野球への想いは熱く深く




「ーーー高校野球における感動というのは、


本来プレイヤーの間にのみ存在するもののはずです。」



西九条真訪の主張は、氷の上を滑り出すかのような滑らかさをもって始まった。


香櫨園のような熱さはそこには存在しない。相手を圧倒するような勢いは、彼女には残念ながら存在しない。だが、それでも場は静まり返った。彼女の言葉に、議場のほぼ全ての耳が傾けられる。


それは、静の中にも確実に存在する、彼女の………野球そのものと、野球観戦部と、そして志半ばに議場を去らざるをえなかった香櫨園への想いが、鼓膜を通してその場の全ての人間に伝わったからに相違ないように思われた。


彼女は、魚崎ばかりを相手にはしなかった。傍聴席も、陪審員も含めた議場にいる全ての人に対して、その一人一人に語りかけるかのように、思いの丈を吐き出した。



「原告側は、短期間に感動を得ることの正当性を主張しています。映画や音楽を例に挙げて………短期間に人を感動させる努力に感化されることの正しさ、そして、その一瞬に込められた想いに心打たれることの自然さを。


私は、それに関して異論はありません。私自身、映画を観て感動することもありますし、音楽に心打たれることもあります。


……野球観戦部部員の春日野道さんは……それこそ、重音部の伝説的な先輩である、Two lucky&luckyの大ファンです。人間として、人を感動させようと作られるものに対して、意図の通り感動することは自然な事だと思います。決して、それを批判するつもりはありません。


………ですが。


高校野球にもその感覚を用いていいものか、ということに関して言えば、そうではない、と思うのです。


なぜなら、高校球児もそう、中学野球、少年野球、リトルリーグ、シニアリーグ……全ての学生野球は、


他人を感動させることを目的としてプレーされているものでは無いからです。」



西九条の心と香櫨園の口が同期したと感じたのと同じように、俺の心も西九条の口に通じるように感じる。


彼女の主張は、まさに俺がU13の日本代表決勝戦の球場で感じたこと、そのものだった。


自分達の野球は見世物ではない。誰かのためにプレーして、誰かを魅せるためにやっているものではない。


端がそれを観てどう感じるかはともかく、何よりも自分のため、その対象に自分以外が混じるとしても、苦楽を共にした仲間、指導してくれたコーチ監督、自分達を支えてくれる家族やボランティアさん達のためのものであって。


そもそも他人を感動させるために努力してきたわけではないのだから、他人がそれで感動するというのは、主観的に言えば甚だ検討違いであって、勘違いであるようにしか思わない。


勝手に期待し、勝手に失望していく無責任な連中などは、殊更に、だ。



「映画や音楽は、いわば見られるために努力するもの……と言っても的外れにはならないと思います。評価される相手がいてこそ輝きを放つもの………勝負する相手がそもそも、聴衆や観衆なのですから。


観るものの心を動かすことこそが崇高とされるものが、その一瞬の煌めきをもって人の心を動かすのは自然なことです。


けれども、高校野球は……そうではない。


野球部の三年間の努力は、私達のような、準決勝戦………甲子園出場が決まるような大事な試合をつまみ食いするように観に訪れた人間を満足させるための物だと思いますか?


野球の相手はあくまで同じプレイヤーです。野球をプレイする人は、自分と同じく野球をプレイする他人より、強くありたいという願望……勝利への欲求を糧にして、努力するものです。あくまで構造的な話で、もちろん個人個人で考え方の違いはあると思いますが。


少なくとも、野球演劇を観客に見せたい訳ではない。これは確実に言えることです。


言うなれば、映画や音楽は花火。人を魅了する事を目的とするものであると定義するなら、野球は火花。物と物がぶつかる時に生じる美しさ。誰かを喜ばせるために光る物ではない、ということなのです。」



議場は少しざわついた。この騒がしさは、人が西九条の言葉を真剣に捉えている証拠だと考えて間違いなかった。正解のあるものではない。西九条自身が言ったように、個人で考え方に違いは出てくるもの。彼女の言葉も、全てのプレイヤーの気持ちを代弁するものではないが。


しかし、映画と高校野球を同一の視点で捉える魚崎の見解よりは、遥かに真に近い。故に志を同じくする運動部は同意にざわめき、人になにかを魅せる事で努力の結果を得る文化部は、疑問に沸き立つ。


議場全体が、感動のなんたるかを考えるひとつの脳のように躍動する。正味、その時点で西九条は魚崎に勝利をし始めていると考えていいように思う。


二つの見解が入り乱れるということはすなわち、


考え方の多様性が認められているということであり、その時点で西九条の主張を『侮辱』とした魚崎の見解は、完全に瓦解しているからだ。



「その一瞬の火花を美しく感じて、一枚の芸術作品を見るかのような感動を得るのなら、それはそれでいいのかもしれません。純粋な物の感じかたなのかもしれないと、私も思います。


ですが………件の出来事で、原告側が私達に対して主張してきた『野球部の頑張りに対する感動』、つまり野球部のそれまでの努力をあたかも観てきたかのように思い、そのストーリー性を踏まえつつ敗れ去り行く彼らに同情し、涙を流す『感動』に関して言えば、


それは本質的に間違っているものなのではないか、とそう思うのです。


野球部は、観客のために努力をしてきた訳ではない。なのに、観客はその努力に涙する。


プレイヤーは、最後まで勝つことを求めて全力でプレーする。なのに、観客は終わりが近づき絶望的に成り行く状況を得てようやく涙を流す。


ちぐはぐすぎると思います。何もかもを勘違いして、観客はただ自己満足の感動に涙しているのです。


本当に、純粋に野球の持つ輝きに……涙するのであれば、それは初回表、ノーアウトランナーなし、一番打者の絶対出塁するという気持ちと先発ピッチャーの絶対に先頭を切ってとる、という気持ちがぶつかる、その瞬間からその感動は始まっていなければおかしい。


けれど、大概の涙を流す観客というのは………負けはじめてようやく、あるいは絶望的な状況をひっくり返しはじめてようやく、その感情を昂らせます。



……おかしな話だと私は思います。それらは哀れみとか、同情とか、そういった類いの感情ですが、果たして観客というのは、そんな情けをかけられるほど彼らの事を知っているのでしょうか?一日にどれぐらい走って、どれくらいボールを投げて、その高校生活の何割を部活に費やして……その一端でも知っていて、それでいて同情しているのでしょうか?私は絶対そうではないと思います。


なぜなら、そんな前情報の下に試合を見ているのなら、その努力に参加していないものが、努力をしているものに哀れみの感情を向けることが、


どれだけ愚かしく、高慢な行動であるのか、


気づくことができるはずだからです。」



ざわめきが小さくなっていく。西九条の言葉は、納得をさせずとも、その考え方が一理も二理もあるものだということを、それを知らぬものにわからせていく。



「その敗戦は、同情を得られなければならないほど情けないものなのでしょうか?


