いきることの話

@wtf

始まりの話

_____六年前




父は一流企業に勤め、母は自営業の会社を経営、兄は勉強漬け。


そして、ベビーシッターに預けられっぱなしの次男、香澄。



滅多に揃わない家族四人。




そんな四人で、初めてドライブに行くらしい。




香澄は、ワクワクしながらリュックに荷物を詰めた。


兄がこら、と笑いながら肩にてをおいた。


「そんなに持っていけないだろ」


兄を見て、香澄も笑った。




「いちる兄さん、僕楽しみ!」


「…俺も楽しみだよ。」




参考書を片手に閉じ、弟を見守る兄を両親は微笑ましく思った。













当日。




綺麗に晴れた空。


香澄は車に乗り込み、ワクワクしながらそれを見つめる。


兄にシートベルトをしてもらい、膝に置いたリュックを抱き締めた。


「ほら、香澄も一縷も。ちゃんとベルトしめたの?」


母親が自分のをしめながら明るく尋ねた。


「しめた!」


「大丈夫だよ母さん」


その声を聞き、母は満足そうに頷いた。


「じゃあ行くぞ」


父親がエンジンをかけた。







暫く、流れる風景に見入っていた香澄。




初めて父親の車にのった。


さっきから見えてきた海が本当に美しい。




窓を少し開くと、潮の香りがした。



本で読んだ知識を突然思い出し、口に出した。



「兄さん、海ってしょっぱいんだよね?」


一縷はそうだな、と頷いた。


「あれはしょっぱすぎて苦いぜ。…汚いから飲んじゃダメだぞ?」


「えー」


大して兄の返答には興味がなかった。



だって、こんな風景が次々と目に入る。


初めて見る、真っ青な海。


プールなんかよりよっぽど広いそれに、心が踊った。




すると、父親がいつもの調子で言った。




「…今のうちに見ておくんだぞ」



…その時、一縷はなにかを悟ったが、香澄は気づく由もない。



少しだけ体をのり出して、カーナビを見た。



…あぁ。


一縷は、体が強ばるのが分かった。


両親になにか言おうとしたが、鏡越しに見えた母の顔を見て、それは無駄だと気づいた。


無垢に外を見つめる弟を再び見た。


「兄さん!みて、砂場があるよ!」


「…」


話しかけても反応がない兄を不審に思った(香澄はもう一度声をかけた。


「兄さん?」


ふと我に返った一縷。


「えっ?あ、あぁ。砂浜って言うんだよ」


「ふーん」





段々と、海に近寄る車。


覚悟を決めて一縷が言った。





「…母さん…この先道続いてないよ」



両親はなにも答えない。


香澄は兄の言葉でようやく異変に気づいた。



一縷が続ける。


「父さん…海、入っちゃうよ」


兄の顔を見て、香澄は人生で初めて恐怖を感じた。優しい面立ちの兄の目が、何とも言えないなにかに染まっていた。



「…兄さん、」


「香澄…大丈夫」


「…うん」









衝撃に、顔をしかめた。



二人の兄弟は、抵抗するすべもなく振動に身を預けた。


案の定海に突っ込んだ車。




足元に水が入ってくるのは早かった。


香澄は悲鳴をあげた。

どんどん深く沈んで行く。


窓の外は海だけになった。




「兄さん!」


「大丈夫、大丈夫だからな…香澄」



香澄のシートベルトを外し、自分に引き寄せた。


すると、母が、ゆっくり話を始めた。




「…香澄…一縷…あのね、母さん達はね…」


そして後ろを振り返った。


「疲れちゃったのよ…もう」


一縷は母を睨みながら必死に香澄を抱き締める。腰の辺りまで水が入ってきた。




「だからね、皆で死にましょう。貴方達だけ残すなんて出来ないわ。…皆で天国に行きましょう」




微笑んだ母の顔は、愛情で溢れていた。




香澄は、その顔を、優しいとは感じなかった。




そこで、一縷の足に浮かんでいる香澄のリュックが当たった。




「う…」



一縷が唸りながら、咄嗟にそこから水筒を取りだし、全力で窓ガラスを割った。



海水が勢いよく入ってきた。



突然の出来事に香澄も両親も驚いたが、一縷はなにか言う暇を与えずに、割れた窓から入ってくる水流に逆らってなんとか体をねじ込んだ。


もちろん、香澄を抱き抱えたまま。



「一縷!!香澄!!」


母が叫んだが、水中に入った兄の耳には勿論届かない。


…そして、両親は深海に沈んでいった。








一縷は香澄を抱き抱えながら、必死に水面を目指した。


吐き気がするような水圧に耐えながら____海水で目が割れてしまいそうだが_____必死で上を向いておよいだ。


所々見える魚影に恐怖を感じる。


ぎゅっと目を瞑った香澄はなにも見えておらず、ただ何が起きたか分からないまま事に乗っている。しがみついている兄だけを頼りに。





だんだん天井が明るくなってきた。




…香澄が大量に空気を吐き出した。


一層強く香澄を抱き締める。






光が強くなった。










「っぶはあッ!」


思いきり水上に出た一縷。


思ったより沖の方に来ている。


「っ、はぁ…っ香澄ッ!!」


手の中でぐったりしている香澄を見て、息を飲んだ。


…が、心臓は動いている。


ハアハアと、息と海水を吐きながら、かなり遠い浜の方に向かって泳ぎだした。





「香澄…香澄…大丈夫だからな………大丈夫…」





朦朧としてきた意識を叩き起こしながら、延々と泳いだ。













浜に着いた一縷は、急いで香澄をそこに寝かした。



丁度そこでゴミ拾いをしていた老人が驚いた。


「おめぇらどうしたんじゃ?」


声をかけられ初めてその存在に気づいた一縷だが、それどころではなかった。


「ハァ…香澄…っ、香澄…!」 


弟の腹部を圧迫し、水を吐かせようとする。


が、老人が慌てて駆け寄ってきた。


「そんなやり方じゃあ意味ねえだが!」


一縷を強引に押し退けた老人。そして香澄に心肺蘇生を試みようとした。


が、一縷が凄みをきかせながら自分がやると言い、老人には救急車を呼ぶのを任せた。


どんどん冷えてく香澄。


潰れるほど胸部を圧迫し、口を押し付けて息を吹き込む。


何度かすると、香澄が思いきり水を吐いた。


「あっ…!」


それでも蘇生を続ける一縷を見て、電話を終えた老人がまた慌てて駆け寄ってきた。


そして香澄の顔を横に傾けた。


「こうしねえと水さでていかんがね」


「…はい」


暫くして、救急車の音が聞こえてきた。



そして、小綺麗な服装の人達が担架を持ってきて、香澄を運んだ。


一縷はそれに続く。


振り返り様に、老人に向かって声を張り上げた。


「おじさん、ありがとうございます!!」


「おお、しゃんと生きろよ坊主」


「は、はい」




初めて乗る救急車に緊張しつつ、ぐったり横たわる香澄を何もできずにじっと見ていた。
























控え室で待っていると、すぐに看護婦さんが毛布と着替えを持ってきてくれた。


一縷は香澄の心配ばかりしていたが、よく考えたら自分も溺れかけたな、とありがたくそれを受け取った。



海水なので、拭いてもベタベタする。それを見かねて看護婦さんはシャワー室を貸してくれた。



シャワーを浴び終え、着替えると、また香澄が心配になってきた。




…死んだら?




香澄がしんだら?




頭を振った。


水が飛び散る。



「…俺が守るんだ」


一縷は、弟の無事を祈った。












数時間後、うとうとしてきた一縷のもとには白衣を着た男性の医者がやって来た。


香澄の担当だとなんとなく分かった。



やあ、と陽気に挨拶をしながら自分の目の前に腰かけたその男性は、にっこりと微笑んで言った。


「君の弟は無事だよ」


低く、だが優しい声だ。父親ほどではないが整った顔立ちの医者に、一縷は好意的な印象を抱いた。


「ほら、君の心肺蘇生が良かったみたいだ。していなかったら危ないところだったよ。」


…彼の言っていることが、俺を褒めるための嘘なのか、それとも本当なのかは分からないけど、頷いておいた。


一縷が飲んでいるココアが少し揺れた。


「あ、そうだ。私は弟君を担当する山本。宜しく頼むよ」





一縷はもう一度頷いた。















山本に案内され、香澄の病室に向かった一縷。


403号室。


香澄の他にも病人の方が三人居るらしいがカーテンが閉まっていた。


でも、香澄の隣のカーテンは開いていた。


そこには頭に包帯を巻いた美しい…女性?男性?が腰かけている。


一縷が驚いたのは、そんな人と香澄が仲良さげに会話をしていたからだ。


安堵感と、嫉妬にも似た感情が湧くが、そっと気持ちを落ち着かせる。


するとその男性?が自分に気づいた。


「おや、香澄君。あれは君が言っていた兄さんじゃないかな」


声が低い。男性だろう。香澄はこちらを見て、目を輝かせた。


「にいさん!」


ベッドとを飛び降りようとした香澄を男性がなだめた。


「…よかった…」


ベッドに近寄り、そっと抱き締める。


香澄もシャワーを浴びたのか、知らないシャンプーのようないい香りがした。


ゆっくり離すと、香澄はさっきの男性を紹介した。


「あ、兄さん。この人はたかねさん!あのね、階段から落ちたんだって!」


一縷は声を尖らせた。


「こら、香澄そんなこと言ったら駄目だよ。すみません…えっと」


「高嶺だよ。」


高嶺は微笑みながら言った。後ろでゆったりとむすんだ髪が滑らかに垂れる。


「階段から落ちたのは本当。たかね、かずゆき。宜しくね、一縷お兄さん」


「…はい」


「んー、お兄さんも可愛いね。香澄君はお母さん似なんだっけ。また違った顔立ちだし、お父さん似なのかな?」


うんうん、と腕を組んで頷きながら一縷と香澄を交互に見た。


周りが遠巻きにするほど美人な母と、すぐに言い寄られる父親を思い浮かべた。



すると、向かい側のカーテンが勢いよく開いた。


「うるせぇクソユキ!寝れねえんだよ!」


香澄が、ビクッと震えた。


咄嗟にそちらを睨む一縷。


山本は苦笑いだ。


すると、そこには右手と左足にギプスを着けた強面の男性が居た。

高嶺が口を挟んだ。


「あ、香澄君怖がってる。龍彦君最低だよ」


龍彦、と呼ばれた男性はう、と唸った。


「…わりい、香澄」


香澄は小さく頷いたあとに、もう一度微笑みながらうん、と言った。



香澄がこんなにすぐに他人と馴れ合えるとは思っていなかった一縷は、ほっとしたつもりだったが、裏腹になんだか気持ちの悪い感情が、自分の中に渦巻くのがわかった。















香澄の体力は、日に日に回復していった。


普通より少し遅いらしいが、一縷は、検査の結果がよくなる度に香澄を誉めちぎった。


403号室のメンバーは、そんな二人を温かく見守った。




一縷と香澄が山本に話した、両親の行動については山本から警察へ伝えられた。






___________________________________



カツカツと、高価な革靴を鳴らしながら、警察庁刑事部の榊原が歩いてきた。


若き刑事、阿久は顔をしかめた。

榊原はどうも苦手だ。

セットした赤茶色の髪を忙しく触る。


榊原は美しく高貴な風体をしているうえに、実力者である。そのため、裏では「刑事部の貴公子」など言われている。


待合室のドアが開き、榊原が顔を出した。


「…おや!お待たせしてしまいましたね。阿久さん」


にこりと微笑んで、丁寧にドアを閉めた。


阿久もぎこちなく微笑んで返す。


「いえ…まだまだ時間までありますよ」


どうして彼はあんなに完璧な笑顔が出来るんだ?と、自分の目の前のソファーに腰かけた榊原を見た。特注品の灰色のスーツがよく似合っている。



「阿久さん、今回は何があったんです?」



「ああ、もう始めますか?」



「いえ、初めても良いんですが、気になって」



崩れない笑顔にたじろぎながらも資料を取り出した。被害者の少年たちは、とても整った顔をしている。榊原といえこの子達といえ、何故こうも世の中は自分に厳しいのか…と阿久は溜め息をつきそうになった。


