自殺未遂をやめない彼女

七星

彼女が自殺未遂をやめない理由

 俺の幼なじみは、自殺が趣味のような女だ。

 正確に言うと自殺未遂だが。俺に自殺を止めてもらうのが趣味、と言いかえてもいい。

 昔はそんなんじゃなかった。よく笑う子だったし、ぎゃんぎゃんと泣く子だった。あんな淡い微笑みなんて浮かべたことはなかったし、小説を読みながら無言で涙を落とすような子ではなかった。何が彼女を変えてしまったのかを語る人はいない。

 だから今日も俺は自殺予告を受け取って、走って屋上へ向かうしかないのだ。

「……雪」

 荒い息をついて屋上までやってきた俺を見て、彼女────雪は顔だけ振り返って笑った。屋上のフェンス向こう、張り出したコンクリートの上に座って、ぶらぶらと足を空中に投げ出して、笑う。またあの微笑みだ。何を考えているのか全く分からない、淡く溶けてしまうような。

「早いねえ、なおくん」

「……戻るぞ」

「どうして?」

 微笑みを貼り付けたまま聞いてくる。俺は顔を顰めた。理由なんていくらでも転がっているだろうに。

「そんなとこにいたら、お前にいらん説教をしようとする奴が出てくるからだ」

 俺は一番自分が強く思う理由を言うことにしている。初めて自殺を止めた日から全く変わらない理由だ。

 雪に必要なのは説教ではないのだ。彼女に悪いことをしているという意識はない。

「そんなの、別に大丈夫だよ」

 案の定、そんな言葉が帰ってきた。

 いつもの会話だ。少し言い回しが違うだけで、毎日かわされている言葉。

 あっけらかんとした雪は芯が強い。幸か不幸かそれだけは昔から変わっていないらしく、周囲にどう思われようと構わないと思っている節がある。

 俺はすいっと目を眇めた。

「なら何が大丈夫じゃないんだ」

「ん?」

「大丈夫じゃないことがあるから、そんなことしてるんだろうが。違うのか」

「うーん……違わないけど、でも、大丈夫じゃないのは私じゃないから」

「は?」

 いつもと違う言葉だった。いつもなら、大丈夫じゃないことなんて誰にでもあるとか、それこそ俺にだってあるだろうとか、なんとか、そんなふうなことを言ってはぐらかしてくるのに。

 ある種のチャンスのようなものが目の前に降ってきたように感じて、俺は仁王立ちのまま首を傾ける。

「じゃあなおさら、お前がそんな意味不明なことする必要はないだろ」

「意味不明なんかじゃないよ。ちゃんと意味はあるよ。私以外じゃ意味無いんだから」

「なんだ、それ」

「なんだろうねえ」

 ここまで、と彼女がラインを引いたのが分かった。これ以上は雪は貝のように何も話さない。長年の経験でそれを知っていた俺はため息をついて、ゆっくりと彼女の目を見据える。

 阿呆みたいに聞こえるかもしれないが、俺の戦いはこれからなのだ。今までのは全部前振りのようなものである。

 まるで戦場に赴くかのように歩を進めて、俺は駆け上がる勢いでフェンスを登った。一連の動きを、雪は瞬きすらせずに見つめている。

 コンクリートの上に降り立って、俺は彼女に手を差し出す。

「戻るぞ」

 雪は何も言わなかった。代わりに少しだけ眉を下げて悲しげに微笑み────

 そのまま、ゆらりと前に倒れ込んだ。

「雪!」

 目を見開いて足元を蹴る。

 この屋上は結構広い。フェンスの真下から屋上の端まで全速力で走って、なんとか届くかどうかというところだった。

 心の中で舌打ちする。いつもそうだ。彼女は俺がフェンスから降りた途端に、見せつけるようにゆっくりと落ちようとする。でも彼女は面白がっている風ではなくて、むしろ締め付けられる痛みを感じたときの顔をしているから、俺はまともに怒鳴ることすら出来ない。