その努力の一端も知らない人に哀れみを受けなければならないほど、悲劇的なものなのでしょうか?


私にはわかりません。その努力をしていないからです。野球部の一切の練習にも参加していないし、手伝ったとはいえ自分の部活の片手間。そんな中途半端な関わりかたしかしていない人間が、その時グラウンドのなかで背番号を着けた20人が、それぞれどのような想いを胸に戦っているのか、それを想像できるものでしょうか?できるはずがないと思いませんか?


あまり過激な言葉は使いたくありませんが、それがわかるという人がいるのなら、それは勘違いも甚だしいと思います。もし仮に………フィールドの中の誰か一人でも、『功徳相手にここまでやれた』という達成感を得ている人がいたとしたらどうでしょう?観客が一方的に『無念』を押し付けているのだとすれば、それは冒涜以外の何物でもないと思いませんか?そして、その可能性を否定できる人など誰一人として観客には存在しないはずです。



………魚崎さんは私を『冷酷』な人間だと言いました。その努力も想像できず、故に感動もできず。涙も流せないのだと、そう言いました。


それが『冷酷』であるなら私は『冷酷』で構わない。そう思います。わかったふりをして、わからないはずの努力に自分を重ねて、得られるはずのない感動を得ようとするくらいなら、冷たくてもいいからあくまでただの観客でありたい。


………野球観戦部は、確かに野球部が一生懸命プレーしているなか、応援もせずただスコアを記し試合の分析をしていました。それは将来、野球部の役に立つのでしょうが、それを理由に胸を張って自分達の行動を正当化するつもりはありません。自分達のやりたいことをやっていたのは事実ですから。



しかし、それを野球部を蔑ろにする行動、だとか、野球を馬鹿にする行動なのだと罵られるのなら、それには反論します。


私達は、その一瞬の火花を捉えてその意味を確り心に留める、そういう活動をしているつもりです。プレイヤーを役者として見ず、試合を楽曲として見ず。


自分達が思うに、的はずれな感動は避ける。わからない感情に自分の都合を押し付けて満足しようとはしない。感動を補給するために野球を使わない。


一貫して、そういうスタンスを貫いてきたつもりです。



だから………」



西九条は、テーブルから手を離し、顔を上げた。意思の塊のような、信念を束ねた筒のように鋭く力強い瞳が、


傍聴席でも、原告席でも、陪審員席でもない、抽象的な表現ではあるが、何か彼女にしか見えない彼女の目指すものをしっかりと捉えて見えた。


俺は、心のなかで「行け」とだけ唱えた。


魚崎は、香櫨園を引きずり下ろしたことを後悔するべきだろう。野球『観戦』に対しての想いにかけては、彼女の領域に達する者など………この学校には存在しはしないだろう。


一朝一日、まして付け焼き刃のような理論を持ち出して勝てるような相手ではない。野球に対しての情熱を持たぬ者が、野球を愛しすぎたがゆえにその人生をかけてそれを研究するものの信念に、


敵う道理など、あろうはずもないからだ。



「だから、あくまで。あくまで、そういう主観を持つ私という人間として、


『泣く理由がわからない』と言いました。



………香櫨園先生もフォローしてくださっていましたが、あくまで『泣けない意味がわからない』という言葉に対して、です。


私も、私の考えが完全に正解だと考えるほど高慢ではないつもりです。ですので、主題にある通りの……『侮辱だった』という指摘に関して、これは間違いだということを、今の発言をもって証明したいと考えています。


……見解のひとつとして、認められることを望みます。以上です。」




ーーーランニングホームランのように、無我夢中でホームイン目指して走る。西九条真訪は、ノンストップで本塁を駆け抜けた。


言いたいことは余さず言い切り、譲れないものは譲らず。好きなものに妥協を許さない、彼女らしい物言いだったと思う。


決して、理解を求めたわけではない。彼女が野球部をして、その努力は他人に理解できたものではない、としたように、彼女自身、野球を殊更に愛するものとしての矜持のようなものが、そう簡単に他人に理解されるとは考えていないだろう。


だが。主張の中の彼女の言葉を少し借りて言えば、『他人を納得させること目的として』、相手を『他人』として戦った彼女の言葉は、確実にある一定の聴衆の心を動かした。


ボリュームのつまみを徐々に下げていったかのようなざわめきの引きかたが、それを顕著に示している。知らずの間に彼ら彼女らは、西九条の言葉に聞き入って………そして、自分の見解を頭の中に作り始めたのだ。


それが証拠に……話を終え、席についた西九条の前には真夜中の砂漠のような、完璧な静寂が広がっていた。いつしかざわめきは消えていた。


誰の心にも投げ掛けられた『感動』に対する疑問。それは現在進行形で『努力』を続ける部活人達が、感じていて、考えているようで、結論を出し渋っていたもの。


目の前にそれが突きつけられた今、誰一人として、無駄話を口にする余裕は……なかったのだ。



「………ご高説、痛み入ったわぁ」



ぱん、ぱんと二度手を叩き、そんな思考の静けさを終わらせる人物がいる。


この状況下、それができる人物などただ一人しか存在しなかった。唯一、といっていいかもしれない、西九条の言葉が全く響かない………すなわち、『努力』にあまりに縁遠すぎるが故に『感動』に種類があることを知らず、そして説かれた今もそれを認めることができない人物。