「こちらの…そう、言わば一家心中事件ですね。長男の東雲一縷君曰く、海の底で窓ガラスを割り、弟の東雲香澄君を連れて泳いできたそうです。」


榊原が整った顎に手を添えた。


「…お兄さん根性ありますね」


「…僕もそう思います」


次々と資料を取りだし、机に並べる。

車やら、家柄などの資料に手を置いた。


「この車は父親の祐一のものです。母親の春子は免許を取得していません。」


榊原が香澄の資料を手にとって、まじまじ見つめ始めた。


それに気付かなかった阿久がそのまま話していると、すぐに相づちをうたなくなった榊原に気づき、顔をあげた。


「…榊原さん、何してるんですか?」


「あ、すみません。この子とっても可愛いと思って」


「ふざけないでくださいよ」


でも可愛いですよと返してきた榊原を制し、話を続けた。



本当に榊原が実力者なのかとたまに分からなくなる。


先が思いやられると、溜め息をついた。











403号室のドアが開いた。


少し早いが、この時間は高嶺の検査だろう。

香澄は高嶺との会話の中断に不満を持ったが、早く良くなって欲しい気持ちが常にある。そのため、大人しく黙った。高嶺が立ち上がろうとしたが、ドアの方を見つめて動きを止めた。


立っていたのは、担当の医者ではなく、灰色のスーツが似合う男性と、赤茶色の髪の好青年だったからだ。



「…だーれだ?」


リズミカルに言った高嶺。香澄はドアの方を向いた。


好青年が腰低めに言った。


「突然すみません。我々は警察の…あ、阿久と申します。」


「榊原です。そちらの香澄君にお話を聞きに来ました。」


警察手帳は見せないのか、と高嶺は少し残念そうに眉をひそめた。

龍彦が首をかしげる。


「しののめ?」


「香澄の苗字だね。東に雲でしののめ」


「ひがしぐもだと思ってた…」


それよりも、と高嶺が続ける。

阿久はまた登場したイケメンに息を飲んだ。


「香澄は保護者が居るんだけど、今居ないんだよね。僕が同伴してもいいかな?」


龍彦はすぐに保護者が一縷の事だと分かった。

一縷は事情を知っている山本の気遣いで、隣の部屋に住み込んでいる。山本同伴だ。


ならば、すぐにそちらに向かえば一縷は居るはず。



高嶺は内心、香澄の事情に興味があった。




だが、阿久の隣に立っていた灰色のスーツの…榊原が首を振った。


「すみません。プライバシーに関係する事なので、無関係の方には介入されると困ります」


なるほど、彼は食えない人間だ、と高嶺は直感した。落とし甲斐があると細く笑んだ高嶺を見て、龍彦は肩を下げた。


「でも、香澄は僕の家族ですよ?」


とんでもない嘘をついた高嶺。

ちなみに香澄は、家族くらい仲良し、と捉えたので特に気にしなかった。


が、阿久が混乱した。


「え?え?あれ…じゃあ」


榊原がそんな阿久を横目にフフ、と笑う。

先程まで香澄を凝視していたのが嘘のように完璧な笑顔を作った。


「ご冗談を、美しいお兄さん。香澄君は四人家族でしょう?…それに、貴方の言う保護者とは一縷君の事でしょう。彼なら、既に待ってもらっています。」


と、言うと一縷が彼らの後ろから現れた。

興奮した状態で話始める。


「香澄、この人達父さんと母さんのこと調べてくれるんだって。俺達が色々教えないといけないんだ」


