Epilogue 絆の証

 カーテンの開いた四角い窓からは、柔らかい陽光が射し込んでいる。鳥のさえずりが何度も聴こえてくるのは、やはり朝の早い時間だからだろうか。

 様々な色合いの薬品や調合器具が収納された棚が、所狭しと壁沿いに並んでいる室内。無数の木製の長机と長椅子が、前方の大きな黒板に向かうように等間隔に配置されている。

 ここは錬成調合室という、その名の通り魔術による錬成や調合を行う為の特別な部屋だ。

 学園へ帰還してから数日後。前以て部屋の使用許可を学園長、及びリンディから取り付け、他の生徒がいない早朝を狙って、ミリアとエルクはここに来ている。

 その目的はただ一つ。ようやく手に入れた竜素材を使って、『竜精秘薬ドラゴン・エリクサー』の精製を行なう為だ。

「――よし、始めよう」

 黒板に近い所の長机の一角を陣取り、学園長から預かっていた薬の材料と精製方法が書かれた羊皮紙を並べたのが、ほんの数分前。調合に必要な瓶や薬品、器具類を準備し、教本に載っていない鉱石やら草花やらといった稀少とされる材料一つ一つを、丁寧に指差しで確認し終えたエルクは、意を決したように開始の号令を行なった。

 傍らに広げてある羊皮紙に書かれた古めかしい文字列を読みつつ、エルクは慎重に作業を進めていく。

「ねぇねぇ。私にも手伝える事ってある?」

 作業開始前、ミリアはエルクから指示を受けながら調合器具の準備を手伝ったものの、いざ調合が始まると何もする事がなくなってしまった。

 自分だけ何もせず座っている事に耐え切れなくなったミリアは、思い切ってそう尋ねてみた。

 すると魔術の先生たる青髪の少年は、材料の内の何かを白い擂り鉢の中で細かく潰しながら、ミリアを一瞥した。

「ない。気が散るから黙って座ってろ」

「酷いッ!」

「と言いたい所だが」

「すでに口にしてると思うんですけど!?」

 むくれるミリアを気に留めた様子もなく、エルクは一旦手を止め、机の上に並んだ材料や薬品類に視線を落とす。

「調合や錬成の知識を身に付けるには、作業行程を観察する事も重要だからな。今の内に目を養っておくのも悪くないだろう。ただし材料や薬品には触るな。あくまで観察するだけだ」

「そんなに念を押さなくたっていいのに……。もう少しぐらい信用してくれてもいいんじゃない?」

「うるさい。人の制止を無視して上級竜に突貫ような奴が偉そうに吠えるな」

「うっ……」

 それは確かに一理あるけど、半分はエルクのせいなんじゃない? と、少々釈然としない顔をするミリア。

 責任の所在が曖昧なままのような気もするが、とりあえず間近で作業行程を観察する許可は貰えたようなので、座ったまま長椅子を伝って、もう少しエルクの傍に近付く。

 彼はもちろん、懇切丁寧にこれはこうだ、などと教えてはくれない。見て覚えろ、自分で盗め、という事なのか、機械人形のように黙々と作業を続け、何も語ろうとしなかった。

 室内に響き渡るのは、材料を擂り潰すゴリゴリという音や、混ぜ合わせた薬品がコポコポと気泡を出す音。特に会話を交わさなくても、それらの音が間を持たせてくれている。

 観察に集中しなければいけないはずが、気付くとミリアは、『あの時』の事を思い返していた。

 あの後エルクが教えてくれた、『竜血保持者ブラッド・ホルダー』と呼ばれる、竜魔の力を操る特異な存在。彼の言葉通り、自分は明らかに人ではない何かへと変貌を遂げていた。

