第二話

 緑のない、乾いた山道に私は立っていた。

 夢?

 にしては現実感があり過ぎる。ベタだけど、頬をつねってみる。うん、痛い。どうやら夢じゃない。

 見下ろせば、果てしなく広がる荒野。建物らしきものがどこにもない。こんなの映画でしか見たことない。

 さっきから聞こえる水音は? 後ろだ。

 大きな河が流れていた。凄まじい濁流。河岸と対岸に二本ずつ、杭が打たれている。増水で橋が流されたらしい。

 はっと息を飲んだ。河から手が生えてきて、岸辺をつかんだのだ。分厚い男の手。

 続いて、逞しい二の腕と、濡れた金髪、そして青い瞳が現れた。

 外人! じゃあここって……外国?

 それどころじゃない。とりあえず、助けなきゃ。

 駆け寄り、手を取る。足を踏ん張り、全力で引っ張る。自分ごと流れにさらわれそうになって、歯を食いしばる。

 場違いにも「大きなカブ」の童話を思い出した。ここには助けてくれる仲間はいないけれど。

 ザバッ! 男の身体が岸辺に引き上げられ、私は尻餅をついた。

 まさかこの河を泳いできたのだろうか? いや、そのまさかなのだろうけど。

 男は片方の肩から巻きつけるような白い服を着ている。何、この人? 神様?

「かたじけない」

 荒い息をつきながら、男が言った。

 あっさり聞き取れた。ギリシャ彫刻みたいな外見に反して、あまりにも流暢な日本語。強烈な違和感。まるでアニメだ。

 ってことは、やっぱりこの人は神様(どうしておぼれていたのかは謎)で……つまり私、死んだ? 交通事故か何かで。

 ああ、目をつぶって走ったりしたからだ。なんて馬鹿なことを! まだやりたいことがたくさんあったのに。

「あなたは命の恩人だ。しかしあいにく、十分な礼をする持ち合わせも時間もない。この河の向こうに私の村がある。今はご覧の通りの有様だが、どうか機を見て訪ねてほしい。羊飼いのメロスが命を救われたと言えば、何がしかの礼を受け取れるはずだ」

