第三話
――夢を見た。夢だという意識のある夢だった。
故郷の家。揺れる風鈴と、蚊取り線香の煙。季節は夏だ。
若い頃の父がちゃぶ台に一枚の紙を広げ、頬杖をついている。
すぐに理解した。あの紙にサインをすれば、父は騙される。お金をむしり取られる。今思えば貧乏のおかげで得たものは少なくなかったけど、だからと言って父が騙されていいわけがない。
止められるものなら止めたい。が、声が出ない。体も動かせない。幽霊になったように、眺めていることしかできないらしい。
父が口を開いた。
「玲子、ごめんな」
父は私の存在を感知(?)しているようだ。
「お前の人生は、こういうものとは無縁であってほしいと思う。借金の保証人なんて絶対なるもんじゃない。お父さんも馬鹿じゃない。わかってるんだ、一応な」
だったら、どうして?
「あいつは高校を出て上京した。同窓会にも来なかったし、今は年賀状だけのやりとりになってた。でも、高校時代は……親友ってやつだったと思うんだ。少なくともお父さんはそう思ってた」
その頃は、でしょ?
「あいつがきちんと借金を返すなら、こんなものはただの紙切れだ」
疎遠になった友達を頼ってくるなんて、まともじゃないよ。昔は知らないけど、変わっちゃったんだよ、その人。
「信じてる、ってのは違うな。信じたい。いや、それもちょっと違う。何だろうなあ」
何が言いたいの?
「保証人になるのを断るってことは、お父さんは彼を信じないってことになる。信じない自分になるのが嫌だ。そういうことのような気がするな」
父の節くれ立った手が、朱肉の蓋を開く。
「もし苦労をかけたら、ごめんな」
苦労かけたよ、実際。
父に借金の肩代わりをさせた人物が、始めから逃げるつもりだったのか、それとも始めは返す気だったのか、本当のところはわからない。だがいずれにしても、彼は約束を破り、父が責任を取らされた。
ゆっくりと捺印する父の顔は、自棄になっているようにも、昔の親友を盲信しているようにも見えない。義務を果たしているみたいな、迷いのない表情。畑仕事をしている時と同じ。
どうしてこんな夢を見たんだろう。父とこんな話をした覚えはない。でも、判子を捺す姿は、もしかしたら、この目で見ていたかも知れない――
瞼の向こうで、声が聴こえる。口論、だが押し殺したような声。
「約束が違うぞ」
「うるせぇ。分け前は俺が三、お前が一だ。これ以上はまからねぇ」
一人は荷馬車の主の声だ。もう一人は若い男。
「見つけたのはわしだぞ。眠らせたのもわしだ」
「だが手を汚すのはこの俺だ。おっかねぇから代わってくれって、そっちが頼み込んできたんじぇねぇか」
眠気が消し飛んだ。騙されたのだ! 荷馬車の主も王の手先で、あの水には恐らく眠り薬が入っていた。
馬車は止まっている。ここはどこなんだろう。
薄目を開けて、様子を窺う。石造りの部屋。案の定、若い男は剣を持っている。
「お前が三、わしが二でどうだ」
「まからねぇっつってんだろうが」
「大きな声を出すな。目を覚まされたらどうする」
「ああ、そうだな。さっさとやっちまおう。腰抜けのあんたはそこで見てろ」
殺される! どうする?
縛られてはいない。動くことはできる。
メロスは――のん気に寝息を立てている。メロスを起こす? この状況、すぐに対応できるだろうか。それとも私が戦う? 石を投げたことしかないけど。今は石もないし。
男が近づいてくる。やるしかない。とにかく、大声だ。鼓膜を破ってやるつもりで声を張り上げて、相手を怯ませるついでに、メロスを起こす。そのあとは……なるようにしかならない。
薄目のまま、音を立てないよう、肺いっぱいに空気を吸い込む。せーの……。
「ぐっ、てめぇ!」
男の呻き声。何が起きた?
