流れ
重音部の横暴を暴くことさえできれば、もはやひとつ目の議題に関して言えば負ける要素は存在しなかった。
彼女らの妨害、嫌がらせに関しても当然、客観的な証拠は不可欠とは言わずとも必要ではあったが、
香櫨園はこうなることをまるで見越していたかのように、重音部の顧問である今津から、証言を取っていた。彼女は当然、重音部が音楽準備室のドアを開けるのに必要な鍵を毎回貸しているわけで、その度々長時間戻らないのも知っているわけで。何なら、練習に来ないのも当然把握していた。これには、吹奏楽部の援護も多少入った。千鳥橋という吹奏楽部部長はかなり生真面目な性格であるらしく、彼女らの顧問でもある今津先生を困らせ、なおかつ真面目に活動もしない彼女らにかなり鬱憤を溜め込んでいたらしい。ことさらに野球観戦部に有利に働くような証言はなかったものの、嫌がらせの実態と彼女らの不真面目さに関しては貴重な証言をくれた。
また、バームクーヘンを食えへん部の部長を妹に持つらしく、魚崎の『部活潰し』の実態についてもいくつか発言をした。これは直接審理に関係ないことを高速神戸と生徒会代表の大石が認めて、議事録に乗らず取り下げられはしたが………それによって問題の本質が明らかになったのは事実だった。
そうやって土台が固まったところで、満を持して野球観戦部のジョーカーが火を吹く。春日野道である。
わすれがちだが、彼女は、元重音部である。そのやり口はよくよく知っていて。当事者であるから発言そのものの効力はさほどでもないものの、先の今津と千鳥橋の証言に裏付けをもらった状況下では、彼女の言葉は最強だった。
結果、ひとつ目の審理は………一時間前では信じられないことに、3ー0の圧勝に終わる。
「だから言っただろう。潰させやしないと。」
波乱の連続で審理が長くなり、二つ目の議題に入るまえに法廷は休廷となった。約15分間の休憩の後、再開するとのこと。
張り裂けそうな心臓に、ワンブレイクを入れられたところ、香櫨園はしてやったりの表情で、だが優しさの含まれたどや顔でそんなことを言った。
俺たちにそれに対して返す言葉はなかった。あるのは、黙っていても滲み出す感謝の気持ちだけだった。
「そう、しゅんとするな。君たちを守るのが顧問の仕事。そう言っただろう。あたしは当たり前の事をしているに過ぎない。
あと二つ、議題は残ってはいるが………今のでわかっただろう?あたしは、あんなひよっこ魚崎にしてやられるほど生半可な性格はしていない。
徹底的にやるから、君らは安心して……なにか言いたいときに追い討ちをかけていればそれでいい。
勝利は揺るぎないものだ。あたしを信用したまえ。音楽準備室は我々のものだ。」
西九条は、無表情ながら、どこか頬に熱を帯びながら頷いた。春日野道は「うん、頼りにするさかい!」と元気に答える。俺は……なにも言えなかった。正直、彼女がここまでやるとは思っていなくて、面食らった手前何をどう答えていいものか掴みかねたのだ。
こんのかわいいやつめ、と頭をがしがしと撫でてくる香櫨園の手は押し退ける。
ふと、原告席が気になって、俺は目だけをそちらに向けた。姫島と打出は既に席の端っこに追いやられている。ミスを咎められて疎まれたか。まぁ、そんなもんだろう。ああやって独裁主義を築いていくのは、強権女子の常套手段だ。
では当の魚崎はというと。生徒会代表の大石と何かを話し込んでいる。これも、あんなもんだろうと思った。傀儡は傀儡。さっきは場の流れに押されてどうにも抵抗ができなかったようだが、だからといって神経がまともになるかと言えばそうではないだろう。
さても次の議題はさっきのようにワンサイドゲームにはなり得ないか……などと考えていたら、議事録係のもう一人の生徒会役員………メガネの女子生徒が、何やら小さなかごのような物を持ってやって来た。
若干頬を紅潮させて近づいてくるので何かと思い「ん?どうしました」と、俺が尋ねると、彼女は「あのっ……」と声を上げたきり、しばらく黙りこんだ。
さすがに香櫨園も西九条も、春日野道もこれには気づく。一斉に彼女の方を振り向いて、代表のように香櫨園が「どうかしたかね?」と尋ねた。彼女は、さらに頬を赤くしてこんなことを言った。
「えと………用事は、その、お菓子の補給なんですけどっ………」
春日野道がああ、と声をあげた。香櫨園が余裕綽々、チョコバクバクとばかり備え付けのお菓子をバンバカ食っていたので、気づかない間に銀紙だけになっていた。
西九条が「ごめんなさいね、うちの顧問はタダの茶菓子が大好きなの」と言って備え付けのかごから銀紙を取っ払う。そういえば、初めて部室に行ったとき……ドアの前で『何なら茶菓子を出してくれても構わんぞ』とか何とか言っていたか………
女役員は「そ、それは何よりです!」と自分の持っているかごからチョコ包みをいくつか俺達のかごへ移しかえる。香櫨園は「ほお、うまそうじゃないか」と恥も外聞もなくそう言った。
「あの………わ、私……さっきの、か、感動しました。香櫨園先生の、たた、畳み掛け………」
まるでサッカー部主将に告白する後輩女子のように、緊張、紅潮して女役員はそんなことを言った。香櫨園はちいとも気にせず「ほう、そうかね?」と答えた。女役員は「は、はい!」と大きな返事をした。
「わ、私は……魚崎さんがどんなに怖い人か、知っていますから……そそ、それをあんな風に手玉にとるなんて……」
それに関しては、俺も同感のところだった。まあ年上という余裕もあるのだろうが、あれだけ俺たちが手こずった相手を、まるで赤子の手を捻るかのように簡単に負かしたのである。頭が悪いとは一度も思ったことはなかったが、彼女の評価は変更を求められているところではある。
「ここ、この後も応援してますっ!