 彼女の体が完全に空中に投げ出された瞬間に手首を掴んで、勢いを殺さずに引っ張り上げる。投げあげる感覚に近く、見た目に違わず軽い雪の体は簡単に屋上へと戻された。

 二人でばったりと倒れ込んだ後は、もう荒い息をついて雪を睨みつけるのが恒例だ。

「お前……そういうのはやめろよ、脱臼するだろ」

 実際脱臼したことは一度や二度ではない。雪の肩をさすりながら睨みつけると、彼女は寂しそうに、けれど嬉しそうに微笑む。

「おはよう、直くん」

「……毎度毎度、随分なラジオ体操だな」

 長いため息をつく。

 これが毎日の恒例だ。もう半年ほどになるだろうか。高校に入ってから、毎日、毎日。

 雪がこんなことをする理由が分かれば、彼女はこの行為をやめてくれるのだろうか。いつか雪の体が、腕が、自分の手をすり抜けて地面に紅い華を咲かせるのではないか──そんな不安が俺の頭から消える日は来るのだろうか。

 俺は雪の体をもう一度抱きしめる。彼女が楽しそうに笑うのが嬉しいだなんて、ちょっと毒されているなんてのは分かってる。




「よお。今日も早いなー、流石早川」

「よく分からんイジリはやめろ、千崎」

 悪い悪い、と笑うのは俺のクラスメイトの千崎遼だ。俺の前の席に座ってにかっと笑っている。

 ちにみに雪は隣のクラスで、既に読書に没頭していた。俺の気も知らないで、あの活字中毒め。

「毎回毎回一番乗りなのムカつくよなー。別にお前、家近いんだしこんなに早く来なくてもいいんじゃねえの?」

 家が近いから雪の自殺未遂に呼び出されてもすぐに来れるのだ──とは言えない。言ってやりたいが。というか一番乗りだとムカつくって、小学生か。

「足の速さだとお前の方がタイムいいんだから良いだろ」

 俺と遼は陸上部で、俺は遼に勝てたことがない。

「それとこれとは別腹だっつーの!」

 訳が分からない。

 どうしてこんな奴とつるんでいるのだろうと思うこともあるが、遼よりも雪のほうが数段訳の分からない奴なので慣れてしまった。

 雪は学校が開くまで校門で待っているという今どき珍しいくらいの優等生だ。その優等生が早く学校に来ている本当の理由を知ったら教員一同卒倒するに違いない。

 俺も、本当に自殺を止めたいならそれくらい早く学校に来れば良いのだ。けれどいつも期待してしまう。今日はもしかしたら自殺する気がないかもしれない、もしかしたら寝坊しているかもしれない。

 入学してから毎日、一度たりとも欠かさず雪は自殺未遂をしているのにも関わらず、俺は毎朝そうやって期待して、メールが来ないことを願っているのだ。

「つーかさ、真面目な話」

 ぼうっとしているところに遼の話が降るように飛び込んできて、俺は遼のほうに顔を向ける。

「お前さん、なんでそんな早く学校来てんの?」

 遼は真顔で問いかけた。いつもは犬のようなその瞳が黒曜石の如く光っている。

「勉強してるわけでもないし読書が趣味ってわけでもないし、かと言って朝早くから先生に呼び出されるほどの落ちこぼれでもないし可愛い彼女とイチャついてるわけでもないし」