 それから男は、妹と、妹婿の名を口にした。

 急ぐ男。妹の結婚。流された橋。荒野。これらのピースを集めてできあがる話と言えば……よくよく検証するまでもない。国語の教科書で読んだ。

「メロスって、あのメロス?」

「どのメロスかわからぬが、俺の名はメロスだ」

「もしかしてあなた今、セリヌンティウスを助けるために都へ?」

「何故知っている? あなたは都の人間か?」

「都って言えば都、かな」

 東京都だけど。シラクスじゃなくて。

「都では珍妙な服が流行っているのだな」

「まぁね」

 私の服装は変わっていない。お気に入りのブルーのランニングウェア。タイツにハーフパンツ。

「ああ、世間話をしている場合ではない。事情をご存知ならば、私が急ぐ理由もご理解いただけよう。すまぬが、これにて」

「あ、ちょっと待って!」

 メロスは走り出した。裸足だ。乾いた地面に、濡れた足が大きな足跡を残す。

 ――いきさつはさっぱりわからないけど、とにかく私は今、太宰治の『走れメロス』の世界にいる。

 来てしまったものは仕方ない。考えたってどうせわからない。素早く頭を切り替える。いい機会。あいつには言いたいことがあったんだ。

 メロスに追いつき、隣を走りながら囁いた。

「やめちゃえば?」

 青い瞳がこちらを睨む。

「わざわざ殺されに行くの?」

「友が待っている」

「放っとけばいいじゃん」

「さてはお前、王の手先か」

 胸にずしんと響く怒声。怯んだことを悟られないように、おどけた口調で返す。

「違う違う。私は一般人」

「俺が行かなければ王はきっと手を叩いて喜ぶだろうな。『これだから人は信じられぬ』と」

「王様は正しい。人を信じたら馬鹿を見る」

「哀れな女よ。お前や王が間違っていることを証明するためにも、俺は必ず日暮れまでに辿り着いてみせよう」

 メロスがスピードを上げる。私は食らいつく。

「なかなかの足だな」

「鍛えてるから」

 とは言え、喋りながら走るのはなかなかつらい。

「俺を止めて、どんな褒美を得る」

「だから王の手先じゃないってば」

「違うなら、何故止める」

「友情とか信頼とか、そういうの大っ嫌いだから」

 数秒の沈黙。私の靴とメロスの足がバラバラのリズムで大地を叩く。

「……哀れな」

「勝手に哀れんだらいい。でもこっちは迷惑してるの」

「迷惑?」

「あんたみたいなバカ正直を見習って泣かされた人間もいる」

「どういう意味だ?」

「人を信じろ。信じることは素晴らしい。そういうことが言いたくて走ってるんでしょ? 命がけで」

「そうやも知れぬ」

 迷いだの使命感だのごちゃごちゃ書いてあったけど、要するにそういう話。悪い王様は改心して、メロスは許されて、大団円。めでたしめでたし。

 とんだ笑い話だ。現実はそんなに甘くない。

「信じて裏切られた経験はないの?」

 私にはある。


 家は、山あいの平凡な農家。私は一人っ子だった。働き者の父と、善良さが服を着て歩いているような母の間に生まれた。

 私が小学校四年の時、一家は突然貧乏になった。まるで落とし穴に落ちたみたいに、突然。

 食卓は質素になり、父は唯一の趣味であった釣りをやめ、母はパートを始めた。私は友達を家に呼ばなくなった。人が来れば母は以前と変わらずお菓子やジュースを振る舞う。小学生の私も家計を助けなければと感じていた。

「お父さんはお友達を助けたの」

 母はそう言った。

 大人になってから事情を知った。何のことはない。父は騙されたのだ。

 年賀状のやりとりしかしていなかった古い友人にどうしてもと頼み込まれ、借金の保証書に判を捺した。そして、逃げられた。よくある話だ。

 幼い私は、貧乏が悔しくて、勉強に励んだ。勉強を頑張れば、偉くなって、たくさんお金を稼げる気がした(その考えは正しかった)。

 中学に上がり、部活は道具を自費で買わなくて済む陸上部を選んだ。英単語を覚えて、走り、年号を覚えて、また走る。

 高校は特待生として入り、さらに東京の名門大学に合格して奨学金を受け取った。都会での一人暮らしにはすぐ慣れた。その頃には小学校時代の悔しさは薄れ、努力が報われる喜びの方が勝るようになっていた。

 課外活動はもちろん陸上部。陸上サークルでなく陸上「部」。ピリピリとした雰囲気が性に合っていた。

 あらゆることが順調だった大学二年の夏、盆に帰省して、信じられない話を聞いた。

 母がオレオレ詐欺に引っかかったのだ。そう、今は「振り込め詐欺」だが、当時はまだ「オレオレ詐欺」と呼ばれていた。

「うち、息子いないじゃん」

 呆れ果てた私は、漫才のつっこみのような口調で言った。

 相手は「甥」を名乗ったのだという。なんでそんな馬鹿な話に……と思うが、冷静さを失わせるのが奴らの手口。母は簡単に乗せられた。

 家のことは心配しないで、自分のことを頑張れという母に、憐憫や感謝よりも、怒りを覚えた。何考えてるの? 悔しくないの?

 私は悔しい。奮起して、より一層熱心に勉強し、陸上部の練習にも精を出した。

 大学間対抗レースに代表選手として出られるかも知れない。そういうところまで来た時、今度は私自身を悲劇が襲った。

 悲劇、と呼ぶにはお粗末なやり方だ。部内の選考レース当日、靴を――よく足に馴染んだ、言わば「愛機」を――隠された。追求しなかったけれど、犯人は雰囲気でわかった。親友だった。親友だと思っていた。