高嶺は小さく舌打ちをした。


そして香澄に行っておいで、と言った。



香澄は戸惑いながら頷き、ゆっくりベッドを降りた。












「…なるほど」


阿久が素早くペンを動かしていた。


香澄と一縷の座るソファーが、まだ新調の香りを漂わせる。

その反対側に前のめりに指を組んでいる榊原が脳内で話をまとめる。

香澄が一縷の服の袖を引っ張った。


「…兄さん、心中ってなに?」


一縷は言葉につまり、助けを求めて榊原を見た。榊原は微笑んで頷き返した。


「香澄君。心中と言うのはね、大切な人とずっと一緒に居るためにすることなんだ。」


香澄は榊原の方を見た。話を続ける。


「でも、そうしたら二度と自由に過ごせないんだ。その人としか会えなくなってしまう。しかも、永遠に…」


凄みを聞かせて話す榊原を、阿久が小突いた。香澄は冷や汗を掻きながら一縷の服を強く握った。


「…兄さんは、嫌だ?」


「……え?」


「さて、二人ともありがとうございました。診察のお時間が迫ってるので、香澄君は一先ず先生のところまで帰りましょうか」


香澄の言葉は、榊原によって掻き消された。


一縷はでかかった言葉を詰めらせ、大きなため息に変えた。香澄はすっと立ち上がった。


「兄さんまた後でね」


「うん。診察頑張るんだぞ」


「うん!」


元気よく走っていった香澄は、廊下で看護婦さんに走らないように注意された。



残された一縷は、再びため息をついた。


阿久が気を使って話しかける。


「一縷君、お疲れ様。…香澄君を助けてくれてありがとう。君達が無事なおかげで、こうして事件が解決に向かうよ」


阿久は子供の扱いが大の苦手だが、相変わらずのぎこちない笑顔でなんとか話す。


が、一縷は訝しげに阿久を見た。


「…解決…?」


榊原は、しまった、と指を組み直した。子供だとしても彼はもう高校生だ。少しくらい色々なことを考えるに決まっている。阿久の阿呆ぶりに小さく顔をしかめた。


「…父さんも母さんも死んで、俺と香澄だけになって…二人で生きてくなんて無理に決まってるのに、解決なんてあるんですか?」


一縷は淡々と言う。


少しかみながら、難しげに話す姿はやはり子供っぽい。が、物事に対して、と言うか大人に対して、こんなにつらつらと意見を並べれる辺り彼は将来大物になるだろう、と榊原は思った。


阿久は苦虫を噛み潰したような顔をした。

子供だと思って侮っていたが、まさかこんなに真剣に返されるとは思っていなかった。


ただの慰めのようなつもりだったのだが、帰って気持ちを逆撫でてしまった。


すぐに終了の時間になり、一縷が暗い声で「失礼します」と言ってた出ていった。その言葉に怒りを含んでいたことは、阿久ですら分かった。


直ぐに、阿久は大きく溜め息をついた。


「怒らせましたよね、僕」


榊原は阿久を見ずに答えた。


「怒らせましたね。」


榊原の冷たい言葉に、阿久はもう一度溜め息をついた。



榊原は、そんな阿久の阿呆さに再度あきれながら先程の一縷の言葉を反芻した。


自分達が言う"解決"とは、ただ事の成り行きを把握して終わりであり、一縷や香澄…被害者にとってはむしろ問題提議と何らかわりないもの。必死になって原因を突き止めても、それは資料に残るだけで、結果的には彼らの助けにはならないのだ。



