存在消去。

幾瀬紗奈

存在消去。

 人々が他人に興味を持たない人間氷河期。

 そんな世界で、「人の存在が消える形」は二つあった。

 一つは、普通に死ぬこと。そして二つ目は、存在が失われて消去されること。

 その者の存在自体が消える。元から存在していなかった存在になる。全ての人間の記憶から抹消される。

 こんな風に人知れず消えていった人々が、何人いるだろうか。



◇◆◇



 里音は、今日も誰もいない屋上で弁当を食べていた。

 両親は二人とも仕事をしていて忙しく、親しい友人はほとんどいない。

 自分で作った卵焼きを齧る里音の耳に、グラウンドではしゃぐ生徒たちの声が聞こえてくる。その声を振り払うように頭を振ってから、今度はブロッコリーを口に運ぶ。

 そのとき、違和感を覚えた。箸を持つ自分の手が、半透明になっていた。「!?」と声にならない悲鳴をあげる。思わず落としてしまった弁当の中身が床にぶちまけられた。


「何!? なん、何で……」


 手だけではない。里音の全身が、半透明になっていた。幽霊のようだ。しかし、目を強く瞑って開いたときには、いつもの体に戻っていた。

 手を握って開き、陽射しに透かす。透けていない。大丈夫だ。


「あっぶねーなぁ。消えかかってんじゃねぇか」


 ほっと息をついた瞬間、隣で声がして、里音は飛び上がった。いつの間にか、触れられるほど近くに青年が座っていた。ぎょっと後退ると、彼は、きょとんとした顔を向けてくる。


「里音?」

「な、何で、どうして、私の名前……」


 震える声で尋ねる彼女に、青年はきょろきょろと周りを見渡した。そして、周りに誰もいないとわかると、ん? と首を捻る。探るように里音の瞳を覗いてきた。

 じりじりと後退り、怯えの色を見せながらも、里音は彼を見つめ返す。数秒見つめあって、耐えきれなくて里音は目を逸らした。


「近い、です」


 里音が後退った分だけ近づいてきている青年に、小さく言う。すると、彼は目を丸くした。


「え、俺?」

「貴方以外に、誰がいるんですか」

「本当に、俺のことを言ってるのか!?」


 ずいと身を乗り出してきた彼に肩を掴まれそうになる──が、彼の手は里音の肩をすり抜けた。空振ったような形になり、青年は気まずそうに頬を掻く。


「……透けてる……」


 そのとき、里音は初めて、彼が先程の里音のように透き通っていることに気づいた。「お、お、お化け!」と叫ぶと、「失敬な! 守護神と呼べ!」と返される。

 こんな真昼から幽霊に出会うなんて、と眉をハの字にして俯く里音の頬に、彼の手が触れた。顔を上げると、切なげな青年の顔が目に入る。


「俺が、見えるんだな……里音」

「誰?」


 その言葉が、久方ぶりに会った恋人に言うように、甘く苦い声色だったため、思わず彼女は問うた。

 青年は、ふっと笑みをこぼす。そして、告げた。


「俺は、晴輝だ」



◇◆◇



 昼休みの間、いつも屋上で昼ご飯を食べて、読書に耽る里音は、今日は晴輝と話していた。

 彼は、存在を消された存在だと言う。人に忘れられ、消去されたのだ。彼曰く、消された者は、この世界に本当は生きているのだという。誰にも知られないだけで、毎日を過ごしている。


「俺みたいにな!」

「地縛霊ですか?」

「違ぇよ!」


 よくわからないので、幽霊のようなものだと思っておくことにした。

 しかし、里音に霊感はない。どうして突然彼が見えたのか、わからない。


「……今さっき私に近づいたんですか?」

「いや? 前からずっとすぐ隣にいたけど?」


 今までずっと里音が知らないだけで、彼が近くにいたと思うと気持ちの悪いことこの上ないが、それならば、何故突然見えるようになったのだろうか。疑問に思う彼女と同じことを考えたのか、晴輝が思案するように言う。


「俺、存在が消えてない人間に姿を見られたのは初めてだ。……お前、さっき透けてたよな?」


 どきり、とした。

 見間違いだと否定したい。しかし、確かに里音の姿は透けていた。彼と同様に。

 頷く彼女に、彼は顎に手を当てる。


「お前がこっちの世界に足を突っ込んでるから、見えてんのかもな」

「……私、消えるんですか?」


 眉根を寄せて尋ねると、晴輝は困ったように肩を竦めた。

 彼は、彼女のことをずっと隣で見てきた。里音はクラスの中でも目立たず、家族ともほとんど触れ合っていない。たまに、教室での配布物を渡されるのを忘れられたり、グループを作る際に人数としてカウントされていないことがあった。そして、最近それが悪化していた。

