第四話

 台所の母が、包丁を使いながら言った。

「帰ってくるなら言ってよ。電話にも出ないで、いきなりなんだから」

 縁側に座った私は、父の乗ったトラクターがゆっくりと進むのを眺めながら、あいまいに返事をした。

 有給休暇を取って、帰ってきた。

 母がオレオレ詐欺に遭って以来、足が遠のいていた。その埋め合わせのつもりで来たのだから、家事や畑仕事の手伝いでもすれば良いのだろうが、いきなりそういうことをするのは何だか気恥ずかしい。

「彼氏はいるの?」

 と、母からお定まりの質問。

 私はつぶやくように答えた。

「いない」

「え、なんて言ったの?」

「いないよ」

 本当だった。二人とも、別れた。

 年上の彼は、名残惜しそうな素振りさえ見せなかった。彼が何度か里香と遊んでいたことは知っていたけれど、そのことには最後まで触れなかった。私に指摘する資格はない。

 年下の彼には、二股をかけていたことをきちんと話した。普段穏やかだった彼は、人が変わったように、私をののしった。彼には申し訳ないけれど、怒りを示してくれることが、私は嬉しかった。

 柱時計が懐かしい音色で正午を告げ、それに応えるかのようにチャイムが鳴った。母は大きな声で返事をして、エプロンで手を拭きつつ、玄関へ向かった。

 一羽のメジロが飛んできて、庭の餌台にとまった。鮮やかな緑色の首をせわしなく動かしながら、こちらを気にかける様子もなく、用意された餌をつついている。白い輪にふちどられたあの瞳は、信じているのだ。毎日ここに餌が置かれていることを。人間を。柔らかな春の日差しが、小鳥を愛おしむように、庭全体を包んでいる。

 メジロが満足して飛び立った時、母はまだ玄関で客の相手をしているようだった。

 台所を見に行くと、火は止めてあった。ボウルに盛られたささがきのゴボウからぷんと土の匂いがする。

 それにしても、誰と話をしているんだろう。

 廊下に出ると、男の声が聞こえてきた。

「このコスモストーンというものはですね、宗教やスピリチュアルとはまったく別のものなんですよ」

 訪問販売だ。廊下に立ったまま、聞き耳を立てる。

「石から発せられる特殊な波長が人体の免疫力を高めたり、脳を活性化させたりするんです。ほら、こちらの本にも書いてあるでしょう。科学的に研究されているものなんです。例えばトルマリンに美肌効果があることは岩盤浴などでお馴染みですよね」

 とにかく自分のペースに巻き込もうという話し方だ。母の相づちを待つ間はない。

「我が社のコスモストーンは一般にいうパワーストーンとは一線を画するものなんです。かつてオーストラリアの研究室で主任研究員を務めておられた天原竜水先生が、独自の方法によってストーンの持つエネルギーを増幅させることに成功したんです」

 芝居がかった口調。もしかしたら彼自身は自分の言っていることを信じていないのかも知れない。いや、きっと信じていない。何故かそう確信できた。そもそも彼が信じる必要などない。とにかく商品が売れさえすればいいのだから。

「今だけの特別キャンペーンで、何か一点でもお買い上げいただければ、天原先生が自らご指導なさるヨガ教室の無料招待券がついてきます。このヨガは人体の波長と石の波長を一致させてストーンの効果を一層高めるものでして……」

 私が出ていくと、男の口上はぴたりとやんだ。年老いた夫婦だけの家とふんで、たかをくくっていたのだろう。

「そういうわけですから、もしご興味がありましたら、いつでもご連絡ください」

 男は名刺を置くと、そそくさと去っていった。

 私は母に尋ねた。

「買いそうだった?」

 母は笑って答えた。

「まさか。もう懲りたわよ」

 確かに、母はもう大丈夫だろう。私は母が心配で姿を現したわけじゃない。

 彼は、あの若いセールスマンは、今の失敗で「狩り」を終えはしないだろう。この地域なら「獲物」には事欠かないはずだ。彼は誰かを騙しに行く。誰かが、彼に騙される。

 あれは彼の仕事なのだ。私にとやかく言われる筋合いはない――けど。

 下駄箱を開ける。高校時代に使っていたぼろぼろのランニングシューズを取り出し、素足のまま履く。

「どこ行くの?」

 答えず、玄関の戸を勢いよく開ける。

「ちょっと、玲子!」

 私があのセールスマンに文句を言いに行こうとしていると思ったのだろう。母は慌てた声で私を呼んだ。けれど、構わずに飛び出した。

 彼は私が追ってきていることに気付くと、一、二度目をしばたかせ、大慌てで逃げ出した。

 追いかけた。向こうは革靴だけど、こっちだって靴下を履いていない。

 彼はパニックになっているだろう。けれど、怒鳴りつけてやろうとか、どついてやろうなんて気はない。

 騙すのが、人間。何でもかんでも信じていれば騙されることがある。それは一つの真実。でも――

「すいません、すいません!」

 必死に謝る彼の横を、風のように駆け抜けた。

 ――ほら、私の方が速い。


               (了)

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メロスとの併走 森山智仁 @moriyama-tomohito

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