生徒会長魚崎は、腕を組みふんぞり返って、無感動と書いた札を叩きつけるかのように嘲笑し、俺達を見下すようにしていた。


まるで理解ができない、とでも言うかのような侮蔑を含んだ瞳が、真っ直ぐ西九条を捉える。普段受ければたじろいでしまいそうな、強い圧力をもつ瞳だった。


が、しかし西九条はもう怯まない。香櫨園からバトンを受け継いで、自らの主張を確固たる基盤に打ち付けた彼女は、もうその信念を揺るがせる事はない。



「………いいえ、あなたはわかっていない」



「当然でしょお?わかるわけがないの。


言わなかったかしらぁ、あなたの言葉はまるで味がないの。月夜の蟹、と以前にも例えた覚えがあるのだけれどぉ」



西九条は答える事をしなかった。やることをやりきった彼女は、もはや魚崎を相手にする段階を終えて、あとはもう回りの判断に身を委ねるところまできている。


わかろうともしない者相手に説明する口など持たないのは、道理だろうと思う。



魚崎は一瞬露骨に表情を歪めた。もはや相手にされてない、と感じたのがよほど腹立たしかったのだろうと思う。が、彼女はなかなかの役者だった。すぐに余裕と愉悦を過分に含んだ笑みにその顔を隠し、そしてこの状況下でも立ち上がる。


その様子を見ていれば、まだ何か、彼女が腹に一物抱えているのは、明白に過ぎることだった。


水を打ったように静かだった傍聴席が再びざわつきを取り戻す。そう簡単に戦いは決着をみない。



「黙って聞いていれば、随分といい方に回ってぇ。あたかも自分が物わかりよく分別がつく人間であるかのように話していたけれど。フフ………ちゃんちゃらおかしくて、へそで湯が沸かせる、というやつねぇ。」



「何が言いたいんや、魚崎」



西九条の代わりにくってかかったのは春日野道。全てを語り終えた西九条に、これ以上何かを語らせる必要はない、とばかりに。


魚崎は再度含むような笑いを見せて、それから、春日野道に対してではなく西九条に向かってこんなことを言った。



「西九条さんはぁ、言っていることと自分の性質が矛盾していることに気づけないようねぇ。いい?あなたが今言ったのは、努力の過程を想像できない人間は、その成果に対してむやみに喜んだり憂いたりするべきではない、ということでしょお?


野球っていう、相手は敵のスポーツで、それを観て感情移入することは間違っているって。


野球部は演者ではないし、野球は映画ではなくてスポーツだからぁ、そこにドラマを求めたり、むやみに感動を得ようとしたりするべきではぁ、ないって。」



西九条は答えなかった。静かに、魚崎が口を閉じるのを待つ。


なんとなく、俺には魚崎が何が言いたいのか、わかり始めていた。そして、そろそろ………自分の出番か、とも思う。



「どの口で、と言う他ないわねぇ。あなたこそ、選手の努力も理解できない立場でとことんまで感情移入することをよしとしているじゃない。


ねぇ、トラキチの西九条さん?」



議場が再びざわつく。ここは兵庫県、阪神カイザースのお膝元。全国区では野球ファンにしか通じない単語であるそれも、ここでは常用単語かそれ以上の認識を持つ。


その場の人間はほぼ九割がた、西九条が阪神ファンであることを悟ったことだろう。そして思考が深いものになるにつれ………魚崎の言葉の意味が理解されていくにつれ、彼女が提起した問題の、その核たる部分は議場の全ての人間に共通の認識として広がっていく。


西九条への感心が、疑念に変わっていく様は明らかなものだった。一見揚げ足とりにしか思えない魚崎の指摘は、しかし不安定な土台のもと、支持が状況次第でどうにでも転ぶこの現状にあっては、西九条渾身の演説をも簡単に打ち消してしまいかねないほどの影響力を持っていた。


つまるところ、少しでも感心を勝ち取ることができれば……状況はどうにでも転ぶようだった。



「阪神ファン……プロ野球のファンこそ、選手のその努力を想像もできないくせに、その勝利や敗戦に感動を得たり、自分にはできやしないのにそのミスに文句をつけたり、かと思えば手のひら返して褒め称えて見せたり……まるで身勝手なものではなくてぇ?


あなたがさっき、愚かなものだと一笑に伏した、今に敗戦を迎えようとする高校野球児に涙する人間と、その差はどこにあるのかしらぁ?私には……フフ、よくわからないの。


まさか、プロ野球選手の努力ならわかる、なんて言わないわよねぇ。たかだか15の小娘がぁ?何十年とその道を磨いてきた人間の苦労がわかるだなんて……さっきのあなたの話で言えば、あり得ない話だものねぇ。



おかしな話でしょう?ねぇ、西九条さん?


あなたは、あなたが批判したぁ、『思い上がりも甚だしい』人たちと、同じ事を………甲子園でしているのではなくてぇ?そのくせ、自分のことは棚に上げてあたかもそれが間違っているかのように語ってぇ………挙げ句、それを印籠に自分達の主張は正しかったのだと、胸を張る。


勘違いも甚だしいのは、一体どちらかしらぁ?もっともらしいことを言って、正義を気取っていられるのは、とてもとても気分が悪いわぁ。



さあ、その達者な口で証明してみせなさいな。トラキチなら許されて、姫島なら許されないその意味を。もし答えられないかぁ、納得できるような回答が得られないならぁ、陪審員さぁん?」



陪審員席に目をやった魚崎。その視線の先には生徒会代表にして彼女の傀儡の大石がいる。彼は、即座に頷いて立ち上がりテーブルから半身を乗りだし、こんなことを議場全体にさけんだ。



「発言の矛盾が正されない場合には、原告側の訴えによりその発言を無効として訂正することがあります。


口先八百で乗り切れるような法廷では意味がありませんので。」



もはや連携プレイ、示し会わせたかのような言葉繋ぎ。いや、実際何らかの形で最初から対策はしてあったのだろう。


香櫨園が倒れ、西九条が発言の機会を持ち、そしてああいう内容の演説をする、というところまで想定……予定されていたとは考えたくない。であれば俺達はずっと、彼女らの掌で踊らされていたことになるからだ。


が、そこまでではなくともひとつ確実に言えることは、この議題でもし西九条が発言する機会があったとすれば、彼女はこういう話をするのだろうということを……魚崎はわかっていた、ということである。


西九条は一度、魚崎の前で同じような話をしている。準決勝、姫島に対して泣くことの愚を説いた時だ。それを魚崎は当然覚えていただろうし、それが反論として返ってときのこの返しも予定調和だったことだろう。


それが証拠に、今、魚崎が主張していることは、簡潔にまとめればあの日あのスタンドで俺達を烈火の如くの怒りへと導いた言葉、



『あなたは阪神カイザースにあれだけ感情移入しているじゃあない?


