メロスとの併走

森山智仁

第一話

「お先、失礼します」

 タイムカードを切る。午後五時六分。定時で上がれる職場に感謝しながら、颯爽と街へ出る。

 風が温かい。ヒールがアスファルトをリズミカルに叩く。

 向こうから高校生のグループが歩いてくる。男子三人、女子二人。きっと新入生だ。制服姿が初々しい。けれど、四月にしては打ち解けた雰囲気。中学が一緒だったのだろう。弾ける笑顔に、桜の花びらが舞い散る。

 すれ違いざま、心の中でつぶやく。今のうちにせいぜい友達ゴッコを楽しんでおきなさい。この世は競争なんだから。

 茅場町駅の階段を下りていく途中で、着信音が鳴った。母親。無視してバッグに携帯を放り込む。三分後の電車に乗りたいのだ。相手をしていたら乗り遅れてしまう。

 だいいち、大した用件もないに決まっている。野菜は食べているか、恋人はできたか、いつもそんな話ばかり。

 ご心配なく。彼氏ならいます、二人もね。

 中野行きの電車に乗って、二人の恋人へ同時にメールを送る。

「今夜、行っていい?」

 どっちでもいい。先に返信が来た方に行く。

 一人は職場の先輩。仕事はできるし顔も悪くはないけど、一緒にいてちょっと疲れる。もう一人は大学の後輩。小説家志望のフリーターで、応援してないし尊敬できないけど、甘えさせてくれる。

 たった二駅。あっという間に着いた。

 前を歩いていた中年の男が自動改札で引っ掛かり、心の中で舌打ちする。「自動改札で引っ掛かる人間」を、私は理解できない。カードの残高ぐらいどうして把握しておけないんだろう。


 仕事で成功する人間は皆、体を動かすことに一定の時間を割いているという。

 ランニングの習慣は中学時代、陸上部に入ったことがきっかけで身についた。以来十五年、ずっと続けている。体より心の健康を保つためだ。

 足を怪我して一ヶ月ほど走れなかった時、錆びた錨みたいに気持ちが重くなって、走ることが自分にとってどれほど大切だったかを思い知らされた。

 血を通わせるのだ、自分の心に、自分の力で。

 美容にいいだけじゃない。毎日運動しているのといないのとでは、頭の冴え方がまるで違う。

 受験や就職に成功したのもランニングのおかげだと、私は確信している。


 行きつけのランニングステーションは大手町駅直結だ。

 自宅や学校、職場の周辺を走るのでない限り、荷物やら着替えやらをどうするかという問題は常につきまとう。それらを一挙に解決してくれるのがこのランニングステーション、通称ランステである。ロッカーとシャワーが使えて一日八百円。会員になれば一ヶ月四千円で、バスタオルも借りられる。

「月四千円!? 走るだけなのに? よく出せるね、そんなお金」

 同期の里香は目を丸くしたけれど、決して高くはない。たかが飲み会一回分。

 だいたい、里香の懐が寂しいのは、お金の使い方が下手だからだ。この前は男にウン万円もする時計をプレゼントしたとか言って、独りで悦に入っていた。多分、相手はさほど喜んでいないだろう。

 それに里香は服にも化粧品にもお金をかけ過ぎる。高いやつを買えばいいってもんじゃない。大事なのは着こなしやメイクの技術。春の新色だか何だか知らないけど、その前にアイラインの引き方練習しなよ。

「宮川さん、こんにちは!」

 ランステのフロントで、顔見知りの女性スタッフが声をかけてきた。化粧っ気のない、健康的な笑顔。里香よりよっぽどかわいい。

「今日あったかいですね」

「うん」

「きちんと水分補給してくださいね」

「ありがとう」

 受け取ったキーをカチャリと鳴らす。

 清潔なロビー、爽やかなスタッフ、ほどよいボリュームで流れるラジオ。

 正直に言おう。この「セレブ感」(本物のセレブには笑われるだろうけど)も、私がここを利用する大きな理由の一つだ。自分が勝ち組になったような気がする。いや、実際、勝っている方だと思う。

 荷物と着替えの問題をもっと安く解決したいなら、銭湯を使うという方法もあるらしい。使ったことはないけれど。

 ふと携帯を確認する。新着メールなし。今日は二人とも返信遅いな。ま、別にいいんだけど。

 ロッカー室に入る。この時間帯はいつも混雑している。私と同じような仕事帰りのランナーが多いのだ。

 よく見かける顔もいくつかある。けれど、決して声はかけない。私にとってランニングは自分だけのためのものだ。

 友達なんか作って、一緒に走ろうみたいな流れになったら、相手に合わせなきゃならなくなる。はっきり言って私は速い。ちんたら走ってたら気が狂う。シャワーの後一杯いこうなんてのはもっと勘弁。時間の無駄遣いでしかない。