 だからこそ、余計な事を考えてしまう。何度頭の隅へ追いやっても、ふとした時に思ってしまう。

 こんな力を持ってしまった自分は、果たして本当に――

「安心しろ」

「……えっ?」

 いつの間にか俯いていたミリアは、小波のように静かな声に導かれて顔を上げた。

 声の主たる少年は、作業机から目を離そうとしない。だが続く言葉は、間違いなくミリアに向けられたものだった。

「どうせお前の事だ。『自分は本当に人間なのか?』、なんてくだらない事を考えてるんだろ?」

「く、くだらないって……」

 そんな言い方しなくても……、とミリアは不貞腐れそうになる。

 しかし、エルクには構うつもりがないらしく、淡々とした口調でなおも続ける。

「確かに『竜血保持者ブラッド・ホルダー』は、特殊な血の力によって竜と同等の能力を発揮できるとされているが、基本的には普通の人間と変わらない。感情もあるし、言葉も通じる。それだけあれば充分だろ? 他に何が必要だと言うんだ」

「……」

「それともそういう存在を、お前の中では化物と呼ぶのか?」

「もうっ、わかったってば! 小さい事で悩んでた私が馬鹿でしたよーだ!」

 べーっと舌を出して抗議するが、やはりエルクには効果がない。涼しげな表情のまま、調合作業を続けていく。

 相変わらずどういう感情に基づく発言なのか掴み難いが、彼なりに気を遣ってくれたのは確かだろう。それがどうしようもなく嬉しくて、ミリアは気付かれないように微笑んだ。

 不安が完全に消えた訳ではないが、それでも深く思い悩むのは止めよう。

 感情もあるし、言葉も通じる。エルクの言う通り、今はそれだけあれば充分だ。

「――よし。あとはこの竜の鱗を入れれば完成するはずだ。尤も、この精製方法が本物なら、だがな」

 その後、作業は滞りなく進み、いよいよ仕上げの段階へと辿り着いた。

 机の上を占領していたいくつもの素材達は次々に姿を消し、残ったのは透明な瓶に入った薄黄色の薬液と竜素材のみ。そこまで至って漸くなのか、ミリアは胃が締め付けられるような緊張感を覚え始めた。

 もうすぐ結果が出る。出てしまう。文字通り、死に物狂いで手に入れた竜素材が、あの薬液に投入される事によって。

 思わず息を呑むミリアと同様に、エルクも少々緊張したような面持ちで、鑷子せっしで摘まんだ竜の鱗を静かに瓶の中へと差し込んだ。

 ジュッ、という短い音を立てた後、色々な素材を混ぜ合わせてできた薬液の底に沈んでいく竜の鱗は、その過程で七色の光を発し、室内を明るく照らし出す。

「わぁ……っ!」

 やはり自分は魔術が好きだと、改めてミリアは実感する。攻撃的なものであれ補助的なものであれ、色彩豊かな光景が生まれる様は、何度目にしても全身の熱量を増幅させるような高揚感をもたらしてくれる。

 しばらく目の前の錬成反応に見蕩れていたミリアは、ふとエルクの横顔を見て疑問に思った。薬液から発する光が強くなるほど、彼の表情が徐々に険しくなっているように感じたからだ。

「………………これは、不味いな」

「? 不味いって、何が?」

 こんなに綺麗な色の光を発しているのに、どこがどう不味いのだろう?

 呑気に首を傾げ、エルクから視線を外そうとした、その瞬間。

「伏せろ!」

「えっ? 何――」

 何事かと聞き返している途中で、隣にいたエルクが即座に身体を反転させた。そしてミリアを庇うように覆い被さると、強引に身を屈ませたのだ。

 そして一秒にも満たない僅かな差で、


 ボゴンッ――!!