「最後のは必要か?」

「必要必要、超重要だから。俺お前に彼女出来たら絶交する用意出来てるから」

「嫌な備えすんな」

 脆い友情だな。

 からからと笑う遼だったが、見れば目だけは全く笑っていなかった。俺は開きかけた口を閉じた。ぐっと喉に力を込める。

 こいつは馬鹿に見えるが結構鋭い。油断したら食われる。

 俺は暫く黙って、ゆるりと首を振った。

「そんなん俺の勝手だろ」

「うわー、秘密がある俺かっこいい的な雰囲気、いけ好かねー」

 絞め殺したい。

 俺がどんな思いで学校来てると思ってんだと本気で怒鳴ろうとしかけたとき、遼はにやりと笑った。

「ほら、やっぱそんな顔するってことは、何かあるんだ」

 すぱりと切り込むように告げられて、俺は口を噤んだ。やられた。こいつはこういうのが得意なのだ。気をつけようと思ったばかりだろうに。頭の中でため息をつきながら、これから来るだろう言葉の銃撃戦に備えて、理論武装を組み立てる。

 しかし彼はそのまま軽やかに席を立った。

「ま、それじゃー俺は自分の席に戻りますよーっと」

「……は?」

 思わず口をぽかんと開けてしまう。いや、ちょっと待て。

「おい遼」

「んー?」

「なんかないのかよ」

「なんもねーよ?」

 当たり前のように伝わり、当たり前のように返されて困惑し、そのまま俺の口は言葉を発することなく閉じた。代わりに遼がにっと笑う。

「お前にも俺にも、言えねーことの一つや二つや十個や二十個くらいあんだろ」

「秘密がありすぎだろ」

 もしかしてこいつ、冗談を言わないと会話できないんじゃないかとすら思った。けれども俺の体から力が抜けたのも事実で、それ以上は言わない。

「お前が自分の口から言ってくれることが一番だから。そうじゃねーと俺が無理やり言わせたみたいで気持ち悪いじゃん」

 そう……なのか。そういうものなのか。

 呆然とした俺に手をひらひらと振って、遼は自分の席に戻っていく。キンコンとチャイムが響いた。




 風を切って走る。右足とか左足とか呼吸とかはとっくに意識していなかった。自分が風そのものかのような感覚に陥りながら、走る、走る。

 ゴールラインを踏みしめた瞬間、静寂から喧騒へと引っ張り出された。別になんの音がしたわけでもないしゴールラインを踏んだ感覚なんていうのもないのに、急に視野が広くなる。目の前に肩で息をする遼が見えた。

 どうやらまた負けたらしい。

「よー早川! お前またタイム縮んだんじゃね!」

 勝者の余裕を漂わせることもなく、屈託ない笑顔を浮かべる遼に苦笑した。もしタイムが縮んでいるとしたら、それは同時に遼のタイムも縮んでいることになるのだが、そこは頓着しないらしい。