お、お菓子食べてください!頑張ってくださいっ!!」
恋されたんじゃねぇの?と喉まででかかった言葉を飲み下し、全力疾走で自分の机へ戻っていく彼女の背中を見送る。
まるで安めの百合を見ているかのような感覚になった。確かに……香櫨園は男前だ。本人に言ったら傷つくかもしれないので言わないが、マジでイケメンだ。
野球はできる、頭もキレる、人情厚く義理堅い。憧れられる要素は十分満たしているだろう。近しい存在になって、ようやく気づくダメダメちゃんなところを除けばだが。
「生徒会に応援されるのはなんとも複雑なものだな。」
香櫨園は苦笑する。西九条もすこし笑ったが「しかし学校の公費でプレゼントとはケチ臭い真似をするものね」と不必要の毒舌を吐く。春日野道が「乙女の純情を……」と呆れ混じりにいった。
俺も春日野道派だった。西九条は、どこかピントがずれている。
さても、そんなこんなで心に余裕も生まれて。時計が午後八時を指した頃、審理は再開が宣言された。直前、西九条が「スマホの電池切れたの。速報見て」と言ってきたので、急いで阪神の試合速報を見たら、3ー0で国鉄スワンズ相手に勝っていた。なんとなく運がめぐってきている感じがしたし、心なしか、西九条がさらに元気になったような気もした。
「では、二つ目の議題に移ります。
被告側の西九条さんが、原告側の姫島さんへ放った『泣く理由がわからない』という発言が侮辱に当たるのか、というものでありますが………」
「ちょっといいかしらぁ?大石くん」
生徒会代表大石が開廷宣言中にも関わらず、魚崎は挙手し発言機会を求めた。議場がいきなりざわつく。大石は自分の発言が遮られたにも関わらず、顔の色ひとつ変えずに発言を譲った。
ここら辺がさっきの打ち合わせの内容と言ったところだろうか。俺たちからすれば先手を奪われた形になる。西九条は小さく舌打ちした。
香櫨園は……「まあ、聞いてやろうではないか」と言って、余裕の表情でチョコレートを二ついっぺんに頬張る。春日野道が「欲張りさんやなぁ」と呆れた。
「今回の議題に関してはぁ、訴えの内容的に考えてぇ………私達が重音部であることは、さほど関係がないと思うのぉ。
要はぁ、そこの西九条が私達に対して言った………『野球部が頑張っているのを見て、泣くのが間違っている』という言葉が、
主張として正しいか正しくないか、それをディベートで決めてやろうという話でーーー」
「ーーー聞き捨てならんな、魚崎」
さっきまでチョコレート頬張ってた奴とは思えないような勢いでもって、香櫨園が立ち上がる。同じく言い返そうとした西九条より、ほんの数秒速かった。魚崎が「あらぁ……?まだ立つのぉ?」と恨めしそうに言う。香櫨園は鼻で笑って「さっきのアレですむと思わないことだ」と前置きをした。
「西九条は最初から『泣くのが間違っている』と主張したわけではないし、そもそも『泣くのが間違っている』と言ったわけでもない。それは印象の操作だ。そんな手は見過ごさないよ。
さっきも言ったが、西九条は当初そこの連中を徹底的に無視していた。だが、魚屋の娘だのそろばん上手だのと誹謗された挙げ句『この場面で応援もせず感動もしないのは冷酷人間の証拠だ』というような事を言われたから、仕方なく自らの考えとして『あの場面で泣く理由がわからない』と反論したのだ。
あたかも、彼女から突っかかっていったかのような物言いはやめたまえ。
それから、そういう事情だから言葉の真意ももちろん変わってくる。いいかね?西九条はそもそも他人の野球の見方をとやかく言うような子ではない。彼女自身が特殊だからだ。」
西九条は大きく頷いた。俺は、え、いいのか?と一瞬思ったが、すこし考えて、あ、いいのか。と思い返した。
つまり香櫨園は、彼女がトラキチであることを指したのだ。
「ことの本質は、さきに重音部の連中が我々の活動をして『冷酷』だと罵ったことにある。西九条は、彼女が大好きな仲間たち……ここにいる春日野道や出屋敷といった、自分についてきてくれる野球観戦部員たちがそうやって冷酷呼ばわりされるのが耐えがたくて反論したのだ。」
春日野道が恥ずかしさに顔を覆う。俺も正直、穴があったら入りたい気分ではあったが、となりの西九条の態度を見てちょっとだけその気持ちは薄れた。
恥ずかしがりもせず堂々として、ただ魚崎を真剣そのものの表情で睨み付けていたのだ。
「つまるところ……自分達が何故それを見て泣かないのか。野球部が、準決勝で奮闘の末七回コールドで負けかかっている……なるほど世間一般の人間はそこで感動することこそ美徳とするのかもしれない。だが、西九条はそうではなかったのだ。
彼女は、その理由を説いたに過ぎない。
もし、魚崎や姫島がそれらを『暴言』だとしたいのなら、そう主張するのはまぁ別に構わん。
それが正しいか、正しくないか。それを判断するのが本法廷になるはずだ。いいかね?あまりこういうことを言うのは好きではないが、そこに座っている三人は既に一度嘘をついている人間たちだ。
自分が有利になるためならなんでもやる……と公言しているようなもの。
議場の皆様には、どうぞメディアリテラシーをしっかりと持って、各自の意見で事を考えていただくようお願いしたい。以上です。」
三者連続三球三振、くらいのインパクトを残して、香櫨園は着席した。会場がまたもやざわめく。当然だろう。また重音部と野球観戦部では状況説明がくいちがったのだ。
この状況下で………重音部の主張を支持するものはそう多くはないだろう。理由は、香櫨園が最後に述べた通りだ。
魚崎はまた何も言い返せなかった。香櫨園が最後にああ言った上は、連続しての発言はいいわけにしか聞こえないことが明白だったからだ。
「あんなもの、青い。話にならないよ。」
