9
まどろみから醒め、手を伸ばし、スマートフォンのアラームを止めた。頭のところどころに靄のような頭痛の残滓が滞っていた。寝不足によるものか外気によるものか判断がつかなかった。少しばかり登っただけの野ざらしの場所で無防備に横臥したというのに、想像よりも身体の痛みは少なく、激しい運動はともかく歩行に支障は無さそうでかえって拍子抜けだった。画面を確認すると明朝の五時だった。私は立ち上がり、伸びをしながら呼吸してみた。脇腹が濡れていた。リュックサックを携行しなかったことを後悔した。光源を欠いた剥き出しの荒れ野で小さな影が岩の上を這っていた。トカゲだった。丸い足指を動かし細首を左右に振りながら、大粒の雨滴が窓ガラスを垂れ落ちる速度で蠢動していた。懐中電灯のアプリを起動して光を向けると、驚いたのかすぐに地面に落ちてあらぬ場所へ逃げ込んでしまった。耳の近くで虫の羽音が聞こえた。蝿なのか蜂なのか虻なのかわからなかったが刺す種類かもしれないと判断し、まだ時間に余裕があるが出発することにした。登山靴は履いたままだった。灰の香りを感知した。頭に小さな粒が当たり始めていた。どこかで洗髪する必要があった。弔いのために私は斜面を登った。色の薄い、立ち枯れた痕跡の見い出せない新しい下草の生え揃う箇所が直線上に連なり、かつての通行路だと知れた。木造の廃屋が両脇に軒を連ねていた。ほとんどが完全に頽れていて、土台だけが剥き出しのまま放置されている箇所もかなりあった。地面に杭が突き立ち周囲に柵が倒れていて、豚か鶏を飼っていたことを推測させた。ところどころに破れたビニールやゴム手袋やカレンダーや瀬戸物の破片が散らばり、燈油缶や扇風機や便器や浴槽も転がっていた。それぞれが占有していたらしき土地は狭隘で、住居を建てるには足りない印象も受けたがそれなりの規模の生活が存在していたことは疑いようがなかった。私はそれらの残骸の前で見物がてら立ち止まり、時間の表示を確かめてから再び伸びをして、投げ捨てられていた大ぶりなスコップを手に取った。粘質な泥の張りついた柄の赤い塗装が赤錆とともに剥がれた。握って強度を確かめていると朝露で冷やされたのか晩夏だというのに指が悴んだ。私は斜面を登った。山おろしと呼べるのかわからないが前方から吹きつける風は梢の匂いを孕み、額にかかる髪を揺らした。けもの道には石段もなくひたすら同様の勾配で続いていたが不意に看板で塞がっていた。剥落した表面を強引にペンキで上塗りされていて、元来の文面は困難だったが〈自治権〉とか〈衛生〉とか〈蓋し本島〉とか〈公然と差別が横〉とか〈誰もが住〉とか〈い内津掘集落へ〉といった断片が辛うじて読み取れた。上塗りされた個所には〈これより先は関係者以外の立ち入りを禁じます〉という文面の記された巨大なシールが貼られ、その下にはアライグマのキャラクターが描かれフキダシを附されていた。両の掌をこちらへ突き出し口を結び険しい表情で〈STOP!〉と叫んでいた。私はスマートフォンで〈島 ゆるキャラ〉と検索しようとしたが圏外だった。アンテナが立ちはしないかと周囲を歩き回っていると、不意に柔らかい汚泥を踵に踏んだ感触があり、すぐに海老の背わたを思わせる甘い腐臭が立ちのぼってきた。アライグマの糞だろうと私は推察し、海水で洗えばよいと考えながら斜面を登った。構造物の痕跡が途絶えると手つかずの荒蕪地がしばらく続いたが、やがて下草が姿を消し赤土の露わな断崖へ出た。ひと塊の巨大な岩が地面に半身を埋めている塩梅だった。灯台が立っていた。扉に近寄ってみたが南京錠が掛けられていた。ぐるりを巡って壁面を眺めてみたが、錆びている箇所はほとんど見受けられず、やはり現役で使用しているようだった。父はベッドから立ち上がった。九月のはじめで海の家も開いているというのに肌寒かった。