「お前もな」

 早く走りたいのは雪の為であって陸上部の為ではないので、別に負けたことはどうでもいい。長距離なら俺が一番早いし。

「にしても暑いなー!」

 ばったりと地面に倒れ込み、遼が笑う。暑さも寒さも彼は気にせず笑うのだ。ちょっと羨ましい。その感情の起伏を雪に分けて欲しい。

「なー早川さんよー」

 しかしその呼び方には少し引き気味になる。

「なんだよ、気持ち悪いな」

 体も引き気味に答えると、遼はから笑いを一つしたあと、ぼそりと言った。

「……テスト勉強一緒にしようぜ、学年主席」

「……腑に落ちたわ、万年赤点」

「いや今回ほんとやばいんだって! 俺のスマホの命がかかってるんだって!」

「はいはい」

 苦笑しながら遼を引き起こしたとき、彼は何かに気づいたように上を見上げた。

「あ、ゆきちゃん」

 どきりとして手を離してしまった。いってえ! という声が聞こえたけれどそれどころではなく、俺は焦燥感に突き動かされて上を見上げた。

 窓から顔を出してこちらを見つめ、淡く微笑む雪が見えた。ほっと息をつく。自殺じゃ、なかった。

「おっ前、酷いなー」

 軽やかに飛び起きたらしい遼にああとかうんとか生返事を返し、短く謝ると不思議そうに遼は上を見上げた。

「ゆきちゃんがどうかしたん? ……あ! もしかして俺の幼なじみに手を出すな的な……」

「よし、ノートは見せねえ」

「嘘です嘘です嘘八百ですよお早川様あ!」

「やかましい!」

 遼にじゃれつかれながら再び上を見上げると、雪は変わらず綺麗な笑顔でこちらを見つめていた。大きな瞳はそのままに、ゆっくりと彼女の桜色の唇が動く。

『明日も、よろしく』

 目を見開いた。息が止まるかと思った。これは、これはきっと彼女なりの自殺予告なのだ。彼女がそんなことをしたことなんて今までになかった。

 雪は嬉しそうにこちらを見つめている。遼はそれを楽しそうに見上げた。

「ゆきちゃーん、ばいばーい!」

 彼女はにこりと微笑みかすかに手を動かす。

「ばいばーい、直くん」

「かっ、軽やかな無視! ねえ俺すげえ自然に無視されたよ! 逆にすごくね!?」

 遼のやかましさも耳に入らなかった。

 雪が、いつもの雪じゃない。

 今日の朝といい、今の予告といい、何かおかしなことが起こる前触れだろうか。これまでのはお遊びだとでも言うつもりなのか。

 怒りがふつふつと湧いてくる。でも同時に、頭を石にぶつけたような痛みが俺の脳に響いていた。

 何かを、忘れている気がする。






「お前さー、アルバムとかねえの?」

「は?」

 放課後、予想以上に悪い遼の成績をなんとかするため俺の部屋で二人で勉強することになってから二十分、遼は唐突にそんなことを聞いてきた。

 二十分だ。早すぎだ。

「お前、勉強する気あんのかよ」

「あるわ! ありまくりだわ!」

「やかましいわ。じゃあ俺のアルバムなんてどうでもいいだろ」

「良くねえよ、お前の部屋おかしいもん」

「は?」

 自分が今何を言っても勉強を中断する言い訳にしか聞こえないことを分かっているのか否か、いや絶対に分かっていないのだろう、遼は既に勉強道具を端へ追いやって本棚のほうへ歩いていた。

 呆れ顔でそれを見つめる。

「おい……」

「ここ」

 しかし遼がぴしりと指さした先を見て、俺はぱちりと一つ瞬いた。

「おかしいだろ、なんでここ何もねえの?」

 遼が指さしていたのはカラーボックスを三つ重ねて作られた本棚の一番下だった。そこには何冊かの本──もといアルバムが詰まっていた。全部で十四冊。

「……? 何がおかしいんだよ。あるだろアルバムが」

「いや、だからさあ」

 言いつつ何故か遼はそこから三冊ほどアルバムを取り出し、ぺらぺらとめくり始めた。

「あ、ほらやっぱり」

 三冊全部を読み終え、彼は憤然と講義するようにそれらを掲げて持つ。だからなんのことだと訝しげに見ていると、彼は怪訝そうにそのうちの一冊を指し示した。

「俺の家も同じだから分かるんだけどさ、このアルバム、一冊が一年分だろ?」

「……? ああ、そうだけど」

「じゃあやっぱおかしいじゃん。なんで十四冊しかねえの? 俺ら高校一年なのに。一冊足りなくね?」

 言われてもう一度見てみる。カラフルなアルバムが綺麗に収まっている。一冊、二冊、三冊……十四冊。

「ん?」

 十四冊しか、ない。

「え、なんで……」

 首をかしげた俺をじっと見た遼が手当たり次第にアルバムを開いては戻していく。俺は今の今まで気づかなかった服のシミが急に見えたようなおかしな気分に浸っていた。

「……中学三年」

 ぽつりと遼が呟く。

「中学三年のがねえよ?」

 ……中学、三年。

 俺は頭の中の血流がすごい勢いで巡っているのを感じながら、その言葉をぼんやり聞いていた。

「つーかさ」

 声がしたほうにぼんやりと目を向けると、中学二年のときのだろうか、遼が捧げるようにして持つアルバムの中で俺がハチマキを握りしめて破顔しているのが目に飛び込んできた。多分、運動会だ。