「裸足で走れば良かったではないか」

 メロスが言った。

「あんたとは違うの」

 借金の保証書やオレオレ詐欺の説明にも苦労した。そのあたりの事情をこの時代の人間に理解させるのは難しい。どの時代だか知らないけど。古代? かな、多分。

 私たちは森の中を走っている。木の根を飛び越え、茂みを突っ切る。走りながら喋るのにも慣れてきた。

 メロスが走りながら木の実を二つもぎ取り、一つ投げて寄越した。かじってみる。甘い汁が細胞に染みわたる。

「要するに、一家揃って人に騙されたというわけか。そしてお前は人を信じられなくなった」

「何か納得できないところでもある?」

「いや、わかる。自然の流れだ」

 おや? 意外と素直。

「俺もお前と同じ運命を辿っていたら人間を信じなくなっただろう。恐らくは王も、これまでに幾度か騙され、傷ついたのだろうな……」

 木々の合間、町並みが見えた。あれがシラクスの都か。太陽はまだ高い。この調子なら間に合うだろう。

 いや、何故そんな風に考える? 間に合わなくていいのだ。セリヌンティウスには悪いけど、私はこいつを引き留める。生ぬるい物語を変えてやる。

「わかってくれてありがとう。でも、あんたはまだ少し誤解してる」

「何を?」

「私は人を信じられなくなったんじゃない。人を信じちゃいけないってことを理解したの。発見したの」

 信じる者は救われない。それが真理。英単語や年号なんかより、先に教わりたかったこと。

 足元にアリの行列。何かの死骸を運んでいる。

「この世は弱肉強食。父も母も、私も、食われた。今度は食う側に回ってやる」

「人を騙せ。欺け。お前はそう言いたいのか?」

「そこまでは言わない。正攻法で勝てるから。でも人を信じろって叫ばれたら、黙ってはいられない」

 メロスは応えなかった。彼の足は止まらない。ペースは落ちない。

 会話が途切れた。さて、何を言おう。どんな話をすれば説得できるだろう、この強情そうな男を。

 そもそも、今、異様なほど人を信じているのは、メロスでなくセリヌンティウスの方だ。見張りもついていない死刑囚が一時出所するための身代わりなんて、たとえ親友でも考えられない。

 何しろ、死ぬのだから。約束の時間までにメロスが戻らなければ、セリヌンティウスはあっさりと死ぬ。

 メロスを待つ間、セリヌンティウスは何もできない。何の努力もできない。祈ったところで、自分が助かる確率は一パーセントも上がらない。信じてただ待つのみ。正気の沙汰とは思えない。

 確か『走れメロス』では、メロスは刑場に辿り着いた後、一度走るのをやめてしまおうかと思ったことを恥じて、セリヌンティウスに殴れと言った。それに答えてセリヌンティウスは、三日間で一度だけ疑ったことを告白し、メロスに殴れと言った。二人は一発ずつ殴り合い、ひしと抱き合う。まるで古い少年マンガ。いや、それよりも、セリヌンティウスがメロスを疑ったのが「一度だけ」なんてあり得ない。

 もし私がセリヌンティウスだったら、一度とか二度とか、数えることすらできないだろう。メロスが去った直後にもう疑い始める。昼も夜も疑い続け、やがて「メロスは戻ってこない」と確信する。

 だって、助かるのだから。私を見捨てさえすれば。簡単なことだ。死が目前に迫った私にはわかる。人は死にたくない。石にかじりついてでも生き延びたい。だから、メロスはきっと見捨てる。私は後悔する。三日間も耐えられず、いっそ殺してくれと願うだろう。発狂するかも知れない。

 メロスが戻ってきた時は、まず驚く。天地がひっくり返ったような衝撃を受ける。そして、あまりの安堵感に、足腰が立たなくなる。たとえ大観衆の前でも、「一度だけ疑った。殴れ」なんて格好つける余裕はない。

 私の心が特別汚れているわけじゃないはずだ。普通の人は、セリヌンティウスよりも、私に近いはず。セリヌンティウスは理想的過ぎる。それこそ、まるで神様だ。「一度疑った」ぐらいの譲歩で、人間味が出せているなんて思わないでほしい。作り話だってことはわかっているけど、あまりにも現実とかけ離れている。

 私は気付いた。本当に文句を言ってやりたい相手はセリヌンティウスだったのだ。でも、この場にいない。いない相手には何も言えない。仕方がないからメロスを止める。現実の厳しさを突きつけてやる。

 さぁ、どうする? どうやって止める?

 いっそ力ずくで? いや、それは無理だ。いくら私が日頃鍛えているといっても、この太い腕にかかったらひとひねりだろう。

 だいいち、力ずくで止められたとしても、本意ではない。メロスが「本音」を白状して、自分で「セリヌンティウスを見捨てる」と決断してくれるのが一番いい。それでこそ人間だ。