姫島は許されなくて、


トラキチは許されるのかしら?』



というもの、それそのままなのだ。



「原告にこれ以上の主張がなければ、被告側の反論に移ることにします。ただしその場合、残り時間的に考えてそれに対する原告側の更なる追求は、不可能かと思われますが」



「いっこうに構わないわぁ。残り時間、一杯に使って言い訳して頂戴?


楽しみねぇ、どんな詭弁が飛び出すものなのかぁ。」



魚崎は、勝者のそれに近い愉悦をそのまま口許に浮かべて、笑う。単純な論争の優勢不利で言えば、序盤から押されっぱなしだった原告側は、現時点ではまだいささか不利なはずだったが、彼女にはそれに対する焦りがない。むしろ、この期に及んでまだ余裕すら感じさせられる。


俺にはその理由がわかっていた。



………プロスポーツとアマチュアスポーツの間に構造の違いがあるのは当然のことで、本来、高校野球の観戦者とプロ野球の観戦者がいっしょくたに語られるのはまるで見当違いと言う他ない。西九条としてはその違いを説いて自分が阪神ファンであることが矛盾していないのを証明したいところだろう。


だが、彼女がこの状況でそれをすることは、ある程度魚崎の主張が納得されつつあるこの状況下では、自分を擁護するために都合のいい解釈を繰り広げている印象が強くなってしまう可能性を生む。


彼女がどのように説明をするか、恐らくはプロ野球というものが『興行』であり、選手は観客から報酬を得るものであるから、歓声も罵声も、ファンにとっては権利である、という内容のものになろう。それは間違いではない。技術に対する報酬を得るということは、それが期待より低いクオリティだった場合は仕事として認めてもらえない、そのプレッシャーを負うということ。ファンが勝利に対する期待を持ってチケット代を支払っている以上、ある意味選手は勝利への責任を背負うことになるのだ。



………が、それを説いて説得力のあるのは、本来その期待をかけられて報酬を得る立場である、選手以外にはあり得ない。その責任を負うものだからこそ、言葉に重みが加わる。


これが、出資者たるファンの側から出た言葉になると……プロスポーツの造詣に深くない人間からすれば『都合主義』と見られる。ごくごく一般的な感性から言えば、その道を極めた人間に、そうではない人間がああでもないこうでもないと意見をするのは、おかしな行為ということになる。魚崎の……主張するように、だ。


つまるところ、西九条が今、それを語ることは印象として、一般的な感覚として、言い訳にしかならない。


時間の問題で魚崎がそれ以上の発言を放棄した今、これから野球観戦部が語る内容は、この議題において最後の発言となる。つまり、判決の印象を決定付ける、総括的な意味合いを持つ言葉になるのだ。


陪審員のうち、既に一枠は魚崎支持が決定している。生徒会代表の大石は見事なまでの傀儡で、事こうなってはどうあっても『否』を掲げることになるだろう。


俺達がこの議題で勝利を収めるためには、残りの二枠を『可』に持っていかなければならない。逆にそれしか条件はない。


そんな中で、魚崎に反感を抱いているらしい吹奏楽部部長の千鳥橋はともかくとして……教師代表の高速神戸は、最後『言い訳』の印象を残して決議に至った場合、野球観戦部をどう見るか。さっき、魚崎が原告側に回る事をして、前例がないと唯一難色を示したことからもわかるように、この教師はなかなかの堅物、あまり柔軟な物の捉え方ができる人間ではない。後出し、という見方すらできる、西九条の打ち消し論を、果たして公正な目線で判断しきる事ができるだろうか?


できない、と断言はできないが、できない可能性もある。不安が大きい、という言い方が妥当かもしれない。



反論がどうあがいても不利になる状況。魚崎が余裕を見せられるのも、まるで道理だった。



西九条のテンプレートのような冷静な表情の下に、触れがたいほどの熱を持った焦燥を感じる。印象がすべてと言っても過言ではないこの討論形式の法廷において、彼女がこれから最後の発言をするのはリスキーに過ぎた。


食い縛った歯から、擦れるような音が漏れる。玉砕覚悟でそれを説かなければならないのか。そんな悔しさ混じりの声が聞こえてくるかのよう。逆に、魚崎の愉悦の色は秒を過ぎるごとに大きく、深く増していく。



絶対不利のこの状況下。打開する機会があるとすれば、それは……どんなときか。



硬直する空間のなかで、俺はひとつ結論を導き出せていた。



『説得力のある者が、それを説くしかない』



俺達が絶対の勝利を得るためには、もはや『プロとアマチュアの違い』を説いて説得力のある人間が、それを説明して陪審員を納得させる他に道はないのだ。


………が、それは具体的に言えば『プロ野球選手』ということになる。ここは高等学校、どんな状況にあっても『プロ』がこの場にいるわけはないし、プロ野球選手に限定すればこの場にそれが現れることはまずあり得ない。


魚崎の絶対的な愉悦はそこに根拠を持つ。説得力のある人間が用意できるはずがないという前提があるから、自分の反論の時間を譲って相手に語る時間を与えてでも、西九条にしゃべらせようとするのだ。


春日野道も状況を察知したか、そわそわと落ち着きをなくしていく。西九条に語らせるよりは自分の方がまだ状況はマシか、と考えているのだろう。それは確かにそうかもしれない。が、その場合でも印象の差はドングリの背比べ程度しかないだろう。