「お前、こんなふうにも笑えるやつだったの? 全然知らなかったんだけど。会ったときから無愛想なやつだと思ってたのに……中学三年のときになんか嫌なことでもあったのかよ? ゆきちゃんに振られちゃったとか?」

 からかうように唇の端を持ち上げた遼が目の前にいる。俺はぽかんとそれを見つめた。

 中学三年のときに、何か?

 俺は何か、忘れていないか?

 黙り込んでしまった俺を見て、遼も同じように口を噤んでしまった。

「……なあ、本当に、何かあったのか?」

「……っ、え?」

 頭が痛い。思わず顔を上げた先には心配そうな遼の姿があった。俺をじっと見つめながら不思議そうに、でも心配そうに見つめている。

「……俺、もう帰るわ。お前休んだほうがいいよ。顔真っ白だぜ」

 勉強道具をさっさとまとめて、遼は帰ろうとしていた。勉強から逃げたいならもっと良い言い訳があるだろ、と言えば良かったのに、俺の喉は凍りついて一音も言葉を発さなかった。

 代わりに、何故か手が勝手に動いて、遼の裾を掴んでいた。

「なあ」

 自分でもびっくりするくらい弱々しい声が出て、遼がぎょっとしたようにこちらを見た。

「へ? 何、どうしたんだよ早川。なんか変……」

「俺たち、友達だよな?」

「は?」

「友達……なんだよな?」

 遼は俺の顔を見て数拍押し黙り、心配げな表情をきっと引き締めた。

「当たり前だろ」

 何を言っているのか分からなかっただろうに、遼は俺の顔を真剣な表情で見返して断言した。

「当たり前だろ。俺らが友達じゃないなら、大体の奴らが友達じゃねえよ。俺は友達じゃない奴と二人きりで勉強なんかしねえっつの」

 あっけらかんと言われた言葉は驚くくらいすとんと胸の内にはまった。心がすうっと軽くなる。

「そうか……そうだよな」

「そうだよ────お前、ほんとに大丈夫か? 泊まってってやろうか?」

 からかうような口調はなりを潜めていて、俺のことを案じる表情がそこには浮かんでいた。何故か俺は遼の表情に安堵した。

「いや、いい。悪かったな引き止めて。ちゃんと休むわ。ノートは明日見せてやるよ」

「ん? おう、それならいいけど……じゃ、また明日」

「ああ、また明日」

 ぱたりと扉が閉まった。俺はそこからずっと動けなかったけれど、意識はフル回転していて、脳の端には何かが引っかかったような、おかしな気分を感じていた。

 俺は、何かを忘れている。

 何を、忘れている?

 砂を噛むような苦い思いがじわりと心臓に広がって、俺は悟った。

 雪は、俺が何かを忘れたせいで自殺未遂を繰り返しているのだ。

 なんの根拠もなく、ただそう思った。






 次の日の朝はメールが来なかった。彼女はいつもメールは一度きりでその後はうんともすんとも言わない性分なので、やっぱり昨日のアレが予告だったのだろう。

 構わない。俺は朝の五時半に起きて朝ごはんをかきこみ、少しストレッチをしてから六時に家を出た。

 家から学校までは約二キロで、全速力で走って走って少なくとも約十分はかかる。計算上はいい感じの滑り出しだったと思う。うちの学校は何故か六時十分という中途半端な時間に校門が開くのだ。

 俺は走った。走って走って走り尽くして、ゴールラインすらない歩道を駆け抜けた。まるで風になったように、追い風すら追い越して走る。

 学校に着いた時間は六時十二分だった。そのまま開いている校門や玄関を抜けて、抜けて抜けて、色んな扉を抜けまくった。最終的に俺は屋上へと階段を四弾飛ばしで駆け上がり、気がついたときにはコンクリートの床を踏みしめていた。