 という、小規模ながらも鋭い爆発が起こり、やや灰色掛かった爆煙が瞬く間に辺りに立ち籠めた。

 しばらく一緒に身を屈めていたが、もう危険はないと判断したのだろう。先に立ち上がったエルクが、近くにあった両開きの窓を勢い良く開ける。

 すると換気された室内から、煙は徐々にだが無くなり、鼻を突くような焦げ臭さも消えていく。

「……大丈夫か?」

「けほっけほっ……。あ、ありがとう、エルク」

 エルクと同様に窓辺まで避難したミリアは、我慢し切れず軽く咳き込んだ。少々涙目になりながら視線を戻すと、作業机には煤によって黒ずんだ所がいくつもできている。

「……って言うか、何がどうなったの?」

「……」

 窓辺から離れ、作業机の傍まで近付いたエルクは、しばらく机を見下ろしていた。

 その横顔が、どこか落胆しているように感じられたミリアは、瞬時にその理由を悟ってしまった。

 が、現実を受け入れられないミリアは、勘違いであってほしいと願いながら、恐る恐る尋ねてみる。

「あの、エルク……?」

「……いくら何でも察しが付いてるだろ?」

 頬に煤を付けたまま軽く頭を掻くエルクは、心底面倒臭そうに溜め息を吐き、静かにこう続けた。

「調合失敗だ」

 下手に誤魔化そうとしないエルクを見つめ、ミリアは改めてこう思った。

 相変わらず容赦がないよなぁ、と。






 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆






「――先程『教団』から、『シュバルト大森林』の再調査を行なうという連絡がありました。上級竜が出現したという異常性を考慮し、調査の間あの地域一帯は立ち入り禁止区域に指定されます。ですので、新入生一同の再試験は、訓練地および訓練内容を変更して行なうべきかと」

 眩い朝日が射し込む学園長室。作業机を挟んで正面に立つリンディは、いつも通り姿勢正しく佇み、報告を行なってくれている。生真面目な彼女らしい事務的な口調は、まだ微かに残る眠気を払うには丁度いい緊張感を持っている。

 オズワルドは椅子の背凭れに身を預け、平淡な顔付きのリンディを見上げた。

「だろうねぇ。新しい訓練地の候補はもう挙がってるのかい?」

「その件も含め、現在調整中です。どうやら今回の事態、『教団』にとっても寝耳に水だったようですから。再調査の話も、こちらから要請する前に連絡してきたくらいですし……」

「彼らも事後処理なんかで手一杯、という事か。新入生諸君には申し訳ないが、事態が落ち着くまで待ってもらうしかないようだねぇ」

 それが一週間先か二週間先か、いずれにしろ『教団』が下した決定に異論を挟む余地などない。日程や試験地などをできるだけ早く組み直して、後々に予定されている行事が大幅にズレる事態だけは防がなければ。

 机の上に並べてある関係書類に目を通しつつ、まず何から始めるべきかを思案しようとしたオズワルドだったが、ふと気付いて顔を上げる。

「……何か言いたそうだね、マーフェス先生」

 もう報告は済んだだろうに、部屋から立ち去ろうとしないリンディ。軍人然とする彼女の表情は、先程よりやや強張っているように見える。

「楽しいですか? 他人をゲームの駒に見立てて、思い通りに操るのは」

 前置きもなく放たれたのは、オズワルドを断罪するかのような鋭い言葉。

 軽蔑に似た感情を瞳に宿して、リンディはこちらを見つめている。口調は極めて冷静だが、強い憤りを持って喋っているのは明らかだ。

 それらを全て見抜いた上で、オズワルドは口を開く。

「突然何を言い出すのかと思えば、随分と人聞きの悪い事を言うね。楽しむも何も、私には身に覚えがないんだが?」

「そんな子供騙しのような戯れ言は聞き飽きましたよ。……あなたは最初から、エルク・ディアフレールが魔術師だと気付いていたのではないですか? そして彼の存在を利用する事で、ミリア・クロードライトの力を覚醒させるのが目的だったのでは?」

「……」

「いずれにしても、あなたがやっている事は教師としてあるまじき行為だ。以前仰られていたように、この事実を私が『教団』に報告すれば、あなたは終わりだ」

「『この事実』、とやらがどれの事を指しているのか知らないが、それは脅しの言葉かい? だとすれば、実にキミらしからぬ浅慮な物言いだね」

「……! どういう意味です?」

 オズワルドが発した言葉の真意を読み取れなかったのか、リンディの勢いが僅かにだが失速した。

 そしてそれを見逃すほど、オズワルドは甘くない。相手の牙を折るべく、即座に攻勢へと転じる。

「キミも知っているだろうが、『竜血保持者ブラッド・ホルダー』はほとんど史実でしか語られる事のない極めて稀少な存在だ。そんな人間の存在を、あの『教団』が知ったらどうすると思う? 間違いなく竜への対抗策――いや、対抗兵器として利用しようとするに違いない。人間扱いされるかどうかも怪しい所だ」

