わたしがこれから出会う鳥

戸松秋茄子

わたしがこれから出会う鳥

「じゃあ、埼玉に引っ越すの?」若い子連れの女性が尋ねた。


「はい」チカは少しためらってから正直に答えた。「学校は三学期からなんですけど……」


「そう」女性は何かに納得したように深く頷いた。「しばらくはバタバタするものね」


 東海道新幹線上り列車の自由席。チカは、新大阪駅からずっと三人掛けの窓際の席に座っていた。横に座っていた老婦人は米原駅で降り、その後はずっと空席だったが、名古屋駅で五歳くらいの男の子と若い母親が乗り込んで来た。


「お姉ちゃん、トラツグミ」男の子が、新書サイズの鳥類図鑑から顔を上げて言った。


「ミ、ミか。ミートソース」


「スズメ」


「メジロ」


 チカが答えると、男の子は不満そうな顔を作った。


「それ、僕が言いたかったのに」


 言われてからはっと気づく。鳥の名前はこの子の領分だ。


「ごめん。そうだよね。じゃあ、いまのなしね。ええっと……」


「いいよ。鳥の名前ならまだまだいっぱいあるから。えっと……」そう言いながら図鑑をめくる。「……ロシア」


「鳥じゃないの?」


「ロはロウバシガンしかなかった」


「わかった。あ、ね。えっと、ア……」アイガモと言いかけて口ごもる。「アウストラロピテクス」


「何それ」男の子の理知的な目がきらりと光った。「ない言葉は使っちゃダメなんだよ」


「ちゃんとある言葉よ」


 母親が横から言った。


「そうなの? えっと、なんだっけもう一回言って」


「アウストラロピテクス」


「どういう意味なの?」


「お猿さんの一種かな」


「ふうん。ス……ズグロカモメ」


「眼鏡」


 チカはなるべく平易な言葉で応戦した。


   ※※※ ※※※


 数十分前――


「間もなく名古屋、名古屋」


 車内放送で目が覚めた。ふと、隣の席を見るが誰もいない。


 夢だったんだ。


 短い夢だった。チカの隣に、自分とそう変わらない年の少女が座っていた。三重で親戚の法事に参列しこれから埼玉に帰るところだという。少女はそれらの事情を一方的にぺらぺらと喋って聞かせた。それも文庫本のページに目線を落としたまま、まるで独り言のように訥々と。チカは、自分が席を立ってもああやって喋り続けるんじゃないかと思った。


 ――埼玉ってどんなところですか。


 チカが訊くと、少女はやはり文庫本に目を落としたまま答えた。


 ――何もないねえ。海もないし。これと言った名物もないし。西武ドームは交通の便が悪いし。県の鳥のシラコバトすらそうそうお目にかかれないし。


 ――ない、ないって言ったって何かしらあるでしょう?


 少女はそれには答えず、


 ――希望っていうのは、マッチ売りの少女が見た幻のようなものだと思わないかい?


 ――どういうことですか?


 ――夢を見るだけ、目を覚ましたとき自分の現状が惨めに思えるってこと。


 少女はいったん言葉を区切り、そこではじめてチカの方を向いた。不健康なまでに白い肌は幽霊を、眠たげな双眸は人生に倦んだ老描を思わせた。


 ――だからね、変に希望を持たせたってしょうがないだろ?


 少女が薄い唇を歪ませてにっと笑った瞬間、車内放送のアナウンスがチカの夢に割り込んできた。


 新幹線の速度が落ちるのを感じながら、チカは軽く伸びをし、あくびを漏らした。


 昨日はあまり眠れなかった。


 大阪の家で過ごす最後の夜。部屋にはもうベッドと家具以外のものはほとんど残っていなかった。例外があるとすれば、壁にかけっぱなしになった高校の制服くらいのものだ。寝つけずにいると、ふとこの制服はどうなるのだろうという疑問を覚えた。自分はもう着る機会がないダブルのブレザー。有名なデザイナーの手になる人気の制服だが、けっきょく一年と使わずにお払い箱だ。


 その他の私物、新しい学校の制服はすでに埼玉の家に送ってある。市川のおばさんの家に。母の知人というが、どういう関係かは知らない。チカはただ身の回りのものが詰まった鞄だけを持っていけばよかった。


 チカは新幹線の座席でその鞄をぎゅっと抱きしめた。高校の通学に使っていたベージュのリュック。いまや自分の味方はこれだけだ。鞄ひとつで見知らぬ土地に乗り込んでいく。向こうの家族、学校の教師、同級生にしたって、味方になってくれるとはかぎらない。何も期待はしない。夢の中で少女も言ってたではないか。夢を見るだけ、自分の現状が惨めに思える。