目を開いた。メロスが、左手で男の腕を、右手で男の喉をつかんでいる。
起きてたんだ! たぬき寝入りのうまいこと。
「武器を離せ。さもなくばこのまま首をへし折る」
剣が落ちた。すごい。映画みたい。と、感心してる場合じゃない。
急いで剣を拾い、私は言った。
「ほらね」
男を地面に組み伏せながら、メロスが言った。
「何がだ?」
荷馬車の主は地に額をこすりつけ、震えている。
「やっぱり、これが人間」
「……そうだな」
「でも、だからこそ、私はあんたが辿り着くところを見たい」
「お目にかけよう」
メロスは男の腕を締め上げ、荷馬車の主に言った。
「ここはどこだ?」
「どうかお許しを……」
「ここはどこかと訊いている。答えなければ、こいつの腕を折る。次はお前だ」
「お命ばかりは……」
「質問に答えてくれ。乱暴な真似はしたくない」
「ここは、西の市のはずれでございます。刑場からはだいぶ離れております。既に夕暮れ。もう間に合いませぬ」
鉄格子をはめた石の窓から、不吉な赤い光が射しこんでいる。
「間に合うかどうかは、天の決めること」
メロスは男を放し、矢のごとく走り出した。
手にした剣をどうしようか、私は一瞬躊躇したが、すぐに捨てて、メロスのあとを追った。
黄昏のシラクス。土埃が舞い、豚と鶏の匂いがする。
市場の路地は狭い。大荷物の行商人、火を吹く大道芸人、右手で頭に乗せた壺を押さえ、左手で弟の手を引く少女――行き交う人々の間を縫うように走る。
どこからか、メロス、と囁く声がした。認識されている。
また王の手先にからまれたらまずい。もう時間がない。漆喰の壁に当たる光の色が刻一刻と変化している。
「頑張れ!」
それは突然の声援だった。声の主はわからない。だが、喧騒の中、確かに聞いた。メロスの勝利を祈る人間がいるのだ。少なくとも一人。
いや、一人ではなかった。
「よく戻ってきた!」
「まだ間に合うぞ!」
「道を空けろ! 勇者のお通りだ!」
胸に熱いものが込み上げてきた。応援されているのは自分ではないのに。
彼に声をかけても、人々は何も得をしない。それどころか、王の意思に逆らったとして、罰せられるかも知れない。それでも人々は、叫ぶ。喝采を送る。
中には野次を飛ばす者もいた。棒切れを差し出して転ばせようとする者もあった。メロスが棒を飛び越えると、唾を吐き、わめき散らした。
「偽善者め! てめぇのせいで大損だ!」
賭けに加わっていたのだろう。
善意と悪意。そのいずれもがメロスの背中を押しているように、私には見えた。
メロスはさらに速度を上げ、黄金色の坂道を駆けていく。
坂を上りきったところで、兵隊が槍で道を塞いだ。
「止まれ」
「通してくれ!」
「この先、民間人は立ち入り禁止だ」
「何を言っている。向こうにも人がいるではないか」
「あれはみな正式な許可を受けた商人たちだ。通行証は持っているか?」
「そんなものはない」
「では、通せぬ。帰れ」
なめくじが這うような兵隊の口調。みえみえの時間稼ぎだ。
「俺は罪人だ。今日処刑されるメロスだ」
「罪人が何故こんなところにいる」
「石工のセリヌンティウスが今、俺の身代わりになっている」
「しばし待て。刑吏に確認する」
「日没までの約束なんだ!」
まともに相手にしちゃいけない。そう口にする時間も惜しんで、私は兵隊とメロスの間をすり抜けた。
「おい、女、待て!」
その直後、メロスの膝が兵隊の腹を強打した。兵隊はその場にうずくまった。
「すまぬ」
メロスの礼に応える代わりに、私はただ走った。
シラクスは高台の都。地平線が見える。太陽が落ちていく。もうじき、接する。
「あそこだ」
メロスが指差したのは、大きな円形の建物だった。ローマのコロッセオによく似ている。あれが刑場だなんて、趣味が悪い。
正面の大通りはひどく混雑している。路地へと回る。
ひと気のないその道の真ん中、まるで彫刻が置かれているみたいに、女は倒れていた。腹が大きくせり出している。