「……!」

「キミにしろ他の者にしろ、まだ十代のあんな幼気な少女に、死よりも苦しい重荷を背負わせる事を良しとする覚悟があるのなら、好きにするといい。例え相手が誰だろうと、どうやら私には止める権利がないようだからねぇ」

「……それは、『教団』にクロードライトの件を報告するな、という脅しですか?」

「さぁ、どうだろう? 脅しになるかどうかは、キミが彼女の事をどう想っているかによるんじゃないかな」

「……」

 止めとばかりに切り返すと、リンディは葛藤するような表情を浮かべて押し黙った。

『教団』との繋がりが深いこの学園の長を務めているからこそ、オズワルドは知っている。永きに渡って竜殲滅を目指し続けるの組織は、いかなる手段を用いてでも戦力を強化しようとする傾向にあると。

 竜に脅かされ続けているこの世界で、『央都』が一度も陥落せずに済んでいるのは、その貪欲さがあればこそだ。しかしそれは裏を返せば、竜を殲滅する為なら手段を選ばないという、彼らの非道さの表れでもある。

 もしもミリアの正体を『教団』が知れば、どうなるかは火を見るより明らかだ。

 そして生徒想いである目の前の女性教師が、それを良しとしないという事も。

「――おっと。そろそろ授業が始まる頃合いじゃないか。私に絡む暇があるなら、早く準備をしに行き給え。教師が授業に遅れたりしたら、大切な生徒達に笑われてしまうよ、マーフェス先生?」

 わざとらしく部屋の時計を確認し、偽物の微笑みを浮かべてオズワルドが促すと、リンディは僅かに抗いたそうな表情を浮かべた。

 が、これ以上言い争っても無意味だと悟ったのか、無言で一礼すると踵を返し、部屋を出て行ってしまった。

 扉が締まる音の後に続いて、明らかに苛立っている彼女の足音が、徐々に遠退いていく。

「……」

 椅子の背凭れに身を預け、しばらく物思いに耽っていたオズワルドは、徐ろに作業机の引き出しを開け、一枚の栞を取り出した。

 特に模様が施されている訳でもない、縦長の真っ白な栞。机の上に置いたそれを見つめ、オズワルドは静かに口を開く。

魔よ来たれ、顕現せよエレメント・オン・アクチュアル

 囁くように唱えながら、指先で栞を数回叩く。すると栞全体を包み込むように翡翠色の光が発生し、同時にザーッという耳障りな音が聴こえ始めた。

 やがて、ブツンという音の後に、


『――やあ、オズワルド。連絡があるとすれば、そろそろだろうと思ってたよ』


 という、青年のように若く朗らかな声が、オズワルドの耳に響いてきた。

 再び背凭れに寄り掛かりながら、オズワルドは微かに笑みを溢す。

「声を聞く限り元気そうだな。安心したよ」


『ははっ、随分とらしくない台詞を吐くようになったね。隠居し過ぎて耄碌もうろくしたのかい?』


「酷い言われようだな。……ま、歳を取った事は否定しないがね」

 相手には見えていないと知っていながら、オズワルドは軽く肩を竦めてみせた。

 すると、まるでそれを感じ取ったかのように、通信相手は可笑しそうに笑い声を上げた。しかしすぐに、その声がどこか緊迫したようなものに切り替わる。


『……キミが連絡してきたって事は、ボクの予想が当たっていた、と考えていいのかな?』


「ああ、その通りだ。『入学してきたよ、彼女は』。どうやら随分とお前に憧れているらしい。お前の言い付けを守って、例の首飾りを肌身離さず持ち歩いているくらいだからな」