 意識が浮上する。視界がクリアになる。

 屋上の端には、雪。

「早いね直くん、新記録だね」

「何、してんだ」

「うん? 自殺未遂」

 ふんわりと笑う彼女は笑顔に似つかわしくない言葉を吐きながら、くるりとその場で一回転した。

 俺は一気にその場を駆け抜けて、フェンスを五歩くらいで駆け上がった。がしゃんと盛大に音を立てたそれを愛おしげに見つめる雪の姿が見える。

「ねえ直くん」

 フェンスの一番上まで登ったところで雪がぽつりと俺を呼んだ。俺はぴたりと動きを止める。

 俺を見上げる雪の口が動く。

「ねえ、直くん、思い出した?」

「は……?」

「そろそろ、思い出してくれたり、してないの?」

 やんちゃな子供を見る目で、雪が俺を見つめている。

「……お前なのか」

「え?」

「俺の部屋のアルバムをいじったのは、お前なのか」

 幼馴染というのは便利だ。たとえ男女だとしても、少なくとも俺と雪の場合は正当な理由があれば親が部屋に入ることを許可してしまう。勝手に。

 俺が動かしたのでなければ、アルバムを一冊だけ持ち出すなんて意味不明なことをするのは一人しかいないのだ。

 言いながら、俺は屋上のフェンス向こうに降り立った。

 俺は苛立っていた。雪がしたことは意味不明な行為だ。意味不明で──きっと他愛もない行為だ。どうしてこんなに苛ついているのか分からない。けれどもひどくもやもやしたものが頭の中に詰まっているのだから、どうしようもない。

 半ば八つ当たり気味に、どうしてそんなことをしたのかと問おうとして、雪の表情に声が出なくなった。

「……そう、それも忘れちゃったんだ」

 悲しげ、というにはあまりに切実過ぎる表情だった。目の前で孤児が百人銃殺されたような、磔にされて自分の一番大事なものをぐちゃぐちゃに壊されているのを見させられているような、そんな、表情だった。

「……なんで」

 なんでお前が、そんな顔をしてるんだよ。

 どこを間違った? 怒ったのが良くなかったのか? それとも俺の知らない何かがあるのか?

 必死に考えを巡らせていたとき、俺はぎょっとした。目の前の雪がはらりと涙をこぼしたのだ。

「そっか……忘れ、ちゃったのか……」

 眦から流れるそれを拭うこともせず、彼女は色の失った瞳をただただ震わせる。

 衝撃だった。泣きそうで泣かない彼女の姿をずっと見てきたから、衝撃だった。彼女はこんなに簡単に泣くのかと思うと指先一つ動かせなくなった。

 そして一番衝撃なのは、昔ぎゃんぎゃん泣いていた雪を宥めていたはずなのに、ただ静かに泣かれただけで全身が硬直するほど衝撃を受けている自分自身だった。

 雪が俯かせていた顔を上げる。

 その目には少しの非難と、駄々をこねる子供の光が宿っていた。

「……直くんの──」

 未だにフェンスの前から動かない俺を睨むようにして見る雪はきっと、昔の雪だった。

 屈託なく笑っていた、あのときの。

「──直くんの、馬鹿っ!」

 音に叩かれた気分だった。ばしん、と頬を張られたような心地で目を白黒させるのと、雪が足元を蹴ったのは同時だった。

 はっとする。

「──雪っ!!」

 駆け出し、地を蹴り、手を伸ばす。

 届かない!