私たちは彼が動き出すと二人で協力して押し留めようとした。誰がこの灯台を動かしているのか不明だが特定の時間になると自動で点灯するようになっているのかもしれなかった。あっくんは何度か「じいちゃん」と呼び掛けたが父はすべて無視して突き飛ばすのか圧し掛かるのか中途半端な動作と力で私を退け「うんん」と言った。目の前に開ける眺望は夜明けを示唆する澄んだ群青色に染まっていて日の出の気配を感じさせた。群青色のカーテンがサッシから外れてスコップのように地面に横たわった。中空に掴まるものがあるかのように父はしなびた両腕を突き出すと背を屈めて一歩ずつ進んだ。カモメが鳴きながらせわしなく飛んでいた。ゴムが緩んでいたのか廊下に出るとズボンはずり落ちて父の下半身は襁褓だけになった。青い薄明の中でいくつかの影となった白い尾羽たちは黒く映えた。白桃のように色彩の淡い父の下半身は艶やかで張りがあり力なく発達しきっていて細かった。勾配を登ってきたので私の呼吸は乱れていた。喘ぎながら進む父は人間よりも研究員の眼前で歩行試験を行うロボットに似ていた。私の他に人間はいないはずだった。周囲の幾人かがこちらを見ていた。管理もあるだろうにそれでいいのかと妹に訊くと「いいじゃん誰が見てるってわけでもないし」と事もなげに言った。同室の女性が父を見て「あまがいさんッ」と叫んだがそれ以外は騒ぐでもなく見ているだけだ。私は地面にスコップの先端を挿し入れた。止めるのを諦めてスロープに掴まらせようと先回りして手を取った。土が勢いよくめくれ上がり妹は「たいへんだったでしょ?」と言った。「みーちゃんは厳密には家族じゃないのに」「いいの」と私は言った。「そういうことで決まってて、そういう話でまとまっているならそれはそれで」「まあそんなもんだよね、今はいろいろな家族があるからね。パパさんだって三人目だし、あっくんだって……」うつむく妹を呼びに病室を出たあっくんが走り去るのを確認してから父に、父は理解しなかったろうがとにかく戻ろうと言って、土はやがて火山灰のように黒くなりそれは十分な深さを掘削したことの証左だった。父は入れ歯を吐いた真っ黒な口腔から「うー」と声を吐き、私は穴から抜け出して汚れた裾を払い廊下の中央でラジオのアプリを起動したが、放送が始まっていないのか雑音しか聞こえず持ち上げた臀部が内側から勢いよく隆起していき、一つ目を穴の底に置くと強い悪臭が鼻先に立ち現われ二つ目を置くと臀部と襁褓の間隙から火山灰のような人糞が噴きこぼれ、掘り返した赤土を掬いながら父が床に手をついたのを確認し妹か看護師を呼ぶために走ろうとしたとき、かけらを踏みつけてしまった。二人を弔う営為を執り行うあいだにも靴裏と硬いリノリウムの床が粘りつき、なんというか、私はどちらが私なのか決めるべきなのだろうかと考えた。父の大便を踏みつけ転んで顎の骨を砕いてまで出社する私と、餅になり鉢に容れられ卒塔婆を突き立てられた父を埋葬する私と、どちらがよりよいとか正しいとか、そういう話にこれは、なるのだろうか。黒々とした排泄物に足を取られ、バランスを崩して勢いよく転倒しつつある私を海が見ていた。山頂から噴きこぼれた火山灰のかけらとカモメに似た白百合の花束に埋め尽くされた海は、鏡を砕いたような朝焼けの曙光を浴びていた。その光景に身を乗り出し重心が移る拍子に糞を踏みつけた靴底が大きく滑った。足下が足下から消え、吹きつける突風に旗のようにめくれ上がる四肢があった。浮きつ沈みつする黒と白を、弔いに適した潮の流れが数えきれないほど届けゆく脚下の海景は、骨折すれば会社へ行けなくなると考えながら遠ざかる夜明けを仰いでいた。
真夜中から左へ 忠臣蔵 @alabamashakes
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます