第58話 エピローグ

「おじいちゃん!」


 ランドセルを背負った少年が、廊下を滑り込んできた。


「ああ、蓮か……お帰り」


「どうしたの? 泣いてるの?」


「大丈夫だよ。ちょっとね……お手紙、読んでたんだ」


 雨上がりの午後、誠は父の三郎を肩で支え、縁側に座っていた。


「お手紙? 誰から?」


「うん……お前のもう一人のおばあちゃんからだよ」


 もう一人の、という意味が理解できないらしく、孫の蓮は小首を傾げる。


「ふうん……おじいちゃん、悲しいの?」


「そうだね……おかしな話なんだけど、やっぱり、あの女の人は……百合子さんの化身だったんじゃないのかなぁ」


 何のことだがさっぱりだが、あまり楽しい話ではなさそうだ、と蓮は顔をしかめた。ぽつりぽつりと話す祖父の姿が小さく見える。


「誰かに似ているな、と思ってはいたけど。この手紙を読んで……そうとしか思えないんだよ」


 ポカンと口を開けた蓮を見て、誠は自分の独り言にハッとする。


「そうだ、蓮。おじいちゃんと一緒に、おばあちゃんたちに手を合わせようか」


「うん、いいよ。あ、そうだ。僕のおやつを持ってくるね。おばあちゃんたちにあげるよ。ちょっと待ってて」


 廊下を走っていく孫の後ろ姿に、三郎は目を細める。


 その傍らで、抜け殻のようになった空虚な父、三郎に目を向けると、一気に気持ちが落ちていく気がした。


 手に握った百合子からの手紙の上に、ぽとっと一滴、二滴、しずくが落ちて、ところどころ文字が滲んだ。


「警察から連絡があった時には、そりゃもう……驚きましたよ。何故、あんな場所で。でも、とても幸せそうなお顔だった……神社の方から、お着物もちゃんと受け取りましたよ」


 そこで一息ついて、唇を噛み締めた。声を震わせながら、手紙に向かって話しかける。


「初めて行きましたよ……部屋を綺麗に片付けていらしたんですねぇ。手紙も読みました」


 堪えきれずに、誠は涙をぬぐった。


「本当に……もっと早くに……連絡すれば良かった。もっと何か出来たんじゃないか、って。心底そう思わずにはいられませんよ」


 誠は泣き笑いしながら、もたれかかる父の顔を覗き込んで言った。


「父さん。お二人はあちらへ行っちゃいましたよ。まったく……モテモテだったんだね。罪なお人だよ」


 百合子が誠宛に書いた手紙は、自伝のようだった。誰かの記憶に残しておきたかったのかもしれない。


 最後に、愛しい死神とあの世へ旅立った百合子の記憶を追ってみる。




 暦の上では春らしいが、前の晩は大雪だった。今朝の縁側から見る庭は、まぶし過ぎる。陽の光が雪に反射しているせいだ。


 梅の花が雪に負けじと、健気に咲いている。冷気と一緒に、その高貴な芳香ほうこうを鼻腔いっぱいに吸い込むと、少し心が落ち着く気がした。


 目を細めて庭を眺めているのは、この家の長女、百合子、二十七歳。


 体の線は細く、一見、はかなげにも見えるが、強い意志を感じる瞳と落ち着いた物腰なものだから、母親から譲り受けた黒の留袖に袖を通した、百合子の立ち姿には一種の凄みを感じる。