自分が言うか仲間が擁護したか。差はそれだけでしかなく、野球観戦部全体の『言い訳』の印象が薄れるほどの効果が得られるとは考えがたい。



つまり、魚崎はどうあがいても野球観戦部不利の状況で審理を終えられる展開を導き出した事になる。完全な勝利の条件を得たのだから、余裕が生まれるのもまた当然の事といえる。足を組んで王座に収まる女王のごとくの、その場の支配者のような態度も、決して虚勢ではなく、確たる根拠の上に成り立ったものだ。



………計画表通りに進んでいく出来事を、瓦解させることができるのは、企画者が予期もできないようなイレギュラーな事態しかない。


おそらく、魚崎にとってこの法廷全体を通して……最もイレギュラーだったのは、香櫨園の存在だった。が、その彼女の排除に成功した今、それ以上の特異点が生じるとは考えられないはず。その余裕を補完する一要素に、それは確実に理由としてある。


そんな魚崎を、彼女の思い通りに進んでしまっている状況を、一撃で崩壊させてしまうような、イレギュラーがあるとすれば。


それはつまり、彼女が全く想像もつかないような、想定外の事態ということになる。それだけは絶対にあり得ない、と思わせるような状況こそが、現状を打破する突破口になる。圧倒的優勢の敵勢を壊滅させる方法は、中世代にも近代にも、奇襲の他にはない。


伏兵ーーー意外性の塊。状況を一変させる力をも持つ、かくし球的なもの。



果たして、今の野球観戦部にそれが存在するか。魚崎の想像の斜め上を行くような一手は、俺達の持ち駒のなかにまだ残っているのか。



…………ある。



俺は心の中でそう呟く。魚崎どころか、この場の誰も想像つかないような、とんでもない切り札………ジョーカーを、野球観戦部はまだ隠し持っている。


敵が作り上げてきた圧倒的不利の状況を一気に更地に還して、むしろその瓦礫を押し付け一気に形勢を逆転できるほどの、


意外性の塊が、存在する。


絶対の勝利条件に限りなく近い………『説得力』を持ち得る者が、ただ一人だけ。



「………ちょっといいですか、大石さん」



俺はスッと手を上げ、陪審員席に向かってそう言った。


場内が若干ざわつく。当然西九条が返答をするのだろうと思っていたところに予想外の人間が出張ってきたので少し動揺したのだろう。


魚崎も少し気持ちの悪そうな顔をした。



「……何でしょう?」



鬱陶しそうに大石。魚崎の計画通りに事が進んでいるところを、茶々を入れられるようで不快なのだろう。だが、当然こちらがそんな事を考慮する義理はない。


西九条と春日野道がこちらを見る。彼女らも彼女らで意外そうな表情を隠せはしていなかったが、しかしそこには確実に期待も含まれていた。


何にかけられた期待か、そんなことは問うまでもない。俺達の望むことはただひとつ、一貫して野球観戦部の継続、ただそれだけなのだ。


俺は、ひとつ息をついて立ち上がり、


そして、ここでこの議題の決着をつける事への覚悟を決めた。



「俺の父親は、プロ野球選手です。


阪神カイザース所属、出屋敷太陽。


………俺はその息子です。」



一瞬の思考の空白が議場全体に広がって、舞台上の大時計の、正確なリズムを刻み続ける秒針の動きとは裏腹に、その場の時間は凍結した。


あるものは「一体何を言い出すのか」と思っただろうし、あるものはその言葉をそのまま信用してその事実に驚いただろうし、あるものは妄言と切り捨て鼻で笑ったかもしれないし。


が、一瞬のちに起こった大きなどよめきは、それが事実であったときに審理全体に及ぼすであろう影響を、議場全体の反応として如実に表していた。



ほんの一分前まで器から溢れ出て地面にぶちまけられるかのような余裕を持っていた魚崎の表情が一気に青ざめる。隣の西九条が息を呑んだように俺を見上げる。春日野道は……机の上でぐっと拳を握りしめ、硬い表情だった。「ええんやな?」とでも言うかのような熱情のこもった視線が、俺の肌を焼く。


俺は………横目でそれを見、そして小さく頷く。



そして、正面………呆気と焦燥で完全に余裕が崩れ去った魚崎相手に、一気に重みと威力と存在感を得た口で、語り始める。


出屋敷太陽の息子であるからこそ、言えることを。



「登録名タイヨウ………たぶんご存じの人もいるでしょう。ベストナイン4回、MVP1回、年間最多勝4回……と、あまり言うと父親自慢になりそうなのでやめにしますが。


少なくとも世間では、ベテラン選手として認識されている……プロスポーツプレイヤーです。


そんな父親を持つ者として、言いたいことがあります。


魚崎さんは西九条に発言を求めたところかもしれませんが、ここは俺に話させてください。」



便宜上頼むような形にはなったが、そもそも陪審員に発言者を指名する権利はない。また原告側に発言者を指定する権利もない。


大石などはもはや何も言わなかった。拒否する理由もなかったろうし、逆に承認する必要もなかったからだ。


が、魚崎は……意味がないとはわかっていただろうが、それでも突っかかってきた。



「あ、あなたがぁ、答えるのでは私の質問の意味がないわぁ。あくまで私はぁ、西九条さんに自分の矛盾を解いてくれるようにお願いしたわけでぇ……!!」



このまま黙っていることが計画の破綻を意味することを、魚崎はよく悟っていたのだろう。故に黙ってみている事もできなかったのだと思う。



「他の人が説明するのではぁ、肝心の西九条さんがどう思っているかはーーー」



「ーーー安心してくれて結構だわ。


出屋敷の言葉は私の言葉よ。」



問答無用、とばかり魚崎の続く言葉をぶち切った西九条。そして、強く真っ直ぐな瞳で俺を見つめてくる。



「いや、野球観戦部の総意と言うてもええな。


ウチらはシンジローを全面的に信用する。この子の言うことは、ウチらの口から出たのとおんなしことやで。」



春日野道が、だめ押しとばかりそんな事を言う。ことここに至りて、もはや魚崎のそれ以上の返しなど待つ必要性がなかった。俺の口が西九条のものであり、春日野道のものである以上、魚崎に何か文句をつけられた筋合いはない。