「すみません、医者を……医者を呼んでいただけませんか……」
消え入るような声で女が言った。
あまりにも不自然。タイミングが良過ぎる。
メロスは立ち止まった。立ち止まってしまった。女は若い。多分、ちょうどメロスの妹ぐらいだろう。
私は怒鳴った。
「駄目! 行きなさい!」
「だが……」
「見え透いた罠じゃない! もう何度も騙されたでしょう。学習してよ!」
まくしたてても、女は芝居をやめない。
「お願いです、医者を……」
夜が迫っている。メロスは動かない。
「わかった。じゃあ、あんたの代わりに私が騙される」
「お前が?」
「この人の面倒は私が見る。だから、行きなさい。こんなことしてる場合じゃないでしょう」
「レイコ……」
「見届けられないのは残念だけど、無様に騙されるのを見せつけられるよりマシ。さっさと行って!」
「残り短き生涯、お前のことは忘れぬ」
そう言って、ようやくメロスは走り出した。
さて、と。
「はい、残念。さ、もうそのおなかの詰め物出したら?」
女は応じない。苦しげに息を吐くばかり。
「いい加減にしてよ。見てて痛々しい」
往生際が悪いったらない。
「やめろって言ってるでしょ? 騙される人の気持ちがあんたにわかる? どうせわかりたくもないんでしょうけどね」
横っ面をはたいてやろうと、しゃがみこんで、気付いた。
長い髪が汗で額にはりついている。それに、この顔色。まさか、と、女の足元を見る。そこには小さな水たまりができていた。
芝居ではなかったのだ。体がかっと熱くなる。
「待ってて」
全速力で大通りへ戻ると、人の良さそうな女商人をつかまえて、医者の家を尋ねた。
そして、また走る。走りながら、念じた。
ごめん。ごめんなさい。私、どうかしてた。周りがみんな敵だと思い込んでた。さっき市場で人の真心に触れたばかりなのに。
医者の家の戸を激しく叩き、現れた老人の手を引いて、路地へと急ぐ。
戻ると、そこには医者の家を教えてくれた女商人がいて、力強く妊婦を励ましていた。私は医者と女商人にあとを任せ、刑場へ向かった。
間に合うなら、やっぱり見届けたい。
王城の尖塔を見やる。そのほとんどは影に覆われていた。先端部分だけが、紅に輝いている。
道の途中で、メロスはうずくまっていた。
「何してるの!」
「来るな、レイコ! 狙われている。左の屋上だ」
見れば、兵隊が弓を引きしぼっている。
メロスの左の太腿から血が流れ、手には一本の矢が握られている。射られた矢を自分で抜いたのだ。
ここまで来て、ひど過ぎる。
手ごろな石を捜した。あの高さなら届く。
「よせ! お前が撃たれるぞ」
「それでもいい」
「駄目だ! 俺たちの約束は、俺たちだけのものだ。お前を傷つけるわけにはいかない」
俺たち、とは、メロスとセリヌンティウスのことだろう。
「必ず戻る。そう誓った。本来それだけの話だ。道すがら、賊に襲われ、騙され、今こうして矢を射かけられ、真の人間とは何か、俺にはもうわからない」
夕闇の中、流れる血の色は黒に見える。
「俺の方が人間らしいと、お前には偉そうなことを言ったが、あれは思い上がりだった。俺があいつとの誓いを守っても、ただそれだけのこと。俺は人類の代表などではない。レイコたち家族を欺いたのも、走るのをやめかけた俺も、そして、今俺に向けて弓を引いている男も、みな人間だ」
そう、疑心暗鬼にとらわれて、苦しむ人に汚い言葉を吐いた私も。
「ならば、『人を信じてはいけない』、お前がはじめに言ったことと、王が正しかったのかも知れない。だが、たとえそうだとしても、セリヌンティウスが俺を待っている、その事実は変わらない」
屋上を見上げて、メロスは叫んだ。
「射るがいい。まだ陽は沈まぬ。俺は行く!」
傷ついた足で、メロスは立ち上がった。
その時、短い悲鳴を上げて、屋上の兵隊が倒れた。何が起きた?