 有名な禅の言葉が頭に浮かんだ。

 百合子は苦笑いし、自嘲気味に呟く。


 「雪裡梅花只一枝せつりのばいかただいっし


 梅の花も香り高く咲いている。

 見上げる空も晴天が広がっている。


 ああ、今日は祝福された良き日なのだ、と思い知らされるようで、百合子は目を伏せた。


 その日は婚約から一年。


 二十一歳になったばかりの妹、八重子が嫁いでゆく朝だ。百合子は結局、一睡もできずに、その日を迎えた。


 泣きたいのか、吐きたいのか。

 気分は、最悪である。


 気持ちを切り替えねばと、自分の良心に繰り返し言葉をかけてやるが、なかなかに難しい。


 冷え切った廊下をするすると渡り、談笑が聞こえてくる部屋の前で立ち止まった。


 お転婆のくせに、泣き虫だった喜怒哀楽の激しい妹の八重子。目を閉じて、妹の愛らしい子供時代を思い浮かべてみる。


――十分だわ。


 気持ちが整ったのを確認し、一声かけてふすまを開けると、中にいた叔母と妹が和やかに百合子を出迎えた。


 支度を終えた初々しくも可憐な花嫁が、姉に向かって座り直す。両手をそろえ畳につけると、静かにこうべを垂れた。


 隣にいる叔母は、感極まったのだろう。小さく頷きながら、時折、目頭にハンカチをあてて涙している。


 花嫁衣装に包まれた八重子は目を潤ませていた。最後の挨拶する場面に、気持ちが高ぶっているのだろう。必死に涙声を抑えながら、言葉を噛みしめるように言った。


 「……お姉ちゃん。これまで私を育ててくださって……ありがとうございました」


 八重子は姉に深々と礼をすると、息を吸い込みながら、ゆっくりと顔を上げた。大きく見開いた花嫁の瞳には、今にも落ちてきそうな大粒の涙が浮かんでいる。


 高祖母の時代から代々受け継がれてきた婚礼衣装を纏う花嫁の美しいこと。


 裾から帯に向かって描かれた白い鶴に金糸銀糸の刺繍が見事な黒引きの振袖。艶やかな黒髪で結われた高島田に真っ白な角隠し。見事な彫りのべっ甲のかんざしも、本当によく似合う。


 形の良い唇に引かれた赤い口紅に、百合子の目が引きつけられる。込み上げてくる涙の源泉はなんだろう。胸の内で色んな感情が絡み合い、解読不能な涙が流れてくる。


 言葉にならない姉に、八重子が無自覚の追い討ちをかける。

 

「私、幸せになります。だから、お姉ちゃんも……どうか幸せになって」


――私の、幸せ。


 姉の顔から笑顔が消えたことに、八重子は気づかない。


 百合子を苦しませていた良心が影をひそめ、熱くなりかけていた頭が冷めていくのを感じた。


 さて、娘の晴れ姿だというのに、参列する親族の中に両親の姿はない。


 姉妹の両親は、十年前に他界した。

 話は、十一年前にさかのぼる。


 父親の戦死広報が、突然、自宅に届いた日のことだ。東京では珍しく、ぼたん雪が散らついていた。姉の百合子は十六歳、妹の八重子が十歳。


 玄関先で受け取った母親は、唇をわずかに震わせながら、


「お勤め、ご苦労様です」


 と役人をねぎらい、深々と頭を下げる。


 使命を終えた役人は神妙な面持ちで返礼し、きびすを返し、静かに立ち去った。


 そして、冬が終わり春を迎える頃、未亡人は風邪をこじらせ、あっさりとあの世に旅立った。


 懸命に看病した百合子は、母の死に際を不可解に感じていた。衰弱していく体に抗う様子はなく、むしろ母親は喜んで死期を受け入れようとしているかに見えたからだ。


 父は戦死、母は病死。

 残された百合子に泣いている暇などなかった。


 片手で妹を抱えながら、喪主として葬儀を取り仕切ることができたのは、母譲りの気丈夫のおかげだろう。可愛げがない、と口さがない連中もいたが、百合子は罵詈雑言ばりぞうごんとして無視した。