「何を考えている、女」

 と、メロスが声をかけてきた。

「別に、何も」

「やけに静かではないか。俺に言いたいことはもうおしまいか?」

 上手い返しが思いつかない。

「では、今度は俺が訊こう。何故俺を助けた? 俺があのまま川に流されてしまえば、お前の目的は果たされたのではないか?」

「あの時は、あなたがメロスだって知らなかったから」

「では、知っていたらどうだ?」

 ――わからない。

「それでもきっとお前は助けてくれただろう」

「どうでしょうね」

「赤の他人や、敵対者ですら、見殺しにはできない。自分を信じて待ってくれている親友なら、なおさらだろう」

 相手を助けて、自分も助かるならね。そう言おうとした時、左右の木の陰から男たちが現れ、行く手を塞いだ。

 六人。めいめい、手に剣や棍棒を持っている。

 山賊だ! 本物の、山賊。略奪者。身がすくんで、声も出ない。

 頭目らしき、髭の男が言った。

「金目のものを置いていけ」

 メロスは落ち着いた声で言った。

「ご覧の通り、何もない」

 一応、私の腕時計があるけど。

 髭の男が剣の切っ先をメロスに向けた。

「貴様の首に価値がある。王が金に換えてくれる」

「やはり王の手先か」

 メロスが身構える。戦う気だ。私、どうしよう。

「この女には手を出すな。彼女はお前らのお仲間だ」

「知らんぞ、そんな女」

「目的が一緒だ。俺を止めようとしている」

「仲良く走っているように見えたがな」

「奸計をめぐらせていたのだ。そうだろう?」

 そうなんだけど、声が出せない。

 髭の男の口もとが不気味に歪んだ。

「安心しろ。その女は貴様を殺した後、たっぷりかわいがってやる」

 時代劇みたいなセリフ。これだけベタな展開なんだから、メロス、勝てるんだよね? 確か『走れメロス』では相手の武器を奪って……。

「死ね!」

 髭の男が剣を振り上げ、メロスの脳天めがけて打ち下ろす。メロスはその腕をばしっと捕らえ……いや、捕らえなかった。下がってよけた。

 どうも期待していたのと違う。雲行きが怪しい。

 メロスが言った。

「逃げろ」

「え?」

「奴らの狙いは俺だ。お前は逃げろ。その足なら逃げ切れる」

「そんなこと……」

「できないか? お前がさんざん俺にやれと言っていたことだぞ。他人を見捨てて自分が生きる。さぁ、俺の目の前でそれをやってみせろ」

 やってやる、お望み通り。と、思ったけれど、足が動かない。

 すくんでいる所為ばかりではない。何か大きな力が働いている。蹴落とせない、他人なのに。

「私が逃げた後、あんたも上手く逃げおおせるかも知れない。だから、あんたを置いては行けない」

 そう言うのが精一杯だった。

 メロスは苦笑して言った。

「では、そういうことにしておいてやる」

「何をごちゃごちゃ言ってやがる!」

 男たちが一斉にメロスに襲いかかる。

 メロスは腕で頭をかばいながら、棍棒を持った男に体当たりした。男は真後ろに倒れながらも、握った棍棒は離さなかった。そう簡単に武器は奪えないらしい。

 そして、メロスも体勢を崩し、前のめりに倒れた。だが、すぐさま、転がっていた石を拾って起き上がり、近寄ってきた男に投げつけた。石は当たらなかったが、男たちは次の攻撃を躊躇した。既にメロスがもう一つ石を拾っていたからだ。

 その手があったか。私も石を拾い、思い切って投げつけた。当たったらごめん。当てようとしてるけど。

 石は髭の男の背中に命中した。

「てめぇ、何しやがる!」

 私の方を向いた髭の男の後頭部を、メロスの拳骨がしたたかに打った。男は気絶……しなかった。やっぱり映画みたいにはいかない。それでも、男たちの怯む気配ははっきりと感じられた。

「逃げるぞ」

 と、メロスの声。私に言った?

「ぐずぐずするな!」

 メロスは素早く私の手を取り、棍棒の男に蹴りを入れながら、都の方へ向かって駆け出した。

 ……逃げるんだ。いいんだけど、逃げ切れる?