 経験者である晴輝が思うに、このままだと里音は存在を消されてしまうだろう。皆の記憶から消え去る。それは、死ぬことよりも悲しいことだ。

 一度唇を噛み締めてから、彼は里音を安心させるように笑った。


「自分の存在を主張して、皆に認識されるようになれば、存在を消されることはねぇさ。これも何かの縁だ。里音が目立てるように、俺が協力してやるよ!」

「えぇ!?」


 目立つのは嫌い。できるだけ地味に静かに暮らしたい。

 そう思っている里音は、いやいやと首を振る。しかし、そうも言っていられない事態なのだ。そんな性格故に、存在が消えてしまいそうになっているのだから。

 「んじゃあ、まあ、とりあえずはクラスメイトの視線を釘付けにするか!」と意気揚々と言う晴輝に、里音は不安そうに表情を崩した。



◇◆◇



 午後の授業は、数学だった。数学担当の教師は、問題を出したとき、とりあえず「この問題解ける奴いるかー?」と尋ねる。勿論手を挙げるような猛者はいないので、結局は日付と出席番号を照らしあわせて生徒を当てることになるから、そのくだりは必要ないのだが。

 しかし、これは目立つ絶好の機会だった。

 周りの人々から見えないのをいいことに、晴輝は里音の隣に立って、「今手を挙げるんだ!」「この問題の答えは五十九だぞ。手を挙げて答えろ!」と口出しする。正直言って、鬱陶しかった。側で騒がれるので、うるさいことこの上ない。授業妨害である。

 彼にいくら促されても、自分から手を挙げる勇気がでない彼女は、黒板と手元のノートを見るだけで、黙々と授業を聞いていた。時間が経つにつれ、晴輝の声が不機嫌な色を帯びてくる。


「お前目立つ気あるのか? 解けてんじゃねぇか。正解してるぞ。あってんだから、怖がる必要ねぇだろ。ほら」


 ここで里音が言い返したら、それこそ目立ってしまう。見えない相手に喋る変人として、さぞ有名になることだろう。

 彼女は彼を完全に無視して、その日の授業を終えた。そして、帰り道。誰もいない住宅街で、晴輝は里音に付き纏っていた。


「おい里音! 聞こえてんのか? 見えなくなったのか? なあ」

「……ああもううるさい! です!」

「何だ、見えてんじゃん」


 思わず怒鳴り返すと、彼は破顔する。彼の笑顔に拍子抜けした里音は、一瞬ぽかんとした。てっきり、授業で発言しなかったことを怒られると思ったのだが、と考えていると、晴輝の手が伸びてきた。

 ばしばしばしっ。彼がきちんとした存在の人間なら、そんな音がしたことだろう。勢いよく肩を叩かれたが、里音は勿論その感触を得ることはない。


「明日はちゃんと発言しろよ」


 生真面目な顔で里音の両肩に手を添えた晴輝は、低い声で言う。彼女は、真っ直ぐ見つめてくる彼の瞳から目を逸らした。

 「無理ですよ。そんなこと……できません」と弱音を吐く里音に、「お前な……自分が消えてもいいのか!? 消え始めた存在が、輪郭を取り戻すのは難しいんだ。このまま放っとけば、すぐに消えちまうぞ!?」と熱く語りかける。しかし、彼女が晴輝に視線を戻すことはなかった。


「人に忘れられるのは、辛いぞ? 存在が消えれば、お前がこの世にいた形跡も全て消えるんだ。記憶だけじゃない。お前が持っている物も全部消えて、初めからいなかったことになるんだ。……そんなの、悲しいじゃねぇか」


 この世界に否定されたも同然だ。お前はいらない、となかったことにされる。

 自分の存在が消された彼の言葉は、重い。それでも、里音の顔にやる気がみなぎることはなかった。「放っておいて」という掠れた声が、晴輝の耳に届く。


「何で、会ったばかりの貴方にそんなこと言われなくちゃならないんですか。関係ないでしょ。貴方は私の何なんですか。誰からも相手にされないってことは、私はいなくてもいい存在なんです。消えても消えなくても同じ。だったら、私は……自分が消えてもいいです」