 瞬時に判断した俺は迷わなかった。というか、多分迷うという選択肢など存在していなかった。

 俺の体は雪より一拍遅れて宙を舞った。目を見開いた雪と視線が交錯する。ああそうだ、彼女はこういう表情をする子だった。

「雪」

 手を掴んだ。落ちると理性が震えた。そんなのは分かっていると感情が叫んだ。

 落ちたとしても、どうかこいつだけは。

 彼女を柔らかく抱え込んで体を反転させようとする。体から力を抜いて抵抗なく落ちれば、人は背中か落下できるのだという。だから、どうか、雪だけは。

 しかし俺の体は反転どころか傾いてすらくれなかった。どうして。

 どうしてこんなに、背中が重い。

 訳もわからず焦燥感に囚われて無理やり体を反転させようとしたところで、俺はそれに気がついた。

 背中から生える、一対の翼。

「────っ!?」

 それを見た瞬間、俺の頭の中で記憶が弾けた。

 中学三年のときの修学旅行。俺の学年は人が多かったせいで清水の舞台から自殺志願者よろしく落ちかけた雪。それを助けるために広げた翼。そのせいで注がれるようになった学年全員からの奇異と好奇の視線。

 驚きすぎて雪の手を離しかけた。ぞっとしたが雪のほうがぎゅっと手を握りしめてくる。その目には昔の彼女の光が宿っている。

 ホバリングするようにして屋上までゆっくりと上昇し、呆然とコンクリートに膝をつく。

 雪が静かに問いかけた。

「思い出した?」

 喉が渇く。脳が焼けるようだ。けれど俺は答えていた。

 どうして忘れていたのだろう。

「……思い、出した。アルバムは元から無かったんだ……俺が、俺が、不登校になったから」

 修学旅行が終わってから、俺は家で勉強するようになった。ひたすらに、学校には行かずに家の中で取り憑かれたように勉強していた。

 アルバムが無いわけだ──撮る場面がなかったのだから。俺の学校は修学旅行が一番最初の行事だったから、中学三年のとき俺はほぼ全てのイベントに参加しなかったことになる。

 そういえば、卒業式にも出たかどうか怪しい。

 ひどく曖昧でぼんやりとした記憶が徐々に戻ってきて、俺は呆然と雪を見つめた。

「全部、知ってたのか?」

「そりゃね。直くんが不登校になったの、私のせいだし。忘れないよ」

「そんなこと……!」

「あるんだよ。私が面白がって清水の舞台から下を覗き込んだりしなかったら、こんなことにはなってないんだよ」

 慈愛に満ちた微笑みが酷く寂しい。

「私がもうちょっと落ち着きのある人だったら、こんなふうに直くんは、綺麗な翼をしまい込んでずたずたにすることなんて、無かったんだよ」

 見れば、確かに翼にはカッターナイフで切り裂かれたような傷がいくつもついていた。血こそ流れていないものの、今もはらはらと小さな破片と言うべき羽の欠片が宙を舞っている。

 悲しげに眉を下げる彼女は笑った。

「昔、幼馴染がお転婆で何が悪いのって言ってたこと、撤回させて。ごめんね。幼馴染がお転婆なせいで、直くんは死にかけたのに、勝手なこと言って、ごめんなさい」

 泣き顔を無理やり笑顔にして、彼女は細い声で謝った。まさか、急に大人しく冷静な性格になった雪は、ずっとそんなことを考えていたのだろうか。

「直くんの羽は綺麗だよ。私が言っても意味なんてないかもしれないけれど……私は、直くんの羽が大好きだよ。私を救ってくれたその羽が大好きだよ。他の人が何を言ったって、直くんは羽が生えてるだけの男の子で、私の幼馴染なんだよ」

 俺の喉が引き攣る。涙を零しながらすがりつくように握ってくる手はひどく弱々くて、今更ながらに再認識した。雪は今も変わらず昔の雪のままで、俺が見ないようにしていた記憶の全てを背負ったまま耐えていた、ただの一人の女の子だったのだ。

