第7話

「なんかごめんね」


 私がトラックにおいてある自分のスパイクを拾った時、二人きりになったタイミングで『第一走者』が言った。


「……え、なにが?」


「突然だったじゃん。大丈夫? 走れる?」


「うん、まあ」


 部活後もなんとなく落ち着かなくて時々走っていたし問題ないとは思う。

 と、ユニフォームを彼女から受け取る。


 前を見ると、その表情は笑っていった。

 口が開く。


「じゃあ」


「……?」


「じゃあ今度は転ばないといいね!」


「…………」


 ……いや、多分悪気はないんだろうけどさ。むしろ悪いのは私なんだけどさ。

 あまりに天真爛漫なその表情に、きっと悪意はないことはわかっているつもりなのだけれど、それでも何か心の中に黒いうずきのようなものを出だしてしまうのは、はてさて。

 私の心が人よりも狭いからなのだろうか。

 

 そんな自己嫌悪に軽く陥りつつ、私は軽くため息をついた。


「——私さ、後悔してないよ」


「……え」


 突然、声色を青に変えて、彼女は囁いた。

 その表情は変わらず笑顔で、自分のスパイクの紐を結んでいる。


「私、あなたと大会出れて、後悔なんてしてない。一回もしてない」


「…………」


 突然の発言に私の理解が一瞬遅れるも、彼女はそのまま構わず続ける。


「確かに、あなたが転んだ時は本当に悔しかったし、私も泣いたけど。……でもあなたと大会に出れなかった方が私は嫌だった」


「…………」


 私はなにも言い返せない。黙ったまま、彼女をじっと見るだけだった。


「だから……あなたにはそこまで後悔して欲しくない。――私がいなかった方が、なんて二度と思わないでほしい。私が楽しかったと思っていた記憶を、書き換えないでほしいな」


 それだけ言って彼女は自分の持ち場、つまりスタートポジションに向かって行った。



*****



「あのミスを私は許さないし、一生覚えてる」

 

 着替えの途中。二人きりのタイミングで『第二走者』は呟いた。


「みんなが積み上げてきた練習、記録。それを全部壊した」


「…………」


「他の誰がなにを言ったのかは知らないけれど、私はあんたを全く許す気は無い」


「うん……それは本当に」


「——でも、おんなじくらい私はあんたを尊敬してもいる」


「……え?」


 彼女はいつの間にか私の方をまっすぐ見ていたようで、私が視線を上げると、その目がぶつかった。


「あなたが誰よりも朝早く来ていたのを知ってる。あなたが誰よりも仲間を思ってたのを知ってる。あなたが誰よりも毎日頑張ってたのを知ってる。あなたが誰よりも……泣いているのを知ってる」


「…………」


「私は優しくないし、みんなみたいに甘くもないから……絶対に忘れてやらない。あんたが積み重ねて来た努力の成果を、その結果を……私は絶対に忘れてやらない」


「…………」


「また何回でも言ってやる。十年後も二十年後も、死ぬ前だって言ってやる。絶対に許さないって言ってやる」


「……うん」


「ふん。わかったならいい。まあ、せいぜい覚悟しておくんだな!」


 そう言って、彼女は部室から出て行った。



*****



「私から、あんたにいうことは特にないかな」


 その声は、トラックへと向かう私に、後ろから声をかける『第四走者』だった。


「まあ、私が口下手だってのもあるんだけどさ。本当にない。全然ない。これっぽちもない。びっくりするぐらいない」


「……いや」


 ないならないで全然いいんだけど……

 私がなんだか困ったような顔を向けると彼女はそれを言葉の催促だと取ったようだった。


「うっ……わかったよ、言うよ。頑張ってひねり出せばいいんだろ。……えーとだな、まあ、強いて上げるなら感謝、かな?」

「……感謝?」


「うん。そう、感謝」


 そう反芻して、自分の言葉を確かめるように私の肩をポンと叩く。


「本当にありがとう、あなたが副部長でよかったありがとう。私と一緒に走ってくれてありがとう、私を支えてくれてありがとう。私と過ごしてくれてありがとう、私と出会ってくれて……本当にありがとう」


 そういうと『第四走者』……いや、『部長』は、アンカーの走行位置に戻って言った。




「あら、さっきとは全然顔付きじゃない?」


「うん、まあね」


 私はスタートの前、『本来の第三走者』と話をしていた。


「この短時間でなにかあったのかな」


「……うるさい」


「おっと、この状況を作ってくれた人間に感謝の一言もないの?」


「…………知ってる」


 そう。全て知っている。

 学校で彼女らを私と会わせなかったのも、この日の演出のため。

 口下手な部長のためにこの場所を用意し、お互いのわだかまりを一気に解消するこの状況。こんなものを作れるやつなど、そうそういない。


 あの時私を退学から救ってくれた

 私を陸上部へねじ込んでくれた

 陸上部の頭脳として君臨していた

 『本来の第三走者』じゃなければここまでの準備はできなかっただろう。


「……足、大丈夫なの?」


「うーん、多分ダメかな。もう走れないと思う」


「そっか……」


「うん」


 暗そうな顔は見せない。おそらく私以上に苦しい気持ちを抱え、私以上に涙を流したに違いないのに。


 ——それでも彼女は前を向いて歩き出している。後ろを振り返ることなく足を前に進めている。


 すごい。

 この子は本当にすごい。

 そんな風に私は何度思ったことだろう。


「ねえ」


「……ん?」


 彼女が後ろから突然、私の右肩に自分の頭を乗せてくる。そして耳元で囁いた。


「あなたが私の代わりでよかった」


「…………」


「あの時、あの教室であなたを誘って本当に良かった」


「……うん」


「頑張って」


「……うん、ありがとう」


 私は彼女の言葉を受け


 初めて『第三走者』になった。



 私は前を向いた。

 そして大きく深呼吸。

 足を大きく開いて前屈をし、そのまま前後に体重移動。

 アキレス腱を伸ばす体勢を取りながら同時に腕周りのストレッチ。

 最後に首回りをぐるりと一周まわして、また、前を向く。


 いつものルーティーン。

 何年とやってきた準備体操。

 それでも、今回はどんな時のそれよりも入念に時間をかけた。


 後ろを見る。

 『第一走者』と『本来の第二走者』がなにやらケータイを見て話している。

 どうやら時間までもう少しらしい。

 私は——空を見上げた。

 眩しいぐらいに輝いている。

 雲ひとつない青い空を見上げた。



 こんなにも色々な人が背中を押してくれている。

 こんなにも私の味方がいる。

 その事実だけで、私はどこまでも速くなれる気がしていた。


「あと十秒ーー!」


 『本来の第三走者』がケータイを見て全員に伝える。

 

 否応にも緊張感が高まって足が震えてくる。

 喉がカラカラに乾いて死にそうだ。

 スパイクの刺さりも悪い気がする。

 でもそんなの関係ない。全くもって関係ない。議論する余地も考えるまでもない。


 ——だって『私たち』は、


 ——今、


「後五秒っーー!」


 ——間違いなく


「三、二、いちっ!」

 

 世界で一番——速いんだから。

 

 ——パンッ!


 そして、

 私の青春最後の、スタート合図がグラウンドに響いた。

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第三走者 西井ゆん @shun13146

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