 晴輝は、胸が抉られたような顔をした。

 ふっと里音の輪郭が薄れる。この世界から、存在が消えそうになる彼女をどうにかして引きとめようと、彼は声を張り上げた。


「お前の存在が消えたら、悲しむ奴がいるんだぞ!」

「悲しんでくれる人がいないから、消えるんでしょう」


 里音は、くるりと晴輝に背を向け、歩き出す。

 「待てよ、里音!」と手を伸ばすが、彼の手は届かない。届いても、触れられない。

 そのとき、ピタリと里音が立ち止まった。愕然と目を見開いた彼女の目の前には、クラスメイトの笹原真紀がいた。

 真紀は、引き攣った顔で里音を見つめている。


「何……誰と話をしてるの、里音ちゃん……?」


 薄れていた里音の輪郭が、濃くはっきりとした存在になった。

 彼女から見れば、里音は一人で喋っているように見えたはずだ。恥ずかしい里音は、「いや、えっと、その」と意味のない言葉を羅列する。


「里音ちゃんって、霊感でもあるの?」

「ううん! ない! ないよ! って……え……私の名前……どうして……?」

「同じクラスなんだから、名前くらい知ってるよ」


 朗らかに笑う真紀は、クラスの中でも中心人物にあたる子だ。いつも誰かと一緒にいる。誰とでも仲良くなることができる、里音にとって憧れの存在だった。

 彼女とは一度も話したことないのに、どうして、と里音は目を瞬かせる。


「里音ちゃんって、いつも一人でいて、大人しそう子だなーって思ってたんだけど……」

「…………」


 躊躇いがちに言う真紀に、里音は気まずげに俯いた。


「この前、そこの公園で鳥に餌やってるところを見かけてね。鳥に笑いかけてる里音ちゃんを見て、ああ、この子も笑うんだって思って、それから気になってたんだ」


 弾かれたように里音が顔を上げた。


「さっきは、何喋ってたの?」


 尋ねられて、困った里音は、きょろきょろと周りを見渡して晴輝を探す。しかし、彼は何処にもいなかった。

 おずおずと、自分が消えかけていること、消えた存在である晴輝のことを話すと、真紀は驚き声をあげる。


「話には聞いてたけど、本当に人が消えちゃうんだね。あ、でも、私が里音ちゃんのことを認識してるから、里音ちゃんは消えないよね! よかった!」


 里音の手をとった彼女は、本当に嬉しそうに笑った。えくぼができた彼女の顔を、見つめる。

 親しい友人はいない。先生にも家族にも忘れられていた。誰も里音の存在を気にかけていない。だからこそ、里音は消えかけていたのだ。

 それなのに、以前から里音のことを気にしていた様子の真紀に、驚いた。

 どう返していいのかわからない彼女は、曖昧な笑みを浮かべる。そのとき、「里音! 里音!」という囁くような声が聞こえて、彼女は後ろを振り向いた。

 建物の影に隠れた晴輝が、手招きしていた。「あ、ご、ごめん。ちょっとだけ待ってて」と言い置いて、真紀のもとを離れて彼に駆け寄る。


「何で隠れてるんですか?」

「いや、なんか邪魔しちゃダメな雰囲気な気がしてな。……里音、お前のこと認識してくれてる奴、いたな」

「……はい」

「あと、俺もお前のことちゃんと認識してるからな。俺の存在はないから、カウントされてねぇけど、お前が消えたら俺は悲しむぞ」

「……はい」


 里音の輪郭が戻ったことを、自分のことのように喜ぶ晴輝に、彼女は訝しげな顔を向けた。


「でも、私、存在消えかけてたのに……どうして真紀ちゃんは、私のこと……」

「……本当に存在が消えちまうのはな。皆に忘れられたときじゃなくて、自分で自分の存在を否定したときなんだ」


 半透明だった彼の輪郭が、今までより更に薄れて透けていく。


「自分は誰からも必要とされてないんだ、って思ったら、人間は消えちまうんだ。お前は、自分が知らないだけで、気にかけてくれてる人がいた。それで、お前は自分を認識してくれている人がいることに気づいた。……だから、里音は消えねぇよ」

「あ……れ……晴輝さん、薄くなって……」


 どんどん透明になっていく晴輝に、里音は思わず手を伸ばす。彼は、微笑んだ。


「里音は、俺が誰かって訊いたよな。……誰だと思う?」

「そんなの、わかりませんよ! だって、もし知ってたとしても、記憶が消えてるんだから……」

「俺は、自分がいらない存在だと思っちまった。だから消された。俺と似てるお前がずっと心配だったんだ。互いに関心を持たない家族だったしな。でも……大丈夫そうだな」


 律儀に里音を待っている真紀に目を向ける。

 そして、彼女の耳元に口を寄せて、


「里音、お前は俺の自慢の妹だ」


 そう告げた瞬間、晴輝の姿は掻き消えた。

 里音が晴輝の姿を見られたのは、彼女の存在が消えかけていたからだ。真紀に認識されて、自分の存在を取り戻した彼女が彼の姿を見ることは、もうない。


「お兄、ちゃん……」


 呆然と呟く。

 里音の頭の中に、兄がいるという記憶はない。ただ、「お兄ちゃん」という言葉を呟くと、不思議な懐かしさがこみ上げてきた。

 「里音ちゃーん! どうしたのー?」と呼ばれて、ぼうっとしていた彼女は、「あ、ごめん。もう終わったよー!」と返す。真紀のもとに戻ろうと振り返った里音の片目からは、何故か一筋の涙が零れ落ちていた。



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存在消去。 幾瀬紗奈 @sana37sn

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