再度香櫨園は鼻で笑い、そしてやはりチョコレートを頬張った。もはやその行動すら力強く感じられるのは、不思議でしかたのないものだった。
始まる前は、香櫨園一人がいるからといって敗色濃厚なものがいきなり勝利に転ずるようなことはあり得ないと、正直思っていた。だが、今のこの状況を見せられてはその考えも転換せざるを得ない。
香櫨園は、強い。本当に、何の誇張もなく、俺達の事を守ってくれるーーー
「……原告側の反論も無いようなので……それでいきたいと思います。
西九条さんの発言が、納得できる理由のあるものであれば………侮辱ではない、とし、
やはり相手をけなすものである、と判断されれば、侮辱である、とします。なお、結果侮辱であるとされた場合は部間規則『他部員を貶めることなかれ』に違反しますので、原告の求刑通り廃部を言い渡すものとします。
では、先に発言をするのは……」
「被告側、香櫨園克美より申し上げる。」
魚崎の手が挙がるより遥かに先に、香櫨園の体が浮き上がった。議場内からおお……と声が挙がる。当初、野球観戦部に対する集団リンチを見たがっていた『観客』は、状況が転じた上は圧倒的劣勢からの大逆転というサクセスストーリーが見たいと考えているに違いなかった。そして、それを叶えてくれそうなのが香櫨園であることもまた、間違いなかったのだろう。
どよめきは、もはや喝采だった。
「我々の無実を主張するのは至極簡単な話だ。そもそも、最初に暴言を吐き散らかして来たのはあちらの方だからな。魚崎たちにはもう既に偽証罪が確定しているから、そんなことはもう気にしていられないで、とにかく我々を潰すためだけに腐心しているのだろうが。」
魚崎とはすこし離れて座る打出と姫島が、震え上がって恐怖に縮こまるのが見てとれた。彼女らは……特にほとんど何もしていない、純粋に純粋に腰巾着の打出などは完全に魚崎に振り回されたような形で、覚悟も矜持もなくただついて回っていたら大事に巻き込まれたというような体で、まぁ不安一杯だろう。劣勢になればあんなもんだろうとは思う。訳もわからず泣かされて、訴訟の原因にされた姫島にしろ、だ。
だが、魚崎は……卑怯で小癪ではあるが、あくまでひとつの目的に猛進しているという点においては、意思固く、たかが出席停止ごときでは怯まないとでもいうような、頑迷ではあるが確固とした覚悟を持ち合わせているとは言えた。ある種開き直りとも言えるだろうが、もはや迷いがない。
香櫨園の指摘の通り、野球観戦部を潰すことしか頭にない、と顔に書いてあるかのような、割りきった澄まし顔でずっとこちらを見ていた。窮鼠猫を噛む、という言葉がある。負け確定のチームの四番が自暴自棄でホームラン狙いの大振りばかりかましてくることもある。
出会い頭の一発がないように、気を付けたいところではあるが……
「正当防衛……とまでは言えずとも、やむを得ない反撃であったということを証明してやれば話は早い。さっき退廷した原告の腰巾着の連中の証言を吟味してやれば話は足りるんだ。自ずから結論は見えてくる。
だが、それでは西九条の名誉が回復されないのでな。あたしとしては、この子の主張が正当なものであったことを証明してやりたい。
それに……案外、この手の話は、この学校、その試合、あるいは野球に限った問題ではないのだよ。」
そう、そうだ、と俺は思った。
俺は個人的な見解として、西九条があのとき姫島と魚崎に言い放った一言一句は、共感できるし『正しい』物の見方であると思った。あえて断言しないのは、その時の彼女がそうであったように、あくまで個人的な意見であって、本質的には答えの出ないものだからである。
「運動部の人間ならわかるのではないか?あたしも元々高校球児だ。君らぐらいの歳、同じように体を動かし汗を流した者として、一度真剣に討論してみたいと思うのだよ。
観客が流す『涙』について。」
傍聴席から無数のため息が漏れた。部活の数だけでいえば、土井垣学園における運動部は全体の半分を占める。その中からどっと落胆とか共感とかに近いそれが漏れるということは、皆、一様に同じような経験をしたことがある、ということだ。
スタンド、観客席から観客が流す、涙。自分達の何かに感動して、気づかない間に勝手に流され、そして勝手に処理されているもの。
「一言で言えば、あたしは一種『感動ポルノ』に近いものだと思っている。いや、むしろ本来そうあるべきでないものが、個人の中でそう仕立てあげられているというのか………
高校野球にしろ、サッカーにしろ、バスケにしろ、その他のスポーツにしろだ。
本質的に、感動の安売りをするためにやっているものではないという話だ。わからない人も当然いるだろうが。その場かぎりの応援で涙を流されるというのは、あたしの感覚では冒涜だ。それまでの努力を軽んじてしか見れない、定価700円の感動買いだ。あたかも、それまでの努力を共にしたかのように、同じように感動を得ようとする、その行動に関してのな。
全て、既に西九条に言われているかもしれないが……」
香櫨園自身が言うように、それは球場での西九条の主張、ほぼそのままの内容だった。つまり、それだけ……プレイヤー側からすれば普遍か、あるいは軽くなって『あるある』な事象、感覚だということなのだろう。俺も同感、というのは前も思ったことだ。
香櫨園はつまるところ、その感覚が正しい物の見方のひとつである、ということを証明して、西九条の発言が侮辱でなく主張であるということを、あえて証明しようというのだ。
彼女の、野球観戦者としてのプライドを守るために。
「どうだね?魚崎。西九条を冷徹呼ばわりするくらいの君だ、それに反論できるだけの根拠くらい持ち合わせているのだろう?
