤講師はトチ狂ったのかしらぁ?!野球観戦部が、フフッ、野球部に入ったところで、どうするの?選手にでもなるの?県大会準決勝まで進んだチームで?
馬鹿馬鹿しい!それに何の意味があるのかしらぁ?!やりたいことができない部活に無理やり編入して、それで何かあそこの三人が救われるとでも思っているのかしら、おめでたい頭ねぇ!
いい?あの子達はぁ、野球がしたいのではなくて、見たいのよぉ?!それを、野球へ放り込んだところで……くくっ、
アタマ大丈夫ぅ!!?」
「誰も野球やらすとは言うてへんやろ。」
再び悦楽の園に旅に出た魚崎に、冷や水をかけるように武庫川が冷静にそう言う。
家を出て数歩で首根っこを捕まれたが如く、魚崎の顔は豹変した。俺の隣の隣の隣の席、春日野道が飛び上がるように立ち上がり「監督、それって………!」と息を呑んでそう叫ぶ。
武庫川は静かに頷いた。香櫨園は、満足そうに微笑み着席し、呆然とする西九条の頭を乱雑に撫でて、
「だから、そういうことだ」
と、そう言った。
西九条の表情が、瞬間、太陽のように明るくなる。
俺は、野球観戦部の息吹が戻ってくるのを、その肌に感じた。
「この夏………野球部は、実力以上の成績を残すことができた。ワシの見立てでは、まず準決勝まで残ることは無いやろうと、正直なところな。梅田の状態が悪く、チーム全体の試合内容も噛み合わん。これでは上まで戦い抜くまでに必ずボロが出ると思うとったからな。
しゃーけど、蓋開けてみたらどうや。天下の功徳相手に七回まで互角の戦いができるところまで行けたやないか。もちろん選手は頑張った。実力を遺憾なく発揮してくれた。けど、それだけやったら明らかに足りひんかったもんを、補ったもんがある。去年にはなかったもんで、今年にはあったもんや。
それは何か。どう考えても野球観戦部の三人の、データと分析と、アドバイスや。
せやな?梅田。」
梅田は俺のとなりにいて「はい」と体育会系らしい快活な返事をした。羨ましくなるくらい純真な横顔が、建前の二文字を完全に否定する。
「対戦相手のデータ、自分達の良点、弱点。チームとしての強みや欠点など、野球観戦部のくれた資料には外野からでなければ気づけない、重要な情報がたくさん載っていました。
それをチームとして共有できたからこそ、今年はいろんなものが噛み合った、強い戦いかたができたと思っています。」
「所詮一要素といってしまえばそうや。が、その一つが違うだけで落ちる試合も拾う試合もある。
うちは拾う側に回れた。この子らのお陰でな。
せやから、単純な算盤勘定でも、感情的なもんでも、ここで野球観戦部の活動が終わってしまうのは惜しい。たとえ外でやるにしても、学校でそれをやる機会がしょうもない連中の糞下らん言いがかりで奪われてしまうんは、
あまりにも勿体ないし、バカらしい。
せやから………」
武庫川は魚先に対して踵を返して、俺たちの方へ歩いてきた。
そして、ユニフォームの尻ポケットから三枚の折り畳まれた紙を取り出して、それぞれ一枚ずつ、俺たちの目の前に置いた。
紙には、入部希望届、と書かれてあった。
「………野球部の肩書き貸すさかい、これからも学校で、部活動として、野球観戦部の活動を続けなさい。
別に、うちに所属してるからゆうて、野球部の試合を観に来いとも、練習を分析せえとも言わん。今まで通りの君らの活動を継続してくれてええ。
部室の音楽準備室も、取りかえしたる。これからは、野球部の全権にかけて守ったる。
出屋敷、西九条、春日野道。
野球部に入れ。
部員総勢193人、皆、歓迎するさかいに。」
髭面が微笑んだとき、西九条と春日野道の感情はもはや爆発以外の逃げ道を知らず、
彼女たちは飛び付くように香櫨園に抱きついて、それで大いに泣いた。
香櫨園は気力を全て使い果たしたかなされるがまま振り回されて、「諸君……あたしは酔っているのだ、嬉しいのはわかるがもう少し優しく…」と弱々しい声で呻く。
俺は……さすがに彼女らと同じようにやるわけにはいかず、とりあえず立ち上がって、武庫川に深々と頭を下げた。
「ありがたいお話です。是非お受けさせてください。」
「選手としての君への未練に引導を渡すようで惜しいけど、これもしゃあないな。」
武庫川はそう言って笑った。梅田が近づいてきて「よかったね。おめでとう」と祝福の言葉をくれたので、それにも頭を下げる。
「み、認めないわぁ!そんなの!!」
もはや虚しさすら漂う叫びが、頭の先から飛んで来る。魚崎の周囲には誰もいない。打出や姫島は失意のあまり舞台より既に降りていたし、彼女の傀儡だった生徒会の二人も、審理終了後の出来事に口出しができるような立場にはなく、引き上げの準備を始める外ないようだった。
「野球部に入るのは………入るのは勝手にしてもぉ、