『……そうか。嬉しくはあるけれど、やはり素直に喜ぶ気にはなれないね。彼女を巻き込んでしまった身としては……』


「……感傷に浸っているところ悪いが、報告したいのはそれだけじゃない。彼女は――」


『覚醒したんだろ? キミが、何かしらのお膳立てをしたから』


 前以て答えを準備していたかのように、通信相手はオズワルドの言葉を容赦なく遮った。

 お膳立て、と称された下準備は、確かに色々と行なってきた。

 もうどれくらい前だっただろうか。ミリア・クロードライトという幼い少女が『竜血保持者ブラッド・ホルダー』だと、旧友である『彼』から突然連絡を受けたのは。

 聞けばその少女は、どうやら魔術に興味を持ったらしく、魔術師を志していずれ入学してくるであろうという事だった。

 その言葉を、オズワルドは一切の疑いもなく信じた。かつて共に学び、競い合い、命を預け合った事すらあった旧友の言葉なのだ。疑念など湧き上がるはずもない。

 そして『彼』の言葉を裏付けるかのように、長い年月を掛けて漸く事態は動き出す。

 今から一年ほど前の事だ。入学希望者の書類を確認していた際、かつて伝えられた情報と合致する少女がいる事に、オズワルドは気付いた。

 しかも、運命の悪戯はそれだけに留まらなかった。その少女と同じ入学希望者の中には、『ディアフレール』と名乗る少年も含まれていたのだ。

 その名は目にした瞬間、オズワルドはもしやと考えた。このエルクという少年は、自分がよく知る『彼女』の関係者なのではないか、と。

 流れの魔術師として名を馳せた『彼女』の関係者なら、当然魔術に心得のある人間のはずだ。なぜわざわざ『騎士科』を志望するのかはわからなかったが、これを利用しない手はない。

 ただ、エルクに関しては予想外だった事がいくつかある。

 入学式の日、容易く屠られるはずだった竜を、彼が倒し切れなかった事。その原因が、何者かに掛けられた『呪い』のせいだという事。

 そして極めつけは、彼の師匠である『彼女』が、すでに亡くなっているという事。

(……まさか、何かの役に立てばいい、くらいの感覚で数年掛けて集めていた『竜精秘薬ドラゴン・エリクサー』の素材と精製方法を、こんな形で利用する事になるとは思わなかったが……)

