Act.10 得られたもの
弾丸の如く飛びすさり、空中で身を翻したミリアは、『暴食』の顔面を右脚で豪快に蹴り飛ばした。
巨体を二、三回転させて地面に叩き付けられた『暴食』は、苦しげな唸り声を上げながらも、体勢を立て直そうとしている。
覚醒したミリアの身体能力は、最早常人のそれではなくなっている。現に竜の、それもコランダム級の強固な鱗を素脚で蹴り飛ばしたというのに、彼女は怪我を負った様子がない。
思わず唖然としてしまうエルクだったが、その力の正体に確信を持っているが故に、当然の結果だと納得する。
彼女――ミリア・クロードライトは、『
(なるほどな……。『これ』が、学園長の狙いだった訳か……)
生前、エルクの師が修行の合間に語ってくれた事があった。
『
その名の通り、『竜血』をその身に宿す者。そして『竜血』とは、特別な血の力によって、並の魔術師とは比べ物にならない莫大な量の魔力を精製できる能力の事。
魔術師としての才能を開花させた者の中でも、血の力に目覚める者はごく僅かだと言われているらしい。事実、『央都』に拠点を構えるあの『騎士魔導連合教団』にすら、血の力に目覚めている者はいないとされている。
(あいつが『
師の教えによれば、『
例えば、入学式の日の時のように。
例えば、素材集めに出掛けた時のように。
あの日から今日この瞬間に至るまでの竜との遭遇率の高さは、懸念通り偶然ではない。ミリアの『竜血』の力が、同族を誘引させる撒き餌になっていたのだ。
(入学式の日、学園近郊で竜に遭遇したあの時から、すでにあいつの力が覚醒し始めていたんだろう。……まさか、あいつが見た目に反して大食らいな理由って……)
自身の力を維持する為の無意識的な栄養補給、だったのだろうか。
少々馬鹿げたような話ではあるが、よくよく考えてみれば、莫大な魔力精製能力を持つという事は、それだけ体力や精神力を大幅に消費するという事に他ならない。不足した力を食事という形で補っていたとすれば、有り得ない話ではないだろう。
全ては、無自覚で未熟な力を持ってしまったが故の結果。
という事は――
(学園長があれだけ積極的に支援を行なってくれていたのは、慈悲や情けじゃない。竜素材を必要としている人間と行動を共にさせれば、必然的に竜と遭遇する頻度は増す。加えて、その人間が単独で竜を追い払う程の力を有していれば、クロードライトに及ぶ危険が減る)
つまり、エルクは運や偶然でミリアのパートナーになった訳ではない。文字通り、彼女を守る
さらに言えば、暗い過去を持つ自分とパートナーを組ませる事で絆を深めさせ、こういった局面で感情を爆発させやすくする事も、目的の一つだったと考えられる。特にあの人懐こい少女の性格なら、他人に感情移入しやすいだろう。
それに、だ。
(あの首飾り……)
空中を華麗に飛び交う少女の胸元で煌めく、花形の銀細工。変化術式は、あの首飾りの宝石から浮かび上がってきた。
かつてミリアと、彼女を助けた魔術師の間で、どのようなやり取りが行なわれたのかは、エルクにはわからない。ただ、確かな事が一つあるとすれば、その魔術師が全てを見抜き、予見していたという事だ。ミリアがいずれ魔術師を志し、その過程で『竜血』の力を覚醒させるだろうと。
例え何者にせよ、かなりの知識と技術を持った魔術師だという事は間違いない。それこそ、『央都』の『騎士魔導連合教団』に所属していてもおかしくない程に。
(……まさか、あいつに首飾りを渡した魔術師は……)
オズワルド・ヴァレンティア、なのだろうか。
一瞬脳裏を掠めた推論を、しかしエルクは即座に否定した。
仮に両者が同一人物だった場合、ミリアにしてもオズワルドにしても、お互いに何らかの反応を示したはずだ。
第一、力を覚醒させるまでの手順にしても、オズワルドの行動は悠長に構え過ぎている節がある。何処かで何かが掛け違っていれば、ミリアが死んでいた可能性だってなくはない。
そう。現状はまさしく、その死の可能性がミリアに降り掛かっている状況だ。力を覚醒させる事がいかに計画通りだったとしても、『暴食』を撃破できない限り、それが成功した事にはならないのだ。
(それとも、切り抜けられると考えているのか? 『竜血』の力を以てすれば、この状況を……)