それを話してみたまえ。自分の考えがあくまで正しいと思うのなら、証明して、陪審員を納得させて見せればいい。」
香櫨園は最後、魚崎をひと睨みしてから着席した。正直、彼女の見解に関して言えば、場の雰囲気は微妙だった。
共感する者は間違いなく存在する。俺自身がそうだったからわかるが、そういう類いの、その時だけ泣いてスッキリして帰る連中というのは……特に負け試合において腹立たしい。
あくまで学生スポーツにおいては『涙の権利』は存在すると考える。考え方はそれぞれだろうが、俺は、だいたい香櫨園の見解と同じようなものだ。それまでの苦労の一端も知らないものが、欠片の苦労もなく同じような感動を得ようというのは、どういう了見なのかと。
だがそれはあくまで、競技部でこその共通認識……という風に言えなくもない、ような気がする。当然、そういう場面に出くわさない部活も存在するわけで、そこに理解を求めるのもなかなかと難しい話であるのもわかる。野球観戦部などは本来、その類いの部活のひとつでもおかしくない。
大きな舞台で、衆目を集める機会自体がないからだ。
それはそうだな、という気持ちと、なぜそうなるのか、という疑問。議場はマーブル模様だった。これは、正常な反応だと思う。だからこそ、西九条は球場での一件で、頭ごなしに他人の野球観戦のしかたを批判するようなことはしなかったのだが……
「短期間で感動を得ることの何が悪いのか、わからないわぁ」
ゆら、と立ち上がった魚崎は、自信満々にそう言った。傍聴席へ向かって。一強ムードの崩れた部活代表たちへ向かって。
香櫨園の発言が、自分達にとって不利に作用する可能性は感じていたし、たぶん本人もわかっていただろう。安全策もあるにはあった。
だが、リスクを犯してでも、俺達は西九条の見解が『冷酷なもの』で片付けられる愚を回避しなければならなかったのだ。相手を打ち負かす必要はない。考え方の相違が認められれば、大勝利なのだ。
魚崎に共感する者が現れるのはむしろ……正常な反応だろう。
「あなたたちはぁ、あたかもそれが悪いことのようにいうけれどぉ。
世の中には、短期間で感動させるために作られるものだって沢山あるでしょう?
例えば映画なんてどうかしら?二時間弱で大概の人間が感動するけれど、撮影に挑んだ俳優の苦労も知らないくせに!なんて咎める人はどこにもいないわぁ。
人がその場限りで感動することに、不思議もなにもありはしないと思うのぉ。観衆に、他人の苦労を『深く』思いやる必要なんて……フフ、ありはしないのよ。
少なくとも、私たち重音部はぁ……あなたたちとは逆に、
短期間で感動を与えることが目標なのよ。」
「せやったら、もうちょっと真面目に練習してもええもんやけどな。」
小バカにするような物言いで、春日野道が言う。この場で誉められたような皮肉ではなかったが、だが彼女にはそれをいう権利があると俺は思った。彼女の持っていたTwo lucky&luckyというヘビメタバンドへの憧れを打ち砕いたのは、魚崎の不真面目であったと言えるからだ。
「ホンマから言うたら、あんたなんかに短期やろうと長期やろうと感動なんてもん、語ってもらいたないわ。
まこっちゃ……西九条ちゃんは、言うたわな。あんたらに。並の努力もでけんもんが、人の努力で泣くもんやない、って。
その通りやと思うわ。あんたらは自分等の手で感動を生み出せん。それを作り出そうとする気概がない。
せやさかい、もっともそうな理由つけて他人の努力食い散らかすのを……あたかも当然のように語っとる。」
「そんな重音部から逃げ出したあなたも大概だと思うわよぉ?そんな現状を自分で打ち破ろうともしなかったくせに。自分の選択がうまくいかなかったのを、私達のせいにしているだけではなくてぇ?」
「春日野道は道を誤ってなどいない。
魚崎、君らのところから離れた時点で大正解だ。自分を見失っていない証拠だよ。」
冷静ながら、微かに熱の籠った声で香櫨園が言う。春日野道を『逃げた』人間と呼ばわったのが腹立たしかったのだろう。俺もそうだし、西九条もたぶん、そう思ったはずだ。腰が椅子から少し浮いていた。
香櫨園は、人差し指をトン、と机に打ち付けた。
「いいかね?感動に定義がないのは確かな事だ。それを得るプロセスも、与える方法も、無数にある。受けとる側にも同様の事が言えるだろう。
だが、いかに無形のものと言えども、普遍の摂理はある。
それは努力かもしれないし、もっと漠然とした物言いなら……信念とか魂、ということになるのかもしれないが。何か芯のようなものが通っていなければ、そもそもそれを感じられる要素は生まれないということだ。」
「フフ……青臭い。その歳で浪花節を語るだなんて、恥ずかしくないのぉ?あなた」
「一向に?その若さでわかった風な口を利いている方がよほど恥ずかしいと思うが」
「…………。」
「春日野道が何を言いたいのかわかるかね?そもそも、芯の通らない、努力以前にまともなことをやってこなかった、信念に著しく欠如した君らに、感動の本質などわかるわけもない、ということだ。」
