第3話 故郷へ

 僕はゆらりゆらりと陽炎のような足取りで帰路へ着いた。心の中で"成果"という言葉が何度も浮き沈みする。日差しは高く煌々と照っているにもかかわらず、僕のこの暗澹あんたんとした気持ちは乾くことはない。

 


 「成果・・・ですか?」


 きょとんとした表情を浮かべていたのだろう。僕は思わず声が上ずってしまった。教授はゆっくりと頷き、言葉を探している。そうだろう。彼は試験官で私は受験者なのだから。


 「そうだ。君の、その、卒論は申し分なかった。だがね、そう、君はこの大学を出てから、"何をしていくのか"、え~そういったビジョンが不明瞭だと判断されたのだよ。まあ、つまりは・・・そういうことだ。」


 背筋にねっとりとした汗が流れた。僕の心の中に渦巻いていた大きなもやを彼らに見透かされていたのだ。放流される魚のように、なあなあに周りについていき、目的意識を持たない僕を、彼らは気付いていたのだ。だが、そう簡単に人生の目標などに、ましてや特段苦労などしたことがない僕なんかに、どだいすぐ浮かぶものではなかった。


 「ゆえの1週間。どう過ごすかは君次第というものだ。」


 そう言い放つと、教授はくるりとイスを机に向けた。これ以上の情報は期待できない。僕はそう思い、すっくと立ちあがると、一礼して部屋を出ていった。腹は浮かんできた靄で満たされていた。



 気が付けば寮に戻っていた。ちょうど寮母さんが玄関先の氷を割っており、僕は軽く会釈をした。寮母さんは僕の顔色を見た途端に絹に触るように話しかけてきた。


 「藍我さん・・・どうしたのでしょうか?随分と酷いお顔ですよ?」


 僕はすべての不安を捨てるかのように、昨晩からの出来事をすべて話した。彼女はとても哀しそうな顔をしたが、すぐにいつものヒマワリのような笑みを浮かべ、僕を食堂へ誘った。


 珈琲が出された。僕は小さく礼を述べると、かじかんだ手先の感覚を取り戻すようにカップを撫でまわした。向かいに彼女は座り、コーヒーに口を付ける。小さな吐息と共に彼女は言葉をつなげた。


 「私ももうこの寮の寮母さんになって20年余りになりますけど、何人か、貴方と同じような人は見てきました。」


 彼女がカップを置くと同時に、今度は僕がコーヒーを口に含む。

 

 「そういった人たちに私が必ず一度故郷に帰ることを勧めるです。」


 「それはつまり・・・。」


ため息交じりに僕が続けようとした言葉を寮母さんは首を振り遮った。


 「この先にどうなるのかなんて、それは神様しかわからないことでしょう。でも、道標があれば、道を逸れても進むべき道へ戻れるというものです。その道標は、自分の"ルーツ"を知らなければ、見つけられません。」


 「"ルーツ"・・・ですか?」


 彼女はちょっと恥ずかしそうに笑った。


 「ええ、そうですよ。きっと・・・教授さんが求める答えは、急いた心では見つけられません。1週間・・・ですよね?それはとても大きな意味があると思います。」


 彼女は最後ににこっと笑い席を立った。残された僕は、あがる湯気を見つめしばらく、ゆっくりと考えた。ゆっくりと。とてもゆっくりと・・・。


 幾刻たったのか、しかし時計の針はいまだに3時を指していた。丁度いい時間だろう。僕は寮母さんに心の中でお礼を呟いた。


 僕は急いで駅へと向かった。今出れば、今夜あたりには帰れるだろう。決して軽やかではない足取りは、小さく弾んでいただろう。

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私の記憶が咲くころに @14th_MP

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