 唯一欠けている竜素材の収集を二人に行なわせる事で、『竜血』の覚醒をより確実なものにする。


 全ては、『教団』幹部に匹敵する力を持つ者を、自分だけの駒として手中に収める為に。


 竜という存在やまいが蔓延しているこの世界で、『教団』の恩恵を受けずに生き抜く事は難しいと言わざるを得ない。

 だが彼らは、必ずしも個人の要求に答えてくれる訳ではない。

 守りたいもの守る為には、彼らの力を借りずとも戦えるだけの力を手にする事が必要だ。

 例え、他の何を犠牲にしてでも。

 長い沈黙と回顧の果てに、やや厳しい表情を浮かべながら、オズワルドは栞に視線を落とす。

「……軽蔑するかい? 私の事を」


『まさか。彼女の件をキミに託したのはボクだ。キミ一人に罪を押し付けるような都合の良い真似、頼まれたってしないさ』


「……そう言ってもらえると助かるよ」

 オズワルドは静かに瞑目しつつ、感謝の言葉を口にした。

 彼になら糾弾されても文句は言えないと覚悟していたとはいえ、悩む素振りすら感じさせずに切り返してこられると、思わず安堵してしまう。


『――元気かい? 彼女』


 またしばらく沈黙が続いた後、閑話休題とばかりに通信相手が尋ねてきた。

 両手を組み、オズワルドはとある少女の姿を思い浮かべながら、何気なく天井を見上げた。

「心配ない。悲惨な過去を感じさせないくらい、明るく強い子に育っている。お前が預けた先が、良い環境だったんだろう」


『……そうか。それは良かった』


「顔を見せてもよかったんじゃないのか? 彼女もきっと喜んだだろうに」

 栞に視線を戻しながら言うと、数秒躊躇ったような沈黙があった。


『そういう訳にもいかないよ。……わかってるだろ?』


 返ってきたやや寂しげな声に、オズワルドは緩い笑みを溢す。

「何、言ってみただけだ。年寄り扱いされた仕返しにね」


『意地が悪いねぇ。まぁ、それでこそ我が盟友だ』


 冗談だとわかっていたのか、責めようとする気配はなく、微かな笑い声が聴こえてきた。

 久方振りの楽しい会話だったが、お互いにあと一言ほどで終わりだろうと、オズワルドは思う。


『彼女の事、これからもよろしく頼むよ』


「ああ、任せておけ」

 短く返した言葉の後には何の反応もないまま、やがて栞から、翡翠色の光が次第に消えていった。

 またねとも、元気でとも言わず、友との通信はあっという間に終わりを迎えた。

 何も音を発さなくなった栞を引き出しの中に仕舞い、オズワルドは立ち上がって窓辺に向かうと、窓の外を見下ろした。

 心地良い陽射しに照らされている学園の中庭。その中心に設置された噴水の傍で、男女二人の生徒が何かしらの会話をしているのが見える。

 少女の名は、ミリア・クロードライト。

 少年の名は、エルク・ディアフレール。

 それぞれ『魔術科』と『騎士科』に属する、大切な生徒達だ。

 とても、大切な。

「……そう、これは戦争ゲームなんだ。人間われわれと、竜達ばけものとの」

 オズワルドは微笑む。ミリアとエルクの姿を見つめながら。

 どこまでも、愛おしそうに。






 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆






 調合失敗という最悪の結果に、ミリアは暫し呆然としていた。

 こんな時にまで内心が読み辛い表情のエルクは、まるで他人事のように冷静な口調で、次のような見解を述べた。


『もしかしたら、材料が悪かったのかも知れない』

『えっ、どういう事?』

『調合手順や薬品類、材料の分量に間違いはなかった。だとすると、最後に入れた竜の鱗が不味かったんじゃないだろうか』

『どうして? だってあれが一番重要な素材だったじゃない。竜の身体の一部がないと、薬は作れないって……』

『確かにあれは竜の身体の一部だった。……だが思い出してみろ。あの竜が一体、どういう能力を持った竜だったかを』

『……あっ! まさか……!?』

『ああ。失敗の原因は、恐らく鱗に残っていた「魔力吸収ドレイン」能力だ。調合中に発生した魔力にそれが反応して、薬の成分を分解してしまったんだろう。……思慮が足りなかった。鱗だけなら能力は発動しないと決め付けていた、俺のミスだ――』


「――結局、徒労に終わっちゃったね」

 後始末を済ませ、重い足取りで錬成調合室を後にしたミリアは、エルクと共に中庭の噴水の傍まで歩いてきていた。

 噴水の縁に腰掛け、揺蕩たゆたう清らかな水を見つめ、ミリアは溜め息を吐く。苦労して集めた材料――厳密には竜素材だけだが――の全てが、一瞬で無に帰してしまったのだ。溜め息の一つでも吐きたくなるのは当然である。

 が、沈んでいる少女とは対照的に、『呪い』を受けている当の本人は毅然とした態度で口を開く。

「どうしてお前が落ち込むんだ。前にも言ったが、これは俺の問題だ。成功しようと失敗しようと、お前が気にする事じゃない」

「そんな簡単に割り切れないよ。……エルクは悔しくないの?」

 むくれるミリアに対し、エルクは然して興味なさげに肩を竦めてみせる。

「仮に『竜精秘薬ドラゴン・エリクサー』が無事完成していたとしても、それで『呪い』を確実に解除できると決まっていた訳じゃないんだ。結果が先延ばしになったと思えば、別にどうって事ない」

「むー……」

「それにコランダム級の竜を撃破した事で、試験は合格と看做みなされたんだ。あの騒動のおかげで試験をやり直さなければならなくなった生徒に比べれば、これ以上を求めるのはさすがに贅沢が過ぎる」