「まるで自分にはわかるとでも言うような物言いねぇ」
「わかるさ。君よりは遥かにな。
少なくとも、映画と高校野球を同一の視点で捉え、語るような的外れは、私なら絶対にしない。」
「感動に種類があるとでも言うのかしらぁ」
「それがないと思えるのだから、君の見解は的外れだと言っている。そして、理解できるはずもないのだと言った。得ようとしたことがない者には、わかるはずもない。」
香櫨園から完全に笑みが消えていた。ここからは、彼女自身が自らの信念を示す場面だった。
思いを同じくするところの西九条が、熱を帯びた視線を彼女へ送る。春日野道は背もたれから体を離して、グッと前に競りだした。議場の耳目は全て、香櫨園の一挙一動に集中する。これから彼女が語るであろう『感動の種類』に、その場に存在する興味という興味が集中するーーー
「いいかね?高校野球において生じる感動というのはーーー」
ーーーだが、その先を香櫨園の口が語ることはなかった。
寸前まで、抜き身の刀のような鋭い眼光を飛ばしてその存在感ごと魚崎に詰め寄るようにしていたのが、一瞬、ほんの一瞬、ほんの数ミリほど力を無くしてふわりと浮き上がったように感じたと思ったら、
まるで操り人形の糸が一気に全て切れてしまったかのように、
彼女は椅子に対して垂直に崩れ落ちた。
そして、体を支える全ての筋肉をなくしてしまったかのように、幼児に乱雑におもちゃ箱に押し込まれた人形のように、そのまま床に雪崩れて、倒れる。
1963年11月22日、アメリカ大統領ジョン・F・ケネディは、ダラスでパレード中に後方から狙撃を受け、暗殺された。その模様は生中継で全米にリアルタイムで配信されるというテレビ史上希に見る大放送事故を招いたが、
お茶の間でその様子を見守っていた人々は、彼が暗殺されたその瞬間を見て、全ての状況を把握することができただろうか?よほど人が死ぬのを見るのに慣れている人間か、暗殺屋でもなければ、少なくとも一瞬は何が起こったのかわからない空白の期間が生じたことだろう。
銃弾に吹っ飛ばされた大統領。半ば夢か何か、現実の出来事ではないように感じられたか、あるいはそもそもからして何か事が起きたことにすら、気づけなかったかもしれない。
………香櫨園が床へ倒れこんだ瞬間、となりにいた俺も、西九条も、春日野道も、そして傍聴席から固唾を飲んで彼女の言葉に耳を傾けていた聴衆達も、
あるいはその当時のアメリカ国民たちと同じような感覚を持ち合わせていたといえるだろう。
一秒前までその気迫たるや羅漢仁王の如し、くらいに思えていたのが、まるで蒸発するように視界から消えて、気づいたら床と一緒になっているのだから。
心配とか、焦燥とかじゃなくて、単純に頭が真っ白になった。目の前で起こった出来事はあまりにも突然すぎて、現実感に欠けていて。根本的に情報も少なかった。だから、卒倒したのが香櫨園だと気づくのにも時間がかかったし、その現実を頭が処理し始めたのもだいぶあとになってからだった。
傍聴席から悲鳴混じりのどよめきが起こるほんの一瞬前、俺は「香櫨園!?」と叫んで、崩れ落ちた彼女の元に、転げるように駆け寄った。間髪いれず、西九条と春日野道も同様に駆けつけてくる。彼女たち共々何かを叫んではいたが、何と言っていたのか判別するだけの余裕は俺にはなかった。
場が文字通りに騒然とし、状況の把握に苦しむなか、俺は彼女を抱き起こそうとした西九条に「触るな!」と一喝、呆然とする春日野道に「保険の先生呼んできてください!」と指示して、ひとまず呼吸音を確認する。
息はあった。それも比較的穏やかで落ち着いており、印象としては気持ちよく眠っているようにしか思えない。素人了見では緊急性があるようには感じられず、脈を取っても68回と平均値でしかない。
初めて見るくらい、不安一杯の表情で西九条が「大丈夫なの……!?」と聞いてきた。俺は答えに惑ったが、とりあえずもう一度呼気を確認した。気がつけば周囲には野球部主将の梅田や教師代表の高速神戸、その他大勢が集まってきていた。皆俺の見解を待ちわびているような様子で、
喉まで「ひとまず大丈夫そう」との言葉が出かかった。考えも及ばない重篤な病気の可能性がなくはなかったが、周囲をパニックに陥れるのは、現状であまりにも無意味だと思ったからだった。
が、すんでのところで俺はその言葉を飲み下す。彼女の容態を伺い知るために研ぎ澄ました五感のうち、ひとつ、嗅覚が、この場に本来あるべきでない臭いを……嗅ぎ取ったからだった。
一瞬のち、まさかとの思いから、自分の鼻を疑った。目を疑ったり耳を疑ったりすることはこれまでにもなくはなかったが、か鼻を疑ったのはこれが初めて。
だが、やはり嗅覚は正常だった。何度息を吸っても、同じ臭いが鼻に引っ掛かる。しかもそれは、香櫨園の呼気から漂ってきていると考えてほぼ間違いなかった。
最終確認、鼻を彼女の口許近くまで近づけて、その呼気を鼻孔に通す。当然顔と顔はくっつくほどの距離まで接近し、そのあまりの近さから、半径三メートルからは好奇と羞恥の入り交じった悲鳴とも歓声とも取れる声が上がる。完全になにかを勘違いした西九条は「で、出屋敷!あなたどさくさ紛れに何をやるつもりで………!?」と顔を真っ赤にして首根っこを掴んで引き剥がそうとしたが、
俺は「ちょっと黙ってろ!」と一喝、二度三度とそれを繰り返した。
そして、
しん、と静まり返った議場のなか、安らかに寝息を立てる香櫨園から顔を離し、立ち上がった俺はあることを確信する。
「…………。」
ざわ、と空気が一瞬揺れるなか、俺は誰彼構わずと障壁になる人間を押し退けて、香櫨園の座っていた席まで歩いた。
そして、そのテーブルの右上にまとめて固めておいてあった、チョコレートの包み紙………銀紙を手にとって、それを広げる。
眠る香櫨園を、今度こそ抱き抱えるようにした西九条は、
「何か解ったのね……?」
と、そう尋ねてきた。
俺はそのグシャグシャに丸まった銀紙に記されていたワードと、自分の仮説、そして香櫨園が残した事実を照らし合わせて、それがピッタリと当てはまっていくのを気味悪く感じ、そして腹の底を抉るような怒りを覚えながら、逆に彼女にこう問い返す。
「香櫨園先生は……俺らの事を第一に考えてくれる人、だよな」
西九条は、一瞬自分が何を問われているのかはかりかねたかのようにキョトンとしたが、次第それは怒りに近い感情を含んだ表情を生み出し、
「この期に及んで何を言うの?この数十分を思い返せば、問うまでもないことでしょう?」
と、激情そのままに俺を怒鳴り付けた。
確かに今さら確認の必要のないような、それは疑問を持つことそれ自体が罪になりそうなほど純然たる事実であったが、
それを確認することで、仮説は確たる証拠を得て結論へと変化していく。
俺は、陪審員席中央部を睨み付けた。生徒会代表席に座る大石は、なぜ自分が睨まれるのかわからないとばかり大きくたじろいだが、そんなことはどうでもよかった。そもそもからして、睨んだ相手は彼ではなかったのだ。
視線は、その後ろ。
議事録を纏める書記席、そこに座るメガネの女生徒会役員をのみ、捉えていた。
「………先生の口からはアルコールの匂いがする。微かにだ。
だが、この人は俺達野球観戦部の運命を決めるような大事な大一番で、酒を飲むような人じゃない。」
「アルコール………」
ハッとした西九条が、さっきの俺と同じように顔に鼻を近づけて臭いを嗅ぐ。スカー、と夏の空っ風のように爽快な寝息を顔に受けた彼女は、無言でそのまま香櫨園をゆっくり床へと下ろした。
彼女は限りなく丁寧に頭を接地させたが、最後コツンと後頭部が衝突した。と、次の瞬間、香櫨園は目を覚ました。「おぅ……?」と弱々しい声をあげて、赤くなった目元を擦る。
そして、ゆっくりと周囲を見渡すと、さっきまでの凛々しさがまるで嘘であるかのようににへらにへらと笑って、
最後西九条に向かってこんなことを言った。
「おおぉ……に、西九条ではないかぁ!へへ、君はいつでも美人……」
へっ、と吐き出すような笑いを最後に残して、再び彼女は快眠の途についた。全てを悟った西九条は、息を飲んだように西九条は硬直する。そして、深呼吸にもならない、浅い空気の入れ換えをして……それから、こんなことを言った。
「………酔ってるわ。」
そう、酔っている。アルコール度数5%のビールを90mlも飲めば泥酔する彼女のこと、何らかの形でアルコールを摂取したのだとしたら、卒倒するような酷い酔いかただってそう難しくはない。呼気にアルコール、心地よさそうな睡眠、そしてほんのり赤くなった顔。状況的に考えて、まず間違いなさそうだった。
では、どこから?彼女はどこからアルコールを摂取したのか。人間的な信用から、法廷前に喫飲したというのはありえない。第一、それほど前に飲んでいたのだとしたら一時間と半分も弁舌をふるい続けるのは、彼女にはまず不可能だったことだろう。とすれば………残る可能性はおおよそひとつしかなかった。
「でも、どうして……?」
困惑を隠すことなく西九条が呟く。
その答えを示すために、俺は広げた銀紙を手に取って、そして、それを無言のまま彼女に差し出した。
「チョコレート……?」
彼女は訝しげにそれを受け取った。そして、そこに書いてある英文…を読み上げたとき、はっとして顔をあげた。
「まさか………」
俺は頷く。彼女がことの次第を全て把握したことを悟ったからだった。
酔った香櫨園より顔を真っ赤にした西九条は何かに弾かれるように立ち上がり、そのままの勢いでもって………生徒会女役員、さっきお菓子の補充に来たメガネ女子のところへ駆けていって、その机を叩きつけた。俺もそれに続いていって詰め寄る。
彼女は、それがさっきと同じ、ともすれば香櫨園に恋してしまったのではないかと感じさせられた初々しさ、おどおどした感じが嘘であったかのように、冷たく色を失い、座った目でこちらを見上げてきた。
そして、身も凍るような冷たさで「何か?」と訊いてくる。おおよそ、さっきの彼女と今の彼女はまるで別人のようだった。
それで俺の疑念は確信に変わる。西九条はたまらず叫んだ。
「ウイスキーボンボンと書いてあるけれど?!