 現代社会は人間関係が希薄だとか嘆く人がいるけど、私は何も問題だと思わない。基本、しがらみでしかないもの。他人との繋がりは必要最低限でいい。あ、フロントの彼女は別ね。お互い邪魔にならない関係なら大歓迎。

 髪を束ねる。ロッカーを閉めて、キーを回す。靴ひもをギュッと結ぶ。よし、準備OK! 今日は何となく体が軽い。


 皇居ランニングの愛好者は多い。

 アクセスは文句なし、景観も良し。一周約五キロという距離は初心者にも走りやすいし、途中信号待ちがないというのも魅力の一つ。

 周辺には交番が多く、女性ランナーの安心材料になっている。

 ただ、人が増えればいさかいの種も増える。あちこちにマナー遵守を呼びかける看板が立てられている。

 いわく、逆走は控えよう(基本は反時計回り)、音楽プレーヤーのボリュームを抑えよう、ゴミを持ち帰ろう、等。

 どれも当たり前のことばかりだと思うが、わざわざ書いてあるのは守らない人間がいるからだ。

 害虫みたいな奴らはどこにでもいる。職場にも。ろくに仕事もできないくせに口だけは達者な上司とか、サボり方しか考えていない新人。あの人たちは一体何が楽しくて生きているんだろう。


 大手門の前で準備体操をしながら、あたりを見回す。

 いたいた。黒のキャップにサングラス、高そうなシューズ。私のライバル君。

 歳は多分二十二、三だろうか。素顔を見たことがないからわからないけれど、とにかく私よりは若そうな雰囲気。

 ライバルと言っても、言葉を交わしたことはないし、会釈すらしない。こちらが勝手にライバルだと思っているだけ。でも、向こうも私のことは意識しているはずだ。

 彼は必ず私より少し遅れてスタートする。一定のハンデをつけて、「どこで彼女(私のこと)を追い越すか」が彼のテーマなのだ。つまり、私の側からすれば、「どこまで追い越されないか」がテーマ。

 はじめは竹橋駅付近でいつも追い越されていた。それが、国立近代美術館の前、千鳥ヶ淵の交差点とだんだん遠くなり、今では半蔵門のあたりまで来ている。ライバル君の登場のおかげで、陸上部時代の勘が戻ってきたのだ。

 「自分のペースで」、「無理はしない」。それもランナーの心がけの一つではある。でも、競う相手がいれば俄然モチベーションが上がる。

 この世は競争だ。ずっとそうだった。

 私が今、都会のオアシスで夕日を浴びながら背伸びなんかしていられるのは、ひたすら勝ち上がってきたからに他ならない。

 誰とも戦わず、故郷の田舎町でそれなりの努力しかしなかったら、それなりの生活しか手に入らなかったはずだ。

 私はまだまだ上に行く。必要とあらば、他人は蹴落とす。いくらでも。

 タッ、と乾いた音を立てて、スニーカーが地面を蹴った。


 音楽はいらない。風の音だけを聴く。

 でっぱったお腹が重そうなおじさん、ほとんど歩いているようなペースのおばさん、ダサいジャージの学生たち、みんな追い越して、私は走る。

 横に広がって走る仲良しグループは、わざと大きな足音を立てて、どかす。慌てて道を開けた烏合の衆どもの間を突っ切る。

 私を追い越していくのは車道の自動車ぐらいだ。その自動車も、前の信号が赤になれば止まり、抜き返される。

 歩道を行くのはランナーばかりではない。地味なスーツのサラリーマン。追い越した後、視線を感じる。スタイルにはちょっと自信がある。

 竹橋駅から先は緩やかな上り坂。ペースは落とさない。ぐんぐん走る。

 自分の体を使いこなしている。その実感が私を満足させる。食べたものが胃で溶け、腸から吸収されて、エネルギーに変わり、脳の命令に従って、手足を動かす。しなやかに。効率的に。

 派出所を過ぎたところで、視界が開けた。前を走る人間がいない。前から来る人間もいない。

 じゃあ、ちょっとだけ、いいかな。

 目を閉じて走るのが好きなのだ。勿論、人とぶつかる心配のない時に、ほんの少しの間だけ。

 目を閉じると、まるで快適な乗り物に運ばれているような気分になる。感覚が研ぎ澄まされて、木々や水の匂いがずっと強くなる。堀から立ちのぼるマイナスイオンを、全身で吸収する。

 怖いもの知らずというわけじゃない。もちろん怖い。ドキドキする。でも、それがまたいい。ドキドキなんて、恋愛ではもう随分感じていない。

 ふと、違和感があった。いつもと何かが違う。

 わかった。水音だ。

 堀の流れは遅い。普段ならこんな音はしないはず。今日は工事でもしているんだろうか?

 それに、何だか暑い。陽が出てきた? いや、元々晴れていた。

 目を開けると、そこは――

「……何これ」

 赤茶けた大地。強烈な西日。私の知らない世界だった。

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