俺は、魚崎の口が開くより数瞬早く、語り始めた。



「魚崎さんは、高校野球なら許されなくて、プロ野球なら許される、その違いがどこにあるのか、と訊きました。


それはつまり、トラキチである西九条真訪が、阪神カイザースに対して感情移入する事が……我が身の事のように喜び、怒り、悲しみ、感動することが、何故、許されることであるか、という話です。


あくまで、俺達が………高校野球でそれをやることが好ましくない、と考えていて、それを批判した以上。」



野球観戦部の総意は『高校野球へのみだりな感情移入』はおかしなものである、とのもので固まっている。西九条がそれを説いた以上、それは確定した事実だ。


であれば、魚崎の指摘に対して俺が証明しなければならないのは……


西九条がその上で、『阪神ファン、トラキチ』であることが何故不自然でないのか。


つまり、高校野球とプロ野球をいっしょくたに考えるべきでない理由と、プロ野球ファンがチームに対し感情移入をすることの『正当性』のようなものを示す、ということだ。


俺の口は……タイヨウの息子として、それを証明してみせなければならない。オヤジは、この二ヶ月間で、それを何度も教えてくれている。



「プロ野球と高校野球の違い……簡単に言ってしまえば、


選手に金が出るか出ないかの話です。単純で的はずれな話に聞こえるかもしれませんが、ここを踏まえずに話をするのはそれこそあまりにも的はずれだと思います。



ある種、プロ野球選手というのは………それこそさっき魚崎さんがいった通り、一瞬の感動を魅せて、人を感動させる人種だと考えます。高校球児と同じ競技をしていても、その根幹たる目的は大きく変わります。


言うなれば、プロ野球は映画や音楽と同じ分類に入るのかもしれません」



「高校野球は他人に見せるための物ではないと言ったわよねぇ」



魚崎が俺の言葉を遮って言う。俺は「そうです」と答えた。



「同じ野球をしているのに、プロ野球は他人に見せるものにあたると言いたいのぉ?酷く都合のいい物の見方に思えるけれどぉ」



「プロ野球は興行です」



俺は断言した。場内がざわつく。魚崎は鼻で笑った。


正常な反応だと思った。選手でないものがそれを言うのは、ある種外野から野球をして見世物だと揶揄しているに近いからだ。


……だが、俺には。プロ野球選手の息子である俺には、それが言える。それが、紛れもない事実だと断言することができる。



「観客を入れて、お金を集めます。ファンは勝利を観戦するための投資として、球団にお金を払います。そして球団は………そのファンの投資した金で選手を雇います。


単純な意味合いでのシステムはそれこそ映画と同じです。一瞬の感動を魅せ、評価を得、それを糧とする。


……高校球児は、いかに技を磨き、それを観客に見せたとしても、経済的な報酬を得ることはありません。つまりさっき西九条のいった通り、彼らは純粋に自らの技量を試すためだけに、プレーをしていることになります。報酬は、対戦相手に対する勝利、達成感でしかない。


が、プロ野球選手は違う。


よいプレイヤーには、それ相応の経済的報酬が与えられます。映画俳優と同じように、ファンに良いプレーを見せられれば見せられたぶんだけ、給料が上がるんです。


俺の父親、タイヨウは……年に二億円貰っています」



会場が大きなどよめきに包まれた。大半が好奇のものであった。初めてその事実に触れたものの反応とはまぁ、こんなものだろう。俺は特にそれ以上気に止めることもなく話を続ける。



「その二億円がどこから出ているか。ファンが落としていっているのです。観戦料やグッズ販売によって。球場にいかずとも、テレビ中継を見ることで視聴率が上がれば、それだけ放映権は高くなりますし。それこそ西九条のようなトラキチが、勝利………優勝を期待してファンであり続けること自体が、


選手の生活を成り立たせるための報酬を、生み出していると言えるんです。


だから興行です。プロ野球は、観客に魅せるためのものなんです。自分とその家族をの生活を支えるための『仕事』なんです。


高校野球とは、違う。」



「言っていることはもっともらしいけど、それを選手でもなんでもないあなたが言うのはぁ、いかがなものかしら?たとえ本当にプロ野球選手の息子だとしてぇ」



「俺がこの歳まで育つのにかかった金は、どこから出ていると思いますか?


オヤジ………タイヨウが活躍して得た年棒からです。言わば俺は……国鉄スワンズと、そして阪神カイザースのファンがチームの勝利に投資した、その金で育ってきたとすら言えます。だから……その当事者として、そうやって父親に育ててもらったものとして、その考え方を理解するように努めてきたつもりですし、そういう風に教えられてきました。


全てのプロ野球選手が自分の子供を育てるにあたってそういうふうな考えを持っているとは安直には言いません、が、


少なくとも出屋敷太陽はそうです。


自分達の生活は、ファンに支えられていると考えています。そして、そんなファン達に感謝していると、言っていました。」



西九条と春日野道が初めて親父にあった夜………ボロボロに打ち込まれて、回半ばで降板した夜。


オヤジは、真っ先に『不甲斐ない結果で悪かったな』と言った。あれは、ファンが自分達の生活の糧になってくれているのだという自覚があるからだ。どこのファンだとか関係ない、と春日野道に言ったことからもそれは伺える。直接聞かされたことすらある。幼い頃、オヤジを酷評するスポーツキャスターを見て俺は『ひどい』と言ったが、オヤジはそれに対してこう戒めた。


『金のぶん仕事ができなきゃ、文句言われるのは当たり前ぇの話だ。』


仕事であるがゆえに容赦なく飛ぶ、歓声と罵声。


その文句と称賛の中に生まれた報酬で、俺は育ってきたのだ。オヤジにそれを言われたときから、その事はずっと考えてきたーーー



「結局、ファンは、ファンであり続けることによって、勝利を、優勝を期待する権利を得ます。それは、チームに対して感情移入する権利を得るということです。選手たちへの期待を込めて、自分の生活の一部を切り詰めるということです。


大袈裟に言えば、


チームの一部になるということです。」



西九条真訪と、その家族のそのトラキチっぷりを見ていれば、これは確信をもって言えることだ。


キュウリを喰らい、床に膝をついて勉強し、二枚の布団に三人で寝て、短い鉛筆を使い、円卓ひとつで三人勉強し。お世辞にも裕福とは言えない家庭のなかで、その稼ぎから金を出し、甲子園へ足を運ぶ、グッズを揃える、月間カイザースを買う、専用チャンネルを繋ぐ。