なぜこんなモノを………!!」
ウイスキーボンボン。度数4~3度の洋酒を砂糖殻で包み、チョコレートでコーティングしたもの。
見た目は普通のキャンディチョコに相違無いが、パッケージにはアルコール度数の表示があり、れっきとしたアルコール入り菓子となっている。本来、二三粒を食べた程度で酔うほどの強さを持つものではない、が、相手は対アルコール最弱の香櫨園である。度数もほぼ同じ5%のビールをわずか一口飲んだ程度で泥酔してしまう彼女のこと、わずか一粒二粒とはいえ、ウイスキーを直接経口したとあってはああなってしまうのも無理はない。
問題は、それが偶然なのか、何者かによる故意で仕組まれたものなのか、ということだった。状況は、かなりの確実性をもって後者に傾いていると言えた。どう考えても、この酒入りの洋菓子を運んできたのは、憮然として目の前に座る女役員だからだった。
「菓子詰め合わせセットの中に入っていたからです。それが何か?」
まるで自分は小指ほどの関与もしていない、とでも言いたげに、堂々とそんな言葉を返す女役員。だが、その過ぎたるまでの落ち着きは、逆に彼女が確信犯であることを印象づける。そもそも、議場のあらゆる発言に耳を傾けているはずの議事録、書記係が、これだけの騒動が起こっているのに、議論が停止しているのに、成すこともなく机に向かい続けていること自体がそもそもおかしな話だ。
「しらばっくれる気なの………!」
激昂に表情を大きく歪めた西九条。口から火が出るか、拳が飛び出すか。爆発寸前の彼女を抑えるのも兼ねて、俺はさらにグッと詰め寄った。
「言え、誰に頼まれた?」
ーーー彼女には確実に悪意が存在する。
憶測と書いて確信と読むような、ほぼ100%真に近い蓋然性を胸に、俺は極めて高圧的にそう問うた。今起こっている事全ての元凶たる『その先の人物』にまで目星をつけて。
「誰に頼まれた、って?そんなの決まってるじゃないですか。魚崎会長ですよ。開廷中のお菓子の補充は生徒会の仕事ですから」
「そんな建前が聞きたいんじゃないの。あなた、香櫨園先生がああなるのを知っていて………!!」
「聞くに耐えない言いがかりはやめてもらえるかしらぁ?」
遠く原告席から、愉悦隠しきれず高揚抑えきれずといったような、高笑いとイコールで結べそうな声が響き渡る。自分以外の全てを見下したような嘲笑でこちらを見ていたのは、生徒会長魚崎その人だった。
「言いがかりですって……?!」と間髪いれずに食ってかかる西九条。だが魚崎の顔は余裕の色で塗り潰されていた。入廷時の、負けを知らないと言っているかのような圧倒的な愉悦が、戻ってきているのは明白に過ぎた。
「ウイスキーボンボンはぁ、子供でも喫食が許可されている、れっきとしたチョコレート菓子よぉ。度数4パーセント、普通の感覚ならそれで人が倒れるまで酔うなんて、想像もつかないわぁ。
私達生徒会が、このお菓子を用意したのはぁ、単純に経費削減が目的よぉ。貰い物の有効活用、何か不思議があるかしらぁ?」
詭弁、と顔にかいてあるかのような。だが、反論できる要素もなかった。もしこの場が魚崎と自分達の一対一の状況下にあるなら、言いたいことがそのまま言えたかもしれないが、今は衆人監視の下にある。あくまで相手がもっともな事を言っている以上、根拠なく下手にそれを否定するような事はできない。
「第一、香櫨園先生がお酒に弱いと、どうやって私達が気づけると言うのかしらぁ?居酒屋に一緒に行ったとでもぉ?あり得ない話ねぇ、高校生と一緒にお酒を飲むだなんて………
それよりぃ、逆に聞きたいのだけれどぉ?あなたたちは、何故彼女がお酒に弱いことを知っていたのかしらぁ?」
正直、しまった、と思った。これは魚崎の逆王手だった。
魚崎が、香櫨園の下戸を知ることのできる場面はあった。彼女は甲子園での春日野道との一件のとき、西九条のヤジ飛ばしをして「あなたが席を離れて何をしているかを知っている」と言っていた。それはつまり、俺と春日野道が野球観戦部に入る前………西九条と香櫨園が二人で甲子園に行っていた頃にも彼女たちの様子を幾度か見ているということで。ゆえに、観戦の記憶すら失うほど酔った香櫨園の姿を認める機会は確実にあったということになる。
だが、それを証明することは、彼女が部活動の引率者としての役目を負うなかで、酒を喫飲していたことの証明にもなる。それは、少なくとも良くないことであるのは確かだ。未成年者が飲んでいなければ別に構わない……というのはこちらの都合のいい解釈で、あくまで社会道義的には指導者たる立場の人間は、生徒に対してその興味を掻き立てるような行動をするべきでないのは事実。
まして俺達がそれを……香櫨園の甲子園での喫飲を認めるということは、彼女と酒の席を共にしたという事実をも認めることになる。それは、もし今後野球観戦部が活動を継続する事が出来たとして、プロ野球観戦を部活動として行うことに関して大きな妨げとなるのは間違いない。むしろ、問題として取り沙汰されるようなことがあれば、前後不覚になるまで泥酔した事実を持つ香櫨園は、そのクビまで怪しくなる可能性がある。
俺達は、振り上げた刀を下ろす相手を失った。それ以上何かを言うことは、この状況下で自分達に不利しかもたらさないことは明白で、その程度のことも理解できないほど、西九条も俺も鈍くはなかった。