姿形の全く異なる竜同士の戦いは、小回りが利く分、ミリアが素手による手数で押している。が、肝心の決定打が互いに決められず、探り合うような攻防が続いている状態だ。
やはり覚醒したばかりでは、血の力を扱うのが難しいのだろうか。
……と、そう思っていた時だった。
(……! あの表情……)
空中で鎌鼬を鮮やかに回避したミリア。その姿を目にしたエルクは、彼女の意志のようなものを素直に感じ取る事ができた。
彼女は決して諦めていない。むしろ何かを狙っているが故に、敢えて後手に回っている。
(そうか……! あいつは撃てないんじゃない、『撃たない』んだ。下手に攻撃を加えれば、さっきの俺の二の舞になる。それがわかっているから、あいつは見極めようとしているんだ)
『暴食』の弱点を。一撃必殺の為、攻撃を加えるべき箇所を。
ならばと、鉛のように重い身体を引き摺り、エルクは緩慢な動きながらも、『ある物』を探し始めた。
自身の詰めの甘さ故に『
彼女に伝えなければならない。例え現状が、誰かの思惑通りに作られたものだったとしても。
今この瞬間も必死に戦い、全力で生き抜こうとしている、相棒に――!
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
次々に放たれる鎌鼬の嵐を、ミリアは紙一重で躱しつつ、時折『暴食』の巨体に打撃を加え続けている。
が、いくら身体能力が向上していると言っても、コランダム級の竜を討伐するには殺傷力が低い。持久戦に持ち込むのも一つの手だが、覚醒したばかりのこの力がいつまでもつのかわからない以上、下手に長引かせるのは危険だ。
(でも中途半端に魔術を撃ち込んだ所で、『
孤軍奮闘してくれたエルクのおかげで、かなりのダメージを受けているのが傍目に見てもわかる。だが、やはり相手はコランダム級。各部位にかなりの損傷を負っているにも拘わらず、未だ暴れ回る
しかし弱気になる訳にはいかない。エルクを殺させない為に戦うのはもちろんだが、ここで自分が倒れれば、バネッサやセシリー達がいる野営地まで被害を受ける可能性がある。
そんなのは絶対に駄目だ。そんな悲劇は看過できないから、『あの人』のように誰かを守れる存在になりたいから、自分は今ここにいる。
だから――
(やり遂げるんだ、何が何でも!)
新たに吐き出された鎌鼬が身体を掠めるが、ミリアは決して怯まない。もう一度接近戦に持ち込む為、滑空を開始しようとした、その時。
「――背中だ!」
喉が枯れんばかりの盛大な声を発したのは、戦況を見届けているエルクだった。
彼の言葉にはまだ続きが、この状況を覆す為の策がある。瞬時にそう判断したミリアは、肩越しにエルクの姿を一瞥した。
その僅かな動作を見逃さなかったのだろう。決して軽傷ではない怪我を負っているにも拘わらず、エルクは声が割れんばかりに叫び続ける。
「奴の背中にある光を放つ鱗。恐らくそこが『
エルクの助言を受け、ミリアはすぐさま竜の背中に目を凝らした。容赦なく放たれる鎌鼬を回避しつつ、狙うべきその一点を探し続ける。
そして――
(あれだ!)
滞空の為、緋色の翼を広げ直したその時、ミリアは漸く目的の物を見つけ出した。
巨大な竜の背中。飛翼の根元に近い部分に、淡い明滅を繰り返している鱗がある。エルクの読みが確かなら、あの部分を貫けば竜を退治できるはずだ。
ならば彼の言う通り、遠慮する必要はない。
次の一撃で終わらせる――!
「
唱えると同時に、滞空しているミリアの周囲に出現する、四色の光玉。だが普段と比べて、どうも様子が違う。
深紅、紺碧、翡翠、黄金。四つの光は球状ではなく、立体的な菱形となってそれぞれが一定の速度で自転している。
自分に起きた変化が、魔術そのものにも影響を与えているのだろうか。
ほんの一瞬、そんな思考に気を取られた時だった。
『暴食』が翼を広げて羽ばたき、ミリアに向かって飛翔し始めたのだ。
「ッ!?」
突進と共に、『暴食』の口から次々と放たれる鎌鼬。四つの光を引き連れながらどうにか回避すると、標的を見失った殺傷の風は、代わりとばかりに周囲の大木の幹を削り取っていく。
(ダメだ……! こんなに暴れられたら、詠唱に入れない……っ!)
相手が翼竜である以上、空中戦になる可能性は大いにあった。であればこそ、もっと早い段階で相手の飛行能力を奪っておくべきだったのだ。
言わずもがなだが、魔術を発動する為には、個々の術に対応した言霊を集中して詠唱する必要がある。
だが今、『暴食』の目の前でそれを行なうのは相当難しい。エルクとの戦闘後、ミリアに何度も打撃を加えられた事が、かなり頭に来ているらしい。休む間もなく鎌鼬を放ち続けるその様は、まさしく逆鱗に触れた結果だと言わざるを得ない。
せめて一瞬だけでも攻撃が止めば……。
再度放たれた鎌鼬を掻い潜りながら、苦々しく思ったその時だった。
視界の端から回転しながら飛来した何かが、『暴食』の翼の付け根を切り裂いたのだ。
「グギャアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
予期せぬ攻撃だったのか、紅い血潮を振り撒きながら苦しげな咆哮を上げ、『暴食』は地面へと落下し、轟音を響かせた。
ミリアは思わず、竜よりも飛来した物体の方を目で追い、その正体を認知する。
それはまるで、ブーメランのように投げ飛ばされたロングソードだった。魔術によって誘導でもされているのか、持ち主の許へと返っていくそれは、よく見ると刃の部分に青白い雷電を纏っている。
(エルク……!)
記憶違いでなければ、エルクは先程までロングソードを持っていなかったはずだ。恐らくは『暴食』との戦闘中に紛失したのだろうが、それをこの短時間で探し当てたという事か。
ロングソードが向かう先で佇んでいる少年は、明らかに疲弊している様子だった。『呪い』の影響と怪我によって満身創痍だろうに、まさしく死力を尽くした援護射撃である。
(ありがとう!!)
心中で感謝の言葉を叫び、ミリアは『暴食』の直上で右手を掲げ、記憶していたとある魔術の言霊を紡ぎ始めた。
「集え炎。集え力。滅する紅蓮は刃となりて、悪辣なる愚者を討ち滅ぼさん」
ミリアの言霊に反応したのは深紅の光。残りの三つが明度を下げるようにして消失すると、彼女の周囲で激しく燃え盛る炎が生み出された。
それはかつて、『戦魔学』の初授業でリンディが見せてくれた灼熱の魔術。炎が渦を巻きながら形成したのは、一振りの紅い刃。
「
術者の腕の動きに連動して、花弁のような火の粉を撒き散らすそれを、ミリアは滑空しつつ『暴食』の背中へと振り下ろす。
相棒が教えてくれた、唯一の弱点を狙って。
「はああああああああああああああああああああああああっ!!」
ボゴオッ!! という熱波を吹き荒らしながら、紅い刃は『暴食』の身体へと沈んでいく。標的を無慈悲に燃やし尽くす炎は、ミリアが魔力を流し込むほど勢いを、熱量を、加速度的に増していく。
それは、恐らくこの瞬間も発動しているはずの『
「グギギ……ッ、グゴォオオオォォオオォォォォオオオォォォォォォオォォッ!!」
真上からの圧力に巨大な四肢が屈して崩れ、地面に押し付けられる『暴食』。それでも熱波は衰えず、ミリアの魔力量を体現するが如く、炎は激しく燃え上がり続ける。
やがて、炎の刃は盛大な炸裂音を合図として、術の終わりを世界に響き渡らせた。
焼け焦げ、巨大な炭の塊のようになった『暴食』は、ついにその獰猛な瞳を閉じるに至った。
生死を確認する必要は、恐らくない。
なぜなら、その巨体のあらゆる箇所に現れ始めたからだ。
『灰化』という、逃れ得ぬ死の現象が。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
ミリアが地上に降り立つと同時に、再び首飾りが紅い光を放ち、魔法陣を出現させた。
滞空する紅い正円は、まるで意思でも持っているかのように動き出すと、ミリアの全身を一気に貫いた。途端、自身に起きていた変化が、まるで色を失っていくかのように元に戻るのを感じた。
発熱していた身体が一瞬で冷やされていくような感覚の中、ミリアは静かに悟る。
あの恐ろしい竜との激戦を、自分が終わらせたのだ。俄かには信じられないような変化を、自らが起こす事によって。
(……何だったんだろう、今の……)
鏡に映して自分の姿を見た訳でもないのに、ミリアにはハッキリと感じられた。自身にどんな変化が起き、どんな姿になっていたのかが。
上級竜を討伐した達成感と共に去来したのは、恐怖にも似た疑問。
『あれ』は一体何だったのか。自分は化物にでもなってしまったのだろうか。
だって『あの姿』は、まるで――
「――ってそうだ! エルク!」
思考の渦に嵌まり掛けていたミリアは、弾かれたように顔を上げた。
周囲を見回す事数秒。件の少年は、数メートル先にある苔の生えた大きな岩に、かなり消耗した様子で寄り掛かっていた。
「エルクっ!」
叫ぶと同時に駆け出し、エルクの傍らへと辿り着く。
彼の身体には至る所に裂傷が見受けられる上、例の『呪い』の影響で吐血したらしい口許には血が滲み、顔色も優れない。荒い息遣いが、その身の深刻さを如実に表している。
「待ってて! 今すぐ治癒魔術を――」
「……回復は、後でいい。それより見てみろ」
ミリアの心配を他所に、エルクは別の方向を見ながら何かを指差した。
それを追って振り向いたミリアは、ふと気付く。
『灰化』を起こしている竜の身体が規格外の大きさ故に、消滅に時間が掛かっているらしい。だがその過程で、今までと違う様子をミリアは目にした。
霧散していく竜の身体。しかしその中で一点だけ、何かが形を失う事なく存在し続けている。
現象が終息するのを待ち切れず、ミリアは漸く三分の二ほどを灰と化した竜の亡骸へと足早に駆け寄った。
やがてその巨体が完全に無に帰した所で、ミリアはまた驚き、目を瞠った。まるで私に勝利した報酬だと告げているかのように、竜の鱗の一部が、灰にならずに残っているのだ。
人間の片手ほどの大きさがあるそれをゆっくりと拾い上げ、ミリアは思わず喉を鳴らす。
「竜の鱗……だよね。さっき倒した、『暴食』の……」
「……それ以外の何に見える」
背後から呆れたような声で指摘され、ミリアは呆然としたまま振り返った。
ロングソードを支えにして佇むエルクの、その蒼い瞳を見つめ返し、気の抜けた声で確認を取る。
「それじゃあこれで……、『
「……ああ」
「や…………………………、やったぁーーーーーーーーーーっ!!」
両手で握った竜の鱗を高々と掲げ、野うさぎのようにピョンピョンと何度もその場で跳び跳ねるミリア。
対して、こんな時まで冷静な反応を見せる相棒は、嘆息の代わりとばかりに言う。
「戦い終わったばかりで、よくそこまで盛り上がれる元気があるな」
「だって嬉しいんだもん! 自分の力で竜を倒せたし、こうして竜の素材も……手に、入ったし……」
「? おい、どうした……?」
嬉しくてはしゃいでいたはずが、突然全身から力が抜けるような感覚に襲われ、言葉を発する事すら困難になり始めた。
(あ……れ……? 何でこんな、急に……)
問い掛けてくるエルクの声が、やけに遠くから響いてくるような感覚と共に、目に映るもの全てがぼやけていく。
自分が今、立っているのかどうかもわからなくなったのとほぼ同時に、ミリアの意識は闇へと落ちた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「――おっ! 目が覚めたかい?」
やや重たい瞼を開くと、どこか陽気さを感じさせる声が、ミリアの視線を誘導した。
数回瞬きすると視界が明瞭になり、横になっている自分を見下ろしている人物と目が合う。
「学園長……。あれ……? 私、どうして……」
「おっと、まだ無理をしない方がいい。大まかな経緯はディアフレールから聞いている。キミにも色々と確かめたい事はあるが、まずはゆっくり休みなさい。キミが守った者達の為にも、自分の身体は大切にね」
「私が守った――」
……と復唱した所で、ぼんやりしていた頭が一気に冴えたミリアは、勢い良く上半身を起こした。