それは、肉を削り骨を折り、自らの一部を捧げてでも阪神カイザースを応援する、という、壮絶なまでの愛情表現だ。


もはや彼ら彼女らは、観客という10人目の野手としてグラウンドに立っていると言ってもいい。


つまみ食いのように、その時だけふらっと試合を見に現れ、負ければ自分の生活に戻っていく、魚崎や姫島のような連中とは訳が違う。決して同じ視点で語られるべきものじゃない。


トラキチには、感情移入するに足る確実な理由が存在するのだ。プロ野球が興行であって、その勝利に投資するファンがいて。精神的、経済的にチームを応援する彼ら彼女らには、共に年間シーズンを通して、それぞれの場所で戦っているのだという心持ちを得るだけの、権利が確かにあるのだ。



「西九条はそんな阪神ファンの一人であって、そしてそのなかでも特に強烈な部類にはいる、トラキチです。魚崎さんの言うように。


タイヨウは………西九条真訪に会ったことがあります。試合観戦に行った、そのあとのことです。


西九条はその試合中、タイヨウにヤジを飛ばしていました。そして本人もそれを知っていました。」



西九条がハッとして顔を上げる。「まさか」とでも言いたげな表情だった。


俺は話を続けた。



「俺は、そんな西九条のことをどう思うか、聞いたことがあります。生活をかけるほどのファンをどう思うか……ヤジについてどう思うか、など。


すると本人は、ヤジを飛ばすほどの人間は、それだけチームへの想いが強い人間なのだと……あくまで自分の考えだとは言っていましたが、そう評しました。


その上で、それだけ入れ込んで見てくれるファンを、失ってはいけないと。プロ野球選手は相手にされなくなったら解雇されるか引退するかしかなくなってその価値を失うと。そういう熱烈なファンがいるからこそ、阪神カイザースは阪神カイザースであって、選手は選手でいれるんだと、共存共栄の関係に近いんだと、そんな事をいっていました。」



西九条はきっと正面、魚崎の方を睨み付けるようにしていた。が、その焦点は明らかに合っていなくて、その瞳は微かに潤んでいるようにも見えた。


息子が本人から直接聞いた話ーーーその親子の関係を目の当たりにした彼女には、それはマキシマムの信憑性をもって受け入れられた事だろう。


議場の反応にしても、100%とはならずともおおよそ9割方の人間は俺の言葉を、『プロ野球選手・タイヨウ』の言葉として受け入れているように思えた。魚崎が完全に勢いを失い、沈黙し突っかかるだけの気力を欠いている様子から、それは如実だった。



「これは、さっきまでの話とは違って、本人から直接聞いたものではありません、が、


父、タイヨウなら、プロ野球選手はファンの感情移入にこそ支えられているのだと、そう言うと思います。


ここまでは経済的な話ばかりをしてきましたが、その精神的にも………相手にされなくなったら終わり、と言っていたように、ファンからのストロークはいかなる形であっても、選手をプロ選手足らしめる重要な要素であると、そう考えているはずです。


西九条真訪を、トラキチを、言わばプロ野球選手がプロ野球選手たるに不可欠であると考えている選手がいる。たとえ、それがもし、一人であったとしても。



……これで、彼女が阪神ファンであることになんの問題があるでしょうか?


高校野球とプロ野球は違う。プロが興行という側面を持ち、高校野球が学生競技の域を超えないという明確な線引きを持つなかで、


ただ、プロ野球ファンであるからという理由で彼女が、自身がおかしいと感じる高校野球の観戦の仕方に疑問を呈することに、それこそ何かおかしなところがあるでしょうか?


もし、それでも西九条が間違っていると判断されるのであれば……この法廷は魚崎さんの言うように、言葉遊びの場でしかないように感じます。討論の勝敗が印象に左右されるのは仕方ないにしても………です。」



プロスポーツとアマチュアスポーツが曖昧なまま、スポーツマンシップを語ることがどれほど的を外したものの見方であるか。ファンのモラルを『良い』『悪い』の両極で判断してしまうことがどれほど穿った見方であるのか。


西九条真訪を、物事を都合のいいようにしか考えられない自分に甘い博識気取りの阪神ファン、と断罪するのは簡単なことだろう。魚崎は大方そう言っているようなものだ。


だが、事はそんな単純な話ではないだろう。人が自分の『常識』の型に相手を嵌め込んで、それから外れていれば間違っていると断定してしまうようでは、結局第一印象で判決を決めてしまうのと大差がない。


彼女を、博識だとか阪神ファンだとかいう曖昧な言葉、曖昧なくくりでわかったようなつもりでいるなら、法廷など荒唐無稽のもの。トラキチ、としての彼女がどれほどの苦悩と苦労の上に、今の阪神への愛を抱いているのか、野球に対しての持論を展開できるようになっているのか。それをわかろうともしないで一般的な、浅いものの見方を押し付けるというのなら、それこそ言うなれば彼女の『印象のつまみ食い』といったところだ。


彼女の言っている事を本気で理解する気があるのなら、判決は自ずとひとつに絞られるだろう。



………逆にプロ野球ファンである彼女が、高校野球に『感情移入』しないのか。


そう考えれば、いかに彼女が野球に対して真剣であるのかが、わかるはずだ。誰だって………何かが負けゆくのは悲しく感じるもの。それにあえてその身を任せないということがどれほど難しいことなのか、考えの上にあるものなのか、想像できるはずなのだ。



「……この議題に関して、俺が言いたいことは以上です。


ですが、最後に、一言だけ。どうしても言いたいことがあるので言わせてください。


泣くは易し。そこにある感動に飛び付くのは簡単です。


それを安易にできない人間が、果たして本当に冷酷な人間か。もう一度、考えてやってほしいと思います。


野球観戦部として、言いたいことはそれだけです。」



そう長くは感じなかったが、時間はトータルで10分ほどを経過しており、時計の長身はその角度を60°ほど動かしていた。自分でもビックリするぐらい、最後までしっかり地に足がついていて。椅子に腰を下ろしたときも、さして何か緊張の類いがが抜けていくような事や、足に入っていた力がほどけていくようなことはなかった。