 ほら、追いかけてきた! みんな滅茶苦茶怒ってる。

「手を離して! このままじゃ走りにくい」

「わかった」

 男たちの怒号。怖くてもう振り返れない。

「後ろを見るな」

 ええ、言われなくても。

「大丈夫だ。追いつけやしない」

 大丈夫かな。短距離は苦手なんだけど……。

 メロスは走りながら、時おり石を拾って後ろへ投げた。男たちも石を投げ返してきたが、幸い、私たちに当たることはなかった。

 無我夢中で走った。走れた。自分の体力に驚いた。男たちの声がだんだんと遠のいていき、やがて聞こえなくなった。振り切れたのだ。

 森を抜け、街道らしきところに出たところで、メロスが立ち止まり、地面にどっと腰を下ろした。その顔は笑っていた。私もつられて、笑った。


 その後、私たちは身動きが取れなくなってしまった。メロスが立ち上がれないのである。何度か立とうとするが、すぐ崩れ落ちる。

「動いちゃ駄目だってば」

「休んでなどいられぬ」

「そうは言っても、立てないでしょう」

「何のこれしき……」

 片膝をつき、うつむいたメロスの鼻や顎から、大量の汗がしたたり落ちる。

「ちょっとごめん」

 と、私はメロスの額に触れた。

「何をする」

「いいから、じっとしてて!」

 熱がある。それにこの汗。間違いない、熱中症。

 さらに私は、メロスの服の裾をまくり上げ、足を調べた。

「おい、よせ」

 メロスはうろたえたが、無視した。

 捻挫や肉離れは起こしていないけれど、軽い痙攣がある。これも熱中症の症状だ。

 考えてみれば、メロスはあの激流を泳いで渡り、それ以前にもずっと走り続けていた。そしてさっきの格闘。逃げながら石を拾って投げる動作もかなり負担がかかったはずだ。消耗の度合いは私の比じゃない。

 男たちから逃げられた安心感で、自分自身もどっと疲れが押し寄せてくるのを感じていた。いつ倒れてもおかしくない。

「少し休憩しましょう」

「勝手に休んでいろ。俺は行く」

「言うことを聞いて。これ以上無茶したら、脱水症状起こして本当に死ぬかも知れない」

「どうせ死ぬ身だ。どうなろうと構わぬ」

「着く前に死ぬって言ってるの!」

「俺が辿り着けなければ、お前の望み通りだろう」

「違う。死んでほしいわけじゃない。あんたの心の闇が見たいの」

「……酔狂な」

 太陽は容赦なく照りつけてくる。

「さっき全力で走った分、まだ時間はある。大人しくしてて」

 しばらく安静にしていなければならない。いや、それだけでは足りない。水分と塩分が必要だ。

 水を捜しに行く? 近くに河は見当たらない。森へ引き返したらまた山賊たちに出くわす可能性もある。雨さえ降ってくれればと思うが、憎たらしいほどの快晴。天の恵みに期待はできない。