漸く意識が鮮明になり、気付く。自分が柔らかいベッドに横になっていた事。今いる場所が森林地帯ではなく、室内灯に照らされた学園の治癒室だという事。少々軋む身体に、手当ての跡がある事。
そして――
「エルクは!? エルクは無事なんですか!?」
「お……落ち着き給え。彼ならそこで眠っているよ」
思わず掴み掛かりそうになるミリアを両手で制し、オズワルドは視線で自分の背後を指した。
彼の身体を避けるようにして後ろを見ると、ミリアの隣のベッドに青い髪の少年が横たわっている。白い布団が首元まで掛けてある為、首から上しか見えないが、きっと頭に巻かれている包帯以外にも、身体のあちこちに手当てを施されているはずだ。
しかしその反面、瞳を閉じているエルクの顔色は良く、症状が悪化している様子はない。ミリアと同じく、直に目を覚ますだろう。
「救援が間に合ってよかったよ。とはいえ、随分と無茶をしたようだからね。昏睡しているのは、怪我よりも『呪い』による影響の方が強いらしい。が、とりあえず危険な状態からは脱しているから安心し給え」
「そうですか……。――! バネッサとセシリーは?」
頭が冴え始めると、それに連なって気に掛かる事がいくつも湧いてくる。
エルクと同じく、容態を確かめる手段がなかった友達二人の事を想い尋ねると、オズワルドは憂いを感じさせる事なく微笑んだ。
「そちらも心配はいらない。二人とも治療は終わって、今はぐっすり眠っているよ」
穏やかな口調で言いつつ、ミリアの視線を導くかのように、彼は向かい側に並んでいるベッドの方を向いた。
オズワルドの視線を追って漸く気付く。よく見ると、ミリア達とは反対側に並んだ二つのベッドに、バネッサとセシリーが横たえられているではないか。
顔に貼られた湿布や頭に巻かれた包帯が痛々しいが、二人とも気持ち良さそうに寝息を立てているので、とりあえず安心してよさそうだ。
やっと心に余裕ができたミリアは、思わず安堵の息を吐いた。
コランダム級という、文字通りの化物と戦って何も失わずに済んだのは、今から思えば奇跡のような話だ。
何かが一つでも欠けていたら。
何かが一つでも掛け違っていたら。
そう考えると、今更ながらに寒気が走る。
「クロードライト」
戦慄すべきもしもの事態を思い浮かべ、表情を強張らせていたミリアは、傍らのオズワルドに呼び掛けられてハッとする。
「あ、ごめんなさい。少しぼーっとしちゃって――」
「キミは、『
神妙な面持ちで切り出された『その言葉』に、一瞬首を傾げそうになったミリアだったが、すぐに気付いた。
ついさっきまで自分が気を失っていたのは、一体何が原因だったのか。
それを思い返せば、大体の予想は付く。
「……私みたいな、特異な力を覚醒させた人間の事、ですよね?」
「おや、これは意外だな。元々知っていたのかい? それとも彼から聞いていたのかな?」
やや目を瞠り、肩越しにエルクの様子を窺うような仕草を見せるオズワルドに、ミリアは首を左右に振って応じた。
「……いいえ、どっちも違います。ただの勘と言うか……、このタイミングで学園長が口にするって事は、多分私に関係ある名前なんだろうなぁって」
躊躇いがちに答えると、オズワルドは驚いたような表情のまま数秒固まったあと、どこか呆れた様子で苦笑した。
「……やれやれ。ついぞキミにまで見抜かれるようになってしまったか……」
「えっ?」
「気にしないでくれ。ただの独り言さ」
疑問に思うミリアに構わず、ニコリと微笑むオズワルドは、部屋の壁に掛かっている古時計を一瞥した。
「『
「はぁ……」
「それから、キミとディアフレール、二人の実地試験の結果についてなんだけどね。コランダム級の竜をたった二人で退治した事を考慮して、共に合格と見なしておいた。竜素材も獲得できたようだし、これで私との取引は無事終了だ。おめでとう、そしてお疲れ様」
「……えっ? えっ!? 合格って……、でもまだ筆記試験の方の結果が出てないのに……」
あまりにもあっさりと、しかも早々に処分見直しを決めるオズワルド。
不意を突かれた事も相俟って、より困惑するミリアを尻目に、彼はあっけらかんとした様子で続ける。