議場は相変わらずざわめていている。原告側の主張がすこし的を外しているのはわかったが、被告側を支持しきるのもどうか、といったところだろうか。傍聴席には無数のミニ討論会が行われていると見てよかった。これでもいい、と俺は思う。


支持不支持はともかくとして、野球観戦部として西九条の正当性を説いた今、問題は甲子園での発言が見解の多様性として認められれば、それで俺達の勝ちなのだ。



「………ありがとう。」



小声で、西九条がそんな事を呟いてくる。視線は合わせてこなかった。瞳は既に陪審員席の方を向いていて、その先には教師高速神戸がいる。



「礼はオヤジに言え。今度また会わせてやるから」



俺はボソッと呟き返した。ほとんど父親の受け売りみたいなものだから、感謝されるべきはそっちだと思った。俺は、その息子であったに過ぎない。



「勝ったら皆で甲子園にお礼参りに来い、ってこの間言われたんだ。


だから、行かないと。」



「………そう。


私も……謝るべきことがたくさん、ありすぎるようだから、ちょうど良いわ。」



ふ、と息をひとつついて西九条は肩をすくめる。だが、その組んだ手は小刻みに揺れていた。緊張と不安のなか、精一杯虚勢を張っているのだろう。それは見栄ではなく、たぶん野球観戦部部長として弱みを見せまいとしているのだ。



「やることはやったな……シンジロー、おおきに。」



春日野道がすこし椅子を横へずらし、西九条に近づけながらそんな事を言う。



「三つ目の議題は……野球観戦部が継続するに相応しい部活であるかどうか、や。


要するに相応しくない、っちゅー証拠を揃えた上での最終判決ちゅうことになるわけやけど。


ひとつ目も二つ目もうちの勝ちやったら、あっちは必然的にそれを証明する手段を無くす。つまりまぁ……この判決でほぼ勝敗は決まるっちゅう訳や。ここ、ホンマの正念場やったんや。せやさかい、魚崎があんな感じや。」



俺と西九条は横目で原告側を見やる。九回ツーアウトランナーなしから敗戦した投手のような悔しさともやるせなさともとれない、なんとも微妙な表情でうちひしがれている様子だった。彼女に反論の機会はない。彼女自身がそれを放棄したからだった。



「大丈夫や、まこっちゃん、シンジロー。あれで負けるんやったらもうしゃあない。


連中に見る目があらへんかった、で済ませて………またどっかに集まって、普通に活動してたら、ええねん。」



「………そうね。どのみち、終わりじゃないわ。」



震えるの手の動きが少し小さくなっているように思えた。そう、俺たちにはその余裕がある。活動を学校に制限されることはない。野球があれば成り立つ。


やれることはやったのだ。もう、これ以上何かを恐れる必要はない。



「では、両側の主張が出揃いましたので、判決に移ります。」



既に言葉尻に口惜しさすら滲ませた生徒会代表大石が、全体に向けてそんな事を言うと、議場は波が打ち寄せなくなった砂浜のような静けさに包まれる。


終わりじゃない。それを確認しても、やはり西九条と春日野道の表情は硬いものがあった。俺は……どうだろうか。わかることがひとつあるとすればそれは、膝の上の握りこぶしには、それでも汗が滲んでいたということだ。



「では、陪審員の皆さんは一斉に札を上げてください。どうぞ」



そう言った大石は、誰よりも早く『否』の札を掲げた。仕方なかろうと思った。明らかに原告側に非があったひとつ前の議題とは違って、今回は精神的な話に依るところが大きかったから……どちらを支持しても明白なまでの不自然はない。そうなれば当然、傀儡は魚崎を支持する。


ほぼ大石と同時に札を挙げた部活代表千鳥橋は、『否』の札に手すら掛けなかった。これは、もう大石の逆パターンだ。野球観戦部を支持するに足る理由があって、重音部に恨みがあれば当然こうなる。部活法廷は………どのみち、この後、制度の見直しをするべきだろう。魚崎が生徒会長であり続ければどうしようもないが、現行のままでは、個人的感情の入り込む余地が大きすぎる。



勝負の行方を握ったのは、教師代表の高速神戸だった。顔に真面目一徹と書いてある、昭和に魂をおいてきたかのような堅物教師は、左二人が判断を下したあともしばらく考え続けた。俺個人としては何をそんなにも考えることがある、と思うわけだが、本来はそれで正常なのかもしれない。しっかり物事を吟味する人間の方が本来ありがたいというのは、道理だった。


場が固唾を飲んで待ち続けるなか、最終的に彼が震える手でゆっくり、迷いながらも掲げたのは『可』の札だった。


場内からどわっとどよめきが起こる。その一部は歓声、一部は落胆の声。それでもまだ魚崎支持の人間がいる、という微妙な結果のなかで、しかし俺たちは勝利を収めた。


緊張が疲れに変換されて、一気に押し寄せる。俺は、その身を椅子に深く沈めた。


隣の二人も無言でへたりこむ。だが、一息ついてその顔を見合わせたとき、かたや西九条は安堵に表情を緩めていて、かたや春日野道は少しその瞳を潤ませていて。



勝利の実感はその頃ようやく訪れた。



ホッとした心に真っ先に思い浮かんだのは香櫨園克美の顔だった。もし彼女が健在でこの場にいたとしたら、もっとスマートな勝ちを得ていたのかもしれないが。


不得手も不器用もそのままにもがきまくって、彼女が残したバトンは繋ぐことができた。


これでようやくあとひとつ。猛攻を凌いで残すところは九回表。身体中傷だらけのリリーフ陣で、最後どう抑えるか。


最終決着を目前にして、俺達は手放しで喜ぶことをしなかった。


それは、目覚めた香櫨園の前でできなければなんの意味もないのだと……九回ツーアウトはまだ試合中なのだと、気を抜くべきではないと、そういう自戒があったからだった。



「あと、ひとつ………」



西九条真訪がそう呟いて、時計は8時半を回る。











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