 名古屋駅に到着すると、車内は乗り降りする客たちがあわただしく動き回りはじめた。面長の男の子が一人、通路からこちらを覗き込んできたと思ったら、そのままチカの隣に腰を下ろした。


「お母さん、こっち。二席空いてる」


 次いで、若い母親が現れた。黒髪をアップにして、赤いフレームの眼鏡をかけていた。理知的なまなざし。スーツでも着ていれば、バリバリのキャリアウーマンにでも見えたことだろう。しかし、丸首のニットにジーンズ、そして子供の手を引く姿がむしろ「教育ママ」という言葉を想起させた。


「隣、いいですか」


「はい」


 母親は鞄を荷物棚の上に載せてから、通路側の席に座った。チカと母親に挟まれる格好になった男の子は、新書サイズの鳥の図鑑をめくっていた。夢中になっているときの癖らしく、ときたま足をばたつかせては母親に注意されていた。


 チカはその姿に生き別れの弟を重ねる。虫が好きな子供だった。幼稚園の頃から、カブトムシやクワガタ、それに近所で捕まえてきたスズムシ等を飼っていた。子供部屋の箪笥の上は虫かごの指定席だった。チカも弟に付き合っていくつかの虫の名前を覚えた。ヘラクレスオオカブトのようないかにも男の子が好みそうな虫をはじめとして、南国の美しい蝶や身近で目にする虫の名前とその習性を知った。


 ――お姉ちゃん、知ってる? この時期はウスベニシロチョウっていうのが飛んでるんだよ。


 ――ウスベニシロチョウ?


 ――うん。モンシロチョウの仲間なんだけどね、薄い紅色の模様があるんだ。紅白って言ったらめでたいでしょ。だからこの蝶を見た人間は幸せになる言われてるんだ。


 ――それ、ホント?


 ――ホントホント。ただ、珍しい蝶だからそんな簡単には見つからないけどね。菜の花の蜜が好きらしいから、探してみたら?


 チカは終日、近所の花壇や公園に咲いた花を見て回った。もちろん、そんな蝶は見つからなかった。家に着いたときにはとうに門限が過ぎており、母親に叱られた。チカが「幸福の蝶を探していた」と頓狂な言い訳をすると、くだらない嘘をつくなとまたひとつ余計に怒られた。チカは涙ぐみながら子供部屋のドアを開け、虫の世話をしていた弟に言った。


 ――なんで嘘つくの。


 弟は膨れっ面のチカを見ると我慢の限界とばかりに噴き出し、やがて笑いが収まってから言った。


 ――お姉ちゃん、今日、四月一日。


 チカはそのときの弟の表情を忘れない。してやったりという笑み。乳歯が抜けたばかりで、前歯が一本欠けていた。両親が離婚するずっと前の話だ。


 コートの袖を引っ張られて、チカはわれに返った。


「お姉ちゃん。そろそろ富士山が見えるよ」


 隣の男の子だ。


「こっちからも見えるの?」


 チカたちが座っているのは、進行方向に向かって右側の座席だった。窓の向きは南側。見えるのは海側の景色ばかりだ。


「静岡駅の手前で一分だけ見えるポイントがあるらしいんです」母親が言った。 「鉄橋の手前で線路がカーブするところなんですけどね。それも天気がいい日に限るそうですけど」


「知りませんでした」


「お姉ちゃん、そっち行ってもいい?」


「え、うん」


 チカは反射的に応答した。自分でも悪い癖だと思う。頼まれれば嫌とは言えない。考えるより先に首が縦に動いている。気がつけばみんなの荷物を抱えて突っ立っている自分がいる。なんであんな安請け合いしちゃったんだろ。そう後悔する自分が。


 男の子がチカの膝の上に座った。「行く」ってそういうことなの。チカは困惑する。ああ、これも重い荷物だぞ。あれ、こういうときって手はどこに置けばいいんだろう。まさか男の子を抱くようにするわけにもいかないし……


 逡巡の結果、チカはやや不自然な格好で腕を左右に垂らした。


 男の子の匂いがチカの鼻腔をくすぐる。石鹸とシャンプーが混ざった甘い匂い。冬ということもあって、汗の匂いはしなかった。同級生の男子から漂うような男臭さもない。子供の匂いだ。弟も幼い頃はこんな匂いがしてたっけ。


 チカと男の子はしばらくの間、窓の外に眼を凝らしていた。空は曇っている。これはたぶん見えないだろうなとチカは思った。きっと、この重たそうな空気が分厚いカーテンのように富士山の姿を覆い隠してしまうだろうと。