「泣くなよ……謝るなよ……なんで、お前が、謝ってんだよ……!」

 思い出したから知っている。俺を最初に馬鹿にしてきたあのクラスメイトは、雪のことが好きで、ちょっとからかってやろうとしたとかいう理由で雪にぶつかったのだ。清水の舞台で、悪気なく雪を命の危険に晒したのだ。

 そいつは雪を助けた俺を妬んでいた。俺もあのとき他人のことを無条件に信じる馬鹿だったから、素直に謝ってきたあいつの言葉を信じてしまった。出来心で雪にぶつかっただけだと泣いて訴えたそいつがあることないこと噂を流していたことを知って、俺は簡単に壊れてしまったのだ。

 雪を一人にしてしまったのだ。

 雪だって大変だっただろうに、俺は雪一人を残して逃げてしまった。逃げて逃げて逃げて……最終的に記憶に蓋をした。

 悪いというのなら俺のほうが悪い。どうして目の前の小さな肩が震えているのか、俺には分からなかった。

「ごめんね。馬鹿なんて言ってごめんね。私は直くんに謝りたくて、謝るためには思い出してもらわなくちゃならなかったから……私か勝手に謝りたかっただけなのに、嫌なこと思い出させて、ごめんね」

 許してほしい、と言っているのではなかった。きっと彼女はそんなことを望んでいるのではなかった。そうではない。

「世界は広いんだよ。羽を持つ人なんてきっと他にもいるよ。直くんだけじゃない。きっと直くんだけじゃないよ。それに、その羽だって直くんの役に立つことがきっとあるよ。だから、だから……」

「分かった」

 俺は雪を抱きしめた。細い体は簡単に折れてしまいそうで、おっかなびっくりだったけれど。

 でも、きちんとその肩を抱え込んだ。

 彼女は震えをぴたりと止めて、俺を見つめている。

「な、お、くん?」

「……俺、お前に嫌われてると思ってたんだよ」

「え!?」

「これみよがしに自殺しようとするし、何聞いても暖簾に腕押しだし、もうそろそろ俺のことが大嫌いで嫌がらせしてるんじゃないかって、思ってた」

「そんなこと……!」

「なかったんだよな、知ってる」

 俺は彼女の背をさすった。

「もう言わない」

 きっぱりと言った。

「もうお前のことが嫌いだなんて言わない」

 雪はぴたりと動きを止めた。

「それに、もう自分が一番嫌いだなんて、言わない」

 続けて言った言葉に、彼女は一度大きく肩を震わせて、

「うあああああああん!!」

 ぎゃんぎゃん泣いた。昔みたいに泣いた。俺は昔みたいに笑ってその場に倒れ込んで、ぽかぽかと胸を叩いてくる彼女の衝撃に耐え続けた。ちなみに全然痛くなかった。びっくりするくらいに俺と雪の力の差は開いていたのだ。

 昔の雪が泣くときは、俺が彼女を宥めていた。正しくは、昔の雪は俺以外が原因でぎゃんぎゃん泣くことなどなかった。

 本を先に読まれた、取っておいたプリンを食べられた、テストで負けた。

 そんな他愛もないことで泣く彼女が、俺は大好きだったのだ。泣かせたくなってしまっていたのだ。

 けれど、俺は多分もう十分泣かせたのだろう。

「雪、泣き止んだら聞いてほしいことがあるんだ」

 空は青かった。雲一つない清涼な空気がその場に満ちていて、俺はその青さに突き動かされるようにしてそう口走っていた。

 売り言葉に買い言葉なのか、雪が甲高い声で返す。

「なんでも聞くよ、好きな人の言葉くらいっ!」

 俺はその叫びに思わず笑ってしまった。先に言うなよ。しかもこの様子だと自分が言った内容に気づいてなさそうだ。

 これはあの素っ頓狂で鋭い友人に絶交しないでくれと頼み込む展開になりそうだと思いながら、俺は静かに目を閉じた。

 背中の羽が動いて、太陽から俺達二人を遮ってくれたのを感じた。

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