 葬儀の間に熟考を重ねた結果、百合子は妹を連れて、千葉に住む叔母の家で暮らすことにした。


 年老いた使用人の茂木もぎは泣きながら姉妹を送り出し、子供のなかった叔母夫婦は二人を大いに歓迎した。


 百合子が十八歳になった時、八重子と東京に戻ると言った時も叔母夫婦は猛反対し、留まるように説得を試みたが、決意が揺るぐことはなかった。


 手を振りながら見送る叔母が涙する姿は、今生の別れにも似て、姉妹の胸に迫るものがあった。


 百合子は一家の大黒柱として、東京の自宅で洋裁を生業とすることに決めた。


 元々センスもよく、手先も器用で丁寧。

 かつ納期を守る百合子の腕は徐々に評判となっていく。


 人々の生活が少しずつ豊かに、そして自由になったことで、女性たちは忘れかけていた、お洒落に目を向けるようになっていった時代だ。


 高まる服の需要が稼業を後押し、娼婦から元華族のお嬢様まで、注文が殺到するようになったことは、ギリギリの生活を強いられていた姉妹と茂木にとって幸いだった。


 寝る間を惜しみミシンを踏み続ける。


 頑張れば頑張るほど、対価となって返ってくる仕事に感じる誇りと達成する喜び。一層、百合子の仕事への熱意に弾みをつけたと言える。


 幼かった妹も女学校を卒業し、職業婦人として自立するまでになった。仕事も順調。大事なく家族が暮らせるようになったことは何物にも得難い幸せである。


 十六歳から背負ってきた肩の荷が軽くなったせいだろうか、気持ちと時間に余裕が出てきたのは喜ばしい。


 安堵から笑顔が増える。

 そして、ふと我に返る。


 十代の少女だった百合子も妙齢みょうれいの二十六歳。

 両親が死去し、すでに十年の年月が経っていた。


 母の形見である姿見がある部屋へ行き、久しぶりに縮緬ちりめんの前掛けを外す。


 長細い鏡には、見知らぬ女が少しやつれた様子で不安げにのぞいていた。そっと後れ毛を直してみるが、溜息しかでない。


 茂木は「お二人はよく似ておいでだ」と笑っていたが、朝、洗った顔を洗面所の鏡で見るたびに、そんなはずはない、と自分の姿に落胆するようになったのもこの頃からだ。


 数少ない友人たちも、結婚、妊娠、出産、育児、という第二のライフステージに行ったことを知った時、絶望にも似た焦燥感が襲ってきた。


 とは言え、年頃の娘らしい悩みは抱えていたのは事実だが、数年前から、密かに想いを寄せている男がいた。


 仕事仲間だった二人は、顔を合わせる機会が多く、百合子は進展しない関係でも十分満足だった。良い生地が手に入ったらスーツを縫ってやろう、などと考えるだけでも楽しく、また嬉しかった。


 誰にも悟られぬよう慎重に振る舞っているつもりだったが、赤ん坊の頃から姉妹を見てきた茂木は気づいていた。


 百合子の遅い春の訪れに。


 男が家にやって来る日は、生前の父親から贈られた姫鏡の前に座る。入念に髪をかし、普段つけることのない赤い口紅を嬉しそうにつけていた。


 しかし、男が花嫁に選んだのは、妹の八重子の方だった。結婚の承諾を百合子から得るために、男がやってきた時の衝撃は言うまでもない。


 結納を交わした八重子たちは一年後の早春に、式を挙げることになった。


 心の中で築いてきた美しい城。夢に見た待ち人の訪問は叶わないと知り、百合子はそっと門を閉じた。


 廃墟に残った瓦礫がれきの撤去なく、新しい城を創造することは難しい。空っ風しか吹かない空虚くうきょな胸の内を埋めるすべを、百合子は知らなかった。


 これは遠い日の記憶。

 どこにでも転がっている、よくある話。


 もう、みんな逝ってしまった。

 

「長生きなんて無意味、無価値なもの。迎えに来ないなんて死神の職務怠慢だわ」


 彼女の名前は早乙女百合子。

 よわい九十歳=彼氏いない歴。


  街も人も華やぐクリスマス・イヴだというのに、集う友人も家族もなく、真っ暗な部屋に一人、静かに、その時を待っていた。シワくちゃになった目尻に涙を浮かべて。


 そこで終わるはずだった。

 今際いまわきわに後悔した。


 それが何の因果か、死神に手を請われ、あの世に行く前に時間を与えられた。最後は、何も選ばずに生きてきた女が、初めて自分以外の幸せを願う選択をした。


 女が成長し羽ばたく時、蝶に例えることがある。


 蝶になる前の芋虫は、自らで紡いだ糸で植物の茎に体を固定させ、羽化するまで食事もしなければ、動くこともない。それがいわゆるさなぎ


 さなぎは体内にある組織のほとんどを溶かし尽くした後、体の再構築を行う。全ての準備が整った時が誕生の時。


 殻となった古い体を突き破り、新しい体で羽を広げ空を舞う。


 この過程を完全変態という。


 百合子は、さなぎから蝶への変態を遂げ、新しい世界に飛び立ったばかりである。

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死神と完全変態する私 くにたりん @fruitbat702

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