「キミ達二人の学力なら、多分問題ないさ。例え総合結果が五番以内ではなかったとしても、コランダム級の竜を撃破できるほどの逸材を退学扱いなんかにしたら、今度は私の首が飛ばされかねないよ。……ま、それだけ大きな功績を得られたのだと、素直に喜んでおき給え」
「……もしかして、最初から退学にするつもりなんてなかったんですか?」
「さぁ、どうだろうねぇ?」
さすがのミリアも呆れを隠せず、抗議の眼差しを向けてみる。
しかしオズワルドは涼しい顔で惚けつつ、話は終わりだとばかりに踵を返して部屋の扉へと歩き始める。
今更ながらにエルクの苦労がわかった気がして、浅く溜め息をついた、その時。
「――ああ、そうだ。言い忘れる所だった」
「はい?」
治癒室の扉を開けた所で、何かを思い出したように立ち止まったオズワルドは、振り返りながら優しげな笑みを浮かべ、首を傾げるミリアにこう言い放った。
「そのペンダント、キミに良く似合っているよ。これからも大切にするといい」
「……! はい、もちろんですっ!」
大切な宝物を褒めてもらえた事が堪らなく嬉しかったミリアは、数秒前の憂いなど忘れて、胸元のペンダントを優しく握りながら、元気良く返事をした。
オズワルドも、そんなミリアの活発さに満足した様子で踵を返して歩き出し、閉まる扉の向こうへと消えていった。
バタン、というやや重めの音が室内に響き渡った、直後。
「――やっと出て行ったか」
という、どこか迷惑そうな声がすぐ隣のベッドから聞こえた。
視線を移して、ミリアは驚く。
「エルク! いつから起きてたの?」
「試験結果がどうのという辺りからだ。……やっぱり信用ならないな、あの人は。お前の言った通り、恐らく初めから退学にする気なんてなかったんだろ」
上半身を起こしながら、恨めしげな視線を扉の方へ送るエルク。
学園長に対して悪感情を微塵も消そうとしない相棒に、ミリアは思わず笑みを溢す。
「あれ、気が合うね。エルクもそう思うの?」
「何を呑気に嬉しそうな顔してる。言っておくが、俺はまだお前の身勝手を許した訳じゃないからな」
「それは……その……、ごめんなさい……」
少々威圧的に目を細めるエルクに、ミリアは萎縮しながら謝罪の言葉を口にするが、彼の態度は変わらない。
「何を言おうと無駄だ。俺はお前を許さない」
ついには視線すら逸らして不機嫌そうに顔をしかめてしまい、ミリアはどうしたらいいかわからず、しょんぼりと俯いてしまう。
「……だから、一度しか言わないぞ」
「……えっ?」
これは本格的に嫌われたなぁ、などと諦め掛けていたミリアは、エルクの真意がわからないまま顔を上げた。
そして、目の前の光景に息を呑む。
恐れや不安を抱いたから、ではない。単純に見蕩れてしまったからだ。
真剣な表情を浮かべてこちらを見据えるエルクの、水面のように煌めく蒼い相眸に。
「助けてくれてありがとう。俺が今生きているのは、間違いなくお前のおかげだ。本当に、感謝してる」
「…………………………もう一回」
「……何?」
たっぷり十秒は余韻に浸っていたせいで、今度はエルクの方がミリアの意図を察しあぐねたらしい。
なので、怪訝そうな顔付きの少年にかぶりつくような勢いで繰り返す。
「もう一回もう一回! もう一回言って!」
「……一度しか言わないと言ったはずだ」
「えーっ! 硬い事言わないでよー! いいじゃん減るもんじゃないんだしさー!」
「うるさい黙れ近寄るな」
ベッドに横になり、寝返りを打って背を向けるエルクの傍らに立って、その肩をグイグイ揺さぶるミリア。
素直に、そして本当に嬉しかった。
例え言葉はぶっきら棒でも、エルクは感謝の念を口にしてくれた。だからこそ、ミリアは漸く自信を持つ事ができた。
ほんの少し、僅かばかりではあろうとも、自分は誰かを守り抜く事ができたのだ。
かつての『あの人』と、同じように。
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