それで部室がつくのは、おかしな話ではなくてぇ?!お、音楽準備室は未来永劫重音部の物置よぉ、野球観戦部が消滅した時点であの部屋を管理する権利はーーー」
「ーーーわたくしが許可しましてよ、魚崎さん。」
老教師今津が、その小さな体を少し前へつきだして、敢然とそう言いはなつ。魚崎の顔は怒りに歪み「今津っ!!しゃしゃり出ないこと!!」と怒鳴り付ける。
が、これを吹奏楽部千鳥橋を初めとして、傍聴席から雪崩を打つようにして、彼女を顧問とする音楽部の部長たちが、スクラムを組むかのように守る。ヘヴィメタ研、尺八同好会、重音部、軍歌愛好会、クラヴィチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテ部………これまで、幾多の部活を数の優勢で葬り去ってきた彼女が、数に押されて引いていくしかない様は、もはや皮肉と言うにはあまりにもキツい………
言うなれば、因果応報そのものだった。
「一度も練習に来ない部活に、準備室なんて必要ないでしょ?!」
叫んだのは千鳥橋だった。さらに魚崎の表情が怒りに崩れていく。が、他の部長の援護射撃のほどは凄まじく、彼女の反論はまるで聞こえなかった。
そして、今津が言いはなつ。
「これまで、黙ってみていた自分を恥ずかしく思っています。あなた方の先輩にあたるtwo lucky&luckyがこの現状を見たら……わたくしは彼らに顔向けができません。
準備室を、正式に取り上げます。これから部活動の準備は、他の部活と同じく音楽室で行うように。いいですね?」
「なっ………そんな……事ぉ………私に楯ついて……許されると………」
「そこの生徒会長。しょーもないこと言いなさんな。ええ?
会長の権限がそんなに強いもんやったら、ええやろ。野球部から一人立候補させて通らせて見せるさかい。
どのみちあんたがえばり散らしてられるのも今日までや。あとはせいぜい、これから真面目にできるかどうかの話やな。」
「うぐ……ぐぐ………」
もはやぐうの音も出ないようだった。信用と肩書きのほとんどを今回の審理で失った彼女に、もはやそれ以上強がりを言うことはできない。
水の上に立とうとするくらい無謀なことだと、さすがに気づく。ここまで来れば。
もう、後ろに引こうにも一人、前には進めず。西九条が告げた『礼』のその意味を、まさに見ているかのようだった。
ともすれば、本質的に似たものがあるかもしれない彼女たちに………これほどの差が出てしまった、その意味を、魚崎は思い知ったはず。あとの事は知ったことではない、が、せいぜい姫島と打出くらいは大切にしてやれよ、と、そんな事を……思わなくもない。
ともかく………勝負は完全に決した。十二回裏ツーアウトランナーなしからの……大逆転によって。
「しょ………くん。そうしたら、か、えろっかぁ………なぁ、しょくん。
にゅーぶとどけはぁ、な、ぶしつで、かこうじゃないか。あたしはねるから。あとみずくれ。ふとんとせっとで………うう」
精根尽き果てて朦朧とした香櫨園がそんな事を言う。涙でぐしゃくしゃになった春日野道と、あくまで泣いた事実を取り繕って冷静でいようとする西九条が、大きく頷いて、彼女の肩をそれぞれ担ぐ。
過重積載のモッコを担いだかのように不安定かつ危なっかしい足取りで、二人の生徒と一人の顧問は小さなドアから退廷していく。
それを、梅田が付き添うような形で支えていった。俺もそれに続こうとその背中を追いかけて、法廷に踵を返したが、
そこで何者に「出屋敷ぃ」と呼び止められた。
振り返れば、今津と魚崎が終わりそうにもないにらみ合いを繰り広げるその前に、武庫川 裕が立っていて。
彼は、ポケットから一球、硬式の野球ボールを取り出して、俺にトスで投げて寄越した。
素手で受けとると、弱い球とはいえなかなかに痛い。何かと思ってその球体の表面を見れば、そこには『全国高校野球選手権兵庫大会準々決勝ウイニングボール』とマジックで殴り書きされてあった。
「君らの勝ちや。やるわ。」
そう言って武庫川は大いに笑った。
俺は、もう一度深々と頭を下げて、
それから三人を追うようにドアから駆け出した。
何だかんだといって………部であることはさほど重要ではないとか、それより大切なものがあるとか、言って見せたりもしたが………
あるにこしたことはないもので、なくなると思っていて、残ってくれたならこんなに嬉しいことはない。
あの場所に戻れることがこれほど意義のあることだとは、戻ってみなければわからないことだ。
溢れ出てくる感情をまるごと抱えて、今俺は戻る。
やはりあそこは契機の場所なのだと、遅い感慨に浸りながら、
俺は、二人の野球狂に支えられた酔っぱらいの背中を追いかけた。
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