「ふふ……まぁーったく、あなた方には不運な話ねぇ。せっかく香櫨園先生のお陰で押せ押せムードだったのに、気勢を削がれてしまってぇ。
一応、謝っておこうかしらぁ?紛らわしいモノを用意してしまって、ごめんなさいねぇ。」
今日一番の作り笑顔を、腹がよじれるくらい不快な笑みを俺達に向けて、魚崎は手をヒラヒラと振ってこの場を去るよう促してくる。
この平和な日本に生まれて、殺意などというものが生じることなど、十数年生きていて一度も無くてもおかしくないものだが、
記憶にあるなかでの初めてがまさかこの場で沸き上がるとは思ってもみなかった。隣の西九条も、ともすればこちらの肌が逆立つほどの殺気を放って魚崎を睨み付けたが、
最終的には俺達はそのまま引き下がるしかなかった。生徒会としての主張をひっくり返すだけの説得力を持つ主張も、魚崎のごたくを打ち消すだけの証拠も、今は持ち合わせていなかったし、
これ以上深くそれを追求することは……自分達の墓穴を掘る結果にしかならないと、そういう予測は安易に立てることができた。
間もなく保健室から養護教諭を連れて、春日野道が戻ってくる。ひとしきり簡易的な検査を施された香櫨園は、やはり酒酔いだと診断されて、そのまま保健室へ連れていかれた。春日野道が再び付き添い人として同行しようとしたところ、野球部の梅田が「俺がやるから」と申し出てくれて、彼におんぶされる形で生徒会議室から香櫨園克美の姿は消えていく。
野球観戦部の押せ押せムードだった議場は、それを打ち消してしまうほど、あまりにもインパクトの強い出来事が起こってしまったせいで一度リセットされてしまった。
魚崎の指摘に何一つまともな反論ができなかったことも……結果的にはそれを助けることになってしまった。余計な疑いをかけて、それを証明できなかったと場は認識し、つまり軽い冤罪疑惑すら俺達は被ることになってしまったのである。
場がひとしきり落ち着きを取り戻すまでにはかなりの時間を要した。時計の針は午後八時半を回り、法廷が継続されるギリギリの時間、午後九時半まで残り一時間ということに。
香櫨園不在でも、即日結審を原則とする部活法廷は、継続されざるを得なかった。彼女の復帰はあまりにも絶望的だったし、それを待つだけの余裕も存在しはしなかった。
再開にあたって、教師代表の高速神戸から提案がなされる。残り一時間というリミットを鑑みて、残り二つとなった議題に割く時間を、それぞれ30分ずつとするというもので、ゆえにその前半たる二つ目の議題の互いの主張の時間に各15分の目安を持たせること。
つまり制限時間の設定というものだった。これには異論を挟む余地がなく。全会一致でそれは承認され、以降そのルールで審議は続けられる事となった。
香櫨園の抜けた穴は大きい。彼女に対しての期待こそが、傍聴席から俺達を後押しする見えない力になっていたのに、それがなくなってしまった今、無風状態となった議場に雰囲気による有利不利は無くなってしまっていた。
加えて、香櫨園は発言の途中に倒れたがゆえに、議事録はそこで当然止まっており。
議論の再開は、その続きを野球観戦部が語るところから始まることになった。つまり、いなくなった香櫨園の言葉を引き継ぐ形で主張を開始しなければならなくなったということだ。
いかに気持ちが通じあった相手でも、その頭の中身までもが通じあうというのは、べらぼうに難しいこと。彼女には彼女なりの組み立てがあったはずで、それを完璧に継承することは不可能に近く、それに近いこともかなり難しく。
大黒柱を失った俺達野球観戦部は、これ以上ない窮地に立たされていた。勝利目前だった状況は一転、魚崎の謀略で五分まで巻き戻されてしまったのだった。
「………私が、行くわ。」
ことの顛末を伝えられた春日野道が憤然とし、しかし状況の不利を悟り一転青ざめ不安を隠しきれなくなるなか、西九条は覚悟を決したようにそう、力強く呟いた。
「香櫨園先生は……私の思うところ、ほとんど全部を理解していてくれた。私の心と先生の口が繋がっている気がするくらい。
………だから、やれるわ。
あの人の言葉を繋げるのは、私しかいないと思う。負けるわけにはいかないもの。
そんなことになったら、あの人は……」
西九条が言いたいことは痛いほどわかった。俺たちがそう思わなくとも、この状況を生み出したことを香櫨園は、自分の間抜けだと思うことだろう。ここまで自分達の為に尽くしてくれた先生に、そんな責任を感じさせる訳にはいかない。だから、負けるわけにはいかない。そういうのだ。
俺と春日野道は、確りと頷いて、気持ちを同じくするところを示した。もとより彼女以外にその適役はいない、などというのはあまりにも無責任にすぎる言葉だが、だがそれは得てして純然たる事実でもあり。いささか心苦しいが、それでも送り出すこと以外に俺に選択肢はなかった。
ざわつく議場が、野球観戦部への同情を失い始めるなか、西九条はすっくと立ち上がり、静かにテーブルに手をついて体を前のめらせる。
それは、香櫨園が倒れる直前にまで取っていた体勢そのものだった。何もかもを受け継ぐ覚悟を全面に押し出し、西九条真訪は口を開く。自分達を救ってくれようとした唯一無二の顧問と、自らが作り上げた『居場所』に対する想いを胸にして。
「ーーー高校野球において生じる感動というのは。」
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