 塩分はどうする? 痙攣は血液中の塩分不足が原因。水を飲んだだけでは治らない。塩タブレットを持ってくれば良かった。ランステのロッカーに入っているのに。

 ――どうやって元の世界へ戻るのか。そのことは不思議と気がかりではなかった。結末を見届ければ、恐らく。とにかく今はそれどころじゃない――

 メロスの顔色が悪い。このままじゃ本当にまずい。

 その時だった。街道の向こうから、荷馬車が近づいてくるのが見えた。都へ向かっている。

 ラッキー! よし、ヒッチハイクだ。親指を立てても通じないだろう。手を高く上げて、大声を出す。

 馬が駆け足になって近づいてきた。良かった、助けてくれそう。

 荷馬車の主は、事情を尋ねるより先に、「乗りなさい」と言った。

 メロスに肩を貸して、荷台に座らせる。馬車が走り出す。積み荷の樽がごとごとと揺れる。

「喉が渇いているだろう。これを」

 と言って、荷馬車の主は水の入った皮袋を渡してくれた。

「ありがとう、おじさん!」

 思わず声が弾んだ。

「すまぬ」

 メロスの声は弱々しい。

 先にメロスに飲ませる。すると、一口だけ飲んで、返してきた。

「もっと飲んで」

「お前も飲め」

「わかった。私も飲むから、残りは飲んで」

 一口、含んだ。体の芯へ一気に吸い込まれていく。どんな上物のワインよりおいしい。全部飲み干しそうになるのをぐっとこらえて、メロスに皮袋を渡す。

 あとは、塩分。

「ねぇ、おじさん。塩持ってない?」

「塩?」

「ちょっとだけでいいんだけど」

 流石に、ないよね。塩なんて普通持ち歩かない。

「その樽の中身はオリーブの塩漬けだ。適当につまんでいいよ」

「本当に?」

 樽の蓋を開けると、緑色の宝石みたいなオリーブの実がぎっしりと詰まっている。

「いただいていいの?」

「ああ」

 何度も感謝を述べて、オリーブを一つつまみあげ、口に放り込んだ。

 酸味と塩気が口いっぱいに広がる。あまりにおいしくて、身震いした。心の中で活力のメーターがぎゅんと上がる。足りなかったものが満たされていく。

 遠慮するメロスにも無理やり食べさせた。とりあえずこれで大丈夫なはず。都に着くまで、しばらく休める。

 メロスが荷馬車の主に言った。

「ご主人、世話になりっぱなしで厚かましいことは承知の上だが、少し飛ばしてくれないか」

「お急ぎかね」

「ああ」

「お安いご用」

 と、荷馬車の主が馬に鞭を打った。

「恩に着る」

「都の門まででいいのかい? 行きたいところまで送ってやろうか?」

「いや、結構。門までで十分だ」

 メロスに手を貸したと知れれば、荷馬車の主があとで王から咎めを受けるかも知れない。そうメロスが考えていることは、言葉を交わさなくてもわかった。

「わしに気を遣ってくれるのかい。遠慮するな。刑場まで送ろう」

 思わず、メロスと顔を見合わせた。

「メロス、あんたは町じゃ有名人だよ。戻るか戻らないか、賭けをしてる連中までいる。戻らないに賭けてる奴の方がずっと多いがね」

「そうか。彼らには悪いことをした」

「よく戻ってきたな。大したもんだ」

「俺とて迷わなかったわけではない。村を出るまでが大変だった」

「なるほど、そうだろうな。しかしよく迷いを捨て切れた」

「いや、今でも迷っている」

 え?

「そうなのかい?」

「迷いは捨てたつもりだった。だが捨て切れてはいなかった」

 荷馬車の車輪が小石を踏んで、メロスの横顔が揺れる。

「この車に拾ってもらう前、俺は無理に進もうとしていたが、実を言えば、本当に進みたいなら休むべきだと理解していた。俺は、自ら限界に達して、諦める口実を作ろうとしていたのだ」

 そうだったんだ。だったら――

「悪いことしたね」

「いや、全面的にそうだったというわけでもない。だが、確かにそういう意識もあったと、認めざるを得ない。お前は適切な助言をして、自分の首を絞めたわけだ」

 まぁ、そういうことになる。陸上部出身の癖が出た。

 荷馬車の主が言った。

「馬を止めようか? ここで降りても、わしはあんたを軽蔑しないよ」

「しかし尊敬もできなくなる。そうだろう?」

「そうだな」

「このまま行ってくれ。あんたの荷馬車は勇者を乗せている」

「わかった。気が変わったらいつでも言ってくれ」

 メロスは迷いを認めた。それでも行くってこと? あやふやなままで?

 私の疑問を察したように、メロスが言った。

「俺が迷おうが何だろうが、行かねばならぬことに変わりはない。迷いを抱えたまま行くのもまた一興。ただし、王の前では虚勢を張ってみせるがな」

 虚勢というなら、きっと今でもそうなのだろう。誰かが見ているから、自分に鞭を打てる。

 ランニングにも、そういうところはある。走るのはあくまで個人。見ているのは他人。別に誰も褒めてくれない。けれど、人の目があるから頑張れる。怠けたがる気持ちを押し殺せる。

 もしかして、メロスをここまで連れてきたのは、私? 何だか頭がぼうっとする。

「今さらだが、名前を教えてくれないか」

「玲子」

「レイコ、まだ足りないか?」

 メロスはまっすぐに私を見つめている。

「俺が見苦しく荷馬車を飛び降りれば、お前は満足か? その方が人間らしいか?」

「そう、だと、思う」

 顔も知らぬ、父と母を騙した人間を思い浮かべた。人間は、裏切る。他人を蹴落とす。それが本質。

「ならば、『人間らしさ』の定義を、俺が変えてやる」

 かすかに声が震えている。荷馬車の揺れのせいではない。

「俺の方が、人間らしい」

 死を恐れているのだ。自分の足で走るより、運ばれていく方が、きっと恐怖は強い。

 私は何を見たいのだろう。こんな格好いいことを言って、土壇場で逃げ出すメロス? 

本当にそうだろうか?

 こんがらかったままの頭で、尋ねた。

「セリヌンティウスって、どんな人?」

「どうということもない。普通の男だ」

 そっか。普通か。

 妙に納得しながら、私は眠りに落ちた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る