「さぁ、メロス様、お急ぎください!」
反対側の屋上に、弓を携えた少年の姿があった。
「君は?」
「セリヌンティウスの弟子、フィロストラトスでございます。話をしている場合ではありません。お急ぎを!」
私はメロスに肩を貸し、刑場へと歩き始めた。
背後から、フィロストラトスの声がした。屋根づたいに追ってきている。
「どうぞそのままでお聴きください。師匠は私に言いました。『メロスは戻らないかも知れない』と。第一日目のことでした。顔は蒼白になり、肩は小刻みに震えていました。その日の晩、師匠は涙を流しました。『メロスはきっと戻らないだろう』と。二日目には『メロスを捕らえに行け』と怒鳴り、激しく壁を叩きました。三日目の朝、今朝のことです、師匠は穏やかな顔で言いました。『俺が死んだら、メロスに伝えろ。俺は一途に待ってなどいなかった。お前を疑い、身代わりになったことを悔いた。立派な人間などではなかったのだから、俺のことは早めに忘れて、達者で暮らせ』。私は尋ねました。『お戻りになるとはもう思われないのですか』と。師匠は答えて言いました。『お前には弱音を吐かせてもらったが、実のところ、信じてもいる。だが、完全にではない。揺れている。俺がそうなのだから、あいつもきっと同じだろう』。それから、少し考えて、こう付け足しました。『あいつが戻ってきても、俺の醜態はやはりお前の口から伝えてくれ。俺は見栄っ張りだ。自分ではきっと言えないだろうが、伝えねばならない。俺は疑った。疑ったのだ』。ああ、メロス様、私の話に偽りはございません。先生がご自分の醜さを何故敢えて伝えようとなさるのか、私にはわかりません。けれど、その真意は最早どうでもよい。師匠があなた様の代わりに縄を打たれ、あなた様はお戻りになった、その二つだけが私にとって大切なことでございます。お二人の友情を、私は羨み、祝福します。どうか安らかに、メロス様! 私もいつか、あなた様のような友が得られますように」
太陽が地平線にめり込んでいく。お願い、まだ沈まないで。彼は約束を果たそうとしている。進もうとしている。
進んで、いいんだよね? 体重の半分は私にかかっている。私がメロスを、死地へと歩かせている。
「迷うな」
私の心を見透かしたように、メロスが言った。
「ごめん」
「いや、違う。自分に言ったのだ」
尖塔が一際強く輝く。消える間際の炎のように。
メロスが低い声で言った。
「駆けるぞ」
私は小さく頷き、メロスの腕をしっかりとつかんで、刑場の門へ向かって駆け出した。
門は開け放たれている。群衆が見える。他人を信じて騙された男の死を一目見ようと、大勢集まっている。
王もどこかで見ているだろう。得意げに演説でもぶっているかも知れない。これが人間の世の中だ、と。
お生憎様。あんたの目論見は崩れる。この世界は、私やあんたみたいな寂しい人間ばかりじゃない。今、証人を連れていく。
――気が付くと、私は桜田門をくぐった先で、膝に手をつき、呼吸を荒げていた。
陽が暮れて、青い上弦の月が出ている。
「こんばんはー」
と、背後から男の声。
振り返ると、黒のキャップに高そうなシューズ。ライバル君だ。サングラスを外してるから一瞬わからなかった。
「今日ずいぶん飛ばしましたね。でも無茶しない方がいいですよ」
爽やかに笑って、ライバル君は去っていった。思ってたより、若そう。二十歳前ぐらいだろう。
春の夜風がそっと頬を撫でていく。
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