 そう。あの騒動によって、リンディからの撤退命令に従った生徒の多くは、日を改めてまた一から実地訓練を行なう羽目になったのだ。バネッサとセシリーも怪我が治り次第、再試験組に組み込まれる為、途中退場という結果を大いに悔しがっていた。

 これらを踏まえると、試験を合格した上に退学云々の話も無くなった自分達は、確かに恵まれている方だ。

 だがミリアには、一つだけ引っ掛かっている事がある。

「……そう言う割には、あんまり嬉しそうじゃないね」

 興味なさげな言葉とは裏腹に、どこか不満を抱えている様子のエルク。普段から感情の掴みにくい彼ではあるが、今回ばかりはミリアにも、その微妙な変化を察する事ができた。

 ただ問題は、何に対して引っ掛かりを覚えているのか、だ。

「……少々気に喰わないんだよ」

「? 何が?」

「上級竜との遭遇から、ついさっきの調合失敗まで。全てが思惑通りだったんじゃないかと、そんな気がするからだ」

「思惑って……、誰の?」

 首を傾げるミリアの視線を促すかのように、エルクは校舎のある一点を、やや険しい表情で見つめている。

 不思議に思い、彼の視線を追ってみる。そうしてミリアは漸く気付いた。

 校舎の二階。中庭を見渡せる位置に設けられた四角い窓。その窓辺に立って、こちらを見下ろしている人物がいる。

 学園長、オズワルド・ヴァレンティア。彼が立っているあそこは確か、学園長室だったはずだ。

 全てが思惑通り。

 それが誰のものだと言いたいのかは、エルクの表情を見れば一目瞭然である。

「そんな……まさか……」

 さすがに考え過ぎだろう、とミリアは苦笑する。仮に学園長が何かを仕掛けていたのだとしても、竜素材の獲得や、それに連なる調合の失敗まで予測できたとは思えない。それこそあの人が、神様でもない限り。

 しかしエルクは依然、険しい表情を崩さない。敵意に近い視線を、尚も送り続けている。

 やがて二人の視線に気付いたのか、オズワルドは穏やかな笑みを浮かべて、ゆっくりとこちらに手を振ってきた。反応を返した方がいいのだろうかと迷うミリアを尻目に、オズワルドは踵を返すと、窓辺から離れて姿を消した。

 すると、無人となった窓から視線を外したエルクは、気持ちを落ち着かせる為なのか、一旦瞑目して軽く息を吐いた。

「……まぁ、疑い出すと切りがないのも事実だ。昼休みにでも、調合の失敗を報告しに行ってくる。……また何か取引を持ち掛けられそうで、あまり気乗りはしないがな」

 そう言って肩を竦め、言葉通りの渋い顔をするエルク。学園長が相手だと、悪い意味で感情表現が豊かになるのは、抱えている疑念が原因なのだろう。今後もきっと、こんな感じの表情を見る事になりそうだ。

 そんな風に思いながら、ミリアは何気なく、ゆっくりと空を仰いだ。

 綿菓子のような白い雲が所々に浮かんでいる、透き通った青い空。柔らかく心地良い風が中庭を吹き抜け、太陽の暖かさが一日の始まりを感じさせる。

(『竜血保持者ブラッド・ホルダー』、か……)