 期待なんてしていなかった。どうせ無駄に終わるのだから早く終わればいい。そう思った。男の子は意外と重いし、腕も楽にしたい。そのはずなのに、なぜだろう。窓外に目線をやらずにはいられない。まるで、幻だとわかっているのに、マッチをすらずにはいられなかったあの哀れな少女のようだ。


 やがて、車両が鉄橋に差し掛かると男の子はがっかりしたようにしてチカの膝を降り、隣の座席に戻った。チカはほっとして、両腕を膝の上に戻した。まだ、男の子の重みが残っている。その感覚がどこか名残惜しく思えるのが自分でも不思議だった。


 チカははさりげなく隣を見やる。男の子は再び鳥の図鑑を開いていた。そして、チカの目線に気づいたようにして言う。


「ねえ、お姉ちゃん。しりとりしよう」


   ※※※ ※※※


「コゲラ」


「ランドセル」


「ルリビタキ」


「着物」


「ノスリ」


「リンボーダンス」


「スグロミゾゴイ」


「居候」


「ウズラ」


「ラー油」


「ユ……」男の子は言葉に詰まった。図鑑の索引をじっと見つめ、眉をひそめていた。


 そろそろ手詰まりかな。そう思ったところで、返答があった。


「ユキウタドリ」


 男の子の調子はさっきまでの意気揚々とした感じからは程遠い。まるで学校の先生に遅刻の言い訳でもするような顔だ。


「いないものの名前を使っちゃだめでしょ」


 横から母親が言った。


「嘘じゃないよ。いるもん。ユキウタドリ」


 母親が図鑑の索引を覗き込みながら言う。「この図鑑には載ってないみたいだけど?」


「新種なの!」


「静かになさい」


「ごめんなさい。でも、いるもん。ユキウタドリ。この前、テレビでやってたんだから」


 チカは男の子に助け舟を出した。「どんな鳥なの?」


「ツグミの仲間で……」男の子は一瞬口ごもったが、すぐに調子を取り戻した。「ちょうどこの時期になると冬を越すためにシベリアから日本に渡ってくるんだ。すっごくきれいな声で鳴くんだよ。キューキュルルルって。だから、ウタドリって言われてるんだ」


 男の子の目は輝いていた。この子は本当に鳥が好きなんだ。ぽっと火が灯るようにして、チカの胸に暖かいものがじわと広がっていく。


「ユキっていうのは?」


 チカは訊いた。もうちょっとだけ、この罪のない嘘に耳を傾けていたかった。


「羽の色が真っ白なの。オスは繁殖の時期にちょっと派手な色に生え変わるけど、メスはもうホント真っ白。それが雪みたいだったからその名前がついたんだ」


 男の子は、その鳥の特徴をすらすらと並べ立てた。体長はおよそ三〇センチ。ツグミの仲間らしく、羽をたらして立つこと。地面を飛び跳ねるようにして移動すること。市街地にもたまに姿を現すが、本格的に探すなら双眼鏡を持って自然公園等に赴くのがよいということ。母親もあっけにとられているようだ。話す間、男の子はずっと足をばたつかせていたがそれを注意するそぶりさえ見せなかった。


「ねえ、そのユキウタドリってどこにいるの」


 チカは訊いた。


「えっと……最近は街中にも進出してるらしいよ。東京とか……あとは埼玉も」


「埼玉にもいるんだ」


「そうだよ。お姉ちゃんも見られるといいね」


 チカは東京駅で親子と別れた後、京浜東北線のホームを目指した。東京駅の構内は広大だった。地元の大ターミナルに慣れたチカでも、面食らわずにはいられなかった。


 券売機はすぐに見つかったが、大宮までの料金を調べるのに手間取り、後ろの客に何度も順番を譲った。改札をくぐると、奥まった場所にある京浜東北線のホームを目指す。本当にこれで合っているのだろうか。不安に思いながら人の流れを掻き分け進む。まるで海の真ん中を、何の当てもなく泳いでいるようだった。三番ホームの案内板を見つけたときは、安堵で力が抜け、リュックが肩からずり落ちそうになった。ホームに上がると、まさにいま電車が発進するところでチカはあわてて乗り込んだ。空いている座席を見つけると、鞄を抱えて腰を下ろした。


 ユキウタドリか。


 男の子のささやかな嘘がチカの心を少しだけ軽くしていた。新しい環境への不安はある。でも、きっと悪いことばかりじゃない。そう思った。何も自分からマッチの火を消す必要はない。せめて、火が消えるまでは甘い幻に胸を躍らせていよう。そう思うことを自分に許した。


 電車に揺られていると再び眠気が襲ってきた。瞼の裏に、雪のように真っ白な鳥を想起する。眠りに落ちる瞬間、チカは美しい鳥の囀りを聞いたような気がした。

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