なにか答えを探すように、自分の指にはめた指輪を見つめた。















気を悪くしながら山本との相部屋に帰ってきた一縷。香澄の診察で居ない山本のベッドに飛び込んだ。


丁寧に張られたシーツが乱れる。


山本の使うシャンプーが、同級生の岡崎と同じことに気づいた。


あいつは元気だろうか。



香澄は学校に通えなくなるんだろうか。



俺は高校に行けるんだろうか。




気を抜くと嫌なことばかり考えてしまう。なんとか香澄の笑顔を思いだし、頬を緩めた。





「香澄…」





今自分に出来ることは、将来を投げ捨てて、香澄の心配をして祈るだけだ。


無理矢理窓から出たときに二人とも切り傷をおった。


一縷は左腕に、香澄は背中に。



きっとこれは、最後の最後に父と母から貰った呪いだ、と顔をしかめた。



傷口を右手で握り、力を込めたが、血が滲むだけだ。



消せるわけがない。




もし、傷口が癒えたとしても一生残る傷。

心中とはいえ、両親に殺されかけたのにはかわりない。その事を、一縷と香澄は一生引きずっていかなければならないのだ。



仰向けになり、目を閉じた。



やはり、祈るしかない。



幼い弟には、こんなの重すぎる。

香澄は幸せに生きてくれないと自分が困る。



…香澄を無理矢理連れ出したのは、俺だ。



フラッシュバックで甦ったあの時の記憶。


母さんは微笑んでいた。恐らく父さんも同じだろう。…香澄は、もしかしたら自分なんかよりあの人たちと生きたかったかもしれない。


いや、そんなはずない。きっと自分は正しいことをした。




そうこう考えてるうちに、一縷は意識を手放した。


何不自由ない、夢の世界へ身を投げた。











翌日



香澄が目を覚ますと、なにやら病室が賑やかだった。


ベッドから出て、カーテンを開けると、403号室のもう一人の患者が初めて顔を出していた。


物腰柔らかそうな男性だ。香澄はなんだかほっとした。


直ぐに高嶺が声をかけてきた。


「あ、おはよう。起こしちゃったかな?」


振り返り、首を振る。

高嶺は微笑んで、良かった、と言った。 


「そうだ、店橋さん。彼が香澄です。可愛らしいでしょう」


店橋、と呼ばれた男性は、彼には少し大きいように見える眼鏡をあげた。


「きみが香澄君ですか、宜しくお願いしますね~」


ふにゃけた顔でこちらを見る店橋。


「た、たな…」


「たなはし、だよ」


「店橋さん、よろしく、おねがいします」


ぎこちなく挨拶をすると、龍彦が笑い出した。

それにつられ、高嶺も笑う。遂には店橋まで笑い、香澄は嬉しながら恥ずかしく、ベッドに座り直した。


「(香澄君はなにか欲しいものとかありますか?」


店橋は、初めて出会ったこの少年になにをしてやろうか、持ち出した。


彼は今、自分の財産をつぎ込んででも403号室の患者逹に幸福を与えたかった。


何を隠そう、彼は末期患者であり、余命はわずか1ヶ月。


この病院には、末期患者の病棟こそあるが、皮肉なことに丁度空いていなかった。小さくできているのだ。そして末期患者の入室を全員が承諾したのはここの病室だけだったのだ。


そんな心の広いメンバーを、店橋は心から愛していた。



だが、香澄が彼の事情を知ることは永遠に無い。



香澄は少し考えた。


「お父さんとお母さん!」


その瞬間、全員が目を見開いた。


高嶺は、一度も見舞いに来ない香澄の親の神経を疑っていたが、今の言葉で大体理解した。


店橋は聞き返す。


「どうして両親が欲しいんですか?」


「僕のお父さんとお母さん、居なくなっちゃったから」


「…」


店橋は解説を求めて高嶺を見たが、彼は首を振った。


警察が来た辺り、恐らく何らかの事件で香澄の両親は死んだのだろう。詳しくは分からない。



龍彦は何がなんだか分からないという顔をしている。



そこで、一縷が入ってきた。


新たな人物の登場に店橋は少し気をとられたが、直ぐに香澄に視線を戻した。


一縷はそんな店橋に目もくれず、一直線に香澄に向かった。


「香澄、起きたか」


途端に香澄はベッドから降り、一縷に飛び付いた。


もう高嶺はそれを止めなくなっていた。


「うん!兄さん!」



一縷は香澄の反動で少しよろけたが、持ち直し、愛しの弟を優しく撫でた。

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