 それは人間でありながら、竜と同等の力を身に宿す者の名。

 エルクの話によれば、なぜこのような力を持った人間がいるのかまでは、『教団』も把握できていないそうだ。

 それならば、とミリアは思う。

『あの人』が自分を助けたのは、もしかして……。

「――気になるか? お前を助けた魔術師の事」

「!」

 ぼんやりと考え込んでいたミリアは、冷静な声で指摘されて我に返った。

 エルクが鋭いのか、それとも気付かない内に表情に出ていたのか。どっちにしても情けないなぁ、とミリアは苦笑する。

「正直、全然気にならないって言ったら嘘になるよ。……でも」

 ミリアはふと、自分の胸元に視線を下ろした。

 自分の身に起きた劇的な変化は未だに信じられないが、さらに不思議なのはこの首飾りだ。

『あの人』は全てを知っていたのだろうか。だから自分にこの首飾りを託してくれたのか。

 本当の意味で、お守りになるように。

 顔は朧気で、名前さえも思い出せない。だがそれでもやはり、『あの人』は憧れの存在だ。

「『あの人』が何者で、何を願ってたのかなんて、私なんかが考えたってわからないし、わからなくてもいいと思う」

 今どこで何をしているのか。そもそも行方どころか、生死すら不明の恩人。

 記憶の片隅に微かに残っている優しげな顔を思い浮かべながら、ミリアは首飾りを優しく握り、神に誓うかのように告げる。

「重要なのは、『あの人』が私の命の恩人で、目標にしてる偉大な魔術師だって事。今でもこの気持ちは変わらないよ」

「……」

「だから私は、『あの人』みたいに誰かを助けられる魔術師になる。その為にも、まずはエルクに掛かってる『呪い』を解く。一人でやらせたりしないんだから」

「……そうか」

 呆れられるかもと思っていたミリアは、穏やかに微笑むエルクの表情を見て、思わず顔を逸らした。

 物凄く新鮮な笑顔。と言うか、彼がミリアに対して自然な笑顔を見せたのは、入学してから恐らく初めての事だ。

 何だかエルクの新たな一面を垣間見た気がして、妙な照れ臭さを感じてしまう。ほんのりと頬が熱くなっているのは、決して気のせいではない。

 エルクに勘付かれないように俯き、心を落ち着かせているその時だった。

「そこの二人! 何をのんびりしているんだ!」

 中庭の端の方から、ミリア達に向けられたと思しき鋭い声が響いてきた。

 驚いて顔を上げると、昇降口のエントランスと中庭の境界付近に佇んでいるリンディと目が合う。右脇に教材らしき物を抱えているという事は――

「一時限目はAクラス合同の実習だろう! そろそろ予鈴も鳴るというのに、そんな所で油を売っていたらダメじゃないか!」

「わわっ! もうそんな時間!? 実習に使う道具、まだ取って来てないのにー!」

 噴水の縁から立ち上がり、数メートル先に屹立している時計塔を見上げて、ミリアは悲惨な声を張り上げる。

 するとすぐ隣から、淡々としたエルクの声が聞こえてきた。

「悪いなミリア。俺は準備できてるから、先に行ってるぞ」

「ええっ!? 嘘でしょ!?」

 一体いつから持っていたのだろう。よく見るとエルクの右手には、次の授業で使う教材がしっかりと握られている。

 そういえば錬成調合室で作業していた時から、それらしい物を持っていたようないなかったような……。

「気付いてたんなら教えてよ! って言うか、少しくらい待っててくれたって――」

 教材が置かれている寮の自室に向かって、慌てて走り出そうとしたミリアだったが、そこでふとある事に気が付いた。

 あまりにもさらりと、何の前触れもなく自然な口調で告げられた為、一瞬聴き間違いかとも思ってしまったが、そうではない。

 確かに今、エルクは名前を呼んでくれたのだ。

 お前でもクロードライトでもなく。

 ミリア、と。

「えっ……? えっ!? ちょ、ちょっと待ってエルク! 今、その、私の名前! ええっ!?」

 若干混乱しながらエルクの方を振り向いてみるが、彼はすでに実習場所である校庭に向かって歩き出していた。

 背を向けたままミリアに手を振り、まるで面白がるかのように告げる。

「安心しろ。遅刻の言い訳なら、俺が代わりに考えといてやるよ」

「も……もうーっ! エルクの意地悪ーーーーーっ!」

 半泣きになりながら、薄情なパートナーとは別方向に駆け出すミリア。少々焦ってはいるものの、彼女なら恐らく次の授業には間に合うだろう。

 名前を呼んでもらえた嬉しさのあまり、途中で転んだりしなければの話だが。

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